妄想映画日記 その147

樋口泰人「妄想映画日記」は2月前半の日記をお届けします。青山真治監督に関する書籍のため、冨永昌敬監督、三宅唱監督、甫木元空監督へ続けてインタビューをしたり、『はだかのゆめ』舞台挨拶立ち会いのために訪れた札幌にて少しだけの逃避の時間を過ごしたり。今年初となるスクリーンでの映画鑑賞は清原惟監督の新作『すべての夜を思いだす』となりました。
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文・写真=樋口泰人



2月1日(水)
一睡もできず寝たり起きたりを繰り返しその間にああもう時間がないどうしようという連絡がいくつか来てさらに眠れなくなったまま昼。13時には下北沢に行かねばならない。今年に入っていったい何度下北沢に行っているのか。不思議な縁だがとにかく昼から冨永に会う。こうやってまともに話をするのは何年振りか。30日の夜の空族へのzoomインタビューに続き青山の話をいろいろ訊く。いろんな風景が思い起こされる。ずいぶん前のことかと思っていたら2000年代に入ってのことで、まあ20年くらい前を近いととるか遠いととるかわたしにとっては冨永と青山の思い出はもっと遠いと思っていたら案外近い時期のことだったということになる。90年代と2000年代が自分の中でぐちゃっと混ざり合ってしまっている。過去の振り返り方がよくわからない。青山に関するいくつかの本が出来上がるまでもう少し、そのぐちゃっと圧縮されて混ざり合った時間の中を生き続けることになる。


 
2月2日(木)
この日も眠れぬままだったか。すでに記憶にない。昼から三宅にインタビューで、これも昨日の冨永インタビューの続き。この世から姿を消してから存在時よりも何倍も濃密に青山がわれわれの周りにいる。『エリ・エリ・レマサバクタニ』の中の岡田茉莉子さんのセリフにそんな内容の(死んでからのほうが一緒にいるような気がするというニュアンス)ものがあったという誰かの発言を読んだ気がするが、確かに『エリ・エリ・レマサバクタニ』はそんな映画だった。『エリ・エリ』は3月の一周忌のあたりで上映を予定している。姿を変えて生き続ける「青山真治」を改めてそこで認識できたら。いずれにしてもあれだけの密度で生きた人間をわれわれがそう簡単に追悼できるはずもない。どこまでもこうやってともに何かを作り歩み続けるだけだ。三宅に限らず今回インタビューした監督たちはみな、そんな認識を共有していると思う。
 


2月3日(金)
4時間半近く寝た。1時間睡眠を何度か繰り返しその間眠くても眠れず悶々とする日々はこれで終わりを告げてくれるかと少し前向きな気分になる。節分である。1年の節目ということで昨年はさぼった深川不動堂へのお参りを。相変わらずの和太鼓の音にしびれる。土居伸彰くんも来ていた。お互い近況報告。しかし結婚してスリムになっていた土居くんのシルエットが再び膨張し始めている。まあその繰り返しも含めて相変わらずである。

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その後映画美学校試写室にて清原惟さんの『すべての夜を思いだす』。PFFのスカラシップで作った最新作である。そして私も今年になってスクリーンで丸ごと1本をきちんと観る(boidsoundなどの調整は除く)のはこれが初めて。そんなわが身を振り返るにつけ、日本中の人々が今の半分の仕事量で生きていけるようになったら、映画をはじめさまざまな文化はまったく違う風景を作り出し始めるだろうと思う。だが今更それは望めない。
『すべての夜を思いだす』で驚いたのは確か物語の真ん中あたり、主人公のひとりが店頭に置いてあった陶器のカップを手に取った時、センタースピーカーから不意に短いメロディが流れてきた時だ。それまでの音楽は左右のスピーカーから出てきていたので、センタースピーカーから不意に流れたその音楽はいわゆる劇伴ではない。画面に映っているその現実の中から聞こえてくる音なはずだ。だが画面にはその音源がどこにも映っていないのだ。彼女のポケットかバッグの中のスマホの通知音なのか? しかしそれはあまりにクリアすぎる。まるで劇伴の音楽のように介在物なく直接われわれの耳に届く。音の位置が見えないと言ったらいいのか、その音の音源がどこにあるのか特定できないようなバランスで、ただ画面の中心から聞こえてくるのである。果たして彼女にはこのメロディが聞こえているのだろうか? 画面外の音楽ではなく確実に画面内の音としてはっきりと出されているにもかかわらずその画面内にいる人間に聞こえているのかまったく不明のまましかしそれを観ているわれわれには確実にそこで聞こえている音として聞こえてくる。ああそしてその少し後で左右のスピーカーから聞こえてくる劇伴の音楽は確かにその陶器のカップのシーンで聞こえてきたメロディの変奏のように聞こえるのである。画面に映らない場所で流れているメロディが不意に画面の中に流れ込むそんな離れた時間と場所をつなぐあり得ない装置として映画というメディアがあるのだと言いたいかのような音楽の連鎖。「すべての夜を思いだす」装置としての映画がそこでいきなり不意打ちでもあり当たり前でもある一瞬として立ち上がるのである。とにかく「すべての夜」の思い出がそこには含まれる。それはもちろんそこに映る彼女たちのものでもあるしそれを観るわれわれのものでもあるし彼女たちが訪れる資料館のような場所に展示されている縄文土器やそれを作った人々のものでもあるしそしてこの映画を観るわれわれの遺した何かをいつかどこかで手に取る遥か未来の人々のものでもあるしわれわれのまったく知らない知ることもないどこかの誰かのものでもある。そんな果てしない時間の広がりを示すこの映画の語り手はいったい誰なのか? 清原さんはどこの誰にアクセスしてこの物語を作り上げたのか? 陶器のシーンの音源はいったいどこにあるのか? 80年代以降のゴダール作品で飛びかういくつものセリフの断片が思い起こされる。
 
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© PFF partners 



2月4日(土)
札幌へ。しかしようやく睡眠障害を脱したかもという希望的観測に反して結局眠れぬまま羽田に。コロナ以降のんびりした雰囲気だったのだがやはり確実に人が戻ってきていてどこも込み合っている。そして何よりも満席の飛行機の混乱ぶりがひどく離陸も遅れた。ホテルの予約もどこもいっぱいでギリギリだったし今後はやはりどんどんこうなっていくのだろう。予定を立てる、時間を守る、という当たり前のことができないと脱落する。その日の体調や状況に合わせてとかいう余裕はない。札幌の冬はさすがに寒いのだがそれなりの厚着はしていたのでその寒さが心地よい。飛行機も電車も遅れ、結局上映時間に間に合わなかったシアターキノは超満員で入れなかった人も出たらしい。映画館にはだいぶ無理を言ってこの日のイヴェントを決めてもらったのでホッとしつつ交渉ごとの難しさを実感する。わたしにはもうこういうことはできないな。甫木元の生声ライヴはいつものように会場の空気を一瞬で変え向こう側の世界とこちら側の世界とをつなぎ実は誰もがそこを行き来できるのだわれわれがそのことを知らなかっただけなのだと告げる。ライヴ後の会場の人々の様子を見ると皆がその思いを共有していたことがわかる。『はだかのゆめ』の今後の上映に関してのいくつかの企画の話もする。そして安定のジンギスカン。今回は初めての店だった。

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2月5日(日)
さすがに少し寝た。5時間くらいか。午前中は各所連絡、そしていくつかのやり残した仕事をして昼は地元民から教えられた雪まつりの時期でも観光客はほとんどやってこないスープカレーの名店に。札幌駅の北側は南側とはまったく違う風景が広がっている。開拓時代の風景の名残とか思わず言いたくなってしまうのだが、もちろんそれはこちらのロマンティックな思いに過ぎない。いずれにしても観光客はほぼいない。ようやく少し何かから解放された気分になるが、踏み固められた歩道の雪の滑りやすさを感じるとやはり雪国には住めないなと思う。若ければ転んでも痛いだけだがこの年になると転んだら確実に骨折。慎重に歩く。しかしスープカレーの店はどうしてレゲエが流れているのか。なんとなくわからぬでもないが経験的にレゲエの流れるスープカレーの店とは相性がいい。この店もサラサラのスープで渦巻く香辛料の香りシャープな辛さでああこういうストレートな味わいが好きだ。むさぼるように食ってしまった。睡眠はおどろくほど足りていないが食欲だけはあるのが救いだ。

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夕方まで昼寝しつつ読書や連絡。東京にいるととにかくいろいろ落ち着かず気持ちばかりが焦って何もできなくなるので今回は逃避の意味も込めて1日余計に札幌滞在したわけなのだがとにかく意味もなくダラダラと過ごすこんな1日がないともう長くは生きていけないことを実感する。今回はせっかく冬の時期に北海道に行くのだから牡蠣を食おうと思い立ち地元の若者に牡蠣の店を予約してもらったところ本当に次々に牡蠣が出てきてやはりわたしは火を通した牡蠣が好きだと改めて思いいたったものの今回のベストは牡蠣のしゃぶしゃぶをした後の牡蠣の出汁を十分に吸い取った野菜とそのスープで作ったラーメンであった。〆のラーメンだったにもかかわらずお代わりをした。若者たちも食欲旺盛である。外は雪まつりで日曜の夜にもかかわらず大勢の人、いろいろ甘く見ていた。

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2月6日(月)
甘く見ていたのは月曜日になっても同じで、例によって6時過ぎに目覚めてしまったので仕事もしつつ時間の余裕ありで動き始めたからよかったものの昼飯を食ってから空港へと思っていたら11時過ぎだというのに駅周辺の食事処はすでに大勢の人。食事を終えて空港までの列車の指定券を買おうと思ったらそれなりの人が並んでいてまあこれくらいならと思って並んだもののちっとも進まない。どうしたことかと思っていたら区別が全然つかなかったのだがほとんどの方たちがアジアの国から来た観光客で当然指定券の買い方で戸惑っておられるのであった。係員のような方もいるのだがなんだかあまり機能していない様子。そういえば構内の手荷物預かり所こそ本当に長蛇の列だったと思いだしたときは遅い。指定券でこれだと自由席は結構なことになっているのかと思い始めたら列から離れることもできないわけでむなしく時間が過ぎていく。ようやく自分の番が来たのだがすでに直近のふたつの列車は満席で3番目の列車にするしかない。さらに30分ほど待つわけである。空港も同様。いい感じにできている長い列の後ろにつけ荷物を預け、ここに来たらチーズを買って帰らないわけにはいかないだろうとチーズを買ったらすでに搭乗40分前。これまでなら余裕だったのだが今日はやばいと思って保安検査所に向かうとやはりここも人だかり。列は「ここから20分」と書かれた札の後ろまで続いている。でも並ぶしかない。そのうちにアナウンスがあり、わたしの乗る便はいよいよ保安検査所通過可能時間が迫っているため別の列を作れということでまあぎりぎりだが置き去りにされることはなくなったものの列車に乗り飛行機に乗るだけで結構な時間を無駄にしたのであった。帰宅後は寝て、目が覚めて仕事をして、また寝た。


 
2月7日(火)
昼から甫木元のインタビュー。河出書房新社から出る青山本のためのもので、大九明子さん、空族、冨永昌敬、三宅唱、甫木元空。さまざまな形で青山から影響を受けたと思われる監督たちにそのかかわりや思いを語ってもらう。そしてその言葉とともに映画化されなかったシナリオやプロット、企画書を読むことで新たな青山映画がうまれてこないか、という未来に向けての書籍である。この日の甫木元の言葉の中にもさまざまなヒントがちりばめられていた。そして彼らがこうやって語ることでその言葉が自身の映画の中に反射して彼らの新作であると同時に青山真治の新作の遠い木霊であるようなかつてない映画ができあるのではないか。そんな期待が膨らむ。


 
2月8日(水)
事務作業山積み。延々とそしてひとつひとつやる予定だったがいろいろやり残した。気が付くと夜。あれこれ考えずにひたすら手を動かす。
 


2月9日(木)
2月3日のお祓いの日におさめ忘れたものを深川不動にもっていき、とりあえずこれでいろんなけじめをつける。ほんとに何とかなってほしい。スリランカカレーを食っていたら連絡が来て書類を急ぎプリントアウトして商工会議所へもっていく必要があると。どうしたものかと思っていると「コンビニプリントでやってください」と目の前の人間から指令が出て、と言われてもどうしていいのかまるで分らずスマホを渡してラインからデータを登録してもらう。その登録番号をコンビニのプリンターに入力すればいいのだそうだ。もうまったくついていけないがとにかくそれをもって商工会議所に行きチェックを受けると「完璧です」とのお答え。「あなたが作ったんですか?」という質問におそらく「はい」と答えたほうがいいとは思うのだがそうではないので「手伝いの人間がやってくれました」と正直に答えるのは公的な作業のやり取りとしていいのか悪いのか。通常はどうこたえるのが正解なのだろうか。だがまあそういう優秀なスタッフがいるのだからそれでいいと思うことにする。わたしにはこんなの作れない。だがこのおかげで助成金ももらえエクスネのライヴやニューアルバムの助けになるわけだからありがたいことである。作成者にも「完璧や」と報告する。そして本来ならこれでひと仕事終えてお気楽に帰宅というところだがそうはいかず事務所に戻り作業をするわけだがいい加減もうわたしにこんな事務仕事をあれこれ頼む方が悪いとあきらめて帰宅した。

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2月10日(金)
雪雪雪とメディアが騒ぐものだからなんとなくその気になったりもするがまあそういうときほど大したことはなくてでも激しく寒い。法務局に書類を取りに行くのをあきらめそのまま事務所に。入院中の友人にオンライン面会。まともに動くことはできなくてもこうやってモニター越しに映る姿を見るだけで安心する。不思議なことにモニター越しゆえにそこに映る人間が今まさに目の前で生きているその生きている時間のようなものを感じるのだがそれはこちらの勝手な思い込みなのか。とにかくただそこに横たわる姿に感動するのである。そして今までだってこんなものじゃなかったかとか面会までは思ってもいなかったことを思い始める。たいしたことない。奇妙にポジティヴな気持ちになった。その他いろんな懸案事項にも光が差す。帰宅後はいろんな疲れがどっと出て気を許すとかくかくと頭が揺れる。とりあえず生きてるだけで素晴らしいと思い仕事は後回しにする。

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2月11日(土)~2月15日(水)
記憶のない日が続く。猫の写真しか残っていない。激しく事務仕事をしていたのだと思う。いくらなんでも2月は余裕でふらふらしているはずだったのだが。自分のスケジュール感が呆れるくらい甘すぎるということでもある。でもまあそれくらいだからようやくこうやって生きているということだとさらに自分を甘やかす。

 

樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。