妄想映画日記 その145

樋口泰人の「妄想映画日記」は前回より少し飛んで今年初の更新は1月前半の日記をお届けします。見逃していた映画や、見直した映画、アレックス・チルトンと始まる年明けです。シネマ・ジャック&ベティとシモキタ-エキマエ-シネマ『K2』で行われた『やまぶき』の山﨑樹一郎監督の舞台挨拶、NRQのライヴについても。
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文・写真=樋口泰人



2023年1月1日(日)
昨年末にほぼ1年遅れでようやくというか無理やり観た『リコリス・ピザ』がなかなか良くて、これを観ることができなかった1年間を反省するばかりで迎えた新年。しかしいきなりのニーナ・シモンのあの使い方はできそうでできない。ショーン・ペンは歳とって『翼に賭ける命』のロバート・スタックのような役が似合いそうだと思ったが、もう少し歳をとりすぎているか。映画にもし命があるとするなら映画自体もショーン・ペンとともに何年かを無駄にしてしまったと寂しい気持ちになるが、そんな寂しさも引き受けてそれでも目の前にある小さな喜びを最大の喜びに変えるマジックは手の中にあるのだと語りかけてくるような映画だった。やはり年末に中原から連絡があって、アレックス・チルトンの『ライヴ・イン・ロンドン』が最高であるとのことだっただが、アレックス・チルトンの最高の曲もまた、うまくいかなかった寂しさとそれゆえの新たな展開をわれわれに向けて差し出すグダグダかつ最強のもので、ポール・トーマス・アンダーソンもいよいよそんな場所に辿り着いたのかもしれない。そうなると侯孝賢『百年恋歌』を観ないわけにはいかないと、年明け早々DVDを引っ張り出したのだった。
ああ、すっかり忘れていたのだが、こちらもいきなりのプラターズ「煙が目にしみる」でわたしをいくつもの時間の層の中に誘い込むのだった。ビリヤードをするスー・チーの今ここにいるのかもはやここにはいないのかまだここには現れていないのかそのどれでもあるようでどれでもない不安定な上の空は、ただひたすらいつまでもそれを観ていたいと思うばかりである。このまま何年も時間を無駄にしてしまっても悔いはない。日本映画にこんな女優が果たしているだろうかと思いを巡らす。そして挿入歌として何度も流れる「Rain and Tears」はこの映画のために作られた曲にしか思えず落涙するばかりなのだが、50年代のヒット曲かと思ったらギリシャの歌手デミス・ルソスのヒット曲で作曲はヴァンゲリスということなのでもう訳がわからなくなる。公開時、こんなことまで気にしなかった。ようやくこの映画の仕込まれた幾つもの時間と空間の扉に気づく年齢になったと言うのは都合良すぎるか。おそらく予算の問題だろう、現代パート以外はほとんど室内のみで語られるこの映画の寂しさとそれゆえの時間と空間の果てしない広がりに侯孝賢の悲しみと強さを思う。昨年、新作の準備に入ったという記事に添えられた写真のスー・チーとともに写る侯さんの姿が妙に年老いていたのを思い出し、もうゾンビになってもいいから何か撮ってくれと願うばかりであった。
初詣の神社への行き帰りだけで腰を痛める。

 


1月2日(月)
昨夜からの流れの中でアレックス・チルトンの『document』を聴いていた。70年代半ばから80年代半ばまでにリリースされた曲のコンピレーション・アルバム。あらゆる演奏が常にバランスを失いそしてそのことによって次の一歩を踏み出していく、そのぎりぎりのバランスが作り出す一筋の軌跡の10年間。「Like Flies on Sherbert」という曲のタイトル(セカンド・アルバムのタイトルでもあった)が、その滑稽さと強靭さを表しているように思える。

 
そしてノア・バームバック『ホワイト・ノイズ』。バームバックとドン・デリーロとがどうやったら結びつくのかまったく謎だったのだが、デリーロの小説のこれみよがしな広がりと世界の終わりへの視線を、徹底的に個人的なものに変える、矮小化して最小単位の出来事に仕立て上げていくバームバックの製作態度に並々ならぬ覚悟を感じた。めちゃくちゃ金もかかっている。「大きなものを小さく見せる」(by 梅田哲也)ことにこれだけの資金を注ぎ込むバランスの悪さ。そのこと自体がバームバックの映画とも言える。腹の出たアダム・ドライバーにも驚くが、いつもながらこのアダム・ドライバーの役をオーウェン・ウィルソンが演じたらどうなんだろうと、ぼんやりと思ってしまう。グレタ・ガーウィクはもう、デプレシャンの映画のカトリーヌ・ドヌーヴのような風格さえ出てきている。妄想が広がる。
 


1月3日(火)
オーウェン・ウィルソンが今何をやっているのかネットで確認していたら数年前にウディ・ハレルソンと共演していた。『ウディ・ハレルソン ロスト・イン・ロンドン』全然知らなかった。ウディ・ハレルソンが監督でもある(ケン・カオと共同監督)。全編をワンカットで撮影ということで、まあそれに関してはデジタルの時代だからとしか思わなかったのだが、ウディ・ハレルソンが舞台出演のために滞在中のロンドンでの一夜の物語という内容を見るとそうしたくなる気持ちもわからぬではない。そしてそれ以上に、もちろんこちらの勝手な想像に過ぎないのだが、ウディ・ハレルソンにとってハリウッドでの撮影は退屈なのだろう。ワンカットで映画を撮るということ、そのための俳優としての準備や緊張感高揚感、そして「映画」の外へと一歩足を踏み出して映画と現実の間に身を置く責任感。ここでのハレルソンは自らの私生活と引き換えに新たな場所と時間を生み出そうとしているかのようだ。だからなのかどこにいてもどんな時でもいつもその場所と時間に馴染めず居心地悪くオロオロしているはずのオーウェン・ウィルソンは、ここでは慌てることも戸惑うこともなくハレルソンの良き友人としてあたかも昔からそうだったかのように存在していた。あくまでもリアリズムを追求しながら気がつくと夢のような一夜になっている、そんな物語と言えばいいか。物体としてはすぐに消えてしまうが記憶の底に残り続けるクリスマスプレゼントのような映画だった。そしてそれを象徴するような存在として出演するウィリー・ネルソンの歌と声が、一夜をワンカットで撮影するという構築されたリアリズムの枠に穴を開けてその向こうの世界を見せてくれる。『心の指紋』をまた観たい。
そしてあまりに身体が鈍ってきたのでロバート・ゴードンの『I’m coming home』で景気をつけ、高円寺駅まで散歩をした。

 


1月4日(水)
トッド・ヘインズの『ダーク・ウーターズ 巨大企業が恐れた男』。公開が一昨年の暮れだから約1年遅れで観たことになる。この時間差をどう受け止めたらいいのか。忙しさの中で大切なものをどんどん観逃していく。この映画もまた、そんな日々の暮らしの中でわれわれが失っていくものについての映画でもあった。巨大企業が隠す環境汚染に被害者からの思わぬ連絡で気づかされ、それまでの自身の暮らしを脅かしさえもするその運動に半ば強制的な力によって関わり始めどこかで自分を見失いながらもさらにその運動に深く入り込んでいくそんなストーリーは、スティーヴン・ザイリアンの『シビル・アクション』をも思い起こさせた。あの映画のジョン・トラボルタは50年代映画の悲惨な主人公たちのように、自身の人生より大きなものに結果的に立ち向かいあらゆるものを失ってもう無理だとなっても被害者の視線がそれを許さない。人生より大きなものは目の前の敵だけではなく自身の背後にもあって、そのふたつの間で双方に怯えながらも自身を鍛えていくトラボルタの姿が印象的だったのだが、こちらの背後の力(視線)は『シビル・アクション』ほどは凶暴ではない。それゆえに主人公は運動をやめられないと言ったらいいか。そしてそれゆえに主人公は鍛えるどころか時間をかけて弱って行く。弱って行くことで周囲が鍛えられることもあるのではないかとふと思ってしまうほどに、終盤は時間と状況が何かを解決していく。それを見つめ続けるというふうについ擬人化したくなるような形で何度も差し込まれるウェスト・ヴァージニアのさまざまな風景。ああこれは『カリフォルニア・ドールズ』でも観た『ブルース・ブラザーズ』でも観た『アンストッパブル』でも観た『ディア・ハンター』でも『ウェンディ・アンド・ルーシー』でもポール・ニューマンがルイジアナ知事を演じ冒頭でランディ・ニューマンの「ルイジアナ1927」が流れる『ブレイズ』でも観た……。アメリカのそこかしこにこんな風景があって映画に映されなければ誰の記憶にも残らない名もなき人々が生きている。そしてそれがある限りまだアメリカには希望はあると語りかけてくるような風景がこの映画では映されていた。911の後、今この音を世に出さねばという切羽詰まった性急さでリリースされたニール・ヤングの『Are You Passionate?』にも同じ風景が歌われていたように思う。


しかしこういったナレーション入りの予告編てなんとかならないものか。まあ、多くの人に伝わればそれでいいのではあるが。
 


1月5日(木)
しかし世間で仕事が始まるとわたしものんびりはしていられない。のんびりしていられないという気持ちだけが増幅して何もできなくなる。寝つきも悪くなり眠りも浅くなる。仕方ないのでデヴィッド・O・ラッセルの『アムステルダム』。もうマーゴット・ロビーがむちゃくちゃいいじゃないかと、まるでこの映画でようやく名前と顔が一致したばかりの人間とは思えない盛り上がり。一昨年だったかはテレンス・マリックの『ソング・トゥ・ソング』でようやくルーニー・マーラを認識してそれまで観てきた彼女の出演する多数の映画をほとんど観直したりしたのだが、今回もまた似たような状況でしかし『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のシャロン・テートもそうだったかとか、自分の認識力のなさにまたもや愕然とする。それにしても目の前の獲物に今にも食いつきそうな凶暴さと普通に歩いていたはずなのに一瞬ふらつき倒れ込む不意打ちの弱さとそしてそれらの強さと弱さを忘れて今この一瞬の喜びのために一歩足を踏み出してしまうことの痛みと悲しみが作り出す彼女の微笑みを見ると、もうそれだけで何もいらなくなる。とはいえ彼女の義理の姉を演じたアニャ・テイラー・ジョイと配役を入れ替えても行けるんじゃないか、そうなったらそうなったでこの映画はまた別の運動を始めるはずだ。そんな流動的で予断を許さぬ映画でもあった。しかし何年か前ならマーゴット・ロビーの役はエイミー・アダムスがやっていただろうと思うと胸が痛む。

 
でもとにかくマーゴットである。今年は年初からスー・チー、グレタ・ガーウィク、アニャ・テイラー・ジョイ、マーゴット・ロビーらと一緒に過ごせて言うことなし。そんな話を友人にしたら『バービー』もそうですよねという返事。これまた全然わかっていなかったのだが、グレタ・ガーウィクの監督最新作の主演がマーゴット・ロビーなのだった。配信で2,000円というそれなりの金額を支払ってまで『アムステルダム』を観たのはなんと『バービー』にたどり着く道だったのかと、妄想は果てしなく広がる。
忘れていたが『ダーク・ウォーターズ』のアン・ハサウェイも映画の後半になるにつれてダグラス・サークの映画の女優たちのような表情を見せていた。おそらくそれは姿だけの問題ではなく、声の問題でもあるような気がした。
 


1月6日(金)
体調すぐれず。夕方までは事務作業満載でやりきれぬまま気分を変えようと新宿に出て今年初ユニオン。中原から指令のあったアレックス・チルトンのロンドン・ライヴのほか、イーノの新作など。しかし新しいレコードが高すぎる。諸事情わからぬでもないが、これでは余程のことがない限り買えない。イーノのレコードは上から見ると溝が均一で、聞かなくても音がわかると言いたくなる。歌モノということなのだが、歌もまた起伏のない状態で入っているのだろうか。盤面を撮った写真だとこの溝の見た目が伝わらないのが残念すぎる。
夜は、ドイツに住む姪がボーイフレンドと来日中ということもあり、また、我が家の姫がついに結婚ということもあり本当に久々に妹一家と我が家とで全員揃って会食。目が閉じていると指摘される。いろいろつらい。
 


1月7日(土)
仕事関係のやり残しや急ぎでやるべきことなど山積みなのが気になりまともに眠れず。布団に入るとどうしてそれらを思い出すのか。起きているときは逆にあまり気にならなかったりするのだが。いずれにしてもおかげで朝寝て昼起きるという高齢者にあるまじき暮らしからまったく抜け出せない。
だが本日は12時前に銀座に行き、姫の結婚相手の一家と初顔合わせということで眠いとかつらいとか言ってはいれられない。なんとか役目は果たす。結婚式は3月21日。青山の一周忌である。何という娘だと言うしかない。とはいえ自分にとってもその日が新たなきっかけになってくれたらと、とりあえず前向きに考えることにする。
そして青山が日記の中で何度も取り上げていたくせにずっと観逃していた『マネーボール』を。『ダーク・ウォーターズ』からの『シビル・アクション』を経てのスティーヴン・ザイリアンつながりでもある。いや実は、マーゴット・ロビーの『マネー・ショート』を観てみようかと思ったところでああそう言えばと『マネーボール』のことを思い出すという流れで、マーゴットが導いたザイリアンなのであった。そしてこれもまた目の前に立ちはだかる巨大で強力なシステムと戦う人の物語。『シビル・アクション』の前の『ボビー・フィッシャーを探して』も視界に入る。あのときのジョディ・フォスターからジョン・トラボルタを介してのブラッド・ピット。ザイリアンが見つめる常識や世界のシステムに立ち向かう人々の行動は、徹底して孤独な作業となるのだがその孤独は寂しさや悲しみといった感情面からはほとんど描かれず、自身の選んだ任務とも言えるような作業を遂行する強さとして描かれる。そしてそれ故に彼らは強さの果てのシステムではなく失敗もするひとりの人間へと還っていく。その循環。

 
青山もきっとこのブラッド・ピットの行動の中に、ハリウッドと戦うための日本映画の運動を夢見ていたはずだ。こういった変革は小さい場所だからできる、あるいは小さい場所だからできるやりかたで変革を行う。そのふたつが同時進行で進む。経験や直感ではなく膨大なデータとそれがもたらす数値を元にした決断。現実の徹底した対象化の果てに、しかし最後はそれを信じることができるかどうか、そこにかけるかどうかという人間的な対応の時がやってくる。決断の時、というのがあるのだ。それは人間がするべきことだ。いろんな課題が見えてくる。
 


1月8日(日)
3連休とはいえ自営業だと休日まったく関係なくやらなくてはならない仕事はやらなくてはならない。いろいろある。終日具合悪くほぼ寝たきりだったが起きている間はずっとパソコンの前に張り付いていた。
夜は昨夜のスティーヴン・ザイリアンの流れでエイドリアン・ラインの『底知れぬ愛の闇』。アマゾンプライム配信のみの作品? わからぬまま観ていたのだが、どうもザイリアンの脚本にしてはおかしいと、観終わった後で調べたらザイリアンは製作のみだった。まあそこそこ楽しく観たし、人間を(特に女性を)見つめるときのエイドリアン・ラインのえげつない画面の切り取り方も堪能したが、とにかくプールでのパーティシーンで出てくるギター弾きのおばちゃんにびっくりした。いやこんな人がいたのかと思ってクレジットを観たらジョアンナ・コナーだった。私より年下の女性に「おばちゃん」は失礼な話だがしかし心からの敬意を込めて「おばちゃん」と呼びたくなるような迫力でギターを弾いていた。ロバート・ジョンソンの「ウォーキング・ブルース」。こんな人をこんなパーティのシーンで不意に登場させるエイドリアン・ラインの懐の深さ。映画は時々こうやって思わぬプレゼントをしてくれる。

 
そういえば江藤淳の『奴隷の思想を排す』を読んでいたらこんなフレーズがあった。
 
「たとえばシェレイは、彼が夢想した理想社会の実現の可能性を信じることなしには、「解きはなたれたブロメシウス」のヴィジョンを抱きえなかつた。ロマンティシズムがこのようなヴィジョンを持つかぎり、つまり実際の社会をみちびくべき方向を見失わないかぎり、それは逆にもつと日常的な現実との関係を失わない。」
 
『マネーボール』のブラッド・ピットの行動と決断と重なり合った。映画を見ることはどこかロマンティックな行為であるが、その「映画を見る」という行為によってわれわれは時に新しいヴィジョンと向き合うことになり、それに向かって歩を進めるかどうかの決断を迫られる。『ライフ・アクアティック』でも船の甲板に引いた線を飛び越えるかどうかを問うシーンがあったと思うが、あれこそ映画の運動なのだと思う。そして多分、ジョアンナ・コナーもあるとき一線を飛び越えたのだ。向こう側に行ったということではなく、向こう側に広がる可能性にかけたのだ。それゆえに現実にこうやってバリバリとギターを弾いているのである。一線を飛び越えることは徹底してこの現実と関わることでもあるのだ。
 


1月9日(月)
よく眠れず。久々に最低に具合悪い。ぼんやりしたまま柴崎にあるピースミュージックのスタジオに行き、エクスネ・ケディの今後についての打ち合わせを、井手くん、プロデューサーの石原さん、それからエンジニアの中村さんと行う。この半年くらいで果たしてそこまでやれるのか、井手くんにはものすごいプレッシャーがかけられるわけだが、まあなんとかなったとしたら楽しい1年になることだろう。
その後、助成金関係のやりとりいろいろ。ひと休みして夜はシネクイントに行き、もうすぐ公開になるロバート・エガースの『ノースマン 導かれし復讐者』とその前作『ライトハウス』のboidsound調整を行う。ともにこれ以上音を上げなくても通常の上映で十分な迫力の音なので、いかにも音の映画でありつつはたしてboidsoundでやって違いが出るのかどうか判断がつかなかったため年末にテストをしたのだがやはり上げたら上げたで全然違う。その挙げ句今回の調整となったわけである。スクリーンの奥にあるスピーカーから聞こえてくる音なのにバランスがとれると天井からも降ってきてここではないどこかにたったひとり連れ去られた気分になる。そして何度も言ってきたことだがいい音を聞くと元気になる。終了午前1時30分。渋谷の町はまだ若者たちが動き回っている。成人式だったのだ。

 


1月10日(火)
前夜のboidsound調整から帰宅後、助成金の報告作業など社長業務で朝まで。7時くらいに寝て12時過ぎに目覚める。夕方から打ち合わせ。夜は各所連絡で力尽きる。
 


1月11日(水)
体調は最悪。歯にも影響が出てまともに食事ができない。当然元気も出ない。夕方から打ち合わせ。今後に向けての話なので少しは元気が出るが、帰宅後、深夜まで寝てしまう。その後各所連絡。悩ましいことが多すぎる。我慢の時なのだが、その体力はあるのか。あと20歳若かったらとつい思ってしまう。まあ、若かったら若かったでこんな我慢できないなとも思う。
 


1月12日(木)
昨日から奥歯の調子が悪く、ものが噛めない。バナナとか柔らかいうどんとかポタージュスープとか。歯医者に予約の電話をかけるが本日は目一杯に詰まっていて明日。果たしてこの状態をどこまで我慢できるか。気持ちは沈むばかりでろくなことを考えない。連絡のために何人かに電話したりしたのだが、声もうまく出ない。もう本当に逃げ隠れしたい。という状況でしかし連絡の嵐は止むことなく続くものだから底なしである。そんなところに友人の緊急入院の知らせ。予断許さず。入院は長引きそう。それやこれやで背筋は少し伸びるが奥歯の調子がよくなるわけではない。鼻水と頭痛。花粉が飛び始めている。深夜過ぎても事務作業終わらず。
 


1月13日(金)
待ってくれない事務作業を続けつつ歯医者。かみ合わせの問題で歯を支える顎の骨が下がりそこにできた歯茎との隙間から細菌侵入して炎症を起こしているとのこと。治療後、明日もひどかったらもう一度来てくださいひどいと点滴になりますと告げられたのだが、『やまぶき』初日の下北沢K2にたどり着く頃には大分楽になっている。山﨑くんと三宅とのトーク。『やまぶき』初見の三宅は「めちゃくちゃ面白かった」と。それはおそらく単に面白かったということでもあるだろうし、物語の内容やテーマに関して言うべきことはたくさんあるはずの、そしてそのようにも作られているこの映画の「単に面白い」という根本的な部分をまず指摘したかったのだと思う。つまり撮影や編集や音響の面白さとそのバランスやつながりが作る時間や空間に包まれることの面白さ。そこから撮影や編集の具体的表層的な話となり、それが一段落つくと今度は山﨑くんから『ケイコ 目を澄ませて』における映画の内面の問題についての問いかけ。スクリーンに映るものや動きのほかに、そのままにしていては見えてこない「感情」や「歴史」「時間」といったカメラには映らないものは見えてくるのかどうか。写すことができるのかどうか。すべて嘘でできあがっている映画の世界を信じるとはどういうことか、という話。そして来場していた祷キララ、川瀬陽太の俳優ふたりが登場、この映画の中の虚構の人物を演じるときの態度などについて実感を話す。というところで時間となった。この話は終わりがない。
(トークの写真を撮り忘れる)
その後、川瀬陽太の導きにより下北沢から15分くらい歩いた某所へみんなで移動。わいわいしているうちに、この日は明日のために横浜宿泊だった山﨑くんが終電を逃すことになる。わたしは帰宅後、朝まで各所連絡などやり残した仕事。
 


1月14日(木)
ぐっすりは寝た。歯の調子もいい。頭もすっきりして何か昨年1年のとんでもない厄災の名残がようやく抜けた感じがした。少し前向きになれるだろうか。
黄金町へ。ジャック&ベティに行くのは4年ぶりくらいではないか。たたずまいは相変わらずだが周囲のゴチャゴチャ感はさらに消えている。そしてそれ故に、わたしが知らないこのあたりに映画館が並んでいた頃の幻影がうっすらと浮かび上がる。横浜は初めてという山﨑くんに、まるでここで育ったかのような気分で黄金町・日ノ出町あたりを案内する。トークの方は山﨑くんから映画の成り立ちなどの簡単な説明のあと、Q&A。祷キララさんをキャスティングしたときのエピソードでは皆さんから笑いが。トマト農家と映画監督の両方をやる葛藤、それからオリンピックの話など。
そして下北沢に移動。途中、山﨑くんのSuicaが使えなくなるというトラブルが起きるが、原因は判明(すべて川瀬陽太が悪いということにする)。K2のトークはなぜか冒頭から和田光沙さんがやった「美南」の離れて暮らす夫役を演じた松浦祐也さんの話で盛り上がる。松浦さんはこの映画ではちょっと厳つい風貌でやってくる役だがじつは酒が飲めない。でも酒の席で酔っ払ったようになるというエピソードで酒の飲めないわたしは親近感を抱くわけだが、実はこれには理由がある。蒸発して空気中に飛び散ったアルコールに酔っ払うのである。大勢の酒の席ほどそれが極まる。それからサイレントスタンディングやその撮影時のエピソードなど。
Q&Aではなんとこの映画のことを全然知らずに来たという川瀬陽太同級生登場。ポスターにどうしてあの写真を使ったのかサイレントスタンディングの写真ならまた違う印象を得たのではないかという質問で、わたしが答えざるを得なくなる。彼女の視線の強さ故、という答えをした。男たちが作った世界がもうどうにもならなくなった時に育った彼女の戸惑いながらも自分で考え自らの今を考える視線を受け止めてほしいという願い。それからカン・ユンスさんが終盤で何か強い決意をしたのかめがねを外し、めがねなしで行き始めることについて。ここにもまた、この映画の扱う視線の問題が絡まるはずだ。最後に子役の演技と彼女が描く絵について。あの絵は彼女が描いたものではなく画家が描いたもので、いわゆる子供が描いた面白い絵ではなく、大人の描いた絵にしたかったと。昨日三宅が言った「めちゃくちゃ面白かった」というこの映画の面白さは、こういったことの積み重ねなんだと思った。
その後、松本へ向かう山﨑くんを新宿で見送り帰宅。疲れている。

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1月15日(日)
疲れが出ていて目覚めると12時過ぎ。眠れるようになっただけましと思うしかない。各所連絡していると夕方。NRQのライヴへ。月見ル君想フ。日曜の夜の青山あたりは妙に寂しくてああ早く暖かくならないかと思う。ライヴは別世界だった。attc vs Koharuの音は昨年発売になった7インチでなんとなくイメージしていたが、レコードのまとまり方とは反対に、メンバーたちがそのまとまりを作り出すいくつもの源流となりひとつの川の表面と底流と傍流とそれらが作り出す渦を作りだし会場の人々全員を溺れさせようとでもしているかのようだった。その抵抗不可能ないくつもの流れのどこに身を任せるか。目と耳をしっかり開きつつそこにはない流れを幻視する。今ここにいるだけでどこまででも行ける。
NRQはいつかどこかで聞こえてくるはずの声、かつてあそこで聞こえていたはずの声といった今ここにはない声を更新したそれぞれの楽器が実際にはまったく関わらなかったはずのそれぞれの声を共振共鳴させてどこにもないがどこにでもあるはずの今ここを作り出すと言ったらいいか。遠い木霊でもあり幻聴でもあり聞こえないはずの音が作り出すリアル以外何物でもない音。ギターを弾くときの牧野くんのジャンプのような引き攣り気味の牧野くんのMCに爆笑した。
しかしこういった音を聞くと、死んでからもやることはあるなと思ってしまう。死んでからどう生きるか、今までもそうだったのだが今年はさらに強くそんなことを考えることになるだろう。

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樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。