妄想映画日記 その122

樋口泰人による2021年6月1日~10日の日記。『アメリカン・ユートピア』(スパイク・リー監督)の爆音上映やトニー・スコット作品、『トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング』(ジャスティン・カーゼル監督)、『映画:フィッシュマンズ』(手嶋悠貴監督)、『クルエラ』(クレイグ・ガレスピー監督)などについて記されています。
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文=樋口泰人


6月1日(火)
昼に整骨院。腰の調子が悪い。この状態だとまたぎっくり腰がやってきても不思議ではないから気を付けてと言われて送り出されて10分後くらいか、南阿佐ヶ谷にある杉並郵便局へ向かう途中、骨盤の外側というか股関節の外側というかとにかく右足の付け根の外側の部分が「くき」っとなり、うまく歩けなくなる。郵便局で荷物を受け取りそのまま事務所に向かう予定だったのだが。ただ、歩けないことはない。せっかく外に出たんだしということで、事務所に。落ち着いていると痛くはない。各所連絡。わたしにしては前向きな連絡をいくつも。いろんなアイデアや具体的な企画を出した。たぶん、ようやく告知した爆音の『アメリカン・ユートピア』と『ストップ・メイキング・センス』の反応が良くて、無意識のうちに盛り上がっていたのだろう。こういう時は生きるのは簡単だと思う。逆だと大変である。世界のシステムがこうなってしまった以上個人的には、その中でどう生きるかを考え自力で対応していくしかないのだが、著名になればなるほどちょっとしたことであれこれ言われて、そりゃもう「全員死ね」みたいな気分になるだろうねえ。来年の全仏オープンには復活した大坂なおみさんが優勝して、インタビューには「Fuck You」Tシャツみたいの着て登場とか、そんな姿を妄想する。
そんなことを思ったのは『トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング』を観たからか。この主人公のお母さんがなかなかすごい。まるでジョニー・ロットンみたいな自分の息子にも、いずれポーグスのメンバーになるんじゃないかと思われる歌好きで酒好きな無頼な男たちにも臆することなく、まるでアイルランドの血と汗と涙と怒りと悲しみ、そして何よりも愛の塊のようなものとして堂々と向き合う。自分のしてしまった間違いも男たちの間違いも全部引き受けて開き直るわけでもなく、血に染まった大地と同化するかのように生きる。パティ・スミスをモデルにしたと監督は語っているのだが、果たしてそうか? じゃあ誰なのかというとまったく思いつかないのだが、アメリカ映画的に姿を変えると『幸せをつかむ歌』のメリル・ストリープみたいになるんじゃないか。まったく似てないと言われるかもしれないが。わたしとしてはパティ・スミスじゃなくてあの映画のメリル・ストリープ。パティ・スミスだと、さらにいろんな物語が付属してきてしんどい。しかしデブになったラッセル・クロウがなかなか良くて、これなら本人よりいい感じでジョン・グッドマン的な役をやれるんじゃないかとか思った。というか、クレジット見るまであれが誰なのかまったくわからなかった。

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『トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング』
渋谷ホワイトシネクイント、新宿シネマカリテほか全国順次公開中


 
6月2日(水)
午後から某映画のチェック試写のため、東宝スタジオへ。成城学園前駅から歩くのだが、この前来たのが『東京公園』の試写のときで、地震直後。東京に取水制限が出た日だった。つまり10年前。この10年が長かったのか短かったのかまったくわからない。10年という長さの感覚が失われた形ですべてが「今」に張り付いている。映画は白と赤の映画だった。赤の野生、ビーツのような真っ赤な鹿肉、大地を覆う白、海を覆う白い流氷。白い雪を踏みしめるシャリシャリとした音が脳髄を突き刺す。気を抜いたら極寒の空に赤い野生の雄たけびが響いて眠っていた何かが呼び覚まされた。
帰宅するとやはり股関節外側が痛い。階段上るのが大変。湿布を貼る。深夜からの爆音『アメリカン・ユートピア』のチケット発売は瞬殺だったようだ。各所からSOS。チケットシステムで管理されているのでわたしにもどうにもできない。5日には様子を見に行く予定。

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6月3日(木)
『恐怖の映画史Kindle版』の黒沢さんの修正箇所を全部反映させるつもり満々だったのだが、まあ、そうは簡単に行かない。各所連絡などあれこれ、ちょっとさぼったり、レコード買ったりしたものだから、予定の5分の1くらいか。いずれにしてももう、そんなに長く集中力続かない。
夜は『エネミー・オブ・アメリカ』。例によってもう何度目かなのに初めて観た人のようにあきれながら観た。ボルチモアが舞台。『ロッキー』シリーズや『ヘアスプレー』の街。高級官僚、政治家、弁護士などのアッパークラスの人々の暮らしと、マフィアのいる街、稼働をやめてしまった工場などの底辺の人々のいる風景が、国の今後を決める法案を巡っての陰謀の進展と連鎖の中で、見事に対比される。かつてのアメリカを支えた人々の皮膚に深く刻まれたしわや廃棄された工場のさびた鉄骨を映すためだけにこの映画は作られたのではないかとさえ思う。『アンストッパブル』の冒頭の列車の軋みや、暴走する列車が走る鉄橋の周りの工場地帯の風景と、それは一気に重なり合う。そして主人公たちはどれだけ国家機密や大事件と向き合っていても、自分の周りにある親密さを忘れない。まずはそこ。その親密さとの対話から彼らの行動は起こる。その激しくスピーディーで限りない連鎖が、世界を変えていく。昼にユニオンで買ったジャマイカのチャンネル・ワン・スタジオのコンピレーションの裏ジャケに、キングストンにあるスタジオの写真が載っているのだが、こんな感じである。たったこれだけの場所、今や幽霊の住処としか言いようのないしかし今もかつても確実にあるその場所からの動きが世界を振動させる。メンフィスのサン・スタジオもスタックスもアラバマのマッスル・ショールズも似たようなものではなかったか。われわれが今何をどうするべきか、小さいけれども強いヒントをこの映画は与えてくれる。

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6月4日(金)
風雨そこそこ強く自宅作業。夜は映画をと思っていたのだが、各所連絡などしているうちに深夜になってしまった。気づくと今年の秋の予定が目いっぱいになりつつあり、しかもどれも日程がはっきりしない。そろそろ本当にまずいので強制的に日程を決める連絡をしていたのである。あとはワクチン頼み。

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6月5日(土)
『The Rough Guide to Desert Blues』と題されたアルバムで、湿った空気でよれよれの身体に砂漠の風を注入する。まさにガイドされました! という感じで砂嵐の向こう側への視界が開く。

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夜は『アメリカン・ユートピア』の爆音上映。渋谷シネクイントへ。とにかく座席販売50パーセントなので、前売り発売開始で即完。ありがたいことなのだが、やはり全席ちゃんと売って満員の盛り上がりの中でやりたかった。電車の座席など普通に隣り合わせで乗っていて大きな問題は起きていないわけだから、映画館の座席をひとつおきにしなければならない根拠は乏しい。映画館は、閉めるか開くか、ゼロか100かどちらかでいいように思うのだが。そのあたりの論理的な説明をどうしてしないのか。人の流れがダメなのなら、ちゃんと補償をして休業要請をするべきなのだ。
それはそれ、『アメリカン・ユートピア』の今回の爆音は、シネクイントの常設の音響機材だけを使ってのもので、このやり方の場合さすがに音圧感などは機材を入れての爆音にはまったくかなわないので「boidsound」と呼称しているのだが、今回は音量もそれなりに出せて会場全体が響き始めたこともあり、「爆音」ということにしたのだった。その意味では、京都みなみ会館の『大和(カリフォルニア)』の最後のほう、割礼の宍戸さんとGEZANの演奏も実はもう完全に「爆音」だったのだが、今後、「爆音」をどう使っていくか考えどころでもある。で、今回はとにかく機材追加なしの初めての「爆音」だったので気になって結局最後まで観てしまった。座席最後方の仕切りの、さらに壁側に立っての鑑賞だったので、サラウンドの音に包まれる感触はない。また、身体全体に音を感じる音圧感もない。仕切りの前にいないと実際の「爆音」を体感することはできないのだが、とりあえず仕切りの間から顔を出して確認した限りでは、通常の爆音に比べて音圧感と乱暴さはさすがに少ない。ただその分、サラウンドに入っている音や強い音に打ち消されてしまっている小さな音の響きや動きや共鳴や重なり合いも聴こえてくる。ロック的な迫力には欠けるが、ブラジル音楽などのさまざまな音の重なり合いの響きやハーモニーは十分すぎるほど堪能できた。その意味でこの映画の意図とも十分共鳴し合っているのではないか。みんなで肌触れ合いながら汗まみれになって一体になる爆音ではなく、互いの距離を取り合いその隙間で響く音の共鳴に心と体を開いていくコロナ時代の爆音、というふうに言えるようにも思えた。まあでも、いつか野蛮な音の『アメリカン・ユートピア』もやりたいけどね。


 
6月6日(日)
観逃がしていた『クルエラ』を観に行こうと劇場のサイトを見たら、昼の回はすでにいっぱいだった。座席50パーセントだと、休日はこうなるんだよなあ。あきらめて『クライシス・オブ・アメリカ』。先日の『エネミー・オブ・アメリカ』の流れだがこちらはジョン・ヴォイトが殺される側。情報の連鎖ではなく情報の捏造が物語の中心となる、その意味では古い物語とも言える。リメイク、ということもあるのだろう。しかし冒頭のトランプのシーン、公開時はローリング・ストーンズ他もっとメジャーな曲が流れていた記憶があるのだが、全然違った。どうしたことか。その後、ソフト化されてからも1度は確実に観ているはずでその際も何とも思わなかったわけだから、それ以降の何年間で自分の記憶が捏造されたということになる。その方が自分にとって何か都合がよかったということなのか。それはそれ、今回は、その物語の捏造元である主人公の母親、メリル・ストリープの物語を観たくなった。彼女があそこまでになったその背景、彼女が抱えるアメリカの闇の物語ということになるのだが、もちろんその後の『幸せをつかむ歌』やスピルバーグの『ペンタゴン・ペーパーズ』のメリル・ストリープを重ね合わせると、彼女の背景の広大な闇が浮かび上がるわけだから、1本の映画を何人かの監督たちが何本かの映画で完成させていく、そんな営みの一端を観た、ということになる。そしてそう思うことで映画の見せるパースペクティヴはさらに広がりいくつもの層の重なりとなる。だからきっと観るたびに、冒頭のトランプシーンで流れる音楽は変わるのだろう。

 

その後、フィッシュマンズのドキュメンタリー『映画:フィッシュマンズ』。爆音では何度も『男たちの別れ 98.12.28@赤坂BLITZ』を上映してきたのだが、こちらはライヴではなく、バンドの誕生から現在までを現在の視点から貫いて語る作品。172分という長さが気になったのだが、観終わるとああこれくらいの長さが必要だったのだということがわかる。それでもわたしはオンラインでゆったりとリラックスしながら観たからいいものの、映画館でじっとこれに向き合うと耐えられない人も出てくるのではないか? それくらい何かひりひりとしたものが最初から伝わってくる。ファンにとっては宝物であり、しかし危険極まりない何かがここにパッケージされていると言ったらいいだろうか。観終わってよくわかるのは、その音楽がいまだに生きていて動いていてつまり変化し続けていてそしていつまでもそうやって生きていくということだ。その意味でこの映画も、今現実にはいない佐藤伸治が作った新曲とも言えるのだと、そんなふうに言いたくなるような映画であったしそういうふうなことを言わせてしまうのがフィッシュマンズの音楽なのではないかとも思った。インタビューシーンで出演しているこだま和文さんが、まるで鈴木清順さんみたいな風貌になっていて笑った。

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『映画:フィッシュマンズ』
新宿バルト 9 ほか 2021年7月9日(金)より全国順次公開


 
6月7日(月)
土曜日の疲れが出たのか足腰使い物にならず。最低限の半分くらいのことをやった。アンプも具合悪く、そのままにしておいても直りそうにないので修理に出すことにした。身体も機械もメンテナンス、ということで。


 
6月8日(火)
さすがに暑くて、今年初めての冷房。不調のアンプは製造元の修理・メンテナンスのために送り返す。エクスネ・ケディのアルバム(レコードの方のみ)に入れる74年の座席番号付きライヴチケットの入稿をするのだが、通し番号の印刷指定は初めてのことだったのと、なぜかデータのアップ途中でエラーが起こり、てこずる。昨年までは電話対応してくれていた印刷所が、気が付くと画面でのやりとりのみとなっている。電話対応ありがたかったのだが、多分もう、それができるほどの余裕はないのだろう(と書いたものの、なんと私の目が悪くて電話番号がメールに書いてあったのに見逃していた、ということが判明。ますますこうやって世界とずれて苛立ちばかりが先立っていく)。先日、CDを海外発送する際も、郵便局では手書きのあて名を受け付けてくれず、すべてオンラインで登録、住所印刷などするようにと指示された。これ、もうちょっと年取ったら自分はもう対応できないなと思った。さっさとご機嫌ご隠居になるしかないのか。
その後『恐怖の映画史』の黒沢さんの修正分をようやく整理し終わり、『デジャヴ』。これも久々。冒頭からの鬱々とした空気に心をつかまれる。もはや何をやってもわれわれは最悪の道を選んでしまう。それでも何かをする、しなくてはならない、その重い腰を上げる憂鬱が今この世界そのものの動きとどこか関係なく、しかし関係ないということで関係しているという遠い木霊のようなものとして、かろうじて映画に映し取られているとでも言いたくなるような鬱々とした空気。テロの準備のために殺された女の父親を訪ねた主人公がその家を出るとき、玄関前であいさつを交わすふたりの向こう側の灰色の風景のちょうどど真ん中に、赤い色の花を咲かせたひとつの鉢植えが置かれていて、ああ、これはこんな映画だと妙に心に染みた。灰色の中のあの鉢植えのぼんやりとした赤のために、主人公は物語の終わり近くで最後の決断をしたのだ。そしてあのぼんやりとした赤がある限り、主人公はやれる限り人生をやり直す、生き直すと言ったらいいか。それを観ることでわれわれはこの自分の人生を膨らませていけるのだ。そんなことを思った。あそこにあの鉢植えを置くかどうかが映画監督の仕事であるとさえ言いたくなった。

 


6月9日(水)
昼食、何年かぶりで銀座スイスのカツカレーを食う。カレーは相変わらずの味だったが、店内を仕切っていたおばあちゃんの姿はない。完全に次世代に、と言うか孫世代に移ったのではないかと思われる若返りぶり。次はわれわれが居なくなる番だ。
その後豊洲のユナイテッド・シネマ。評判の『クルエラ』を。とはいえ誰が監督なのか誰が主演なのかもわからぬままの相変わらずの無情報鑑賞。以前豊洲に来たのはロバート・ロドリゲスの『スパイ・キッズ3-D:ゲームオーバー』の完成披露試写だったか。調べてみると2003年だからもう18年前??? うーむ。そういえばあの時はまだ、ららぽーとも1棟だけで、周囲はまだ工事中だったような気がする。数年前のことのような気がしていたのだが。いや、もしかすると作品を何か思い違えている可能性もあり。というくらいにしておこう。

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『クルエラ』は今ひとつ乗れなかった。もっさりとしたイギリス映画というほかない。予告編のほうが面白かった。音楽はあんなに既成曲を使い続けなくてもいいのではないか。『ベイビー・ドライバー』の悪い影響としか言いようがない。でも平日の昼の回が50パーセントの座席販売とはいえほぼ埋まっている状態なわけだから、大ヒットである。主演のエマ・ストーンはなかなかいい感じで、もうひとりのエマ(・トンプソン)も嫌な感じ満載ではあったのだが、やはり、エマじゃなくてエヴァ。ストーンの代わりにエヴァ・グリーンで、トンプソンの代わりにヘレナ・ボナム=カーターが演じて監督がティム・バートンだったら。そうなるとやはりヒットは難しいのか。それに別の映画になってしまうか。たしかにエマのあの憎めない感じがいいのはわかる。よくわかるのだが。やはりエヴァがと心が騒ぎ、夜は『ダーク・シャドウ』を。ああこれももう10年も前だ。本当に嫌になるのだが、しかしこのエヴァ・グリーンの無意味に引き攣った笑い。もうそれだけで映画観てよかったなと思う。これも妄想に過ぎないのだが、「海辺の出来事」みたいなタイトルを付けて、ロバート・アルトマンの『ポパイ』と『ダーク・シャドウ』の2本立て上映をしたらどうだろうか。個人的にはめちゃくちゃゴージャスな2本立てになるのだが。



 
6月10日(木)
その日やろうと思ったことの半分できればいい方、と常々思ってはいて、しかもその日やろうと思うことをもう限りなく減らしているのだけれど、それでもはやり半分もできないとイラっとしたりしょんぼりしたりする。エクスネ・ケディのアルバムに入れる座席番号付きチケットの印刷は、結局全部手作業で1000枚、エクセルに座席番号を入れた。1列40席だったのに42席でやってしまい、途中で気づいたが直していたら途方もなく時間がかかるのでそのまま。まあ、よい。座席に増えてもらう。とにかくそれやこれやで目いっぱいになったが、今回は何とか入稿はできた。夜は翠海でこれまで食したことのない料理を注文。山芋のすり身にカニ肉ソース、白身魚の唐揚げ黒酢あんかけ。満腹ご機嫌おじさんになった。

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そしてエマ・ストーンから派生して『L.A.ギャングストーリー』を。今更ながら『ラ・ラ・ランド』のふたりが助演していることに気づく。『ゾンビランド』のルーベン・フライシャーの監督作でエマ・ストーンは『ゾンビランド』からの流れだとは思うが、残念ながらエマ・ストーンにもライアン・ゴズリングにもまったく興味なかった。今こうやって観ても、いやこれはスー・チーが片言の英語でやったりしたら、とかさらに余計な妄想をしてしまう。ああ、スー・チーが強くて悲しいギャングの愛人をやった映画があったはずだが、あれは何という映画だったか。あの映画のスー・チーはこういう役柄の典型みたいな存在となっていたように思えるのだが、映画のタイトルが思い出せない。スー・チーのフィルモグラフィを当たってみても「これだ」という感触が得られない。スー・チーではなかった、という可能性もあるのだが、いやたぶんそれはない。などなど妄想は巡り、さっさと寝ればよかったのについ最後まで観てしまい、そこに宮崎くんから連絡が来て、こちらは男優の話。案外やり方ひとつで何とかなることもある。



樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。Exne Kedy And The Poltergeists『Strolling Planet ’74』LP &CDが8月11日より発売中。9月17日(金)~26日(日)に京都みなみ会館にて「【boidsound映画祭】音楽映画特集」、10月1日(金)~3日(日)に札幌市民交流プラザにて「PLAZA FESTIVAL 2021 札幌爆音映画祭」開催。