映画音楽急性増悪 第54回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」更新です。今回は2024年4月に『La Tour』(英題『Lockdown Tower』、邦題は『ザ・タワー』)が公開されるギョーム・ニクルー監督の作品、そしてミシェル・ウエルベックの監督作『La Possibilité d'une île』(2008年)と出演作について。

第54回 誘拐



文=虹釜太郎
 


ギョーム・ニクルーは日本では『この世の果て、数多の終焉』(2018年)、『ストーン・カウンシル』(2006年)以外はほぼ無視されているに近い監督の一人かもしれないが、『La Tour』(英題『Lockdown Tower』、邦題は『ザ・タワー』)は日本でもやっと公開されるようだ。今回はギョーム・ニクルー作品を振り返ってみる。
『この世の果て、数多の終焉』、『ストーン・カウンシル』のような「大作」でないニクルー作品たちについて。
 

『ザ・タワー』(原題『La Tour』、英題『Lockdown Tower』/ギョーム・ニクルー/2022年)
 
音設計は大胆で、意図的な決してうまく続かない持続音と強いビートが交互に来たりするが、音色にこだわったせいか強い嫌悪感はない。
ニクルー監督作品の音設計はたとえばタヴィアーニ兄弟作品の音のシンプルさたちとは真逆にあるようだけれど、それは本作より二十年前の『Une Affaire Privée』でも同じだ。この音設計(入り方の多さも含め)は登場人物たちのさまざまな無関心さに関連しているようだけれど…
監督のギョーム・ニクルーは本作のことを「飢饉、殺人、性差別、カニバリズム、人種差別、同性愛嫌悪、拷問。現代のあらゆる暴力と恐怖の総合体かも」と言う。着想はベンタブラックから。ベンタブラックは99%以上の光を吸収できる。「闇の存在はいかなる救済も贖罪も描いていないし、道徳心はなく、許しを考慮することなくあらゆるものの消滅を遂行する。自らの存在目的、頑なに破壊以外の何ものにも敬意を払わない。すべてを虚空に返すために」とのことだが、実際に見る暗闇に人々が次々に放り込まれる事態は怖いと同時にかなりおかしくもあり、また階段ですれ違うだけで間違えて刺される子供も悲しいが、本作には笑えないおかしさが確実にある。破壊以外の何ものにも敬意を払わない世界だけを描いてはいない。それはマンション内に無数に開いた穴たちをずっと見ていても感じる。
ストーリーとは別に次々に開く穴たちを見ていると人間の昆虫化の観察のようでもある。カーペンター監督の『パラダイム』(原題『Prince of Darkness』/1987年)を思い出したりもする。
カニバリズム描写はホラーにまでいかないが、印象に残っているのは、寝ている女性の横で犬が出産してベッドで乳を子に与えているところ、白人同士、黒人同士の会議と、一は一、千は千という集会、老人居住者たちの襲われ方、それとマンション内に次々に開けられた穴たち。それらのどれもが破壊、闇だけではないおかしみが溢れている。笑えるようなそれではまったくないが。
一方で飢えと同性愛嫌悪などは脚本に盛り込まれただろうが演技からは強く感じられない。
音楽も入った映像から感じるのはギョーム・ニクルー監督の強い悪意…ではなくひたすらのおかしな経過観察。『The Kidnapping of Michel Houellebecq』(原題『L'Enlèvement de Michel Houellebecq』/2014年)を撮った人だし当然か。
ベンタブラックタワーのような描写が邦画にもあるといいのだけど、日本の場合はもっともっと陰湿なのが得意なのかも。
冒頭からのベンタブラックタワーのつかみ力は強い。転換のリズムや行進の描き方の長さもいい。しかし飢えについてはうまく描けていない。黒画面に音声のみの画はなかった。けれど犬の出産、やたらに登場する妊婦たちやレズビアンなどの描写が観終わった後もちらちらと木霊する。階段を登っている時や工事中の建物に接近した時にも本作のことを思い出す。日本だと十条を意味もなく歩いていた時にもなぜか本作の記憶が強く。
本作ではしっかりと老人居住者たちの襲われ方が描かれたのはよかった。しかし老人居住者たちは闇に触れても若い人とはまったく違う反応かもしれない。しかしそれを詳細に描くことを本作に臨むのは酷だろう。なので老人特有の意外な反応を描いた続編も観たい。別の監督であっても。
また騒音についての苦情ももうすこし描けたかもしれない。壁ごしに聞こえてしまう音の不快については、映像ではまだまだいろんな描き方が可能だ。しかし本作の場合は壁の外があまりの闇なので、騒音のストレスはそれに被さるものとしてある。さらには人間関係のストレス、飢えの苦痛などが重なって。そんな重なったストレスが攻撃性、殺人、殺傷、宗教以外のどんな方向に多重に拡がり、どんな未知の姿を見せるかの観察。 
その観察のごくごく一部が本作。
もしその境遇にいたなら何がいちばん苦痛で何からもっとも逃れられないか、また人によっては誰をまっさきに殺すか、またはゆっくり殺すか、または誰と不可解に仲良くなるかなどを考える時間になる。わたしの場合は… それを書くのはやめておこうと。
 
 
『この世の果て、数多の終焉』(原題『Les Confins du Monde』、英題『To The End of The World』/ギヨーム・ニクルー/2018年)
 
本作は日本でもいちばん観られているニクルー作品だろうし、とりあげるつもりはなかったのだけど、エンディングがわたしにはどうしても納得がいかないので、そこのみについてすこしだけ。
エンディングがフランス軍兵士ロベールがヴォー・ビン・イェン追跡の果てに呆然と山でたたずんでいるところの、さらにそこでの長回しまったくなしで終わってよかったのではと。改めて観返してもそう感じた。
その後のサントンジュの視線とかマイのその後、さらには逆回しでの座っている兵士の姿などニクルーはそれこそがよいと思っているかもなそんな終わり方がわたしにはすべて余計に感じられて。最後の逆回しは前向きの回想の逆のようにもとれるが。
主演のウリエルの努力は賞賛されているが、タッセンの追い込まれ度合いは、ギャスパー・ウリエルの疲労がまだまだ足りなかったように見える。
途中のばらばら死体と生首、兵士とマイ、生首と食卓がかなり短くつながるリズムがよく。あまりに狭い檻に監禁され油をかけられる人間や蛇に噛まれて死ぬフランス兵、死んだ兵士を見て嘲笑うでもなくただすこしだけ笑うベトナムの少年などの描写がさらに早いリズムで加速していたならと。
タッセンが渡された本であるアウグスティヌス自伝『告白』、明号作戦については関心ある方は調べてみてほしい。明号作戦(三・九クーデター、Operation Bright Moon)、日本軍の武装解除の遅れについては改めて映画にもなってほしいが。
目に見られないととのわない地…
音楽はシャノン・ライト。

 
『The End』(ギョーム・ニクルー/2016年) 
 
本作はホラーではないが、ニクルー作品の中ではいちばん怖いという人もいるかもしれない。
エリック・デマルサンの抑制した音楽もあわせて、『La Tour』にも繋がるニクルーの作品。デマルサンはニクルー作品では『Une Affaire Privée』の音楽も担当。
ジェラール・ドパルデューの120キロの巨体が森で迷い、迷子になり、愛犬を失い、ライフルも失い、謎の青年と会い、逃げられ、謎の裸の女性と逢うが…その経験ははたして現実だったのかという…
森の中で迷い、虫塗れになったり、蠍の群に遭ったりするけれど、謎の青年と謎の女との出逢いは、映画が終わった後に彼らがどこに戻ったのかを観た者に負わせるみたいなところ。特に彼らをいち人間ととらえない場合は。
夢の中で生まれたような脚本で、またニクルー自身が幾度も森の中をさまよったであろう細部とドパルデューの不自由な巨体が生む現象との遭遇。
 
 
『Valley of Love』(ギョーム・ニクルー/2015年) 
 
亡くなった息子をめぐってひたすら対話を重ね続ける一人の女と一人の男。しかしそれは休みながら、幻覚を見ながら、歩きながら。
一回めはあまりに睡眠不足で観はじめたせいか、女が「ミカエルは脚が増えたのよ!」と謎発言したり(ミカエルは亡くなった息子)、男が何度も違う姿勢で倒れていたり(その後に男は怪我をする)で実際の映画とは違った演技を一瞬だけばかりしてかなり困った回になったので再び観た。
二人ともが死んだ息子から手紙をもらい、二人が、またそれぞれが訪れるデス・ヴァレーの各地。
イザベル・ユペールが出演する映画はどんなものでもコメディ映画になってしまうわたしにとって観る前は不安だったが、そんなことはなく安心したが、未回答と不安を煽る音楽がなくてもイザベル・ユペールとジェラール・ドパルデューが作る時間は、果てしない沈黙の場に満ちていて、観直しても二人が一緒にいなくても、ドパルデューがユペールの戻りを待つ時間や彼が腕の怪我が消えていると運転中にはっとなる時間に、二人が作る時間がさらに濃くなっている。しかしユペールの一人の行動時にはそれとは違う時間が流れている。ユペールからは気づきへの強い動きがあり。それが何なのか、さらに観てみようと思う。冒頭の地層のような時間は何なのか。
一人の女と一人の男が全編ひたすら会話する『ビフォア・サンセット』(リチャード・リンクレイター/2005年)とはあまりにも大きく違っていて。イーサン・ホークとジュリー・デルピーのような恋のはじまりと俳優たち自身も作りあげた溢れ続ける会話たちとは真逆からはじまる本作。
チャールズ・アイヴズによる音楽は静かで抑制的で、ラストに流れても途中で風の音に変わる。その風の音も静かに消えていく。
 
 
『ミシェル・ウエルベック誘拐事件』(英題『The Kidnapping of Michel Houellebecq』、原題『L'Enlèvement de Michel Houellebecq』/ギョーム・ニクルー/2014年)
 
作家が出演する映画はいくつかあるけれど、作家がスウェーデンはフランスよりひどいと言うとか詩を書くとかはありそうだけど、作家自身が演じて誘拐犯に格闘技を教えられたり、自分より三十歳以上下の女性といちゃつくようなのは今後もなさそうな。
ウエルベックの軟禁環境での自由さよりも、発言の力たちに誘拐犯たちが聞きこむだけでなく、議論したりするところと犯罪コメディな部分がウエルベック自身の動きのスローさでなしくずしに溶けて。
口笛を吹けないウエルベック、死んだと思われて急いで起こされるウエルベック、ファティマに夢中でファティマに再度会う駆け引きに詩を書くが、そこで詩作のうまくいかなさに夢中になるウエルベック、解放後に車をかっ飛ばすウエルベック、ヨーロッパについて語りをやめないウエルベック、ポーランドが夢であることを語るウエルベック…
ストリップ映画と二本立てで。
ニクルー監督で次なるウエルベック出演作に『Thalasso』(2019年)がある。この作品には、『The Kidnapping of Michel Houellebecq』のラストシーンが冒頭に使われている。誘拐犯トリオも引き続き出演。
ミシェル・ウエルベック作品の映画化には『闘争領域の拡大』(フィリップ・ハレル/1999年)、『素粒子』(オスカー・レーラー/2006年)、『La Possibilité d'une île』(2008年)がある。これは小説『ある島の可能性』の映画化で自身が監督している。
『La Possibilité d'une île』では、ウエルベック自身による映画化ということで観る前に不安もあった。実際の映画はネオヒューマンたちのぼんやりした接近遭遇や個々のあまりの静かな生活がただ映画らしくなく描かれているだけでもいいと思った。後はネオヒューマンたちと海との接触があれば。
また本作を観ると、ベルナール・マリスの小説『Pertinentes Questions morales et sexuelles dans le Dakota du Nord』、『L'Enfant qui voulait être muet』、『Le Journal』の映画化作品も観てみたいと思わせる。『ラ・デット負債―地獄の連鎖を断ち切るために』(ロール・デルサル/2015年)という映画は存在するが。本作はマリス以外にデヴィッド・グレーバー、アン・ペティフォー、トマ・ピケティにインタビューをしている。また『Même pas peur!』(アナ・ドゥミトレスク/2015年)は、ジャン・ボベロ、アラン・トゥーレーヌ、サミア・オロズマンが出演し、シャルリー・エブド襲撃事件後のフランスについて描いている。サミア・オロズマンはムスリム・コメディアンヌ。でも観たいのはフィクションなのだ。時間はかかるだろうけれど。
『La Possibilité d'une île』に話を戻すと、この映画は後半までは人間たちのしょうもなさたちがあまりにあっけなく描かれていた。あっけなくというのはビキニショーやコパカバーナ、バリ…といったブースの描き方のあまりの質素さと下品さで、そこは映画監督ではない詩人ぽささえ感じた。
ネオヒューマンパートの淡白さ。小説でのネオヒューマンたちがあえて皮膚の感度を鈍くするみたいなところの細部には期待できないと思っていた。
映画は85分と短く、ネオヒューマンたちのさまざまな細部を見ることはできない。
けれど彼らの一見緩慢な自殺にも見えるような行動だけはどう描かれていくのか非常に関心があったが、そこだけは満足できた。
あまりに質素な映画だけれど、原作を読んでいない人がどう観たかは正直わからない。
ネオヒューマンの実際の歩行、生活はどうなのかは観る前にさまざまに想像していて楽しかった。農業技師の見たことないような姿も見れたらと思った。観た後は描かれなかったことたちについてしばらく考える時間があった。ネオヒューマンがいたならどう生きているのかについては小説を読んだ後、ずうっと考えている。それは映画向きではないかもしれないが、彼らがいままでの人間ぽさを刷新する箇所たちをひたすら実験した作品も観たい。
 
 
『The Nun』(原題『La Religieuse』/ギヨーム・ニクルー/2013年) 

イザベル・ユペールの難問が立ちはだかる。それはもしかしたら世界でわたしだけかもしれないが。
『Valley of Love』ではなんとかクリアできたけれど、本作では危なかった、の段階を最後に超えた。主人公スザンヌが寝ているところに乱入するユペールのところは危なかったがなんとかクリアし特に最後までなんとか大丈夫かと思っていたところ最後の最後でやられた。もはやラスボスというにふさわしいユペール問題だが、それについては『Valley of Love』について書いているところを参照で…
肝心の本作については、事前情報をまったく入れずに観れてほんとうによかった。
同名タイトルでリヴェットの映画もあるが。
リヴェットのと違うのは何よりユペールの起用だけれど。ユペール参加により映画本体とは別のエフェクトが。主人公の前に立ちはだかる修道院たちの問題とは別に。
ポーリン・エチエンヌが演じるスザンヌが被る数々の苦難も、プレデターユペールからの拒否はかなり困難な。
ルイーズ・ブルゴワンの院長役も冷たくてよかったけれど。
ディドロ映画化だけでのオールナイトでは本作の他にリヴェット作品、さらには『The Libertine』(ガブリエル・アギヨン/2000年)…他には何だろう。
できればスザンヌを虐めぬくさまざまな中でスザンヌの友人たちの脚色をもっと観たかったけれど。
ラストは最初観た時には絶望、二回め観た時にはそれ以外の何かが加わったけれど。ただニクルー版では男性がよく描かれ過ぎているところも感じる。部屋の隅に落とされた糞たちの異常さも階段ガラス破片占めも描写はかなり足りなかった気がするが、ユペールのは演技を超えて怖く、そしておもしろく。このおもしろくのところをもしかしたらニクルーも引っかかっているのだろうか… わからないけれど。
音楽はマックス・リヒター。
 
 
『Holiday』(ギョーム・ニクルー/2010年)
 
ジャン=ピエール・ダルッサンの困った顔がたっぷりと。
本作の音楽は普段のニクルーよりだいぶ感傷的。ジュリアン・ドレだからか。
ダルサンは『Le Poulpe』ほど活き活きとは全然動けず、困りきった役を呆れながら疲れながら、さまざまにうんざりしながら。だっさいトランクスでホテルの一室で苦悩するダルッサンの不自由さがすばらしい。
ジュディット・ゴドレーシュはひたすら虚しく冷たい。
車にスーツをひきずられ泣きベソで、いきなり殴られて床で血まみれのダルッサン、そして最後に電車では…
これを撮った監督が十年後には『La Tour』を撮り、四年後には『The Kidnapping of Michel Houellebecq』を撮るとは。そして『ストーン・カウンシル』と『The Nun』の間にこれを撮るとはニクルーがいかにダルッサンしか出せない何かにこだわっていたかを感じさせる。
 
 
『ストーン・カウンシル』(英題『The Stone Council』、原題『Le Concile de pierre』、別題『EL ELEGIDO』/ギョーム・ニクルー/2005年)
 
音楽はエリック・デマルサン。
本作はレビューがいくつもあるのでドヌーヴについてすこしだけ。
正直なところ、百年に一人の神秘の力を持つ神の子とその命を狙う秘密結社ストーンカウンシルの話などどうでもよかった。
けれど以前からわたしにはまったく謎の女優カトリーヌ・ドヌーヴが本作ではついにあらゆる笑顔を消していて怖い。最後に倒れるシーンはひどかったけれど、それ以外の彼女の表情はドヌーヴ史の中でももっとも笑顔がないかもな。
モニカ・ベルッチも交通事故後のあらゆる無表情と傷付けもがんばっていたけれど、ドヌーヴに比べるとかわいいもので。
ドヌーヴは本作では脇役に過ぎない。ドヌーヴはイニット財団の代表を演じているが実は…というところにも驚きはまったくない。ただ彼女の「無表情」は本筋を凌駕して…
『メフィストの誘い』(1996年)のおとなしそうな彼女もあきらかにおかしく見える。
「左右の瞳が多少アンバランスで、その焦点の定まっていないのが、何か投げやりな、道徳観念の欠如した、マゾヒスティックな感じ」とは澁澤龍彦がドヌーヴについて書いたもの。しかしそれだけではない、1960年の『Les portes claquent』から2019年の『見えない太陽』(原題『L'Adieu à la nuit』)まで彼女の見えない全貌をあきらかにする(通常の映画論でない)ものの登場をずっと待っている。
 
 
『Cette femme-là』(英題『That Woman』/ギョーム・ニクルー/2003年)
 
ニクルーのもうひとつの探偵映画『Une Affaire Privée』と観比べている人も多いはず。
本作の主人公は女性警官。ジョジアーヌ・バラスコが演じている。バラスコはドワイヨンやポランスキー映画にも出演しているが、本作でのバラスコは孤独で疲れ過ぎた警官をひたすらに。
不安な音楽は入り続ける。施設の犬たちの悲しい鳴き声や飼っている病気の兎が映るシーンでの不穏な音楽、レストランで笑いながら食事しているのに入っている音楽は悲しいなど、バラスコの底の知れなさを醸し出しているかもしれないが、バラスコの不安過ぎる表情だけで十分な気もするのだが。飼っている兎はラストでは白兎に変わっている。
特に彼女が首吊り自殺する幻覚時などは音楽はいらないと思える。
バラスコの表情たちはどれも虚しく。
気になったのは捜査する時のバラスコの目線の弱さ。これは冷たいのでも疲れているのでもなく。
自殺に取り憑かれ、幻覚まで見る彼女をバラスコはみじめに。横たわった時に垂れる乳、トイレに座って泣く時の太い足。 
子供に救われてタバコを吸い気絶するのもパズルも虚しいが、助かってもこれだけ全編虚しいのはいったい。
 
 
『Une Affaire Privée』(英題『A Private Affair』/ギョーム・ニクルー/2002年) 
 
私立探偵フランソワ・マネリはとにかくタバコをあらゆる場所で吸いまくる。怪我をさせられるところ、怪我をしてからも表情を変えずにしかし痛がりながらの演技をするティエリー・レルミットの演技。しつこいキスも全裸も普通に。マネリの上司の女にとってマネリはあくまで仕事扱い、警官たちもマネリは仕事扱いで、女たちからはやさしくされ、またふられる。女たちのセックスも日常茶飯事過ぎる。
他の映画たちに慣れ過ぎていると主演の捜査がここまで仕事扱いで冷たいのに違和感がありそうだが、こっちの方がだいぶしっくりくる。レルミットの演技もあるが。
マネリの捜査はひたすら地味だが、部屋から双眼鏡で覗き過ぎな気がする。
マネリの部屋のレコードの微妙過ぎる少なさ。
セックスクラブのあまりのつまらなさと退屈さがただ出現する。
やたらにタバコを吸いながら歩く捜査がメインのマネリが行方不明のレイチェル・シプリエンの跡をひたすらたどるのだけれど、マネリの離婚経験者っぽく疲れたけれどまったくめげずにしかもやる気もなさそうなのを、どうしてもおおげさになりがちな音楽がなるべく抑制し、しかしずうっと連れそう感じ。
マネリのあまりの捜査以外での注意深さと無意味さの日常が観終わってしばらくして、窓から外を見た時に戻ってくる。
 
 
『Le Poulpe』(ギョーム・ニクルー/1998年) 
 
酔っ払いがずうっとぐだぐだしている。
そして登場人物たちはだらしなく血を身体に垂れ流している。
この映画に入る音楽はどれもだらしない。
けれど後半の家宅侵入後に追われて以降のなんちゃって刑事音楽みたいなのは観返してもやっぱりおもしろい。その後に入る浅い浸水みたいな音楽とのバランスも奇妙にすばらしく。 
ピクシーズ、ニック・ケイヴ、ホレス・アンディ、バラネスク・カルテット、それにバリ・アダムソンまで。バリ・アダムソンは一時期DJでもたまにかけたりしていたけれど。ソロアルバム『Moss Side Story』は架空の映画のサントラ。実際の映画音楽としては『ロスト・ハイウェイ』(1997年)にも参加。
クロティルド・クローのバイセクシャルっぷり。この映画でのクローの佇まいは、エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア夫人になってからでは考えられないほどの。
ジャン=ピエール・ダルッサンの顔は、この頃は若いのだけど不気味に老けていて、捜査のうまくいかなさを加速させている。
クローの着る衣装はどれもおもしろい。特に黄色。登場人物の中には信じがたい黄色いシャツをスーツの下に着ている男もいる。露骨にコミックっぽい。
この頃のニクルーは探偵映画ばかりだけれど、酒場での揉め事他のあらゆる揉め事では本作がいちばんすっとぼけていて、だらしない。
しつこく笑い続ける男や連続するビンタや唐突なオカマダンスもだが、TERMINAL FRIGOLIFIQUEでの危機もすっとぼけてる。小男の細かい入り方など。
全編通しての隠コメディ感が観ているとどんどん加速し、画面を次々に意味なくばらつくばかばかしい色の連続たちやダルッサンのゆっくりした歩き方と共に引き込まれていく。