映画音楽急性増悪 第53回

今回の虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」は、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャが監督した『オオカミの家』と『lucia/luis』、彼らが参加した『ボーはおそれている』(アリ・アスター/2023年)についてです。

第53回 壁


 
文=虹釜太郎



『オオカミの家』(原題『La Casa Lobo』/クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ/2018年) 

なんの事前情報もまったく入れずに観たわたしは本作のすばらしさに驚きつつも、壁の映像と入り続けるせっぱつまった独特のささやき声ナレーションにこれはいままで数えきれないくらい観直してきた『lucia/luis』のあまりにもあきらかな"パクリ"でこんなの許されていいのかと唖然としつつ観終わったら、こちらの作者はCristóbal León, Niles Atallah and Joaquín Cociñaで本人じゃん! という非常に間抜け過ぎるオチが最初にまずあったのだけれど日本では『ミッドサマー』のアリ・アスター監督が自作にヘッドハントするほどとの紹介があり、ひたすら彼らが次作を単体で用意できるようにしてほしいと思うのだったけれど、それくらい『lucia/luis』は観た者に激しいインパクトを残す作品だった。

『オオカミの家』を観る前に『lucia/luis』については回数がまったくわからないくらい繰り返し観ていた。なので『オオカミの家』を観てCGの話題を出す人がいることも、通常のアニメーションとは違うのだと力説する人たちのこともよくわからなかったし、初めてクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ作品を観た衝撃というのもなかった。それだけ『lucia/luis』の存在は大きかった。
『lucia/luis』の特徴は、あまりに強いささやき声、その声は吐く音声なだけでなく、吸いながら発話する音声、吸いながら発話する痙攣するような音がアニメに使われているところ、映像も痙攣する壁、自在に移動し続ける家具、音声によるすさまじい風、風で痙攣する家内のものたち、壁で成長する人間像、壁の平面と空間の立体との差が常に無くなる、不自然過ぎる強い笑い声、異常に音量がでかい足音や足音とは思えない移動音、あまりの速度と強さと吐く息までが混在し続ける声/音で。それはアニメーション自体を強く変えたものだったと。
アニメーションを変えるアニメーションみたいなことはあまりに多くの作品について言われるけれど、本作は滅多にない感じでそうだったと。絵画であること。カメラによる絵画であること。
それは『オオカミの家』でも、強いささやき声、痙攣する壁、壁で成長する人間像、壁の平面と空間の立体との差が無くなる、などの彼らだけが有する強い特徴が残っている。他監督にヘッドハンティングされてよい仕事できたねみたいな作り手ではないというか。ただ『オオカミの家』では、あまりの速度と強さと吐く息までが混在し続ける声/音たちは消えていて、代わりに突如空間に現れては消えていく少女の右腕、"やさしく"子供に話しかける少女、壁の静かなアップ、粘土粗製感がずっと残り続ける主役の少女、子ブタの「ペドロ」「アナ」の非道な変身、絵の呪いのような変化、豚が人に/人が豚に、壁からの話しかけ(まりーあぁぁと繰り返す眼球)、が現れる。途中にはさまれる鳥の声も記憶に残るが、繰り返されるまりーあぁぁぁあの声に重なる自然音と失力した音楽たちと沈黙が他のアニメでは不可能な存在の描写を。
壁の平面と空間の立体との差が無くなる世界が延々と描かれるが、このような世界で生成される何かを、いくら映画の映像たちが「進化」しても獲得など不可能なそれらを今後もさらに造っていってもらえたらと、描き続けてもらえたらと。

現在はwebで以下の彼らの作品を閲覧できる。
『Lucía』(2007年)
『Luís』(2008年)
『Der Kleinere Raum』(2009年)レオンのみ
『Weathervane』(2010年)コシーニャのみ
『La bruja y el amante』(2012年)
『Extrañas criaturas』(2019年) レオンのみ

クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャ参加の『ボーはおそれている』(原題『Beau is Afraid』/2023年)みたいのもいいけれど、他監督のサポートではない、これからのソロ作品をなにより観たい。と言っても彼らはさまざまなサポートの受け方を既に充分に熟知しているようでもあるけれど。他監督のサポートばかりで忙しくなり過ぎて、彼らのソロ作品がなかなか作れないみたいな環境には今後なってほしくないなと。
アリ・アスター監督『ボーはおそれている』を観ると、アニメパートをクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャが担当しているのがわかる。クレジットにも「Animation by Cristóbal León &Joaquín Cociña」。この彼ら参加部分は眠たい、だれてしまった、ここではうとうとしてしまった、寝てしまってあまり覚えていないという反応も多い。あなたはどうだっただろう。
映画を観て改めて思ったのはユダヤ教の世界もキリスト教の世界もほんとうにとことんがんじがらめにめんどくさいなあと。これら世界の矛盾についての映画は今後も無数に作られるだろうけれど、映画『ボーはおそれている』は映画にしかできないおもしろさがいくつもあった。
ボーが風呂に入っていると天井から降ってくる男(監視男)が天井の壁にやたらに貼りつき過ぎていたりと『ボーはおそれている』は壁へのこだわりを強く感じるが、その後のボーの素っ裸での街への疾走は体重を増やしたホアキン・フェニックスの演技とその体重ゆえの鈍重な走り方。映画冒頭のマンション外も内もそこで現れていることはおそろしい。でもすさまじいわけではない。それらは小さくちまちまといやらしく次々に。
初見時でもっとも違和感だったのはボーまわりのことでも母の会社まわりのことでも母の描写や母の会社によるさまざまな支配のことらではなく、トニの存在だった。
ボーに話を戻すと、ボーの素っ裸での疾走開始からのあきらかな白色光の強さも印象的で、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ参加以外でも本作はいろいろ逸脱している。冒頭からずうっと街に放置固定されている死体も。十歳の男子に抗鬱剤を飲ませスーパーマーケットに送ったらこうなるだろうとかも。隣人の暴れ倒れや死体の放置などのゾンビ映画のわかりやすい設定よりそれら描写の常態化が(母の恐ろしさ)。そんななかネット検索だけが唯一の正常な現実との繋がりだったのにそれさえも妨害され…
現実と妄想の区別をしっかりして観るというのが原則だと思っていたけれど、そしてジューウィッシュ・マザーのことはわからないけれど、観返してみるとクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ参加部分やラストの水上裁判も含めてそんな区別など関係なく観るのもいいと最初は一瞬思った。けれどそれはやはり違うのではと。冒頭のボーの暮らすマンション一画は特別区。母の作った。狂っている母。そして母は薬を飲んではいない。でも度重なるボーに攻撃的な態度をとる人物のあまりの多さに触れていると、映像としてはさまざまな場所に母(の会社)の思惑が散りばめられているのに、観ている方はつい忘れてしまったり。そして音がうるさいというあまりにしつこい苦情の手紙についても、ボーはそれに激しく苦しんでいたにも関わらず、すっかり忘れてしまったり。母の会社のマークはいろんなところに潜んでいる。ボーを追っている男もかなりしつこい。
映画とは直接関係はないが、トニら女子たちがボーを撮影虐めするのを見ていると、いじめっ子ばかりを転校させて集めた学校の話を撮ったのを観たいと以前強く思っていたのを思い出したり。現実社会ではいじめっ子ばかりを転校させて集めた学校はあってそこでいじめっ子同士が相性がいいとかの中での実際についても気になったけれど。
第三部で登場するばかでかい家の設計も地下への落下防止柵が無い(後に柵はできている)おかしな動線が気になっていると、母はボーに首を絞められて動線が無いままガラス箱を不自然に割って強く落下してしまう。その後の幻覚の"巨大水上裁判所"にボートで迷いこみ、ボーを見つめる母の元でのボーの消失は、本作でのあまりにもしつこい母の呪いだけでなく、作品作りを通してのセルフセラピーのようなものがあまりに長過ぎなのではと。その次の作品『Eddington』ではどうなのだろう。でもこれについても観直すとそうは見えなかった。
本作を改めて観直してみると、ストーリーではなく細部だと、最初から最後までとことん水にこだわっているところ(水の倍返し以上)、あまりにしつこくボーに戻ってくるマリア像、これまたしつこく登場する屋根裏世界、部屋の風呂に入っていたら男がいきなり落下し、さらにそこからかなり二人で悶絶し続けるところ、トニ部屋のパソコンに思いっきり吐いてしまうところ、トニの車内でいきなり勝手に撮影されるところ、なにより犯罪者、病態者、裸体者、超攻撃的人物で溢れまくる魔境のマンション外(母の支配下、母の仕込みが異常な)、未来も見える監視カメラ(チャンネル78の早送り)、そして常にびびりまくるホアキンの表情と硬い硬い動き、諦めきったかのような顔のすべてが改めてよいけれど、stop incriminating yourselfと書かれたナプキンやMona Wassermannをめぐる描き方のしつこさがあまりにも余計にも感じる。かなり母の支配が隅々まで行き渡っている世界が丁寧に描かれているのだけれど、母から逃れるきっかけについて注意する観方もおもしろい(グレースという母の直接の支配からは無縁な人物、トニの存在など)。監視する存在は異様におかしい(風呂場落下男、ジーブス、医者)。アニメ部分は不思議でもなくただ虚しい(爆破で妨害されてしまうが)。
一方で屋根裏の父親と怪物だけれど、怪物の見え方や倒し方は非常におもしろいのだが、それでもここの描写は映画としては弱かったと思うが、観返してみてもその印象は変わらなかった。ユダヤ文化に理解があれば印象は違ったのかもしれない。
クリストバル&ホアキンのアニメ参加部分は、映画全体とは話が違っている。アニメパートではボーは映画全体とは違って一見幸せな中にいる。ペンキ(ピンクでなく青色の方)を激しく呑んだ娘で狂乱状態になった家から森に逃げ、暖かくわかりやす過ぎる不安な音楽が流れる中、徐々にだが表情がやわらぐボー。てんとう虫男にキスをされ、劇を鑑賞するボーだけれど、観直してみるとやはりこの劇/アニメパートはかなり強引だ。照明についてもこのシーンではずうっと違和感があった。劇中から老人になったボーがさらに劇中の人物に話しかけ、また話され抱きしめあうシーンの劇中劇…の無限からの戻しなども。息子たちとの再会を喜ぶボーだが、そもそも一度たりともセックスをしてないじゃんとも。と同時にクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャとアリ・アスターの出遭いによる本作のこのパートは映画にできることを更新したようにも思う。
改めて本作を観直して、もしもこのアニメパートがなかったのなら、本作でのボーの葛藤や悩みはかなり平凡なものになり、また母の呪いもかなり単純化されていたのではと思えた。クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャの本作への参加の意味はかなり大きかったと。彼らの参加がなければ母の呪いは別の感じでかなり不気味になっていき過ぎていたかもしれない。
けれど劇/アニメシーンでの照明の難しさには観ているあいだやっぱり何度も唸った。ストーリーとは関係ないけれど。ただ海上での太陽光の描き方のアニメっぽさで若干解消されている気も。またアニメの狼の描画の孤独さも。ただこの狼の孤独の異様さはラストの水上裁判所の異様さには繋がっているような。そして水上裁判所だが、ここでの母以外の「観客」たちは何者なのだろうと。彼らはわたしには母に「結果的に」味方している人物たち、システムたちに見えたり。そして妄想(それも母の会社の作ったドラッグ他により)と現実の混同は腹上死する女性だけでなく、さまざまな点に在るままかのように見えていた。しかし観返してみるとそもそもの復帰地区自体がおかしく、多くの人が論評している「妄想と現実の区別」がまず大事ということ自体がおかしいのではと。この区別がまず大事という人はそもそも狂ったシステムにまったく適応できているのかもしれない。しかしそうでない人もいる。
冒頭の音がうるさいという度重なる苦情は何だったのだろうか。さらに映画に登場したグレースというキャラの行動についても気になるが… さらにトニの存在については観直すとさらに気になってくる。これだけはっきり自殺したのだから、初見時からもっと気にすべきだったと…
監督が何を言おうと絶対に完璧にわかったとなりきらないのが映画のおもしろいところなので(トニのはてしない悲しみやグレースのことや屋根裏世界も含めて)、『話の話』(原題『CKAZKA-CKAZOK』/ユーリ・ノルシュテイン/1979年)がそうだったように本作の観られ方はさまざまにありえるだろうし、それにいちいち間違った観方は許さんと言ってもどうしようもない。ヨブ記のことは調べずに何回も観ている人のストーリーとは関係ない感想もおもしろいし、本作の観方はさまざまにあるけれど、観終わった後にいろいろ考えずにすむ人間の人生はラッキーなのか。本作を観てつまらなかったわーとひとことで言える人間はあまりに幸せな人物なのか。それかあまりに映画鑑賞の「プロ」なのか。水上裁判所でのラストを観たならば、そしてクリストバル&ホアキン参加部分を観たならばなんらかのことを考えるはずだとは思うのだけれど。本作があまりに長過ぎるという映画鑑賞者のプロたちの意見には繰り返し観ても賛同はできなかった。「映画」としては長過ぎるならば、本作はいままでのような映画ではないだけで。わたしは短過ぎる映画も好きだけれど。
あと今作をめぐる反応たちについて。ああこいつらわかってねーなあわたしはわかってるけどみたいな人ってプロの評論家であるか否かに関わらず実際にはかなり多いのではと。ある映画を観てわかった/わからないという点について。映画単体としての比較的すぐれた評価や批判というのはたしかにあって、それは続いてほしいけれど、それは映画を観るということのほんの一部にしか過ぎないと本作評をさまざまに見ても改めて感じた(本作に限らないけれど)。それよりもつまらない、観る価値はないとひとこと言って、またはまったく言わずに去る人たちの方が深刻な。ある映画を観てそのある点についてそれがどんなに小さいものでも、また監督や作り手たちが意図しないことでもそれがずっとひっかかっている人がいるなら、それはその映画単体のすぐれた評価たちなどとはまた別でとても重要だと思うのだが、あいつはあいつらはわかってねーなの世界ばかりがとことんまだまだ続いて巡り続けていく。そう考えると既存の映画をめぐる媒体にはかなりの限界はあっても、今後の映画をめぐる媒体自体(動画、トーク、マイナーテーマ討議、討論、座談も含め)については、読まれる「数」をあまりに大事にとらえさえしなければ実はまだまださまざまな可能性があるのではと。一例に過ぎないが、照明だけ美術だけ衣装だけ字幕の作り方だけ脚本の出来上がり方の過程にだけとことんこだわった評価が定期的にあるならば、それは多数という数は獲得できなくても意味はすごくある。そしてわかってる人たちは「旧」媒体で延々と活動すればよいのだし。

トニもボーも両方とも親からもっと早い段階で離れていればとも。死ぬまで親との関係をあまりに強力に持続することへのさまざまな違和感というものについて。
またボーが皮膚病のようになるみたいな苦難は描かれなかったが、さらにボーが苦難を被るならという仮定をひたすらにしている人も少ないけれどいるかもしれない。プロの映画鑑賞者が決してたどりつかない過剰な複数回視聴者の感想も読んでみたい。というのは本作の個々のボーが遭遇する苦難は映画自体の長さでのバランスとしてはバランスが悪いような。苦難続きの『哀れなるものたち』(ヨルゴス・ランティモス/2023年)はバランスがよかったけれど、私は本作のバランスの悪さの方がいい。このバランス感のおかしさが今後のアリの映画でどうなっていくのか気になる。そこで思い出すのは『ブラウン・バニー』(原題『The Brown Bunny』/2003年)だ。ヴィンセント・ギャロは本作で監督・製作・脚本・撮影・編集・メイク・衣装を担当し自爆したような。アリは自爆しないだろう。けれど『ブラウン・バニー』のように自爆するようなアリ作品も観てみたい。A24からも離れて…
ミツヴァを破りまくっているボーがどれだけ不幸になろうか知ったことかという視点もあるだろうと。
ボーが大量殺人鬼であるという視点で観直してもおもしろい。一見ずうっと被害者であるボーだが、実質複数の女性を殺している。初見では無理かもしれないが。 
ジーブス中心に観直すとボーのほんとうの姿とは…という話がはじまり直す。
さらには多くの人がしないだろう母の悲哀という観点からの観直しでは、支配はここでは及ばなかったか…という驚きたちがいくつも勃興したり…
退屈だとか眠たいとかの批判がある箇所だけれど映画の中でクリストバル&ホアキンの参加は大きい。そこで孤立する狼のことがまた思い出される。
本作の今後のありえる同時上映作品は(批判は多数あるだろうけれど)、『ファウスト』(ヤン・シュヴァンクマイエル/1994年)か『ミスター・コンプレックス結婚恐怖症の男』(原題『Mother』/アルバート・ブルックス/1996年)か『奇跡の丘』(原題『Il vangelo secondo Matteo』/ピエル・パオロ・パゾリーニ/1964年)か『すべてが変わった日』(原題『Let Him Go』/トーマス・ベズーチャ/2020年)か『あなたの死後にご用心!』(原題『DEFENDING YOUR LIFE』/アルバート・ブルックス/1991年)か『シリアスマン』(原題『A Serious Man』/コーエン兄弟/2009年)か『ハウス・ジャック・ビルト』(原題『The House That Jack Built』/ラース・フォン・トリアー/2018年)か『スターシップ・トゥルーパーズ』(原題『Starship Troopers』/ポール・バーホーベン/1997年)か『ある画家の数奇な運命』(原題『Werk ohne Autor』/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク/2017年)か『裁かれるは善人のみ』(原題『Левиафан』/アンドレイ・ズビャギンツェフ/2014年)か『異端の鳥』(『The Painted Bird』/バーツラフ・マルホウル/2019年)かそれとも『lucia/luis』(クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ)か。

 『オオカミの家』に話を戻すと、四十分過ぎからの長い音楽の入り方についてはいろんな意見があると思うけれど、助け合って幸せにをモットーとする集落での少女の悲劇という設定を考えるとあっているような… それよりも常に粘土と髪とそもそも身体自体が常に不安定なマリアの描像とマリアが話しかける子供の頭の異常さとそれらと壁との境の無効さの持続を長編で描けた貴重さが大きい。
壁の力は正直『lucia/luis』の方が強いが、本作では壁にかかる絵たちがおもしろい。また壁にある突起から落下する液体でも樹脂でもない様とか、壁ではない立体での顔たちの次々の巨大化とその顔のあまりの変貌と独立した手だけの移動がマリアの逃走を異様な広過ぎる世界への異常な移動を可能にしている(ラストはひどいのだけれど)。このような移動は実写映画ではいくら映像が進化したと言い張っても無理なように感じる。
本作の撮影はミニチュアスタジオでなく実寸台のセットを使っている。壁のあまりの自在な動きは、ホアキン・コシーニャがずっとアーティストとして大型の絵を描き続けてきたことも大きい。壁面の常に変わるペインティングが実寸台サイズというところ。実寸台の部屋自体がキャンパスになるけれど、アニメーションだから常に描き続けを撮り続けることによる麻酔感は通常の映画製作とは異なるに違いないが、二人で作ることの意味、特に一人は画家であるとか別の特技がある場合、についても強く考えさせられる。製作チームの編成をどうするかで。
『オオカミの家』のモデルとなったコロニア・ディグニダ(Colonia Dignidad)はいまだに謎の残るチリの闇として、ビジャ・バビエラという新名称で現存。しかし2021年にもチリ軍政期残虐行為の証拠を破壊したり謎の解明には遠い。特に完全閉鎖型強制収容所として機能していた時代の詳細については完全にはあきらかになっていない。ヨーゼフ・メンゲレさえもコロニア・ディグニダにいたり。家族の分離があまりに強制的で、同じ入植地内でも話すことすら禁じられていたということは信じ難い。そして儀式化、組織化、ルーティン化された性的虐待とは… 関心ある人はさらに調べてもらえたら。そして現在生きてチリに住んでいる人たちの実際のところのコロニア・ディグニダ観についても。
コロニア・ディグニダの映画化については、『コロニア』(フロリアン・ガレンベルガー/2015年)、『コロニア・ディグニダ チリに隠された洗脳と拷問の楽園』(グンナル・デディオ/2021年)、『コロニアの子供たち』(マティアス・ロハス・バレンシア/2023年)がある。『コロニア・ディグニダ チリに隠された洗脳と拷問の楽園』はドキュメンタリー。
『オオカミの家』のラストのあまりのひどさについても理解が深まるかもしれないけれど。
上映の仕方もさまざまなものがあり得る。
コロニア・ディグニダ関連だけでなく、『アクト・オブ・キリング』(ジョシュア・オッペンハイマー/2012年)との二本立ても。またラディスラフ・スタレヴィッチ作品群との併映も。

豚が人に/人が豚に。壁が人に/人は壁に。
本作を観て彼らももちろん影響を受けたヤン・シュヴァンクマイエルの音響の特異さについてもおもいだした。
本作では壁に何度も登場する絵たちもおもしろかった。絵がアニメ作品に登場することでの別の意味も彼らは次々に発見しそうでもあり。 

『オオカミの家』制作十ヶ条について。
その1 これはカメラによる絵画である
その2 人形はいない
その3 すべてのものは「彫刻」として変化しうる
その4 フェードアウトはしない
その5 この映画はひとつの長回しで綴られる
その6 この映画は普通のものであろうと努める
その7 色は象徴的に使う
その8 カメラはコマとコマの間で決して止まることはない
その9 マリアは美しい
その10 それはワークジョブであって、映画セットではない

関係ないがドグマ95(Dogme95)十ヶ条は以下。
その1 撮影はすべてロケーション撮影によること。スタジオのセット撮影を禁じる。 
その2 映像と関係のないところで作られた音(効果音など)をのせてはならない。 
その3 カメラは必ず手持ちによること。 
その4 映画はカラーであること。照明効果は禁止。 
その5 光学合成やフィルターを禁止する。 
その6 表面的なアクションは許されない(殺人、武器の使用などは起きてはならない)。 
その7  時間的、地理的な乖離は許されない(つまりいま、ここで起こっていることしか描いてはいけない。回想シーンなどの禁止)
その8 ジャンル映画を禁止する。 
その9 最終的なフォーマットは35mmフィルムであること。 
その10 監督の名前はスタッフロールなどにクレジットしてはいけない。

アニメーションを専門的に勉強しなかったことの最大の効果。
カメラはあまりに止まらない。
映像であることよりもまず絵画であり続けること。
サウンドデザイン自体も生活共同体の中で育まれてきたような(ここはかなり重要な疑問点に思えるが)。
ささやきがあまりにいくつもの可能性をもたらすような作品もまた撮って/録ってもらいたい。
そして改めてクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ作品がすばらしいだけでなく恐ろしいのは、既存のアニメーション作品の数々にまでそれらの非アニメーション化やもしもっとそれらが絵画だったならと想像させられ続けることである。この病いはおそろしく。それらの想像を強いられているのはわたしだけではないはず。わたしは正直どんなアニメを見ていても必ず何度かはこの病いが出てきてしまう。そして『オオカミの家』制作十ヶ条についても思い出してしまい。それについては困ってしまうが、それと同時にアニメーションとは何か、というよりどう逸脱できるかについて常に考えさせられることであり、そもそも逸脱でもないということ。専門家たちの意見は別として。
アニメーションを専門的に勉強しないでアニメーションを作ることたちについても強烈に考えさせる。

繰り返しになるが名画座以外の場も含めて、本作と『アクト・オブ・キリング』の二本立て上映を続けることはさまざまな意味を持っていると思えるし、ぜひ実現し続けてほしいということ。『アクト・オブ・キリング』の「主演」者の「演技」と本作の「壁」。
2014年十月に早稲田松竹で実現した『アクト・オブ・キリング』と『消えた画クメール・ルージュの真実』の二本立てはいまだに強く覚えている。『アクト・オブ・キリング』と『オオカミの家』はどうなるだろう。

最後に作品とは関係ないけれど、『オオカミの家』以前の『lucia/luis』を繰り返し観過ぎたせいで? わたしは一日に一回は吸いながら発声するみたいな練習を無意識にしている。これは毎日している。特に朝イチでこの練習をして、バイトもない日の一日のはじまりは、わたしにとってなんとも言えない勇敢ともまったく言えない虚勢とも言えない恐怖から抜け出したような自由な怒りとも言えないなんとも言えないものに。その吸いながらの発音はまったくうまくならず、時にその音は映画音がひたすらにすばらしく虚し過ぎる『OGROFF』(N.G.マウント/1983年)の仮面殺人鬼の声のようにもなってしまう。しかしこの発声法だと何かを言おうとして発話するより、とりあえず吸いながら発話を適当にし続けるなかで、当初は発話するはずのないことを音出ししていることがよくあると気づいた。うまく発話できず咳き込むこともある。しばらくして通常呼吸に戻る時の毎回ごとの変な感じ。だからなんなのだということだけれど、この音出しは奇妙な。どこにも向かわない未知の動機を生むような。このような習慣をもたらす『lucia/luis』という作品はただただ凄い。