Television Freak 第85回

家では常にテレビつけっぱなしの生活を送る編集者・風元正さんによるTV時評「Television Freak」。今回は現在放送中の連続ドラマから『さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~』(TBS系)、『グレイトギフト』(テレビ朝日系)、『不適切にもほどがある!』(TBS系)を取り上げます。
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光の速度


 
文・写真=風元 正

 
高知県立牧野植物園を訪れて、入場口近くのご当地植生の珍しさについ昂奮してしまった。日本のどの地域とも似ていない。ちょうどバイカオウレンの白く小さな花がたくさん咲いていて、野で見つけたらどれだけ可憐なのだろうか、大好きだったという牧野富太郎の心の弾みすら伝わってきた。真冬でなければどれだけ……。しかし、広い温室は別世界で、見事な菩提樹と対面できた。身近に自生する植物や粘菌に魅せられて世界を拓いたのが牧野と南方熊楠。ああ、そういえば、熊野の植生も独特だったと、青山真治さんとたむらまさきさんと登った熊野古道をなつかしく思い出した。
ケリー・ライカートの『ファースト・カウ』の舞台となったオレゴン州の植生も蠱惑的である。クッキーとルーが歩くことにより目に入るアメリカの森は光と瑞々しさに溢れていて、しかし「男」という言葉が口にされた瞬間からよそよそしい脅威に一変する。南北戦争前の開拓者たちを現代へ鮮やかに蘇らせたライカートの撮影現場は、どういう雰囲気なのだろうか。現代風の「スピード」を忌み嫌う映画作家は、もっとも手間のかかるやり方で過去と向き合っている。ライカートの作品に流れる時間の持続を、手遅れだと見切らずに我が身に取り込みたい。牧野も熊楠もまた『ファースト・カウ』と同じ「時」を見ていたはずだ。


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『さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~』は、潰されかかった地方の市民オーケストラに天才指揮者が現れ……というお話に既視感はあるものの、そんなことはもうどうでもよろしい。俳優陣が贅沢である。とりわけ、挫折した英才チェリスト羽野蓮を演じる佐藤緋美がガレージの奥から登場した瞬間、ゾクゾクした。浅野忠信とCHARAの息子。美男子にしてあの陰翳は血筋としかいいようがない。マエストロ(指揮者)夏目俊平役の西島秀俊は、最近アパッシオナート(情熱)を表現する時に風格を感じる。そういえば、西島が『ニンゲン合格』に主演した頃は、佐藤の今のようだったとつい遠い目になる。つまり、西島秀俊は黒沢清映画にバンバン出ていた時期の役所広司のポジションに移行したわけである。スキャンダルゆえプロオケに定着できない腕達者のフルート奏者の倉科瑠李を演じる新木優子は大きな瞳がきらきらして、コケティッシュな魅力を振りまいており、ぴったりの役に巡り合えた。
制作陣の意図は、ときたま映し出される富士の嶺の高さや森や畑の緑、川の流れの美しさと陽光の輝きによって十二分に伝わってくる。景色のいいドラマだ。本格的な悪人はひとりも登場せず、日曜の夜にリラックスできるのはありがたい。青空の下、道の駅で演奏された「田園交響曲」はすばらしく、広上淳一と東京音楽大学はいい仕事をしている。私は単純に、カジュアルな形で「名曲」が披露されるドラマが大好きである。
もっとも、音楽のことしか頭にない夏目は妻の画家・志帆(石田ゆり子)からは離婚届を突き付けられていて、晴見市役所に務める娘の元天才少女ヴァイオリニスト・響(芦田愛菜)からも毛嫌いされている。経済原理でオケを目の敵にする市長の白石一生(淵上泰史)とその腰巾着の滝田(山本圭祐)など、景色のよくない人々が音楽の力によってどう変化してゆくのか。トラブルがなければ物語は生まれない。
「歌うトランペット」奏者・森大輝を演じる宮沢氷魚も、底抜けの善人の市役所員としてスケール感のある味わいを出している。その祖父で団員のたまり場の生オケ喫茶「うたカフェ二朗」の店主・小村二朗を演じる西田敏行は、ひさびさに悪党の院長みたいな役柄ではなく、『屋根の上のヴァイオリン弾き』の森繁久彌を彷彿とさせるキャラクターで登場し、祖父と孫の2人で狂言回しを担っている。すべて鉄板のイメージの組み合わせなのだけれど、それゆえに生まれる余裕が愉快である。「さよなら」というからには夏目は去るのだろう。「晴見オーケストラ」が最後に演奏する曲は何か? やっぱり「第九」なのかな。当然、響のヴァイオリンは全開するわけで、今から楽しみである。


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『グレイトギフト』は、大病院に紛れ込んだ「殺人球菌「ギフト」」が主人公のドラマである。どこから来たのかわからずじまいのCOVID-19が巻き起したパンデミックにより、荒唐無稽な設定ではなくなった。SNS時代、表面的には「可視化」が進んでいるかに見える。しかし、桐島聡が藤沢の街に紛れ込んでいたように、属性を消す手段もかえって多様になっている。どこに匿名の悪意が潜んでいるかもわからない。志を得ない医者などゴマンといるはずで、「殺人球菌」の開発に成功した人がいてもおかしくない。
目に見えない主人公に合わせて演者も変わる。大学病院の病理医・藤巻達臣役の反町隆史は、おどおどした病理学オタクの万年講師といういつもと正反対の役柄で、白髪も目立つのがかえってチャーミングである。藤巻は病院の権力者が集う会員制ラウンジのオーナー安曇杏梨(倉科カナ)に「モテない」といわれながら、宿主を急性心不全で死に至らしめた上で消滅する「ギフト」と呼ばれるようになった球菌の発見者となり、ウィルスのように変貌をとげてゆく。
藤巻は難病の妻・麻帆(明日海りお)を抱えているが、娘・あかり(藤野涼子)を含めて関係は最悪で家庭崩壊の危機に瀕している。妻と娘は名医の誉れ高い心臓外科の白鳥稔(佐々木蔵之介)の方は崇拝しており、藤巻のひそかな努力には一顧だにしない。そして、ギフトにより自らの権力欲を充たす道具を手中にした白鳥は、麻帆の治療と引き換えに藤巻に球菌の培養を迫る。そして、だれが球菌を持ち込んだのはわからないゆえ、藤巻の困惑はより深まる。
もうひとり、腕が立つ検査技師だけれど周囲とは関心がまったくズレている久留米穂希が、純粋な医学的好奇心によって、危険な秘密に首を突っ込む。穂希を演じる波瑠が断然魅力的で、言動が浮けば浮くほど佇まいの華やかさが引き立つ。彼女が熱心に「ギフト」を培養するのはなぜか? 白鳥の野望のせいで死者が増えるのに、妻を人質に取られて無力な藤巻が、研究室を滅茶苦茶にする瞬間はいつもの反町隆史の野性味が隠しようもなく現れていて、その瞬間に穂希が「告白」する演出はお見事だった。
長年、出版社に勤めてみたものの、「文学」そのものに関心を持つ人は絶無だった。みなさん、「文学」を巡る現象しか見ておらず、それは医学界も同じなのかもしれない。球菌は人間の思惑によって不気味に増殖し、死者も増えてゆく。組織の混乱の速度が上がるにつれて、通念の中の生命倫理が知らぬ間に炙り出されて行く。ひとつの思考実験として興趣深い。


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『不適切にもほどがある!』は宮藤官九郎と阿部サダヲのコンビのコメディー。マンガ原作の『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか』と同じく「おじさん」教育ドラマが流行っていて、「昭和」にどっぷり浸った世代としては落ち着かない。阿部サダヲ演じる中学教師「地獄のオガワ」小川市郎が令和にタイムスリップして騒動を捲き起こすわけだが、そもそも私にとっては貧乏臭くてハラスメントだらけの「昭和」は居心地が悪かった。
1986年なら中学校でケツバットはすでにまずかったはずとか、オガワは昭和10年生まれにしては若くて元気すぎるとか、70年生まれのクドカンの感覚はちょっとズレている気もするけれど、“時代考証”については不問に付してもいい。ともかく、フェミニストの向坂サカエ女史(吉田羊)の息子キヨシ(坂元愛登)が執着するほど「昭和」は自由でも愉快でもなく、いつ暴力が降りかかるかわからぬヤバい時代である。
むしろ「令和」のシングルマザー犬島渚(仲里依紗)がテレビ業界で味わっている「働き方改革」による理不尽な扱いへの怒りの方が腑に落ちる。もともと夜中まで働くのが当たり前の職場をホワイトにしようとしても、だれかがドロを被らなければならない。若手が定時で帰って上司が手抜きするならば、とばっちりを受けるのは中堅。女性が働くのが当たり前でも労働環境は「昭和」のままだから、夢を抱いて働く子育て中の母親は涙を流している。表面的な言葉遣いは配慮されても、社会の根本が改まる気配は一切ない。
昭和人のオガワはタッチパネルが操作できず「炙り〆鯖」200個注文し、「ムッチ先輩」とそっくりな「秋津真彦」(磯村勇斗)が「話合いましょう」と声を張り上げ、「多様性」ミュージカルがいきなり始まるシーンが圧倒的に愉快だった。価値観のぶつかり合いは、つまるところ、歌って踊る躍動によってしか融和できない。「昭和」「平成」「令和」も実は大差ないし、どこかに正解が存在していてもたどり着けなくて草臥れるのは同じこと。
ポリティカル・コレクトネス万能の時代、宮藤官九郎が笑いとともに世の大勢への疑問を提示した意義は大きい。オガワと聖子ちゃんカットの娘・純子(河合優実)が怒鳴り合う朝の喧嘩も痛快だったし、ともあれ、元気なのが一番、と改めて痛感する。さて、「令和」はどういう方法論で生きれば元気が出るのか、クドカンとともに考えてみよう。


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高知で山本政志監督の『ロビンソンの庭』を観て、主人公のクミがキャベツを育てている森の巨大な廃屋にどこか心覚えがある気がした。監督のインタビューによれば井荻あたりのようで、あれだけ広いとすると、現在、井草森公園になっている土地しかない。そして私が今通っている区民農園は、その公園の隣なのだ。なんともいえない愉快な気分になって、リム・カーワイ監督の『すべて、至るところにある』を観て、「宿なし」の感性が全開しているスクリーンに心が揺さぶられた。「旅」と呼べるような暢気な移動ではない。身ひとつで北マケドニアやボスニア・ヘルツェゴビナのスポメニック(戦争記念碑)を見て歩き、天に届く怒りを抱きながら撮影する男と、時を経てその跡を追う女。意味を孕むことを拒絶する移動のスピード感と光の溢れる世界は、どこかで『ロビンソンの庭』に鮮烈に刻まれた町田町蔵(康)の疾走と重なる。もちろん、どちらの作品も、夜の闇の深さの方も十二分に含んでいる。ひりひりするような速度を受け取りながら、私は小松菜に水をやる。草花は光の速度を受け止めながら育つ。
 
 残雪や角の達磨が今笑ひ


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風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。