映画音楽急性増悪 第52回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」第52回の更新です。俳優たちが監督・主演をする短編映画企画「アクターズ・ショート・フィルム」、そして若手の映画作家のための「ndjc:若手映画作家育成プロジェクト」の作品について書かれています。

第52回 アクター

 

文=虹釜太郎


 
【ルール】1.尺は25分以内 2.予算は全作共通 3.原作物はなし 4.監督本人が出演すること
以上がルールの『アクターズ・ショート・フィルム』。何人もの俳優が挑戦している。作品の中には長編もぜひ観てみたいものもある。疑問点がかなり残る作品もある。音楽の使い方も含めて。画面外の音への敏感さについても気になるところは多い。でも作ってみないとわからない。ニール・ブロムカンプの短篇シリーズ『Oats Studios』は長く続かなかった。『アクターズ・ショート・フィルム』はぜひ永く続いてほしい。 
 
 
『機械仕掛けの君』(磯村勇斗/2021年)
アンドロイド法案絶対反対、ヒューマニズム…と言った言葉が流れる中で映る仮面。
子供二人が演じはじめる冒頭。
月の石を持ち帰って自慢しましょうという子供たちの会話。
皆が仮面を被る構成への不満はあるだろうけれど、室内の照明も含めて光に対して敏感な監督。
大阪万博の太郎の塔の玩具から秘密基地への繋がり。
全体を通しての敬語の使い方が気になる。
柵越しの映像も印象的だけれど、終盤に入る音楽がいろんな可能性を狭めているように感じる。
後半を無音で観直したら、その方がよかった。
 
 
『夜明け』(柄本佑/2021年)
画面外の音に敏感な監督。
犬への字幕から最後の仮面を取り合う手とコミカルな音楽の入り方の後半と前半での切断が何度観てももったいないような。
ロールシャッハ(『ウォッチメン』)の短編をいくつも観たくなった。
ナレーションと画面外の音にこだわった長編を観たくなる。
冒頭の道徳という名のばけものから続く独白がいきなり途切れる箇所もいい。
 
 
『そそがれ』(白石隼也/2021年)
光の扱いに疑問を持ちつつも、脚本がすばらしい作品。けれど映画での絵の扱い方は難しいと改めて。
 誰もが通ったかもしれない絵画教室で起きたこと。幼年時代と大人時代の接続の編集。
 吉村界人と先生役の神野三鈴を離れて映すところもいい。
 最後のそそがれはきれいに終わり過ぎるけれど、長編も観てみたい。
 
 
『GET SET GO』(津田健次郎/2021年)
冒頭のあまりに不自然な風の音だけれど、エンディングでの風の音はしっくり聞けてしまう。編集、照明、撮影角度のいずれにも違和感を感じながらも、俳優たち(大東駿介と竜星涼)の演技力の強さで観れてしまう。
「監督の意図を最もよく理解し表現できる俳優は監督としての才能をも埋蔵した存在なのだ」というのはアクターズ・ショート・フィルムの説明にある。
津田健次郎は映画『ドキュメンターテイメントAD-LIVE』では監督・脚本。
 
 
『in-side-out』(森山未來/2021年)
ひきこもりの男の話だけれど、かなり強引な。監督が誰か知らないで見ていれば、かなり強引なパフォーマンス・アーティストによる短篇かとも。ひきこもっている人間の多くはこんなにパフォーマティヴではないし、こんなに流暢に言葉も出てこない。永山瑛太の力で観れてしまうけれど、それにしてもあまりに強引で、特に後半の加速には観ている人によってかなり評価は別れそうな。過剰な自意識を現すのだとしたら、この演技ではないのではとも。また音楽とあわさった加速にもトイレのシーンの詳細にも違和感を感じる。水を飲むところの撮り方も雑な感じが。永山瑛太の演技には別の可能性もあったはずだけれど… 
森山未來初監督映画『Delivery Health』はまだ観ていない。
 
 
『いくえにも。』(青柳翔/2022年)
修平を演じた村上虹郎の目つきとピアノの音の残響が意外な組み合わせの良さで、観終わった後もその感覚が残る。犬を抱いて部屋に入りこんでくる女を演じた俳優の違和感もいい。電話ボックスに描かれた文字の再強調や終盤のループがなければさらに作品の迫力も増した気もするけれど。
青柳翔監督には村上虹郎主演で長編を撮ってほしいとも。
現在はかなり数の少なくなった電話ボックスの明滅。
 
 
『物語』(玉城ティナ/2022年)
独白をひたすら聞かせたいのか、それとも表情をどれも漏らさず見せたいのか。両方ができるわけではないと改めて。カメラが固定でひたすら独白が続いたならまったく違う印象に。琉花の表情をどれも見せたいのはわかるけれど、それを完全にしたら映画ではなくなってしまうのではと。何も言わない奥平大兼はよかったけれど、後半の二人の演技は宙に浮いていて。途中のバスタブいっぱいになってからの音の扱いがよかった。
 
 
『あんた』(千葉雄大/2022年)
伊藤沙莉と千葉雄大のパートが二人の表情、喋り方がとてもいい。千葉雄大にこんな演出の才能があったんだという。千葉雄大の寂しさのあふれ方は唐突だけれど、それを受け止め、花火で解決する伊藤沙莉の細かな表情がいい。しかしその裏方の二人の方の演技はどうかと言えば、唐突なハグしようか? なところもいい。俳優の経験がふんだんに活かされているような。長編監督としても活動してほしい。
 
 
『ありがとう』(永山瑛太/2022年)
死に場所を探す役所広司の演技はさすがな。けれど森の奥に入ってからの幻覚シーンの数々に永山の演出力不足を感じてしまう。ではどうすればよかったのか。
長編を撮ってほしくもあるので、俳優の演技以外のさまざまな演出、音楽についていろいろもっと試してほしい。役所、永山自身の演技以外のところ。
 
 
『理解される体力』(前田敦子/2022年)
根元宗子の脚本もいい。泣きながら食べるだけでなく、泣きやめてからの表情がどれも柳英里紗の演技。喫茶店店長のまったくの勘違いとひたすらキエの泣き笑いを受け続けるユミのそもそもの存在感の二つが短篇の中でシンプルに組みあって力強い。小さくしっかりまとめる、観察力が鋭く体力もある前田敦子の次作がどんなものになるのか楽しみな。
 
 
『CRANK-クランク-』(高良健吾/2023年) 
俳優たちはみながんばっている。メッセンジャーの自転車漕ぎも、映画の撮影も、エレクトロニカが流れる中での走りも、食堂でのシーンも。けれど高良健吾の登場シーンと映画撮影のシーンとのばらばら具合が最後まで噛み合わない。噛み合わなくても全然構わない。でもそれならばニカが流れる走行シーンなどは省いて、もっと別の演出が必要だったような。映画撮影スタッフも記念写真的な撮影にはならない演出が必要だった気も。俳優の演技力の問題ではなく。
 
 
『COUNT 100』(玉木宏/2023年) 
新しい光輝の顔の曇りの描写が何度観ても慣れない。林遣都の演技力の問題ではなく、これは演出の問題だ。最初と最後のこの描写への違和感がずうっと拭えない。
100日のカウントのシーンの描写も演出力が足りないような。これも俳優の演技力の問題でなく。SFではない他の作品も観てみたい。
 
 
『Prelude~プレリュード~』(土屋太鳳/2023年)   
バレリーナとしては無理という点については何度も考えさせられるけれど、また戦争の記憶に苦しむ祖父の描写も演出不足なように感じるけれど、それでも女子二人の食堂での会話シーンは丁寧に演出されていた。
会話に特化した作品を別に観てみたい。
 
 
『いつまで』(中川大志/2023年)
終電を逃して小さな駅でどうすればいいのかという思いをした人は多いはず。本作はそんな経験をしたすべての人が、終電を逃した三人が歩く夜道でいろんなことを思い出す。三人の演技力には疑問がいくつかあるけれど、また駅員との会話もかなりおかしいが、スマホの使い方も含めて終電を逃した三人の状況を丁寧に描いている。
 
 
『虎の洞窟』(野村萬斎/2023年)
 窪田正孝はがんばっている。でもおもしろいはずのアイデアが具体的に映画になるにはあまりにも多くのものが欠けている。ではこの短篇は何なのかときかれても答えることはできない。実際に観てもらうしかない。
アクターズ・ショート・フィルムの難しさを強く感じさせる。野村萬斎という超ベテランに何をどう伝えればいいのかわからない人ばかりではないかと。部屋の作りひとつ、照明、血しぶきのひとつひとつにも違和感がある。そして映画が仮に完成しても、やり直しということがどうしてなかったのかなどさまざまなことを考えさせる。ドキュメンタリー演出が何かについても。
野村萬斎監督作にはいろんな疑問を感じたりしたけれど、アクターズ・ショート・フィルムは、青柳翔、柄本佑、前田敦子、白石隼也、千葉雄大という次作が楽しみな監督の作品を観ることができたし、俳優である監督たちの抱えるいくつもの○○について、強引にあきらかにした。
本企画にはわたしと違ってかなり批判的な専門家も多いかもしれない。そんなアクターズ・ショート・フィルムだけれどぜひ続いてもらいたい。
西山真来のような監督もする俳優を支援する映画館も必要だ。2019年11月からspace&cafeポレポレ坐ではじまった定期上映会「KANGEKI 間隙」のvol.25では「役者・西山真来の終わりなき冒険」という題で『ミーマイシーオーソレーション』オーディオコメンタリー上映:西山真来(監督)×小原治(KANGEKI主宰)、『手と心が一致していない』ゲストトーク:西山真来(監督)×金川晋吾(写真家)という回を既に行っている。
そしてわたしが本企画でなくても日本の俳優で作品を監督し続けてほしい俳優はオダギリジョーだ。
『D/G』(2001年)、『フェアリー・イン・メソッド』などのオダギリ監督作品は見れていないけれど、そう思ったのはなぜか繰り返し観てしまうひっかかりのある『悲夢』(キム・ギドク/2008年)や『大怪獣のあとしまつ』(三木聡/2022年)でのなぜかはわからないオダギリの悲しみ…でもないなんとも言えない果てしなく出せていない感のようなものが無闇に膨らんだなにかのせいで。『THE 有頂天ホテル』、『東京タワーオカンとボクと、時々、オトン』、『大怪獣のあとしまつ』、『あずみ』などに出演し続けるオダギリジョーの中に知らない間に膨らんでしまったようななにか(そんなものはまったくないのかもしれないが)ははたして大丈夫なのかと。
もしかしたら『半グレ反社会勢力の実像』(2019年)のような語りの方が俳優よりおもしろいのかもとさえ時に思えるオダギリだけれど監督最新作をぜひ見たい。
『映画大好きポンポさん』(平尾隆之/2021年)のような映画をつくること自体についての作品もあるけれど(そして本作への批判もさまざまだけれど)。日本の映画製作現場についてのさまざまな側面からの否定的な意見は今後もさらに強くなってほしいとも思っているけれど、しかしそれとは別にアクターズ・ショート・フィルムのような企画は難題がいろいろあったとしても続いてほしい。そう強く思う。
 

ndjc: 若手映画作家育成プロジェクト
ndjc(New Directions in Japanese Cinema)というのもあるが、こちらは俳優かどうかは関係ない。それについてはまたどこかでと思ったけれど、今回76作を観ることができたので、そのなかから繰り返し観れた一部を。
ndjcとは若手映画作家の発掘と育成を目的に映像産業振興機構(VIPO)が運営する人材育成事業。公募で選ばれた監督が35mmフィルム撮影による30分以内の短編映画を制作する企画。
 

『アンダーウェア・アフェア』(岨手由貴子/2009年)
冒頭の背中越しでしゃべる女性の印象は観終わった後も残る。冒頭と巻末に思いっきりかかるone day diaryの音楽はあまりにも雄弁過ぎて映画自体を破壊しているような。現在と少女時代の二層構造だけで十分に成立しているのに。カーテンをひいた後のカメラの動きも残念だったけれど、会話時の音響処理はシンプルで。
岨手は「女性の監督は男性監督の映画で見過ごされがちな、小さな出来事やひと言を拾って共感を呼ぶような作品を作っていると感じます」と語る。
アイロンのシーンも寝転がる女性のだらしなさとアイロンがまったくそぐわなくてよかった。
関係ないが、小さな出来事やひと言を拾っている時代劇ってなんだろうと終わってから考えてしまう。
 
 
『琥珀色のキラキラ』(中野量太/2008年)
キャスティングも暗い照明もいいが、長時間使われる音楽がまたしても映画を破壊しているように感じてしまう。
娘が父の尿の匂いを嗅ぐだけでなく舐めるシーンは不潔感がない。
ラストの娘のセリフというかナレーションが短篇らしくていい。中野量太は新人ではなくベテランだけれど今後も短篇も撮ってほしい。
 
 
『ペダルの行方』(金井純一/2009年)
エンディングクレジット時以外の音楽への違和感。けれど香太と偽の香一のキャスティングがすばらしく、ラストの香太の表情もいい。
母親が偽の香一を見つめ続けるシーンの不思議な感覚は今後の金井作品でももっと見てみたい。
 
 
『逆転のシンデレラ』(藤村亮平/2010年)
ブス七福神がなんで一列に並んで番号つけて整列するくらい素直であまりにも従順過ぎるのかも含めて突っ込みどころがあり過ぎるのだけれど、ブスって何? が作品が終わっても木霊し続ける。
棚橋弘至主演の映画はまだ観ていない。
 
 
『おとこのこ』(松永大司/2010年)
なんでそんな簡単なの? 簡単じゃねぇよ! というこの作品の中にしかない時間。
自転車同士、自転車とバイクの作る起動と走る子たちの起動。
賢と透を演じる俳優たちの存在感があり過ぎて。
芝草玲の音楽も入り方のタイミングもよく。
ndjc作品を観続けていたらついにこの作品に遭遇できてよかった。
松永の演出は俳優の動きがかなり激しく。
本作品を観て、長編の『トイレのピエタ』(2015)も観ることになった。観終わった後に数日たってもするするするとプールを泳ぎつくす杉咲花と彼女と死ねと言い放ちあう野田洋次郎の希なる茫洋さが蘇り。2023年に目黒シネマでは『ピュ~ぴる』『エゴイスト』同時上映の回があったけれど、もう少し松永作品の一般上映機会が増えたならと。
 
 
『RAFT』(三宅伸行/2010年)
五十年以上前の映画を観ているようだった。キャスティングのせいかセリフのせいか…
けれど音楽は違う。メロディがないせいかかなり長く入っても違和感は少ないけれど…
んなわけあるかなラストの落ち着きへの納得のいかなさが膨らんだまま映画は終わる。でも短篇だからこれでいいとも思える。
ドラム缶の移動、転がしの長さはよかった。
筏の組み立て方はもっとじっくり見てみたい。
 
 
『動物の狩り方』(森英人/2010年)
村田雄浩が最初に映るシーンの強さ。藍沢美由紀と菊池さんの違和感は最後まで。
何度も入る音楽への違和感は特に強かった。藍沢と菊池が最初に茶をすするシーンでの音楽はなんであの音楽なのか。
菊池が死んでいても藍沢は残されたノートと空しか見ないところに監督の意図かどうかわからないが藍沢の異常性を感じ、それは藍沢の死者の見方の能力にも関連すると思えるのだけれど、それを作品自体は描けない。けれど藍沢は今後も死者をさまざまに見続けるだろうことは伝わり。能年玲奈の演じる藍沢はかなり不安定で、そこがよい。
 
 
『んで、全部、海さ流した。』(庄司輝秋/2012年)
おまえ、アホだべ。おれたちアホでいいんだってと高校中退の女・弘恵が少年・逹利に叫ぶところで、は!? となり、ラストに唐突に流れるみんな強くてみんな弱いーのグーチョキパーの歌にさらに? となりつつ、弘恵と達利役の俳優があまりにアンバランスな組み合わせですばらしくどこまでも見ていたくなる。そして短編だからこのゆっくりしたリズムがいいのかもと。
犬が轢かれて吐いてしまう達利の弱さや弘恵のやけくそなカレーの食べ方とかもいい。
弘恵のような存在について作品が終わった後も考えこんでしまう人は多いはず。キャスティングもよかった。
 
 
『good-bye』(羽生敏博/2014年)
主演が安藤玉恵でなかったならとずっと観ている間も観終わった後も考えていた。
子供が「学校に行きたい」と言い出すまでの間や深夜のネットカフェでの止まったような時間などよくできているのだけれど、短編なので別のサプライズがあってもいいのかもしれないと思いつつも安藤玉恵の本作での重たい重力がそれを阻む。
クレジットには脚本指導というものがあるけれど、本作の主演が安藤玉恵でなく、またもっと違う脚本とは何なのかについてずっと考えてしまう。例えば韓英恵ならどうだったのかとか。もっと別の“笑顔”も見てみたい。
ネットカフェで生活したことがあるけれど(一時期住所不定だった)、ネカフェに住んでいる人たちが少数だけれど存在することが、いろんなネカフェに住んでみてわかった。幼女たちを学校に通わせずネカフェで生活する一家について描くには短編では無理があるか。
音楽についてもサヨ族のような不定形な静寂というものが木霊する、休憩する、中座するものであってもいいのかもしれないとも。
短編映画はもっともっと自由な世界のはずだから。
 
 
『壊れ始めてる、ヘイヘイヘイ』(佐藤快磨/2015年)
ちゃんと蹴る? なんてもう言わないからさ…からのさよならでいきなりエンドという短編ならではのエンディングがいいけれど、それは太賀(仲野太賀)と岸井ゆきのの二人の演技がかなりはまっている故の。
ちゃんと蹴るから一緒にいるみたいなことの言い換えは世の中にかなりあるけれどフィクションではどうなのかと思っていたけれど。
蹴られる人物たちのキャスティングもいい。
 
 
『父の結婚』(ふくだももこ/2015年)
父のまさかの再婚で父は女性にという題材を短編にしたふくだももこ監督。
といっても本作の見どころはソニン。父役の板尾含めて他の役者たちが霞んでしまう。
ソニンのそもそもの厚化粧と墓での対話のやさぐれ具合など。
そして深夜のバーの地獄の歌声の持続は映画が終わった後も。歌は感情を込めて唄ってはいけないとは誰が言っていたのだっけ。
 
 
『屋根の上の赤い女』(岡太地/2006年)
山中崇と神農幸の二人も存在感があるが、なんと言っても文具店の業務責任者のチーフの暴力まみれの常態がひどい。彼のせいで文具店は朝一から血まみれの異常な暴力劇場に。
神農幸の目線と口調も危険だけれど、彼女のやばさは人目は関係ない。というのは一人でいる時の段ボール移動の時間かけての失敗でも明らかで。神農幸のような目線の俳優は少ない。そんな神農の魅力に頼りきったように見える本作だけれど、朝からの文具店社員たちによる追走劇がおもしろい。でも本作がよいのは前半の文具店社内での止まったような時間。この異様な時間がなぜ実現したかは文具店の描き方の最初からの不十分さや接写の多さもだが、そもそも労働とは…とさまざまな部分でその疑問が止まった時間の中で噴出し続けている。そして労働は停止する。
 
 
『天国のバス』(郡司掛雅之/2007年)
新橋行きのバスが行き先を変更して回送になりまーすってあまりにもとことんひどいけれど、キャバス(キャバ嬢が大量に乗っているバス)というアイデアひとつで突っ込んで突っ走るのは短編だからOKという。大森南朋の演技と衣装とキャバス用特設ケースがなければ成立しなかった。須賀貴匡が何度観ても仮面ライダー感が抜けなくてすごい。
パフェが何度も映される。自己批判パフェ…
『good-bye』のような長編みたいな短編だけでなく、本作のような大失速しそうなワンアイデア豪走みたいな作品はもっと観たい。郡司掛雅之の次の挑戦はどんなだろうと。
 
 
『さよなら、ジョージ・アダムスキー』(児玉和土/2007年)
アイデアは凡庸過ぎながらも柄本佑の演技がよくて最後まで観てしまう。
春男と定幸の少年時代のシーン。定幸の母親の最後があまりに突然な。
春男と定幸が何度も屋外で夜を明かすのが続いていくので、もうこのままずうっと屋外でと思わずにはいられない最後。
UFOが映らずに、定幸のセリフももっと抑制されていたらと。
 
 
『BABIN』(平林勇/2007年)
巨大なミミズが自殺したー
巨大なミミズがウンコしたー
巨大なミミズがダンスしたー
BABINBABINBABINBABINBABIN...
切り株もきれい過ぎ、百足もきれい過ぎ、ネズミもウサギも…
観返しているとゲームのようでもある短編映画。
主演の堀部圭亮の監督作『悪夢のエレベーター』は未見なので観てみようと。
 
 
『花になる』(田中智章/2008年)
一緒にいるとなんかどよーんてなるっていうかーな女性の変化という難しい役をきっちり演じた山田キヌヲ。
不器用な役ってなんだろうと観終わった後に考えこんでしまう。撃たれることによる変化…
いつも暗い台所のテーブルの女だけの家族の暮らしがいつまでも続かないだろうこと。
アクシデントの突然さというより試着室に入る前の決断の時点でうららは変化していたけれど、気になるのはそのアクシデントを起こして自転車で走るところを撃たれる女性。
実際にわたしの知人にもいるほんとうに不思議な女性のことたちを思い出させる。
 
 
『曇天クラッシュ』(高橋康進/2010年)
主人公だけでなく父役の木之元亮含め、妹、同僚などのすべてのキャスティングもいいが、メインの偽装クラッシュの際の皆の動作が走り屋かっていう統一感で、未来がまったくない感じもよく。
ビッグモーターの保険金不正請求が問題になるはるか前の2010年に完成している作品。
苦虫を噛み潰し過ぎるようなだけでなく弱さも充満する前田広治の表情がどんどん苦くなってきて。
 
 
『カオリと機械油』(北川帯寛/2013年)
カオリと姉が住むせっまいカーテンセパレート部屋での鬱屈。
坂田機械製作所で働くカオリ。けれど製作所は倒産。それを告知する脱力音楽と人物たちのスローのいななき。
カオリがバーでも着ているジャージ姿と倒産後のやけ呑み。
金どっこやーとあれ狂う社長の一緒に逃げようとの強引な勧誘をふっとばすカオリ。
カオリはいつも膝を抱えて座っている。
けれどカオリはアップではなかなか映されないまま。最後のチャリでのウェディングドレス姿での爆走以外は。
やたらに機械油機械油と連呼されるけれど、映像からは油臭さをまったく感じないので、そこのところは難しいのかも。
カオリの座り方が観終わった後も蘇る。
 
 
『本のゆがみ』(草苅勲/2014年)
俳優たちの演技も、入ってくる音楽も個人的には好きにはなれないのに、不思議な後味が魅力の作品。
図書館から妊婦をリヤカーで運ぶ勢いやラストの図書館を爆破するという手紙への超軽い注意やクレジット後のあまりに急な夫婦の和解などどれもがまったくバラバラだけれど。
星野良助、桑原正紀、中川みくの三人は悪事に手を染めているというよりは、フィクションの中であまりに挙動おかしくループするNPCのような。いや違うか…なんだろうこの不自然感が気になる。そう感じるわたしはこの映画のいい観客ではないだろうけれど。彼らの行動はどれもがおかしい。でもそのおかしさは映画のおもしろさとは別のところで。
 
 
『ジョニーの休日』(新谷寛行/2016年)
三姉妹の全員と付き合っていたジョニーの彼女の実家への挨拶の一日。
ラストでもはや足しか映されないジョニーと次女との会話の際のジョニーの態度。次女とジョニーの間にしかない近さと三女とジョニーとの距離感の違い。
女だけの家の話はよくあるけれど、三姉妹同士の関係が姉の膝枕で寝る三女といい次女のしつこさといいよく描かれ。
 
 
『最後の審判』(川上信也/2018年)
競争率40倍の美大受験をする受験生の男女の一日目の受験とその後の“修行”のごく短い時間を描いている。
観ている人に主人公が話しかける作品というのはかなり苦手だけど、本作は入学後の二人の行く末が気になる作品。
といっても二人が受験に合格するかどうかはわからないけれど。
受験生の女が“実践”で中学生から街で似顔絵描きをしていて、それが男が話しかけたことからその日のまさかの“修行”がはじまるというありえない設定が映画らしくていいが、映画はそんなまさかの出会いをたまに製作過程で見せてくれることが実際にもある。それはまた映画の出来とは関係ないけれど。
 
 
『毎日爆裂クッキング』(植木咲楽/2020年)
四万十川料理学校のキャシー塚本を思い出す。そして某映画配給会社の社長のことも。
キャシー塚本は松本人志が演じる料理研究家。
脳内お料理アドバイザーヨシムラカヨコの映像にも軽快な音楽にもはまれなかったけれどまた味覚障害の治療シーンもかなり不十分で、理不尽についても演出不足を感じるも、続編が気になる作品。
 
 
『醒めてまぼろし』(木村緩菜/2020年)
速い編集と主演の二人、小野花梨と青木柚の表情がいい。二人のあまりの唐突な出逢いも将棋の指導もあり得ないけれど、指導からのいきなりの帰宅途中の突然の就寝、将棋をめぐる会話からのいきなりの襲撃、いきなりのだっこ、頭突き、そして空き地への帰宅と突然の就寝。空き地で眠らずに横になる二人。先に眠る清水さんの冷たさとしつこさにも届かない感興の無さたちが観終わった後も残り続ける。おまえほんとうるさいっと怒鳴り、吉田の家で音うるさっとつぶやく清水さんのばらばらな表情たちを演じる小野花梨のすごさ。生活の中に消えるしつこさたちを静かに炙り続ける木村緩菜。
 
 
『少年と戦車』(竹中貞人/2021年)
松本人志の話やエンディングの際のまとめな音楽や幻の同級生女子などはともかく、戦車で学校に突き進むところや最後のいじめっ子たちへの手拳銃バシンッバシンッのところなど、ndjcではなかなかなかった作風で新鮮な。田崎と江田のいじめられっ子ぶりはもっと見たかった。長編ならどうなるだろうと。
実際のお笑い芸人たちのいじめられっ子経験は松本人志が少なくとも以前よりは退却してからの世界ではもっと世に出てくるのかどうかはわからない。映画の作り手としての松本人志論はまだまだ足りない(少なくとも『大日本人』論だけでももっと)。と思ってきたけれど、それが補完される未来は見えない。そんななか宇多丸による松本人志作品全批評(『大日本人』、『しんぼる』、『さや侍』、『R100』)は貴重。
本作が長編になってもなかなか大佐藤みたいなキャラは出てきそうにはないがそれについてはわからない。巨大化による鬱の発祥みたいなものが映画になるみたいなこと。
あとは屁理屈映画論のようなものはもっとあってもよいのにといつも思うけれど。窮屈だなあと。
最後の“総まとめ”みたいな音楽がなければ違う迫力が出たのかもしれないが、映画における音楽はこうあるべきみたいな病いとは何だろうとまた。
 
 
『なっちゃんの家族』(道本咲希/2021年)
「離婚してー」「離婚してください」とおばあちゃんちに緊急避難していて、追いかけてきた両親にきっちりそうはっきり告げるなっちゃんはえらい。
けれど作品の中でなっちゃんの両親のキャスティングには観はじめてからずっと違和感がかなりあった。しかしそんな強い違和感も、バドミントンで50ラリーできないなら離婚してというなっちゃんの宣言で、両親役の俳優たちがバドミントンをなんとか続けるような設定でほぐれざるを得ない。そんな強引さ。
「子供の頃の記憶が恐怖と悲しみしかもたらさない者は不幸である」とは「アウトサイダー」(ラブクラフト)の冒頭。わたし個人は子供の頃の記憶は正直恐怖しか思い出せない。
わたしもなっちゃんのように祖母の家に緊急避難、そしてスクワッティングをすればよかったのかもしれないのだったけれど。
わたしもなっちゃんと同じように親に離婚してと頼んだ。しかしその頼みは決して聞き入られることはなかった。なっちゃんのように賢くもなかったし仕方がないのだが…
「アウトサイダー」はその後にこう続く…「それでも私は不思議と満足して、そういう干からびた記憶に必死にしがみつくのだ」。
もしかしたらなっちゃんのセリフの数々をさまざまに空々しいと思う人もいるかもしれないが、また監督がどういうわけで本作を撮ったかはわからないが、本作はndjcの中でもわたしにとってはかなり忘れられない作品になった。
おばあちゃんが両親の扉を開けろに従わないところもはっきりと。
なっちゃんがいきなり登校を止めて、おばあちゃんちに直行するみたいな急な行動をしっかりと撮ってくれてよかった。
キャスティングへの疑問を不問にするような展開には驚いたけれど、干からびた記憶が消えてなくならないような大人は少ないかもだけれど確実に実際に存在する。
なっちゃんは疲れちゃったとはっきり言ったのだけれど、これをしっかり言えるのはすごいことだ。わたし自身も含めてかつての多くのあまりに疲れた子供たちはそれすら言えなかった。本作が長編ならばどのようになるだろうと。
道本咲希作品のうち、『昔の恋人』(監督・脚本・編集・出演)、『19歳』(監督・脚本・編集・出演)、『ほなまた明日』(監督)はまだ観ていないので、これから観てみようと。
 
あくまでこれはわたし個人の考えに過ぎないけれど、わたしは短編映画は映画ではないと思っている。
 
短編映画は(長編)映画にはできないこと、(長編)映画では起きようがない感情、その感情の繋がりのあまりの無さの短さゆえの許され、(長編)映画では無理なサプライズたち、(長編)映画ではなかなかありえない突っ込みどころ、そして(長編)映画でも実験映画でも不可能な責任のとらなさがいつまでも可能な場。
そもそもメガヒットなどはまずしない短編映画は巨大なビジネスなどからはあらかじめ逃れてもいる。それなのにそれを感じさせない“短編映画”もあるけれど。
そして労働の停止について(そもそも映画と労働の停止についての論考も少ない)短編映画はより多くのことを考えさせる。
果てしない失敗の海が無駄に拡がっていてどうしようもない場。短編映画批評というのも成立しないと思っている。しないけれど果てしない突っ込みだけはずうっとあちこちに立ち上がっていて。
ある長編が“コケた”のでもう映画製作から撤退みたいな事態も、短編映画では違う。
短編映画を募集するさまざまな企画は今後もいろいろに立ち上がって、そこにはいろんな問題が出てくるだろうけれど、そこでは今後も無数の試行が積み重なって、いままで発掘できなかったものたちが現れて…
長編映画では無理なそれらのあれこれの噴出たちに…