俚謡山脈の民謡を訪ねて 第6回

日本各地の民謡を収集・リサーチし、DJプレイやCD・レコードの再発を手掛ける2人組のDJユニット俚謡山脈(ムード山+TAKUMI SAITO)の連載「俚謡山脈の民謡を訪ねて」です。いつのまにか月日は経ち2020年以来の更新となりました。今回は岩手県の陸前高田市気仙町から広く東北各県へ広まった民謡「気仙坂」について、個人的な音楽体験とともに書かれています。
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気仙坂(GLOBAL>LOCAL>PERSONAL)



文=俚謡山脈



このboidマガジンの連載「民謡を訪ねて」のトップに載っている写真がある。我々が山道を歩いている後ろ姿を捉えた写真。これは「気仙坂」という民謡に出てくる「気仙坂」そのものを実際に見たい! と思い立ち、岩手県陸前高田市気仙町から宮城県気仙沼市に至る山中にある、松ノ坂と綱木坂を訪れた際に撮ったものだ。我々が「気仙坂」を訪ねたのは2016年。友人の車でGoogle マップを見ながら場所を探し、徒歩で坂を登りながらスマホで日本民謡大観の「気仙坂」を流し、ここが気仙坂か〜という感慨に浸っていたら突然小鹿が飛び出してきてビックリし、最終的には雨に降られてびしょ濡れになりつつ下山。麓のユニクロで着替えを買って、ついでに寄った気仙沼市内の古本屋で『レポート気仙坂』なる本をゲットするなど、思い出深い旅になった。
 
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今回はこの「気仙坂」という民謡を掘り下げるが、これは民謡の話であると共に、「音楽というものは個人的な体験でしかあり得ない」という、以前この連載で書いた「ムーミンとカオスUK」の続きの話とも言えるかもしれない。ではまず「気仙坂」とはどういう民謡なのかを紐解いてみよう。
 
「気仙坂」とはどういう民謡か? この唄は、岩手県沿岸南部の陸前高田市気仙町を源流としつつも、岩手と宮城などの東北各県に広く伝えられ、様々な民謡の元唄になっている、いわば「ファンデーション民謡」と言うべき1曲だ。レゲエで例えるならば、「REAL ROCK」や「DRUM SONG」などRIDDIMと同じく、「気仙坂」も時代や土地ごとにリメイクされることで「東北民謡」のイメージを形作ってきた。
 
気仙坂 七坂八坂 九坂(ここのさか)
十坂(とさか)目に 鉋をかけて 平らめた
それは嘘 御人足かけて 平らめた
「気仙坂」/浅沼徳次郎
 
元々は重いものを運ぶ際に唄われる「木遣り唄」として発生した「気仙坂」だが、「祝い唄」として広く唄われるようになり、気仙大工などによって東北一円に広まった。三陸沿岸に伝わったものは大漁祝いの唄や艪漕ぎ唄になり、他の地域でも様々な「作業唄」へと転用されていった。気仙坂が岩手県中央部を流れる北上川を経由して、その河口である宮城県の石巻に辿り着いて生まれたのが「銭吹唄」だ。銅鉄銭を鋳造する際に蹈鞴を踏みながら唄われたこの唄は、宮城の民謡家である片倉宗太郎によるバージョンが最も有名と言えるだろう。
 
松島の 瑞巌寺ほどの 寺はない
前は海 後ろは繁(しげ)き 小松山
松の中に 坂もおじゃる 坂も坂
坂も坂 七坂八坂 九坂(ここのさか)
十坂(とさか)目に 火床(ほんど)を建てて 銭を吹く
 (「銭吹唄」/片倉宗太郎
 
この「銭吹唄」に目を付けたのが、東北民謡の父と呼ばれる民謡家、後藤桃水である。1925年に桃水が宮城県東松島市で開催した「のど自慢大会」に飛び入り参加した地元の漁師、斎藤清次郎が唄った「サイタラ節」は、「銭吹唄」の派生形というか同じ唄だった。唄を聞いた桃水は、この唄が秘めていたポップさを見抜き、節回しの整理を弟子の八木寿水に指示。自身で歌詞に手を加え、「サイタラ」に「斉太郎」という漢字をあて、「斉太郎節」を作り上げた。
 
松島の 瑞巌寺ほどの 寺もない
前は海 後ろは山で 小松原
「斉太郎節~遠島甚句」/我妻桃也
 
桃水は「斉太郎」という架空の人物による唄の由来まで創作し、現在ではそれが本当の話であるかのような斉太郎節の解説文がインターネット上には散見される。更に桃水は、この「斉太郎節」と、宮城県の民謡である「御祝」と「遠島甚句」の3曲を合体させたマッシュアップ民謡の最高峰というべき「大漁唄い込み」を創作。同曲は1928年にNHK仙台放送局の開局記念番組で初披露され、その後は宮城県を代表する民謡として全国に広まっていく。
 (「大漁唄い込み」/八木寿水・赤間森水・松元木兆
 
通常、地元の唄に手を加える場合、三味線の伴奏を加えたり(シャミセナイズド)して、より「楽曲然」とした形に仕立て上げるのが一般的だが、桃水のアレンジは三味線を入れず、威勢の良い掛け声と、「太い青竹を押しながら唄う」というラガすぎる(※)手法によって引き出された絶唱によって構成されたシンプルなものだ。民謡のローカルさを残したまま、唄のポップさを最大限に引き出したこのアレンジの特異性、先見性は日本の音楽史にしっかり記されるべきだと思う。
 
のど自慢で発見した地元の唄を改変&ショーアップし、全国に向けて打って出る後藤桃水のプロデュース視点や戦略は、ローカルに片足を置きつつ全国を狙う、ボルチモアやデトロイト、メンフィスなどのラッパーやプロデューサーを重ねてみたくなる。
 
さて、ここまでは「気仙坂」という民謡がたどった道筋を追ってみたがどうだろうか? 民謡にはどの唄にも例外なく「気仙坂」のようなストーリーがある。そのことは俚謡山脈として活動を始め、民謡のことを知るにつけ興味深く、時にはその唄の履歴を感じながらDJのセットを組んだりする。しかし、どんなストーリーも、「研究」や「勉強」という視点から見ると、単なる知識である。民謡の知識を得ることは面白いが、それとはまた違う視点から現れる「ストーリー」があった。それは自分の個人的体験に結び付くストーリーだ。
 
去る2023年12月、自分の母親が他界し、実家のある岩手に頻繁に帰る生活が続いた。母の死により独居となってしまった父と、寂しさを紛らわすために毎晩酒を呑み、母の思い出を語る中で、他界した母の父(自分にとっては母方の祖父)の話になった。俺の父は母方の祖父とずいぶんと気が合ったようで、吞むたびに「千厩のじいちゃん(母方の祖父)とキノコ採りに行くのが一番楽しかった」と何度も言っていた。
 
そんなこともあり、ふと母方の祖父が残した本『私の大正時代』を読み返してみた。奥付を見ると発刊は平成6年(1994年)とある。俺が18歳の年だ。本が出た当時1冊献本を受け、一通り読んではいたが、当時の自分が読み飛ばしてしまっていたのであろう、一つの文章の中にある民謡の名前が目に留まった。「気仙坂」である。
 
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麦打ち
 
学校から帰って来たら家では麦打ちをしていた。庭はずれの垣根からふろ場、それに縁側まで、小麦藁で編んだすこのこをぐるっと立て巡らし、麦が飛び散らないように囲ってある。
 
その庭の真ん中で家の人たちが2人ずつお互いに向かい合い、それが二組、一方は前へ進み一方は後ろに下がりながら調子を合わせ、交互にふるいを「くるっ、くるっ」振り廻して打ち下ろし、穂先を揃えて並べられた麦を打っていくのである。
 
麦打ちは六、七月ごろの暑い季節である。それに天気がよい日でないと麦がよく落ちない。男の人たちは麦わら帽を女の人たちは編笠をかぶり、汗をだらだら流しながら打つのである。
 
麦打ちは並んでいる人とは一しょにふるいを振り上げ、向かい合ってる人とは交互ふるいを打ち下ろさないと、ふるいとふるいがぶつかってあぶないし、それに音がばらばらでは打ちづらい。それで何人で打っていても音が「バタッ、バタッ」と揃うように、掛け声を掛けたり歌を歌ったりして調子を合わせるのである。その歌は主に気仙坂だった、
 
「気仙坂や七坂八坂九(ここ)の坂」
 
誰かが一人歌い出すと、みんながそれに合わせて歌いながら打つのだった。
 
初夏の炎天下で、こうして歌を歌い調子をあわせ、長いふるいを打ち下ろす。のんびりした、しかも明るく力強い歌声はふるいの音と調和し、それはとても素朴で情緒的な田舎の風物詩だった。
 
みんなが一ぷくして汗をぬぐっている時、私もふるいを持ってやってみたのだが、とても思うようにふるいが廻らず、それにふるいが自分の頭にぶつかるような気がしてだめだった。いつの間にかくびのあたりが芒(のぎ)でえかえか(筆者注:刺痛をあらわす東方地方のオノマトペです)とかゆくなった。
 
北村栄馬『私の大正時代』より
 
実家のリビングで、俺はひとりで衝撃を受けていた。文字通りぶち上った。祖父が「気仙坂」を知っていたこと、麦打ちという労作の中で唄が使用されている現場を体験していたこと、今まで自分の中にあった「気仙坂」に関する知識が一気に立体化し、脳の中で一つの像を形作った。「民謡DJとしての自分」と「気仙坂」の距離は、「民謡」と「その知識」という紐づけから外れ、「気仙坂」が唄われていたじいちゃんの庭にストンと着地した。と同時に、どんな唄、どんな場所にも同じようなストーリーが無数に存在し、それが書き残されていないだけなのだ、ということを思った。
 
その晩、また父と酒を呑んだ。祖父の本に「気仙坂」の話が書いてあったということを父に伝えると、父は「気仙坂」を唄いだした。
 
気仙坂 七坂八坂 九坂(ここのさか)
十坂(とさか)目には 鉋をかけて 平らめた
 
 
なんということか。父もまた「気仙坂」を知っていた。(当然だが、この時点で俺は再びぶち上った)父の実家がある室根村折壁ではもち米などを搗く際に「気仙坂」を唄ったという話もしてくれた。なんだろうか? この感覚は。俚謡山脈を始めるとき、自分は民謡に全く縁がないと思っていた。実際、父が家で民謡を唄ってくれたことなんてない。父が91歳になるこの時まで、民謡を唄えるなんて知らなかった。
 
時は年末で、各音楽メディアやSNSでは2023年の年間ベストや「今年の1枚」的なものが発表され、タイムラインを賑わしていた。近年、自分にとっての「今年の1枚」は、「ようやく手に入れたレアなレコード」や「思いがけず手に入った未知の1枚」という感じのものより、「DJで呼ばれた先で知り合った人からもらった個人音源」とかになり、一般的な意味での「音楽作品」の形を取らなくなってきていたが、この祖父の文章と父の唄による「気仙坂」は、ついに音楽が個人的な体験と同化し、自分にしかわからない感動を、自分にだけもたらすことになった。「音楽」でも「作品」でもないかもしれないが、自分の年間ベストは間違いなくこの「気仙坂」だし、年間というか、今まで経験してきた音楽体験の中でベストと言えるかもしれないものだった。どんなレコードを買ったってこんな感動は得れやしないよ。
 
そのあと、呑み続けて上機嫌になった父は、「気仙坂」に続けて「さんさ時雨」や「おいとこ節」といった岩手県南に伝わる民謡を次々と唄ってくれた。更には軍歌や懐メロも披露してくれたが、そこで聞く軍歌や懐メロもまた、「気仙坂」と同じぐらいヤベー民謡として自分に響いたのは言うまでもない。
 
ここ数年、俺は足しげく泉州に通い、同地のダンスホール・レゲエやサウンドシステム、だんじりや泉州音頭といったローカルと深く結びついた音楽文化のあり方に深く感動してきた。深く感動しつつも、自分の田舎にその感動を重ねることが出来ずにいた。母の死によって、ようやく自分の生まれ故郷である岩手と向き合うときが来たんだろうか? グローバルなものに対峙するローカルへと興味を移して活動を続けてきた結果、その焦点はさらに小さくなり、パーソナルへと至ったと。いやいや、そう簡単に言うことはできないが、ただ思うのは「もっと知りたい」ということだ。それは知識欲とか「地元ディグ」とはまた違う、自分だけの音楽体験を求める旅みたいなものだ。いや、自分だけの民謡ダブプレートを探す旅だろうか?
 
いずれにせよ、今回の気仙坂体験は自分にとって「音楽を聴いてぶち上る」という意味をあらためて定義してくれた。今後の人生をかけてその感動を求めていきたい。引き続き岩手に通う日々は続くので、経過報告はこの連載上でさせてもらおうと思う。
 
 
※ラガすぎる ラガマフィンすぎるの意。ラガマフィンについては説明が難しいので、ここでは「気合いあふれる」ぐらい意味で読んでください。

俚謡山脈

日本民謡を愛するDJ2人組。日本各地の民謡を収集/リサーチし、DJプレイしたりCDやレコードの再発を手掛けている。主なリリースにMIXシリーズ「俚謡山脈 MIX VOL.1」~「VOL.4」、「田中重雄宮司/弓神楽」(監修/エムレコード)、「境石投げ踊り」(監修/エムレコード)など。ロンドンのインターネットラジオNTS LIVEに日本民謡だけで構成されたMIXを提供。農民ダイナマイト(山梨県)、大和町八幡神社大盆踊り会(東京)など各地のパーティーにDJで参加。 NHK FMで「DJ俚謡山脈の民謡をたずねて」が放送中。

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