妄想映画日記 その166

樋口泰人の「妄想映画日記」は11月後半の日記です。なんとか「爆音映画祭 in ユナイテッド・シネマ アクアシティお台場」の音調整に向かうも、抗がん剤の副作用で身動きが取れない日々は続きます。自宅ではようやくの『バービー』、そして『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』『アステロイド・シティ』など見逃していた映画を鑑賞。
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文・写真=樋口泰人



11月16日(木)
お台場爆音準備2日目。午前中から顔を出すはずが身体が動かず。結局13時到着、いきなりみなさんと昼食。食えないものは何となくわかるので食えそうなものを注文。もはや「うまいまずい」は関係ない。食えるか食えないか。食えるだけでありがたい。しょっぱくて辛いものは大抵大丈夫。明太子と辛子高菜が乗っかったペペロンチーノ。食後の珈琲は苦いだけだがそれでもほかのものより飲める。スタッフのみんなとあれこれ話し、『EO』と『ゴジラ-1.0』を確認。巨匠の晩年の作品が大好きなのだが、それはおそらく歳をとってそれまではそれなりの緊張感の中で作り上げてきた体力も衰えそのことにおそらく自身も気づくのだろうすべてを支えられるわけではないあらゆるものをコントロールできるわけではないその「不可能性」に身を任せる「ゆるさ」を獲得した状態で作られたものの「力のない力」の在り方とそれの映し出す風景が自分の進む道を指し示してくれると思えるからだと言えるだろうか。『EO』はまさにその境地に力強く踏み出している映画だった。あの映像の逆回転と音の狂乱、ロバが観て聴いた世界の姿と音が波打って押し寄せてくる。タイプは違うが湯浅湾の「ひげめばな」を思い出す。われわれは猫になりロバになって世界を観る聴くことがどんなに重要か再度思い知るべきである。

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EOイーオー(原題:IO)配給:ファインフィルムズ
© 2022 Skopia Film, Alien Films, Warmia-Masuria Film Fund/Centre for Education and Cultural Initiatives in Olsztyn, Podkarpackie Regional Film Fund, Strefa Kultury Wrocław, Polwell, Moderator Inwestycje, Veilo ALL RIGHTS RESERVED

『ゴジラ-1.0』はとにかくゴジラの破壊力がすごかった。もう、物語はいらない。ゴジラの破壊シーンだけで1本の映画を作ってほしいと言ってしまったら台無しか。ネット上の評判では前作のゴジラの方が狂暴という話だったように記憶しているが、わたしは今回のいきなり出現してバリバリ踏みつぶして何したいのかまったくわからないゴジラの方が狂暴に思えた。音のバランスがすごくよくてゴジラの突出した狂暴感を示すのではなく、世界のすべてが壊れ悲鳴を上げる、そこに生きる者たちや存在する者たちのそれぞれの存在を示すあらゆる音が聞こえてくるような感じ。ゴジラがいる世界の音と言ったらいいのか。その意味ではゴジラファンには少しインパクト不足となるのだろうか。だがとにかく爆音で聴く破壊される世界の音はとんでもなくすごかった。多分ほかの劇場ではこんな風に聞こえることはない。

 『ゴジラ-1.0』予告編

そんな音に心震わせながら中目黒に向かい河村康輔くんと中原支援グッズやboidグッズなどの打ち合わせ。これからが本番ということもできる中原の創作活動を末永く支えるためのいくつものアイデアを来年以降地道に現実化して展開していく。この2年間、わたしや河村くんの周りでも呆れるくらいの変化が起こったのだが、昨年は何人も亡くなったものの中原以降はわたしも含め生き残りぎりぎり持ちこたえている。そこが大切で、世界のギリギリ感とは別のわれわれのギリギリは新しい世界の根となり養分となるはずである。そんな心意気とともに生きる。河村くんは相変わらずのテンションで、わたしもまあそれに付き合えるくらいには体力が回復した。
 
 
 
11月17日(金)
降りしきる雨のせいか体が動かない。抗がん剤を飲むと薬が身体の中に浸透していくのが感じられ、ますます体は布団にへばりつく。ということですべての予定をキャンセルした。時々楽をしなくては。こういう時、一度楽をするとズルズルとその後も楽な方向に行くので自分に厳しくという考え方もあるのだが、今回は欲望に従った。本日は寝る。体の言うことを聞く。とはいえそんなことは知ったことではない猫さまたちが、おやつをくれろめしをくれろと、みゃーこら起こしに来るのだった。
夜は『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』。目くるめく展開に自分が今どこにいるのか何をしているのかよくわからなくなる。アニメという手法がどこかで意思を持ったかのように暴走している。『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』のAIの暴走とは違い、こちらは現実世界との共存もうまくいっているというかあらかじめ共存ありきでここまで暴走しているといったふうの画面の展開。『BLUE GIANT』では実写の上をアニメでトレースするロトスコープを駆使しつつ非現実の現実をその非現実と現実の間の揺れとして現実化していたが、こちらの揺れはその振幅の大きさによってそれを観る観客たちの足元を脅かしその隙間から次々に今ここではないさまざまな現実がわれわれの身体へと注入される。身体を大改造された気分である。そんなところにボビー・ブルー・ブランド「Ain‘t No Love In The Heart Of The City」が流れる。主人公が捕まって痛めつけられているシーンでなぜかレコードがかけられるのである。SHUREのカートリッジ、M44-7という文字も描画される。それ自体には意味はないが、同曲のビデオクリップを見ればこの映画の歴史的背景を伺うことができる。まだ何も終わってはいない変わってはいないとこのアニメの暴走が訴えかけてくる。

ボビー・ブルー・ブランド「Ain‘t No Love In The Heart Of The City」

 
 
11月18日(土)
日々ぐったりで朝ももう普通には起きられない感じなのだが、本日は久々に吉祥寺へ。来年から再来年へと続くプロジェクトの打ち合わせである。これが世に出るころは少しは体もましになっていることを祈るばかりである。帰りがけにディスクユニオンで何枚かの中古盤を仕入れるが、中古盤はともかく新盤のLP価格がどれも6,000円くらいになっていて簡単には手を出せない。残念ながらこのままではレコードの盛り上がりも一時的なもので終わってしまうのではないかと余計な心配をする。そして電車に乗ろうとしたら突然のめまい。余計な心配をする前に自分の心配をしないと生きていけないということでもある。あとはぐったり。
夜は少し回復したのでようやく『バービー』を観る。ああこういうことだったのかと納得。昨年だったかノア・バームバックが大規模予算を使ってのプライヴェート映画と言いたくなるような小さな家族の物語『ホワイト・ノイズ』を作ったが、パートナーのグレタはノアの力も得て自身の出自であるマンブルコア映画を大規模予算で作ったのだとも言いたくなる。ああでもこれはグレタ・ガーウィグによる『ベルリン・天使の詩』のようなものか。天使を人形に変えて、現在の世界状況をそこに注入すれば、おおよそ似たような構造の映画が出来上がる。人間世界に出たバービーが街をめぐりながらそこに生きる人々の声を聴くというシチュエーションも同じである。お散歩映画。冒頭の『2001年宇宙の旅』からの引用シーンは賛否両論みたいだが、その最後あたりで人形を使っていろんなものを叩き壊すシーンの画面の右端で人形を遣わず椅子を気持ちよさそうに蹴飛ばす少女のパンクな態度を観たら「よしっ」て声を上げざるを得ないだろう。もちろんこの映画はそういった破壊衝動に裏付けられているのではなく、目の前に当たり前のようにしつらえられた椅子という存在に対する疑問をそれぞれが抱え自ら思考するに至るという足を振り上げてから椅子を蹴飛ばすまでの小さな出来事をできる限り細かくどうでもいいことも含めて描くわけである。『2001年宇宙の旅』のスローモーションの意味を2023年の今ようやく我々は目にしたということになるだろうか。作家志望のジョーが自身の足で歩き始めるまでを描く『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』とは別のやり方で、バービーが人間になるまでのほんの些細でばかばかしく誰の役にも立たないかもしれないしかしかけがえのない出来事が薄められたばか騒ぎと共にここでは描かれているのである。
 
『バービー』予告編
 
『20センチュリー・ウーマン』の中でグレタ・ガーウィグは主人公の少年にスーサイドの「シェリー」が入ったカセットテープをプレゼントしたが、わたしは今回のグレタにTV Personalitiesの「Part Time Punks」をプレゼントしたいと思う。でもまあ、「気持ちはわかりますがそれもまた男の人の勝手な思い入れでは?」と、丁寧にお断りされるに違いない。
 
TV Personalitiesの「Part Time Punks」
 
 
 
11月19日(日)
副作用がいよいよきつく、身動き取れず。一歩も外に出なかった。
夜はウェス・アンダーソン『アステロイド・シティ』。これもまた『バービー』と同じく周囲の世界とは隔絶されたどこにもない架空の町が舞台である。ハリウッドそのもの、もうちょっと広げればアメリカそのものが舞台とも言えるわけでそのあたりも『バービー』と同じ。この何もない場所に作られた町の張りぼて感は現代映画の最も恐れる非現実感と言ってもいい。この空虚と非現実な夢の結晶が示すわれわれの生きる世界の姿は誰もが観たいものではないだろう。いったいなぜこの映画も『バービー』もそんな空虚と夢の結晶を映そうとするのか?
この映画の最後近くに挿入された演劇の場面で舞台上の俳優たちにリフレインされる「目覚めたければ眠れ」というセリフがすべてを語っているように思えた。数えきれないフィクションに分厚くコーティングされたわれわれが生きるこの現実の中で眠ることによって目覚める。眠りと覚醒の中間を生きると言ったらいいか。映画を観るという行為自体がそのようなものだとも言える。『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』や『バービー』にも確実に流れているのもその眠りへの誘いであるだろう。今ここで映画がやるべきことに対する態度表明と言ったらいいか。さらにその時間の在り方を広げるなら、ラース・フォン・トリアーの『キングダム エクソダス<脱出>』のだらしなく垂れ流される無駄な時間もまたそんな眠りのために必要な惰眠の時間と言えないだろうか。テレビだけに許されるそのだらだらとした時間の中でわれわれの意識が淀み停滞し次第に深い眠りに落ちていく。気づくとその混濁した意識の中に強烈な現実が紛れ込んでいる。その無意識の体験がわれわれの足取りを決める。『アステロイド・シティ』がはっきりと宣言する映画の態度表明は、2023年という何の区切りにもならない中途半端な年のしかしそれゆえにもはやだれにも止められない現実の決定的な進行が誰の目にもあからさまになってしまった年の小さな希望の光のようなものとしてあるのではないか。同じ希望を世界の映画人たちが共有している、その幽かな連帯を見つめていけたらと思う。
 
『アステロイド・シティ』予告編
 
 
 
11月20日(月)
寝坊した。投薬が始まると8時間おきに1日3回飲まねばならないので起きる時間も必然的に決まってくるのだが1時間30分の寝過ごし。第3クールは緊張感がまったく欠如している。とはいえ副作用は予想外にきつく最後までいけるかどうか不安はいっぱいである。胃の調子とそれに伴う味覚がもうまったくダメ。第2クールを切り抜けた果物や刺身や湯豆腐ももはや微妙となりいつどうなるかわからない。当然気持ちも沈む。ネガティヴな思いが膨らみ体も動かず寝坊もするというわけである。しかも月曜日はいろんな連絡が入る。それぞれ小さなことでどうしてこんなこともできないのかと思われるかもしれないが、小さなことも各所から押し寄せると今のわたしの状況ではすべてがプレッシャーになってしまうのである。いろんなことがやり切れていない。夕方はぐったりしていた。
夜はデヴィッド・フィンチャーの『ザ・キラー』。劇場での上映はほとんどしていないのかな。ネットフリックスの独占配信である。病人にとっては独占であろうとなかろうと、リアルタイムで観られるのはありがたいことこの上なし。通常のすべての映画の公開も、配信も含めた形での新たな方法を探っていくことはできないだろうか。一時的には映画館への動員は落ちるかもしれないが、将来的には絶対に客足は戻る。映画を観るという習慣が広がるしそして簡単には映画館に行けない人たちの喜びが増える。何かするなら今である。それはそれ、フィンチャーの映画を家で観るならとにかくヘッドホンをつけて観るしかない。音の細部の作りこみがすごすぎる。アメリカ映画のアクションシーンの音がこんな感じで語られる映画を他に思い浮かべることができない。デヴィッド・ロウリーが別のやり方ですごいことをやってはいたが。3分の1くらいのセリフが主人公のナレーションという「孤独のグルメ」みたいな作りに笑ってしまったが、松重豊さんが主人公でこんな映画を作ることはできないだろうか。ということで終了後、ネットフリックスに転がっていて「孤独のグルメ」の何話かを続けて観てしまった。こうやって夜更かしそして寝坊というサイクルが出来上がっていく。
 
『ザ・キラー』予告編 
 


11月21日(火)
副作用はさらにつらくなる。食べられないものだらけで食欲はマイナス。じわじわとメンタルをやられ、ろくなことを考えない。何もできなくなる。
 
 
 
11月22日(水)
薬を飲むために何とか起き上がるもののそれ以外はぐったりと横になる。午後からのオンライン・ミーティングは何とか起き上がったがそれ以外は寝ていた。あまりに気持ちがネガティヴになりおかしなことも考えたが、全然思い出せない。
 
 
 
11月23日(木)
昨日と同様、起き上がれず。吐き気がひどい。抗がん剤治療を途中でやめる人の気持ちがよくわかる。何を食べてもまずいという事実が日々少しずつ心にたまり、ある日崩壊する。この治療が終わったら、という小さな希望もぼんやりした吐き気のしかし絶対に収まりそうにないその重さに耐えきれずしぼむ。本来ならおいしく食べられるはずだという記憶が絶望となって胸を引き裂く。みんなこうやってじわじわとメンタルをやられたのだ。こんなことなら、ということで10年ぶりくらいでケンタッキー・フライドチキンを食べてみた。あの塩辛いチキンの味がまったく感じられない。ブルース・ビックフォードはフルーツだけで生きていたがもはやそうなるしかないのか。
午後も寝込み夕方目が覚めるとパウチの接合部がはがれて排泄物が漏れ出していた。付け替えの時の貼り付け方が雑だったのだろう。とにかく大ごとである。泣きそうになりながら汚れをふき取り、服も着替え、パウチの付け替えもしてとりあえず何とか後始末はしたもののぐったりと滅入るばかり。この状況を世界中の人々に味わってほしいといったい誰に対してなのかまったくわからないのだがとにかく天に向かって訴える。
その後2年前の日記を整理した。そのころ聴いていたレコードを引っ張り出して聴く。今ここだけに凝縮されてうつむくしかなかった時間がようやく少し広がり始めた。
 
 
 
11月24日(金)
しかしこの吐き気と口の中の酸っぱさと苦さを追い出す手立てはないのか。つらさ鬱が怒りに転嫁してきて少しは元気になったかと思うもののだからと言って吐き気やまずさが治まったわけではない。より過激に体を追い詰めてくる。これは耐えられない。とにかく何喰ってもまずい。その上に本日もまたパウチが決壊した。ただ昼寝中だった昨日と違って本日は起きていたのでぎりぎり大ごとにならずに済んだ。寒くなって通常なら体温で柔らかくなり皮膚に貼りつくはずのパウチの貼り付け面が冷えて固まり、貼りつきにくくなっているのだろう。貼り付ける前にパウチを温めておかねば。と前向きなことを思えるのは事が済んだからで真っ最中はもう「マーシー・マーシー・ミー」とマーヴィン・ゲイではないが神に訴えるばかりであった。
 
マーヴィン・ゲイ「マーシー・マーシー・ミー」

 
 
11月25日(土)
とにかくあまりに何を食べてもダメで食べられるものがなくなってしまったため、少しでも食べやすいものをと近所のスーパーに買い出しに行った。今回は納豆なら何とか食えるので納豆と一緒に食えるアボカドや山芋のほか、甘い飲みものなら大丈夫なのでココアの素、それからレモンスカッシュの素、これは炭酸で割って酸っぱさと甘さと炭酸の刺激で口の中の不味さを撃退しようという試み。こういったサッパリを求めての「酸」の多飲は余計に胃を痛める、ということを後に知ることになるのだが。あとは何も食えなくなったときのためのエネルギーバーやビスケットなど。第2クールのときは刺身をはじめ魚に目移りしていたのだが今回はまったくダメ。見ただけでも吐きそうになる。あとは朝食のときのミルクティーがマジでまずさ全開でとはいえ寒くなってきたので温かいものをと、もちろんスープ類は一切ダメだから簡易ドリップ式の珈琲を。珈琲はまともに淹れたやつしか飲んでこなかったのだがいずれにしても味がわからずただ苦いだけなのだからもうそんなことは言っていられない。珈琲の苦さが口の中の不味さを消してくれる、ただそれだけ。偏食者の巣ごもりみたいな買い物をした。うまいまずいではなく食えるか食えないかという生存をかけての買い物である。
夜は観逃していたポール・シュレイダーの『カード・カウンター』。いきなりの太いギターの音で度肝を抜かれる。ブラック・レベル・モーターサイクル・クラブのロバート・レヴォン・ビーンが音楽をやっているのだった。いつか爆音でやりたい。しかしこの暗く重い闇の塊のような映画を撮り続けるポール・シュレイダーの抱える闇の果てしなさには新作を見るたびに呆然とする。ただその中でこの映画が示す「人生」という枠組みの強さにはちょっと憧れたりもする。スクリーンという枠の中にきっちり納まる人生。にもかかわらずその枠の中から次々に黒く重い塊が湧き出してくるのだ。恋愛は難しい。
 
『カード・カウンター』予告編 
 
 

11月26日(日)
肉まんがおいしく食えるので助かった。まさかと思ったのだが念のために試してみたのだった。今度大阪に行ったときには551はマストで買ってこなくては。あとは鶏鍋は相変わらず何とかなる。何とかなるものだから食いすぎた。自分が考えている以上にわたしは生存本能が強いのかもしれない。食べられるときにはとにかく食べる。ネット上ではさまざまなイヴェントやら特集上映やら映画祭やら、元気なら自分もかかわっていたはずのいくつもの催しが行われていてうらやましい限りだが、それを横目にこちらは生き残るのに必死である。これまでとは別のやり方で世界にかかわっていく。
終日寒さに耐えながら(どうやら寒さが堪えるのも抗がん剤の影響らしい)、2年前の日記の整理をした。すでにその頃は体内ではがんが進行し始めていたということになるのだが、日々のあまりの体調の悪さに呆れた。今とあまり変わらない。傍目には元気に働いているように見える分、仕事をしなくてはならず気持ちも焦りっぱなしである。きっぱりとした決断を示すときが来ている。
 
 
 
11月27日(月)
朝から焦りっぱなしである。イラつき通し。副作用の大変さはいろんなことに影響する。午後からひとつ約束を入れただけなのに、その時間が気になって仕方ない。boid事務所があまりに倉庫化してしまったために引っ越しを考えていて不動産屋に相談する約束だったのだがわかってはいたもののやはり引っ越しは金がかかる。引っ越しの運送費も含めて総額100万くらい。希望があっての引っ越しならいいのだが、この寒さから逃げたいいろんなものと縁を切りたいというネガティヴな思いによるもの。なにかもうひとつ元気の出るきっかけが欲しい。いったん考えさせてくれということで不動産屋を出て10日ぶりくらいに事務所に行くとあまりに事務所が荒れ果てているので気合が入る。これはここを片付けないとダメだ。ここをまず整理できないようでは引っ越したところで同じこと。とりあえずちょっとだけ片付けをしてみるが慰めにもならず気持ちは焦るばかり。抗がん剤服用期間中は何もせずゆったりというはずだったのが、体調悪化と並行してのこの焦りの感覚はいったい何なのか。体がうまく動かないその遅くなるばかりの体感時間と世間の実時間とのズレということなのか。深夜、世間と関係を絶ったときだけようやく自分の時間を取り戻すことができる。
 
 
 
11月28日(火)
眼科に行った。目の調子が悪く検査をしてもらったのだが、なんと白内障が進んでいるとのこと。手術をしないとダメなんだそうだ。身体全体が劣化中ということか。とりあえずこれ以上白内障が進まないようにする目薬を処方され帰宅したのだが、帰宅して以降なんだか目の調子が良くなった気がするのはどういうことなのか。そして整理中の2021年の日記の中にやはり眼科に行った日のことが出てきて、右目がどんなに矯正しても0.7以上にはならないという状況はまったく同じで、だが白内障の症状はまったくないとも言われている。症状は同じだが病気だけは進んだということなのか。これもまた抗がん剤の副作用というようなこともあるのだろうか。とりあえず手術を急ぐ必要はない。
そんなところに来年からのウェブマガジン有料化に向けての補助金不採択の通知。ああ、いやな予感はしていた。確証はまったくないのだがぼんやりとした不安が沸き上がってくるときは大抵ダメなのだ。致し方なし。それより先日申し込んだそれなりの金額の助成金の方が心配になる。こちらも最初からいい予感はしていない。すでにその助成金は予算の中に織り込み済みなのでなかなかしびれる話ではある。
 
 
 
11月29日(水)
抗がん剤服用第3クールも1週間を切った。胃も口の中もボロボロだが、終わりが見えてきたためか気持ちは前向きになり、その勢いで各所に連絡、人にも会った。案外声も出ていてみんなから元気な声をしていると言われたのだが、夜になってみるとすっかり疲れ果てていてこれまで大丈夫だったというか唯一これで生き延びてきた鳥鍋の味が微妙になっていた。食べたあとからもやもやした不味い空気が吐き気を伴って口の中に湧き出てくる。一気に視界が曇る。
 
 
 
11月30日(木)
フルーツ以外食うものがない。万策尽きた感じ。あと5日間だからフルーツのみでもなんとかなるか。昼食に妻がおいしそうな焼売を購入してきて昨夜の鳥鍋のスープで雑炊を作ったのだがどちらもアウト。悲しいがとにかく無理やり口の中に突っ込む。吐き気は盛り上がり続けるものの吐くわけではないからまだその先には行けるはずだ。夜はいろいろあきらめてネット上の音楽の旅。最終的に行きついたのがサハラ砂漠のバンド、ティナリウェン。何年か前によく聴いていたのだが、12月6日に渋谷のクアトロでライヴがあるとの情報をみつける。第3クール終了記念に行けるかもしれないと少しだけ盛り上がる。
 
Tinariwen “Live at Womad” 

樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。