吐き気はさらにひどくしかし抗がん剤服用第1クールほどの脱力感はないので体は何となく動く。所用で出かけた吉祥寺にて見つけたスコット・ウォーカーの最後のサントラ『The Childhood Of A Leader(邦題「シークレット・オブ・モンスター」)』。まさか出ているとは知らず映画を観てから何年も過ぎてしまったがやはりあまりにすごい。これはやばすぎる。あの映画も相当なものだったのだがとにかくエンドクレジットの冒頭にいきなり「音楽 スコット・ウォーカー」と出るという映画史上かつてない事態になっていて、でもまあそれくらいの音楽だよなと思ってはいたのだが、こうやって音楽だけで聴いてみるとさらにそのすごさがわかる。というかこんな音楽作られたら監督はたまったものじゃない。映画をぶち壊し台無しにしながらしかしそれでも映画音楽として燦然と輝く。この音楽に対応できる映画監督が果たして何人いるだろうか。いや、対応する必要もないと言ってしまえばそれまでなのだが、ここまでのものを作られてしまったら何とか対応したくなるじゃないかとも言える。たとえば『アネット』の音楽がこれだったとしたら、『宇宙戦争』の音楽がこれだったとしたら、『山椒大夫』の音楽がこれだったとしたらと妄想が広がる。いつか無声映画にこのサントラをあてて上映してみる、という実験をしてみたくなるが果たしてどうだろうか。映画はそれを必要としているのかどうかもわからないが、それくらい乱暴なことをしようと思わせるアルバムであった。いずれにしてもこれのおかげで吐き気満載の1日を乗り切ることができた。しかしあと3週間、この吐き気を耐えきる自信はない。
本日はスーサイド『A WAY OF LIFE RARITIES』。80年代後半のライヴ盤である。4曲入りで5,000円と高くて愕然としたが、まあこういうのは買っておかないと。ちょうど初来日したころの録音。今こうやって聴くとマーティン・レヴの地味だがラディカルな狂い方に圧倒される。ああこれはこの歳にならないとわからないと言い訳を。70年代末にファースト・アルバムの衝撃的な音をリアルタイムで聴いてしまった10年後の耳にはこの音は単なる腑抜けにしか聞こえなかったのだ。日本公演のチケットを2夜連続で買ったわたしの友人は2夜目は確か行くのを止めていた。わたしは70年代に行きたかったという思いが強すぎ残念な思いをするのが嫌で行かなかった。まあ、全然金がなかったのもあったのだけど。ああ若気の至り。残念な思いをしてでも行っておくべきだった。70年代のひりひりした繊細さとは比べ物にならない太くまろやかでしかし激しくうねる音。呆れるような単純さが重なり合って誰にもまねできない複雑な空間を作り上げる。ジョン・カーペンターで言えば『マウス・オブ・マッドネス』のような感じか。スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・USA」がこんなことになっているとは。スプリングスティーンがスーサイドをカヴァーした「ドリーム・ベイビー・ドリーム」は彼らへのリスペクト全開でしかもスプリングスティーンしかできないまっすぐかつ豊かなカヴァーで最高だったのだがこちらはその歌のふくらみを台無しにしてしかしそれゆえにその可能性を広げるという離れ業。スカスカで狂っていてそれゆえ視界は果てしなく広がる。このままどこまででも行ける。そして『20センチュリー・ウーマン』の中でグレタ・ガーウィグが主人公の少年に「10代の頃にこんな曲を聴きたかった」と渡したカセットテープに入っていた「CHEREE」もこのアルバムに収録されているライヴヴァージョンでは同様の台無し感と果てしない広がりで圧倒する。このアレンジをあの映画のグレタ・ガーウィグが聞いたら一体どう思うだろう。そんな妄想をするだけでドキドキしたまま1日が終わる。しかしなんと『バービー』をまだ観ることができていないのだった。
夕方早くに帰宅。やはり元気は束の間で倒れるように横になり爆睡。その間にいろんな知らせが届いていた。夜は昨日の流れでロレイン・エリスンの69年のアルバム『Stay With Me』を引っ張り出してみた。プロデュースは同じくジェリー・ラゴヴォイ。ある音楽形式の範囲内にとどまりつつその外部との交信に身を震わせているとでも言いたくなるような緊張感とそれゆえのかすかな狂気とともにコントロール不能な場所へと向かっていく前作に比べ、こちらはすでに様々な形式が混合して温かく溶け合いその融合をアルバム全体が祝福しているような満開感。ジャニスがカヴァーした「トライ(ジャスト・ア・リトル・ビット・ハーダー)」の、ある遅さをキープし続ける無時間感にドキドキする。時に歌い上げもするロレイン・エリスンの、オリヴィエ・アサイヤスの『アクトレス~彼女たちの舞台~(原題「Sils Maria」)』の中に出てくる山間を這う雲のように緩やかに変容し続ける歌声が皮膚に触れるその肌触りがやばすぎる。中学1年の時にジャニス・ジョプリンに触れたおかげである日ロレイン・エリスンを知りその後多くの時間が過ぎてようやくその核心にたどり着いたと言ったらロマンティックすぎるが、要するに時間は過ぎ去ったりしないということである。いつも身近にあってそれを忘れていてもあるとき事故のように出会う。その出会いが現在を作るのだ。そういえば彼女のワーナー時代のシングルやデモ録音も含めて集めた3枚組CDセット(ライノによるリリース)があって、それもどこにやってしまったのか、見つけ出さねば。