映画音楽急性増悪 第48回

虹釜太郎さんによる連載「映画音楽急性増悪」第48回です。今夏に新作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』が公開されたデヴィッド・クローネンバーグ監督作品より『ステレオ/均衡の遺失』から『デッドゾーン』以前の初期作品について書かれています。

第48回 異食

 

文=虹釜太郎



小学生の時に同級生で土を食べる人がいた。彼は何度も何度も土を食べた。それを何度も目撃し驚いたわたしは他にもいろいろ食べれるの?ときいたら、彼はうんと答えた。また同じく小学生の時に席の隣の女の子が鼻クソを食べるのを目撃した。彼女は何度も繰り返しそれを食べた。わたしはあまりの驚きで硬直していたが彼女は静かにしかししっかりと食べ続けた。この二つの「食」の目撃はその後のわたしの「カレー野獣館」群や「たぬき汁の作り方」群への原資になったかもだけれど、人間は食べもの以外を実際にいろいろに食べるのだということを小学生低学年の時に体験できたのはよかった。異食とは食べもの以外のものを食べてしまうこと。
 
『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(原題『Crimes of The Future』(デヴィッド・クローネンバーグ/2022年)では冒頭にプラスチックごみ箱を食べる少年が出てくるが、その少年のプラスチック食べはじめから、少年が殺される直前からの音楽の入り方はよかった。この音楽は仮に「ほとんど可能性はないがしかし」な音楽として無理やり認識しているけれど、この音楽は劇中に何度もかかる。
「怪物」の関節を映画の俳優が映画の中でいじることや「怪物」のスケッチ画を映画の登場人物三人が眺める(そして避ける)などの映画の製作スタッフのやることを映画の中で俳優が行うみたいな試みがよかったが、耳男の登場とダンスでかなりいろいろ諦めたりした人も多いかもしれない。その後の人間たちの自由な変形たち(レア・セドゥの額に生えた瘤を含む)の登場はこの映画を撮るきっかけについても考えさせるがしかし耳を多重装着して踊る人間以外の、ソウル・テンサーに「集わない」新人類たちをいろいろ見たかった。Orchidbedのようなオブジェたちが次々に登場してうれしかった人もいるかもだけれど、わたしにはそれらも耳男も驚きはなく。彼らもプラスチックを食べる少年も一人ずつで映される。また手術「ショー」での臓器へのタトゥーに大きな意味を感じ直す人もいるけれど、改めて観返しても冒頭のプラスチックを食べる少年の描写に比べると手術「ショー」での臓器へのタトゥーは正直なところとってつけた感が強かった。
痛みの感覚が消えた人類たちに対してつけられる音楽は工夫がみられたが、傷みが消えることの衝撃は音、映像、美術ともにもっとつきつめてほしかった。でもクローネンバーグにはそれらよりもプラスチックを食べること自体への関心が強いような。
加速進化症候群については、その芽みたいなことについては現在でもよくあることで例えば爪の異常な生え方ひとつとっても「病人」でないとされている人でもなんらかの形で毎日それらの「芽」を体感している人も多いのかもしれない。しかし加速進化症候群も新臓器へのタトゥーも映画には出てくるけど衝撃はまったく無い。
加速進化症候群まわりの描写より、「怪物」周りの描写が音も含めて強く。そしてずっと続く苦しい呼吸音まわりと眠れなさ。
痛みの感覚が消えたことのさまざまな「副作用」から派生する描写たちをもっと観たかったと。
オルランのカーナルアートと本作を比較する人もいる。本作は身体改変というよりは外見でわかるそれよりもプラスチック消化などの身体内部の変換についての。
カプリースが指にはめる道具たちや手術リモコンなどの部具たちの描写に必要以上にこだわるより、傷みの感覚の消失と復活について…
元々の『PAINKILLERS』として90年代に公開されていたなら、警官の出遭いやパフォーマンスを描いた別のどんなかたちを見せていただろうか。そして痛みが消えただけでなく快楽が鈍化したことによる影響が彼らの日常生活のさまざまな部分にまで及んでいることももっと表現してほしかった。異様な肉体改造だらけになること以外の。また臓器登録所での描写はもっと長く見たかった。ここでなぜか思い出したのは『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の階段ショットだけれどそれはともかく。
ソウル・テンサーにやたらに集う人間たちを見ていて(撮影場所がギリシャだからか、または新人類たちの特徴なのか彼らはおとなし過ぎる…)、快楽がいくら鈍化したところで人類はまったく変わってないなという失望もあったけれど。ただ食事さえも快楽ではなくなっている世界は十分に描かれていた。そこでは共食自体も減っていくだろうし。プラスチック食への偏執。プラスチックを食べることについてのこだわり、それも一人で食すことが強く残る。さらに観直すと、プラスチックを食べる少年を殺した母親の殺すまでの描かれなかった苦労、プラスチックを食べるのが歯ブラシの後なこと、ソウル・テンサーの寝ることの困難さと食べることの困難さ、しかしその困難さを複雑化するカプリースとの共同作業、そのカプリースの孤食とソウル・テンサーのかなりの難度を伴う孤食とチョコレートバー食の食の貧弱化/現実化、臓器登録所の異常さ、「BODY IS REALITY」ショー/耳男ショーに惹かれ続ける人々のあまりの貧弱さとそのショーで生き延びることの未来の無さたちがさらに気になった。しかし臓器登録所で起きていることの異常さについてはさらに違う一本が撮れそうだった。手の排除/避け方など。ティムリン(クリステン・スチュワート)だけが映画が成立しなくなる場所をわかっていて… あとはカプリース(レア・セドゥ)の意識しての笑いと無意識の笑いも。
あとは「関節研」(裏方)の無駄な陽気さ(女たちの)と電線の溢れ方はもうひとつのクローネンバーグ・ドキュメンタリーだった。SARK関節研アフターケアの女たちが奇妙に持続して楽しそうなのは痛覚が除去されたからか、表に出てきた裏方だからか、それとも… カプリースが二人の女性たちと笑う、三人の女性が笑う。そして傷ついた裸体をさらしながら微かに微笑む直前のカプリースとぎりぎりで手を避けるティムリン。ソウル・テンサーは咳の音に蒸されているけれど、『ビデオドローム』にも見られた瘡蓋剥がし的な無意識は関節研の彼女たちによって高らかに笑われ続けて。
 
デヴィッド・クローネンバーグについては、『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(2022年)の日本公開にあわせて、『デヴィッド・クローネンバーグ 進化と倒錯のメタフィジックス』が刊行され、内容は、
「『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』Cross Review 
グロテスクかつ官能的な進化 
「創造的な癌」が導き出すレゾンデートル 
Interview デヴィッド・クローネンバーグ「我々はまだ、人間の身体を理解していない」
設定資料Interview ハワード・ショア(作曲家)「デヴィッドとのコラボレーションは私の映画の仕事全てのバックボーンになっている」
アレクサンドラ・アンガー&モニカ・ペイヴズ 鍵を握る特殊メイクアップ・アーティスト 
Biography 
ボディ・ホラーの五十年 
Filmography 
クローネンバーグの出発『Transfer』『From the Drain』 
プロトタイプとなる初期長編たち 
医学的かつ現代的で身体に焦点を当てたもの『シーバース/人喰い生物の島』 
たしかなインパクトを残した日本初上陸作『ラビッド』 
「本物のB級映画」に徹したキャリアの特異点『ファイヤーボール』 
離婚経験から生まれた怒りの怪物『ザ・ブルード怒りのメタファー』 
偶像破壊としての頭部破壊──人間の頭をぐちゃぐちゃにすることはなぜかくも気持ち良いのか?『スキャナーズ』 
マクルーハンの見た悪夢『ビデオドローム』 
「スティーヴン・キング原作映画」選手権の上位にランクし続ける傑作メロドラマ『デッドゾーン』 
『ザ・フライ』が描いた本当の恐怖とは 
「現実」に対する挑戦としての『戦慄の絆』 
「作家であることを証明せよ」―バロウズへの憧憬と反撥『裸のランチ』 
幻想を愛する『エム・バタフライ』 
工業時代のポルノグラフィ、としての『クラッシュ』 
現実と虚構のあわいを漂うゲーム世界『イグジステンズ』 
混乱する意識のなかで垣間見る母の影『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』 
多重に描かれる愛と暴力 『ヒストリー・オブ・バイオレンス』 二つの生を生きる男の哀切な物語『イースタン・プロミス』 
手堅い歴史描写に潜ませた真にスキャンダラスな要素とは『危険なメソッド』 
現代アメリカ文学の最高峰、その「ほぼ」忠実な映画化『コズモポリス』 
ロサンゼルスに幻惑されて『マップ・トゥ・ザ・スターズ』 
COLUMN 
変異する音楽―クローネンバーグとハワード・ショア 
デザインが形作るクローネンバーグ映画の世界 
日の目を見ないままに終わった企画の数々 
ボディ・ホラーの現在地からクローネンバーグを探求する」で、
(特にてらさわホークによる「日の目を見ないままに終わった企画の数々」はおもしろいが、「アレクサンドラ・アンガー&モニカ・ペイヴズ 鍵を握る特殊メイクアップ・アーティスト」はかなり物足りない)、読む前にはもう新たにクローネンバーグについて日本語で書くことはないように思えるけれど実際に読んでみると、まだまだクローネンバーグについては多くの人たちにさまざまに語ってもらいたい。
今回は『デッドゾーン』(原題『The Dead Zone』/1983年)以前の初期作品について。
 
 
『ステレオ/均衡の遺失』(原題『Stereo』/デヴィッド・クローネンバーグ/1969年)
言語を使わずに抽象的思考はできるか。
劇中は無音。ひたすらモノローグのみが響く。テレパシー能力研究被験者たちの実験。その犠牲とは。異性愛者とそうでない者の違いとは。
本作以前のクローネンバーグ作品は、1966年の『Transfer』、1967年の『From the Drain』がある。
2022年版の『クライム・オブ・ザ・フューチャー』を観た後に、本作を観ると、人体解剖模型にからむ男と裸の女のシーンに、2022年版のそれのはるかな原型があるような。
能力者たちの課題はいかにして相手の力を見極めて流入してくるテレパスをいかに制御するかで、それが出来ない能力者はコミュニティにはいられない。1969年でなく、いま観るならネット社会での相手の力を見極めて流入してくるものをいかに制御するかの必要性や、SNSでの仕様変更、検索範囲の問題になるけれど、それらがない時代に作られた映画。言語を介さない能力者たちはオムニセクシャルに。いま作り直すならアセクシャル、パンセクシャル、アブロセクシャルの問題をどう扱うか。
本作の出演者たちに演技力はない。ルーサー・ストリングフェロー博士の実験報告のモノローグ。実験が能力を生む。でもその先の拡がりはない。
 
 
『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』(原題『Crimes of The Future』デヴィッド・クローネンバーグ/1970年)
原題が同じ映画『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(2020年)とは関係がない。
皮膚病研から発生した謎の感染症ルージュ病。
1 ジーゴジーゴ、燃える音
2 鳥、蛙の鳴く音
3 鳥の鳴き声、引き摺るような音
4 鳥の鳴く音
5 蠅の音、羽ばたき音
6 泣き声、うめく音
7 引き摺るような音
8 風の音、風が環境音を吸収しているような音
9 箱を引き摺る音
10 鳥の鳴く声
11 水の音、皮膜に水がひたすら浸水するかのような音、水をはじく素材と水との接触音のような音
12 蛙の鳴く声のような音
13 引き摺るような音
が音とは関係ない映像たちにつけられていく。
鳥かと思える音もさまざまな種類のが。
皮膚科病院の臨時の院長によるナレーションと効果音のみでの構成。環境音無し。
新しい臓器とか『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(2020年)の原型がここにも。 
『ステレオ/均衡の遺失』と同じく大学構内での撮影。
人類が生き延びるためには薬物強化された少女たちと… しかしそれはできない。
水の音、皮膜に水がひたすら浸水するかのような音、水をはじく素材と水との接触音のような音の連鎖の時に患者の顔は閉じられ、他生物の鳴く音が実験の進行を促すかのようにまた鳴り続け、引き摺る音が成人女性がいない世界で鳴る。
人間の性的区別の境界を無しにしようとする動きは映画でもなかなか描かれない。リメイクというより発展的改作は今後あるのか。つまらない作品だとまったく問題にしない人もいる。
蛙の残響音がこれだけ不気味に鳴り消えを連続する映画は体験したことがない。
皮膜に水がひたすら浸水するかのような音、水をはじく素材と水との接触音のような音は繰り返し鳴る。
 
 
『シーバース/人喰い生物の島』(原題『Shivers』デヴィッド・クローネンバーグ/1975年)
本作はゾンビ映画ではない。
けれど1975年以降さまざまに作られ続けたゾンビ映画を観た後で本作を観直せばそれはそれはおそろしい、というかゾンビ映画では不可能なことをいくつも達成していることがわかる。それは後の時代だから言えることであるけれど、本作が作られて50年になろうとしている現在、本作はより輝きを増しているようだ。
ゾンビと違って感染が個体ごとに違う、感染後の人体は人の理性を極端に失わせ、性欲もどうしようもなく強化する、そしてもうひとつがもっともおそろしいのだが感染後また一定時間たつと元の人間に戻ったようになる。この三つめがゾンビ映画では決して達成できない点で、ラストに感染者たちがペアでトリオで街に車で次々に解き放たれていくラストはその特色ゆえに。また第二の特徴である理性の失わせと性欲の強化も、ラストでプールにふわふわと泳ぐ二人の女性の泳ぎの姿、獲物を狙う不気味な物体と化したかのようなふらふらとした泳ぎは何度観直してもおそろしく。そしてプールで医師に無理やりキスする看護婦のシーンにかかる音楽のしぶきもすばらしく。ただ映画はそこで終わるのかと思えば終わらず、その後の感染者たちの車での街への解き放ちがある。
本作の前後に作られたクローネンバーグ作品には以下のものがある。
1972年に『Secret Weapons』、本作製作後の1976年に『The Lie Chair』、『The Victim』、『The Italian Machine』。
本作はまたキャラクターごとに観てもおもしろい。医師の視点、ニコラスの視点、歩行困難な老婆の視点、寄生虫の視点、看護婦の視点などいろいろあるが、ニコラスの妻の視点から観直すと多くの困難が。
人間の使えなくなった臓器の代わりに機能するはずだった寄生虫。しかし寄生虫は性欲をあまりにも強化する。
ロナルド・ムロジックの鬼面演技が意味をまったくなさないほど他の登場人物たちの存在について短いながらも時間が割かれている。
観直してもラストのプールでの二人の女性のふわふわ感はその瞬間は実におそろしく、ホラーとかゾンビとかなどとはまったく関係ない自由に満ちている。
『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(2022年)までのクローネンバーグ作品の中でも本作はわたしにとってはもっとも好きなものであるけれど、それはラストの感染者たちの車での街への解き放ちの描き方があまりにテキトーで、かつその後の想像が楽しいから。テキットーに解き放たれる車たちは何度観てもいい。
 
 
『ラビッド』(原題『Rabid』デヴィッド・クローネンバーグ/1977年)
刺激惹起性多能性獲得細胞が吸血鬼に…?
バイク事故で入院していて目覚めなかった女性が目覚めた時、医師を捕まえて激しく抱きしめ出血させた後に抱きしめて安心して額を撫でているのが映画での最初の恐怖。 
最初、医師ケロイドの眉毛のあまりの太さと顔面包帯男の顔面包みの両方のあまりの濃さ故に恐怖音楽がいかにかかろうとも集中できなかったのだがここでやっと。
抱きしめただけでなぜ出血するのかだけれど、バイク事故に遭遇した女性が皮膚移植手術を受けてたことで脇の下に棘が生えてしまっているから。皮膚移植だけでなぜ突起物が生えて、そしてなぜそれが感染するかはわからないが。本作の音楽はあまりにわかりやすい恐怖音楽なのが残念な。1970年版『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』みたいな音設計がもう難しいのはわかるけれど。水中での二人の女性での感染=襲撃シーンも『シーバース/人喰い生物の島』でのプールのような衝撃はない。
けれど代わりにというか車の衝突シーンが激しい。
アニメ放送ポテトメンの挿入。他にも劇中で流れる牧歌的音楽と恐怖シーンの対比が何度も試みられるがそれはそれほど効果的でないが、脇の下の棘の潜む割れ目は衝撃。でもそこで医師ケロイドを襲うシーンでのあまりに強い音楽は逆効果と本作では音楽設計が安定しない。
感染後の人間の攻撃性がかなり強いが、安定期もあるところがゾンビとは違う。その安定期をどう劇中で描けるかが『シーバース/人喰い生物の島』との違い。
脚本協力にキャロライン・ジフマン。オクトーバー・クライシスの夜が。本作ではクローネンバーグ作品の中でも電話がもっとも大切に扱われている。
ゴミ処理される刺激惹起性多能性獲得細胞…
 
 
『ファイヤーボール』(原題『Fast Company』デヴィッド・クローネンバーグ/1979年)
クローネンバーグ好きな人にも本当に何の思い入れも持てない映画と酷評されている。レーサーのロニーが悪徳スポンサーの言うことをきかずにクビになる。
14分過ぎにかかる音楽もひどい。ジョン・サクソンの顔もひどい。
19分過ぎ、50分過ぎ、64分過ぎ、90分過ぎ(映画終わり)にかかる音楽は激爽やか! ってこんなことを言っていてもどうにも仕方ないが、まったくいろいろ違うからとわかってはいてもどうしてもモンテ・ヘルマンのドラッグレース映画と比べてしまう。『断絶』(原題『Two-Lane Blacktop』)は1971年。いかにモンテ・ヘルマンが凄かったか。『断絶』の音楽はビリー・ジェームズ。『ファイヤーボール』の音楽はフレド・モーリン。『断絶』という映画のおそろしさ。
主人公ロニーを演じたウィリアム・スミスの身体はすごいのだけれど『断絶』のような闇は微塵も無い。
『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』から九年後。同じ年に『ザ・ブルード/怒りのメタファー』。
酷評が酷すぎるが、ビーカーの扱い、胸へのビールかけ、ヘルメットのしつこい映し方とかはクローネンバーグっぽいか… でも登場人物たちの顔はやたらにアップになり過ぎる。
関心のある人はさらに『Red Cars』脚本を。もしかして今後『Red Cars』の映画化は実現するのか。現実のF-1はあまりにも変化しているが。
 
 
『ザ・ブルード/怒りのメタファー』(原題『The Brood』デヴィッド・クローネンバーグ/1979年)
サイコプラズミックス療法。
最初の怖さは、妻ノーラ・カーベスの眼球。
ハワード・ショアの音楽。安心感はあるが残念なような。実際に冒頭から音楽尽くしな。せっかく妻の怖すぎる視線を映しているのに音楽が台無しにしているような。
壁をぶち破る音響だけで充分なのにいちいち音楽が大量に補完してしまう。
子供が写真を見ているあいだに大人が会話をする。
フランクは娘キャンディスの監護権を争っている。クローネンバーグ自身の離婚が脚本にも。 
最初の襲撃者である子供の顔は映されない。
離婚は『クレイマー、クレイマー』(1979年)みたいなぬるいものじゃないとのクローネンバーグ。
妻の怖さは、妻ノーラ・カーベスを演じたサマンサ・エッガーの度を越した眼球の怖さによりたっぷりと。フランクを演じたアート・ヒンデルの顔がおとなしいせいか余計に妻が怖い、というか接触の仕方の難しさが。
妻の怖さは残虐な子供たちを生み出していながらその自覚がまったくないところ。しかしそれ以外の妻の怖さが映像には充満している。キャンディスの教師ルース・メイヤーを罵るノーラのビッチィッ!! の発音も音声だけだけどかなり怖い。サマンサ・エッガーは目元だけでなく口の開け閉めも怖い。
映画が終わって何が怖かったかが複数ある。
妻の恐怖にさらされ続ける夫、子供たちによる殺しを経験する街の人たち、ルースの子供たちによる惨殺シーンに居合わせた子供たち、サイコプラズミクス療法の副作用、変容し続けた妻の容貌、夫が妻を絞め殺す様、惨殺し続ける子供たちの風貌、娘に生えていた腫瘍、そして妻の思い込み、さらには思い込みだけではない巨大な不安。ただそれらには音楽は含まれない。巨匠ハワード・ショアだけれど少なくとも本作ではクローネンバーグとの相性はよかったとは思えない。
妻ノーラ・カーベスははてしなく怖い。しかしノーラの立場になれば彼女への家族への怒りは夫や娘だけでなく父と母、全方位に満ち満ちている。妻の不安定さについての映画たちの中でももっとも恐ろしい作品の一つであると同時に女性のあまりにもな大変さについてのもっとも恐ろしい映画でも。彼女が生み出した怪物は彼女とは関係が無い。エイリアンよりも恐ろしい。
異常な子宮外妊娠をする妻と多数存在した異常な子供たち。それらにかかる音楽への違和感。あきらかに他のクローネンバーグ作品とは違う。
 
 
『スキャナーズ』(原題『Scanners』デヴィッド・クローネンバーグ/1981年)   
 
音楽がハワード・ショアだが本作では『ザ・ブルード/怒りのメタファー』のハワードよりずっといい。冒頭のエスカレーター付近での逃走シーンでは主人公ベイルがえげつなく捕まる様にぴったりのえげつなく引き摺るような音楽が。
もっとよいのは音響処理で、他人の思考がすべてわかってしまう恐怖を音だけで。
主人公ベイルを演じるスティーヴン・ラックはとにかく垢抜けない感じをよく出していて。破壊的過ぎるスキャナーのレボックを演じるマイケル・アイアンサイドの不敵な笑みと沈黙の表情も本作にぴったりな。警備保障会社コンセックのルース博士の冷徹さもいい。けれど『ザ・ブルード/怒りのメタファー』のサマンサ・エッガーのような顔だけで怖いみたいなことはない。
スキャナーズ同士の戦いでオヤジの頭ドッガーンの爆発に子供の時にやられて映画から離れられなくなった人も多いはず。特殊メイクアップはクリス・ウェイラス。本作に至るまでの仕事は『ドクター・モリスの島/フィッシュマン』(原題L'isola degli uomini pesce 英題Island of the Fishmen/1979年)、『ジュラシック・ジョーズ』(原題Up from the Depths/1979年)、『モンスター・パニック』(原題Humanoids from the Deep /1980年)、『フライングハイ』(原題Airplane!/1980年)、『ギャラクシーナ』(原題Galaxina /1980年)。そしてディック・スミス。本作担当前までの仕事は『出獄』(原題Call Northside 777/1948年)、『鉄のカーテン』(原題The Iron Curtain/1948年)、『向う見ずの男』(原題From Hell to Texas/1958年)、『恐怖のワニ人間』(原題The Alligator People /1959年)から『タクシードライバー』(原題Taxi Driver/1976年)、『マラソンマン』(原題Marathon Man/1976年)、『センチネル』(原題The Sentinel /1976年)、『エクソシスト2』(原題 Exorcist II: The Heretic/1977年)、『ディア・ハンター』(原題Deer Hunter/1978年)、『アルタード・ステーツ/未知への挑戦』(原題Altered States/1980年)と膨大。クリス、ディック共に遡って観直し中だけど果てしない。
メガネ男の頭の爆発はクローネンバーグ映画の中でも初めての大爆発。この頭の爆発とギャラリーでの彫刻たちの頭が繰り返し観た際にも凝視してしまう。重要なのはただ頭が爆発するのではなく、超能力で頭が爆発するという点。本作では頭が見事に、火花を伴わずに爆発している。
本作は音仕事がいい。冒頭の他人の思考が侵入してくる仕事。そして監視カメラの映像の画質の悪さが『ステレオ/均衡の遺失』の頃の感触も引き寄せ。
コンセックの出す「試練」の数々。その中には異種格闘技戦みたいのも入っている(ヨガマスターVS スキャナーズ)が、これらが延々と続くようなドラマでなく映画でよかったと。でもスキャナーズ設定自体はクローネンバーグの元を離れてシリーズ化している。
ある薬の副作用により突然変異である能力が誕生するという設定はありきたりでも使う音をどうするかでまったく映像は違ったものに。
気になったのは主演のスティーヴン・ラックが自信満々な表情の他に時より見せる怯えるような目線。スキャナーズの不安定さをどう表現するか。
自分が人知れずスキャナーの力を使ったはずが、その自分も知らないうちに別のスキャナーの攻撃を受けていたという表現。その際の表情。
繰り返し現れる液状化する声もいい。ポストプロダクションの重要さ。
けれどなにより頭の爆発。超能力によっての。爆発したKosher saltはDiamondCrystalのものだったかどうかまではわからない。
 
 
『ヴィデオドローム』(原題『Videodrome』デヴィッド・クローネンバーグ/1983年)
お腹に仮に穴が開いたとしてあなたはそこに銃を突っ込んでみるか。
ビデオの世界の中に取り込まれ現実に戻ることはできないという恐怖より、とにかく隙間があったらビデオでもなんでも入れてみて!入れたらどうにかなるかもな、そんなすてばちな設定があまりに最優先な映画で、仮想現実がどうとかの脚本より、とにかく入れれる隙間には入れる、その隙間がより未知なものであるなら、と。けれど入れてはみるのだけれどそれはなぜかあまりにショッキングでないのが不思議な。腹にヴァギナができてからのすべてが無秩序に差異が消滅するかのようなあまりの楽観さを観るものがどうとらえるか。
特殊メイクはリック・ベイカー。『ヴィデオドローム』前までの担当作は『シュロック』(原題Schlock/1973年)、『吸盤男オクトマン』(原題Octaman/1971年)から『縮みゆく女』(原題The lncredible Shrinking Woman/1981年)、『ファンハウス/惨劇の館』(原題The FunHouse/1981年)まで多数。
クローネンバーグがリック・ベイカーとディック・スミスとクリス・ウェイラスと、そしてキャロル・スピアーとどう接していたか改めてきいてみたい。リックはディックよりもホラー経験が。そんなリックの経験も生きているような、腹への銃の突っ込みシーンも、初見時よりずっと驚きが無い。マックスがあまりに変容経験に驚かな過ぎるように見えてしまうからか。ハワードの音楽もしつこく入るけれど、ずっと鳴る低く酩酊し過ぎてる音楽のせいか。マックスを演じてるのがジェームズ・ウッズなせいか。なぜか変容経験への驚きが銃の身体への同化のところも含めまったくないままに映画は終わる。ニッキーの次々の変容にも驚きが無い。その驚きのあまりの無さが何によるのか。その驚きの無さは2022年版『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』のレア・セドゥが血にまみれながら横たわった時の笑みにたしかに繋がっているような。
そしてそれら驚きの無さはマックスが幻視したものとは関係が無い。それら驚きの無さを徹底しながらもっともひどく世界を静かに否定し尽くす作品が『戦慄の絆』(原題『Dead Ringers』/1988年)だけれどそれはまたどこかで。
正直なところ皆が絶賛して騒いでいた『ビデオドローム』はわたしはクローネンバーグ全作品の中でいちばん苦手だった。それはビデオカセットの膨張やビデオカセットを腹に入れるというアホらしさになぜかすごく耐えられないなという感覚。だがニッキーの上手ではない演技やハワードの音楽の入れ方には初回から共感はしていた。この二点だけでもホラー映画であることを強烈に拒否しているようで。そして膨張するビデオカセットへの違和感もついに消えた。しかしそれと同時に映画を観はじめの時の独特の痒さ(ほとんどの人が忘れているかのような)も消えてはいた。その痒さが復活する映画たちについてはまたどこかで。
本作は『イグジステンズ』、『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』と並んで歴代クローネンバーグ作品の中でもいまだにもっとも強引な作品に思える。
何回も観返してみてずっと低く地味に鳴るハワードの音楽に改めて驚く。それは興奮を炙りだすようなものたちでは決してなく、マックスに生じる驚愕たちをそれははたしてそんなに驚くべきことかと引いているような音楽たち。そしてすっかり忘れていたビデオカセットをビデオデッキに毎回挿入するあの独特の感じ。それと腹に開いた穴に銃を挿入するあの感じ。映画館は別として自宅で映画を観る際に配信のあまりの普及により挿入する感じを完全に忘れ去っている世界の人たち。そしてビデオ独特のあの粗いノイズの連続も。VIDEO BOUTIQUEと書いた紙を食べるところもすっかり忘れていた。分厚いビデオカセットを「漁る」感じも。そしてニッキーの肩の傷や耳へのこだわりは『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(2022年)で。
いまではビデオカセットをビデオデッキに挿入するあの独特の感じと共に挿入する独特の感触を経験するためなのかなんなのか何度かわからないくらいに観返している。