- 2023年08月18日
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江藤淳/江頭淳夫の闘争 第10回
風元正さんによる不定期連載「江藤淳/江頭淳夫の闘争」最終回です。江藤淳のラディカルな批判精神、日本社会にも及ぶ「閉された言語空間」についての論考です。Kindle版江藤淳全集は第14巻『全文芸時評Ⅴ 昭和四十八年・昭和四十九年・昭和五十年』まで発売中です。ぜひ江藤淳が残した言葉に接してみてください。
そして「江藤淳」はいなくなった
文・写真=風元正
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浅田彰は「中上健次を導入する」(「批評空間」1994年No.12)という邦題のモントリオールのマックギル大学で開かれたシンポジウムの講演において、このような発言をしている。
「「路地」という、文字以前の、またその意味において歴史以前の空間において、官能的にして暴力的な神話的物語が永劫回帰のように反復される、というわけですね。『地の果て 至上の時』の残酷な枯渇を否定した批評家たちは、逆にこの『千年の愉楽』の豊かな神話性の回復を歓迎した。江藤淳にいたっては、本居宣長の夢見た文字=「漢意」以前の真の神話的日本がここに再現されていると言って、感涙にむせぶありさまだった」。
90年代らしい江藤批判が鮮やかに集約されている。そして、同誌に併載されている共同討議「中上健次をめぐって」では、次のようなまとめを試みる。
「小説に対する物語、あるいは歴史に対する物語として、中心に対する終焉とか、近代的な表層とかいう物語があって、その物語さえ語っていれば、日本であろうが、韓国であろうが、フィリピンであろうが、すべてが通じ合えるという図式化された共同幻想があると言えばあると思う。一つの読み方は、中上健次が本気でそういう図式から出発しながら、しかしいかにそこからずれていったかを見てゆくことです」。
リアリズム作家として出発した中上健次は、このような同時代批評を吸収することにより、作品世界を広げていった。しかし中上は「この日本において、差別が日本的自然の生み出すものであるなら、日本における小説の構造、文化の構造は同時に差別の構造でもあろう」(『紀州 紀の国・根の国物語』)といい、「紀伊半島で私が視たのは、差別、非差別の豊かさであった。言ってみれば、「美しい日本」の奥に入り込み、その日本の意味を考え、美しいという意味を考える事でもあった」(同前)という作家である。
晩年、昭和天皇の崩御の直前の、岡野弘彦との対談における「天皇が崩御されたら自分は挽歌を詠む」という発言に代表されるように、右傾化が著しい中上に対して、浅田は「反天皇制」の立場を保持させようとした。そこには、大江に対してと同じく、山口昌男の「中心と終焉」理論のようなことを止めろ、と叱責する蓮實重彦とともに、中上を穏当な「共和制」作家に落ち着かせようする意図が伺える。
「八二〜三年という段階において、モダンな小説の原理の自壊、そしてそれと裏腹の関係にあるポストモダンあるいはポストヒストリカルな物語の永劫回帰」(「中上健次を導入する」)を体現しているという浅田の図式は依然として正しい。しかし30年経ち、ここまで混沌とした、中上の「神話的世界」に先祖帰りしたような状況が待っているとは。蓮實・浅田のみならずだれしも予測不能であり、結果的にヘーゲル主義者であるコジェーヴの感覚器を備えたセンサーとしての「動物化」した「人間」、というイメージのみが予言的だった。
柄谷行人や浅田も指摘する通り、中上はその作品により「ポストヒストリカル」な世界を先取りしていた作家だった。しかし、ヘーゲル的な歴史が終わった世界に近代的理性は残存しない。したがって、モダンな理性を前提とするようなポストモダン社会も成立しえない。柄谷は中上の死とともに「日本近代文学の終わり」を宣告し、2023年、大江健三郎の死をもってそれを再確認する。
今から振り返ると、「路地」が消え去ったと同時に「すでにして他界であるような日本」が消え去ったと捉えた江藤の批評が、ずっと「本気」だった中上健次という作家に最も自然な形で寄り添っていたのではないか。そもそも、『日輪の翼』のオバが乗るトレーラーが「路地」となり、「遊牧」性の表象となる、という類のポストモダン的なヴィジョンはさすがに無理筋だろう。自動車が「路地」になるはずない。
中上は、たとえば宇佐見りんに、もはや「神話」の登場人物のように遠い存在として再発見され、あの「神話的物語」空間を成り立たせた技法が文学的に「善用」されている。渡邊英理の『中上健次論』は、「(再)開発文学」という造語を視座にして、世界的なマイノリティ解放闘争の中に位置づけ、生きた中上を知らない世代がその文学をどう継承してゆくかという切実な想いが伝わってくる力作だった。しかし、中上その人の精神は「植民地主義的な関係様式」という図式には収まり切れないと思える。太宰治の語りをリサイクルした綿谷りさのごとく、近現代作家の「内面」を捨象した様式化は進んでゆき、無頼派作家の生き方もファッションとして消費される世界を、江藤淳は「閉された言語空間」と呼ぶ。
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私が「閉された言語空間」の存在を実感した時は遅く、東日本大震災を取材する過程での出来事だった。たまたまジャーナリズムの現場にいて被災地に何度も入り、毎月のように特集を組んだ。「復旧」か「復興」か、などというバカバカしい言葉遊びにも付き合ううちに、どうにも様子がおかしくなってゆく。陸前高田の東京ディズニーランド2つ半分の被災地が、もともとは2mの土地のかさ上げ計画が最終的に10mになり、満を持して完成した白いコンクリート作りの高台が象徴的だった。
全人口の1割近い1606人が亡くなり、404世帯が被災したこの地域は、海に面して街が広がっていた。「強靭化」といえば聞こえはいいけれども、長い時間と巨額の費用をかけて誰も住まない場所を整備しているだけの話である。実際、高台は空き地だらけで、人気もない荒涼たる実験都市になっているという。仙台の沿岸部など大きな津波被害を受けた土地は、おおむね居住禁止になっており、漁港のほかは瓦礫が撤去されただけの広大な更地が広がっている。震災遺構の荒浜小学校では若者たちの姿を多くみかけるが、元はこの地域に住んでいた人々だろう。それにしても、出来たばかりの気仙沼復興商店街で食べたラーメンは美味しかった。
「一人の人の命は地球より重い」――1977年、日本赤軍がバングラデシュのダッカ空港で赤軍派ハイジャックした際、犯人の要求を呑む「超法規的措置」を決断した際の福田赳夫元首相の言葉である。当時、江藤は福田内閣のブレーンとして活動しており、当事者として事件を受け止めたはずだ。人質の命のひきかえに収監されているテロリストを解放した判断が正しかったかどうか、今さら口をさしはさむ問題ではない。しかし、福田のテーゼは自然災害の救援や被災地の復旧事業などの、あらゆる非常時対応策の隅々にまで浸透している。
「八月革命」により正統化された「日本国憲法」をベースとする法と行政の判断は着々と積み上がり、「戦後」を通して蓄積された国家情報を別のシステムに移し替えることなど、もはや夢物語となった。陸前高田の白く塗り固められた高台は「戦後」の成れの果てであり、「閉された言語空間」を実体化にしたものでもある。そして、システムの根幹は手つかずのまま、現行法で可能な範囲で見せかけの「改革」が着手されてゆく。
戦後最も成功した「行革」は1987年の「国鉄分割民営化」といわれている。しかし、真の目的は巨額の赤字の解消ではなく、日本最大の「中間集団」だった労働組合をつぶすことだった。以来、自民党政権は70年代から一貫して日本社会の「中間集団」をなくすことに執心しており、その中でなぜか宗教団体だけが生き残り続けている。「国家」に無数の「前例」が集積され、「個人」の逃げ場が解体されてゆく体制に、テクノロジーによる情報処理が自動的に補完してゆくシステムがすでに完成しているとするなら? ジョージ・オーウェル的「収容所国家」はすでに目の前に出現している。もちろん、私の認識がすでに古臭くなっていることなどは承知している。
ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』において、19世紀後半から20世紀初頭にかけてエジプト総領事をつとめたクローマー卿のキャリアを検討し、「古い植民地行政官から新しい帝国主義行政官への転換」を見出し、植民地における「官僚制もしくは行政手段による支配の技術上の特徴」について次のように述べている。
「法学的に言えば官僚制とは法の支配とは反対の、命令の体制(レジーム)である。立憲国家においては権力は法の執行と維持にのみ奉仕するのに対し、ここでは権力は一般的な命令におけるのと同じようにすべての法令の直接の源泉となっている。さらに法律は必ず特定の人格もしくは立法会議の責任において発布されるのに対し、命令はつねに匿名であり、個々のケースについて理由を示すことも正当化も必要としない。例外的事態において巳(や)むを得ず発せられる緊急令はすべて緊急事態を正当化の根拠とせざるを得ないが、これはしかし時間的に限定されており、通則に対する例外として明確に認識されている。緊急時代において例外として認められることが専制においては通則になる。すなわち臣民に対する権力の集中と無拘束性である」。(『新版 全体主義の起原2 帝国主義』大島通義・大島かおり訳)
植民地において大帝国は「異質な住民を抱えて支配を維持するには住民を抑圧するしかない」。そういう「例外状況」が「汎民族主義運動」や「マルクス主義革命」を経て全世界を覆い、「国民国家」を弱体化してゆく。
「第一次世界大戦によってもたらされた一連の破局の結果は、政治、社会のいずれの現体制もが予測しなかった状態におちいる人々が次第に増加したことである。この体制は全体主義運動が権力を握り得たところでしか崩壊はしなかったのだが、しかし、この発展はまったく無関係に、一見安定しているように見える周囲の状態を基準に測れば、一種の例外といえる状態におちいった人のグループがいるところで増大していった。失業、無国籍、故国喪失におちいった人々は数百万にのぼったにもかかわらず、これらの状態はその他の点では正常な世界における変則状態と見なされた」。(同前)
そして、属していた共同体から切り離された「例外といえる状態」に置かれた人々を統治するためには、「植民地」と同じような制度設計をするほかない。アーレントの思考は、近代におけるユダヤ民族の苛酷な足跡を辿ることによりもたらされたものである。しかし、「全体主義運動」を日本での「総力戦体制」と捉えれば、第二次世界大戦敗戦後に成立した「戦後体制」は「植民地国家」化と等しい。そして江藤は、占領が終わった後の支配者はアメリカではなく、どちらの国にも存在している「官僚」であることを、あえて見なかった。「個人」の実存を文学の基盤とする上で、「日本国家」をより高い価値と考える江藤にとっては、見落としでなかったかもしれない。社会がどう変わろうとも、国家は人間が運営すべし、という江藤の信念は揺らぐことがなかった。
匿名の「命令」に従う「官僚」の統治空間は、すなわち「閉された言語空間」である。江藤は毎月の膨大な文学作品を読み続けて現実政治にも参入し、「電化+ソ連」化というアーレントと似た認識に独自の回路から到達した。そして、その世界のあまりの「人間不在」に怒り、社会的地位や命すら滅ぼしかねない無謀な闘いを始める。私は、その背中から眼を離すことができない。ただ、「夜の紅茶」を嗜む三つ揃いを着た紳士は、どこか植民地の知識人風ではないか、という茶々も入れておきたい。後世の人間は、いまだ書かれざる「「閉された言語空間」と私」の中に、日比谷高校出身の「官僚」として振舞わざるを得ない「江藤淳」が登場する、と夢想することもできる。
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アーレントの「全体主義」についての思考を、フーコーの「生権力」論と並行して捉えたのは、《ホモ・サケル(聖なる人間)》のジョルジュ・アガンベンである。アガンベンはコロナ禍における私権制限についてたった一人批判したために「炎上」した哲学者であり、日本では國分功一郎は「例外状況」下における「自由」の主張として高く評価している。その論点から、現代思想の論点の中に「閉された言語空間」における「検閲」という問題系を置くことも可能であるが、「生」と「政治」の絶望的な分裂をつなぐのは「倫理」しかない、という最終的な判断は江藤の文芸理論と重なってゆく。
個人の領域に属する「倫理」とはまったく無縁な「命令」を遂行することができる「エルサレムのアイヒマン」はどこにでもいる。現実のアドルフ・アイヒマンが信念に基づいた反ユダヤ主義者だとしても、事態は変わらない。現代思想の議論を散歩してみても、江藤が文学を通して到達した「閉された言語空間」より先を歩む議論には出逢わない。私はむしろ、62年に発表されたフィリップ・K・ディックの出世作『高い城の男』、第二次世界大戦が枢軸国側の勝利に終わり、ドイツと日本が支配している世界についての「歴史改変」SFの一節を引いておきたい。まず、ドイツは全世界を次のようなイメージの状態で支配しようとしている。
「どこの図書館や新聞売店にも置いてある、あのミュンヘンで印刷された豪華な大判雑誌……あの全ページ大のカラー写真を見ればわかる。金髪、青い目のアーリア人種の入植者たちが、世界の穀倉、広大なウクライナをせっせと耕し、種をまき、刈り入れをしている。あの連中は心底幸福そうに見える、農場も、住居も清潔そのもの。もう酔っぱらったとんまなポーランド人の写真はどこにもない。傾きかけたポーチに腰かけているところも、村の市場でしなびたカブラを二、三個売っているところも見られない。」
(フィリップ・K・ディック『高い城の男』浅倉久志訳)
そして、火星飛行の実現まで企てるほどの「第三帝国」支配拡張を支える理念を、生き残りのユダヤ人実業家バイネスは次のように理解している。
「彼らの観点――それは宇宙的だ。ここにいる一人の人間や、あそこにいる一人の子供は目に入らない。それは一つの抽象観念だ――民族、国土。民族(フオルク)。国土(ランド)。血(ブルツト)。名誉(エーレ)。りっぱな人々に備わった名誉ではなく、名誉そのもの。栄光。抽象観念が現実であり、実在するものは彼らには見えない。〝善(デイー・ギーテ)〟はあっても、善人たちとか、この善人とかにはない。時空の観念もそうだ。彼らはここ、この現在を通して、その彼方にある巨大な黒い深淵、不変のものを見ている。それが生命にとっては破滅的なのだ。なぜなら、やがてそこには生命がなくなるから。(中略)彼らは歴史の犠牲者ではなく、歴史の手先になりたいのだ。彼らは自分の力を神の力になぞられ、自分たちを神に似た存在と考えている。それが彼らの根本的な狂気だ。彼らはある元型(アーケタイプ)にからめとられている」。
江藤の4歳上のSF作家が想像する「ナチス」の思考は、どこか、反省をしないハイデガーの思想と似た悪魔性を感じさせる。そして、アメリカ人の間では謎の存在「高い城の男」が書いた『イナゴの身重く横たわる』という連合国側が勝った小説が流行しており、その正体を突き止めるべく様々な思惑が入り乱れるのだが、つまりは「閉された言語空間」の外に出ようとして闘う人間の物語である。もっとも、『高い城の男』の世界の真実では連合国側が勝っているのだが、江藤の存在する世界では戦争の勝敗が逆転することはない。
オーウェルの後継者としてのディックは「監視国家」のヴィジョンを深化させた『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、映画『ブレードランナー』の原作となり、21世紀の「人間」のイメージに多彩な啓示を与え続けている。人間とレプリカントの区別がつかない世界は、「エルサレムのアイヒマン」あるいは「官僚」と「人間」が共存している現代社会と重なる。その進化形である士郎正宗原作の『攻殻機動隊』シリーズの主人公、脳神経以外を「義体化」して高度な能力を発揮するサイボーグ草薙素子のイメージは、AIや科学技術との親和性が高い大谷翔平や藤井聡太のような存在として実体化しているのか、と感じてしまう。1978年、江藤はアメリカで占領政策批判の英語講演を占領関係者の前で行った。本多秋五との「無条件降伏論争」からの、盟友・吉本隆明でさえ驚く一連の行動は、ディックの小説の登場人物のようにどこか芝居がかっている。しかし、形のない「閉された言語空間」への攻撃の企ては、必然的にSF小説的なアクションの形をとるのかもしれない。そして、徒手空拳で立ち上がった江藤の闘争が惹起した各方面の反響により、日本における「閉された言語空間」の姿形が明らかになった功績は大きい。その意義が同時代に理解されていれば、江藤の運命はまた違っていた。
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ちょっと脇道に逸れすぎたので、本題に戻ろう。
1987年に出た『批評と私』は、小林秀雄の追悼文と「中央公論」に掲載を拒否されて「新潮」83年8月号に掲載された論争文「ユダの季節」などが同居する極端な本である。出発点に粕谷一希の小林追悼文のいかがわしさへの疑問があり、テーマは一貫しているともいえるとして、編輯同人だった「季刊藝術」には何度も起用した山崎正和への批判も含まれており、かつての仲間だった「保守」派を望んで敵に回そうとする文章は異様というしかなく、週刊誌ダネにもなった。
山崎は佐藤栄作内閣の総理秘書官・楠田實にスカウトされた、江藤の同期の政府ブレーンであり、サントリー文化財団を中心になって立ち上げて、なにより「中公サロン」の中心的な存在である。江藤の宿敵である丸谷才一との「談論風発」の(笑)多出対談は総合雑誌の花形であり、サントリー学芸賞も差配した山崎は「保守」文化人業界の総元締めだった。
『舞台をまわす、舞台がまわる 山崎正和オーラルヒストリー』を読むと、江藤が「財団に敵愾心(てきがいしん)を抱いた」理由は、もとは「自分が偉い」はずなのに、いつの間にか山崎や高坂正尭が「大きな顔」をしていることに対する「嫉妬」だと解釈されている。始末が悪いことに、江藤は当然「嫉妬」もしていたわけで、にもかかわらず同世代の「リーディング・メンバー」として大人の振舞いをしなかったのは、例によってラディカルな批判精神が発動されたからである。
「人間は誰しも自我の奥底に何ものかを感じ、かたちもなく、名状しがたいその感触をまさぐって、かけがえのない自我の証拠だと感じている。この感触があるという事実は、昔もいまも変わらない真実であるが、ただ、かつての人間はそれを有形の実体として確信し、積極的な存在のかたちで主張しうると信じた点で、過ちを犯した。現代人は、多くの歴史的な事情から懐疑の心を深め、すべて現実の実体的な本質とともにそれを疑うことになったが、しかし、あの内面の重い感触を忘れたわけではない。現代の自我は謙虚になり、羞じらいがちになり、他人にたいして柔らかい自我になったが、柔らかい自我はけっして虚無主義者でもなく、自己の内奥の核心に無関心になったのでもない。ただ、自己の真の存在は何かであるというかたちでよりも、何かでないというかたちで示す方が正確であり、それがより誠実だと感じて表現をつづけているのである」。
(山崎正和「現代文学の擁護」『柔らかい自我の文学』所収)
86年に書かれた山崎の同時代文学批評の一節である。私は山崎の文芸評論の文体にどうしても馴染むことができない。『鷗外 闘う家長』『不機嫌な時代』なども似た文体なのだが、まず、目に見えない「自我」が柔らかったり、硬かったりするものか、という基本で立ち止まってしまう。「柔らかい自我」の対立概念は「硬直した自我」であり、それは「現実の底に唯一の実体的本質を求める態度」であって、これからの日本文学は「「土」の不在を都市の積極的な存在根拠」というのが山崎の主張である。確かに社会の「空気」は「「土」の不在」の方に移行するのかもしれないが、それは技術や産業構造の変化にただ追随しただけの話だろう。
しかし、この〝時代のアトモスフィア〟を伝える文体こそ、広範な読者のニーズにかなうTPOに応じた文章を「社交空間」に提供する「文学官僚」の駆使する武器であった。自己の内面との関わりは稀薄かもしれないが、山崎は「実体的な生命の空白こそ中核とする世界」という認識を示しており、つまり、空虚な内面だから何にでも柔軟な対応ができると考えているわけなので、何の矛盾もない。
私は、横光利一の「純粋小説論」と平野謙の「アクチュアリティ=コミット説」の関連性を指摘した。ただし、横光と平野は、江藤とは筋が違うとしても、リアリズムに立脚した「倫理」は保っていた。しかし、両者のヴィジョンにより「純文学」と「大衆小説」の垣根が低くなった後の書き手は、文学的「倫理」の拘束もまた緩くなってゆく。「柔らかい自我の文学」は、その状況を追認する議論である。
山崎の文中の漢語をヨコ文字に置き換れば、「ポストモダン知識人」の文体が出来上がる。肯定でも否定でも、旗幟鮮明にすれば「保守」(=永遠の現状維持)にさしさわるから、結論はどっちつかずの曖昧なままにしておく。しかし、為政者にとっては、あらゆる問題に対して正しい歴史観と本質論を持ち出し、態度決定を迫る江藤よりは、状況を見定めながら無難なお墨付きの御託宣を与えてくれる山崎を選択して当然だろう。とはいえ、山崎の提唱した「環太平洋」構想は近年、ネオコンの総帥ディック・チェイニーが支持して継承されていて、ほどほどの政治的影響力も行使している。日本のノーマン・ポドーレツは山崎正和だった。どちらも共産党からの離脱者である。
山崎の認識によれば、「文壇は要するに若衆宿」(『舞台をまわす、舞台がまわる』)であり、その原型は「漱石山脈」で、「最後の巨象は小林秀雄」だった。そして、江藤は小林を継げなかった人という位置になる。西新宿のあたりにあった「汚い飲み屋」で「文士がとぐろを巻いている」「昔風の文壇の付き合い」は「田舎臭く」、「即(つ)かず離れずの距離を保ちながら紳士的に付き合っていると、あいつは真実と向き合っていない、きれいごとで済ませている」「旧制高校気分」(引用すべて「同前」)が嫌で嫌で仕方ない山崎の気質から、新たなる「官僚」性が育まれた。
しかし、「若衆宿」か「サロン」かという二択が、はたして文学にとって重要なのか。作品の質さえ高ければ、どちらでもいい。「柔らかい自我の文学」という概念も、村上春樹や高橋源一郎や島田雅彦など、当時の新進作家がすべて当てはまる茫漠とした規定だったから、文学的動向として定着しないまま、もろもろの議論は忘れ去られた。磯田光一の『左翼がサヨクになる時』の方が旗幟鮮明であり、文学史の変化を正確に反映している。
しかし、知識人の処世のお手本が山崎正和型に移行するのは時代の流れである。江藤の真意である「文学者が個人としての主体を持たない「官僚」であっていいのか」という批判は、文壇・論壇ではまったく通じず、たんなる内輪もめとしか受け取られてなかった。私の見立てでは、『批評と私』の刊行をもってペルソナとしての批評家「江藤淳」は姿を消している。「ユダの季節」と「ペンの政治学」の問題提起が、文壇と論壇で完全スルーされたことは最後のダメージだった。
ここにわが国の「閉された言語空間」は完成した。江藤淳は孤立無援となり、小林秀雄もすでにこの世にない。江藤は文学を媒介として社会を変えることを諦める。過激な政治漫談や小沢一郎への肩入れも、いったいどこまで現実を見据えた理性的な判断に基づいていたのか。ただ求めに応じて、人間・江頭淳夫の日頃の鬱憤を晴らしていただけのように見える。
私は、『世阿弥』などの山崎の戯曲には、敬意を払うべきだと考えている。もし、江藤が山崎の半分くらい「うまくやれる」資質であり、両者が手を携えることができれば、日本現代文学はもう少しマシだったかもしれない、という詮ない想いもある。しかし、山崎は人生のしめくくりとして「自分は「戦後民主主義の子」だった」(同前)と胸を張るヒトである以上、すべてが必然だった。
そして今となっては、山崎が辛うじて享受していた知識人としての「自由」ですら発動することは許されず、ひたすら「空気」を読むことのみ要求され続ける。コロナ禍まで生きていた山崎は、「学際」も「サロン的社交空間」も、不景気になってメセナ企業や出版社がお金を出せなくなれば、簡単に姿も形もなくなることを認識していただろうか。
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江藤淳という著者名の本は文庫版を含めなくとも100冊近い数になる。連載をまとめたもののほか短い依頼原稿がたくさんあって、同じ文章が何冊もの本に収録されていたりするし、対談や聞き書きも本になっているので、正確に数えようがない。単行本未収録の文章も多く、時評では常に文芸業界の「産業化」による膨張を嘆きつつ、実はその渦中で最も活躍した書き手である。「批評家」という看板を掲げて、これだけ多くの作品を残す人は、今後現れることはないだろう。
端正な字で直しは一切なく、一枚一枚きれいに仕上げられた原稿用紙をすべて積み上げれば、どれだけの高さになるだろう。いわゆる知識人の仕事量としては質量ともにすさまじく、より長生きした小林秀雄全作品が32冊で済むのと対照的である。しかし、個人としてどれだけ頑張っても、日々蓄積されてゆく行政文書の量と比較すれば微々たるものであり、陸前高田の高台と江藤が生涯に枡目を原稿用紙のものとして物量差が、そのまま「閉された言語空間」との勝ち目のない闘いを具象化している。
私が最初に江藤の文章に接したのは1970年頃、『文藝春秋』誌の連載「海は甦える」である。活字中毒の小学校高学年で、何もかも手当たり次第に読んでいたわけだが、山本権兵衛という名前以外はまったく頭に入らず、田久保英夫の芥川受賞作「深い河」などとともにトラウマになっている。ちなみに、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」には夢中になった。
偉い人らしい、と名のみ記憶し、保守派の文章など眼中にない学生時代を過ごし、再びリアルタイムで接したのは昭和末の「昭和の文人」の連載である。嘘つきの堀辰雄を断罪して中野重治の倫理的な正しさに魅かれる自己を赤裸々に告白してゆく異様さに、知的な野蛮人がたったひとりで咆哮しているようで心底驚いた。
小林秀雄の後継者と指名されているけれども、アメリカの占領批判や「ユダの季節」の発表により腫れ物のように扱われている大家だという噂を耳にし、興味を持って講談社版著作集で「作家は行動する」を読むとサルトル風で、「昭和の文人」とは別人のようであり、なぜここまで印象が分裂するのか、見当もつかなかった。その謎を解明するために、30年以上の時間を必要としたわけである。しかし、本人が無自覚だったわけではない。
「……最初に接した日本の「小説」が当時春陽堂版の明治大正文学全集におさめられていた谷崎潤一郎集一巻だったのである。
私は、この本をはじめて開いたときの昂奮を忘れない。谷崎集は、鎌倉稲村ヶ崎にあった祖父の(二度目の母方の)隠居所の書斎にあった。祖父は、この棲家に、数冊の洋書と、数冊の漢詩集と二、三の小説を置いているにすぎず、たいていは鎌倉彫をして日を暮していた。彼が、なぜ谷崎の艶麗な世界をのぞかせることを許したのかは今もってわからない。だが、潤一郎の「刺青」、「秘密」、「麒麟」などの作品が私の眼の前にくりひろげてみせた妖しい世界の眺めは、何にたとえたらいいだろうか。「刺青」の「貴き肉の宝玉」のような真っ白な女の素足、そして美しい刺青にしみる湯の痛みに苦悶する美女の表情、「私はお前さんのお察し通り、其の絵の女のような性分を持って居ますのさ」といったような伝法な言葉づかい。「秘密」では、「私」は、「藍地に大小あられの小紋を散らした女物の袷」を着て女装し、銀杏返しのかつらの上にお高祖頭巾を冠って、長襦袢や縮緬の「粘つくような感触」を楽しみながら六区を散歩するのである。そして「麒麟」では、孔子が、あの聖人が、衛の霊公の夫人南子の美に敗れて、「吾未見好徳如好色者也」とつぶやきながら衛の国を去って行く……。(中略)
このような記憶につきまとわれている私が、やがて荷風散人の花柳小説「腕くらべ」、「濹東綺譚」などを愛読するようになったのは、きわめて自然である。戦争がなくて、生家が斜陽化しなかったなら、おそらく私は意志薄弱で女遊びのほかにとりえのないような、鼻持ちならない、遊冶郎になっていたであろう。もし私が、自然のままに自分の本性を伸ばしていたならば。しかし私は生活のために学問をし、生活のために職業的読書家になっている。もう来てしまった道はとり返しがつかないが、疑いもなく、私にとっては、社会に何ら益すところのない遊冶郎になっていたほうが幸福だったのである。」
(「潤一郎・荷風など」『犬と私』所収)
60年に書かれたエッセイである。何のことはない、江藤自身が一番よくわかっている。英文学を講ずる傍ら潤一郎・荷風の世界に耽溺するディレッタントとして生きたならば、どれだけ「幸福」だったか。その上で私は、つい、俳句結社を率いながら虚子の「写生文」をより現代的に発展させる江頭惇夫を妄想してしまう。
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 子規
桐一葉日当たりながら落ちにけり 虚子
代表句を比較すれば、虚子が一瞬の「時」を正確に描写しようとする近代的リアリズムへ傾斜していたことは明白である。江藤は「リアリズムの源流」で、「写生」を「無限に自然科学の客観性」に近づけようとする子規に対して、「自然言語」を用いて表現する以上、「過去からの持続を断ち切」り「空想的」要素を排斥することはできないと考える虚子との対立を重視した。そして虚子の側に立って、「「客観」が「時間」と「人事」に融合し、俳句における「写生」が、写生文に発展してゆく鍵」があり、「他者を切り捨てるのではなく、他者を許容するリアリズムの文体」、「リアリズム小説を書くのにもっともふさわしい、「活(い)」きた文体」が発生すると考える。(引用はすべて「リアリズムの源流」)
江藤の「リアリズム」は、あらゆる出来事は一回しか起きない、という単純な原理が根底にある。その繰り返しが「歴史」を形づくるとしても、一回性の尊重という「倫理」は決して手放さない。俳句における虚子の「写生」が、「永遠」への接近に比重を置く芭蕉や子規と一線を画するのも、「一回性」の重視ゆえである。
漱石は虚子の発想した「写生文」を発展させて小説を書き、その文体は現在に至るまで日本語散文のお手本であり続けている。そして漱石の文体を現代語によって更新しようとする江藤のリアリズム論は、小説や批評だけでなく、新聞記事まで応用することが可能な新しい「写生文」の可能性を示唆していた。しかし、その論点は深められないままである。現代仮名遣いの世界では虚子や漱石のごとく、俳句や漢詩などの定型詩を通じて日本語の伝統とつながり、「閉された言語空間」をもかいくぐる「リアリズム」を実践しうる文体は、まだ生まれていない。
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江頭惇夫の文章の最初の編集担当者は、日比谷高等学校の同窓生・安藤元雄である。安藤は江頭に堀辰雄を教え、東京大学在学中に出していた同人雑誌「Peruté」に誘い、掲載された「マンスフィールド覚書」が山川方夫に目に留まって「三田文学」へ起用されたのだから大恩人である。文学青年としてはライバル関係にあり、安藤は生涯「軽井沢」的モダニズムを貫いて、詩人・フランス文学者として大成した。
堀辰雄の世界は『昭和の文人』で全否定されたと思いきや、1999年、慶子夫人への鎮魂歌として書かれた『妻と私』において「若い看護婦のいわゆる〝ラブラブ〟の時間」、すなわち「日常性と実務の時空間があれほど遠く感じられる」「死の時間」として蘇り、結局、江藤の著書として最も「売れる本」となる。絶筆「幼年時代」は堀辰雄の小説のタイトルと重なり、昭和初期の山の手中産階級の暮らしが生き生きと描かれており、安藤と競い合った学生時代が蘇ったような作品だった。
安藤は、白金台の質屋の家の生まれで、家運が傾いていた点では江藤と共通する。ただ、江頭家は佐賀藩士の出であるが、出世したのは明治に入り、祖父・安太郎が海軍軍人になってからだった。商家の安藤と海軍一家の江藤と、没落の理由は「国家」の命運に属するかどうかで微妙にズレているから、出発点は近くともその歩みが対照的になったのか。
それにしても、私にとって、江藤の「明治国家」と「海軍」への強い思い入れは、どうしても寄り添うことのできない謎感情である。もちろん、明治の偉大さは十二分に理解しているし、江藤の批評文の魅力は「国家」をも視野に入れた文明論と「私」が分かちがたく結びついてゆく独特さにあると思う。しかし、舌鋒鋭い談話による国家批判は、論旨明解で痛快な悪口が並んでいるとしても、現実的な目標は何だったのか、いまひとつ腑に落ちない。
親戚の小和田雅子は皇室に嫁ぎ、江頭家は近代の「下剋上」を体現する家系となった。しかし、江藤は「天皇制」の支持者ではなく、あくまで明治大帝と昭和天皇という偉大な「人間」の支持者である。「象徴天皇制」など眼中になく、被災地で「ひざまずく」「平成流」などもっての他である。
江藤は単純な「復古」を望んでいたわけではなく、「一九四六年憲法」を「交戦権」の回復をはじめとする「普通の国」の憲法にすることが目標だった。しかし、「閉された言語空間」の中で、江藤の主張を実現するならば、いったいどれだけの反対を押し切らなければならないのか。与党がどれだけ選挙に勝っても無理である。その過激さを「保守」派の論客と呼ぶのか。江藤は、「右」でも「左」でもなく、ただ根源的(ラディカル)な人である。
「江藤淳」にとどめを刺したのは、昭和天皇崩御だった。「大東亜戦争」の指導者で戦後も生きた昭和天皇のほか、自らの心中を託しうる「人間」を失っていた批評家は、「平成」という空疎な荒野に取り残された孤独を噛みしめるしかない。
「西郷とともに薩摩の士風が滅亡したとき、徳川の士風もまた滅び去っていた。瓦全によっていかにも民生が救われたかもしれない。しかし、士風そのものはあのときも滅び、いままた決定的に滅びたのだ。これこそ全的滅亡というべきものではないか。ひとつの時代が、文化が、終焉を迎えるとき、保全できる現実などはないのだ。玉砕を選ぶ者はもとより滅びるが、瓦全に与(くみ)する者もやがて滅びる。一切はそのように、滅亡するほかないのだ」。
(『南洲残影』)
この絶望は、西郷のいない明治を生きた勝海舟の感慨とされているが、昭和の終わりを迎えた江頭敦夫自身の胸中としか読めない。伊藤静雄の「反響」が、いつの間にか「抜刀隊の歌」の哀しい調べに変わっている。私は「全的滅亡」という活字を雑誌で目にした時、驚きを通り越してきょとんとした。今は「人間」が滅亡した世界への挽歌、という理解に至っているものの、『南洲残影』の悲愴感を共有することはむずかしい。
私はしょせん「戦後の子」である。かつて江頭惇夫の眼の前にあって、「戦後」には喪失し続けた日本の豊かさも朧気に想像するしかない。戦前と戦後で「一身にして二生を経る」という実感も共有できない。しかし、遺書の「形骸」という言葉は、自分自身ではなく「戦後」に向けた刃ではないか、という解釈はだんだん生々しくなってゆく。
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国文学者・上田萬年の娘である円地文子に対する江藤の愛慕の情は深い。和服で暮らし、たまに能、歌舞伎、あるいは武原はんの舞を見るような日々に寄り添いたい、という願望が溢れ出るような批評文を何度も書いている。着物の柄や白足袋に感応する素養は祖母に育てられたからであり、三島由紀夫と同じである。野上弥栄子、佐多稲子、網野菊、中里恒子らの共感や、河野多恵子への理解などを見ても、江藤は谷崎を育んだ東京の中産階級の富を肌で呼吸したほぼ最後の世代だった。
私は大久保百人町に咲き誇る「躑躅(つつじ)」を回想した「ゴールデンウィークの一日」(『夜の紅茶』所収)というエッセイが好きである。同世代の富岡多恵子の小説を一貫して高く評価したことからもフェミニズムへの親和は明らかで、江藤はいわゆる男権主義者ではない。私は、江藤の根が「社会に何ら益すところのない遊冶郎」でなければ、ここまで論じる気は起きなかった。そもそも文学は何かに役に立つようなものではないし、「無用の用」のような擁護など無意味である。ただ書く人がいて読む人がいるだけのことでしかない。
江藤淳/江頭淳夫の資質の中で、私がもっとも重要だとみているのは、「小動物」との親しさである。この点において江藤は三島と一線を画する。江頭惇夫は「犬語」を解すし、初代の〝牝のコッカー・スパニエル、ダーキイ〟から代々の犬もまた「人語」を解することでよく知られている。「犬馬鹿」であるにとどまらず、江藤のエッセイには鳥やアザラシや猿など、さまざまな小動物が出没する。西御門に引っ越して、裏手の「白梅の巨木」に「何十羽とも知れないウグイスの群」が、枝から枝に飛び交う姿をいつまでも眺める江藤の後ろ姿は感動的である。
各地に猿が出没するという報道に接して「日本はまだ大丈夫」と安心するなど、環境問題への強い関心もあり、つまり〝フェミニストにしてエコロジスト〟というファッションにもノレる感性も備えていた。骨董というものに執心した小林秀雄、あるいは「人間」を「万物の霊長」とするキリスト教圏文化とは異なる感性であることは明らかである。この資質は、小学校から転地し、結核を治癒する力があった稲村ケ崎の自然に由来する。江頭淳夫の文学的感性は、「海山のあいだ」のアミニズムによって支えられていた。
戦前の鎌倉の海岸沿いは手つかずの自然が広がっていた。太平洋に面した強い波に現れる海岸で、ペリー来航のごときアメリカ海軍の出現を警戒しつつ、自然にまみれて遊ぶ少年。伊豆半島の海沿いの道が、盟友・山川方夫が命を落とした道とつながるのも、「江藤淳」らしい偶然である。
江頭淳夫の裡には、洗練された「人為」、「原始」的感性、身体の「病」という三つの矛盾した要素が混在していた。私は俳句という定型詩ならば、内面の混沌をすべて受け止める器になりうると考えている。しかし、「第二芸術論」が華やかなりし時代、江頭淳夫のような若者が「風流韻事」に熱中するゆとりを享受する可能性はゼロに近い。やはり、「江頭淳夫」は「江藤淳」となり、矛盾をさらけ出しつつ、「戦後」と戦う定めだった。
「……かしわ手を打って拝みながら、いったい何に向かって拝んでいるのだろうか、と自問する間もなく、土地のささやきよりもっともこまやかでなまあたたかい、あの他界に去った女たちのささやきや息づかいのようなものが、耳許で聴こえはじめる。その沈黙の言葉が、葛の葉稲荷の荒れ果てた兄弟に、満ち潮のように充満して行くのが感じられる。
頭上でばさっという音がした。なにかの鳥が飛び立ったのにちがいない。正人氏は、私のために、あたりの風景をカメラに収めていてくれるところである。そのほうに歩み寄ろうとして、私はさきほどは気がつかなかったかなり大きな碑の存在に気がついた。そこには、
あひたくば
たづねきてみよ
篠田の森へ
という文字が刻まれている。
いうまでもなく、これは葛の葉の歌のもじりである。浄瑠璃か説教節ならば、ここらあたりで葛の葉が人間の女の姿に戻り、
《あゝ扨(さて)なにしにここまで来れるぞや。又々うきよのまうしうに、ひかるることのかなしや……》
と泣き崩れるところにちがいないが、小藪の片隅に立っている碑の向こうには、刈り入れがすんで水を落とした田の、灰白色の乾いた泥のひろがりがあるだけである。
また頭上でばさっという音がし、カアとひと声鳴いたので鳥は烏と知れた。「帰ろうやれ、元の古巣へ」と口の中でつぶやきかけると、眼頭に熱いものがこみ上げ、そのままこぼれずにとまった」。
(『一族再会』)
編輯同人だった『季刊藝術』に連載された『一族再会 第一部』の美しい結末である。予告されていた第二部は中絶されたままで終わった。人生でもっとも満ち足りていた頃、江藤はやはり「烏」の声を聞いていた。言葉にならぬものの気配に充ちたこの一節は、そのまま漱石が「吾輩は猫である。名前はまだない」と書き起こした時に見据えていた老子由来の「名辞以前の始原的な世界」(『漱石とその時代』)につながる。
江藤淳/江頭淳夫の後に続く者も、「閉された言語空間」の外側にある「名辞以前の始原的な世界」、あるいは「父母未生以前の闇」の前に立たなければならない。そう、烏の声に耳を澄ませながら。