- 2023年08月01日
- 映画
映画音楽急性増悪 第46回
虹釜太郎さんによる連載「映画音楽急性増悪」第46回は、ポーランドのヤン・コマサ監督の『ヘイター』『ログアウト』『聖なる犯罪者』についてです。
第46回 即興
文=虹釜太郎
『ヘイター』(英題『The Hater』 原題『Sala samobójców. Hejter』ヤン・コマサ/2020年)
マチェイ・ムシャウォウスキー、ヴァネッサ・アレクサンドル、アガタ・クレシャ、ダヌタ・ステンカ、マチェイ・シュトゥル、ジャセック・コーマン…らのキャスティングがよいけれど特に主役のマチェイ・ムシャウォフスキの表情。
本作でトメク(トマシュ・ギエムザ)を演じるマチェイ・ムシャウォウスキーは静止画でアップになるシーンがあまりに多いから。ここが壊れてしまうとどうにもならない。
そもそもトメクは論文での盗用で大学を退学になる。その退学が決まる画面から既にトメクの顔は大写し過ぎる。
冒頭でトメクが退学を言い渡される時に、面談した先生がラテン語を引用する。
「Verba volant,scripta manent」
字幕では「言葉は飛び去るが、文字は残る」と記されている。
言葉は飛ぶが、書かれたものはとどまる。
書かれたものはじっと動かずに残ってしまう、というのは、書ける文字数が500字と大きくなったThreadsより、時間差で過去日記を公表するmixiの方が思い出されたりもするけれど、時間差で過去のインタビューが掘り起こされて大きな仕事を失うみたいな事態も思い出される。本作は、時間差で過去のインタビューが掘り起こされ大きな問題になるということについてのあれこれを観直すことにもつながったり。またあまりにも普及し過ぎた動画の記録は過去の言葉は無責任に飛び去っていなくなるということ自体も変えてしまっている。Verba volant,scripta manentのVerba volantの部分自体が通用しなくもなってゆく。Threads超初期の意図的な検索機能の"劣化"も掘り起こしたちの速度を一部だけ遅くするだけかもしれず、この劣化がもし続くなら検索中毒の日々からの解放も一部の人にもたらすのかもしれないかとも一瞬思ったけれど、Threadsは今後ハッシュタグ機能解除ということだけれど、検索機能を拡げるかどうか、検索機能の扱いについてが気になる。というのもThreadsはその利用者数がピークに達した日から一カ月もたたないのに既に七割も減っているからで。ザッカーバーグCEOは「成長よりも安定化に重点を」とのことだけど。たしかに治安の悪さは検索機能からということもあるし、検索機能が無いとかなり人と人が繋がりにくいということもあるだろうけれど、繋がりにくいということは悪用からも遠くなり…検索機能が本文に無いということを貫徹できるかどうか。Threadsの非攻撃性についての映画は作られるだろうか。
トメクが当然のように行う盗聴によって傷つくことすらもないようなイントロがおもしろい。盗聴を聞いてたトメクはルームメイトに何を聞いてた? と問われるが、コメディを聞いてたと答える。
クラブでは皆がヘッドフォンをする中、ヘッドフォンで聴けるはずの音楽が流れず、映画音楽が流れるが、ヘッドフォン前提のクラブはヘッドフォンを外せば、人の話し声ばかりの酒場でしかなく、カウンターでの会話も普通に可能だけれど、トメクはそこで就職の売り込みもしてしまう。
トメクが新たにつく仕事の目標は、目標:メディアでの評判を落とす、動画の公開をやめさせる、だ。同じくSNSがメインに取り上げられた映画『search』(アニーシュ・チャガンティ/2018年)と比べてもずいぶん違う。ただ『search』でも本作でも共通するのは、SNSでの書き込みで、送信前に既に書いたものを全て消す、というのがあまりに繰り返されるところ。本作ではガービとトメクのやりとりで。
仕事上の新たなターゲットであるパヴェウ・ルドニツキに限らず、まず弱点を探せと言われるトメクだが、それらの弱点はSNS上の。
映画に一瞬登場するNDAとはNon-Disclosure Agreement。秘密保持契約または機密保持契約。政治案件は別契約とのこと。
トメクは仕事のために平然と偽アカウントを80個作る。ただ偽アカがあまりに増えた現在では、偽アカはリアルなお金は持たないけれど、逆に自由意思でお金を稼ぎまくった偽アカがBandcamp他で散財しまくるような世界のような崩壊、人間でない非人間が人間の制止が効かずに散在しまくる世界の映画は観たくはなくとも、そんな現実が到来してほしいとも本作を観ていると感じたり。
トメクがルドニツキを陥れるための仕事に励む時に流れる音楽は効果的だがかなりせつなく安っぽい。だけれどThreads超初期の利用段階でのあまりにもな虚しさにはこの音楽はわたしの中でも一瞬鳴った。
オーディオブックの「孫子の兵法」を聴いている中で突然現れるゲーム画。
しつこいSNS工作画の連続を定期的に入るオペラとゲーム画が強引にほぐし直すのだけれど、そのほぐし直しとでも言うしかないそれらは、製作というよりは定期的に必要な食事のようなそれとして定期で。
ゲーム画面モードの二人のかけあいのシーンも予想よりはるかに長かった。このゲーム画面と音楽のオペラとSNS画面の強引な連続が強引にしかし違和感なくおさまる作品にしたヤン・コマサの力。もちろん最後の最後まで映画におけるゲーム画の導入を認めない人もいるだろう。
オペラの音楽は生まれ変わったトメクにつけられているような。しかし最後にトメクがガービ一家と寄り添う(寄り添うのは一家側)場面につけられる諦めの音楽と最初とはあまりに変わりはてた冷た過ぎるトメクの視線は二度めに観た時はより唐突に感じた。そしてエンドクレジットの途中で音楽も変化する。
また本作はポーランドという規模とあまりに歴然と残る階級制度を何度も何度も繰り返し。しかしそれらの変わらなさのきつさを乗り越えてしまうトメクの達した冷たさとは。
ヘイトによる情報操作は、現在Twitterでは以前より減るようになったようでも、いまだに引用RTでも非公開でそれをされたならチェックはできなかったりなどの問題も残っていたり。Twitter以外のFacebook、LINE、Instagram、WhatsApp、Tiktok、Snapchat、Threads他でどんな問題が残されているかは利用者各自が気をつけたい人は注意しなければならないが、それらのいずれかから発する暴走の危険は誰も止められない。偽アカウントやのっとりなども横行したままだけれど、SNSから離れよという映画が他にも作られるなか、ドキュメンタリーでなくフィクションでこれができたこと。
と同時にポーランドという国(のなりたちと今後)についても考えざるを得なくなる描写も随所に。トメクが関わった選挙の崩壊の様々は、ヨーロッパ内での新たな絶望の突きつけを次々に感じさせ。最新のものらときつく膠着したまま蠕動する先に進めない無力さについてとそれらを乗り越えるいままでにはなかった何か。
ポーランドでの2022年SNS利用ユーザー数
Facebook 1,765万人
Youtube 2,720万
Instagram 1,070万人
TikTok 770万人
Facebook Messenger 1,580万人
LinkedIn 460万人
SnapChat 490万。
1カ月に利用する割合では、
Facebook 88.1%
Facebook Messenger 79.8%
Instagram 59.6%
WhatsApp 49.8%
Tiktok 34.1%
Twitter 26.2%
Skype 25.7%
Snapchat 25.2%
Pinterest 24.5%
Linkedln 16.8%
Discord 15.6%
iMessage 13.9%
Gadu-Gadu 10.9%
NK.pl 10.0%
Reddit 8.4%。
Threadsについても、bluesky、mastodonについてもまだわからない。TwitterとFacebookの利用割合についても思っていたのとは違う。ポーランドの人口は3777万人。
『ログアウト』(英題『Suicide Room』 原題『Sala samobójców』 別邦題『自殺ルーム』ヤン・コマサ/2011年)
『ログアウト』と『ヘイター』はすこし似ている。
冒頭の面接場面、オペラ、ゲーム画。
けれど『ヘイター』のトメクと違って本作のドミニクは最初はとても明るいし、トメクと違って上流階級の家庭の子。
柔道のシーンに最初にかかる音楽の違和感が繰り返し観ても印象に残る。
二回めの柔道シーンでの射精時の音楽とアニメ潜入時の音楽の入り方を見ると、ほとんどの音楽がオペラのみとなった『ヘイター』よりも本作の方がまだ映画音楽に頼っていたことがわかる(『ヘイター』での複数箇所での、小さな音だけれどサイレン音の残響は効果的だった)。
ただ本作の音での最大の特色はモニターから聞こえる声のノイズ混じり。
邦題の「自殺ルーム」は、ドミニクがネットでアバターを作成してはじめたチャットルーム名「Suicide Room」。
ゲーム画シーンがかなり長く、それらの表情の虚さと雑さがいい。ゲーム上の女性キャラが現実のドミニクを画面からはじきとばすのも。
モニターからのノイズ混じりの女性の舌打ち。女性からの反応によって顔面の改変が。この改変の描写からの音楽の入り方はゲームでもいままでの映画でもできないもので、そして虚しい。
Chouchouの音源の入り方もよいのだけれど、音楽が『ヘイター』と比べてどれもこれも散漫な入りで、ただその散り散り具合がゲーム画の無理やりの導入と合わさり、どうせまとまらない、どうせとりとめのないと不要に思えるが入ってしまう両親のダブル不倫とかと重なって先に進めない散り散りさのリズムになっていくので、全体の統一感ばかりを言っても意味はまったくなく、というのも違って、後半に現実のクラブでひとり騒ぎまくるドミニクに入るピアノからの音楽は歴然と映画音楽だった。そしてすぐに画はゲームに。
アバターと現実の姿が似てる本作の限界も多々感じるが(現実は"最下層群"キャラでゲーム内は超美形キャラなどの通例と比べ)。それにしてもあまりに長く小刻みに入り続けたゲーム画の連続が他の映画とは違う。このあまりの頻度で小刻みに入るゲーム画はその画のキャラの荒さもあわさり、この時点でしかできない達成のようにも感じる。ゲーム画とひきこもるためのドアがなければ本作はまったく違うものになっていた。それだけドアとゲームは強く出ていた。
最後でいちばん気になった音は、ドミニクの自殺試行後の深夜の母との会話時のバックにかかる断絶音とあとは音楽ではなくゲームのキャラクターたちの叫びとゲームキャラが次々消失していくなかでの音声からのシルビアの叫び。
本作を撮った後の九年後の『ヘイター』でもしつこくゲーム画を繰り返すヤン。
『聖なる犯罪者』(英題『Corpus Christi』 原題『Boze Cialo』ヤン・コマサ/2019年)
偽って神父のふりをする映画は今後も世界で作られ続けるだろうけど、本作はポーランドで神父のふりをしていた少年に関する事件がきっかけ。神父のふりは三カ月続いたらしいが、どのように神父のふりがばれたのか、またふりがばれてもどのくらい看過されたのかがとても気になるが。
実際の事件では洗礼、葬儀、結婚式も行っていた青年。本当の神父になりたいけれどなれない。しかしなった。短い時間だったけれど。
刑事ではないけれど短い時間、暴力犯罪エキスパートを堂々と演じる女性が出てくる『ブレスラウの凶禍』(パトリック・ヴェガ/2018年)という映画もあった。
『裁かれるは善人のみ』(アンドレイ・ズビャギンツェフ)、『奇跡の海』(ラース・フォン・トリアー)、『息子のまなざし』(ダルデンヌ兄弟)とも比較される本作。
一時的だとはいえよそ者を自分たちの群れに受け入れる、静かな受容(完全な赦しでなく)について監督はインタビューで語ったけれど、ここでは音を中心に。
最初に驚くのは主人公の青年の歌声。
少年院内での暴力や出所後のクラブ、性交などのシーンはあまりに短く、その後の村にたどり着いてからのばれないかなばれないかなの生活からはゆっくり静かで、青年の話す"適切な言葉"たちが。
青年ダニエルを演じたバルトシュ・ビィエレニアの虚ろでいて強く、そして常に他人に静かに問い質すような不思議な瞳が本作に流れる時間にあっていて。本作では初めて視る瞳の演技が常に大切なように感じる。と同時に
演技とははたして何かについても同時に観る者を襲う。すると不思議な瞳はそれでいいのかという強い疑いが沸き起こったりもする。
神父として過ごす最初の夜に静かに短く流れる音楽。
いきなり告解をこなす青年の言葉。
その後の沈黙と青年の瞳孔。
先輩牧師との静かな対話がなぜか少林寺映画の数々を思いださせる。そしてタルコフスキーがこの題材で撮っていたならどうだったかも。そして実に恐ろしいことだけれど、いままで映画で神父を演じてきた俳優たちのすべての演技を宙吊りにしていく。そのことは監督の意図も超えて。
そして映画で神父が話しはじめるのは何度も聞いてきたはずだけれど、本作ほどそれを緊張して聞いたことはなかった。村の教会での初めての青年の歌声とそれと重なる安堵の笑顔はなんと貴重なものだったか。そして部屋でリラックスして笑う青年の時間のあまりの短さが怖い。
悲しみを癒すのには心の痛みを実際に強く声に出すしかないことを村人たちに伝える青年。
さらに神父のオフ時の会話や音楽たちからは、演技の演技、二重の演技の必要性を強く感じる。そしてわたしが見せられている演技とは何かという疑問もより強くなり。
本作はまたなんらかの事情で、作品内で神父を非神父が演じなければならないような環境(『エイリアン3』の製作中止バージョンみたいな作品たちをも含む)での作品の作り方についても考えさせられるし、音楽家による即興と非音楽家による即興の違いについても考えさせられるけれど、それらを論じる力はわたしには到底ないので誰かできる方はぜひ。
本作の最後の白い煙の中に消える青年の喧嘩は無類の後味の悪さだけれど、本作が残したひっかかりはいまだかなりの大きさのまま。