- 2023年05月11日
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江藤淳/江頭淳夫の闘争 第8回
風元正さんの不定期連載「江藤淳/江頭淳夫の闘争」の第8回目の更新です。江藤淳は文学者の眼でもって「第三の世代」の次世代の作家たち、三島由紀夫の自決、川端康成のガス自殺など、戦後の時代をどのように捉えたのでしょうか。
「戦後」との訣別
文・写真=風元正
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「文芸」の1966年8月号から連載開始された『成熟と喪失』は、江藤の文芸評論の中でもっとも参照されることが多い。安岡章太郎、小島信夫、遠藤周作、吉行淳之介、庄野潤三という、いわゆる「第三の新人」の小説を扱った評論がここまで生命力を保っていることは単純に不思議だった。そもそも、「第一次戦後派」「第二次戦後派」がいて、「第三の新人」と呼ばれる一群の作家がいるわけだが、大家になっても業界では「新人」と呼ばれ続ける慣習にも奇妙なおかしさを感じていた。
「第三の新人」は1920年前後に生まれ、戦中に成人し戦後に文学的出発をした世代である。軍隊に応召された中ではもっとも若く、左翼活動の洗礼は受けなかった若者たちが長じて作家になり、その作品についての評論が時を経て重要さを増したのは、やはり偶然ではない。戦後社会のどの分野でも中心を担うようになったのは、ノンポリでさほど声が大きくない、わりと軽く見られがちな「第三の新人」と似たタイプの人々だった。江藤の着眼点は戦後社会論として秀逸である。
もっとも、江藤の視線は、「第三の新人」が「中学生的な感受性を武器にして文壇的出発をとげた」(『成熟と喪失』)というように辛辣であり、エリック・エリクソンの『幼年期と社会』を援用した議論は通常の作品論の枠を越えていた。安岡章太郎『海辺の光景』から日本人男性に特徴的な「母子密着」を見出し、「米国の母子の疎隔ぶり」との差異を際立たせる。小島信夫の『抱擁家族』の主人公の妻・時子の「アメリカ式のセントラル・ヒーティング」への強い欲求から、「人工に憑かれて自己崩壊の道を選んだ「母」」(同前)の悲劇を読み取る。
作者の意図を忖度しない江藤の読解が説得力を持つのは、敗戦と「一九四六年憲法」による「家」の崩壊、という社会現象が圧倒的な速度で進んでいたからである。『成熟と喪失』を高く評価する上野千鶴子がフェミニストとして自己実現を貫いたことは歴史的必然だった。「近代の政治思想が実現すべき理想として来たのは、近代以前の「被治者」を一様に「治者」にひきあげようとすること」という観点から、庄野潤三『夕べの雲』の主人公である父親に「不寝番」の役割を果たし続ける「治者」の理想を託そうとしたものの、永遠の「新人」が最終的に「父」たりうるかは心もとない。
江藤は同じ留学経験を持つ小島信夫の小説から、「アメリカ」という戦後の「父」を名指す。「本当をいへば、自分はもう父と母といつしよにすみたくなから」(『海辺の光景』)という「近代」の欲望を実行しつつ、「家庭」を立て直そうとした『抱擁家族』の主人公は、妻の死により「夫婦」と「母子」を隠微に重ね合わせた関係から追放された。江藤が小説群から読み取ったドラマは、現代日本においては日常茶飯事となり、「成熟と喪失」というタイトルは象徴として引用され続ける。
70年、江藤は『漱石とその時代』で菊地寛賞と野間文芸賞を受賞し、佐藤栄作内閣のブレーンに招聘される。71年に東京工業大学助教授に就任し、ニューヨークで開催されたジャパン・ハウスの開館式で、ジャパン・ソサエティ会長、ジョン・D・ロックフェラー三世の前でスピーチを行うなど、国際的知識人として活躍の場を広げてゆく。参加した商業同人誌『季刊藝術』でも、編集者だった古山高麗雄が芥川賞作家に成長するなど、着実と社会的な成果を上げていた。しかし、江藤の荒ぶる魂は、健やかな「成熟」を享受することはできない。
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4年の休止を経て毎日新聞で時評を再開した江藤は、70年新年号の回では、真っ先に森有正の「雑木林の中の感想」を取り上げた。パリに19年間住み、アパルトマンを買って借金を返し、娘のためにも別の部屋を確保できるような生活となって、「住居が自分のものになったとき、はじめて「もの」の実質的な手ざわりがあきらかになりはじめた。それなら経験とは、なにかを自分が確実に所有しているという感覚である」という。その「経験」は逆にいえば、「現在の日本に経験を可能にするような「もの」の手応えが欠けている」ことを意味している。
江藤は、森が「民主主義」、「自由」、「平和」、「文化」という戦後的な概念について、「いったん戦に敗れると、一夜でもう昔からそういう価値を生活の中心としていたかのように思ってしまった」と見る政治への見解に注目する。しかし、森有正のいう「経験」は、個から普遍へ向かう哲学的な契機も含んでいる。森は、集中講義のために一月半、日本に帰ってきた間にもひとつの「経験」を持った。
「私の宿舎をとりかこむ雑木林は、いわゆる名所ではない。それは国木田独歩や徳富蘆花によって、名所としてではなく、しかしあのように深い感動をもって描写され把握された東京近郊のささやかな自然である。私はこの名もない雑木林の中を歩きながら、私の心がその奥底から安らぎ、感動するのを経験した。そこにはヨーロッパの公園や花壇に見られるような、規律正しさや色とりどりの華やかさは全くない。灌木が奥の見通せない程厚く密生し、黄ばんだ落葉がその下草を覆いつくしている。何の物音も聞こえない。しかしそこには私を生んだ土地の生命が静かに呼吸し、私の存在はその中に音もなく融け込むようであった。」(「雑木林の中の反省」)
三鷹のICUの近所だから、野川公園の辺りの雑木林での散歩だろう。森の、独歩や蘆花の感動を追体験した喜びが鮮やかに伝わってくるし、「武蔵野」の自然は今も変わっていない。「経験というものが集団的というものよりは本来個人的なもので、一人一人のライフ・サイクルとわかちがたく結びついており「永遠の繰り返しのほかならない」もの」という森の時間観に共感する江藤は、『成熟と喪失』のテーマである戦後社会の変容から、もう少し原理的な問題に視線を移していた。
充実した「もの」が登場する小説として、たとえば吉田健一の「瓦礫の中」を挙げることができる。江藤が「実際私は、これほどうまそうな食事の話が出て来る日本の小説をあまり読んだことがない」と称賛するこの作品は、空襲で焼け野原になった東京で、闇市で入手したような食材で当時としては豪勢な食事をするだけの話なのだが、江藤のいう通りとても「愉しい」。
「さういふ調子で二人は飲み始めた。併し食事をしに来たのだからだつたから二人は間もなく食堂で卓子越しに向かひ合つて、寅三は給仕が持つてきた献立てにアメリカ料理、フランス料理と左右にわけて品書きが刷つてあるのを見て可笑しくなつた。他に酒の献立があつた。
「この豚と豆の煮たのでウイスキーというのはどうだらうね。」
「馬鹿だね、貴方は。西部で金鉱を掘り当てた連中はその豚と豆でシャンパンを飲んでゐたんだ。どんな味がしたかね。案外旨かつたかも知れない。シャンパンてさういうものだから、御存じのやうに。併しさう見くびられちや困つて言つたんだからね、先づこの、」と言つてジョーは酒の献立の一箇所を指した。「これとカヴィアはどうだろう。」」(「瓦礫の中」)
単なる鑑賞家として振舞えるのであれば、森有礼の孫で1911年生まれの森有正と吉田茂の息子で12年生まれの吉田健一の作品のような、有力政治家の一族の出で西欧文明にどっぷりと浸る余裕と豊かさがあった世代が展開する、「敗戦」を経て「瓦礫の中」からでも戦前から連続した思考を続けている強靭さを愛でていればいい。祖父が海軍中将だった江藤も森や吉田の生育環境の残り香を味わいながら育っていた。
しかし、時評家は新たな可能性を発掘し続けながら展望を見出す責務がある。江藤は70年に時評を再開する前は、「日本浪曼派」の再来とも見える「新しいナショナリズム」を批判しつつ、「国家」と「正統」について考え、共同体の基本単位としての、あるべき「家」の姿を考えようとする姿勢を保った。そして、相対的な優秀さを認めた「第三の新人」の小説を徹底的に読み込んで『成熟と喪失』という批評作品を書いた。
しかし、その試みにより、文学というジャンルの将来がむしろ閉じる方向にあることが実感された。「第三の新人」はずっと「新人」のままで、江藤の期待するような「成熟」は訪れない、という予感は確信に近づく。そして、彼らがこのまま戦後の文芸ジャーナリズムの共犯者として歩みを進めるならば、荷風のごとく「反俗」を貫き通す作家はまず現れない。勝海舟のような卓越した「政治的人間」でない吉行淳之介のような作家でも「文壇政治」はできるし、安岡章太郎のポエジーは戦後の貧困な環境の中では、本物の輝きはなくとも貴種となる。一方で、小島信夫の伝わりづらい狂気が社会的な広がりを持つことはむずかしい。つまり、「第三の新人」は、あくまで文壇内で「戦後」の現実をずるずるべったりと受け入れてゆくしかない。
当たり前の話であるが、「第三の新人」と似通ったキャラクターの社会人たちに「父」としての「成熟」は訪れなくとも、生物学的な父親にはなれる。そして、江藤自身が子を成し、江頭家の「家長」として振舞うこともできそうもない。索漠たる戦後の現実が目の前に広がってゆく。
では、「第三の世代」の次世代はどうなのだろう? 「文壇生活の同期生」開高健の代表作であり、「開高氏がこれまでに発表した作品のうちで、もっとも充実したすぐれた作品」と評する69年10月発表の「夏の闇」の一節を引いてみよう。
「はずかしそうに軽く腹を撫でて女は微笑した。眼は輝いているがうつろで、煙のようなものがたちこめ、汗にまみれて男の腕のなかからのがれていくときにそっくりのまなざしであった。飽満が仮死ならば美食が好色と同じ顔になっても不思議ではなかった。ぶどう酒の酔いは豊沃な陽に輝く、草いきれのたちこめた、なだらかな丘なので、頂上すぎたあとも豊沃は緩慢につづいていき、いよいよそれは性に似てくる。しかもただ味わいたいばかりで求めていながら、たとえば女のくちびるのきわあたりに冷酷な傲然の残影が一翳りもあらわれていないのは、どうしてだろうか。」(『夏の闇』)
江藤は『夏の闇』の主題は「欠落」であり、「登場する男と女は、まず事物との親和感の欠如に悩んでいる」という。『夏の闇』は手連手管を尽くした美文に溢れているものの、世界に対する倦怠しか表現されておらず、深い徒労感が読みどころの小説である。森や吉田の「もの」との関係が健全な朗らかさは、望むべくもない。勉強家の開高の視野には当然、森有正や吉田健一の文体は射程に入っていたはずであるが、技巧の鍛錬により倦怠が豊かさに反転できるのであれば誰も苦労はしない。はたして、開高の倦怠は現代人にとっての普遍的な現象なのか。
「夏の闇」と同じ月に発表された大江健三郎「みずから我が涙をぬぐいたまう日」については、その主人公である「かれ」が「普通名詞よりはあいまいな個人的な言語を、現実より幻想を、他者よりは自閉を選ぼうとするのか?」という本質的な疑問を抱く。江藤は「他者」に開かれていない大江作品より「夏の闇」の主人公の方を「まだなんとかなる余地があるかなあ」とかすかな希望を記した。しかし、開高は、正義のないベトナム戦争の悲惨さを取材することで向き合った人間への懐疑と絶望から別の境地へ転じることがかなわず、「もの」の感触を求めてノンフィクションに活路を見出す。
江藤との幸福な並走をしていた大江の初期作品には「もの」の感触が氾濫していた。「死者の奢り」の死体や「飼育」の黒人兵の生々しい実在感が忘れがたい。あの世界はどこへ行った、と批判する江藤の感覚は健全だろう。とはいえ、いかに好敵手としても、大江が作家として書き続けるため苦闘しながら選び取った文学的な選択肢を全否定されては、江藤と訣別し敵と見做すのもまた当然である。2人の関係に、「右」か「左」などという政治的な立場の違いは、まったく影響していない。
71年1月の時評で江藤は、「いったいわれわれは、いつごろから「意欲」や「意図」という奇怪な代物にとり憑(つ)かれて、自分の杯で汲(く)もうとすることを忘れたのだろうか。高橋義孝氏が、「鷗外の中にある私の一問題」(新潮)で、鷗外の小品「杯」のなかの一句、「Mon verre n'est pas grand je bois dans mon verre.『わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます』」を引いている。結局われわれは、個人としては自分の資質と才能の限界のなかに閉じこめられ、日本語で書く者としては日本語の伝統の拘束を逃れられないのではないだろうか」という悲鳴を上げている。
江藤淳はあくまで文学者として生きようとしていた。
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江藤が「戦後」に愛想を尽かしたのは、いつ頃のことなのだろう。その気配が濃厚に漂い始めたのは、梅崎春生の「幻化」という晩年の傑作を発見した65年5月の時点だと考えている。精神病院からぬけだした男が、何も持たずに国内線の飛行機に乗り込み、20年前に海軍の下士官として敗戦を迎えて鹿児島の坊津に出かける話である。
「「ああ、あの時は嬉しかったなあ。あらゆるものから解放されて、この峠にさしかかった時は、気が遠くなるようだった」
その頃もバスはあったが、木炭燃料の不足のために、日に一度か二度しか往復していなかった。坊津の海軍基地が解散したのは八月二十日頃かと思う。五郎はまだ二十五歳。体力も気力も充実していた。重い衣嚢(いのう)をかついで、この峠にたどりついた時、海が一面にひらき、真昼の陽にきらきら光り、遠くに竹島、硫黄島、黒島がかすんで見えた。身体が無限にふくれ上がって行くような解放が、初めて実感として彼にやって来たのだ。
〈なぜこの風景を、おれは忘れてしまったんだろう〉
感動と恍惚のこの原型を、意識からうしなっていた。いや、うしなったのではない。いつの間にか意識の底に沈んでしまったのだろう。」(「幻化」)
旅の途中に発見した原風景の描写である。主人公の「狂人」五郎は、病院で見た宇宙船から乗員が出て空中散歩する「人類史上画期的な瞬間」が、「ぶよぶよした貝の肉のようなものから、畸形(きけい)の獣めいたものが出て来る」「ひどく醜悪なものに見え」る状態なのだが、脱出した自分も同じように「醜怪なもの」であり、「現実に角を突き合わして、手痛い反撃を受けただけの話だ」(同前)と思う。
そして五郎は、「芭蕉(ばしょう)の葉で芭蕉扇をつくって呉れた」「奄美大島出身の兵長」である「福」が、敗戦まで3週間なのに、強い酒を吞んで坊津の湾の「双剣岩」まで泳ごうとして溺れた過去を、土地の「出戻りの女」に告白する。五郎の狂気は、「同じ汽車に乗り合わせた」「同行者」の「連帯感」が信じられなくなり、「酒をのんでも、勝負ごとにふけってもだめだった」から発症した。わが国の近代小説の中でも、生き残った者の「戦後」がここまで明晰に言語化された作品は稀である。
江藤は、「幻化」を「単純な青春再訪の物語ではない」と規定しつつ、「この不毛な孤独は、もともとあの敗戦直後の「あらゆるものからの解放」の甘美さの裏側に潜んでいたものではなかったであろうか。作者はそうは書いていないが、私には「いろいろなものとのつながり」を求める不安や焦燥とは「あらゆるものからの解放」があたえた恍惚の皮肉な、しかし当然の帰結であるように思われてならなかったからである。/いずれにせよ、この狂人を主人公とする小説は、日本の戦後の姿を象徴的に定着させてもいる。それは解放がそのまま喪失だったような時代であり、チンドン屋の真似に憂身をやつして生きている人々がそれを自覚していない時代である」という。梅崎の「喪失感の深さ」は、江藤の「戦後」感覚とぴったりと重なる。
しかし、より大きな喪失は、「幻化」の「異常な冴え」に感銘を受けて旧作を読み直している最中、65年7月19日に梅崎が急逝したことだったろう。江藤は死の2週間前、テレビ番組の収録で梅崎と偶然に同席し、「打合せをしているとき、氏は夏の背広のポケットからウイスキイの小びんをとり出して、出された紅茶のなかにドクドクとそそぎ、それをうまそうに飲んで、てれたように笑った(…)その瞬間にこの梅崎氏の姿は「幻化」の主人公と重なりあって私の記憶に焼きついた」といい、作品のために命をちぢめた作家をうらやみ、「ねがわくは、私の上にもむしろこのような死があらんことを」という生々しい感慨を書きつける。江藤にとってかけがえのない「戦後」の精神が、またひとつ消えた
海軍少将の息子で江藤の同世代の久世光彦は、「戦中のほとんどの時期はだいたい普通に暮らしていたし、別に貧しくもなかったんだよ」というのが口癖だった。実際、本土への空襲が頻繁になる前は、物資をはじめさまざまな不足はあり日常は窮屈だったにせよ、戦地でなければ命の危険を感じる状況ではなかった。久世は、大本営発表に一喜一憂する日々には、ある一定の静かな充足と豊かさもあった、ともいう。もちろん、出征した兵士たちの苦しみは想像を絶するわけだが、「戦争体験」を語れるのは生き残った者だけであり、真に辛酸を嘗めた者たちはいち早くこの世を去っている。
戦場経験のある作家でも、島尾敏雄の特攻隊経験をモチーフにした作品群は、毎夜繰り返し見る悪夢のような形で抽象化を施されている。それは、精神的外傷になった体験を普遍の視点から相対化しようという試みであり、島尾の「戦後」を生き延びようする戦略が見て取れる。梅崎の「幻化」は、処女作の「桜島」の世界に立ち帰り、圧倒的にリアルで夢のようでもある玄妙な小説空間の中で、戦場体験の絶対的な一回性を確認した「遺書」のような作品であった。梅崎の作家としての生の閉じ方は、同じく遺書のような作品を何篇も書いてしまっていた山川方夫の偶然の死にどこか通じる。
私は、86年に発表された耕治人の「天井から降る哀しい音」に感銘を受けて原稿依頼したことがある。最初は100枚ほどの原稿を受け取り、冗長で繰り返しが多かったので改稿をお願いし、気を揉んでいるうちに癌で入院されて、「幻化」を持ってきて下さい、といわれた。病床での「げんくわ」という声と、「もう大丈夫です」という言葉が忘れられない。病床で大学ノートに大きな読みやすい字で書き直した「どんなご縁で」という作品は引き締まったすばらしい作品で、しかし、「どんなご縁で、あなたにこんなことを。」という奧さんの言葉の意味がすんなり呑み込めなかったのをよく覚えている。耕が完成した最後の短篇。「幻化」のご霊験はあらたかであった。
梅崎よりやや歳が若い「第三の新人」には、生涯を見渡しても「遺書」のような作品は見当たらない。戦後の文芸ジャーナリズムの拡大と成長を共にした作家たちの宿命だろう。小林秀雄は、強い意志をもって『本居宣長』を「遺書」とした。もっとも小林には、正宗白鳥、谷崎潤一郎、志賀直哉のような、書きたいことだけを書いて、ただ死ぬという自然さは望めない。世代的な限界なのか。そして、梅崎の作家としての幸福を羨んだ後、1970年11月25日、三島由紀夫の自決という大事件が勃発する。
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「小林(秀雄) (…)日本人は実にわかりやすいものがある。三島(由紀夫)君の悲劇も日本にしかおきえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。
江藤(淳) そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものなんじゃないですか。
小林 いや、それは違うでしょう。
江藤 じゃああれはなんですか。老年といってあたらなければ一種の病気でしょう。
小林 あなた日本の歴史を病気というか。
江藤 日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。
小林 いやア、そんなこというけどな。それなら、吉田松陰は病気か。
江藤 吉田松陰と三島由紀夫とは違うじゃないですか。
小林 日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件にしたってそうです。
江藤 ちょっと、そこがわからないんですが。吉田松陰はわかるつもりです。」
1971年7月、三島の自決の半年後「諸君!」に掲載された「歴史について」の問題箇所である。小林秀雄と江藤淳の違いがよく分かる会話だ。あらかじめ断っておくと、私はどちらも正しいと考える者である。もとより、自殺の真の理由など他人にはわからない。
江藤は時評では、渋沢龍彦の追悼文に共感し援用しながら、「虚のアイデンティティを完成するために、作者は「刻苦勉励」した。それは平岡公威という生来のアイデンティティを喰って育ち、戦後のジャーナリズムのなかに生きた。そして「三島由紀夫」が完成されたとき、それはまったく実在から離れた。渋沢氏のいわゆる「完璧」な「狂気」とは、おそらくこのことをいうのである。事件はこのような虚の世界でおこったのであり、したがってリアリティを欠いている」と評する。渋沢/江藤の「虚の世界」と小林の「歴史」は対立する関係にあるのか。
小林は「外国人にはなかなかわかりにくい事件」というが、三島の自決について考える時、日本と日本人について大胆な診断を下したひとりの哲学者の議論が、今更ながら頭に浮かぶ。
「「ポスト歴史」の日本の文化は「アメリカ的生活様式」とは正反対の道を進んだ。おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」或いは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。だが、生のままのスノビズムがそこでは「自然的」或いは「動物的」所与を否定する規律を創り出していた。これはその効力において、日本や他の国々において「歴史的」行動からうまれたそれ、すなわち戦争と革命の闘争や強制労働から生まれた規律を遥かに凌駕していた。(…)究極的にはどの日本人も原理的には、純粋なスノビズムにより、まったく「無償の」自殺を行うことができる(古典的な武士の刀は飛行機や魚雷に取り替えることができる)。この自殺は、社会的政治的な内容をもった「歴史的」価値に基づいて遂行される闘争の中で冒される生命の危険とは何の関係もない。最近日本と西洋社会との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。」(『ヘーゲル読解入門 『精神現象学を読む』アレクサンドル・コジェーヴ)
ロシアからフランスに亡命したコジェーヴが、「ポスト歴史の世界」について考察した書として名高い、1933年から39年まで行われたヘーゲル講義の、68年の第2版の注として書き加えられた文章である。フランシス・フクヤマの「歴史の終焉?」もコジェーヴを踏まえているし、東浩紀の『動物化するポストモダン』の「動物」も『ヘーゲル読解入門』からの引用である。「ポスト歴史の時代の固有の生活様式」は「アメリカ的生活様式」であり、「人間が動物性に戻ることはもはや来るべき将来の可能性ではなく、すでに現前する確実性として現れた」(同前)というコジェーヴは、59年の日本への旅で知った「生のままのスノビズム」に未知の可能性を見出す。
コジェーヴは、三島が依拠したジョルジュ・バタイユの盟友であり、フランスにヘーゲル哲学を定着させた哲学者であると同時に、政治の領域では欧州経済協力機構の対外経済関係局特務官として活動するなど、戦後体制の確立に尽力した。そして、スターリンを「父」と慕い、ロシアのマルクス主義の新たな展開を探っていた点でも、「最も成功した社会主義国家」と呼ばれる日本の「戦後」とどこかで響き合う。
90年、柄谷行人が「歴史の終焉」でも指摘しているが、三島事件以前に「純粋なスノビズム」による「まったく「無償の」自殺」という概念が提示されていることには驚く。コジェーヴのいう「「歴史の終末」の期間を、すなわちどのような内戦も対外的な戦争もない生活を経験した唯一の社会」(同前)である日本の「歴史」が、小林のいう「歴史」と重なるとすれば、江藤のいう「病気」とも大きく食い違うことはない。もちろん、ベルグソンに学んだ小林とマルクスと同じくナポレオンに「歴史」を見たコジェーヴの思想はまるで違う。にもかかわらず、結論が妙に近い地点に落ち着くのが不思議である。
もちろん、小林と江藤の対談現場での応酬は緊迫していただろう。小林先生がお酒を召されたせいで、避けるつもりだった三島の話題をつい口にしてしまった印象も受ける。江藤、そして三島は、戦後に展開されつつあった「ポスト歴史の世界」に現前する「アメリカ的生活様式」による「動物化」に対して徹底抗戦しようとしていた。小林はもっと長いスパンで日本の「歴史」、あるいは「道」を見ようとしているのだから、嚙み合うはずもがない。しかし、小林と江藤が対立するたびに、問題のより深い層に光が届いて行く。
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「江頭淳夫」がなぜ「江藤淳」というペルソナを必要としたのか。たとえば、60年1月、大江健三郎「セヴンティーン」と三島由紀夫「憂国」が同時に発表された時、「「憂国」の美しさと至福は、完全な無思想の美しさであり、いいかえれば全く外面化され、「個性」の檻を超えて観念と様式のなかに解放された「私」のはなつ美である。大江氏の「セヴンティーン」の主人公が求めているのも同じこと」と強く感応し、2作品とも高く評価している。 しかし、ついつい本音が出たとしても、江藤は批評の現場においては、「セヴンティーン」「憂国」のようなラインを常に危険視し、極端な右翼的情熱には接近しないように細心の注意を払っていた。
そもそも、伊藤静雄や堀辰雄に耽溺するロマン主義者が「江頭淳夫」の本質であり。その感性は日本浪曼派に近い。1964年に出た磯田光一『殉教の美学』は犀利な三島論であり、日本浪曼派の論理と感情にもっとも深く入った批評だった。しかし、「美学」という形で客観視できることは、自分自身はロマン主義の魔に感染しない、という資質を告白しているに等しい。危険な衝動にブレーキをかけられる、という意味で生きるのには楽かもしれないし、感情の病気を医者のように診断できることは批評家としての武器だが、感染してしまう者のような「行動」をしない物足りなさがつきまとう。私は磯田を貶めるつもりはなく、むしろ批評家としては本道かもしれない。ともあれ江藤淳は、臆病で自己防衛的なのにもかかわらず、ついロマン主義者として「行動」してしまう人だった。
「散文」の確立を目指す福沢諭吉的な近代主義者という一方の大看板もまた真実である。矛盾に充ちた江頭淳夫の内面はどうしても隠したい。それにしても、「第三の新人」の限界を見定めた後、「もの」というサルトルの「嘔吐」のテーマに通じる普遍性をベースに据えて「リアリズムの源流」に向かうつもりだった時期、荷風のような頑固老人としてお目付け役になって欲しかった三島に45歳で派手に自死されてしまっては、目論見が大きく狂ってしまう。
時評では「「天人五衰」の最終回を通読すると、作者が小説をつくり上げることに倦んでいる様子がありありとうかがわれる。この作者は人間にも実在にも、ほとんどなんの興味も示していない。それも当然であって、作者にとって思想も、政治も、ボディ・ビルも剣道も、小説すら「三島由紀夫」という第二のアイデンティティをつくり上げるための素材にすぎなかった」という。しかし、江藤自身が「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。/庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。」という「天人五衰」の最後の一節や、松枝清顕の転生物語もすべて幻というロマン主義者の幻滅と無縁な充実した存在であるはずもない。
「一旦、日常生活が復活した以上、そこであからさまに「破滅」や「崩壊」の期待を語ることはすでに悪徳である。精神は、日常的なものを恒に否定しようと作用する点で「悪」であるが、「破滅」の渇望はもっとも純粋に精神的なものであるから、当然「極悪」に属している。だが、困ったことに、日常生活のなかでは、この「極悪」が恐れられるより嘲笑されるのだ。嘲笑されることなく、すでに「戦争」によって明らかに確証されている「珍事への期待――三島氏にとっての唯一の真実を守りつづけるにはどうしたらよいか。比喩が生れ、魔術の論理が駆使されるのはここにおいてである。それは三島氏の正当防衛であるが、この攻撃的防御の独創性は、優に氏を時代の子とするには足りた。」(「三島由紀夫の家」)
1959年に発表された『鏡子の家』についての、作品に対しては批判的なのに三島の信頼を得た江藤の書評の一節である。この悪魔的な読みの深さは、文学的能力ゆえの冴えというより、江藤淳、いや江頭淳夫が正直に自分を告白しているからであろう。三島、大江、江藤は精神の同族である。大江健三郎が「戦後民主主義」の優等生として振舞い続けたことを揶揄する向きもあるが、止みがたい「狂気」、あるいは強烈な自殺衝動に対する心の安全弁として必要だったことは明白である。大江はよく、88歳になるまで我慢した。
長く辛抱できた理由は、国家官僚の家に生まれ祖母の強い影響下で育てられた東京っ子である三島と江藤と、四国の山奥の自然にまみれて幼年時代を送った大江という生育環境の差に求められるのかもしれない。しかし、ノーベル賞受賞以後の、キャリア全体を否定しかねない勢いの「晩年の仕事」の不穏さにこそ、作家・大江健三郎の本領が現れている。『取り替え子』の右翼に衝撃されて傷が残る右足の痛さには、「もの」の感触が確かに息づいていた。江藤に読ませたかったが、「敵」がいなくなったから書いた、という意図もありそうで、一筋縄ではゆかない。
「《わたしは夕な夕な
窓に立ち椿事を待った、
凶変のどう悪な砂塵が
夜の虹のやうに町並の
むかうからおしよせてくるのを》」
江藤が書評の冒頭に引用した、40年1月の日付がある三島の「凶(まが)ごと」という詩である。大江にも、江藤にも、同じ主調低音が鳴り響いている。その音楽が、「戦後」の年月によりかき消されそうになり、三島は最後の「攻撃的防御」として、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説と自決という暴挙を選択した。これだけ明晰に三島の正体を捉えている江藤が、「病気」という当たり障りのない捉え方に留まるはずもない。しかし、まだ生きて「行動」するつもりの「江藤淳」は、大江の「戦後民主主義」と似た常識の砦に閉じ込もる。山川方夫に続き真の戦友になりうる三島を失った「江頭淳夫」は、黙って天を仰ぐほかない。梅崎が、三島が、江藤が共有した「戦後」は、夕陽のごとき強い光芒を放ちながら、その寿命を終えてゆく。
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文学者ならばだれしも、三島の死という大きな衝撃から、簡単に立ち去ることはできない。江藤は平岡梓の『倅・三島由紀夫』を称賛し、「三島由紀夫というようなスター作家の場合(三島氏だけではないが)、世間は案外作家が見てほしいように見ているものだ、ということである。「心の友」のみならず、ジャーナリズム一般もまた虚像づくりに一致協力し、実像をかき消してリアリティを見る眼をなくして行く、という事実である。今日、三島由紀夫の生きた実像を見つめることができるのが、文土ではなくて〝骨肉〟の厳父のみだということぐらい、文学者の眼の衰弱を物語るものはない」と評した。
江藤は「厳父」による、我も我もと三島の「心の友」が告白を始めるジャーナリズムの滑稽さについての厭味に、文壇外に生きている者の常識を認める。しかし、「こう考えてくると親から見た倅と申しても、絶えず人との接触、会合で感覚を交流している倅のことを、自宅でただご馳走でも作ってその帰宅を待ちわびている僕たち両親は、何人より一番倅のことを知らないと言えましょう」(『倅・三島由紀夫』)という一行を発見し、心がもやもやし始める。「厳父」は息子の作品を常に愛読し、「楯の会」のメンバーとも接触し、父子の会話は頻繁だった。三島の住む洋館と同じ敷地の離れに住んでいたから当然としても、ずっと作品の第一読者であり続ける母親も含めて、45歳で子もいる三島と御両親は「子ばなれ」があまりにも進んでいない。
嫁である瑤子夫人が著書に一度も登場しないのもちょっと異様で、世評通りかなりの変人である元農林省水産局長・平岡梓は、「鳶が鷹を生んだ」(同前)単なる親馬鹿なのかもしれない。同性愛者であるのか否かにかかわらず、両親と大芸術家の娘である妻の間に立ち、家族円満も演出する必要もあった三島の心労は察するに余りある。小林が「日本の歴史」と呼ぶ何かと別の次元で、江藤の「病気」説も、案外、当たらずとも遠からずという気がする。
名エッセイ「戦後と私」は、「敗戦以来、私はいわばいつまた父がゴルフをやりはじめるだろうかと心待ちにしていた」江藤が、「二十数年ぶりでゴルフのコース出たら少しもあたらなかった」という葉書を受け取るところから始まる。「大して出世もしなかった銀行員」である「父」と息子・江頭淳夫の関係も、奥歯に物が挟まっているような印象を受ける。少なくとも、出世した息子に対して、「父」の威厳を示すような人ではなさそうだ。生みの母を早く亡くした長男に対して、腫れ物に触るように大切にした継母は、とても優しい、いい人だったのだろう。
江藤と三島の生家、そして父の自殺という辛酸を嘗めた大江家も含めて、いち早く『成熟と喪失』の問題系を抱えている印象を受ける。もしかすると、明治末の生まれの「父」の世代から、「家」の崩壊は始まっていたのかもしれない。戯れに、昭和天皇が側室を持たなかったという「近代化」を目指す美談からすべては始まった、と言っておく。少なくとも軍隊に壮丁を取られた多くの「家」は、例外なく維持が困難だったはずだ。「金田一耕助」が登場する横溝正史の探偵小説の悲劇を見よ。
72年4月16日の川端康成のガス自殺について江藤は、「心のなかで「なんとひどい、まずしい時代だろう。いたるところに穴があいている」というようなことを、つぶやきつづけていた」という絶望を表明する。江藤は川端の《敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰ってゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるのもあるひは信じない……》(「哀愁」)という言葉を引きながら、いったい眼の前の現実を信じられないものが、何に「もののあはれ」を感じるのかと問いかけ、「〝現実喪失〟の文学」の脆弱さを指摘する。ここで、川端の盟友だった横光利一の「純粋小説論」が、平野謙の「アクチュアリティ=コミット説」の元ネタであることを忘れずにおこう。
「人の死が平等なものでありながら、きわめて個性的なので、人それぞれの顔に似ていることを思えば、私はとうてい川端氏の死を三島由紀夫の死と関連づけるような心境にはなれない。しかし、あらゆる貴族趣味の外観にもかかわらず大衆社会の産物だったという点で、川端氏の文学が三島由紀夫の文学と奇妙に似通っているということは否定しがたいのである」という江藤は、実は磯田光一と同じ立ち位置にいる。では、江藤自身はどこにいるのか。戦場体験のある梅崎のように「遺書」を書く立場ではなく、鮎川のいう「遺言執行人」でしかありえない。しかし、いったいだれの「遺言」を受け取っているのか。ここで安岡の「幻影」という言葉が、いよいよ重くのしかかる。
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私は、江藤のとりあえずの弥縫策の賢明さが好きである。三島や川端の死の前に、森有正や吉田健一が保っている「もの」の感触という時代に左右されない文学の原点に還ったのは、迫りくる悲劇を直感していたからだろう。もう、人間が「成熟と喪失」をきちんと体験し、表現することを待っていられる時代ではなくなっている。
同世代作家では高く評価していた古井由吉についても、「あいまい」さに向かう作風の転換を看過できなかった。芥川賞選考会の席上で滝井孝作が使った「朦朧(もうろう)派」という言葉を借り、「いったい作者はものが在る、という立場を取っているのか。あるいは感覚が在る、という立場をとっているのか。おそらくものが在ることを否定していると思われないが、確信しているとも思われない。そのかわり作者はものと主人公のあいだに、感覚と連想でつくりあげた靄(もや)のような世界を介在させ、読者に一切をこの靄を通じて眺めるように要求するのである」と批判する。
「「ぢつと我慢して」一切が「氓びて行く」のを「待ち受け」ながら生きること。ここに立ち返って眺めれば、現代の霞のなかを手さぐりしている作家たちは、すべて『回礼雑記』に描かれている若き虚子のいた場所――下宿屋の寝床のなかで、「一刻も早く夢の世界」へのがれたいと願っていた、淋しい虚子と同じ場所にいるように思える。おそらく彼らの多くは、「社会」に関するさまざまな概念にがんじがらめにされているが、「社会といふ感じ」がなんであるかを知らずにいる。そして霞のような観念と感覚によってきわめて個人的な「夢」を紡ぎ出し、そのなかに隠れることを文学の営みにかえている。」(「リアリズムの源流――写生文と他者の問題」)
1971年に発表された「リアリズムの源流」は、『近代以前』から問題意識が一貫する江藤の文学原論である。しかし、虚子の文章が「活(い)」きているのは引用を読めばよくわかるのだが、書き手はいったいどうすればいいのか、その方法論までは書かれていない。後世の人間にとってはとても惜しい事態であるが、68年の争乱にも、沖縄返還にも、連合赤軍事件にもさほどの関心を寄せなかった江藤にとって、悠長な原理論に力を割く余裕はなかったのか。もっとも、ドルショックが世界に与える影響に震撼したのは慧眼であり、そのラディカルさは文学に収まり切らなくなり、やがて論壇誌の「時務論」という形をとる。
ちょうどこの時期、小林秀雄に「漢文(公(おおやけ)のこと)じゃない、私事(わたくしごと)ってものがある人」であり、「プレハブ的、コンピューター的文章」(「歴史について」)でない文章の書き手として女性作家を高く評価するようになる。「リアリズムの源流」の議論が火種となり、当時の人気男性作家、辻邦生、加賀乙彦、小川国夫、丸谷才一を「フォニイ」(=にせもの、まがいもの)を軒並みに貶したのと対照的であり、江藤がフェミニスムの文脈から再評価される伏線はすでに用意されていた。
とりわけ、高橋和巳の追悼文について時評で、「高橋和子(たかこ)夫人の「かわいそうな人だといつも思ったこと」だけに心を打たれた。「主人は要するに、自閉症の狂人であった。私がこう書いて、驚く人があれば、その人の洞察力がにぶいのである」と、和子夫人は書いている。この言葉が心を打つのは、ここにだけ政治的・思想的・文壇的その他もろもろの思惑にまどわされずに、高橋和巳氏の人間を見つめ、そのあわれさに涙をそそぐ眼があるからである。換言すれば、ここにはたしかに文学者の眼があるからである。なお和子夫人は、最後の二行を「自閉症の子供のなかには稀れに天才的な能力を持つ者がいる」という、新聞の医学欄からの引用で締めくくっている」と、異例と思える絶賛をしているのが目をひく。富岡多恵子、岩坂恵子などの詩人から転じた新人に着目しているのも「小説のグルメ」としての先見の明である。しかし、小説に「もの」の感触が失われてゆく趨勢は、時評家が孤軍奮闘しても抗うことはできない。
三島由紀夫がたった12年で『鏡子の家』の「みんな欠伸(あくび)をしていた」という文章で小説を書き始めるゆとりを失ったように、江藤の絶望は理性的な文学原理論では蔽い切れないほど深まってゆく。