- 2023年04月01日
- 映画
映画音楽急性増悪 第42回
虹釜太郎さんの「映画音楽急性増悪」の更新です。第42回は、ゾンビになったらそもそも歩けないんじゃないかという以前からの疑問と「…of the dead」がタイトルにつく映画たちについて(第40回)の続きです。歩かないゾンビ映画はどのくらいあるのでしょうか…。
第42回 非歩行
文=虹釜太郎
ゾンビになったらそもそも歩けないんじゃないかと。走るゾンビが出てくる映画もあるけれど、走るどころか歩き回っていること自体がかなりおかしく、移動はゾンビは皆、匍匐前進もしくは匍匐すらできずぐずぐずしているのが普通なんではないかと。
とそれはともかく、いままたどんなゾンビが好きですか? と言われてもとても困ってしまう人がまた多くなってきたのかなとも。
わたしはゾンビが好き、というより無気力とか虚無を超えようなどまったくしていないゾンビが、なんて言えばよいのか、とてもとても気になってしまう。でもいまはあまりに生活環境が悪化して、フィクションとしてのゾンビどころじゃないという人もかなりいるはず。
そんななか実際にゾンビが近くにいたら相当に嫌でも、現実の生活がひどすぎてそんなの想像する余裕なんてまったくないのだよという…
それでも無理やり質問に答えるならどうなるのか。
リーダー格ゾンビだとか意識をはっきりもったゾンビだとかよりもそんなものは持たない、けれど普段はひどくわめいたりせず、かつ移動速度も高くないゾンビ、かといって移動速度がかなり高かったり、リーダー格ゾンビや意識持つゾンビでもそのゾンビらしさを失わない程度(そのゾンビらしさって? )であるなら観察はできうる限りしたい。
以前ならそう答えていたけれど。
いまは違う。
そして話を戻せば登場ゾンビ皆が歩けないというゾンビ映画も観たい。そんなの映画として成立などしないという人も多いだろうけれど。しかしそもそもゾンビが走ったり、歩いたりし過ぎなんだと。そして歩けないゾンビたちもモンスターだということ。そしてあまりに大量に歩けない生命体が出現したら、その地はどうなるのかと…
でも観察をひたすらできるだけしたいだけならスティーヴ・マイナー監督のリメイク版『Day of the Dead』に登場したウェクスラー博士のようになるしかない…
本作の最後に一気に出てきた意識持ちの会話可能ゾンビ三体の戦いとかの例もある。でも人間が介入しないゾンビの世界だけをひたすらに描く映画はなかなか登場しない。人間が登場しなければいったいゾンビたちはいったいなにをどうしているのか。なにもしていない。はたしてそうなのだろうか。
人間が介入しないゾンビの世界だけをひたすらに描く映画は、ゾンビなど登場しないイスマイル・カダレの『死の軍隊の将軍』の映画化などで無理やり実現するのか…
『VALLEY OF THE DEAD』(邦題『マルナシドスゾンビの谷』ハビエル・ルイス・カルデラ/2022年)、『Granny of the dead』(タドリー・ジェイムズ/2015年)、『Zombie Ass: Toilet of the Dead』(井口昇/2011年)、『アーミー・オブ・ザ・デッド』(ザック・スナイダー/2021年)、『Detension of the dead』(アレックス・クレイグ・マン/2013年)、『ISLE OF THE DEAD』(ニック・ライオン/2016年)、『デイ・オブ・ザ・デッド』(スティーブ・マイナー/2008年)、『Day of the Dead: Bloodline』(ヘクトール・ヘルナンデス・ビセンス/2018年)。以前はそんなタイトルに「…of the dead」がついた映画をとりあげたけれど今回はその続き。それにしても「…of the dead」とついた映画は世界にどのくらいあるのか。そのなかにはゾンビ映画でないものもたくさんある。
『Wyrmwood: Road Of The Dead』(キア・ローチ・ターナー/2015年)
妻子がゾンビ化して死んでしまった整備工を含むメンバーと一人の女性の拷問パートがひたすら連続されるバトルレースかと思ったけれど違って、パーティメンバー一人一人のゾンビとの遭遇エピソードが丁寧に描かれる。登場するゾンビの移動速度は十点満点中3.5で速くはないが目が点なのがやたら気になる。ゾンビに苦しめられるだけでなく人間にもやたら捕獲されて拷問される女のエピソード赤髪女ゾンビ編は鎖縛りされた登場ゾンビの凶暴さが鎖により一気に放出されないままで暴れる挙動がすばらしく、人間の博士(黄色の防護服着用)に捕まってからの拷問は音楽好き博士の描き方ばかりが圧倒し過ぎで猛烈につまらない。
整備工が妻子を失った瞬間に急に自殺願望がわいて通りがかりの男と戦いながら銃を奪って自殺しようとして止められたり、そこにいきなりのゾンビ襲来で急遽人間同士の喧嘩をやめてゾンビと戦うしかなかったりの一部のリズムの発生。それが映画に入る音楽たちよりよい。
パーティになってからの改造車カスタムがはじまり、防具もヘルメット、肩パーツなど各自カスタムしてのバトル走行がスタートするが、車カスタムシーンが他のゾンビ映画にはないもので、改造車の外装をやたら滑るカメラと滑走する鎖のリズムのなか、また捕らわれの女エピソードに。メインのはずの改造車でのバトルエピソードよりパーティ結成前の各パートの方がしっかりしていて。しかしゾンビとのバトルではなく車で静かに三人で話しあうシーンが用意されているのがよいがそれは長くは続かない。車パートの道中で立ちションしていたら地中からゾンビがなどの一発アイデアなどが炸裂するも、車パート開始後、それと並行して主人公たちとは全く関係のないゾンビたち同士の生態がどんなものでもよいから見たかった。人間たちが改造車で生きようと動くならゾンビたちは(どう静止してるのか)(どう動かないのか)(どう変態していくのか)。
疾走感をマッドマックスのように描くのは不可能ななか、武器数もしょぼいならどうするかでの解決がゾンビ改造車や女のゾンビ召喚超能力(紛れもなく本作の特徴のひとつだけれど)発現だけでは足りなかったが、各メンバーのパーティ参加経緯もある程度描いてしまっているため余計にぼやけが。ただゾンビ化メンバーを車中で射殺後の墓作り後の車移動中に見かけた叫び顔のままひたすら静止している少女ゾンビはとてもよかった。静止顔。叫んだままの。このようなアイデアがさらに連鎖しあうのなら…
日本では「ガソリン無え! 武器も無え! 人類ほとんど残って無え! ! 平凡な整備工が最強のDIYチームを組み、地球の危機に立ち向かう! 」というコピーで『ゾンビマックス! 怒りのデス・ゾンビ』というタイトルで紹介されたけれどやっぱりこの邦題はないよなと。
キア・ローチ・ターナー監督は本作後に『サイバー・ゴースト・セキュリティ』(2020年)、
『ゾンビ・サステナブル』(2022年)を撮っている。
『WORLD OF THE DEAD: THE ZOMBIE』(マイケル・バーレット/2011年)
POV方式。POVホラーは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『クローバーフィールド/HAKAISHA』以外にも心霊ホラー『コンジアム』、『ディアトロフ・インシデント』、寄生虫ドキュメンタリー(フェイク)『ザ・ベイ』、『スナッチャーズ・フィーバー喰われた町』らがあるけれどゾンビでPOVといえば『REC/レック』がある。
『WORLD OF THE DEAD: THE ZOMBIE』もPOVで娘の誕生日パーティーからはじまる。『REC/レック』のPOVでは暗視カメラが多用されたけれど本作はどうか。
POV方式であまりによくある転んできゃあきゃあ叫ぶ映像…そんな考えを静かに裏切る娘パート終了後の軍パートはあまりに暗い。
でこの暗さのなかを延々と見せられて改めて思うのは、全ての映画はあまりにも照明がきちんとしているよなああまりになあという至極当たり前のこと。でもそのきちんとも今後はいろいろ変わっていくには違いない…とはなかなかなっていかないな。
POV方式なのに音楽がかすかに入る違和感。
かすかだが延々と入り続ける音楽のせいでまったく集中して観れないのだが、そもそもPOV方式撮影に関しての違和感も本作においては大きい。従軍記者が撮影という言い訳だけれど盗賊による女兵士陵辱の撮影をするかという。
暗闇の多さが武器であることは十分にわかったけれど。
イギリスがゾンビでダメだからオランダへが絶望に変わる以前に盗賊たちの無秩序に全面遭遇するのはPOVのしょぼさとリンクして…
とりあえずかすかに入る音楽たちには監督はどういう感じでポストプロダクションに臨んでいたかはとても気になるけれど、風の音は普通なゾンビ映画よりは多種聴こえ。POV方式の良さがあるとするなら、音楽は完全に諦め、しかし“効果音”をどれだけその代わりにいろいろ遊んでみるかというのが一部の方法としてあるとは思うのだけれど。
邦題は『ゾンビ・クロニクル』だけれど、
『ゾンビ・クロニクル2』(2011年)の監督はニック・ライオン。こちらの原題は『ZOMBIE APOCALYPSE』、そして『ZOMBIE APOCALYPSE: REDEMPTION』も別作品とややこしい。こちらの監督はライアン・トンプソン。
ちなみに『ゾンビ・クロニクル2』はPOV方式ではなく、ドッグゾンビも登場するやたら風の効果音がしつこくでかい、俳優のキャラ演技過剰を抑えた地味なゾンビ映画だけれど、ゾンビ・クロニクルの1もやたらと風の音がいろいろ吹いているので、監督もスタッフも別の『ZOMBIE APOCALYPSE』が“ゾンビ・クロニクル2”となったのは風の音が原因……なわけはないか!?
『ZONE OF THE DEAD』(ミラン・コニェヴィッチ/2009年)
ゾンビに襲われて無理くり囚人との共闘。それがメインなのがわかるが囚人に武器をもたせるまでのリズムがたるすぎて。
インターポール捜査官レイエスは囚人護送警護でベオグラードに移動中にゾンビの襲撃に。レイエスを演じるのはジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』のケン・フォリー。だがカメラの動きが左右に揺れ過ぎてあまりにぎこちなく、全ての人間の動きを追うのにあまりに忙しく、この撮影のせいで集中できない。あまりに会話する人間を撮影し過ぎてリズムを全て粉々にした『Shed of the Dead』(ドリュー・カリンガム/2019年)ほどではないがひどい。ゾンビと人の1対1の映し方もひどい。
地獄がいっぱいになった時に死者が地上を歩きだす前にあまりにせわしないカメラが地上の全てを次々に台無しにしていく。
設備のアラームの音も緊張感があまりになくだるい。その緩いアラームが鳴るなかに囚人にさまざまな注意をほどこすレイエスだが…
囚人を警護というよりは看護、怪我人をひたすら看護というあまりに強い看護感が漂い過ぎる。途中で待機中の女性が極度に急にいらついて自らゾンビに食われに暴走して自爆するシーンが入るけれど、原因はモニター内のひどい撮影シーンと思えるほどで、自爆したいのはこんな撮影を延々と見せられている方だとも。ゾンビが上層からこぼれ落ちる集団でのもたつき感がかもしだすものがすこしいいのでもったいない。
『Hell of the Living Dead』(ブルーノ・マッテイ/1980年)
本作のレビューの誤訳で“ゾンビ忍び寄る肉の名前の下”というのがあったが誤訳さすがというか、この1980年作ゾンビクラシックの喰らうシーンの数々は現在のモダンゾンビには見られない馬鹿らしさに溢れている。
フランスのニュースレポーター一行がゾンビ島に上陸するのだが…
あまりに軽快無双な音楽ではじまり、80年代以前の装置のボタンの存在感と無駄に多いスタッフとくたびれた機械音の数々と防護服のテキトーさに既にかなりの脱力をするが、ネズミが防護服の下をめぐってのなりゆきと音楽の入り方にイタリア産の恐ろしさを改めて。
初登場のゾンビたちの近年まるで見ないど真剣な表情たちを改めて見よと。
ゾンビがいるビルを囲む警官たちの上を流れる明る過ぎるサイレンの音。イタリア人の戦争への臨み方。
青服軍団のビル潜入の際のド明るい音楽にモダンゾンビばかり観ていた者たちは完全に置いていかれるが、このド明るい音楽は止むことがない。ド明るい…
白骨体を見せているのにかぶさるのはふざけた笑いたち。
本作では老人も子供もゾンビとして覚醒する時は超真剣な顔つきになる。ほとんどのゾンビ映画でのゾンビ覚醒の瞬間の表情は凶暴さだけれど、本作では凶暴よりも真剣。
真剣と凶暴の違い。
本作でのゾンビの移動速度は1.5。かなり遅いが、何度撃たれても死なない子供ゾンビの姿は忘れられない。
肌にペインティングしてからのゾンビ島潜入後の音楽との干渉具合は並ぶ類作がないもので、象、蝶、猿、鳥…と静かなゾンビ死体たち。やがて主人公たちもそれらと共に暮らしてゆくことに。ああ。
『ハウス・オブ・ザ・デッド2』(マイケル・ハースト/2005年)
オリジナルゾンビの血清採集が目的なのだが…
ロメロ監督の「オブ・ザ・デッド」三部作(『ランド・オブ・ザ・デッド』Land of the Dead(2005年)、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』Diary of the Dead(2007年)、『サバイバル・オブ・ザ・デッド』Survival of the Dead(2009年))を観た後で、他の「オブ・ザ・デッド」群を観続けているとロメロ監督がいかにまともかが改めてわかると同時に、世界はもっともっとくだらないものに溢れまくっているという当たり前のことにも圧倒させられる。そのくだらなさに怒るのも脱力するのも完全に無視するのもまったく人の自由だが、どうやら完全に無視している人たちの方がこの地球には多いみたいだ。
『ハウス・オブ・ザ・デッド2』(House of the Dead 2)はアーケードゲーム『ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド』を原作とするが原作とは関係のないくだらなさをひたすら走る。
原作で生き残ったキュリアンは死者を蘇えさせる実験をしているが…
ゲーム版『ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド』でのAMSエージェントのジェームズ・テイラーとゲーリー・スチュワート、ハリー、エイミーがGに会いに行くが街はゾンビに溢れていた…という設定を台無しにする映画のイントロ。敵の血の色が緑に、敵を倒した際の血反吐や目玉が削除されましたというゲームのやむを得ない事情はないけれど、ゲームの映画化は常にあけっぴろげ過ぎまくる映画が多く誕生している。
映画版『ハウス・オブ・ザ・デッド2』の破綻はマイケル・ハースト監督、というより脚本のマイケル・ローシュ、ピーター・シェーラーのせいなのか…
イントロの馬鹿馬鹿しさと本編はまったく違う。俳優はラッパーのSticky Fingaz(Kirk Jones)がいちばんよかったけれど早々に死亡。人類を救うはずの血液を二度取りに行き二回とも破壊されるあまりの虚しさに主人公たちのやる気も完全になくなるが、観ている方はさらに。ゾンビの死体と写真撮ったり戦利品漁りに忙しいだけでなく最後までも台無しにするバートのクソ行動群が映画の命を長引かせているようなひどい状態。
が時間をおいて本作を三回めに観たら、人類を救うはずの血液を二度取りに行き二回とも破壊される斬新さに改めてぐったりした。
『Night of the Living Dead 3D:Re-Animation』(ジェフ・ブロードストリート/2012年)
Night of the Living Dead とタイトルにつく映画は複数あるが本作は2006年の『Night of the LivingDead 3D』のプリクエル。アンドリュー・ディヴォフ出演版。
なかなかゾンビが出てこない。
そんななか死者を前にしてみんなでハッパを吸ってると死者もまたハッパを吸ったり、人間のアンナとセックスしたりというシーンになるが、ゾンビは地下をゆっくりゆっくり歩行速度0.5(10点満点)で移動し、それを目撃するのは人間でなく撮影機械のみ。
なかなかゾンビが出てこない陰鬱さを隠すためなのかひきずるような静かな音楽が入り続けるが、それもなければさらに沈鬱になってよかったかもだがなかなかそうはできない。
最後のまとめてゾンビ銃殺+助手の薬殺はともかくその直前の襲わない&縛られているだけのゾンビパパの表情がよかった。結局人間に噛み付くのだけど、この襲わないシーンが長くて、人間二人の言いあいの後ろにパパが映っている。
ゾンビパパと壁に展示されている上半身だけのゾンビと緑のゾンビ赤ん坊の三体。匂いつきの彫刻、ではなく匂いつきの絵画への接近。
匂いつきの彫刻でないのは彫刻は腐敗も配色もないからで。
まったく評価されていないが、この接近? たちは今後ゾンビ映画界にはなさそうなだけに貴重な。
観直すと歩行主体のゾンビがメインではない映画としての可能性を改めて感じる。
『Flight Of The Living Dead』(スコット・トーマス/2007年)
邦題『デッド・フライト』、別題『PLANE DEAD』。
タイトルのせいで観ていない人がいたらもったいない実は隠れた傑作。
脚本はスコット・トーマス、シドニー・イワンター。
中盤までは観はじめたことを後悔するかもしれない展開なのだけれど、飛行機内の床から斜めに擦り抜ける弾丸がキャビンアテンダントを直撃したあたりからゾンビたちの飛行機内での極地戦闘がはじまる。戦闘機が飛行機に追尾してから、パイロットも全員死亡してから、座席に装着したままのゾンビが空中落下してから戦闘機を直撃し、戦闘機爆破という瞬間からパイロット無しの飛行機の無事着陸成功(生存者わずか4名、ゾンビ生存者4名)までの短い瞬間たちがおもしろい。
地上での話などはどうでもいい。映る政府関係者のあまりの少なさも関係ない。予算が少ないのだ。でも少な過ぎる予算でもこれだけのことはできる。本作を観てなぜか思い出すのは『ワールドウォーZ』の内容ではなくあんまりもの巨額の製作費。襲いかかるだけでなく座席に座ったまま暴れ回るもずうっとうまくいかず、飛行機から飛ばされてから戦闘機爆破を成し遂げたゾンビの活躍。最後ついに地上に降り立ったゾンビ4名のそれからの生存を祈りたい。劇中音楽がほぼ必要なかった出来。いろいろ賛否はあるだろうけれど。
『スウィング・オブ・ザ・デッド』(ジェレミー・ガードナー/2012年)
CHRIS EATON、THE PARLOR、ROCK PLAZA CENTRAL、SUN HOTEL、WISE BLOOD、EL CANTADOR、WE ARE JENERICらの曲を使用。
本作で使われている音楽はどのゾンビ映画でもあまり聴かれないものだ。
「世界が燃え落ちる様子よりも、人間の魂が枯れていくクロニクルを描きたい」との監督の発言。
たしかに本作には燃え落ちる世界は描かれず、ゾンビも最後の車での籠城シーン以外あまり登場しない。ミッキーが音楽好きでいつもCDプレイヤーで音楽を再生し、それが映画でも流れる。
キャッチャーであるベンとピッチャーであるミッキーのバッテリー(原題は『THE BATTERY』)。とてもゾンビ映画とは思えない静かな二人の旅。
ミッキーは銃でゾンビを殺そうとはしない。そんなミッキーにしびれをきらしたベンはミッキーの眠る部屋にゾンビをぶちこんだりする。このやりとりで鬼越トマホークのやらかしと謝罪の繰り返しのリズムを思い出したり。
最後の動かない車での籠城でゾンビに囲まれながらの生活の中で音楽を再生する瞬間。しかし車内で二人ともが死ぬことはない。
どのゾンビ映画でも聴かれない曲がふんだんに使われた。世界の終焉と結びつかないゾンビ映画。二人のキャッチボールはもう見れない。
ゾンビ映画の個々について、これは観る価値がない、これはクソすぎる、とかの態度もよいけれど、ことゾンビ映画にいたっては、たった一箇所でも観るべき、いやたった一箇所でも考えさせることを出している作品があればそれでいいじゃないかという考えにとっくに変わってしまった。これからの映画祭での公開でも未来永劫陽の目を見ることのない作品たち。また最初からやり直しだ。