- 2023年03月27日
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江藤淳/江頭淳夫の闘争 第7回
風元正さんの不定期連載「江藤淳/江頭淳夫の闘争」の第7回目は、江藤淳が文芸時評で取り扱った田久保英夫、山川方夫、阿部昭、安岡章太郎らの作品、江藤と彼らの関係などについての考察です。
「小説江藤学校」
文=風元正
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アメリカから帰国した江藤は、1965年、プリンストン大学での講義ノートをもとにして「文学史に関するノート」の連載をはじめた。85年、「はじめに Ⅰ」を付け加えて『近代以前』というタイトルで単行本になったものの、当時の文芸ジャーナリズム内では意図がまったく理解されず、不評だったゆえに20年間の空白が生じた。なにより、掲載誌の「文学界」の「文芸時評」欄で堀田善衛、松本清張からの筆誅に近い批判を受けたのは大打撃だった。
堀田は江藤が文芸誌に書いた初めての評論「生きている廃墟の影」のキーとなる「廃墟」という言葉の引用元であり、清張はゴリゴリの左翼。どちらも江藤の左派からの「転向」が気に喰わないのは明白であり、清張は歴史考証の不備を厳しくついて、堀田が林羅山を「林秀才」と呼んでいるのを逆用し「江藤秀才」と呼びかけているのは笑えた。もっとも、たった2年アメリカに留学していただけで、「近代主義者」から「日本回帰」するのはあまりに軽薄すぎるという反撥は、起こる方が当たり前であろう。
『近代以前』において江藤は、徳川家康に仕えて儒学を官学として確立した林羅山を再評価し、幕藩体制を支えた「朱子学的世界像」が日本人の根柢にあるという歴史観を提示した。「日本国憲法」体制の下、克服すべき「封建遺制」の復権の試み、と解すれば「保守反動」の「危険な思想家」(山田宗睦)と見做されるのも仕方ない。しかし、大きな視野から捉え直せば、後年、山本七平『「空気」の研究』や阿部謹也『「世間」とは何か』などで広範な支持を得た日本人の思考形式の連続性を再発見する議論と問題意識は通底している。江藤はいささか性急すぎた。
「純文学論争」で賑やかな日本文壇は、江戸期の思想・文学を読み込み「日本文学に日本文学としての特性をあたえてきたものは何か」という迂遠な問いへの答えを提出しようという試みが受容される環境ではなかった。しかし、挑発的な課題をいくつも提示している本であり、アメリカで評判をとった講義だったのはよく分る。
興味深いのは、江藤の留学中の日本文学史研究が「一九二〇年代の、いわゆるジャズ時代(エージ)を代表する」プリンストン出身の「伝説的存在」である「魅力的な二流作家」スコット・フィッツジェラルドの「勉強」を断念することにより成った経緯である。「名声と富とアルコールの中に〝crack up〟として行ったフィッツジェラルドは、私の同時代の才能ある作家たちを蝕みつつある自己崩壊の、ほとんど古典的な例」(「アメリカと私」)なのだから、「新進批評家」としては恰好の研究対象だった。「私はまさしく東洋から来た「異教徒」」(同前)であるゆえ、「他人を自己の投影としてではなく、純粋の他人として理解することはむつかしい」(同前)からだというが、縷々述べられている理由がどうしても、すんなり腑に落ちない。
もうひとつ、江藤が考えていた上田秋成を起点にする日本文学史は、小林秀雄『本居宣長』の議論と鋭く対立するということである。「文学史に関するノート」を連載した時点ではまだ『本居宣長』は連載がはじまったばかりだから不自然ではなく、江藤は完結後の対談「「本居宣長」をめぐって」では宣長と秋成の議論は完全にすれ違っていたことを小林から教わったといい、「積年の疑問を氷解させてくれたことに感謝しております」と返答するスリリングな応酬が行われた。しかしなお、江藤の文学史の構想は小林の宣長論をも包括せんとするスケールだった、と空想する余地は残されている。
この2つの問題は後に論じる。ここでは、江戸幕府の官学に原点を求めた江藤と、「その道のひとびとの間では《キャンプ》という名で通用している感覚」に拠ったスーザン・ソンダグは、現在か過去か、向かう価値観のベクトルは正反対とはいえ、徹底した形式化をへた上で芸術の倫理を問う姿勢はとても似ていると指摘しておきたい。ソンダクは《キャンプ》という〈感覚〉〈感受性〉〈趣味〉について、「58――キャンプ趣味とは一種の愛情――人間性に対する愛情――である。それは、ちょっとした勝利や《性格》の奇妙な強烈さを、判断するというよりもめでるのだ。……キャンプ趣味は、それが楽しんでいるものに共感する。この感覚を身につけているひとびとは、《キャンプ》というレッテルを張ったものを笑っているのではなく、それを楽しんでいるのである。キャンプとはやさしい感情なのだ。」(「《キャンプ》についてのノート」『反解釈』所収)という方法論を示している。《キャンプ》を「リアリズム」に入れ替えれば、「文芸時評」の方法論とほぼ重なる。江藤もまた、文学の外にあるイデオロギーによって作品を裁断する批評家ではない。
「反解釈」を、「10 解釈学の代わりに、われわれは芸術の官能美学(エロテイツクス)を必要としている」(「反解釈」『反解釈』所収)という言葉で結ぶソンダグの「ラディカリズム」が江藤と響き合うのは、どちらもイデオロギーの支配から独立しうる芸術の「倫理」を追求したからにほかならない。もっとも、ジャン=リュック・ゴダールらのヌーヴェル・ヴァーグやアンディ・ウォーホルを筆頭にしたニューヨーク派のアートに伴走できたソンダグと比較すると、日本文壇における江藤の孤独が際立つ。
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江藤の文芸時評は、褒めるにも貶すにも張扇が鳴っている。末尾の一行で、タイトルを挙げるだけで「愚作」とぱっと斬って捨てる技を喰った作家はたまったものではないが、たとえば「土佐藩奉行野中伝右衛門の息女の手記」という体裁をとった大原富枝「婉という女」が毎日出版文化賞と野間賞を受賞する出世作になったのは、「今月第一等の秀作」と断言し見事なあらすじで援護した江藤の批評の力も働いていた。「押さえられた感受性が婉女のイメージをあざやかにうきあがらせているのは見事」という通りの佳品であるが、それに続く作品が、抑制ゆえに凡庸で平板だと繰り返しているのはフェアである。
谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」、里見弴「極楽とんぼ」、永井龍男「青梅雨」、室生犀星「われはうたへどやぶれかぶれ」などの老大家の名作を初見に読者の特権を活用ししゃぶるように味わい紹介する技は小説のグルメの面目躍如。網野菊、野上弥生子などの女流作家、中でも短篇「雪折れ」を「老醜のなかに燃え上るエロスという主題は、近年円地氏の好んで書く主題だが、ここではその筆が至芸とでもいうべき域に入って来たことを感じさせる」と絶賛した円地文子が大好きで、常にフェミニンな神経が働いている。その後継者が河野多恵子だと早くから見抜き、有吉佐和子・曾野綾子・倉橋由美子らの「才女」の作品の現実遊離をとことん批判し続けて容赦しない。
大人・武田泰淳には甘えつつ胸を借りる。因縁の論敵、良心的転向左翼の高見順とは徹底的にソリが合わない。川端康成、「第三の新人」、三島由紀夫のような重要な「監視対象」についての見解は別に論じる必要があるとして、同世代から後の若手に対しては「小説江藤学校」とでも名付けるべき教育的指導を加えているのが面白い。その一番の優等生が、「三田文学」の仲間だった田久保英夫である。59年、文芸誌に初めて掲載された「緑の年」について、早くも「前回の芥川賞候補のどの作品よりすぐれている」と評し、66年の「埠頭」について「作者が読書のうちに親しんだジッドやグレアム・グリーンやドストエススキーの主人公ではないという疑いを禁じ得ない」という「人工的な感触」を指摘した。
61年の自伝的小説「解禁」で田久保はまるで時評家の指摘に応えるように「僕は実物の風景を見ながら、これが絵に似ていないと言ってがっかりするような人間のようだった。この失望が高じると、彼は絵に似ていないという理由で、風景の実物性を否定しかねない。そうしてどこにもない、本物の風景を捜して、他の場所をさまよい始めるのだ」(「解禁」)と記し、江藤は「田久保氏の才能を端的にあらわしているのは、端正な欧文をとり入れた文体――なかんずく巧妙な比喩である」と応じた上で、「しばしば陳腐な美文に堕している」ととくに後半にダメ出しする。
そして、ちょうど江藤が時評を書いていない69年、41歳の田久保は「深い河」で芥川賞を受賞する。江藤の指摘してきた短所がほぼ解消された秀作だった。
「僕らはすぐ三頭の馬を、馬房から引き出した。老牝馬と栗毛を縦につないで、手綱を僕がもち、《サク》を女子大生がひいた。
朝からの雲が拭われて、蒼い天空が出ていた。雨後の、水晶のように透明な蒼空だ。南国の陽射しはつよく、専用道路も渇きはじめて、馬の蹄(ひづめ)から柔らかな湯気がたっている。青苔(あおごけ)の熔岩粒に辷(ずべ)らぬように、ゆっくり道を降(くだ)ると、眼下に雨で現れた鮮烈な緑の放牧場がひろがる。遠い放牧馬。北目の漁港のかすかな白い船影。その背後に、有明海が銀色の気流のように流れている。
このへんは急斜面でない限り、僕らが草を刈りつくしたので、思いきって崖ぎわの狭い道を入った。笹と深山(みやま)霧島の繁みが両側から蔽って暑く、僕らは馬をひく気づかれもあって、すっかり汗ばみ、喉(のど)が渇いてきた。
「あら、沼よ。」
かなり道を降った時、女子学生が突然ゆく手を指した。なるほど、鈍く翡翠(ひすい)色(いろ)に光る水面が見える。鬱蒼とした闊葉樹林に囲われて、水辺が小さな草地をつくり、その草の葉尖が一つ一つ針のように陽光をてり返している。」(「深い河」)
これぞ「純文学」という、艶やかな描写である。この一節は結末近くだから、作品の中で緊張感がゆるむ箇所はない。下町の料亭の子として生まれた田久保さんは、若い頃は水際立ったハンサムで、担当編集者たちはその遅筆をめでつつ、芸術派の「短篇の名手」として生涯を終えた。長年の修練によって培われた文章の練度は極めて高く、21世紀ではついぞお目にかかれないクオリティである。戦前の三業地の空気を肌で知る豊かさも、この世代で終わってしまった。シャイな田久保さんの、ぱっと花の咲くような笑顔は忘れがたい。
「お伽噺」作家だからこそ売れっ子になった「はやぶさの哲」三浦哲郎は、田久保氏と並ぶ遅筆でも知られる。初期の作品についての江藤の酷評は紹介した通りだが、76年の短篇集『拳銃と十五の短篇』としてまとめられた連作に至り、「私小説風の題材を取り扱いながら、この作品一種普遍的なひろがりが感じられる」と褒め、「よりうまく書こうというたゆみない意志」を認めて和解が成立した。田久保、三浦両氏とは、作家と批評家として幸福な関係を結ぶことができたわけだが、どちらも江藤にとって切実な領域に踏み込む作品を書くタイプでなかったゆえお互いに冷静に対処でき、スポーツの名コーチのように機能したといえる。
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ついに憂鬱な話題に入る順番がやってきた。ここでどうしても、江藤の盟友・山川方夫の死について考えなければならない。65年2月、34歳、結婚9ヶ月の交通事故による死。二宮の事後現場にも足を運んで確認すると、海岸沿いの身通しのいい二車線の一本道で信号は少なく、歩行者が油断して横断しそうで、馴れれば馴れるほど危険かもしれない場所だった。ショートショート「お守り」が米「LIFE」誌に掲載されるなど、新進作家として注目される中での惨事である。
私にとって山川方夫は、もう40年以上前、上下巻の冬樹社版『山川方夫珠玉選集』を、普段は文庫本しか買えない懐具合ゆえ何度も迷って購入し親しんだ作家だった。村上春樹『風の歌を聴け』や高橋源一郎『さようならギャングたち』が登場する直前で、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気を付けて』がJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の影響により書かれたと知り野崎孝訳で読み、その流れでリチャード・ブローディガン『アメリカの鱒釣り』、カート・ヴォネガット『プレイヤー・ピアノ』、F・スコット・フィッツジェルド『華麗なるギャッビー』も読んだ。貧しい読書遍歴の中でも、流行を意識していた時期で、これらの作品はひとつながりで覚えている。当然、ヘミングウェイは卒業していて、吉本隆明『マス・イメージ論』の「解読」に熱中し、江藤淳など眼中になかった。中上健次は別格として、立松和平『遠雷』のようでないことが重要だった。
私の過去はどうでもいいとして、これらの作家たちがフレッシュな一種のグループを成していた時代があったことを記しておきたかった。そして、自分が熱中した時期の感触から、さきほど引いた江藤のフィッツジェルドについての「私の同時代の才能ある作家たちを蝕みつつある自己崩壊の、ほとんど古典的な例」という評が、実は「たち」ではなく、実質的に山川一人を指しているのではないか、という疑念を捨てることができない。石原慎太郎、大江健三郎にもジャズ・エイジ的な要素はなくはないが、作品の個性はかなり異なる。フィッツジェルドの儚なげなロマンを骨がらみで体現していたのは山川ただひとりである。
「「バオ・ダイ帝はご尊父さまで?」
―—こんなとき、いつも困ったような薄ら笑いを泛べている仁は、よかった。決して替玉ではない威厳と気品が備わってみえた。巧妙な節度と上品な物腰で温和に落着いているのである。
仁は、物怖じのない態度で、不器用に箸を使いながら、無論、顔をしかめてかの女らの英語がわからぬふりをする。ややあって、しばし日本語にするのを戸惑(とまど)う風情で、
「オオ、日本、とてもキレイ。けど、安南、モト、キレイ」
「共産党、イヤネ」
「アーア、タノシイ」
なぞとつぶやく。そして無意味な撥音を交えてKに話しかける。と、Kは異常なつくり話の才能で、一尺ほどの食べられるガマの話、象と白虎の遊ぶ夢のように壮麗な宮廷の模様、頑丈で豊満な南国の歌姫(うたひめ)、茹でてみたら黄身のなかに碧いろの目玉が二つ宝玉のように光ってたという三貫目もある蛇の卵、風光明媚なトンキン湾の巨岩、緑と話の色彩にみちた美しく涯しない水土、三角のアンペラ笠、はては安南の尼層たちの着る白衣の仕立て方などを、独特の熱心さと身振り手振りで、ふた昔ほど前の活弁の口調を模して滔々と弁じ立てるのである。
その間のパントマイムは仁のお手のものであった。
マダムは、もううっとりとこの光栄に酔い痴れていた。放心して讃嘆の翳りさえうしなった痴呆じみた眼つきて、Kとそれから王子をかっためにながめていた。娘も、おでしゃに仁に近寄ってかれの隣でぎくしゃく給仕などをする。」(「安南の王子」)
「安南の王子」は山川の初期の作品であるが、自己を強く投影する作品が増えた後期より、虚構性が強い分、資質がよく表れている。贋のベトナム王子を演じる「仁」のグループを歓待する「ブウルジョアの邸」での一夜の描写だが、これほどフィッツジェラルド的な華やかさと寂寥が漂うシーンを書いた日本の作家は、山川の前にはいない。川端康成、吉行エイスケ、龍胆寺雄などの「新感覚派」の描くモダン東京とも違う。あえて似た作風を探すとするならば、少年時に江藤が強い影響を受け、晩年に全否定した堀辰雄の軽井沢別荘サークルの描写くらいではないか。
そしてなまけ者の「安南の王子」は充ち足りた夜を過ごした後、グループを離れてひとりになり、死に憧れながら身を売る孤独な少女と出逢い、ふらふらと心中する。山川の小説の登場人物は、死よりほか行き場のない屈託を抱えて、途方に暮れている。江藤は山川の死に際し、時評で次のような作家論を書いた。
「山川方夫は未完成な作家であった。もし彼が、ひとつでも真の自己発見に到達した作品を残していたら、私にはあきらめのつけようもあったのである。それを妨げていたのは、ほとんど倦むところを知らなかった彼の観念癖である。
彼は自分にしか関心のない作家だったが、実は自分に直面するためにすら、彼には自己納得のための複雑な手つづきが必要であった。彼は、あたかも蜘蛛のように、観念の白い糸を吐き出しては外界や他人をからめとり、それらを自分の巣であるところの閉鎖的な世界のなかにとりこんだ上でなければ描けなかった。
これは、ひとつには彼がどこかで自己に対する感傷を捨て切れなかったからであるが、ひとつには「死」の観念に狎れすぎて自己を正面からうけとめることができなった世代――戦争末期の中学生の世代に共通の特徴である。」
しかし、はたして山川に、死と隣り合わせの抒情を「完成」できる日が訪れる可能性があったのであろうか。そして、江藤の世代論については、疑義を唱えておきたい。山川方夫が、決定的なマスター・ピースに欠ける作家であるにもかかわらず、独特な味わいのマイナーポエットとして現在まで愛され続けてきた理由は、まさに江藤の批評通り「未完成」で「閉鎖的な世界」だからである。その後は、山川的な「自閉」を保ったまま、「自分の巣」をより深く掘り進めていった村上春樹が、その抒情性をよりポピュラーな形に展開してゆく。
山川方夫は、60年代作家では唯一、真に「独身者」的な作家であった。高度成長の副産物として、都市の単身生活者が倍々ゲームで増えたことを考えれば、山川が現代文学の先駆者であっても何の不思議もない。そして彼が幸福な結婚生活を続けて、子を成し、安定したアイデンティティを確立し、江藤的な「成熟」を果たしていたら、凡庸で干からびた感性による作品しか残せなかったかもしれない。
江藤は「私が文芸時評で安心してけなしつけることのできる唯一の親しい友人であった。私は、彼に対して誤解を恐れずに何でもいうことができたし、彼は事実つねに私の言葉を正確に理解してくれた。これは、私たちがお互いに東京生れで、生活感覚の似通った階層の家に育った人間だったということだけから説明しようとしてもできないことである。ウマがあったというだけでも充分ではない」(「山川方夫のこと」)と書き、亡くなる前に書いた「愛のごとく」を酷評する手紙をアメリカから送ったことを悔いた。しかし、彼の地で江藤はフィッツジェルドの世界から立ち去り、「近代以前」へ向かったことは、確実に2人の関係の深部を動かしている。
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安岡章太郎は、1969年に出た冬樹社版「山川方夫全集」第3巻の解説で、一篇の小説としても読めるような、おそるべき認識を示している。「山川方夫にあって、私にないものは、姉妹に取り囲まれた家庭である」(以下断りのない引用は安岡解説)という一行は、「家にあって守るべきものは何もない」という姉妹も兄弟もいない自分の「〝一人っ子〟の自己疎外」の認識に向かい、例によって「美人ぞろい」の家を羨む。しかし、外に出れば「美しいものの守護者」と振舞わなければならず、「女家族の〝一人の男〟」という疎外感のなかで「〝無死の自己〟」をしいられたという。山川の父、山川秀峰は美人画で高名な日本画家であり、44年に早逝したゆえ、長男の双肩には重い一家の扶養の責任がかかった。
安岡は、山川の「親しい友人たち」という「イロニック」な表現に「家族」という大前提を読み取り、死ぬ少し前に書いた「愛のごとく」の「私はいつも自分にだけ関心をもって生きてきたのだ」という冒頭の一行に着目する。「美しいもの」が揃った家族はあり、「山川君のまわりに広がった情緒そのもの波紋」と呼ぶ本人しか知らぬ幅広い交友関係に囲まれながら、「自分にだけ関心をもって」という明晰な自己認識。そして、「愛のごとく」は女主人公が交通事故で急死することで終わる小説である。安岡は「誰もが一応これは山川方夫の遺書ではないか、という気がする」というが、私はこれほど来るべき不慮の死の予感に充ちた小説は読んだことがない。
同じ頃に書かれた「千鶴」という小説には、このような一節がある。
「まったく、私には耐えねばならぬことばかりだった。まず空腹、自分の無力さ、敗戦によって奪われたあらゆる信念というつっかい棒、誰にも殺してもらえなくなった生命、窮乏、いい気な占領軍たち、孤独と、それを暴いて照りつけた眩しい虚無か残酷……いや、もう止めよう、とにかく、私はあらゆるものに耐えなければならなかった。青空にまで。かつてはあたたかい仲間だったすべてのもの、日本人、同級生、家族にまで。そして私自身の若さにまで。――
そうなのだ。私は老人のようなあらゆるものへの不信をもち、にもかかわらず、私は若いのだった。満二十歳までに、はるかな距離をもつ年齢でしかないのだった。」(「千鶴」)
この小説は、「児童ものについてはベテランの編集者」になっている主人公が戦時中、知恵おくれの少女「千鶴」と「三度」決定的な邂逅をして、一度は結婚をしたいとまで思い詰める話である。しかし、30歳過ぎで、見合い結婚し子供ができた主人公の戦後は「まるで一瞬間」と形容されているものの、ほぼ20年間の経緯が省略されすぎていて小説としてはバランスが悪い。むしろ、山川自身のナマの声がそのまま露出したような作品として異様な迫力がある。そして、「千鶴」が死んで骨灰になり、母親が肌身離さず袋に入れて持っているという結末はあまりに暗い。「愛のごとく」と「千鶴」には、甘い新婚生活の中で書かれたとは思えぬ不吉さが漂っている、
安岡は、思考と文章に乱れが生じている「愛のごとく」の後半部分に、「おれはもう「自分」にばかり関心をもっては生きられない」という一行を見出し、山川がもう、今までのように生きられないと自覚していたと読む。もちろん、二の宮駅前の横断歩道を「片手にハガキか何かを持って、ひらひらそれを頭の上にかざすようにしながら道路を渡りかけていた」山川は、当然「そのとき死にたくはなかった」わけであるが、坂上弘が年譜に記した「幸せをかく文学」への転換は結婚によって成し遂げられるものだったのか。
江藤は「山川方夫と私」などで、嫁姑の関係の難しさや、年齢差による妻との行き違い、かえって重くなった一家の大黒柱としての負担などの現世的な疲労を死因として数え上げている。しかし、岡谷公二が「二人の九ケ月――なんという短さ――の新婚生活が幸福だったことは、私が贅言を弄するより「最初の秋」や「展望台のある島」を読めばよくわかる」(「山川方夫の結婚」筑摩書房「山川方夫全集」3月報)という通り、新婚生活が死に至る疲労をもたらすほど苦痛だったとも思えない。
山川の「おい、俺に嫁さんを紹介しろよ」という言葉にのって、12歳若い教え子の生田みどりを山川と引き合わせた友人の美術評論家・岡谷公二は、「私はその時自分の行為の重さに少しも気づいていなかった。二人を紹介していなかったら、という仮定が今でも私につきまとう」という一行が重い。山川みどりが、独身を守りつつ芸術雑誌の編集長として活躍したのが、救いといえば救いであるが。
しかし、三田文学グループが勢い込んで交渉を担当した加害者の運転手は自殺し、大事な長男を嫁に取られた上に若くして死なれた姑との間に諍いが起きないわけもなく、山川編集長の「三田文学」に加わった者たちが形成した「文学共和国」の短い青春は、あまりに悲しい進展を迎えた。先輩格の安岡は「或る〝過去〟の時代の怨念のようにひかされていたかも知れない」といい、「山川君は私には、まったく理解し得ない人物であったから」と両手を挙げつつ、運命の暗渠をじっと見詰める。
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「丸谷(才一) つまりね、ジェームズの偉大さは、自分の属しているひとつの文明があるでしょう。その文明の運命、あるいは問題、それを全部そっくりそのまま、自分の運命であり、自分の問題であるというふうに、無茶苦茶に責任が強いのだな。
安岡(章太郎) それはたとえば江藤淳が……非情に飛躍しているけれども、彼は海軍を失ったと思っているわけだ。そして、全日本帝国海軍を彼の双肩にしょっているがごとき、なんというのかな、思いをこらさざるを得ないところがあるわけだ。ヘンリー・ジェイムズの場合も、やはりそれが言えるのではないの。離れてしまうと、つまり失ってしまうと、それはどうしてもそうなるよ。責任感が強いとか弱いとかではなくて、おれはそうなると思うな。ヘンリー・ジェイムズの場合だって、自分が失った文化のあらゆるものを、彼らの責任を負うというよりは、幻影を見るだろうな。」
「文芸」69年11月号の安岡章太郎、丸谷才一の対談「文学と戦後」での発言である。丸谷が「私小説」批判を開陳した対談で、論争的な応酬が話題となり、翌年2月号に「小説とは何か」というタイトルで続いた。編集長・寺田博の会心企画で得意満面の図が目に浮かぶが、現場では安岡がキレないか、気が気でなかっただろう。例によって丸谷の鈍感ぶりは見事というしかない。安岡の発言は「〝私小説〟家はきらい」と断じ、あくまで「形式主義文学」の問題と厳密に定義して、写実に徹すれば私小説にならざるを得ないというわが国ならではの特殊事情に立脚しているのだが、丸谷は「私小説」には志賀直哉先生をはじめにさまざまな「流派」があるが、私はどの作品も何の印象も残っていない、みたいな話に終始するのだから、まったくのすれ違いである。
ようやく西欧に追いついたと錯覚した戦後日本に18世紀イギリスのような「市民社会」があるかないか、少なくともわが国はひとりのディケンズも生まなかったのは明瞭である。対談は、英文学の翻訳概念をそのまま当てはめてよしと胸を張る丸谷を安岡が徹底的に問い詰めて、結局、何も通じていないところに妙味がある対談だった。江藤も時評で「翻訳は原則として文学ではないといっているのは時節柄有効な指摘」と安岡に唱和している。しかし、私が驚いたのは、ヘンリー・ジェイムズと江藤の見ている何かを「幻影」という一言で斬った鋭さだ。
「翻訳」の問題や、「私小説」はジャンルではなくリアリズムの一手法という点で、安岡と江藤は一致する。その上で、安岡流にみれば「全日本帝国海軍」や、軍を組織する「国家」はすでに「幻影」である。しかし、江藤にとってそれは確固たる「実在」であり続けなければならない。この微妙な差異線が、安岡と江藤にとっては重大であった。もとより、安岡は小林秀雄が自分より若い世代で唯一の「公認」した作家であり、若くして文壇の重鎮になっている。安岡と江藤の暗闘は、阿部昭や坂上弘という同世代の「安岡派」との関係にまで飛び火する。それゆえ、阿部と坂上は、江藤の衷心からの教育的指導を一切受け付けない。
江藤は阿部に対して時評で、「阿部氏はある文学全集の解説で安岡章太郎氏の文学にふれ、それが「猥褻」であるといっている。これにならっていえば、阿部氏の文学はむしろ「猥褻」でなさすぎる。それはおそらく強者の文学であり、安岡氏の文学とは対照的なもののはずである」と評した。これは安岡と阿部を引き離す策略とも受け取れる。そして、「猥褻」は、阿部が名付けた「安岡語」、つまり安岡の文体の特徴だ。
「なんとその文体は、――カミシモの喩えで行けば、屈折自在にわれわれの肌になじみつつ、われわれの最も羞恥する部分だけをかろうじて隠蔽しているがゆえに、かえって猥褻と感じられ、不当に卑しめられている下着に似ていることか。それは、あらゆる猥褻物につきまとう垢じみたなつかしさ、悲しいなまぬるさも含めた、極度にアンテイームな文体である。」(「安岡語の世界」『現代文学の実験室⑧ 安岡章太郎集』)
阿部の明晰さも尋常ではない。阿部もまた、戦後日本が生んだ屈指の名文家であるが、その彼がしゃっぽを脱いだ「猥褻」さにより、安岡は「戦後」を生き延びたのだ。もちろん、山川の文章に「猥褻」の気配など一切感じられない。ちなみに、『若い読者のための短編小説案内』という「第三の新人」論がある村上春樹は安岡や吉行淳之介から「猥褻」術を学び、わが物としているはずである。たとえば、『ノルウエイの森』の性描写とか。
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1970年の「新潮」新年号で、阿部昭は海軍大佐だった父の最期を描いた名篇「司令の休暇」を発表する。江藤は、「掃海隊の司令だった伊能悌三郎が、癌で死んで行こうとしている。それをみとる〝僕〟は彼の末子で、今は一介のサラリーマンであるが、「敗れて帰った軍人として死ぬこととがどういうことであるのか。このおそるべき祖国で一切の位階勲等を剥奪されて、なお軍人として死に切るということがどういうことであるのか」と自問しつづけている」と一篇のテーマを集約し、「「司令の休暇」が美しいのは、この「世間さま」の目を痛いように感じている〝僕〟が、それにもかかわらず「ダメな父親」をかばって、それがどうした、ここにいるのはおれのおやじだ、といいつづけているところである」といい、戦後をあくまで「現役の海軍大佐」として生きようとした「司令」の死について、「しばしば眼頭が熱くなるのを禁じ得なかった」と絶賛する。
「おやじの「おーい!」という暴力的な掛け声は、この病棟でも有名になりはじめていた。その横柄な呼びざまは、入口のカーテンの向こう側で耳にする連中にははなはだ感じが悪かっただろう。自分で動けなくて何から何まで他人の世話になっているはずの病人が、それでも威張り足りなくてのさばり返っているように聞こえるにちがいなかった。
しかし、声の調子を別にすれば、おやじはもう肉体ばかりか心も弱り切っていて、片時もおふくろなしではいられなくなっていたのである。
「もう何もせんでもいいから、そばに居ってくれ……。」
おやじはとうとう正直に弱音を吐いた。それは永い結婚生活のあいだに、おやじがただ一度も家人に対して口にしたことのない種類の言葉だった。」(「司令の休暇」)
江藤は、この「おーい!」について、「彼が呼んでいるのは妻だけではないかも知れない。それは彼が死なせた何千、何万の戦友であり、また「彼が仕えた国家」の幻影であったかも知れない。「休暇」が終わったとき、人は虚構から覚めて現実に直面しなければならないからである」という。と同時に、阿部に注文をつけるのも忘れない。
「そうして、おやじはいまやっと生涯の孤独の意味が分かったというように、冷えていやな色をした自分の手を眺めている。まだ生きている自分を裏切るように指の先から死にはじめている手……。骨の形が手にとるように見える、薪ざっぽうみたいにこちこちとなった二本の手は、ついこないだまで子供の僕を片腕で水ぐるまのように振り回し、脇腹で捧げ持って天井まで届かせた手だった。波打ち際で息子の手がしびれるぐらいに強いタマを放ってよこした手だった。」(「同前」)
どちらの引用も間然とするところのない名文であるが、紙一重の距離をとって冷静に父の滑稽さを記録し、逆説的に美化する余裕を持つ息子=阿部昭の視線が、江藤には「戦後」的に見えてしまう。試みに安岡の「猥褻」の芸を引いてみよう。
「信太郎の膝の先には、母が口をあけたまま睡(ねむ)っており、刺戟性(しげきせい)の甘酸(あまず)っぱい臭(にお)いが部屋じゅうに重苦しく漂って、となりの病室から鶏の鳴くような叫び声が聞こえてくる。「カンゴフサン、カンゴフサン、マチマシタ、マチマシタ。オベントウ、オベントウ、マチマシタ。カンゴフサン……。」(「海辺の光景」)
こちらは海軍少将の父を持つ、狂った母の死を描いた戦後を代表する傑作「海辺の光景」の一節である。たったこれだけの文章の中に、目の前の現実に対して多様な触覚が蠢いているのがわかる。これは真似できないし、やはり安岡章太郎一代の「安岡語」だろう。しかし、阿部も自らの資質に従った上で安岡に倣い、できうる限り下からの視線で父を捉えようとしている。たとえ江藤に「「世間さま」の目にこだわりすぎ」と見えたとしても。
「司令の休暇」はすなわち「戦後」の時間であり、江藤は「〝解放〟によってはじまった〝獲得された〟戦後ではなく、敗戦の日から続いている〝剥奪された〟戦後」という補助線を引く。しかし、安岡と阿部からすれば、「獲得」と「剥奪」は江藤による虚構である。2人の作家の前には、ただ自分の生きてきた現実があるだけだ。江藤は阿部に「およそ父なるもののすべての偉大と悲惨を兼ね備えていたような人物に描かれていてもよかった」というが、安岡と阿部はその普遍への志向を「幻想」と斥けるであろう。
人生は残酷である。「タブーとごまかしで武装した、きゅうくつで、こわばったものに出会うと、逆に極度にはたらいてこれを一瞬のうちにグロテスクなスケルトン(骸骨)にしてしまうその眼」(「安岡語の世界」)という武器を持つ安岡が結局もっとも長く、21世紀まで生き抜き、「司令の休暇」を書いて長年勤めたテレビ局を止めて専業作家になった阿部は「老父」より以上に手応えのあるモチーフを見出せず、山川はそもそも文学を、自己を守り育てる楯にはできなかった。だからこそその作品は儚く美しい。
山川と江藤は、どちらも「戦後」社会には受け入れられない徹底的な孤独を抱えていた。もとより文学者は孤独であって当然であるが、たとえば田久保英夫や三浦哲郎は、それを優れた文学作品として読者と共有することで素直に幸福を享受できる質だった。安岡と阿部はもう少し批評的であるが、小説家は最終的に自己を全肯定しなければ作品を書けない。合わせ鏡のような似た孤独を抱えた江藤と山川は、絶えず死の誘惑にさらされながら屈折した表現を強いられる資質であり、ペルソナ〈江藤淳〉を社会で自在に泳がせて、権力に近づくことで辛うじて生への方向転換を可能にした〈江頭淳夫〉の前途も、平坦ではありえない。
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江藤の「全文芸時評」は、大河小説を読むような面白さがあって、とりわけ、デビュー以来ずっと注目してきた阿部昭が「司令の休暇」という大輪の花を咲かせるところでひとつのピークを迎える。しかし、カンの鋭い読者ならばお気づきかもしれないが、すでに書かれた文章なので種を明かしておけば、その翌月は三島由紀夫の自決という大事件に直面する。江藤にとっても、山川の死と並ぶ大きな喪失であるが、こちらはその難題に入る前に、ひとつの補助線を引いて準備しておきたい。
死んだ男 鮎川信夫
たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
———これがすべての始まりである。
遠い昨日……
ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
———死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった
Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かかった黄金時代———
活字の置き換えや神様ごっこ———
「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……
いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。
埋葬の日は、言葉もなく
立会う者もなかった、
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横わったのだ。
「さよなら。太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。
1947年「純粋詩」1月号に発表された、「荒地派」を代表する詩人・鮎川信夫の実質的戦後第一声となる詩である。吉本隆明の年長の盟友。前に参照した堀川正美は、鮎川の後継者に擬された詩人・批評家だった。鮎川は安岡の同年の1920年生まれで、詩行に「活字の置き換えや神様ごっこ———」とある通り、戦中期に春山行夫風のモダニストとして表現手法を確立していて、ポストモダン的な言葉遊びの段階にまで達していた若い書き手だった。
しかし、どちらも悲惨な軍隊経験を経て、鮎川の方はモダニズム詩の形式のまま、「遺言執行人」という主体を得て戦後の文学活動を開始する。両者ともプロレタリア文学や日本浪漫派のようなファッションに染まらなかったのは、都会の遊び人の自由さが備わっていたからだろう。「M」は、戦中に死んだ森川義信と牧野虚太郎という鮎川の詩仲間とされているが、江藤流にいえば戦死者すべてという概念にまで拡張することもできる。
「荒地」という言葉はいうまでもなくエリオットの詩が由来である。荒地派の詩人は西脇順三郎を頭目として仰ぎ、冗談の通じない「近代文学」派の「戦争責任」追及とやや違う位相から現代詩を確立しようとした。吉本との関係からしても、江藤とかなり接近したポジションにあり、大久保生まれという点でも共通するが、2人はずっとすれ違いのままだった。鮎川の江藤に対する見解は、安岡とほぼ同じく「幻影」派であるが、「でも書くものはいつも面白いよね」と軽く交わす感じだから、さすがに甥と一緒にスーパーマリオに興じながら死んだだけある。
白状しておけば、私の「戦後」観のかなりの部分は鮎川信夫の仕事を読むことによって出来上がっている。しかし、同時に鮎川はどうしても隔靴掻痒な存在でもある。「荒地派」を今再検討しても、表現の「倫理」のあり方を学ぶほかは、さほどの稔りはないと予感されるのは、72年の「宿恋行」以降、鮎川の詩作品が極端に減り、穿ったディレッタント的な態度に終始するからだ。私が知りたいのはその後なのに、何も答えてくれない。しかし、堀川もほぼ同時期に詩作を止め、ゾウムシの研究家としては2000年代まで旺盛な活動を展開していたのを見れば、どちらの沈黙も偶然ではない。
もうひとり、戦後詩の高峰を極めた吉岡実は、ずっと戦争体験を小説にしようとしていたが、その痕跡は「苦力」や「僧侶」などのシュルレアリズム的表現でしか残っていない。吉岡は、夢と似た形式で「自分の巣」を掘り続ける詩人として自己を完成させた。当たり前の話ながら、「戦後」は生き残った者のみが形成する社会である。そして、70年頃はちょうど、「敗戦」直後に生まれた子がもう就職し、結婚する時期だと考えると、「遺言執行人」の寿命は実質的にほぼこの辺で尽きていたのではないか。
江藤が許せなかった「戦後」ですら幕を閉じ、鋭敏な「カナリア」たちがおのおの決定的な行動に向かう季節がやってくる。