Television Freak 第77回

家では常にテレビつけっぱなしの生活を送る編集者・風元正さんによるTV時評「Television Freak」第77回は将棋の話題。藤井聡太王将が初防衛に挑んだ第72期王将戦での羽生善治九段との名勝負を振り返りながら、AIが将棋界に与えた影響と今後の展望についてわかりやすく解説されています。
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人間とAIの合わせ鏡


 
文・写真=風元 正

 
最近、将棋倶楽部24というネット道場に、AI形勢判断の機能が加わった。終局後、AI様が好手と悪手を教えて下さるのだが、ヘボを指摘されるだけの気がして復習する気にはなりにくい。ただ、トップ棋士がAI将棋ソフトに手も足も出なくなった2010年代のはじめの心境は少し理解できた。現在ではプロ棋士間でもハイスペックのPCを購入して学習することが勝利の決め手というから、どうにも味気ない。
ギリギリ、人間側がまだAIに勝てた21世紀初頭、知り合いのプロ棋士が「結局、人間が考えた手を元にして考えているわけですから、面白くない」と呟いたのが印象に残っている。AIは「深層学習」で強くなるわけだが、その手順は、ある局面ごとの駒の配置をパラメーター化し、それぞれの形ごとの勝率を評価係数に取り入れる仕組みであり、つまりは人間の棋譜が元データである。AIに可能なのは数限りない局面からの「引用」による計算だけであり、はたしてそれが「思考」と呼べるかどうか。
将棋は勝敗をつけるという明快な目的がある。その目的に向かい合理的な判断を下すようなプログラミングはもう簡単になった。自動車の自動運転が実用化されないのは、システムにバグが起こった時の補償問題が解決できないからである。突発事故による身体の損傷はあくまで人間側の問題であり、確率論に終始するAIの守備範囲ではない。盤上遊戯である将棋には倫理的な問題も生じないから、強くなる一方である。話題の文章作成ソフト「チャットGPT」にも同じ理屈で、すぐにプロの文章家と区別のつかない「作品」を作成することになるはずだ。
とはいえ、勝敗や作品のような「結果」「成果」を必要とするのも「人間」だけである。AIはプログラミングに従って計算して答えを出すだけで、目的も意味もない。将棋AIにおいては、評価係数による判断はまだ人間に劣るというが、数億手を一瞬にして読み、人間の「思考」が合わせ鏡のごとく無限に増殖してゆく状況をどう受け取るべきなのか。もとより私は、「人間の創造性は永遠」のような幻想は一切持っていない。
 

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藤井聡太ほど、AIと親和性の高い棋士はいない。8歳から詰将棋解答選手権チャンピオン戦に出場して12歳でプロに混じって優勝し、難解で知られる『詰むや詰まざるや』も全問解答する実力は空前絶後である。その個性は、まず詰将棋を間違えないという強さから出発したAIと重なる。ちょうどAI将棋の実力が飛躍的に伸びた頃に少年時代が重なり、進歩と対話しながら成長したのもひとつの運命で、すでに完成された電脳環境に後から参入しても藤井さんと同じルートは辿れない。
羽生善治はPCが普及する頃に少年時代を過ごし、ちょうど棋譜を自在に見る環境が整って強くなった。それ以前はいちいち将棋連盟でコピーをとる必要があり、すごく不便だったのだ。30歳差というのは、つまり、そういう違いがあることを意味する。どちらも子供の頃は敗けたら大泣きするタイプで、勝利への執着という邪念から解脱するために盤上の真理追求という方向に転じたのは共通している。ちなみに、『詰むや詰まざるや』は伊藤宗看「将棋無双」と伊藤看寿「将棋図巧」が収められており、作者はどちらも江戸時代の棋士である。全問解答できればプロになれるという代物で、藤井だけでなく羽生も取り組んでおり、2百年経っても難問であることに変わりない。人間の空間認識能力は、実はさほど進歩していない。
私は、羽生さんと柳瀬尚紀さんの対談本を出したことがある。「勝ち続ける力」というタイトルをつけたが、羽生さんは、ビジネス書的なコツやジンクスなど、対局に勝つためのノウハウは一切教えて下さらなかった。各方面からそれとなく質問してみたが、ダイヤモンドより硬いヴェールで覆われている。将棋を研究する部屋には家族も足を踏み入れることはできない位だから当然とはいえ、記者としてはカタなしでがっくりきた。大量に出ている「羽生本」もみんな同じようなもので、たぶん、ライターが僅かな手掛かりから類推を重ねて体裁を整えているのだろう。
もっとも、羽生さんは時折、面白い発言をする。最近だと、将棋のタイトル戦は、高級旅館の中で男ふたりが和服を着て、顔を突き合わせて2日間過ごすのが妙、という高みに立った視点からの言葉がツボにはまった。広い視野から物事を捉える人である。まだ若い藤井さんの方はよりガードが固く、インタビューでも将棋の手の善悪のほかは実のある答えはゼロで、何を考えているのか想像もつかない。現役の勝負師は他人に一切の弱みを見せない厳しい生き方をしているということである。
50代に入った羽生善治は、20年、竜王戦に負け、21年、A級を陥落した。しかし、羽生さんという人は常に前進を止めない棋士であり、秘かにAI将棋研究をするための不調と睨んでいたら、案の定、大復活。戦い方を完全にモデルチェンジして棋戦の予選を勝ち抜き、ついに羽生vs藤井の王将戦に至った。中原名人は病気で羽生さんとのタイトル戦は実現しなかったので、ひさびさの真の頂上決戦である。
 

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ワクワクしながら迎えた1月8、9日の第1局。ところが、後手番の羽生さんの趣向がまったく通用せず、勝負のアヤがほぼない先手番の藤井さんの楽勝で、思い切り肩透かしを食った。対局もさほど見ず。期待がかなり薄れた1月21、22日の第2局、とんでもない名局が出現する。第1局と同じ「相掛かり」の戦型で、王様の守りが薄く常にどこかで戦いが起きる薄氷を踏むような展開の中、過去に前例のない激しい応酬が続き、一貫して最短距離の厳しい手を選ぶ羽生さんの攻め足が止まったかと見えた瞬間、王様の逆方向の桂香を取りにゆく「82金打」というAI的な名手が放たれる。一手間違えれば即負けという藤井さんの反撃を読み切って、羽生さんの勝ち。感想戦での、吹っ切れたような羽生さんの輝かしい笑顔が印象的であり、藤井さんもいい将棋を指したという喜びが全身に現れていた。
歴史的なこの名局で、羽生さんは何を試みたのか? 乱暴にまとめれば、選択肢の少ない局面に誘導しキリで穴を穿つようにとことん攻め続け、もう切れたかと安心した瞬間にまるでそっぽの逆方向から戦力補充を試み、しかもその82金が受けにも効いて、さすがの藤井クンの頭も大混乱、ということか。一直線の攻めを選ぶのも年長者の心得というプロがいて、多くの要素が絡み合う複雑な戦いになればなるほど若さがモノをいう体力勝負になりがち、という見解には納得がいった。狙いが外れてあっさり土俵を割った第1局も伏線だったのか、という気すらしてきた。
藤井聡太の将棋は、彼にだけ終盤戦が早く見える、という特徴がある。どうやったら相手の王様を詰められるか、勝ちになる局面をほかの棋士よりもずっと前に思い浮かべることができるので、相手がその狙いに気づく間を与えずに自分が有利な方に誘導できる。不利であっても、差が広がらないように手順を尽くし、未来の逆転への罠を秘かに仕込んでゆく。終盤の決め手を見つける力が段違いのために、相手の棋士は常に一歩も二歩も思考の先を行かれて、いつの間にか手も足も出なくなってしまうのだ。
最近、渡辺明との棋王戦、広瀬章人との名人戦挑戦者決定プレーオフと重要な戦いが続いた。前者は渡辺さんの方から誘導した終盤の泥試合で詰みを逃して敗けで、後者はずっと細かい攻めをあの手この手でつないで勝った。どうやら、藤井さんが攻めの主導権を握り続けている将棋を引っくり返すのは容易ではないようで、実際、先攻しやすい先手番では圧倒的に強い。
羽生善治は、盤面全体を大きく俯瞰するような視線に強さがある。そして、自然に見える進行の中で、一瞬だけ出現するチャンスを見つけ出す嗅覚が強い。対局者がお互いにヨミを交換し、積み上げた「物語」のような流れからふっと身を逸らして、普通では考えつかない意表をつく手を繰り出して「羽生マジック」と呼ばれた。局面を線ではなく点で捉える能力もまたデジタル的といえる。
王将戦の第3局、第4局は、どちらも先手が主導権を握り続けて、一手のミスも許されないギリギリの戦いを勝ち切った。そして2月25、26日の第5局、華々しい戦いから後手番の羽生さんが有利に運び、AIの評価値にも大差がついた局面で、長考して受けに回った一手で大逆転。正解手である57銀を打ち込み王手飛車取りを掛けるという手順は、私でも思いつくような手順だから、羽生さんはなぜ指し切れなかったのか。しかし、対局を見るにつけ、ミスはほぼ期待できず、常に予想を上回る最強手段で応じてくる藤井さんという棋士との戦いにほとほと疲れ果てているという印象が強い。
棋士は常に相手が何をしてくるかわからない、という恐怖を抱きながら一局の将棋を闘っている。トップ棋士は例外なくオーラをまとっており、圧力の掛け合いという面もある。羽生さんという人にはニコニコ笑いながら刃物を懐中に秘めているような底知れぬおっかなさがあるのだが、眼光鋭い藤井さんのきかん気と激しい闘志を裡に秘めた迫力も、テレビ画面越しでも伝わってくる。AIとの対話も含むという意味で、人知を超えた戦いとなった。
 

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先手番の羽生さんがカド番になった3月11、12日の王将戦第6局、角交換から早繰り銀という急戦調の出だしになった。狙いが単純な戦法であり、すぐ前例のない局面にはいったものの、素人眼にも羽生さんの変調がわかる展開となり、1日目でどうにも身動きがとれなくなっていった。AIの形勢判断も大差でとにかく空気が重苦しい。囲碁・将棋チャンネルの解説は若手の俊英・佐々木勇気さんで、研究していた形ゆえ手がよく見えて、私にも行く末がよく分かった。内容よりもむしろ、近年の将棋の研究合戦がいかにおそろしいか、指す将棋が定跡になるような藤井さんのレベルについてゆける棋士はほとんどいないという。AIをいち早く研究に導入し、先行していた棋士の成績が最近、目立たないことに気づいていたが、すでに人間の頭脳の許容量を超えていて、記憶しておいて指す、みたいな話にはならないらしい。
佐々木さんは「疲れるんですよ。どんな局面でも詰みまで研究しないダメなんです。急戦調だと、ちょっとした駒の配置の違いで全然手順が変わってくるし、際限がない。でも、トップで戦うには絶対に深い研究が必要なんです」と赤裸々に告白し、解説も研究しないと間違えてしまうから、8段に上った今はもう止めるか、と迷っているらしい。2日目の解説はA級の中では珍しい振り飛車党の菅井竜也さんで、なにしろ飛車を振るだけで評価値が下がるというから、かえって独自の道を行っている棋士なのだが、彼の解説でも朝から羽生さんにほぼ希望はなく、あっさり土俵を割って藤井さんの防衛が決った。羽生さんに闘志があまり感じられず、藤井さんの懐の広い強さに根負けしていた。
羽生さんが“AIは思考のプロセスが分からない”という通り、人間とAIが将棋というゲームで共有できる領域はかなり狭い。AIはあらゆる局面で、選択できるすべての手をしらみつぶしに計算し、人間がムダだと省くことも厭わずに「思考」するわけだから、同じ土俵に立つことは決してできない。将棋AIはどんどん強くなるはずだが、だからといって藤井さんより強い棋士が出るわけでもない。藤井将棋の弱点を研究しつくした最後の砦、羽生さんですらかなり差があると判明した今、いよいよ棋士という職業がいつまで続くか、という危機感が浮上する。実際、今のタイトル戦の内容は、アマチュアが真似できるものではない。いわゆる「観る将」ファンのように、食事のメニューやおやつ問題に熱中する方が楽しめるかもしれない。
 

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あくまで全盛期という限定の話であるが、木村義雄、大山康晴、升田幸三、中原誠、そして江戸時代の天野宗歩など、時代の最強棋士がAIの研究を取り入れて極めれば、藤井さんと互角の戦いができるはずである。もちろん、羽生さんも今若ければまるで別の棋士に成長していただろうし、AIは結局、人間の強さ(あるいは才能)の限界に到達することを促すだけである。長い将棋史の中でも、詰将棋が藤井さんほど強い人はいなかったわけで、将棋の技術はついにある高原状態に至った。
怪物のような人間の似姿とともに歩むことになり、いささか索漠とした将棋というゲーム全体をぼんやり眺めつつ、さて、無力な人間はその状況をどう捉えるべきか、弱い私も考える。とはいえ、すべてのジャンルにおいて、緻密な可視化が進めば進むほど、手に負えない領域もより広がって行く。頭をかきむしりながら、将棋と自分自身と限界に立ち向かっている羽生さんの苦悶と、対局相手とはまた別の相手と対峙しているような涼し気な藤井さんの孤絶を長時間鑑賞しながら、唐突に、山へ行こう、と考える。
羽生さんは、藤井さんも自分と同じく、野山を駆け巡る少年だったことを、ことのほか喜んでいた。
もろもろ、答えのない局面に入りつつある。
 
 獣道赤い椿に導かれ


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風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。