映画音楽急性増悪 第41回

虹釜太郎さんによる『映画音楽急性増悪』第41回目は、50年代のニコラス・レイ監督の7作品の音や音声などについてです。

第41回 ラフストック



文=虹釜太郎


 
人をだます才能だけがある無能な人間。それが批評家。中身のない、無意味な言いまわしに長けた人間。それが批評家。そんなことを言っていた監督がかつていた。
ニコラス・レイについて批評家たちはどんなことを言ってきただろう。
 
 
『ビガー・ザン・ライフ黒の報酬』(ニコラス・レイ/1956年)
最後に抱き合う家族三人。しかしこの三人の家族には友人がいない。というか友人たちとの交流が映画では描かれない。最後の家族三人の抱擁の後、またすぐに同じ映画を観る。するといささか長めの子供たちがひたすら郊外に退出する映像がまた。
教師を演じるジェームズ・メイソンの蝶ネクタイとその妻が着るオレンジのドレスへの違和感。ひたすら攻撃的な存在としての写され方が徹底している医療チーム。彼ら家族三人の友人関係は描かれないが、父と子のフットボールやミルク詰問などのしつこさが結節性多発動脈炎や薬コーチゾンの副作用としてひどく繰り返されるが、妻との不和に関しては何度観ても違和感が。妻があまりにもメイソンにやさしく、メイソンの異常を止める同僚は最後までまともに扱われず、何度も出てくる医療チームもまた異常なまでに怜悧な。家族の解体をしっかりと描いたというよりは、妻のやさしさの異常が浮き彫りになる。しかしその異常なまでのやさしさがいったいどこから生まれたか、またそれはどうして消えないのかは映画では描かれない。だがそここそが気になる。多くの映画のカップルはすぐに別れるし、別れた後からまたはじまったりするなかで、本作は決してそうではない。
映画音楽自体はこの先いったいどうなるかわからないという音楽があまりにも流れ過ぎる。あらゆる不測な展開を意味するようでありながら特定の意味は決してもたないもったいぶった音楽の連続。この散漫で不安定な音楽には別のいくつかの名前がつけられても。
予算の少なさもあってか、本作の閉鎖性は観る度ごとに幾度も縮小するようで、繰り返し観る度に強まる最後の家族の抱擁への違和感。その彼らが暮らす家のいったい昼か夜か真夜中か真昼かわからない薄暗い薄明るい照明が異様に長く続くことによる不安感。
最後に抱擁しあった家族は壊れた階段が待つあの家に戻るだろうか? 戻るだろう。だとするなら…
 
 
『危険な場所で』(原題『On Dangerous Ground』ニコラス・レイ/1951年)
アイダ・ルピノが共同監督。
捜査本部に入るまでの冒頭四分が何度観てもすばらしく。西部劇を観ている子供たち。しかしその銃声が何度も鳴るシーンは映されない。映されないけれど音声は鳴るシーンは映画最終版で刑事ジムが街に戻るシーンで鳴る映画内でたしかに響いた音声たちの繰り返しでもまた。
目が見えない、アイダ・ルピノ演じる役と重なって、本作は観終わった後に、音声だけの世界を感じ直すことを何度も促す稀有な作品に。
手を洗うひりつき続ける刑事ジムの描写が異様だが、左遷される時の車から映される風景の変遷のこれまた異様な長さと左遷後の刑事の変容は、ジェラルド・バトラーの原作『Mad with Much Heart』ではどう描かれていたのか。映画では盲目のルピノの眼の動きがあまりに強く、その眼は刑事ジムの暴力性を強引に奪っている。
冒頭に車から映る街は海上のようにも見えてしまう。左遷前のこれまたアンバランスなほどに強く叱られる刑事ジムの壊れ方。壊れた廃屋同士が惹かれあうことになるが、その惹かれを強化する刑事ジムが思い出すことらが映像でなく音声のみで行われるのは映画だからできること。その後の映画は思い出すことを映像に頼り過ぎているのか。
 
 
『女の秘密』(原題『A Woman's Secret』ニコラス・レイ/1949年)
『危険な場所で』でのいきなり投げる少年、『女の秘密』での突然蹴飛ばされるゴミ箱らの小さな乱暴たち。
モーリン・オハラとグロリア・グレアムの演技があまりにも違っている。
ドアの開閉に執拗にこだわるのは見えないことにこだわるから。
後半の病室でのグロリアの告白時にあえて看護婦を映す。
「見えない」誰が撃ったのか。しかし銃声だけはしっかり聞こえる。
病室でのグロリアを囲む五人もの男たちの異様さは『ビガー・ザン・ライフ黒の報酬』の医療チームの不気味さを思い出させる。
観直す度に存在が大きくなる探偵の妻。
あっさり終わるがなにかがしっくりこない。
グロリアの右眉毛の不安定さがその不安をさらに強調するが、そのしっくりこなさは映画のあいだ中ずっと捕まらないタクシーが最後にもまた。
 
 
『孤独な場所で』(原題『In A Lonely Place』ニコラス・レイ/1950年)
『危険な場所で』のような夜の道路の走行から店に入ってからのいきなりの無礼な客への殴打からはじまる。しかし既に背景がどれも歪だ。
撮影中に脚本が直されまくり、原作小説『In a Lonely Place』とは違う内容に。
『女の秘密』では探偵の妻が長いあいだ現れたけれど、『孤独な場所で』では警官の妻が長いあいだ現れ、ディクソンとローレルの別れのきっかけまで作る。
ローレルの家がディクソンの家より上にあるという構造。
丁寧に不器用に用意されるグレープフルーツのシーンでの二人の既に終わっているあり方。
脚本家ディクソン・スティールとローレル・グレイの恋愛の終わりが描かれきって映画は終わるが、ディクソンの暴力性、我を忘れての暴力の発露があきらかになるいくつかのことより、たびたびディクソンにかかってくる電話自体の暴力の描き方がすごい。
怒りに我を忘れ暴力をふるってしまった後の姿が何度も描かれるが、電話は布団をかけて鳴らないようにしてもいつも鳴ってしまう。
最後の電話によってディクソンへのミルドレッド・アトキンソン殺人嫌疑ははれるが、二人の関係はその時には完全に終わっている。その時にすぐに思い出すのは、ディクソンとローレルが付き合う前に、突如ディクソン宅の電話が鳴り、ディクソンは自宅へ、ローレルも自宅に戻るシーン。その数々の電話の描かれ方もあってシリアルキラー映画から別のなにかに本作は変わってしまって。
 
 
『ラスティ・メン/死のロデオ』(別題『不屈の男たち』、原題『The Lusty Men』ニコラス・レイ/1952年)
ゴミ紙が舞い続ける無人のロデオ会場の冒頭。
中盤からの女同士の会話の開示が他の監督ではなかなか見れない。女は二人から三人に。
ロデオが失わせたものとは、ロデオが隠してしまったものとはの問いに、映画は答える。
安定を求める妻とロデオに走る夫から生まれる夫婦の問題。
ロデオのスタンバイシーン、ロデオ会場での妻の表情の細かな変化を仔細に見せていき、ロデオという職業がなぜ存在したかについて考えさせ続ける。人によってはロデオをする人間同士の会話がもっともっと聞きたくなるかもしれない。
ロバート・ミッチャム、スーザン・ヘイワードの演技はもちろんだが、アーサー・ケネディ、ケネディの夫婦の問題そのものを生じさせるあらゆる表情が見事で、これらの表情が豊かでロデオ・アメリカの歴史に観客は無理やりひきこまれる。詰問の眼球のスーザン、呆れ透かし眼が多めのロバートに対し、アーサーの眼は得意目ややられ目以外にも多様な表情とさまざまの酔いが。
映画音楽よりもロデオ音楽(映画音楽自体はロバートの向かう方を示すが)、ロデオシーンよりもロデオのスタンバイシーン(映画そのもの自体を超えてしまうロデオの力へ)、男同士の喧嘩より尻蹴りの女同士の喧嘩(尻を蹴るだけでなく酒かけまで)。
 
 
『苦い勝利』(原題『Bitter Victory』ニコラス・レイ/1957年)
第二次世界大戦中のリビアでのドイツ軍司令部からの機密文書剥奪作戦成功で終わる話だが、映像のいくつもが異常に際立ってしまって、それらは映画のメインの話からのさまざまな逸脱を孕んで。それらは砂漠での死体の配置のおかしさ、夜の砂漠のストーリーとはかけ離れた宇宙っぽさや蠍の不自然な明滅、突然過ぎる大砂嵐で、映画はデイビッド・ブランド少佐の妻が昔の恋人の死に悲嘆にくれ、ブランドも勲章に意味を感じないかたちで終わるが、そのストーリーなど意味をなさない砂漠の移動中のおかしさたち。砂漠に入る前からのモーリス・ルルーの不吉な音楽は見事だが、際立っていた映像たちの背景にはいずれも音楽はない。
冒頭なんのためらいもなくひたすら大きな音で鳴るタイプライターの音はその音だけがひたすら鳴り続ける。
 
 
『無法の王者ジェシイ・ジェイムス』(原題『The Story Of Jesse James』ニコラス・レイ/1957年)
『地獄への道』リメイク。『苦い勝利』と同じくタイプライターが冒頭に。あっけなく崖から落下する馬と人。その直後に映る警察署の手前の禿頭。そこでジェシイ・ジェイムスな名が告げられる。
南北戦争後の相変わらずの混乱の最中まだまだ多くの「犯罪者たち」が変名で再起を計ったり犯罪から足を洗ったり、また洗おうとしてもヤケになったり。その三つめのヤケになったりの映画での描き方はさまざまにある。
本作では母親の回想シーンとそれに付される諦めのやさしげの音楽がついているが、それをどうとらえるか。母の回想の唐突さから「本編」に戻る前にすこし長すぎる空が映るブリッジがある。この空のブリッジの下に多くの人間たちがいる。そして回想は長い。
回想は映像だけでなく音声だけで続く。その音声があるかないかには大きな違いがある。