- 2023年01月30日
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江藤淳/江頭淳夫の闘争 第6回
風元正さんによる不定期連載「江藤淳/江頭淳夫の闘争」の第6回目です。現在Kindle版で『全文芸時評Ⅱ』まで発売している江藤淳の「文芸時評」と同時代に、毎日新聞に「文芸時評」を連載していた平野謙について。
「文芸時評」という職場
文=風元正
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「文芸時評」は明治期の新聞・雑誌の月旦欄から発展した形式である。すべての活字メディアに発表される小説と随筆を中心にした「作家」の作品が珍重される国は、明治から昭和・平成初期にかけての日本しかない。ベネディクト・アンダーソンのいう「想像の共同体」が形成されるにあたり、わが国にはどうしても「文学」が必要だった。開国により、各国語の翻訳が可能となる新しい「国語」への切り替えは急務であり、「言文一致」は二葉亭四迷のような語学に通じた文学者の努力により短期間で実現された。その中でも、夏目漱石の文体は現代に至るまで強い生命力を保っている。
ものすごい速度で新しい国語が形成できたのは、明治以前の歴史の蓄積が大きかったからである。漢文の翻訳を前提としたわが国の「言の葉」は、西欧諸国の言語を受け入れるだけの準備は、すでに江戸末期に整っていた。硯友社などでは「翻案」という名の外国文学の模倣によりハイカラさを演出し、新思想の流入も広義の「文学」のジャンルで行われており、自由民権運動の闘士も多くは文学者を兼ねていたことを考えると、政府側にとっても「文芸時評」は「監視」塔の機能を果たしてもいた。
戦前において、「文芸時評」の最も有能な書き手は川端康成であった。作品の価値や才能の有無を見抜く批評眼の鋭敏さは驚くほかないとして、当時の大新聞や雑誌に時評欄が用意されたのが1930年代初頭のプロレタリア文学の興隆期であったことは偶然ではない。「芸術至上主義」を掲げ1933年に創刊された時の「文學界」の編輯同人は、豐島與志雄、宇野浩二、廣津和郎、川端康成、林房雄、武田麟太郎、小林秀雄の8名で、後に横光利一、河上徹太郎、中村光夫などが同人に加わり、文壇内のヘゲモニーを握った。左翼文学への対抗軸を用意すると同時に、中野重治も勧誘して芸術派の統一戦線を目指そうとしたのはすでに触れた通りである。
文学史を見直そうとすれば、さまざまな文学流派のヘゲモニー闘争と売れ行きや文化賞の帰趨という社会的な評価により語るほかない。より細部を検証し始めれば泥沼に入るしかないわけだが、創刊から100年という時を経れば、「文學界」同人たちは文壇政治的な勝者というより、残した作品が歴史というもっとも強力な「批評」に耐えた書き手ばかりだったという結論になる。川端康成が時評家から「追悼の名人」に転じたのは偶然ではなく、もう文学という場で「美しい日本の私」の戦線を形成し、もはや新たな才能の「鑑定」はさほど必要がない、と見切ったタイミングがあったのだろう。
発表時にどれだけ好意的な評判を集めたとしても、10年後には見る影もなく忘れ去られる作品は数限りがない。「文學界」創刊は治安維持法下における芸術派の「実際的貧困」(大岡昇平)対策という目的もあったわけだが、1942年の日本文学報国会の成立により、作家たちの就職対策の必要は消えて、銃後で奉仕する仕事につくことが可能になった。しかし、翼賛体制に協力した者が後に味わった厳しさはいうまでもなく、戦時中に限らず作品の生命を保とうとするならば、「芸術至上主義」がほぼ唯一の選択肢である。もっとも、時流から離れた「芸術」でメシが喰える人間などほとんどいない。
ここで、もうひとり忘れてはならない「文芸批評家」がいる。治安維持法下の34年、「日本共産党スパイ査問事件」で未決囚となった宮本顕治である。
「小林多喜二「党生活者」
天皇の代に関係した昭和文学という呼称に私は賛成しないが、現代文学ということで、この作品は戦前の暗黒政治の下で弾圧に抗し明日をめざして闘っている人々の苦悩を生き生きと形象化した意味で歴史的なものである。」
89年1月1日に刊行された「新潮」増刊『この一冊でわかる昭和の文学』の「昭和文学 私の一篇」というアンケートへの「日本共産党中央委員会議長・参院議員」宮本顕治の回答である。当時81歳。1枚の400字詰め原稿用紙に端正な字で書かれていたこの一文は、批評家として現役であったことを雄弁に物語っている。戦前、非合法活動に追いやられて地下に潜り「革命」を目指し続ける日本共産党のインターナショナリズムは、プロレタリア文学者に限らず、知識人階級へ隠然たる影響力を保っていた。宮本顕治が自ら望んだ選択肢ではないとしても、戦中に獄中にいて「非転向」を貫き通し、結果として戦争協力もせずに済むというヘゲモニーの保ち方もあった。
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「文芸時評」という仕事場に本格的にデヴューした江藤は、ほぼ同時に「〝戦後〟知識人の破産」というエッセイを「文藝春秋」60年11月号に発表しており、論壇では丸山眞男をはじめとする「左」派知識人に対して、「インテリゲンツィアは林立するビルのむこう側に「廃墟」のイメイジを浮かべて八月十五日の「正義」を確認し、ふりかえって叫ばねばならない。こんなはずではなかった、なにかがちがっている」と吠えている。日本共産党を筆頭に敗戦の日を「解放」と捉えた人々への訣別の辞だった。
しかし、社会全体の動きは江藤の早すぎた状況認識とはややズレている。同時期の文壇では「純文学論争」が熱気を帯びていた。論争の発端は「転向左翼」の批評家である平野謙の「「群像」十五周年に寄せて」(「朝日新聞」60・9・13)とされている。平野のエッセイは短いものだが、もともと純文学という概念が「私小説を中心に確乎(こ)不動のものとして定立した時期にだけ妥当する」「歴史的なものではないか」という見解は平野の時評の中でも何度か示されていた。その説がアメリカに一年近く滞在し帰国したばかりの伊藤整に強い「ショック」を与え、「「純」文学は存在しうるか」(「群像」60・11)というエッセイが書かれた。
平野の「純文学変質論」の背景には、「中間小説」の隆盛がある。当時は「オール讀物」と「小説新潮」が数十万部の売り上げを誇って、63年には「小説現代」が創刊されるという状況がある。それゆえ、伊藤は「松本清張、水上勉といふやうな花形作家が出て、前者がプロレタリア文学が初年以来企てて果たさなかつた資本主義社会の暗黒の描出に成功し、後者が私の読んだところでは「雁の寺」の作風によって、私小説的なムード小説と推理小説の結びつきに成功すると、純文学は単独で成立し得るという根拠が薄弱に燃えてくるのも必然」であり、「純文学の理想像が持つてゐた二つの極を、前記の二人を代表とする推理小説の作風によつて、あつさりと引き継がれてしまつた」と、やや慌て気味に反応した。
2人の応酬から、山本健吉、大岡昇平、読売新聞で大衆小説時評を担当していた吉田健一、平野謙の僚友・本多秋五、十辺肇などが参加し、後に福田恆存が「文壇的な、あまりに文壇的な」(「新潮」62・4)で「たっぷり雑誌一冊分位ある」と皮肉るような大論争に発展する。福田の整理によれば、そもそもは大岡昇平が「群像」で連載していた「常識的文学論」から端を発した井上靖「蒼き狼」を巡る論争が発端という経緯になるが、議論は各人の「純文学」概念を擦り合わせようとして、結果的にズレたままで終わったと言っていいだろう。
福田は、「純文学論争」は長く「王位請求権を主張し続けてきた」「近代日本文学主流派の自然主義=私小説」に対して、日本共産党の弾圧によって地下に潜らされていた「プロレタリア文学の政治主義」を「近代文学一派」の、急激な「大衆社会現象」による再度の「王位請求運動」と総括している。その背景に、占領政策の転換ののち、小田切秀雄、佐々木基一、花田清輝、野間宏らが共産党に入党したことにより、平野が属する「近代文学」一派が事実上崩壊した事実を挙げている。福田は共産党と「近代文学」は対立していると考えているものの、今から見れば「左」派の例によっての内ゲバにすぎない。
江藤も福田の立論に従い、「現に最近六ヵ月間文壇を沸かせていた論争が、大部分夏目漱石のいわゆる「文壇の裏通りも露路も覗いた経験のない」「教育ある上且尋常なる士人」には何のことだか見当のつかない「方言」で語られて来たという事実は動かしがたいであろう。これは大げさにいえば今日の日本の文化上の大問題である。文学者の言葉が文学をもって業とする者にしかわからず、普通一般の生活人には通じないということは、文学者の生活がそれほど普通一般の生活人の生活から遊離してしまっている、ということを意味しないであろうか」(以下、断りのない江藤の引用はすべて「全文芸時評」より)という結論に至っている。
大岡昇平は連載中だった「常識的文学論」で、25歳の小林秀雄が「大衆文芸」について、「頭の上に太陽が照つてゐる限り、人生に娯楽といふものが亡くなるわけがない。この娯楽が時勢とともに複雑になつて行くのに何の不思議があろう」(「測鉛」27・8『大調和』)という言葉で「大抵片付いてしまう」という大原則を持ち出したが、平野はその見解を「古風」と一蹴する。そして、尾崎一雄の「暢気眼鏡」を純文学の代表者として、その存在に後継者がいないゆえに「純文学変質論」を唱えたわけだが、もとより、60年前のジャンル論争の細部を振り返っても稔りはない。
議論としては、同時代的にはウヤムヤのまま終わった。むしろ、現代に至るまで作家や作品を変えて似たような議論が周期的に起こっている事の方が面白い。そして、平野が当時書いた評論や文芸時評を読んでゆくうちに、奇妙な哄笑の発作に襲われた。確かに、福田が「アクチュアリティ=コミット説」と呼んだ平野の最終的な立脚点は、プロレタリア文学の「主題の積極性」というテーゼを言い換えただけの安易なものかもしれない。しかし、その理論は、意外なまでの生命力を保っている。論争の真の勝者は、文壇の強者からの批判に対しても自説を曲げなかった「私小説」好きの「純文学変質論者」平野謙ではないか、という歴史の皮肉が見えてきたのだ。もちろん、福田が拘泥した「近代文学」派の文壇的評価のような問題とはまるで関係のない話である。
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78年に亡くなった「平批評家」平野謙について、現時点でどれだけの関心が保たれているだろうか。現在も闘争中の活動家にして批評家・絓秀実のように左翼文学に依拠する者にとっては必読としても、基本、同時代の文学シーンを論じることに徹した方法論ゆえ、その議論にどうしても歴史的な背景を補う必要がある。「芸術派」のような時代に左右されないテーマを扱わない点で後世の読者を待つ意味では不利である。
しかし、平野の文芸時評を読むと、テーマ・構成・文章・時代性などなど、小説教室で生徒を採点するような物差しを手放さずに柔軟に達成度を判定し、ある作家に下した評価を後の作品で修正すること厭わない丁寧な姿勢によって、時評家の中でも飛び抜けて有能であることがわかる。07年生まれで、東大在学中の32年、宮本顕治の批評に強い影響を受けつつ、あるプロレタリア科学研究所に入るものの、すぐに共産党は集団検挙され、内務省系の情報局文芸課で働き、文学報国会評論随筆部会の幹事を務め、戦後は「近代文学」を創刊するという経歴の中で、回想録にも正直に書けない政治的、経済的なピンチは何度もあっただろう。危険な道のりをサバイバルする武器は、正確な批評眼、グチから始める時評に端的に表れている自分を客観視できる楽天的なユーモア感覚、そして「女房的リアリズム」に裏打ちされた嗅覚による危機管理にあった。
以下、読者のみなさまに、あえて立証責任を放棄した議論を吹っかけてみたい。
思いつくままに列挙してゆくと、早坂ちよ原作の浦山桐郎監督『キューポラのある街』は平野謙的「アクチュアリティ」によって成立した典型的な作品であり、ジュンを演じた吉永小百合は永遠に「左翼」のアイドルである。が、荒井晴彦の指摘する通り、在日韓国人帰還事業に応じたヨシエ一家の行方の落とし前は永遠につかない。66年のテレビドラマ『若者たち』の左翼青年役でブレイクした山本圭の叔父は共産党員の山本薩夫監督であり、さまざまな娯楽大作を撮っているが、左翼系の原作物より山崎豊子『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』を階級闘争史観で読み換えた力業に感嘆する。山本薩夫については、市川雷蔵主演の『忍びの者』から白土三平『カムイ伝』に転じる系譜も見逃せない。ガロは転向左翼の一大拠点だった。山田洋次監督『男はつらいよ』シリーズの諏訪博を長く演じた前田吟は、映画の娯楽性についての免罪符ぽいとはいえ山本圭とは違う日本左翼の一典型を見ることができるし、渥美清演ずる「寅さん」も網野善彦史観の「漂泊民」の現代版ではないか。高倉健主演のやくざ映画は伊藤整的な「組織と人間」のヴァリエーションであり、その血脈は『日本で一番悪い奴ら』などの白石和彌監督作品まで続く。安部公房『砂の女』は勅使河原宏によって映画化され、その演出と武満徹の音楽により「疎外論」の表現として世界的な水準に達している。平野と気脈を通じていた花田清輝は「記録芸術の会」を組織して、谷川雁の「サークル村」があって、小川伸介の三里塚闘争を記録した「三里塚シリーズ」や石牟礼道子『苦界浄土』などの傑作が生まれる。沢木耕太郎、佐野真一、猪瀬直樹などの新しいタイブのノンフィクション作家が立脚するのも転向左翼的な論理だろうし、『復讐するは我にあり』の佐木隆三は「新日本文学」出身。日活ロマンポルノや若松孝二の「革命性」や、朝倉喬二や平岡正明の犯罪批評もひとつの展開であろう。新しいところでも、貧困問題をドキュメンタリー的に虚構化した是枝裕和監督『誰も知らない』や、人種差別やケアの問題をモチーフに取り入れた濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』なども「アクチュアリティ」論の応用により世界性を獲得している。村上春樹の初期小説は実は「転向小説」で、柴田翔『されどわれらが日々』の「68年」ヴァージョンであり、本人によって隠されていたその起源は、近年の研究により明らかにされつつある。ジョージ・オーウェル『1984年』をスターリン体制批判の書という本来のモチーフから読めば、科学技術についての文明批評という側面も含め、SFのかなりの領域が「平野理論」の範疇に入る。そして、平野は推理小説の愛好家でもあった。もちろん、処女作を認められた大江健三郎が終始平野門下の優等生であり続け、ノーベル賞受賞まで至ったのはいうまでもない……。
とまあ、いくらでも挙げ続けられる。搾取のない平等な理想社会を目指す埴谷雄高的「永久革命」の過程には、反資本主義、反米国帝国主義、天皇制打倒などというもう少し現実的な目標がある。もちろん、学費値上げ反対であってもいいし、企業の中でも利益をより平等に分配するよう訴えたり悪業の告発をしてもいい。生まれや人種、あるいは性別による差別の撤廃などの際限のない社会矛盾を解消するためのすべての「文化闘争」は「平野アクチュアリティ理論」の実践である。そして、宮本顕治のいう通り「弾圧に抗し明日をめざして闘っている人々の苦悩を生き生きと形象化」すればそれでいい。
平野が芸術における魔法のポケット、あるいは間口の広いズタ袋を前面に出した路線は、戦後のミヤケン指導下の日本共産党の公認作家として、資本主義社会のベストセラー作家である松本清張が玉座に立つ過程で起こったことである。「純文学論争」の後、中野重治、佐多稲子、野間宏、花田清輝、安部公房らは結局、除名されてゆくわけで、日本共産党は「第一次戦後派」と同伴して国家犯罪の告発を続ける重さより、「赤旗」を中心に「戦後民主主義」を錦の御旗に据えたややカジュアルな(=合法的)戦後体制批判勢力を目指すことを選択した。宮本顕治はレーニンでも毛沢東でもカストロでもない。そして、ミヤケンの判断を宣布したのは、多少の軋轢はあるとしても、実質的には阿吽の呼吸で動いていたと見做せる文芸斑「事務局長」平野謙だった。
長年、松本清張が小林秀雄批判を書きたがっていたのは一部で知られている。それも、小林が戦後の主な発表媒体にしていた「新潮」に掲載するのが望みだった。私が直接その話を伺ったのは、小林秀雄の死後だったが、あの超多忙では実現は無理だった。ちなみに、清張は小林の盟友だった斎藤十一が頭の上がらない作家のひとりである。高等小学校卒で貧しい家で育ち、広告の版下職人として戦中は家族を養い、40代半ば過ぎでようやく作家とした世に出た松本清張は、大岡と同じ09年生まれ。大岡も従軍・復員という苦難を経ているわけだが、松本からすれば学生時代から文学に興じる余裕のあった小林グループなど、怨嗟の対象でしかない。
大岡の「常識的文学論」の清張批判を読んでみたが、従来の文学的リアリティの範囲で判断しているにとどまり、ブルジョアの戯言として細部は歯牙にもかけず、ただ敵愾心と恨みを燃やしていただけと想像される。芥川賞作家・松本清張は、個人としては文学という武器を駆使して「階級闘争」に勝利した。これは戦後のジャーナリズムの量的拡大により起こった重大な変化であり、それゆえ、当時から「純文学」か「中間小説」か、などという問題系は実は既に形骸化している。もちろんその認識は、大岡が持ち出した小林秀雄流の箴言のように、単に「いい小説」と「悪い小説」があるだけ、という「古風」な論理の上に成り立っているわけだが。
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業界の変化は、平野理論の「純文学変質」段階には留まらない。59年、「少年マガジン」「少年サンデー」が創刊され、他社も含め週刊漫画雑誌の大成功により大手出版社は圧倒的な量的拡大期に入った。その中で、戦前の作家たちの大多数が実家の財産を食い潰したり、別の職業を持つことで糊口をしのいでいるのが現実だったとするならば、戦後はさまざまなジャンルで原稿料生活が現実に手に届くようになる。
草創期の漫画雑誌の編集者は回想録で、純文学の部署志望だったからヤサぐれていたと異口同音に語っている。みな、江藤と同世代か少し下。しかし、作家も含めた初期漫画業界のコンプレックスが、結果として作品の中に良質な文学性を育み、左翼性と無縁に出発した自由さもあいまって、とりわけ幼い読者は娯楽を娯楽として純粋に愉しむ姿勢を自然に身につけていった。いわゆる「第一次おたく世代」(「新人類」とも呼ばれた)が1960年前後生まれであることは偶然ではない。彼らがみなノンポリで政治的な直接行動を忌避する点において、「シラケ世代」を挟んで「団塊の世代」とまったく習性が異なる(何となく忸怩たるものがあるのだが、自分自身が属する世代である)。
とはいえ、かつてある小説誌の編集長に「純文学畑の編集者はみんな気位が高くて、私なんか鼻もひっかけられなかった」とボヤかれた通り、「純文学」は文化の王道に君臨していた。朝日の江藤淳、毎日の平野謙の「文芸時評」は当然、毀誉褒貶もありつつ花形であった。しかし、同時期の時評を読み比べてみて、まるで別の国の話のような印象を受けることも多かったのだが、理由は簡単だった。江藤が総合雑誌や中間小説誌への目配りをする一方、平野は「新日本文学」系の作品を重視するので、守備範囲が重ならないのだ。
平野が64年7月《新日本文学》に「文藝時評を担当した岩田宏という人が「ああ、読んだ、読んだ」という書き出し」と触れているが、この時点では知る人ぞ知る存在だったナンセンス詩人・岩田宏(=マヤコフスキーの翻訳者・小笠原豊樹)に着目する感覚は目覚ましい。江藤の方も、64年1月「長谷川龍生氏の長詩「皇族駅」(新日本文学)は、日本の革新的心情の伝統が、マルクスの剰余価値説と何の関係もない暗い血のなかにあることを悟らせる力作」と評して、列島系の左翼詩人の中心にある情念を言い当てるなど、一歩も譲らない。
江藤と平野の時評を比較すると、どの作品に触れるかの選択眼は異なるとしても、評価基準はほとんど同じである。すべて初読の作品ゆえ、お互いに読み誤りが出るのは止むを得ないとしても、川端をのぞくほかの時評家はみな、どこかに文学理念や人間関係による先入観に左右される欠陥から逃れられず、平野や江藤のような公平さは望めない。2人に続くのは柄谷行人の77年から78年にかけて書いた時評であり(『反文学論』)、とりわけ女性作家の新しさに着目した柔軟な姿勢が印象に残るが、2年で止めたのは江藤が時評の場を去った理由と重なる。
もっとも、作品の価値判断に大きな差はないとはいえ、平野が「純文学変質」を唱える時期を、江藤は常に厭味っぽく文学の本質が見失われた「文運隆盛」期と呼んでいる。大衆社会化現象に対する態度は正反対である。何より、62年まで時評を書き、2年間のアメリカ留学を経て、65年に同じ欄に復帰していた江藤自身の内面に大きな変化が兆していた。
すでに確認した通り、江藤にとってアメリカは暮らしにくい国ではない。しかし、帰国後の江藤は、政治の現場に接近するにつれて、どこか人間としての輪郭が不透明になっていった。なぜ「変わった」のか? 滞在中の出来事はもろもろ書かれているけれども、「江頭淳夫」は本当の理由について沈黙を守っている。少なくも、フィッツジェラルドの研究を「何の喜びもわいて来ない」ので放棄し、「風姿花伝」を読んで日本の古典を発見する「私の日本回帰」のような物語によって回収できるような事態とは思えない。私は、江頭淳夫の内面にとってのみ重要な黙示録的な経験があったのではないかと推測している。
ここで帰国後の「文芸時評」の第一声である65年1月の記述を引用しておく。
「人は「ナショナリズム」という言葉に道徳的正当性を回復しようとして「新しいナショナリズム」という。そして、この表現がもたらす自己欺瞞には盲目になるのである。もともとナショナリズムに新旧の別があろうはずはない。あるとすれば巧妙な国家利益の追求と拙劣な国家利益の追求の別があるだけである。そして国家利益の追求は、近代国家の成立以来今日まで、たえずくりかえされて来た国際政治の主動因にほかならない。(中略)
混乱が秩序の役割を演じ、正統の資格を欠いたものが「正統」を僭称するという東京の文壇の特性は、いうまでもなく戦後日本の社会の特性の忠実な反映である。個々の文士が依然として反社会的な道徳で生きているつもりでも、文士の集団はひとつの小社会をかたちづくらざるを得ない。そして、戦後日本の社会が、表向きの旗印はどうあれ、事実上水ましされた反社会的原理で動いて来ている以上、そのなかで文士の小社会が中心に近い位置を占めるようになったのも当然である。」
平野のような議論に対する批判ともとれるが、個人攻撃ではない。ここで浮上している「国家」は、平野の思考にはないものである。平野は「革命」を望んではいるが、同時に大学教授として勤務し納税して国民の義務を果たしつつ、小市民として尋常な生活を続けることを当然と考えていた。国民全体の生活が豊かになり、「意識が高く」なった時に望んでいた状況が来るかもしれないとしても、それをSF的と感じるくらいの常識人だった。「仮面紳士」を自称する伊藤整にしても、似たような感覚であろう。
江藤ももちろん職業・金銭的な安定を重視する小心な人間であるが、ここでイメージされている「国家」には、当時の「革命」すら上回るようなキナ臭い現実社会との緊張感が感じ取れる。そしてそのイメージは、鷗外が「普請中」と呼び、漱石や勝海舟が目指した近代国家の理想とも、微妙に似て非なるものである。江藤にとって、明治と戦後を隔てるのは、とりあえず「敗戦」と「占領」であるが、その認識は、たとえば平野にもまったく共有されていない。
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文芸ジャーナリズムも拡大する一方ではない。「風流夢譚」事件により暗黙の禁忌が拡がり、江藤が久々に期待を寄せた大江健三郎の「セブンティーン」(「文學界60・1」)は出版社側が刊行を自粛した。60年代は、「右」も「左」も政治と暴力が不即不離だった。その中で、「職業時評家」としての第一の関心事が作家の「私」だったのが、いかにも江藤淳らしい。江藤にとって、平野の論点は菊池寛『真珠夫人』の文学性の高さと、反復の可能性を確認しておけば充分だった。
しかし、残念ながら江藤のメガネにかなうような「私」はなかなか見当たらない。たとえば、吉行淳之介「闇のなかの祝祭」(「群像」61・11)について、「うまさは随所にうかがわれ」「とにかく推敲を重ねたと覚しき力作」と評しつつ、「作者の「私小説」という様式への信頼と、流行作家としての実生活との間に超えがたい断絶があるからではないだろうか。この恋愛こそ自分の文学を生かすだろうというような、かつての私小説家たちのこけの一年のようなものは、すでに聡明な作家にはない。かといって、愛人をひとりの女としてしか見ないというような理想主義も作者にはない。今日の流行作家と流行歌手の間には、そもそも「私生活」というものがあり得ない」など、コテンパンだった。
江藤は、吉行ほどの実力と技巧を備えた作家ならば、なぜ永井荷風のような「反俗」を貫くことができないのか、歯痒かったのだろう。
「沼田沼一郎は収入の少ない作家であり、また、自家用車の必要を感じたことは無かった。しかし、都奈々子と知り合って、一年半ほど経ってから、その必要を感じはじめた。人目を避ける必要となったのだ。丁度、多額の報酬が約束される週刊誌の連載の仕事がはじまったので、中古自動車を手に入れる見透しができていた。」(「闇のなかの祝祭」)
こうした書き方で「流行作家」の現実との接点を周到に確保しながら、宮城まり子と覚しい女優と妻との泥沼のような三角関係が描かれてゆく。
「いままで、女と向かいあっているとき、すぐ意識に上ってきた軀、それに掴みかかろうという姿勢になった軀にたいし、彼は鷹揚になった。水が低いところに流れつくように、自然の成行に委せようというのも、心の充足を覚えているせいだ。いままでのように、軀をむさぼり食べたあとで烈しい渇きを心に感じることとは、逆の形である。
「愛しているということなのかな」
と、彼はたしかめるように呟く。」(同前)
最終的に、このような自閉的なナルシシズムに到達されると、正直困惑する。江藤は自己戯画化する「ファルス」の手法を二枚目を崩さない吉行に勧めているが、まったく同感である。女優の家に妻が無言電話をかけてきたり、秘密の仕事部屋へ手にしたら棘で怪我をするような重い真紅の薔薇が届けられたり、不気味な事件は巧みに描写されてはいるのだが、作者がすべてを他人事のように冷たく見ているという感触を拭えない。江藤は、「大衆の気に入る歌を歌い、ジャーナリズムの要求する期日までに小説を書くという機能をつつがなく果たすこととひきかえに、彼らは辛うじて生存を許されているにすぎぬからだ」と断じ、「「いい気なものじゃないか、近頃の小説家は。勝手なことができて、おまけにそれを小説に書けばお金がとれると来ている」と」いう「口善悪(さが)ない読者」の声を記して、容赦しない。
次の長編である「星と月とは天の穴」(のちに「星と月は天の穴」と改題「群像」66・1)も、永井荷風『濹東綺譚』の「ミニチュア現代版」と指摘しながらも、本家とは「自然が不在」ゆえ似ても似つかぬ作品で、「遠近法のない世界――人間が感覚の末端を刺激する局部としてしか存在しない世界」と酷評する。
「われわれの生活には深夜ひとりで自分の魂と対話するような体験はなくなったであろうか。現代生活に流されながら書く技術を体得するのが作家の資格だという状態は、何をきっかけに打破できるのであろうか」という江藤の嘆きに同感しながら、吉行淳之介の作品をいくつか読み進め、ようやく、男娼との行き場のない関係をテーマにした「寝台の舟」(「文學界」58・12)の切実さには心を動かされた。しかし、実は江藤が吉行の芥川賞受賞後の作品中、珍しく高く評価した短篇なのである。
「諸君」1970年1月号に書かれた、常に参照され続ける戦後論「「ごっこ」の世界が終わったとき」に、次のような一節がある。
「「ごっこ」というものは、つねに現実の行為よりなにがしか自由である。そこでは現実が稀薄になるにつれて自由度がたかまり、禁忌が緩和されるにつれて興奮の度合も高まる。つまり遊戯というものの面白さは、この自由さ、身軽さを味わうことの面白さにほかならない。鬼ごっこの鬼は太郎ちゃんでありかつ「鬼」である。同じく電車ごっこの電車は、一本のロープでありかつ「電車」である。子供たちの意識は、このときいわば太郎ちゃん=「鬼」、ロープ=電車というように、現実とイメージが二重映しとなった世界をとらえている。(中略)だがこの自由は、いうまでもなくかりそめのものである。「ごっこ」の世界では、どんな経験も決して真の経験の密度に到達することができない。もし途中でこの世界にほころびができ、その結果ひとりが泣き出したり、誰かのひざ小僧から血が出たりすれば、とたんに「ごっこ」は成立しなくなる。その瞬間に現実が侵入して来て、みんなをわれにかえらせるからである。」
私は常に、「「ごっこ」の世界は終わらない」と改題したい誘惑にかられるのだが、引用した部分が「吉行淳之介論」の一部分であってもまったく不思議はない。もっとも、現代において、たとえば高樹のぶ子、小池真理子、村山由佳、綿谷りさのような女性作家たちが、職業作家として自らを確立した後、吉行淳之介の「技巧的生活」を女性の視点から描くと「恋愛小説の極致」と評価されるパターンが多いのが不思議である。吉行流は無意識に反復されていて、その方法論は案外応用範囲が広いようだ。
吉行淳之介は「軽薄対談」など座談の名手としても知られ、戦後文芸ジャーナリズムと「寝る」ことを選び取った作家だった。焼け跡から出発した作家である吉行の前には、荷風が隠遁できた遊里や幻想の江戸は存在しない。江藤の鋭い舌鋒の批判は耳に届いているとしても、あの含み笑いでやり過ごすだけで、何の後悔もなかっただろう。私もそういうように振る舞うのが「大人」と教わってきたが、銀座の華やかさも遠い昔になった今、吉行さんが本当は何を信じていたのか、訊いてみたくなる。
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三浦哲郎の芥川受賞作「忍ぶ川」も、本物の「私小説」なのかどうか、厳しく問われている。「不幸な家に生まれた「私」という学生が、寄宿舎の近くの小料理屋の女と恋愛し、恋人をともなって老いた父が病を養っている故郷に帰り、結婚するという話で、一見したところすこぶる古風な私小説」を、舟橋聖一は選評で「正直な作風であった。(中略)純文学伝統の定石をふんだデッサンで、ケレンもないが新風もないものの、今はやりの新人の作というと、晦渋で汚れたものの多い中では、古さこそ新しさでもある」と書いた。選考委員はおおむね「私小説」復活の兆しを見ているが、江藤は真向から否定する。私小説の根幹であるリアリズムが、まったく欠けているというのだ。
「冒頭の深川の木場の情景が、戦後のというよりむしろ大正の大震災後のような印象をあたえるのを不思議に思ったことがあった。どういうものか、子供の頃絵葉書で見たことのある倒壊した浅草の十二階のイメイジが連想されるのである。今度再読してもこの印象は変わらない。」
61年生まれの私が江藤の感覚にシンクロすることはむずかしいが、およその見当をつけて、「忍ぶ川」の江藤が批判した箇所と思われる文章を引用してみよう。
「錦糸堀から深川を経て、東京駅へかよう列車が、洲崎の運河につきあたって直角に折れる曲がり角、深川東洋公園前で電車をおりると、志乃はあたりの空気を嗅(か)ぐように、瀬のびして街をながめわたした。七月の、晴れて、あつい日だった。照り付けるつよい陽にあぶられて、バラック建てのひくい屋並を連ねた街々は、白い埃(ほこり)と陽炎(かげろう)をあげてくすぶっていた。
「あアあ、すっかり変っちゃって。まるでしらない街へ来たみたい。覚えているのは、あの学校だけですわ」
志乃は、こころぼそげにそういって、通りのむこうの、焼けただれたコンクリートの肌を陽にさらしている三階建ての建物を指さしてみせた。」(「忍ぶ川」)
たしかに、本物を知らなくとも、いつの時代の描写であるかあやふやで、ムードに流されている印象を受ける。江藤は、「この印象は、「忍ぶ川」が一種擬古体の小説であり、この「私」が仮構された「私」であるところから生じるのである」と評する。そして、島尾敏雄『死の棘』について「私小説という完成されたロマンティシズムの一様式によって、そのままロマンティシズムの不可能を描くという二律背反が、作者の危機に立たせている」という現代性と比較しながら、「三浦氏が試みているのは、むしろ私小説という「様式」の枠の中で、過去、あるいは現在の私小説が顧みることを潔しとしなかった甘い幸福のメエルヒェンを語ることである。「忍ぶ川」やその後日譚と覚しい「恥の譜」の予定調和の世界に流れているのは、現代人の自我の解体の歌ではなく、《And they lived happily ever after……》という超現代的なお伽噺のメロディに近い調べである」と手厳しい。
三浦哲郎は31年、八戸の呉服屋に生まれた6人兄弟の末っ子だが、2人の姉は自殺し、2人の兄は生死不明という境遇にある。妻となる志乃も「くるわの、射的屋の娘」だが、都落ちした両親とは離れて暮らしていた。終戦直後、貧窮した両家に育った2人の結婚がすんなりと祝福されるとも思えないのだが、平野謙が指摘する通り、「「家庭の事情」は一応書かれてはいるが、十分読者が納得するほど書き込まれてはいない」(「文藝時評」61・4)。純愛物語としてすっきりまとめるため面倒な手続きを省いている。江藤が「私小説を復活させたのではなく、単にその記憶を利用しているのである」と評する通り、大正期の私小説作家が表現していた支離滅裂な行動ゆえの斬新さはまったく感じられず、時代を越えて安定して「古臭い」。
江藤は「私小説が日本の近代小説でほとんど唯一の完成された様式」と認識している。吉行淳之介のような売れっ子が心を入れ替えて文芸誌に書くのは「私小説」という相場は60年代から変わらない。そして、かつての「私小説」が誠実さゆえ煩瑣をいとわず書き込んだ「家庭の事情」を効率的な物語化のために意図的に省いてしまう三浦の手法は、『江藤淳と少女フェミニズム的戦後――サブカルチャー文学論序章』という江藤淳論がある大塚英志の提唱した「キャラクター小説」理論の萌芽である。
現代においては、慶應で江藤の授業を受けた車谷長吉や西村賢太、あるいは初期の町田康のごとく、かつての私小説作家の振る舞いを自ら演ずるような生き方を貫き、その体験を書くことにより、作品を成り立たせる方法論にまで至っている。キャラクター化による「絵空事のリアリティ」を「真実」にするため必要なのは、作者が仮構を純粋に信じ込む「信念」である。しかし、「信念」は繰り返されれば「只の観念」となるわけで、現代の「私小説家」は常に「達者な小説書き」に堕す危険に晒されている。
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平野が「純文学の代表者」と呼ぶ尾崎一雄の「まぼろしの記」(「群像」60・8)は、江藤もがためらいなく「秀作」と評した。私も深い感銘を受け、弾みで「暢気眼鏡」「虫のいろいろ」も再読して陶然とした。すばらしい。吉行、三浦を斥け、尾崎一雄を採る、という感覚は紋切型だが、仕方がない。「まぼろしの記」は東京生活を切り上げ、敗戦の前年に相模灘、伊豆大島、真鶴岬、箱根、足柄、富士山にかこまれた郷里の村に住みついて十数年になる文士の穏やかな日常に去来する思索を、師の志賀直哉ゆずりの硬質な散文で描いた作品である。
「私は少し慾が出てきて、それまで放りっぱなしにしていた木や草に手を出し始めた。今から十二、三年前のことだ。
その時分挿木をしたり、種子を播(ま)いたりした木が、もう大分育っている。種類によって遅速はあるが、今はとにかく一本の樹として存在を主張している。
それらのいわば「戦後派」の木は、昔からの老木に入り交じって、活気あふれた葉の色を見せている。彼らは単に木であって、植木ではない。三抱えもある玉樟(たまくす)の大樹を初め、直径二尺以上のあけぼの梅その他、私が生まれるずっと前からこの屋敷にあった樹々に比べれば全くものの数ではない。が、私はそれらの若い木に、特別な関心をもっている。なぜなら、彼らは私が居なければ木にならなかった筈だからだ。彼らに木としての生命を与えたのは私だ、と云える。――少し大げさな言い方かも知れぬが、彼らは私の子供みたいなものだ。」(「まぼろしの記」)
たとえば、このような伸び伸びした闊達な描写にしびれる。闘病生活が長く、何度も死を覚悟した「私」の暮らしは、枯淡の境地からは遠い。村人たちも新聞の三面記事に書かれるような「事件」だらけで、道ならぬ恋や旅行先での突然死などが、すべて筒抜けで語られる。運命に従順で慎ましく生きる夫婦の上にも理不尽な死は襲い、母も卒中で亡くした「私」は、「さういう奴なんだ、あいつは、と半ばあきらめながら、やはり向つ腹を立てる」のである。
江藤は、「この作品の核は、「あれもこれもからみあつてゐる」この世と、その上に投影する死という「あの理不尽な奴」の力とを、ともに超えようとする静かな意志のつくりあげた、「まぼろし」の世界(imaginary)である」と評し、「このような複雑な構造を持った作品を、心境小説の一語で片づけてしまおうという習慣」に疑問を投げかける。実際、広い庭で「ゼニゴケ」や「蔓草(つるくさ)のヤブカラシ」や「悪草のマツムシ」を退治する作業はしんどそうだし、「再生の喜び」とともに生きる62歳の文士の生活は、けっこう忙しそうだ。
幼馴染の一歳年上の「S子」が、「黄道吉日」に「善良な小父(おじ)さん」に嫁にゆくことに決まって体を与えられ、「良い奥さん」になるつもりで「私」の子かもしれぬ女児を産み、二番目の子の肥立ちが悪くて母子ともに死んだことを知って絶望し、20歳での父との死別を機に長男なのに「大暴走」し、家の財産を蕩尽して奈良へ遁走し自殺まで考える。しかし、30年後には生地に戻り、妻の「梅漬の手伝を確約」するような毎日を過ごしている。このような生き方に空疎な虚構が入り込む隙間はない。
しかし、江藤の判断は単純ではない。「尾崎一雄氏の「まぼろしの記」は、今年私の記憶にのこった秀作の一つだが、どんな純文学不変論の擁護者でも、このようなかたちで現代小説が発展することを期待するわけではあるまい。尾崎氏にとっては、激変して行く外側の時間と、「まぼろしの記」に流れている内的な時間との不均衡など存在しない。が、おそらくこういう幸福な事情は尾崎氏で終わったのである。「私」のなかを流れる時間の絶対性を信じられぬままに、私事を書きつづった疑似私小説を、私はいままでいやというほど読んできた」。
文学という領域だけに限れば尾崎一雄の作品群は偉大な達成である。芭蕉の紀行文のような切り詰めた美を自在な現代口語体に呼び込み、現在の息吹も感じさせる活きた散文を書くことは凡手の成せる業ではない。しかし、豊かな自然との交感や強固な共同体の絆は、60年代においてすら滅亡寸前になっていた。1899年生まれの尾崎一雄は1984年まで生きて一生現役を貫いたが、その世代が世を去った後は、「限界集落」ばかりが増える状況の中で、「私小説」の到達した地点を更新する書き手は現れようもない。尾崎の師の志賀直哉の文章も含めて、模倣が不可能な孤立した高峰になっている。
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佐藤春夫門下の「第三の新人」と呼ばれた作家グループは、初期はみな抒情的なマイナーポエットとして出発した。吉行淳之介も例外ではなく、デカダンスに陥った主人公の繊細な神経で捉えられた世界は儚げな美しさを放っていた。「反俗」のポーズと詩人的資質を変えぬまま流行作家となり、「メディア化された身体」に転じた時にどのような現象が起こったか。結局、多くの視線を浴びることによる通俗化は免れることはできず、ひたすら自閉空間の中で耽美的かつ空疎な文章を紡ぎ出すほかなかった。
もとより、「純文学」の牙城たる「私小説」も、その精神性を認めなければ単なるゴシップの羅列に過ぎない。三浦哲郎は、夾雑物を省いてよりメルヘン的な美を描こうとしたが、結果的には散文的な客観性に欠け、古風な世界を表現するに留まった。江藤は島尾敏雄や小島信夫の苦闘を支持し、現代的な自我の解体を前提とした「ファルス」の導入をすすめるのだが、その道は必然的に作品の難解さを伴い、大衆からは遊離してしまう。島尾の『死の棘』や檀一雄が広範な読者を獲得したのは、反世間的な生き方がメディアによって喧伝されたから、という逆説がついて回る。
尾崎一雄に対して可能なのは憧れるだけ。現代文学における「私」は、すべて江藤が示している4つのパターンの変奏曲である。その点について、平野と江藤の見解は同じだが、処方箋においては大きく異なる。平野は「アクチュアリティ」、江藤は「モラル」。この決定的な差異は、平野の死後に『昭和の文人』(新潮社)での人格批判として爆発する。江藤の『夏目漱石』は平野の推薦文により世に送り出された本であり、その後は後輩の教養に遠慮がちな先輩批評家だったのだから、普通ならありえない難癖だった。
江藤は、戦時中に情報局情報官だった井上司朗『証言・戦後文壇史』(人間の科学者)より、平野が数度、情報局嘱託採用を「哀訴嘆願」した事実を、回想録では「芸は売っても身を売らぬ」という言葉を使って隠蔽していることに対して、「人情不感症」と断罪する。そして、中山和子、杉野要吉の研究により、生家が浄土真宗の貧しい寺の長男で、得度しても寺を継ごうとせず、東大進学した平野に仕送りを続けた父の職業を自らは語らず、単に「壮年の頃、私立大学に倫理学を講じていた」と記したことを、「昭和の問題、子が父の子であることを「恥」じ、日本人が日本人であることを「恥」じて、熾烈な変身の欲求に取り憑かれた時代の問題」という。いうまでもなく、江藤の晩年を貫いた福沢諭吉の「一身にして二生を経るが如く/一人にして両身あるが如し」という基調音が鳴り響いている。
「アクチュアリティ」対「モラル」。小説の評価軸の違いが、人格を否定する対立にまで至るのが「純文学」らしい。絓は江藤の「父親殺し」と評している。しかし、議論の中身とはまた別に、私は平野が隠蔽した経歴問題だけではなく、さまざまな不運や生き方の不器用さにより招いた悲惨によって破滅していった身近だった者たちの幻影に魘されて、眠れぬ夜が多かっただろうと確信している。戦地での所業を終生語らずに死んでいった復員兵などと同じ苦悩である。私は、その苦しみを嘗めたという一点で免罪するつもりはないが、平野の罪深さは「昭和の問題」ではなく、あらゆる時代に共通している現象だと思う。たとえ平和が続いていても、生き続ければ倫理的堕落を避けることはできない。
平野は単に生存本能に従っただけであり、「一身にして二生を経るが如く/一人にして両身あるが如し」のような大問題に悩むのではなく、より原始的な実存的恐怖を感じ続けていたはずだ。「文芸時評」を読めば、常に自らの生の安全圏を探るような、小動物的反射神経が繊細に動いているのが分かる。同時に、出来合いの物差しで裁断せず、腰の低い態度で作品を読む姿勢からくる妙なずぶとさも備えている。
正宗白鳥や小林秀雄は、そもそも平野のように世間的な生を保全するための神経を働かせてはいない。むしろ、「神」や「幽霊」のようなものとの対話の方に忙しい。江藤の方は、自己防衛反応が人一倍強いとしても、議論は理念先行型の組み立て方であるにもかかわらず、「近代主義者」から「保守派」へ、というような「父性原理」の部分が入れ替わっても痛痒はなさそうであるのが、精神分析的な意味では興味深い。政治の領域が日比谷高校出の「江藤淳」の担当で、文学の領域は押し入れ部屋で谷崎を読んでいた「江頭敦夫」の担当だったから、という仮説は持っているものの、まだ確信はない。
平野と江藤の関係は壮大なすれ違いだった。戦中の過ごし方を左右した年齢差も大きく、それが実践的な理論の違いとして現れるのが文学の醍醐味である。文学者としての平野謙の個性が唯一無二であることは改めてよく分かった。その対照は見えてもまだ、私の前には、江藤淳/江頭淳夫の抱えている謎がいくつも残されている。