映画川 『ケイコ 目を澄ませて』

鍵和田啓介さんによる現在公開中の映画『ケイコ 目を澄ませて』 (三宅唱監督)のレビューをお届けします。聴覚障害で生まれつき耳が聞こえないプロボクサーのケイコ(岸井ゆきの)が、ボクシングにいかに向かい合っていくかを描く本作について、ケイコがジムの会長(三浦友和)と共有する「何か」に着目して論じられています。
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It's the Hard-Knock Life



文=鍵和田啓介

 
まず、縄跳びが床を叩く音が、次いで古びたトレーニング器具の軋む音が、最後にサンドバッグを殴る音が、逐次リズミカルに鳴り響く。音が音を呼び寄せ、絡み合う。その間カメラは、街灯の点滅、ジムの窓外にそびえるビルの明滅を、以上の音とシンクロさせるように映し出した後、トレーニングする者たちの運動を捉えて重なり合う。世界を満たす日常的な風景と音が共振し、だんだんとひとつの音楽を形作っているかのようだ。
『ケイコ 目を澄ませて』の冒頭近くに置かれたこの音響と映像の連鎖には、本当にドキドキさせられる。日常的な動作音(工具で地面を掘る音、ドアの開閉音……)の重なり合いによって民衆の朝を彩る音楽を立ち上げてみせた、古典的ハリウッドミュージカル『今晩愛して頂戴ナ』を想起させる圧倒的に素晴らしいつかみだ。
 
だがしかし、かくして立ち上がった音楽に乗せて、朝の着替えを終えたモーリス・シュヴァリエが歌い出す『今晩愛して頂戴ナ』と異なり、『ケイコ 目を澄ませて』の主人公たるケイコが歌うことはない。前述の連鎖の後、ケイコがジムの更衣室に入り着替え始めるシーンにつながるものの、彼女は歌うどころか声すら発しない。鏡に映る物言わぬ彼女の孤独な背中が、際立つばかりである。なぜなら、ケイコは生まれつき耳が聞こえないボクサーだからだ。
思えばその少し前、ケイコが初めてその全身を現したショットでも、彼女は鏡の置かれたデスクの前で何かを書き綴っており、その丸まった背中の孤独さが印象的だった。そして、このときの彼女とほぼ同じポーズで登場する人物がいる。ジムの会長だ。
初めて画面に姿を現すとき、彼はジム内のデスクに座り、背中を丸めて目をぎゅっと瞑っている。後に明かされるところによれば、会長は病で視力が低下しているらしい。耳の聞こえないケイコと、視力を失いつつある会長。相反する性質を担う2人はしかし、孤独な背中を共有する者として画面内に登場する。背中をめぐるドラマが、にわかに動き出す。
ケイコと会長が初めて同じ画面内に映る土手での朝練シーンでも、横に並ぶ2人が背中から捉えられる。他の登場人物がケイコとコミュニケーションを取ろうとするとき、ほぼ決まって対面に位置しようとするにもかかわらず(手話をしたり、口の動きを読み取ってもらう必要があるから当然だ)、会長だけはいつも彼女の横に陣取り、カメラはそれを背中から捉える。まるでその立ち位置でしか共有できない何かが、あるとでもいうかのように。では、その何かとは? ケイコの発する音であると、ここでは考えてみたい。


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そもそも前述した会長の初登場シーンで、彼は沈思黙考しているというより、生徒たちがトレーニングする音に耳を澄ませているように見える。その感触は、劇中でケイコが初めてスパーリングするシーンでより強まる。デスクに座る会長は、その練習風景を見ることなく、背中で感じ、耳で聞き、微笑を浮かべながら「よしよし」とうなずくからだ。また、会長自身がケイコのスパーリング相手を務める際も、彼は目をつむり、注意深くその音に耳をそばだているかのようだ。視力を失いつつある会長は、ケイコが「いい音を奏でているかどうか」に心を配り、それに耳を澄ませる者として描かれる。彼女の体のそばに耳を近づけるためには、対面ではなく、横並びになる必要があるのかもしれない。
 
しかしあるとき、ケイコの奏でる音は鈍り始める。ひとつの試合を終えた彼女が、このままボクシングを続けるべきかいなか悩み出したからだ。そんな折、調子の上がらないスパーリングの後、リングロープに体を預け、肩で息をするケイコの背中は忘れがたい。続くショットで捉えられるのは、その背中を見つめる、会長の背中だ。会長の背中は、ケイコがいい音を奏でられていないことを、間違いなく感じ取っている。
だからこそ会長は、ジムの玄関で靴を履くケイコの隣に座り、次の試合に出たくないなら断ると伝える。「戦う気持ちがなければできない。相手にも失礼だし、危ない」と。もちろん、2人の姿は背中から捉えられる。そして、会長はケイコに返事を促し、彼女は劇中で初めて声を発する。「あい」。これまでのようにパンチを通したいい音ではなく、いい声を発する存在へとケイコを導き、それに耳を澄ませるのだ。
 
このように見ていくと、クライマックスを飾るケイコの試合シーンには感動せざるを得ない(ケイコが闘志を取り戻すきっかけが、ジムの鏡の前で、会長と肩を並べてシャドーボクシングしたことによってだということも見逃せない。もちろん、その姿は背中から捉えられる)。急病で倒れた会長は病院におり、車椅子に乗りながらタブレットで観戦している。そして、画面上のケイコの姿を見ることなく、イヤホンから聞こえる音だけに耳を澄ませている。そんな中、相手に圧され気味のケイコは雄叫びをあげる。「うーーー!!」。
結局、ケイコは敗北を喫するが、その戦況を聞き届けた会長は、穏やかな表情を浮かべている。ケイコが誰に導かれることもなく、独力でいい声を発したからだろうか。実際、その雄叫びに誘われるようにして「よし」と小さな雄叫びをあげた会長は、「よいっしょ、おいっしょ」と車椅子を動かしながら、画面に背中を向けて病院の暗闇の中に消えていく。
 
思えば、ケイコが練習に使うグローブのタグには、「HARD KNOCK LIFE」と書かれていた。「HARD KNOCK LIFE」と言えば、『アニー』の劇中歌、「It's the Hard-Knock Life」を想起せざるを得ない。ハードにノックされるケイコの人生を、これほど象徴する歌もないだろう。音が音を呼び寄せる最中で始まり、歌ではなく雄叫びが雄叫びを呼び寄せることで幕を閉じる2人の背中のドラマはだから、ボクシング版『アニー』として見ることも可能かもしれない。


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ケイコ 目を澄ませて
2022年 / 日本 / 99分 / 配給:ハピネット・ファントムスタジオ / 監督:三宅唱 / 原案:小笠原恵子 / 脚本:三宅唱、酒井雅秋 / 出演:岸井ゆきの、三浦友和、三浦誠己、松浦慎一郎、佐藤緋美、中島ひろ子、仙道敦子ほか
全国公開中
公式サイト


鍵和田啓介

ライター、編集者。「POPEYE」「BRUTUS」「Numero」を始め、雑誌を中心に執筆を行っている。著書に『みんなの映画100選』(長場雄との共著、オークラ出版)がある。