江藤淳/江頭淳夫の闘争 第3回

第3回目の更新となる風元正さんによる不定期連載「江藤淳/江頭淳夫の闘争」では、堀川正美の詩を交えながら「60年安保」と江藤淳について考察されています。また、Kindle版「江藤淳全集」第8巻『自由と禁忌』も発売となりました。本連載をお供にぜひどうぞ。
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 「散文家」は「行動」したか



文=風元正
 
 
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1957年の時点で、江頭惇夫は3度の国際秩序における大きなルール変更に遭遇していた。「大東亜戦争」、「敗戦と占領」、「主権の回復と「逆コース」に始まる55年体制の成立」。社会制度の基本原則が揺らぐので、ひとりの人間の生活に影響が出るまでに時間がかかる。現実には、市民社会の中での無数の新たな小ルールの出現という形をとるわけだが、昭和天皇以下、日本人は等並みに直面した運命だから逃れるわけにゆかない。全国民の心に深い傷跡を残す大規模な社会実験のような渾沌が、若き江頭の前で展開されていた。
61年生まれの私が同レベルのルール変更を経験したことは、たぶん3度しかない。「変動相場制の導入」、「冷戦構造の崩壊」、そして2022年の「ロシアのウクライナ侵攻」。しかし、この3度とも「逆コース」、すなわち自由主義陣営の「反共」を主要なモチーフと考えれば、一貫した流れと捉えることもできる。同じ敗戦国であるドイツやイタリアとも違い、安全保障を「日米同盟」に委ね続けているわが国は、諸外国と比べてとりわけ変化が少なかった。
75年生の赤木智弘の「「丸山眞男」をひっぱたきたい――31歳、フリーター。希望は、戦争。」は、長らく「平和」だった日本の内実を告発した一文として記憶に残る。
「我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である。」(「論座」2007年1月)
赤木は、階層逆転の実例として、東大卒「エリート」である丸山眞男が陸軍二等兵として平壌に送られ、学歴のない一等兵に「イジメ抜かれた」エピソードを挙げる。ここで興味深いのは、21世紀になっても「知識人」代表が丸山であり、その名は更新される気配もないことだ。「丸山批判」はある時代の定番であったが、晩年に論じ続けた福沢諭吉を継承する「脱亜入欧」モデルは、日本の実情とまったく遊離している故に有効というアイロニカルな事態となっている。
選挙があるたびに、取って付けたように「投票に行こう」というキャンペーンが行われる。しかし、各党の主張を検討して候補者の優劣を判定し、納税の義務を果たしながら一定の社会的な貢献を果たし、支持政党が違っている人間とも冷静に「ディベート」できて、よりよい国家を目指してゆく「民主主義」を体現したような丸山的な市民が、全人口の1割でも存在する日が来るのであろうか。書いていて自分でも薄気味悪くなるが、永遠にありえないだろう。だからこそ、丸山眞男は丸山眞男であり続ける。
小林秀雄は1946年、「近代文学」の座談会で「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。」と発言した。ここで小林のいう「国民」こそ、丸山流の「啓蒙」と無縁に生きる人々だった。柳田國男の美しいヴィジョンである「常民」と重ねてみてもいい。しかし、赤木の告発は小林的な「国民」もまた存在が揺らいでいることが示され、「格差」と名付けられた問題系は深刻になるだけで解決への処方箋はまったく見えない。 
明治維新から敗戦まで77年。2022年は、「戦前」と「戦後」が同じ長さになる節目である。4度の戦争と関東大震災があった「戦前」と比較して「戦後」はともあれ平和だったが、安定した日々も多事多難な日々も変化の質量はさほど変わらない。一年経てば誰でも一歳年をとるし、固定化された階層をベースにして制度設計されれば社会も変わる。今や、政治家や経営者は二世、三世だらけの、江戸幕府が限界を迎えた幕末とそっくりな窮状を迎えているが、当時のような変革のエネルギーは一切感じられない「老人大国」となった。
「戦後」がなぜ、このような「閉塞状態」に陥ったのだろうか? その謎を解く鍵のひとつは、江藤淳/江頭淳夫の行路に秘められている。とりわけ58年からの「行動」は、「戦後」を考える上で最も大きな画期となった。

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「戦後民主主義」とは何か? 曖昧すぎて定義しようもないが、子供の疑問として、「主権在民」ならばなぜ「象徴天皇」が存在するのか、すっと意味が呑み込めなかった。近代史を学び、維新以降、われわれ「国民」に制度を選択する「権利」は現実に与えられたことがなく、「現状維持」しかなかったと飲み込んでいった。しかし、1957年における日本の「言語空間」は百花繚乱の賑やかさに彩られていて、さまざまな可能性があるように見えていた。
東京裁判では、昭和天皇は国際法の裁きを受けなかった。しかし、「天皇の赤子」として徴兵された記憶は生々しく、潜在する怒りは戦中に獄中で「非転向」を貫いた党員などを擁する共産党や社会党への支持へ向かう。「60年安保」の前は、「反戦」という旗頭の下に、「共和制」や「武力革命」まで期待するムードが醸成されており、文学においては「近代文学」派を中心に「戦争責任」が厳しく追及されていた。支持母体である労組や左派知識人もまだ強固であった。
というようなことを書きながら、「左派」はいったいどこまで「本気」であったか、今から考えれば力が抜ける。短命だった片山哲社会党内閣は、21世紀初頭の民主党政権と同じく与党となる準備が整っていないことを露呈しただけに終わった。ただし、これは日本の「近代化」の遅れというより、相対立する政党を支持する健全な「中間集団」が育たなかったことを問題にすべきであろう。「創価学会」と「統一教会」が有力な前線の担い手である与党とは……。
占領初期はアメリカ発の「民主主義」の定着が最大の目標であり、労働組合もまたその重要な担い手だった。「国鉄一家」のような言葉に象徴される通り、長らく「家」制度によって保持されてきた「中間集団」的な人間関係は、しばらく「企業」が担い手となる時期が訪れる。街頭デモの主な勢力だった労組は政党の指導下にあったが、個々の労働者が「戦術」を理解する段階ではなく、理論的な背景となる「マルクス主義」などほとんど判じ物にすぎなかった。共産党中央などの理論的な不毛さと後進性に耐え切れなかった尖端的な全学連の学生たちが共産主義者同盟(ブント)などの結成に向かう。ブントの闘争には吉本隆明も併走し、学生の中には、初期江藤の影響を受けた柄谷行人や西部邁などもいた。
しかし、労組=左派勢力の伸長は当然、「逆コース(=反共産主義)」と矛盾する。独立の回復から一気に自主憲法の制定を目指す、保守合同を果たした自由民主党を中心とし、「左傾化」を警戒する国家側の危機感と秩序安定への実力行使も強力であった。また、GHQの指令による、1950年の警察予備隊・海上警備隊にはじまる再軍備も、「平和憲法」との矛盾が大きな論点となった。
「右翼」も健在で、1960年には、岸信介への襲撃、浅沼稲次郎の刺殺という右翼少年の犯行が続き、そして天皇・皇后の首のない死体などが登場する深沢七郎の小説「風流夢譚」が「中央公論」1960年12月号に掲載され、大日本愛国党に所属していた少年が中央公論社社長・嶋中鵬二宅に侵入し、家政婦を殺害する事件が起きた。皇室についての議論だけでなく、ジャーナリズム全体が萎縮に向かう転機として大きい。
さて、この時点の「国民」の意識はどこにあったのか。敗戦の打撃はようやく癒え、朝鮮特需により一息ついたものの、まず目の前にある現実的な難題は「貧困」であった。とりわけ若者の就職難は深刻であり、たとえば、「神話の克服」で江藤が言及した橋川文三は東大卒であるが、戦後しばらくは職もない上結核に罹患し、喰うや喰わずの状態が長く続いて、一家離散の辛酸も嘗めた。小出版社を点々とし、56年にダイヤモンド社の嘱託になり、57年に「同時代」に江藤が引用した論文を書く余裕を得たものの、生活苦は変わらなかった。
戦中・戦後の人々の境遇は千差万別であり、各国からの引揚者やシベリア抑留からの帰国者の辛酸は想像を絶する。焼け跡の闇市で大金を摑んで意気盛んな者もあれば、財閥解体・農地解放で財を失った層もある。私には、文学報国会の先頭に立って活動し、戦後は公職追放された「処世の天才」菊池寛が48年に迎えた淋しい死が忘れられない。ともあれ、江藤が活躍を始めた頃にようやく相対的な安定を得た日本は、まだまだ混乱は大きいとはいえ、江藤のいう「われわれの旺盛な民族的エネルギー」は沸騰していた。
58年11月、江藤がまとめ役を務める「若い日本の会」は警職法反対の声明を出し、新しい世代の登場を広く印象づける。そして、59年1月『作家は行動する』という颯爽たるタイトルの書き下ろしを世に問い、用意周到な立ち回りにより江藤は一気に「若きオピニオンリーダー」の座に就く。同年、大学院を自主退学し、学者への道は断った。

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1958年夏に書かれた『作家は行動する』の論旨は、これまで江藤が文学を通して展開してきて「文明論」を集約したものである。もちろん、短期間で変化する方がおかしいわけだが、注目すべきはむしろ、当時の状況を一貫して「停滞」と捉えていることだった。
「もし一切の変革の可能性が絶望的だと思われるような状況のもとでは、作家はどのような態度をえらぶか。あるいは、一瞬のうちに世界を破壊させることのできるような危機をはらんだ歴史の停滞期の重みが、われわれを身動きできないように圧迫するとき、文学者はどうして現実に迫ったらよいか。このような状況のなかで、一切のことば、理論、行動に対する不信が生れるのはむしろ当然のことである。このような時代には、作家は好んで直感的な態度をよりどころにしようとし、できるかぎりことばや行動を排除しながら自分の周囲の具体的な状況のなかに埋没しようとする。それは敗者の選択であるが、しかし現在の世界にはそのような敗者の姿勢が充満しているのである。」(『作家は行動する』)
初期江藤の立論の集大成のような一節である。しかし、「絶望」と「敗者の姿勢」という表現をここまではっきり突き付けることはなかった。
この停滞、それは戦後の日本において再軍備の問題がいかにあつかわれてきたかを考えればきわめてあきらかになる。現在、一九五九年の日本は決定的に軍備をもつ国だ。それは憲法の規定などを歯牙にもかけない強力な軍隊によってみずからを汚辱にまみれさせている国だ。
 そして日本の進歩的陣営は、この軍隊にたいして決して本気で戦いをいどんだことはなかったのである。かれらは平和憲法をまもるための叫びをたえずがなりたてたが、そのあいだにも育ちつづける軍隊に実際的なほんの小さな妨害行動さえあえてしはしなかったのだ。」(「現実の停滞と文学」大江健三郎 『symposium/発言』より) 
「戦後民主主義者」大江が、「若い日本の会」のシンポジウムに寄せた論文の一節である。「停滞」という言葉は共通するし、大江の警戒する「ファシズムのムード」もまた、江藤と同じく、現在が1930年代と似た状況である、という状況認識を踏まえている。しかし、両者のベクトルはまったく食い違う。大江は、この「停滞」は「進歩的」陣営が政治的なヘゲモニーを握り、自衛隊を解体しつつ、「軍事的に真空の状態となった日本」に東アジアでの「外交問題」を乗り切る手段があれば解決へ向かう、というプログラムを示していた。つまりは「憲法第9条」原理主義とも単純化できる。自衛隊を「汚辱」と呼んだことは、「右派」が大江批判のために常に参照する生涯の汚点となった。
江藤は一貫して、福沢諭吉や勝海舟のような「散文家」が現代に登場することにより、「停滞」は打開されうる、というヴィジョンを掲げ続ける。しかし、その「散文家」が果たすべき役割はあまりに壮大であった。
「わが国の多くの作家たちは、まるで赤ん坊を抱きしめて夫に打たれている貧しい母親のように、あるいは三反の田をしがみつくように守っている貧農のように、自分の身のまわりの状況にしがみつき、それを手ばなすまいとする。このような態度の底には、もちろん西欧の審美家たちの悪魔的意識などはない。そこにはあまりに苛烈な状況のもとにおかれていたために、自由に対する欲求を失った人々の態度が定着されており、ことばや行動のもたらすものに対する不信の姿勢がある。一年さきの百両より、眼の前の一杯の米のめしの方がいいという精神構造と無関係ではない。私小説に切りとられた現実のせまさ、私小説家たちのフィクションに対するほとんど偏執的な疑惑などは、おそらくここに起因している。」(『作家は行動する』)
引用しながら、ついつい感動してしまう。日本の文学風土に対して、ここまで怒りに充ちた徹底した批判を展開した批評家は後にも先にもいない。そして、「英国では「怒りっぽい若者たち」と呼ばれ、米国では「ビート・ジェネレイション」と呼ばれている」世代が登場した当時の世界文学の状況に応じた模範的な振る舞いにも見える。しかし、江藤の「怒り」は、年月を経るとエスタブリッシュメントに収まっていった若い反抗者たちとも、何かが微妙にズレている。
江藤の視線は、「貧しい母親」や「貧農」に向かっている。59年には盛岡の友人から聞いたという、ひとりの精神病の女が畑の掘立小屋に遺棄されて暮らし、部落の男が「僅かな野菜や芋の切れっぱしと引きかえ」にもてあそび、生まれた赤ん坊が「野獣のように小屋をはいまわっている」という話に「血が奇妙に騒」いで現地へ検証に向かい、「生きている廃墟」というルポルタージュを書いている。柳田國男が田山花袋に教えた西美濃の炭焼きの話を思わせるエピソードであり、江藤は東北を取材して、ライの制圧と地道に立ち向かう一人の「実際家」の岩手県衛生課技官の存在を発見した。 
大江と江藤の違いはどこから生まれるのか。まず、大江は職業作家であり、小説を書き続けることが第一の優先事項だった。たとえ、江藤のいう「生きている廃墟」が目の前にあったとしても、その「呪術性」と「貧困」を背景にして作品が生まれてゆけば、それでいい。のちに「美しい日本の私」と自らのモチーフを集約した川端康成の姿勢を、「戦後民主主義」的に展開した優等生が「曖昧な日本の私」大江健三郎の立ち位置である。もちろん、私はその戦略がとりあえずの賢明な選択であったことを、否定する者ではない。
江藤にとって「批評」は、「私立の活計」を貫く仕事であったが、同時に社会を変革する手段でもあった。時評家として同時代の小説を大量に読み、日本の「貧困」のひどさを文学により変革してゆこうという意欲に燃えていた。そして、日本近代文学が「生きている廃墟」の栄光と悲惨を手品の種にして命脈を保ってきたことも、誰よりもよく知っていた。
『作家は行動する』は、江藤が丸山眞男流、あるいはサルトル流に日本の現実に立ち向おうとしたマニュフェストのような評論であった。読者にどこまで届いたかは別として、大岡昇平、堀田善衛、武田泰淳のような頼りになる「散文家」の先輩はいたし、同世代には大江健三郎や石原慎太郎のような、来るべき「行動」を託しうる「新しい文体」の開拓者もいた。埴谷雄高の影響下に書かれた評論ではあったが、『死霊』の文体が「非小説的」であるという鋭い指摘をしていた。『作家は行動する』という一篇の評論により、「海賊」江藤淳は、日本の「停滞」に対して、「文体論」を武器にして、高らかに戦いの旗を上げた。

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私はここまで、江藤淳/江頭淳夫の思考をクロニックの形で追ってきた。しかし、いわゆる「評伝」を目指してはいない。このスタイルを選んだのは、批評家はあくまで具体的な作品や出来事についての思考を展開するものであり、「思想」のような形式で抽出できる思考法を採らないからである。そして、生きた人間として同時代と相渉り続ける批評家は、もっとも鋭敏な「歴史」を映す鏡となる。
これから、「60年安保」の江藤淳、について論じる。いささか憂鬱でもあり、その前に、一篇の詩を引いておきたい。
 
 新鮮で苦しみおおい日々
 
 時代は感受性に運命をもたらす。
 むきだしの純粋さがふたつに裂けてゆくとき
 腕のながさよりとおくから運命は
 芯を一撃して決意をうながす。けれども
 自分をつかいはたせるとき何がのこるだろう?
 
 恐怖と愛はひとつのもの。
 だれがまいにちまいにちそれにむきあえるだろう。
 精神と情事ははなればなれになる。
 タブロオのなかに青空はひろがり
 ガス・レンジにおかれた小鍋はぬれてつめたい。
 
 時の締切まぎわでさえ
 自分にであえるのはしあわせなやつだ
 さけべ。沈黙せよ。幽霊、おれの幽霊
 してきたことの総和がおそいかかるとき
 おまえもすこしくらいは出血するか?
 
 ちからをふるいおこしてエゴをささえ
 おとろえてゆくことにあらがい
 生きものの感受性をふかめてゆき
 ぬれしぶく残酷と悲哀をみたすしかない。
 だがどんな海へむかっているのか。
 
 きりくちはかがやく、猥褻という言葉のすべすべの斜面で。
 円熟する、自分の歳月をガラスのようにくだいて
 わずかずつ円熟のへりを嚙み切ってゆく。
 死と冒険がまじりあって噴きこぼれるとき
 かたくなな出発と帰還のちいさな天秤はしずまる。
 
1950年から62年までの詩を集成した『太平洋』という詩集に収められた、堀川正美の絶唱である。私は、この一篇ほど「60年安保」の精神を鮮やかに表現した作品はないと思う。堀川は1931年生で江藤とほぼ同世代であり、経歴ははっきりしないが左派の活動と同伴者であることは評論などで示唆されている。戦中派である「荒地」派の次世代として、あくまで抒情詩の主体という限界を引き受け、社会のなかの「個」をうたいつつづけた詩人である。
そして、77年に詩集『枯れる瑠璃玉』をまとめたあと作品を発表せず、しかも決して詩を止めたと表明しない点で特異な存在であり続けた。平出隆は83年、「たたかいとしての詩形式」というエッセイの中で、堀川を「X氏」と呼び、その消息を次のように記している。
「X氏との一夜に戻ろう。会が流れ、辿りついた酒席で、この怖るべき感受性の漂流者をとり囲むようなことになった。ひとりが、みなの気持ちを代表するように「なぜ書いてくれないか」を熱く問いただしつづけた。最初にこやかに冗談でかわしていたX氏は、いつまでも矛先が引かれそうにないと見るや、眼鏡の奥の光りを急に鋭くして、
「戦線というものを信じられなくなった」
といった。そのひとことで、少なくとも私は納得した。」(『攻撃の切尖』所収)
この「戦線」という言葉は、時を経るごとに重くなってゆく。そして、私は91年、堀川氏に詩作品の依頼をした。電話口に出た氏は次のように語った。
「君ねえ、僕の作品は知っているだろう。最初は「太平洋」だからとても大きなものついて書いているけれど、最後は「こおろぎ」だろう。「こおろぎ」より小さいものってないじゃない。だから、詩を止めているわけではないけど、もう書くことがないんだよ。」
「伝説の詩人」とのフレンドリィな会話に昂奮して、しばらく質問を続けた。堀川氏は現代詩の状況をしっかり把握しており、現役として「戦線」に連なっていた。91年の私は、60年の「太平洋」の広がりを想像はできず、ただ堀川氏の詩への憧憬があった。そして、私は晩年の江藤淳の絶望を読んではいたものの、通り一遍にしか受け取っていなかった。それから30年経って、当時の江藤と年齢が近づいた私は、堀川の失望を共有している。しかし、『作家は行動する』が書かれた頃は、現実主義者の江藤は「ある人々にとっては、自分の抒情詩を現実の上に大書する好機」とイヤ味を記しているものの、大岡信が「感受性の祝祭」と楽観した言語空間が確かに拡がっていた。

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江藤淳の自筆年譜の1959年の記述には、谷川俊太郎命名の「若い日本の会」という名は記されていない。「夏、「三田文学」のシンポジウム「発言」に出席、石原慎太郎、谷川俊太郎、浅利慶太、武満徹、大江健三郎、羽仁進ら、同世代の文学者・芸術家の討論を司会す。議論の内容に違和感を覚える」という書き方になっている。もともと「若い日本の会」は58年11月、岸信介内閣の下、警察官の法執行の権限を「公共の安全と秩序」の維持まで拡大しようとした警察官職務執行法改正に反対した若い表現者の集まりである。すでに世に出ていた華やかな「若手文化人」たちの会は世間の耳目を集めたものの、広範な大衆運動のうねりの前に岸信介内閣は法案の成立を早々に諦め、当初は会の活動は空振りに終わりそうだった。しかし、51年に吉田茂内閣下で結ばれた旧日米安保条約の改定交渉が岸内閣の下、アメリカとの交渉が進むにつれ、江藤は政治的な行動に移ることを改めて決意する。
ここで江藤が活動の着火点にしようとした三田文学のシンポジウム「発言」の内容を振り返ってみよう。討議の前に提出されたエッセイは、各篇、未来を知って読むと興趣深い。
浅利慶太(27歳/当時・以下同)「現代演劇の不毛」は、「ぼくら劇団四季がなぜこの六年間翻訳劇ばかりやり続けてきたのか、現在創作劇の貧困ということが叫ばれ続けながらなぜそれが生まれないのか、つまり、現代のドラマはどうして生まれないのかという、本質的な問題に触れてみたい」と問いかけ、コミュニストとして参加した「政治活動の挫折」を告白している。もともとアヌイやジロドウを上演していた前衛学生劇団が、後に日本を代表する翻訳商業演劇集団となり、浅利自身も日生劇場の取締役として辣腕を振るうに至る動機が、「キャピタリズムへの参加」という形で説明されている。
石原慎太郎(27歳)は、「「若い日本の会」のデモ参加不参加を決める会議で、私が今作家に作家として必要なものはデモではなく、むしろ「書く」という行為、書くことによりかかる法案をしいようとする為政者に対し一人の読者をテロリストとして駆るという事実のほうが貴重ではないか、と言って叱られた」と「インテリ」に対して舌を出している。「もはや改修ではない。壊して殺していきがつづけばその後、創るのだ」という物騒な宣言で結ばれる文章の書き手が、大衆的な人気を背景にしてファシズムと親和性の高い政治家となる将来は、さほど想像は難しくない。
大江健三郎(25歳)についてはさきほど検討した通りだが、結びの如き「われわれはファシズムにたいしても人間の尊厳という旗のもとにおいてのみ真に有効な戦いを開始しうるのである」というスタイルを生涯通して、ノーベル賞作家にまでなったことは、ひとりの文学者の「実践」として敬意を表すべきだろう。
城山三郎(33才)「「回帰」を拒否する」では、すでに直木賞を受賞した年長の作家の貫録が滲みでている。「この商品生産の社会に開き直って自己を商品化し、より高く自己を売りつけようとする意欲もなければ、おもしろおかしくしゃれのめし、ふざけ散らして生きてゆくこともできない。「墓場的平安」を色濃く感じ、退屈を退屈として受けとめながら、トリビアルな俗事の中に日々誠実を切り売りして生きているのである」という認識を私達は否定することはできない。いや、城山の「誠実」は、もはや贅沢品だろう。
武満徹(30歳)「ぼくの方法」では、「現代の人間は、もはや魔術(マジック)的な呪文を口にすることができなくなっている」という閉塞を打ち破るための、「テープの上に、さまざまな音響を録音してみる。そして、それらの音にぼくはとりかこまれ、それから触発された感動を、偶然的にテープの上に定着させる。ぼくは、ぼくの精いっぱいの仕方で外界との通信をおわる。ぼくは、音と一致することができるだろう。音の一つ一つは、ぼくの心の動きの用語となり、説明をこえた容貌のひとつを写し出すものだ」という手法が明晰な文章で紹介されている。「呪術性」が生きているという江藤の見解の相違が面白い。勅使河原宏とコンビを組んだ映画『砂の女』は「60年安保」の精神を具現した最良の映像作品である。
谷川俊太郎(29歳)「自己破壊の試み」では、自己紹介に「この春に三幕の芝居を生まれてはじめて書くつもり。それ以外は、家族と自分の仕事を守ることで精いっぱい」とあり、これぞ谷川節! といいたい。自らの実存的不安を分析しながら、「私は今、私の妻を愛している」という「オブセッション」に立ち止まる芸は、90歳になっても変わらない。決して「破壊」は起きない。
羽仁進(32歳)「技術の任務」は、「機械の発達」がむしろ「個性」を見出す助けになるというドキュメンタリー映画監督らしい現場知から出発するものの、「ある年齢までは勇敢なことをいい冒険し、それが過ぎると徐々におちつくという、そんな考え方そのものがいつの時代にでもあてはまるはずがない」というようなあやふやな通念とその反駁に終始し、羽仁五郎二世、大丈夫か、という議論。
山川方夫(30歳)「灰皿になれないということ」は、文学者として生きることに対する真摯な思考が展開されており、「討議」の資料としては場違いかもしれないが、今も心を打つ。「とにかく、「文学」は、根本的に一人ずつでやる仕事なのだ。「ぼくら」とか「わたしたち」がやる仕事ではない。そういう仕事はまたべつのものだ」という原点が確かめられている。この5年後の死がいかにも惜しい。
吉田直哉(29歳)「不完全燃焼を忌む」は、東大文学部出のNHKディレクターとして参加するという立場が不利で、討論で集中砲火を浴びた。日本文化に「不完全燃焼」を見出しさまざまな実例を挙げて分析するわけだが、その主体が「組織」と「個人」のどちらかを問われてしまった。文化勲章を受章した医師・吉田富三の次男。のちに「ジョリアナの噂」で芥川賞候補になったのは、ずっと屈託を抱え続けた証拠ではないか。
参加した9名の論文を読み直し、各人はみな揺るぎない生涯のモチーフを摑み採っていて、自らの「運命」を知っていたのではないか、という感慨を持つ。ジャンルも政治的主張もまったくバラバラな人間たちが、とりあえずひとつの場に集まって行動を共にすること。堀川のいう「戦線」のかたちはこの『発言』においてとりあえず具現されている。大宅壮一は「強いエリート意識」をもった「新しいマス・コミがつくりだした“文壇芸能人”のグループ」と呼んだが、「若い日本の会」の精神は参加者の作品の形となって、その可能性を開花したのではないか。 

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1959年8月30、31日に行われた本番の「討論」は、出席者のジャンルごとに違う困難と抽象的な時代の「閉塞」がごった煮になった発言が続き、話は拡散するばかりだった。司会役の江藤が「疲労」するのも無理はない。江藤は9編のエッセイについて記した「参加者の関心がもっぱら自己にあり、外部の客観的な現実にはないかのように見える」という感想をより拡大した時間となった。
「今の日本は戦前の日本ではない。若い作家たちはかつて歴史にはなかったような状況に立たされているだろう。だが、どうしてそれだから彼らが「新しい」人間だといえるだろうか。急激に変わったのは外部の現実だけで、おそらくわれわれの内にあるものはさほど変わりはしなかったのである。そうでなければ、どうして「最新の世代」を自負する作家たちの背後から、樗牛や透谷や白樺派の亡霊がうかびあがって来るであろうか」(「朝日新聞」1959年10月8、9、10日)
江藤は、同世代の才人への失望をこのように記している。1942年に「文學界」グループが主催した「近代の超克」を十二分に意識し、「なだ万」で行われたこの座談会は、果たして失敗だったのだろうか。まず、皮肉な見方をしておけば、会に参加した者たちは「自己」の売り込みには成功し、文化的なエスタブリッシュメントとしての地位を確保した。「文学界」59年10月号に掲載された橋川文三、村上兵衛、石原慎太郎、大江健三郎、浅利慶太、江藤淳の座談会「怒れる若者たち」と合わせて話題を呼び、「戦前派」「戦中派」「戦後派」という区分の「世代論」が一種の流行となった。
大人・佐々木基一は「わたしはその『発言』九つを読んで、実を言うと大変面白かった。話が通じないのは口でしゃべり合うときの感情の噴出に妨害されたためであって、各自考えていることはかなり明瞭だし、互い共通したムードに包まれているように思われる。また正反対の意見があるとしても、それは文章の上で互いにきっちりとかみ合っているように思われる」(「怒れる世代」をめぐって/『発言』所収)と評価している。確かに、安保改定を前にして、たとえゆるやかであっても、現実政治への拠点になるような連帯は生まれなかった。しかし、これだけ立場や経験が違う個性の強い芸術家が集まり、行動を共にすることなどそもそも無理ではなかったか。
最終的に江藤は、「もし今日、本気で人間の結びつきを回復しようと願うのなら、私にはそれはさしあたりすぐれた文学作品を通してしか実現されえないと考える。文学は現実に対して無力であるが故にもっとも有力である。文学者は現実をよりよくとらえるために行動を断念する。彼の現実参与や行動は本来書斎のなかにしかない」(「生活の主人公になること」/同前)という認識を記す。紆余曲折はあったものの、「戦線」として一定の成果はあって、江藤らしいポジションを再確認するに至ったと捉えていいだろう。
29年後の「新潮」1000号記念号において、「文学の不易流行」と題して、石原慎太郎、大江健三郎、江藤淳、開高健という「若い日本の会」に参加した文学者が一同に会する座談会が行われた。「世代」のトップランナーとして「戦後」をリードし続けてきた証のような「同窓会」だった。白状しておくと、学生時代、私にとって「若い日本の会」組は「体制派」の象徴のように見えて、ほとんど関心を持てなかった。色川武大や野坂昭如のようなグレた存在がぴったり来たし、当時はマイナーポエットに見えた吉行淳之介や安岡章太郎などの「第三の世代」の方に親近感を持っていた。早稲田は中退組が一番、のようなアウトロー趣味は、「60年安保」の「戦線」の残照であったのかもしれない。今は昔、である。
このように、「若い日本の会」における江藤の「行動」の結果は、もともとの原則に帰っただけ、と見ることもできる。しかし、悪名高い「転向」がなかったか、と問われれば、やはり根本的な態度変更が行われた、と答えるほかない。「60年安保」の渦中において、江藤は何を見たのか?

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2021年、最終回になった「群像」新人賞評論賞の優秀作『平成転向論 鷲田清一をめぐって』は、15年、安全保障関連法案の採決をめぐる、いわゆる「一五年安保闘争」の担い手となった「SEALs(自由と民衆主義のための学生緊急運動)」のメンバーたちが「彼/女らを解散に追いやり日常生活へと回帰させた要因は何だったのか」と問いかけて、その「転向」を正面から論じた点で刺激的な論考だった。
鷲田清一の「哲学の場所で自分の言葉で語る」試みをSEALsのスタイルに重ねて、「このような政治を語る言葉の変化は、生活の重視につながる。「個人の言葉」新たに深め広げていくためには、エッセイが概念を駆使するように、生活のなかでその言葉を使っていかなくてはならない。しかし、その変化は、翻訳された政治用語を放棄してしまう。翻訳語は日常では使われないからだ」(『平成転向論』)という限界を探り当てる。
もっとも、「敗北した社会運動」に必要なのは「総括」というのなら、挫折した活動家である「山村工作隊」を組織した詩人・谷川雁を肯定的に援用しているのでは物足りない。すでにロマン主義的言語を操る詩人が大衆に支持され、実践に移行しうる環境などどこにもない。また、「安全保障関連法案反対」が果たして正しかったかという、目標設定についての問いかけがなかった。「一五年安保闘争」が、「60年安保」の時に岸信介の退陣で自然収束したのと似たような結末を迎えたのはなぜか。そして、「SEALsで活動したのが企業にバレると就職できない」という学生の悩みが置き去りにされているのも気になった。
「60年安保」の時代、デモの先頭に立っていたとある詩人が、「5割以上が組合の動員だったよ」と教えてくれた。実際、尖鋭な学生の数は実はそう多いわけでもない、マスコミや広告などの隙間産業が飛躍的に拡大する過程だったので、元「闘士」の受け皿が広かった。しかし、2015年の時点だと、新卒で正社員になれない若者の将来は「富裕層」の出でなければかなり危うい。「一五年安保闘争」の元中心メンバーが、立憲民主党が出資した組織の中で、自民党側の「Dappi」と似たネット上の情報宣伝活動に従事していたという報道を接して暗然とした。「運動」を巡る行動と言説も、止むを得ざる停滞を繰り返している。
全共闘世代の内田樹や高橋源一郎は「民主主義」を連呼するばかりで、論理や戦術ではなく情緒の回路でSEALsを扇動しているように見えた。運動を俯瞰し、具体的な成果を勝ち取ろうという存在はいなかった。そして、デモに参加し就職活動に影響があった学生たちも存在するはずだ。人生は「ロマン主義」的実践に酔って生きるには長い。内田や高橋の同世代の過激派学生だった糸井重里が、しんねりむっつり時の政権支持のツイートを繰り返している状況を見るにつけ、若き日の武勇伝に留まらない「運動」を持続するのは難しいと思う。また、小峰も指摘する通り、15年のデモは見栄えがいい若者の姿ばかりが取り上げられていたが、実際は定年退職後の元全共闘闘士が中心だった。「国葬反対」もしかり。
60年の江藤は、たとえば「若い日本の会」の演説の最中、「ひとりの若い母親がでてきて、せっかく赤ん坊が眠ったところなのだから、あまり喧しい音を立てないで下さい」といいに来たことに着目する。「政治を律する機軸には、「善悪」の道徳的機軸のほかに、「利害得失」の功利的機軸がある。この後者を無視した反権力運動は息切れせずにはいない」という立場を基本にして、「叱咤激励する運動にはおのずから限界がある。労働組合というような組織に属していて、労働歌を歌いデモに参加するというかたちで強い要求を主張できる人々に対しては、それは有効であろう。しかし、労働歌もデモも肌に訓染まない人たち、赤ん坊の眼を醒させる物音には抗議するが、軍歌調の「安保反対の歌」には反発を感じる一般の市民たちに対しては、それは有効でない。それなのに、このような人々に対して労働運動の型にはまった働きかけがなされ、無効におわると「大衆の意識が低い」という判断が下されがちなところに第一の問題がある。そして市民たちが労働歌とデモで象徴される方法に反撥するほど、――あるいはそれを傍観するにとどまるほど――運動の方法に反撥しているわけではないところに第二の問題がある。更に、このような、現状に満足しているわけではないが、現状に満足していないという自主的な表現を行なおうとしない一般市民が、実は今日の日本人のかなりの部分を占めているというところに第三の問題がある」(「“声なきもの”も起ちあがる」・「中央公論」1960年7月号)
このような「市民の一人」として江藤は、石原慎太郎、羽仁進と、石田雄らの学者グループとともに、三木武夫、松村謙三、石橋湛山らの自民党反主流派の領袖と会見し、岸内閣の新安保条約強行採決を「拒否した責任をとりつづける用意があるか」を問うた。それは江藤の主体的な「行動」であった。もとより、激化するデモを大衆運動にとどめず、政局への影響力につなげる戦略を持たぬ浅沼稲次郎党首以下の社会党の無力には呆れ果てている。しかし、「会見」は単なる意見交換に終わり、江藤たち若き知識人の動きも政治的には無力であった。
江頭淳夫は、政府が難局に陥った際、「特命大臣」のような形で赴任することを厭わない人格であることを、ここで言い添えておきたい。「組織と人間」という問題系があるが、「生活と運動」という選択の方がより切実だろうし、ほとんどの人は「生活」を選択するだろう。そもそも江藤は、新安保条約が日米の防衛に対し、両国が共同してあたる義務が生じる点で旧条約より平等で、相対的に有利な条件であると評価していた。問題はあくまで、岸内閣な強引な手続きにあり、日米交渉の不透明さが疑念に拍車をかけていた。街頭に出たいという「若い日本の会」のムードに抗して、江藤は生活を「保守」しながら、あくまで議会を通した民主的な手続きに固執する。しかし、事態は江藤流に単純化できるものではなかった。

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「四時――先ほどの米海兵隊ヘリコプターが飛来して、着地点をさがしはじめた。砂煙がまいあがり、小旗が宙におどる。しかしかたまりは散らない。四時五分、私は朝日新聞の写真部のワゴンの屋根の上にいる。警官がようやく隊伍を整えて走って来る。次第にこの巨大なアメーバに対する絶望が私の胸にこみあげて来た。六月六日の社会党大会で、私は「気持ちだけでは政治はできない。大衆での迎合は、大衆無視同様の退廃を生む。私は社会党の忠実な支持者ではないが、今度ぐらい政治家の指導力が必要な時はないと思うので、あえていうのだ」という話をしてきたばかりであった。時局は結局は国会の内で、政治家の手によって収拾されるべきである。この群衆は、ハガティ氏の車を物理的に阻止して、政治的にもアイゼンハワー大統領の訪日を阻止したつもりなのだろうか。物理的に阻止した時、政治的には通ってならぬものが、彼らの頭上を通り抜けたということが、なぜわからないのか。大衆を甘やかし、スローガンでかり立てた指導者はどこにいて何をしているのか」(「ハガティ氏を迎えた羽田デモ」)
「朝日ジャーナル」1960年6月19日号に掲載されたルポルタージュの一節である。6月10日、アイゼンハワー米大統領新聞係秘書ジェイムズ・C・ハガティの来日に際して、羽田空港で起こった「闘争」を最前線で取材した赤裸々な感想だ。江藤は「完全な無秩序、異常に興奮した群衆――これはすでに「労働者」でも、「学生」でもない。無定形な、物理的な運動法則以外規制するものを持たぬかたまり」を前に、「絶望」というより、自失していた。そして、江頭惇夫は恐怖していた。
私は、後年にほとんど同じ感触の発言があるのを知っている。浅田彰の『文學界』1989年2月号での柄谷行人との対談「昭和精神史を検証する」における、「連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという『土人』の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです」という発言である。「土人」とはひどい表現であるが、つまりは江藤のいう「生きている廃墟」に棲む「奴隷」と同じ意味だろう。そして、その情念が爆発したら、「革命家」ではない知識人はお手上げというのが、変わらぬ日本の現実である。
ちなみ江藤は後に、浅田と同じ群衆を見て、「天皇を何よりも必要としている自分自身の運命を、刻一刻と経験しつつあるれっきとした人間の顔」(「国、亡し給うことなかれ」「文藝春秋」1989年3月号)と記しており、40年近い歳月の経過の重み感じる。もっとも、江藤は「象徴天皇制」の支持者ではなく、紆余曲折の果てに昭和天皇個人への帰依に辿り着いたわけだが、右傾化の帰結かどうかは、後に検討しなければならない。
いささか後出し気味であるが、87年の江藤淳の、自分自身の行動は省かれた安保闘争の「総括」を引いておく。
「しかしこのとき、アメリカにとっても少なからずショックだったのは、いわゆる“六〇年安保”の政治的大混乱が勃発したということでした。
アメリカ側から見れば、共産党の影響下を脱していた全学連主流派、代々木の指導下にあった全学連反主流派、社会党議員の登院拒否と傘下の労組を動員した大規模な請願デモ、そのすべてが、未曾有の反米運動と見えました。これらの勢力が三つどもえになって、人の波が国会周辺を毎日埋ずめたからです。岸内閣はどういうわけか、五・一九強行採決のまえに、解数・総選挙によって民意を問うという手続きをとっていなかった。そのために、手続き上の誤算もあるにはあったけれども、この混乱は決して手続き論の範囲にとどまるものではなく、日本人の反米感情が、実質的に反安保運動に結実したと、アメリカ人は見てとりました。
岸内閣にしてみれば、日本の交渉力は限定されているので、この程度の部分的改正によって、日本の地位の相対的向上と、とりわけ経済的進出への突破口を開こうと意図したのでしたが、国民感情は部分的な条件つきの改正には満足していなかった。アメリカの軍事的プレゼンスを即時いっさい排除することを求めるというひそかな民心の動向を、全学連主流派の活動家たちとデモに参加した人びとが、期せずして表現していました。
“六〇年安保”が、七〇年代の学園紛争と根本的に違うのは、このようなナショナリズムといわないまでも、ナショナル・センティメントを背景にした騒動であった点だろうと思われます。安保騒動は、まさにそのことにおいてアメリカの非常な危機感を惹起しました。そのために、アイゼンハウアー訪日も断念せざるを得なくなって、世界の前で、アメリカは、威信の失墜を経験せざるを得なくなりました。
このときアメリカはあらためて、日本の潜在的「脅威」、日本のナショナリズムないしはナショナル・センティメントが、反米に結集した場合の迫力を痛感したに違いないと思われます」(『日米戦争は終わっていない』)
江藤の分析は正確である。「未曾有の反米運動」と見るならば、樺美智子がデモ中に亡くなり、そして安保法案の自然承認と引き換えに岸信介首相が退陣して、「大衆運動」が嘘のように収まったのも説明がつく。堀川正美が無意識に「時の締切まぎわ」という詩句を書きつけた通り、日米関係が「奴隷」でなく真の独立に向かって一歩進む「戦線」が成り立ち得たのは、広範な「民意」が大衆運動を支持した「60年安保」の段階までであった。
もちろん、日米の国力の差や岸信介が何らかの理由で許された元戦犯であったことなど、背景を考えれば困難は多い。しかし、江藤の説く通り、安保条約改定の是非を問うて解散総選挙を行って民意を問えば、社会党が政権を獲ることは夢ではなかった。その恐怖ゆえ、政権側は組合の弱体化に腐心し、87年の国鉄解体に至って事実上の解体に成功する。その間、自民党と相補いながら「反対」することにより労働者の待遇を改善する役割を担っていた社会党は、ただ手を拱いたまま支持基盤の弱体化を見守る時を過ごした。
たった15年前まで「鬼畜米英」と口を揃えていた情念は簡単に消えるはずもない。しかし、「60年安保」で爆発した後は、池田勇人内閣の提唱する「所得倍増計画」により、「軽武装・経済外交」の吉田ドクトリンが路線として完全に定着し、西欧諸国への敵愾心を胸に秘めた「エコノミック・アニマル」は世界中で活躍し経済成長に邁進する。その担い手は、江藤より年長の、戦争で具体的な屈辱を受けた世代だった。岸信介のいう通り、「(デモの)参加者は限られている。野球場や映画館は満員で、銀座通りもいつもと変わりがない」。
わが国は、だれひとり気づかぬ間に、「55年体制」という名の重い枷が取り付けられていた。江藤が漠然と予感していた「停滞」は、戦後77年経った2020年にもびくともしない。「戦線」からの遁走を選択した江藤淳にとって、戦前に親に買ってもらった不動産が手品の種だった「扇動家」埴谷雄高や、「象牙の塔」に籠る選択肢を持つ丸山眞男の許から離れて赴くところは、この日本にはひとつしか残っていなかった。




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風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。