映画音楽急性増悪 第36回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」最新回はツァイ・ミンリャンの監督の長編全12作品についてです。ツァイ・ミンリャンの映画では映画館、穴、排水、光などの音はどう現れるのか。

第三十六回 時間 




文=虹釜太郎

 

『落日』(ツァイ・ミン・リャン/2003年)
福和大戯院。閉館となる映画館。
雨降るなか福和大戯院の光る看板から遠ざかる女。館内には幽霊、映画内人物、猫も。
しばらく写る福和大戯院の看板と館内で静かに流れるさまざまな音たち。 
館内の控え室での食事の間に映画は映画館で流れている。館内を映す映像の照明はない、というか照明はスクリーンの光しかない。ゆっくりと階段を登る女。館内からの映画の音がじっとりと聞こえてくる。またひたすら階段を登ると、フィルムの廻る音がしてくる。女が画面から消えても足音だけが残る。停滞はない。定期的に館内の映像に戻る。館内では『血闘竜門の宿』の音がする。
JAV50、アクトミニシアターなどといった日本の東京でのなくなった小さな映画館だけでなく、世界各地の消えた映画館たちをいくつもいくつもいくつも思い出す人もいるかもだけれど、現在続いている映画館の再建前の軋みやたるみや皺たちを思い出す人も多くいるかもしれない。同じ館内の暗闇も実際にはかなり違う。かつての旧文芸座の二階からの水滴落下や椅子のへこみへたり具合などは同館で開催されていた廃棄寸前フィルム一挙上映ジャンクフィルムの上映時の度重なる軋みと館内の荒み具合との奇跡的なシンクロなど。そんなことはともかく、本作ではトイレのシーンまで映る。三人が立ちしょんするなかで落し物をとりに三人の合間に立ち寄るもう一人の男。しかし彼らのおしっこは長く、その後に映る廊下の長さを外の交通音と館内からの映画音を同時に拾いながら映像は続く。
『血闘竜門の宿』の映像が流れる後にまた女は螺旋階段を登る。いったい現実には何時なのかわからない映画館の廊下たち。そこをひたすら歩く女。そして今度は階段を降りはじめる。そこでの光は映写室から漏れている。
 
 
『ふたつの時、ふたりの時間』(ツァイ・ミン・リャン/2001年)(原題『你那邊幾點』、英題『What Time Is It There?』)
持ち物が盗まれる。二人ともに盗まれる。
がその先は描かれない。
シャオカンとシャンチー。
路上で腕時計を売っているシャオカン。パリで一人のシャンチー。台北のあらゆる時計の針をパリにあわせるシャオカン。狂わされた時計のその先は描かれない。
パリでの女同士の関係も進まず、その先は描かれない。
観覧車と時計に意味はなく、シャオカンの母親は旦那の死には耐えられず枕を股間に押し続け、シャオカンはビニール袋とペットボトルにおしっこをし、共に食事をするが部屋は母親の混乱により常にうす真っ暗。食う寝る食う出す食う。シャオカンの視線、シャンチーの視線。共に弛緩を超えた低速を超えた静止。シャオカンは母親が光を閉じた部屋を無理やり開き、シャンチーは盗まれた荷物にも拾われた荷物にも気づかず眠りこけている。
異様に音楽に溢れ続ける8mmの眠りの映画『宵醒飛行』(鷲見剛一/1990年)と併せて改めて続けて観直したい。『ふたつの時、ふたりの時間』はその先を描かないし、映画音楽もない。
 
 
『Hole 洞』(ツァイ・ミン・リャン/1998年)
アパートの上に住む男、下に住む女。ある日部屋に穴が開いてしまう。後半に開いた穴に苦しみ水浸し壁剥がしになったひどい部屋で無闇に泣きだしてしまう女と開いた穴の周りで耐えられなくなり穴の周りをひたすらトンカチで叩きまくっては泣きだしはじめる男が交互に映されもう限界かとなったところで穴から手が延びてきて奇跡的な最後を迎える。
しかし奇跡として連発するミュージカルシーンは2004年の『西瓜』のミュージカルたちとは違ってより熾烈なはじまりが。
グレース・チャンの曲たちが過酷に踏み潰されるようにかかり、ヤン・クイメイがひたすらに踊る。
穴が開いたアパートの人間たちの一部はネズミのように動いては逃げ、無慈悲な消毒隊も来襲し、食品店は開いておらず、それらはパンデミック映画に出てくるビルのようであり、男も女も働いている姿は映らず、彼らが食べているのはインスタント麺と缶詰だけ。それが戦争からの避難や租界のようにも見えるが、そうではない。底湿りのする説明不可能なビルがそのまま朽ち尽くすことはなく、開いた穴がどんな効果をもたらすかは本作だけではわからない。たとえあの最後を見せられたとしても。
 
 
『河』(ツァイ・ミン・リャン/1997年)
河に浮かぶ死体役を演じたシャオカン。彼がかかった奇病とは…
文化の定義として「世の中が開けて生活水準が高まっている状態」「人類の理想を実現して行く精神の活動。技術を通して自然を人間の生活目的に役立てて行く過程で形作られた、生活様式およびそれに関する表現」というようなものらが一部にあるけれど、本作の主人公の首の痛みの由来と治癒の過程の詳細はそのような定義とはかけ離れたある局部が仔細に撮られ…
文化の定義の中に見られる人間の精神面での向上などはこの痛みの治癒の過程のフィルムの中になどもちろんない。その地独特の蓄積された情報の処理の形態がもしその地の文化であるなら、本作はマンションのひと部屋が河になる過程の背景をさまざまに現したひとつの実験であるかもしれないが、数あるツァイ作品の中でももっとも暗いシーンが多く、その暗さは多くの幻の分岐を孕む。それは盛り場や不倫現場の場らとは違うものとして何回も暗闇から現れるかもしれない。
天上の水漏れから亀裂、洪水のようになった元栓を閉めるまでのシャオカンの母と父の分離とシャオカンがそれでも同居していること。
『青春神話』『愛情萬歳』『河』で三部作だが本作でのシャオカンは痛みに侵されたままあまりに受け身であり続ける。本作では同居の困難と同時にその貴重さ、いやありえなさ、その名残や網というものを何重にも描くことになる。
匿名で身を重ねた相手が親族だったことをこのように撮れることとは。
ある部屋の雨漏りをこのように撮れるとは。
映される半裸が誰かわからないままずっとそのままという撮り方とは。
 
 
『愛情萬歳』(ツァイ・ミン・リャン/1994年)
マンションの空室で遭遇する/しない二人の男と一人の女。
納骨堂営業マンと露天業者と不動産販売業者。
あるマンションの空室の鍵を入手した営業マンから話ははじまる。映画音楽はなく、空室で出会うはずの三人はなかなか出会わず、最後に寝室で露天業者の男が不動産販売業者の女に手をかけるが、女は既に部屋を後にしていて、かけられた手は納骨堂営業の男に。露天業者はそのことを知らず、三人の関係のすべてを知らないはずの女は朝に戸外でひとり泣く。泣き止んだ後に煙草を吸うがまた泣きはじめるかいなかで映画は終わる。カメラは女の顔しか映さない。
蚊をひたすらはたく女、西瓜で遊び食べる男、入れ替わりに気づかない男… 最初から最後まで音楽がまったくなく、泣いた女の周りも一切映されない。
 
 
『青春神話』(原題『青少年哪吒』)(ツァイ・ミン・リャン/1992年)
2020年の『日子』から遡ってツァイの作品を観直してみると、遡るにつれてツァイがいかに商業映画と闘っていたかがあきらかになる気がするが、本作の水浸しの過多が増減する床のアパート、水浸しが直ったかと思えばまた部屋の扉の向こうから水が浸み出してくる様が実に緻密に映されている。
『日子』でツァイがついに手にした自由と比べて『青春神話』のどこがどれだけ不自由なのかはまた改めてツァイ作品を観直す者たちに訊いてみたい。
黄舒駿によるひりついたビートが最後まで繰り返される。
治らない排水溝のせいで水浸しのアパートで阿澤は毎日寝ている。小康(李康生)が『日子』に比べるとはるかに若いが、薄ら笑いなど決してしない存在。小康が両親と住むマンションはその後のツァイ映画と同じ。潜むまじないたちも同じく。
李康生が演じる小康が阿澤のバイクを粉々に屈辱的に破壊した後に阿澤の悔しがりように狂喜するどうしようもない姿。阿澤が女と抱き合いどうしていいかわからないとうめく排水溝の流れ無さの極致。ゲーセンの暗さに付き合い、テレクラの無味さに付き合えず、排水溝は治らない。必ず途中階で止まるエレベータも治らない。
治らない排水溝で靴も缶も浮かんでさまよう。最後まで阿澤は自らをつける小康に気づかない。冒頭から激しく雨が降り、小康が阿澤のバイクを徹底していたぶる時も、阿澤が仲間と逃げるために自らが傷つけたタクシーに乗り込む時もすべてどしゃ降り。
 
 
『西瓜』(原題:天邊一朵雲)(ツァイ・ミンリャン/2004年)
五つのミュージカルスキップ。影だけの蟹食い。何度もえぐられる西瓜。日本初上映時タイトルは『浮気雲』。『日子』でかなり自由になるツァイが商業映画でできることを積み重ねる。「まだ時計を売っているの?」で再会する男女。『ふたつの時、ふたりの時間』の男女は水不足の街で再会するが、映画は二人の現実だけを描かない。
西瓜は性器、赤子、食べもの、水の溜め、重みのさまざまな変態で、ミャージカルスキップはどれも誰が主役かは意味のない働きづめで淫らかつ無欲な平等さに溢れ、その平等さに耐えられないかどうかに関係なく西瓜は斬られるのでなく破れ、スーツケースは開かず、水不足の裏側でいくつもの動物が動く。
 
 
『黒い眼のオペラ』(原題『黒眼圏』、英題『I Don't Want to Sleep Alone 』)(ツァイ・ミンリャン/2006年)
大ケガをして自分ではうまく動けないシャオカン。冒頭の激しい会話群から一変、動けず静かに横たわるシャオカン。歯を耳の穴を髪の毛を洗われるシャオカン。その時の彼のがらがらの目線。シャオカンはさらに身体を洗われ続け徹底して介護される。がらがらがらの目。
そんなシャオカンがシャンチーと出会う。
マットレスがさまざまな移動をする。最後のマットレスで寝る三人。
シャオカンはついにひとことも話さない。
マスクを外すとセックスさえもできない環境は蒸し暑いがひんやりとした印象を与え続け、それを可能にする廃墟。その形容不能の温度が漂う場に漂う三人。
廃墟の魚こころを移り採ることができそうで先行き不明の場。その場へのたどりつき方。
そういう場を描くことは難しい。
 
 
『ヴィザージュ』(原題『臉』、英題『Face』、仏題『Visage』)(ツァイ・ミン・リャン/2009年)
冒頭から水道の水が破裂する。止めようとした水は横に縦に飛び、すぐさま水浸しの部屋ができてしまう。いつもの光景だ。
水浸しの場で寝る人間。
冥道のようだった『黒い眼のオペラ』とはまた違う果てのない道と待ち。
ジャン=ピエール・レオーとマチュー・アマルリックが出演するが、別監督の不在を感じる間もなく雪の中でミュージカルがはじまってしまい、しかしいつものツァイミュージカルと違うのはミュージカル中にミュージカルを踊る人間たちが途中から映されず、頭をたれる女と歩く男が早めに映され、雪の中で呟く男の響きが静かに拡散してゆく。 
ひたすらテープで窓を覆う女のシーンのただひたすらテープを剥がし続ける音の連続と次第に暗くなる部屋の描写。
ミュージカルが続かないのは最後まで続き、美術館が映るけれど、それは下部に穴があるからだけ。雪の場で撮られた『サロメ』。
テープで塞がれる光はまだまだ明るいし、シャオカンも衰弱していないが、万物からのやられやすさは拡大し逃れられない死が画を覆う。
 
 
『郊遊  ピクニック』(原題『郊遊』、英題『Stray Dogs』)(ツァイ・ミン・リャン/
2013年)
子供二人が見る/見ていない世界。立ち看板の仕事が見る/見ていない世界。犬たちが見る世界/見ていない世界。
生身の人間がする立ち看板の仕事が見る世界でなく仕事中の男の顔がアップで映され、彼の唄う音声がひたすら流される。
公衆便所で父と子供たち三人が歯磨きをするが、子供たちが当たり前のように身体拭きまで済ませ、空き家で寝る。空いた建物では犬たちがさまよう。
キャベツ泣きの後での女の見ている世界/見ていない世界。女が一心に前を見つめ、男がつられて前を見たまま…そのまま決して溝は埋まらず、その長廻しのなか彼らが見ていなかった世界が壁の一枚の絵に。絵を映した後に男はひとり残され、犬たちの声だけが現れる。
 
 
『西遊』(英題『Journey to the West』)(ツァイ・ミン・リャン/2014年)
超低速で歩く僧とそれを見る人間とそれを真似る、いや同じ動作をする人間を同時に観ること。 
この僧のこの地への落下がなぜ起きたかの説明もない。
階段をゆっくりと降りる僧のシーンでは光の枠が僧の身体の外線を際立たせ、周囲を多くの人間が移動しきり、時に人々は僧を凝視し、また一人になり、階段を降り切る際には外部から届いていた光がついに消え真っ暗に。
僧と同じ動作をする人間だけが画に映るシーンについにたどりつく。すると何事もなかったかのように画は逆さまになる。
壁面のアップの右側から超低速に移動する僧が。その前後に映される眠っている男の顔の配置が落下を吸いつかせる。
 
 
 『日子』(ツァイ・ミン・リャン/2020年)
冒頭の長めの雨の録音。激しい雨の音の詳細。それは商業映画ではなかなか見られないもの。肩の痛みにより必要とされる休みの時間。2013年の『郊遊ピクニック』で商業映画界から引退したツァイはより自由な時間の使い方を。その結果は録音にもよく出ている。閉まった扉を引いたところから長いあいだとらえた映像もまた「商業映画」では見られない。野菜をひたすら洗う場面もマッサージの長さも商業映画では…となぜ商業映画と繰り返すかと言えばツァイ監督は以下のように発言している…「…『郊遊ピクニック』を撮り終えた後、いろんな思いが去来していました。映画館で観客がチケットを買って見る映画を撮りたくなくなったのです。私は毎回、街頭でチケットを売りさばいていて、それにも疲れました。劇場公開する作品では表現方法で入れなければいけない要素が出てきます。しかし、例えば美術館で展示するような方法で映画を作ることはやってきましたので、映画を撮らないと言ったわけではないのです」「動作のディテールは時間の流れを感じさせるもの。そこに流れている時間を感じることが重要なのです。ラオスからやってきた労働者アノンが料理の準備をしているシーンも一つ一つがダンスのように美しいです。動作と時間の組み合わせから新しい映画の可能性ができると思いました。映画ができて100年以上経ちますが、観客はストーリーやビジュアル効果だけを重視するという誤解もあったと思うのです」
新しい? ツァイの作品だけでなく商業映画ではない映画群の新たな流通方法たちとは…
マーケットの概念とはちがうコンセプトで映画を上映する場所たち。しかしその場所の持続を可能にするために必要なものとは。作家が作った映像を発表する場が新しい映画館ならば東京の多摩の聖蹟桜ヶ丘にあるキノコヤなども新しい映画館というかフリースペース。キノコヤは映画上映をめぐるプログラムの組み方(その回数は決して多くはないが)がおもしろい。そんな場所の小さな小さな持続が世界での映画の触れ方をゆっくりゆっくり変えていく。
『ふたつの時、ふたりの時間』でもよく見られた止まったような時間が本作では別の活発さを見せる。最後半の長い歩きと眠りからの半覚醒に流れる時間は、その半覚醒時に響く咳払いの音から新たな寂しさを発見させる活発さがあるが、その後に続く道路の音は険しく(そこでの交通音の大きさ)そこでまたオルゴールが開く。
ドキュメンタリーでも商業映画でもない新たな動きたち/眠りたちをとらえた映画。肩の痛みからはじまったあずかり知らなかった場たちと眠りたち。その新しさへの疑問たちももっと知りたい。