Television Freak 第73回

家では常にテレビつけっぱなしの生活を送る編集者・風元正さんが、ドラマを中心としたさまざまな番組について縦横無尽に論じるTV時評「Television Freak」。今回は現在放送中の連続ドラマから『石子と羽男―そんなコトで訴えます?―』(TBS系)、『雪女と蟹を食う』(テレビ東京系)、『オクトー~感情捜査官 心野朱梨~』(読売テレビ系)を取り上げます。さらに第71回でも触れたNHKの連続テレビ小説『ちむどんどん』を、その後の展開も踏まえて再考します。
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わが心の「やんばる」



文・写真=風元 正

 
車の定期点検はうっすら気が重く、というのも、セールスマンのいい話は「車が売れること」しかないので、必ず買い替えを促されるからであった。私は現状、自動車に求めるのは4人乗れて頑丈でフツーに走ることのみなので、相当クタらない限り何もしないことが望ましい。毎回、軽い駆け引きをして逃げるのだが、最大の買い替えタイミングである5年目を迎えたこの7月、私の担当者からは、ほとんど無表情で「ま、このままでいっすね」と声をかけられ、拍子抜けした。
迂闊な話だが、新聞・雑誌に「サプライチェーンの崩壊」とか「半導体不足」という活字が躍っていたのを思い出し、車が作れないとディーラーには売るものがない、という当たり前に立ち返った。納車1年待ちなどのお約束で客は値引きテクを駆使するどころではなく、「軽でも200万するんですから、車って高いっすよ」と、普段はこちらの心を動かそうとする「プラン」を隙を見ては持ち出そうとする涼し気な若者のため息を聴く。バックオーダーを消化するだけで数年かかり、しかもパンデミック前の生産力に戻る見込みは立たないらしく、すると、車販売業界の行く末は明るいとはいえない。「グローバル」な展開が絵に描いた餅になるのも、案外、簡単なことだった。
テレビドラマがいよいよ増えているのも似たような事情だろうが、こちらは応接に忙しいだけで関係ない。ただ、ネットフリックスの会員が激減しているのはさもありなんで、結局、つまらない番組は誰も見ないだけのことである。地上波の状況を判断するのはまだ早いが、手の込んだドラマを送り出すゆとりはなく、俳優の「数字」への依存度が高くなるゆえ、結果的に同じような面々ばかりが忙しくなることは分かった。
 

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中村倫也は出演するドラマの選択眼が確かである。今クール、高卒だが1回で司法試験を突破した弁護士「羽男/羽根岡佳男」役で主演している『石子と羽男―そんなコトで訴えます?―』も、細部までよく配慮されている法曹界ドラマ。1話完結のテンポが快い。
ダブル主演の有村架純の演じる「石子/石田硝子」は東大法学部を主席で卒業した秀才だが司法試験を4度落第しており、5回目に落ちると受験資格を失うので、パラリーガルとして人情派弁護士の父・潮綿郎(さだまさし)の事務所で働いている。潮は人情派の弁護士であり、「真面目に生きる人々の“傘”になろう」がモットーだから儲かるはずもない。どこかからあの歌声が聞こえてくるが、さだ自身の映画で作った多額の借金を返済した履歴が重しになり、一方、やり繰りに忙しい石子は「金の亡者」キャラとなる。
「羽男」は金満事務所をクビになり、ひょんなきっかけで潮の「町弁」事務所に就職する。そこで弁護する珍事件が秀逸である。第3話、「ファスト映画」を無断アップロードした映画好きの大学生・山田遼平(井之脇海)を国選弁護するわけだが、遼平クンは刑務所に入ってもまるで反省しないのがすごい。無報酬だし、自分の動画を見てくれた人は「映画が観たくなった」とコメントしてくれるのだから、作品を広めて何が悪い、と信じており、あまりに態度と評判が悪い被疑者に手を焼いて羽男はすぐヤル気をなくす。しかし、寡作の映画監督・山田恭兵(でんでん)の新作が「ファスト映画」の被害に遭い、石子が犯人捜しをする過程で作り手のオリジナリティに賭ける情熱に触れ、それを監督の信者である遼平に巧みに伝達。遼平に著作権についての正しい認識が芽生えてメデタシメデタシを迎えたが、私はむしろ、似たような意識で投稿している人間が山ほどいるだろうな、と感じた。編集者として長年働いた私も、出版物の洪水の中で作品がすぐさま埋没してしまうという危機感は共有している。
羽男は見たものを全部記憶してしまう能力を持っていて、受験も案件もそれで切り抜けてきたわけだが、「フォトグラフィック・メモリー」の持ち主は稀にだが実在するので、ありえない話ではない。店での携帯充電、SNSを使ったパワハラ、スマホゲームの課金などなど、もろもろ面倒になったイマドキの世間に「法」はどう対応しているのか、身近な事件ばかりなので参考になる。
「破天荒な天才弁護士」を演じる羽男が法廷でのアドリブが苦手、というのも自意識過剰な役が得意の中村向きの設定だし、有村架純が高校時代から頭が固くて「石子」というアダ名だった女性を演じるのも、自分自身の魅力に鈍感に振舞っているのがいい。法廷での弁舌が苦手の弁護士と、接見できず法廷にも立てないが口は減らないパラリーガルの掛け合いは息がぴったりで、でも、天然の「市民派」さだが出てくるとほっとする。バイトの大庭蒼生を演じる赤楚衛二は注目株のイケメンだし、羽男の父役のイッセー尾形の芸まで時たま楽しめる安定の味わい。このクラスのクオリティのドラマが増えて欲しい。
 

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『雪女と蟹を食う』はコミック原作。近松のごとき心中物が今、流行っているとは。「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」かの有名な太宰治の「葉」の冒頭だが、つまりはこういう世界を今の役者さんが演じている。
主人公の「北」は平凡なサラリーマンだったが、女子高生に痴漢したという冤罪で刑務所に入り、家族や婚約者に見放されて自殺を決意し、一方踏み出せず、ふっと「北海道で蟹を食べてから死のう」と思う。演じている重岡大毅がすばらしい。ジャニーズの中で、唯一、微妙に反感を買う「悪」役に挑み続け、だんだんサマになってきた。行き場のない屈託を抱えた不器用な青年役が似合う。金がなくて強盗に押し入った先で、「いいですね、蟹。私も一緒に北海道に行きたい」と応じた謎のセレブ妻・雪枝彩女を演じるのは入山法子。竹久夢二風の儚い細さがイメージにぴったりである。
お互い過去をほぼ知らぬままの道行き。ずっと車を運転し、情けを交わす彩女の心のうちはまったくわからない。仕事も恋も順調のつもりだった「北」は、自分がいかに調子に乗っていたか悔恨に沈みつつ、夏休みのような美女との旅を楽しみ、無邪気にガイドブックを捲って次の行き先を探したりして心癒され、「生」の喜びを久々に味わう。しかし「蟹」の後は「死」という運命を彩女と共有している状態から逃れることはできない。ラーメンを食べたりする何気ないシーンがいい。2人の心の揺れがヴィヴィッドに捉えられており、こんなところに「文学」が潜んでいたか、と正直びっくりした。
果たして2人は「蟹」を食べることができるのだろうか。そして、「北」は予告された死を迎えるのか。彩女の夫はベストセラー作家で、事態は一筋縄で済むとは思えない。道連れのひとりがふっと姿を消しただけで心中穏やかでなくなる旅。シンプルに2人だけの話が続くのではないようだし、もう、あまり予備知識を持たずに香気の高いロードムービーを愉しみたい。TV版が終わったら、コミック版も読んで違いを確かめてみよう。

 
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『オクトー~感情捜査官 心野朱梨~』は、飯豊まりえが主演女優として開花したドラマとして記憶に残るだろう。飯豊が演じる心野朱梨は、人の感情の「色」が見える刑事。プルチックの「感情の輪」理論に依拠しているが、私も似た現象の経験がないわけでもなく、心野は容疑者から話を聞きながら、パステルで感情の変化をスケッチする。相棒の風早涼(浅香航大)は、警察庁から神奈川県警に左遷されたエリート刑事であり、上層部の不正を告発しても揉み消されたという過去を持ち、心野の特殊能力に警官としての通念を壊されて、人間の闇の方へ一歩踏み出す。
設定はありがちではあるけれど、飯豊まりえの存在により非凡さに転じる。白く端正な小顔の飯豊は、いくらフィクションとはいえ、殺人事件とか捜査していて大丈夫か、と心配になるくらいか細く、痛々しい。繊細な神経が剥き出しなまま、陰惨な事件に立ち向かう。2022年段階ではもう、「男勝り」のような概念は許されない。能力を超えた状況まで追い詰められれば性別など関係ないし、仕事を続けてゆけば必ず二進も三進もゆかない局面に遭遇する。その恐怖が、会話などの間接的な描写ではなく、ただただ俳優の身体を通して表現されている点で優れている。第5話、元警官の葬儀屋として出現する片桐仁の禍禍しさはただ事ではない。
心野は、過去の事件から何の感情も認められなくなった姉・紫織の心を開くため、刑事として前線に立つ。紫織を演じる松井玲奈の冷たい陶器のごとき無表情に存在感がある。キーパーソンである警察庁次長・平安衛を演じる船越英一郎も百戦錬磨の怪しさを醸し出していて、物語への興味をいや増している。朝ドラでも飯豊の同僚を演じる課長代理・雲川幸平役の山中崇は、順調にひねくれた露口茂への道を歩んでいる。
本田望結、橋本マナミ、若林時英、徳永えり、浅利陽介など、犯人役で登場する俳優たちはいずれも現代の「病」を鮮やかに体現している。しかし、精神の変調を病気と捉え、治癒可能と捉えることの方が「病」であり、傲慢であろう。人間の心はそれほど便利にできていない。壊れたまま、生きてゆくしかない。演出も巧みで、第4話、雨の中、ビニール傘をさして聞き込みに向かう風早が、同じ傘をさして黙って後ろを歩く心野に気づき、ぱっと振り返るシーンなど、2人の関係が凝縮されている見事なショットだった。心野の黒く輝く瞳が何かを捉えるたびに事件が動く。薄暗いオフィスや取り調べ室の不気味な雰囲気もたまらない。
男女雇用機会均等法からもう37年。あらゆる労働場所に飯豊まりえがいることを、忘れないようにしよう。バディを組む浅香航大とともに、俳優として成長してゆくプロセスを見守りたい。
 
 
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直枝政広さんと呑んでいて、『ちむどんどん』があまりに不愉快でどうにもならぬ、と打ち明けられ、なんとなくドラマの味方をしているうち、1度書いた後、現状も支持する理由を記さなければならぬ仕儀になった。この7月21日から刊行が始まったkindle版の江藤淳全集のため、名高い評論『成熟と喪失』の続編となる『自由と禁忌』をOCR作業している最中で、その論理が頭に残っていた。『ちむどんどん』は、なぜか江藤流の図式で解けるドラマである。
『成熟と喪失』は「父」の不在と「母」の崩壊が、小島信夫の『抱擁家族』の作品の読解により浮かび上がるわけだが、その世界はまだしも「常識」の範囲にあった。しかし、同じ小島の、ほとんど誰も通読していない長大な謎の続篇『別れる理由』を論じる『自由と禁忌』では、世界はもはや「夢くさい」だけであり、すべてのリアリティが稀弱で何の手応えもない。「父」がいて「母」いるなどという「実在」のカケラもなく、カタルシスもほぼ訪れない言語空間を、江藤は「彷徨」する。そして、日本文学は1982年、『別れる理由』で小島信夫が切り拓いた地点から無限の後退を続けている。
『ちむどんどん』を注意深く見ると、まず主人公・比嘉暢子(黒島結菜)の父・賢三(大森南朋)はあっさり死ぬし、恋人役の新聞記者・青柳和彦(宮沢氷魚)の父である民俗学者・史彦(戸次重幸)も知らぬ間に世を去っている。どちらも無類の善人であるが、それゆえ社会の矛盾には無力なまま死を迎える「父」。暢子の就職先のアッラ・フォンターナのオーナー・大城房子(原田美枝子)は独身だし、深い因縁のある沖縄二世・平良三郎(片岡鶴太郎)も子はいない。料理長の二ツ橋光二(高島政伸)も含め、「父」として振舞う権能を備えた者はどこにもいない。和彦の上司・田良島甚内(山中崇)が発揮しているのも、「息子」の知性にすぎない。このドラマは、家族にささやかな「秩序」を与えることのできる「父」の不在から起こる失調が隠れたテーマになっている。
江藤的な図式である「国家」→「父」は潜在的に揺らがない。社会の中で人が「父」の役割を演じることがいかに困難か、「戦後」に生きる男はみな経験してきた。「父」がいなければ「母」もまた崩壊する。旧弊な家に嫁いだキャリアウーマン志向の暢子の姉・良子(川口春奈)の苦境を救うのは、夫の石川博乃(山田裕貴)の普段は寝た切りのおばあであったが、「家長」である祖父の世代も含めて、自分で何も決められぬ男たちが揃う「戦後民主主義」的夫婦の未来は厳しい。
沖縄を現実的に支配しているのは、米軍と、基地に土地を提供して地代収入を得ている地主である。しかし、それらの声は、決して公になることはない。琉球王国は常に理不尽な交易を強いられ、莫大な利益を得た薩摩藩が明治維新の原動力となる。琉球処分や米軍占領を経つつも、沖縄人のナショナリズムが向かう先は虚しさしかない。「沖縄戦」の悲劇もまたしかり。「父」の成立が不可能な沖縄の現実を踏まえると、『ちゅらさん』のように、強く優しい「おばあ」と御嶽の霊力がすべてを救う「美しき沖縄」的な幻想によって成り立つ物語が、誠実であるはずもない。
暢子は思い切り鈍感で、不愉快な行動しかとらない珍しいヒロインである。あまりにテキトーな「やんばるナポリタン」で「ヤング大会」に優勝して以来、暢子はずっと同じ愚行を繰り返している。和彦もまた、まともな人間である大野愛(飯豊まりえ)を捨てて、暢子を取る。深い根拠はどこにもない。あの「リベラル」な社会観も「ええしのボン」だから許されることで、新聞社内ですら宙に浮いている。しかし、この2人の生きているような、表層的で「夢くさい」世界とはまるで違う、充実した「実在」に保証された日々を謳歌していると断言できる人間など、わが国のどこにもいないのではないか。
脚本上の数え切れぬ不備について、感動的なドラマだった『マッサン』の書き手・羽原大介が「反省」していないとは思えない。この無思慮だけれども行動力とバイタリティのあるカップルでなければ実現できない何かがあるはず。暢子が毎日手作り弁当を届け、結婚の許しを請う和彦の母・重子(鈴木保奈美)と息子の心を通じる回路が、山口の旧家に生まれ、ただ「父」になることのみを周囲に求められたにもかかわらず、その要請についてはまったく無能だった中原中也の詩集であることが、確信犯である証拠と見る。
物語はおそらく、とことん表層的なまま、賢秀(竜星涼)もひとかけらも「更生」せずに唐突なハッピーエンドを迎えるだろう。身体が弱く、積極的に生きられなかった歌子(上白石萌歌)の歌声が「救い主」になるかもしれないものの、物語上での「赦し(=幸福)」が訪れたとしても、私たちは不愉快なまま現実の世界に放り出される。しかし、これは「閉された言語空間」にある「課題先進国ニッポン」の中の、「沖縄」というアポリアに今、対峙するための渾身の奇手のひとつであると、私は信じている。もっとも、この手法がポストモダン的な主体のはぐらかしに過ぎないという批判ならば、甘んじて受けよう。
賢三がまだ生きていた占領下のやんばるの自然は息を呑むほど美しい。皮肉なことに、日本返還後は何の産業もない「過疎地」として寂れてゆく。そういう世界でも、子供たちは楽し気に成長してゆく。いつか、社会に「父」など存在する必要もないことを証明するために。
最近発見した、直枝さんの傑作俳句を引用しておく。
 
  《川の音が迫りて闇に野薔薇かな》


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風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。