映画音楽急性増悪 第34回

虹釜太郎さんの連載「映画音楽急性増悪」の最新回は、イラン・ニュー・ウェイヴの始まりとされる『The Cow』(1969年)を含んだ、ダリウシュ・メールジュイ監督のいずれも強烈な7作品についてです。

第三十四回 牛 

 
 

文=虹釜太郎

 
 
『The Cow』(ダリウシュ・メールジュイ/1969年) 
 主人公ハサンが牛になる! 牛になってからのハサンが室内で光を求め叫ぶ時の激しい音楽、その後のハサンが落ち着いたかの時の静かに速度をかなり落とした音楽、病院に連れて行かれようとする時に激しくハサンが暴れ廻る時の音楽…のいずれもの音楽の入り方と消え方と細かな音量の調整。
 イラン文学者ゴラムホセイン・サエディの短編小説原作。
 ハサンが出張で留守している間にハサンの牛が謎の死を遂げるが、その後の村人たちの対応のあまりのまずさ。ではまずくなかった対応とはなんだったか。
 宗教も病院も配偶者も家族も友人もハサンになにをすることもできない。友人たち村人たちはたった一人の人間を除いて皆ハサンに嘘をつく。
 牛になってからのハサンの眼の動向が尋常ではない。
 石の中の小さな窓から常にがなり声で話す老人、村人の中心にある人工池、襲ってくる襲撃者たち、常に走り回る子らが常に映される。そして婚姻の準備。
 常にハサンに対してやさしかったエスラムが牛になって動かないハサンに対してあまりに激しく「動け!この動物っ」と叫ぶ。
 映画が終わってから、冒頭の反転して細切れになったハサンと牛の映像が強く思い出される。牛が謎死を遂げる前の牛とハサンの強い眼たち。
 ハサン不在時に牛が死んだ後に村人たちが勝手に牛を埋めたりせず、ハサンに嘘をつかなかったらどうなっていたかはわからない。宗教も病院も配偶者も家族も友人もある牛とある人間のある関係にはなにをすることもできない。ある牛をXと取り替えた時、わたしたちのみのまわりも恐ろしく変容する。
 
 
『The Postman』(ダリウシュ・メールジュイ/1973年)
7、4、5、2、1、7…
ゲオルク・ビュヒナー「ヴォイツェク」原作。
 停滞でも中座でもないラスト20分前の休止からの音楽。
 最後の犯罪で捕まらなければ男はどこまでも緩やかにふざけ続けていられたのか。
 走行車の走行妨害を執拗に続ける時点の前後でのあきらかな狂いっぷりが問題なのではなく、男は最初から狂っていたのか…
 まじめに働く男とふざけ倒す男と妻に冷徹な男のいずれが…
 最後にポストマンは何者だったのかを皆が自由奔放無責任に発言するが、羊を失った男=地主の異常性の方が映画を観終わってみればはなはだしい。
 メールジュイ監督独自のひいた画が怖くて、ラスト20分の妻が走り出す前のひきの画が怖いが、羊を失った男の怖さはそれとは違ってもっとだらけてフィルムのあちこちに残っている。
 タギ役の俳優が無造作に数字をつぶやくいくつかの箇所よりも、羊を失った男の鎮座やだらけた座りや細か過ぎる移動の恐ろしさはメールジュイの意図を超えているのではないだろうか。
 
 
『The Cycle』(ダリウシュ・メールジュイ/1975年)
 常に一定の早過ぎるリズムでひたすら仕事を与えられ、バイクで走り回り、父親を待たせて、殴られる、それも同じ速い速度で。最後の睨み合いのシーンまでその速度は同じで映画音楽もない。ただ青年の速い移動速度が搾取につぐ搾取を絞りきる。
 病んでいる父親の治療のために必要な金。いきなり放り込まれる売血の世界。映画では手当たり次第にひたすら疎外された人々と病死する人々が登場するが、病んでいる父親の痛ましさなどは一切合切描かれない。病んでいたはずの父親は猛烈な食欲に突き動かされ、茶を売っていて、映画から途中からはじき飛ばされそのまま死に、その息子のひたすら同じ速さでの移動が搾取世界にひたすら吸い込まれるように映画は消える。父親も出会った看護婦もなにもなかったかのように消える。青年の速い移動速度だけが残りしばらくは消えそうにない。生まれ過ぎたひよこたちは速い速い速度で捨てられる。そこのおまえちょっと来いいや来るないややっぱ来いの日雇いの速度。青年アリは疎外された無銭者に売血を薦めるが。そこではそこのおまえちょっと来いのばってん続きの速度が漂っていてその磁場を映画は絞りとり、とりきったかどうかわからないまま映画も切れる。
 
 
『Hamoun』(ダリウシュ・メールジュイ/1990年)
 映画音楽のなかった『The Cycle』と違い、本作ではただれた疲れた芙蓉な音楽が全編にしつこくハモーンの落ち着きなくせわしなく反省心ない素早いというよりせわしない常に急いだ早歩きの全道程と落ち着きのない速度の車の運転の全行程で流される。
 妻であるマーシッドはアブストラクトペインティングに覚醒するが、旦那であるハモーンとは離婚を望む。妻と別れたくないハモーンだが、彼の全行程に付される「腐った」音楽そのままの行動しかとれない。そのまま彼は急いで海岸に疾走したまま海で自殺する。そこでの死ぬ前の幻画はフェリーニのようで浮いているが、そのような幻画/幻覚は彼はいままでにも見てきた(ミツビシ、コニカ、マボロシのコトバ………)。先生に海中から救われる瞬間に映画は終わる。
 コスロウ・シャキバイの演じるハモーンのあらゆる小急ぎの速度の大集成、それらのせわしない動きの積み重ねと腐りつつある音楽との過剰な連動が駆動し続けたまま止まらない。
 
 
『SARA』(ダリウシュ・メールジュイ/1993年)
 俳優たちの眼力がいずれも凄い。それにもイランならではの理由がある。
イプセン戯曲『人形の家』翻案。
イランでは妻からの離婚請求はできない。男性映画監督がこの時期にこのような映画を撮れたこと。女性が泣いている姿をイランでフォーカスして撮ること。サラに出て行かれた後の旦那は繰り返し観るとあまりに無力だが、それは普段の男たちの発話との落差があまりに大きいからでは。
 道路上での女と男の口喧嘩のシーンは何度観ても異常で、最後の男の叫びは木霊する。
 サラの調理後の部屋の窓への寄りは恐怖映画のようだ。
 男たちの物を投げ放つような言葉の発し方たちの連鎖。風に静かに揺れる窓の前でひたすら怒りはじめるサラ。
 
 
『Leila』(ダリウシュ・メールジュイ/1997年)
 イランの若い夫婦。しかし子供に恵まれない。男の母親は一人息子にはなんとしても子が必要だと二人めの妻との結婚をしつこく画策し、男は二人めの妻を…なプロットも、妻レイラの聴く音の変化により二回めの結婚も一回めの結婚も共に無効になる。
 二人めの妻が階段を登る初めての夜のそこで生まれる醜くでかい音響とその後のレイラの聴く小さな風の音。その小さな風の音はその後ずっと鳴っているようで、それは男が子供を連れて現れた屋外の不自然な立ち止まりでも止むことはないようだが、そもそもは車で二回めの結婚の面談を繰り返すたびに車から降ろされ、また乗り、その後にその面談の様子を聞き出すというはてしない繰り返しの中から少しずつ鳴ってきたもので、レイラがその音を意識できなくてもそこここで鳴っていただろう。最後の子供と男を見つめるレイラの視線と表情の複雑さに上記の繰り返しのシンプルさは耐えられない。
 
 
『The Pear Tree』(ダリウシュ・メールジュイ/1998年)
 重ねてしつこいくらいに入るぼかし。しかしぼかしがなければこの映画はまったく成立しない。
 冒頭にマーモウにしつこく話しかける老人たちと半ば彼らを無視して過去を思い出すマーモウ。しかし過去は映画ではわかりやすくぼかしで、それもかなりしつこいぼかしの映像たちで必ずはじまる。そこには動く14歳のMがさまざまな挙動をする。
 マーモウとM。
 マーモウと梨の木。
 Mと梨の木。
 四人の幻影の学生たちが後半信じられないくらいの頻度で疑問をマーモウに次々に投げかけてくるが、彼らがいなければ梨の木の下のマーモウはもっと早く消えていただろう。
 ラスト15分ではぼかしの導入は頻繁になり時に省略されるが、大胆にぼかしと記憶の直接の関係のまま最後まで貫いた作品は少ない。
 ゴルシフタ・ファラファニが演じるMの存在感以上に、ハマヨウン・エルシャデによる大人になったマーモウの無数の無気力たち以上に、梨の木の庭と度重なるぼかしの映像たちが。
 多くの映画の過去の回想シーンの描き方の全体に疑問を投げた作品。映画で出された疑問たちにはこの映画の終わりでは答えられない。樹と人の対話ははじまりもせず、Mの死は樹の時間では意味はなくなる。