映画音楽急性増悪 第33回

今回の虹釜太郎さんの連載「映画音楽急性増悪」は若松孝二監督の膨大なフィルモグラフィーのなかから15作品の映画の音、音楽について。 

第三十三回 GoGo

 
 
文=虹釜太郎
 

 『壁の中の秘事』(1965年)
 1-5、1-7、2-11、2-10、2-14、2-17…
 ケロイドは僕の身体の一部。スターリンの画を前にケロイドの背中にじっと顔を乗せる出演女優のけだる過ぎる顔がずっと執拗に映される。ケロイドへの寄りに音声は林檎売り。団地妻たちの早回しの音声の再生と歯の接写。窃視続行者童貞浪人生が団地妻刺殺、それを報じる三面記事の映像で終わるあっけないラストは団地が舞台の『テロルの季節』の最後とあまりに違う。壁の中の自然。あの人の魅力ってなにかしらなんにもないわという独白のなか団地を歩く女。団地内での三人飲みの笑いの終わりの無さ。三百万映画の八つ当たり。
本作の公開前年が東京オリンピック。では次の東京オリンピックの翌年にはどんな映画が。
 未熟だからこそのチャンス…
 惰性の愛撫が延々と続く。わたし赤ちゃんがほしいと泣く女のすぐ後に続く「被害者の音楽」と不倫相手の男の吐く一時の情熱。そのすぐ後のサイレン音。
 被害者の音楽が全く別の音楽であったなら?
 映画とテレビの決定的違い。観客はたった一人でもいい。その一人に激しい一撃を与えること。
 
 
 『胎児が密猟する時』(1966年)
 自然とはなんだ? この犬どもが。
 『やわ肌無宿 男殺し女殺し』でも目立った飯喰らいのシーンの強烈さ。腹を空かし過ぎた女に飯のかけらを与える。女はかけらに喰らいつく。本作では監禁している女の飯喰らいを見つめる男がいる。その後に蘇る出ていった前妻の記憶。前妻は何度も言う。人権蹂躙よ。何が怖いの? わたしは産みますからね。
 自然とはなに?
 不意の不可解さの発見。
 出生を呪った句の引用が連なる。
 ナレーションの「大谷義明」。脚本、音楽も「大谷義明」。本作の高らかに不穏に明るい音楽と男一人女一人。幼態のまま成熟してしまったウパは殺される。子供が産まれることが祝福できない五十五年後の日本。
 死との対話。それを計る機会の極限状況。自然とはなんだ?
 
 
 『犯された白衣』(1967年)
 『続日本暴行暗黒史 暴虐魔』と同時に撮影が。五体並ぶ死体の配置があまりにもだけれど、まず最初に婦寮に少年を導き入れる導入が場当たりで、しかしこのような殺人現場がなければ一生はっきりしなかった少女の存在。メインは少年と少女の対話で、犯人リチャード・スペックによる婦寮大量殺人事件がモデルになっているかもだが、『実録・連合赤軍あさま山荘』のようにはならず、ひたすら二人が対話して、少女、坂本道子名義の夏純子ならではの少女と話し合い、最後は彼女の膝で眠る少年…しかし少女は消えていて、夏純子のような少女は存在しなかったとなれば…
  本作が公開されたのは日本では当時、アートシアター新宿文化。それのみ。アートシアター新宿文化は1974年に閉館する。
 複数の女たちと対論する映画の映画祭があれば。唐十郎と夏純子でなければ成立が困難、それだけ二人の醸し出す言外の雰囲気が貴重で撮影期間のあまりの短さは気にならない。
 婦寮に突入する際の音。そこに重ねられるニュース他の音たち。
 
 
 『日本暴行暗黒史 異常者の血』(1967年)
 何世代も貫く異常者の血とは。少女連続強姦事件犯人を逮捕した警視庁刑事は犯人が自分と同郷だと知り、犯罪者の血が自分にもあるのでは…というたどりのはじまり。喫茶店で知り合った女たちを手当たり次第に犯している青年たちの逮捕をきっかけに直視することになった汚れた血とは…
 
 ゲンシチ–ヨイチ–ヨキチ&ヨシコ–わたし–ヨシオ
 
 ゲンシチによる強姦シーンの音楽と最後の妻との交接時の音楽のアンバランス、ヨイチによる強姦殺人シーンの音響とその後の音楽のアンバランス、昭和初年の音楽とヨキチとヨシコによる悲しい交接時の音楽のアンバランス…
 わたしの発砲によるヨシオの死により映画は終わるが、存在しない汚れた血と上記のアンバランスたちはフィルムに残された。
 
 
 『復讐鬼』(1968年)
 お兄ちゃーん助けてえお兄ちゃーん助けてえお兄ちゃーん助けてえと連呼される兄の瞳と妹を犯した村人たちの顔顔顔。
 侵入した家の音響として入る鶏の声のなか静かに殺す。一人一人殺してゆくが、殺される村人たちは助けてくれえしか叫ばない。その殺しの映像の合間に入る像は、かなり遠景からの映しと眼球のアップが交互に。そして殺しの合間に妹が犯され、兄が殴打される映像が繰り返される。肺病の部落の差別の原因を一身に追わされるだけでなく犯され殴られ続ける。犯され殴られる現場も復讐の殺しの現場も遠景が多いため、壮絶さがありえないほどにのどかになり続けるが、それを兄の強過ぎる眼差しが断つ。あとは同じことの繰り返し。
 草叢から聞こえてくるまぐわいの音。『復讐鬼』ではそれを睨む強過ぎる眼球が、『13人暴行連続魔』ではそれにはっと条件反射する眼球が。二作の眼球の違い。
 仮祝言を強制する兄。遠慮はいらん、やれえっと叫ぶ兄。殺すだけではなくそのように詰問もするが、その後すぐ殺す。
 兄による殺戮復讐が進行しているのに、まだ妹を殺すのは惜しいなあなどと話しあっている村人たちにかかる音楽は後戻りのできないもので、しかしすぐに止まってしまう音楽の残酷さ。そうして兄の殺戮は続く。
 
 
 『処女ゲバゲバ』(1969年)
 バカ軽快過ぎる音楽と人工風が交互に入るなか、後ろ手を縛られた半裸の男女のアホな会話が延々と続くが、ハナコは全裸で十字架に。とにかく裸で十字架にはりつけられたハナコが入る映像とボスのお情け(今日一日ホシはボスと呼ばれる)が重ねてバカらしいなか、テント内に入る女のアホ声と出口出の脚本がすばらしいがなんせ出口出なので誰が書いたかはわからないが大和屋竺。
 尻尾だ! 尻尾で締め殺したんだ! てなアホ声が響いてテントを脱出したホシを追跡するが、逃げるホシの姿がまた必要を激しく超えてアホくさく。一人になったハナコとホシの全裸での振り向きあいに延々と付き合う音楽に状況音は一切省かれそして尻尾が…というホシの夢もバカらしく、起きて女の下着を羽織りながら虚仮脚本路を放浪するホシのいる荒野…こんなに音楽を虚仮にした西部劇は観たことがない。でも別に西部劇ではなく、内ゲバ映画でもなく、いまこんな映画を撮る集団はいないが、後の連合赤軍映画と観比べると、袋からダブるホシの景色は力強い。
 
 
 『やわ肌無宿 男殺し女殺し』(1969年)
 山下洋輔の音楽があまりにもサスペンス映画しているけれど拷問時の音響や飯喰らいのシーンの不自然さなどが異響。温泉宿でのアケミ以外の女たちの行動が特に何も無いが存在感あり浮いている。途中カラーになる理由が謎。カラーシーンにはいずれもアケミが裸でいる。最後までメリケン粉。
 シャブ中にさせられた昔の恋人との再会直後のシーンの切り替わり。昔の恋人との記憶が何度も繰り返されない映画なので、記憶の断絶が伴う多重性同一性障害者としての被拷問者たる主人公の可能性がどのくらいあったのか。
 
 
 『現代性犯罪絶叫編 理由なき暴行』(1969年)
 網走番外地までそんなとこまで行くわけないさー行くさあ…と理由なき放浪。脚本は毎度のごとく出口出だが本作では主役出演三人が書いたらしい。いきなり男に無理やり強姦させるはじまりに説得力はなく、強姦写真を配りあい、週刊誌の朗読を聞かせあうシーンが新鮮ながらも、覗きのシーンやモデル宅への侵入シーンもラストの警官殺しも繋がりもひどい。が素人の脚本をそのまま撮る。共に狭い一室で暮らす三人が部屋内だけでなく外出先でも一緒な異常だけれど、三人のうち浪人生の理由なさが突出して、彼の駅での自殺も描かれず、工員の改造拳銃破裂死も描かれず。説得力のない三人の同居生活が観終わった後にまた観たくなり、観る度にリズムの悪さにぐったりし、覗きのシーンの困難さが彼らの短い同居生活をまた長くする。
 
 
 『ゆけゆけ二度目の処女』(1969年)
 秋山未知汚、風雅超邪丸、花村亜流芽といった名が揃う本作。迷宮世界によりつけられた音楽たちは丁寧に暗さと明るさが同居し続け、輪犯された屋上でまだ生きてますからと再出発し、屋上から見る地上たちにはどれも温度感がない。"ゆけゆけ二度目の処女遠まわりでも明るい舗道をゆけゆけ二度目の処女、愛の悦び恋のニトログリセリン八月四日朝、私はまだ生きてます・・・おはよう!   目覚める目覚めない目覚めるとき目覚めれば目覚める目覚めろ目覚めよママ僕出かける僕のおまわり殺しに僕のみんなを殺しに僕が作ったブラックリストよ帝王切開される地図NO SEE YOU AGAIN"というコピーでは映画内でのツキオの独白は全くわからない原宿セントラルアパートの屋上だけを舞台にした屋上映画。屋上に干される洗濯物と吹く風たちに叫ぶ女の声も全く続かず、しかしひたすら流れる音楽とわたしは悲しくもなんともありません! と屋上で小桜ミミは繰り返すが、場所はずっと屋上。屋上に突然降り出す雨の中での会話の途中にもしつこく音楽が入るけれど、その中での男女の会話は向かい合ってはおらず、その直後の階段を降りる際のつぶやきの音楽たちは唐突に停止する。その直後にはじまる目覚める目覚めるまた目覚める…という詩の台詞を繰り返しはじめるツキオとポッポの会話は「まだ死にたい?」から「殺せる?」が当たり前に繋がる。屋上での大量殺人後の底抜けに調子外れで明るい声のポッポの「早く殺してよォ」の度重なるジャンプとビンタのラッキーセブンが世界でも稀な屋上映画。ああまた朝が来てしまい。
 
 
 『テロルの季節』(1969年)
 東久留米の団地が舞台らしいがどの地域の団地でも元活動家たちは暮らしているだろうか。暴力はラスト5秒で、それ以外はすべて盗聴する者とされる者が交互に。訪問者今井以外は暴力はない。ただラスト間近に女二人が朝食時に赤ちゃんをほしいと言い出した時に男は初めて怒鳴る。男一人女二人によるあらゆる沙汰。それらは公安をバカにしているが本人たちは盗聴には気づいていない。市民徹底監査映画としての『スキャナー・ダークリー』と観比べても、盗聴する者をここまでバカにした描写はすさまじく、またごろにゃんの腰使いにも笑ってしまう。江島裕子と佐原智美の二人が作る密室内での動きのなかで男の身体を拭く動作たちが幾度も繰り返されるがそれらは何度観てもとても速い。そして本作での団地内の密室は既に密室でない。本作唯一のカラー画面は日米二国旗と男一人女二人による様々な交接の重なり。この映画世界ではたった一人の男により日米安保条約延長交渉阻止はかなったのか。
 
 
『新宿フーテン娘 乱行パーティー』(別タイトル『新宿マッド』/1970年)
 冒頭の16カットいずれも死体だらけ。
 素朴の集合体の音を見つけてくる秋山未痴汚。音楽がフード・ブレイン。
 殺人者の立場の映画は多かったが、被害者の遺族が主人公のは多くはない。
 殺された息子の謎を追う父親。少年1、2、3、少女1、2、3…
 倅はなんで殺されたんだ…からはじまる追跡だが、殺された息子の部屋ではトロけた若者が一服していて犬死です、彼もまた神の子ハリジャンだったのですとだけトロトロ言うと眠ってしまう。アンパン集団への突っ込み調査に立ちはだかる衆の衆っぷりが若松映画のなかでももっとも衆な。
 追跡の途中、なにも売らなくたってなにも買わなくたって生きていけるのさという若者に出会う。なにも売らなくたってなにも買わなくたって生きていける?
なにも売れるものがないからわたしの身体を売っているという女の家に泊まり、警察とはなにか? の問いを無意識に立てる被害者女性の家に泊まりながら追跡は続く。若松は新宿は差別しない街とかつて語ったが、追跡中に映る新宿地下道は既に映画とは違い道脇は滞留できないように東京都によって改造されている。
 新宿マッドから電話がいきなりかかってくる。
 新宿マッドたちと出会う。そこでの会話ならぬ会話は映画ならではで可能で、そしてリンチを受けた父親の逆襲と裸にされた女の救出も映画でしか。父親が戻る先は?
 道端の通行人の撮影が観る度につらい。もっと立派なことをやってるのかと思ってたが違っていたし、今まで何もしなかったワシが悪いんだという反省群が映画を観た人にどのくらい伝わるのかわからないまま、父親が戻る先は…
 
 
『秘花』(1971年)
 タイトル前の四分間の映像と音響はどうとでもとらえられる。
 死ぬには理由がいるのよ、あたしこのままでは死ねないとやりまくる。なにもかも納得してから死にたいわ。そして海に毎日来ている喪服を着た女がまた今日も現れる。
 あなたのことも死ぬってこともわからないのよー教えてええと連れは叫ぶ。
 喪服女の回想が繰り返されるが、その繰り返しに流れる初夏の音楽は常に同じで繰り返されるにつれて違和感が強くなってゆく。
 廃船で心中を止める喪服女と若い女との会話にならない会話。
どうにもならない心中未満のなかひたすら風が吹いている。
 やり直しの無理のなか無理やりはじまる音楽もいきなり止まり、また回想がはじまる。
 廃船は燃えて喪服女は叫んで映画は終わるが、冒頭の四分は終わらない。
  同じ1971年の映画として足立正夫監督の『噴出祈願十五代の売春婦』『赤軍P.F.L.P 世界戦争宣言』があるが、『噴出祈願 十五代の売春婦』では十五歳がどう命を絶つべきか、感傷と夢のひとかけらもなくどうこの世とおさらばすべきか、幸せでなくてもお荷物が重くてもいいのです、はないちもんめ割らない割れない風船にもんめさんもんめとためらいながらも主人公四人の疑問と実験は執拗に続くが、そこに流れ続ける初夏の音楽はかなりしつこく四人たちの疑問を追う。本作での初夏の音楽とギターの即興の末長い葛藤の続行は主人公たちの疑問をさらに薄く広げに広げ彼らの身体から遠ざかり続ける。
 『秘花』が『狂走情死考』後日談かどうかは別として、冒頭の強度があまりにも強く映画が終わっても若い二人が海岸を去っても映画は終わらないようだ。
 
 
 『天使の恍惚』(1972年)
 秋軍団の小童(土曜日)の存在が際立っていて、活動費用稼ぎに女どもに下半身を脱がされながらも断固抵抗、スパイを演じるのに定期的に会わねばならない秋にも断然抵抗で服を脱がすもなにもしない、そんな小童が観ていて鬱陶しくて仕方ないがキャスティングがすばらしいのか、最後まで小童のいつでも断然抵抗と金曜日(クラブ歌手)の目線のすべてが印象的。
 本気で孤立出来る奴、自分の身体だけで闘える奴、個的な闘いを個的に闘える本気の奴らが十月組なんだ! 孤立した精鋭こそが世界を…とのことだが最初から最後まで秋軍団のトップの秋の存在が薄い。相容れぬ土曜日と金曜日が同居するグループ。背中あわせでの自慰行為は失明後の十月と金曜日によるが、金曜日はここでも過剰に自慰し、また過剰に唄う。金曜日の目と土曜日の股間。しかし監視カメラだらけの現在、爆弾設置はできない、ならばなにができるのか。
 部屋のチャイムが鳴りすぎる映画だけれど、悲鳴などの多くは音だけで、予算がなくても音がある(どうか音製作のギャラを…)。
 
 
 『13人連続暴行魔』(1978年)
 ハーモニカ(捜索)、ギター(遂行)、サックス(◯◯)。◯◯は事後かもしれないが、犯人は38分にサックス奏者に路上で出遭ってしまう。がしかし◯◯は事後だろう。犯人の最後の死に様が捜査類を一切合切排除したもの。
 何度観てもサックスが入るシーンに違和感があるため、あるとき試しにサックスが入るシーンをすべて無音にして観てみた。するとギターの遂行以外の強度がひたすらに増し、犯人の行動群はよりさらに残虐になった。その後にまたサックス入りのオリジナルを観ると、サックスの音があまりにいろんな不遇を処置しているかがはっきりと。
 犯人を演じた馬津天三は『聖少女拷問』(1980年)に出演。
 女と男たちはさまざまな場所で殺されるが、事後のサックスによる処置があまりにも強過ぎる。
 捜査状況を伝える音声があまりに無力であり、川を渡る船も離陸する飛行機もあまりに無関係で、改造銃が撃たれるアパートの扉群もあまりに無関心だが、サックスだけが、その処置力がすさまじく。それは困る。その音は映画自体を破壊しているようだが、破壊されても砕けないくらい最初からばらばらな映画。しかし最後に犯される盲目の少女だけが砕けない、わけでもなく消えてしまっている。
 ハーモニカ(青)、ギター(灰、黄)、サックス(赤、橙)…そして犯人の上着はピンクから白に。
 
 
 『17歳の風景 少年は何を見たのか』(2004年)
 俺たちみんな奴隷にされるべく産み落とされたんだよなとラーメン食べながら母親を殺した少年について話しあう高校生たち。しかしそのラーメン屋内の照明やその前にたっぷりかかる音楽がかなり不自然で、気負い顔も当然不自然なまま北上を続ける青年。友川かずきのあの音楽が冒頭に来てしまうことでの不利。それらの不自然たちは、何でこんなに静かなんだ、私たちは単にここにいるだけだ、今ここにいるのは一瞬のこと…といった文字列の不自然と吐息群の別の不自然によって朗読とチャリ疾走での風景の連続がはじまる。追いつかれるのに走っても無駄だという文字列と自転車が出会う色で十分なはずがすぐに音楽が邪魔をする。なので音楽部分をすべて消して観る。そんなボタンはない。針生一郎の長い話の導入、この話にかかる音楽はどうなのだろうかだけれど、この不自然にかぶさる吐息と疾走、そのかぶさりの不自然がさらに違和感を残す。針生一郎は『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』(大浦信行/2005年)にも出演。青年が逃走の過程で出会う者たちのなかの犠牲者たちと加害者である自分。逃げ走る中で遭遇する日本という場に積まれたままの問題。若松孝二について超自然にも神秘にも魔的なものに感受性がはたらかないということが言われたりもしたが、まず走ってみるということの実践のなかからはじまることとうまくいかないことも含めて後にあきらかになることども。針生一郎の話と自転車の疾走があまりに長いあいだ続くことで招来される時間軸の無効。しかし友川かずきの唄声はその後何度も流れる。足をくじいた老婆の唄声もでかく長く流れ続ける。