映画川 『EUREKA/ユリイカ』デジタル・マスター完全版

5月13日からテアトル新宿で青山真治監督の代表作のひとつ、『EUREKA/ユリイカ』デジタル・マスター完全版(2000)が公開中です。青山監督の映画『サッド ヴァケイション』(07)、『共喰い』(12)、ドラマ『贖罪の共鳴曲』(15)で助監督を務めた是安祐さんが、久しぶりに本作をスクリーンで観て再発見したことや、公開当時の2001年に青山監督が語っていた”情緒”というタームをもとに再考したことを綴られています。
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“E-Motion Pictures”――21年目の啓示=Eureka


 
文=是安 祐

 
2006年秋、北九州
 
既に全体スケジュールの折り返しを過ぎ、この組らしい恒常的な緊張感に包まれつつ、淡々と緩やかに重厚なシーンの撮影が進んでく中、その日ばかりはどこかしら普段と異なる空気が漂っていた。段取りの大変な大きな仕掛けがある訳でもなく、比較的登場人物の多いこの作品でも、そのシーンは三人だけである。
 
“永らく離れていた一人と、行方を追って来た二人が再開する”
ただ、それだけのシーンである。
 
物語の中では6年、その6年前を実際に撮影したのは7年前のこと。
その頃でさえ珍しくなっていたスタッフがレギュラー化している数少ない組の一つとはいえ、7年前の現場からはだいぶ代替わりが進み、以前の現場を経験しているスタッフの方が少ない状態だった筈だ。但し、そのシーンがどういう意味を持つのか、おそらくは参加していたスタッフは全員が強く、はっきりと理解していたように思う。
 
一棟丸ごと建て込んだロケセットである運送会社事務所の表、駐車場スペースに移動撮影用のレールが引かれる。
皆、それぞれに思うことはあれど、浮き足立った雰囲気などには一切ならずに淡々と準備が進む。
ワンカットだ。テストはしただろうか。この頃この組は段取りテスト(カメラなどをセッティングする前にスタッフ・俳優に構想を説明する目的でシーン全体の芝居・動きを確認すること――テレビドラマのドライに近い)を殆ど行わなかった。もしかしたら、このシーンは立ち位置や移動車の確認だけしてテストはせずに本番だったかもしれない。
 
三人の俳優が、一人と二人に別れてそれぞれのスタート位置につく。
監督は平静を装ってはいるが若干ニヤついていたように記憶している。
こちらは他のカットの時と同じようにカメラの邪魔にならずに芝居が見られる位置に下がる。
 
カメラは最初、無人の事務所の中を捉え、電話の音が鳴りすぐに喪服替わりのスーツ姿のその女(ひと)が電話を取る。不穏なやり取りを気丈にこなし受話器を置いた後、後ろ姿で窺い知れなかったが電話の内容から翳っていたであろう顔をふと事務所の表へ向ける。ついひと間前の不安げな顔が緩み、観ている側は物語の中でその女がこんな柔らかな表情をしていた瞬間があっただろうかと感ずる。すぐに戸外に出て来たその女は視線の先を確認するように歩みを止め、急に踵を返して事務所の中に戻る。横移動でその女をフォローしていたカメラは事務所に戻った彼女の動きと逆の方向へパンする。二人の男たちがフレームに入ってくる。一人はパーカにチェックのシャツ、一人は作業着だ。その女を探しに来た筈なのにいざ目の前にいることが信じられないかのように呆然と佇んでいる。再び、その女がフレームに入って来て両手に持った麦茶のグラスを二人に差し出す。二人はそれぞれ一気に飲み干し、彼女に返す。そこまで台詞はない。
 
カメラの後ろで見守る自分の膝が意識せずに少し震えてくるのが分かる。
芝居の内容も台詞も台本に書いてあるとおりだから勿論事前に知ってはいる。
それでも、組んだ腕に不必要な力を込めずには居られない。
 
彼らの映画の中での6年間が、自分が経験した訳でもない実時間の7年間に流れ込んでくる。
数分のワンカットが、あの3時間37分を呼び起こす。
 
 
2022年5月、新宿
 
初日には来られなかったが、若い観客で盛況のテアトル新宿。
入り口で『共喰い』のキャメラマン今井さんに会う。
2001年の公開の時のことは流石に記憶が朧げだ。
覚えているのはその頃、この映画館には邦画をよく観に来ていたということ。
 
「冷静になんか観られる訳がないので」、と誰にエクスキューズする必要もないのに「さ、どのくらい細部を覚えているか、今日は音を中心に聞くか」などと無駄な強がりを独り言ちながら席に着く。
 
監督が急逝されてから暫くは何も手がつかなかったのを、今度の上映の発表をきっかけに少しずつ公開当時の評などを捲り始めた。当時、邦画としては極めて異例なほど多方面からのアプローチで批評や特集が発表されたが、自分としては当時から最も気になっていたのは、バカみたいに単純な話だが「傑作には違いないが、何故、こんなにも圧倒的なのか」という謎であり、そのことに注視した議論がなされていたのは唯一雑誌「ユリイカ」(2001年2月号)上での黒沢さんとの対談だったように思う。ここで黒沢さんは執拗に「何故3時間37分飽きないのか」を青山さんに対し問い詰め(同時期に刊行された「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の評でもほぼその事にのみ言及している)、青山さんはその詰問に対し“情緒”というタームを提出する。ほぼ20年前に読んだ時は、「ほー、分かるようで全く分からん」と半ば放り投げていたのだが、今度の再見の前に妙に気になっていた。今から思い起こすと、実に黒沢さんらしい問いの立て方と、返す青山さんも黒沢さん相手だからこそ手の内を晒すような珍しい発言だが、自身もそれ以前から後に至るまで多くの批評や対談鼎談類を残す中で、この“情緒”というタームが再び現れることはほぼ全く無かったのではないだろうか。
 
記憶が鮮やかな内に、“21年ぶりの再確認と新たな発見=情緒の謎を探る道程”を辿っていってみよう。(未見の方には幾つかの具体的なショットに言及することをお断りしておく)。
 
改めて、冒頭から寓意に溢れた練りに練った構成と技術に舌を巻く。
数分でこちらに「どんなだったかなぁ」などと一切余裕が無くなっていることに気がつかされる。
 
まず、初めは音だった。
 
蝉を中心とした幾重にも重ねられた真夏の虫の音と、バスの“声色”のようにカットごとに変えられた走行音。それらがシンクロの動作音と交じり合って、つい「サイレント映画のような」と言いたくなるセピアトーンの画面の連なりに何とも言いようのない奥行きを与える。それぞれの音の距離感を俄かには計りかねる感じといえば良いだろうか。
 
主人公である沢井(役所広司)がきちんと映るのは、最初のカットからおそらく5分弱くらい経過してから、カットにして14~15カットほど費やしてからである。それも、本人へポンと入らずに利重剛扮する犯人の男をバスのフロントガラス越しに捉えてそのままパンする形で見せる。
そして、2カット目にこの主人公が映るのが、なんと一気にすっ飛ばして惨劇の最中に車中で震えているショットなのだ。
繰り返す。主人公が最初のカットで数秒運転している様があった後、次はいきなり惨劇の最中である。普通に考えるとかなり大胆なショット構成であることは間違いない。
 
そして、利重剛扮する犯人がバスに乗車してくるカット、フロント向けの画で、バス停に並んでいた乗客たちの奥、数メートル離れた生垣のような場所にその男が腰を掛けていたことに初めて気がつく。
 
程なくして、あの広い空間を150度ほど使用したダイナミックなクレーンショットになる。このショットでの演出部の働き(パンに合わせた警察車両のタイミング、停め位置の配置、警官エキストラたちの動きのディレクション等々)も何度見ても非常に見事だ。
 
実は台詞らしい台詞が初めて聞こえるのはこのクレーンショットで松重豊扮する刑事含め警官たちが集合する俯瞰の引きの画であり、それまで6~7分は台詞がない。サイレント的な割りというよりも、「台詞も音楽も無いこと」が全く気にならないような周到なカット割と編集、音響処理が成されている。のちに言葉を失くす兄妹のバス内でのやり取りも、あたかも最初から失語であることが最も自然な状態のように、会話なしで最後部に腰掛けた妹が兄のために腰をずらすくだりや兄が『AKIRA』を読んでいるくだり、妹が兄に促され降車ボタンを押すくだりがある。
 
犯人がバスの外へ出る直前で、記憶からすっかり抜け落ちていた「足をブラブラさせる」仕草が気になる。この仕草は後に意外な箇所にも通じることが明らかに。
 
ロバート・アルドリッチ『合衆国最後の日』シークエンスのショット構成は記憶よりもずっとカット数が少なく、よく考えてみればこの作品の尺の長さに比して非常に短い撮影日数だったと聞く撮影現場で、必要最低限かつ充分な割りを模索していたのは想像に難くない。
初めての音楽(但し効果音的な使い方)が鳴り始める車外のカットから犯人が撃たれるまで少なくとも17~18ショット以上あったように記憶していたのが、なんとたった12のショットで構成されていた。余りに上手い。
そしてこの惨劇のくだりで、この映画でその後殆ど出てこないオーバーラップが使用されていたこともすっかり記憶から抜け落ちていた。
 
安寿と厨子王の男女を交換したような兄妹のテレパシー会話が始まったときに、先日観た『アネット』の人形を思い起こした。つまり、明らかにフィクショナルな要素がいきなり強まることに(ここではトラウマ云々という議論はさておく)観客はどれだけ置いて行かれずに済むだろうか、ということである。ここにも周到な仕掛けがある。先述したように冒頭のバスのくだりでも「あたかも最初から失語の状態であり、それでなんら困らない」かのような兄妹の様子が描写されていた。逆にいえば、この最初のテレパシー会話のくだりは、わざとシンクロの会話として構成していないだけで、この二人は画面の外では普通に声に出して会話しているのだ、という風にも見えるようになっている。“寓意”をそれ自体ゴロンと生の状態で差し出すのではなく、丁寧に細かく仕掛けを積み重ねることにより、観客がそのファンタジーめいた要素を驚くほど自然に受け入れられるようになっている。
ちなみにこのテレパシー会話、記憶では何度も出てくるように勘違いしていたが、実のところ、序盤・中盤・終盤と三回しか出てこない。
 
実家に舞い戻った沢井が狭い自室の窓外を眺めながら電灯を明滅させるくだり。全体に実家の場面では、複数の異なるシーンでカメラの位置が同一というショットの仕掛けが何度か施されるが、この窓外を見せるさりげないショットは後に大きな結節点となることが明らかになる。
溶暗でシーンを終わらせて数秒ブラックアウトさせるのもこの後に再び出てくる。
 
茂雄(光石研)のいる土木会社での最初の勤務日の夜、徒歩で帰宅する沢井の姿に初めて(惨劇の最中のリズム音楽を除けば)劇伴らしい劇伴が被さる。おそらく30分は優に超えている時点だろうか。公開当時の評に「音楽が多すぎる」というニュアンスのものが散見されたが、実はここまで引っ張っていたのだ。むしろ「音楽が少ない」ことに改めて瞠目すべきかもしれない。
 
そのギターによる劇伴が、モンタージュっぽい緩やかな繋がりで二度目の土木現場まで流れ、帰りの道中でハイエースが沢井の乗車していた路線バスとすれ違うのを引きの画で見せる。
この「路線バス」がサブリミナル的にこの後頻出することになる。
 
いつもの居間で通り魔事件の話を聞き、自室に戻った沢井が、ほぼ何もない真っ暗な窓外に目をやるショット、今度は一度目と違い窓外の風景からカメラが少しずつ引いていくと、外を見ている沢井の後ろ頭が見え、初見の時には表情を見せない演出と思っていたのが、顔の左半分のみが電灯の写りで窓に朧げに反射し、そこでの沢井の眼が既にしてその後の展開を予感させるような昏い眼をしていたことに気づく。
 
そして、今回の再見で作劇上最も驚いた、というか「こんなことまで見逃していたのか」と愕然としたくだりになる。土木現場への道中で茂雄が沢井に兄妹の住む丘の上のログハウスを説明する場面である。シーンそれ自体は、沢井の見た目でログハウスが近づくと一瞬無音になるサウンドデザインも含めもちろん覚えている。台詞の内容もほぼ一語一句記憶のままだ。何に愕然としたかと言うと、「茂雄がきっかけをつくった」というその当たり前すぎる事実である。いや、いずれは兄妹の存在を知り、結果的にあのログハウスに辿り着いていたのかもしれない。但し、あのタイミングでなければその後があのような道行きには決してならない。
少し先に飛ぶと、例の「別のバス」も、実は茂雄がユンボの操縦の仕方を沢井に教えたのがきっかけとなる。つまり、この物語を駆動させる作劇上のアクセルは、あの常に沢井の傍に空気のようにあろうとした朋輩の茂雄によるものだったのだ。茂雄自身は背中を押すようなことは寧ろ嫌がりながらも、おそらくは自身の振る舞いが沢井たちの運命に影響したことを知っていたのだろう、後に出てくる「別のバス」の再出発のくだりでの茂雄の何とも言えない表情も今なら全て合点がゆく。
 
続く土木事務所の事務員である圭子(椎名英姫)を自宅に送るシーン。この後も何度か出てくる「返しのショットがない」構成が妙に引っかかる。自宅の前で誘われるが固辞する沢井に軽くキスをして去るくだりだが、ここで沢井側を見せなかったのは何故か。
 
誰の記憶にも強く残る天気雨のくだりが過ぎ、夕方から自室で無為に窓外を眺めたまま時間が経過し、夜になるとそれまで一度も映らなかった路線バスがそこから見えていたことに観客は初めて気づかされる。沢井は毎晩それを見ていたのか、とこの時点で知らされ、観る者に動揺が走る。と、次の瞬間カットはフィックスに引かれて階下から兄の声がかかる。この構成も、その「動揺」を「動揺」として引っ張らないギリギリのところでカットを繋いでいる。
 
自ら実家を出て自転車でログハウスに向かうと、先述の通り一瞬状況音が消える。
ちなみにこのログハウス、つい先ごろ美術デザイナーの清水さんから聞いたのだが、あの映画で映る側はなんと家の裏側だったそう。言われてみれば妙なつくりだが、あの家をあのように写すのに根本から創意が潜んでいたのは嬉しい驚きであった。
 
舞台がログハウスに移ると、少しずつ劇伴や効果音が多くなってくる。それに呼応するように、再び蝉をはじめとした幾重にも重ねられた虫の音を基調とする映画冒頭のサウンドデザインが戻ってくる。
 
ちょうど60分ほど経っただろうか、秋彦(斉藤陽一郎)が登場すると当然のことながら台詞量が増え、「別のバス」が登場する前に、すでにして第二章が始まった感があり、カット割りと編集も明らかに変質してくる。
 
青山さん言うところの “見た目ユートピア”が始まったかに見え程なくして、あのサンダルのショットになる。雑誌「ユリイカ」での黒沢さんとの対談で“情緒”というタームを最初に出して来た時にこのショットを引き合いにしている。少し引用してみる。
 
「「情緒」は物語を語る上でありなんだ、と。ここでこれを10秒でやってしまうことと、約一分かけてサンダルが流れてきて「あっ」と人間が見ている間に何か感じてくるもの、その違いが「情緒」なんだと。但しこの「情緒」を情緒として捉えされるためには前提が山ほど必要なんです。むしろこの前提を積み重ねていくことによって、尺が伸びている。もし別の語り方をしていれば、この映画そのものは当然短くなっている。でもこの語り方を選択して、こういうあり方を続けていくならば、このカットはこうならざるを得ない」
 
これに関してはもはや語ることも無いと思ってスクリーンに身を任そうとしていたら、川面に映る橋の上を渡る車の列になんと路線バスが通過するではないか。あれは狙ったのか、サンダルそれ自体の動きと同様に偶然に映り込んだのか。後に出てくる博多での弓子(国生さゆり)とのシーンの終わりで、上層階の喫茶店から独り博多の街を見下ろすショットの中にもさりげなくバスが通りすぎるのが映っていた。あれらはどのくらい意図的だったのだろうか。
 
松重豊扮する刑事との尋問のくだりでは、自分がその後に参加した『サッド ヴァケイション』『共喰い』『贖罪の奏鳴曲』という三作品に共通してあった「面会室」の描写を想起する。ここは小机を挟んだ刑事と参考人という設定だが、憶測に過ぎないが青山さんはこうした「尋問」や「面会」の設定に異様なまでの興味を抱いていたのではなかろうか。前述の三作品でもそれぞれ趣向を凝らしたこちらの予想を遥かに上回るカット割りをしていた。
 
ここでも忘れていたことが一つ。
沢井を問い詰める刑事が途中でやおら手に持ったボールペンをコツコツと小机に打ちつける。脚本にはどう書いてあったのだろう、普通に考えると台詞に干渉してしまうので即興ではなく演出として指定されていたように思う。これは沢井が最初に実家の自室でドタっドタっと足を
床に打ちつける芝居もそうだ。後に出てくる名高い「コンコン」が既にして様々な形で変奏されていたことに今更ながら気づく。
 
沢井が一晩勾留されて帰宅し、パジャマ姿の秋彦に責められるくだり。ここでもベッドに腰掛ける沢井の「返し」のカットがない。撮影時からそうだったのか、編集で切ったのか。この所謂「背中で語らせる」でも何でもなく、切り返しを用いない手法は、例の“情緒”のメカニズムに関係があるのだろうか。
 
そして、更なる再発見。
以前に観たときも朧げながら違和感を感じていたが、秋彦のゴルフスイングの音をきっかけに直樹(宮﨑将)の精神に狂いが生じてくるあのくだり。直後の窓辺に立つ梢(宮﨑あおい)と、草むらの中の直樹は該当シーンの衣裳ではないのだ。つまりは時間軸的には繋がっていないシーンを編集で入れ替えたことになる。DVDなどで確かめた訳ではないので確実なことは言えないが、窓辺に立って直樹とテレパシーを交わす梢の格好は、もっと前の秋彦が勉強の課題を出すくだりの衣裳ではなかっただろうか。いずれにせよ、この中盤で唯一出てくるテレパシーのくだりをこの位置に置いたことで、第一部(「別のバス」出発前)に流れる“情緒”の時間にまたもや違うリズムが生じてくる。モノクロに近いセピアトーンとはいえ、かなり大胆な作為である。
 
博多での弓子とのシーンは、もちろんエモーショナルな喚起力の強いシーンであることに変わりはなかったが、ここでも記憶よりカット数が少ない。テーブルに向かい合わせのカットバックはサイズとポジション違いを二回切り返しているかと思い込んでいたが、弓子側も沢井側もおそらくはカメラは同じセットアップ(ジブ&レール)で、田村さんが緩やかに芝居を捉えるのを幾つかテイク違いを繋いでいるのではないだろうか。
また、誰の脳裏にも強く焼きつく二人の別れ際のくだり、ほぼ一語一句覚えている二人の台詞が終わり、弓子が沢井の左腕を強く握りしめたのを離した直後、聞こえるか聞こえないかくらいの声で何かを一言口にし、沢井が頷くのである。ノーマルな考え方であれば音の仕上げで音量を持ち上げるかそこだけアフレコするか、何れにしても劇場のスピーカーでも聞き取れぬほどの微かな一言だった。あれは単に「バイバイ」という口の動きにも見えたが何と言っていたのだろう。
 
そして、そんなシーンがあったことさえ丸々記憶から抜けていたが、博多からの帰り道であろう夜の電車内、シートからだらしなく伸びた足がブラブラしている様のみを捉えた短いシーン。「あっ」と声が出そうになったのは、バスジャック犯の車外へ出る直前の「足ブラブラ」と、
土木事務所の表で圭子が沢井に思わせぶりな仕草をする「足ブラブラ」が、それら自体は意味の繋がりなどないままに(ある意味いま話題の)「ショットの連鎖」として立ち現れてきたからである。
 
茂雄がユンボの操縦を手ほどきしたことをきっかけに「別のバス」という語が口にされ、直樹が梢に手を出してしまうくだりになる。先述の「違う衣裳のシーンを置き所を変えて繋げた」ことにより、ベッドサイドで沢井にしがみつく梢の姿に、既にして梢は全て知っていたのではという気にもなり、だからこそ沢井が「別のバス」を家の前に乗り付けた折、一笑に伏そうとした秋彦をよそに、そのバスへ真っ直ぐに向かったのではなかろうかとも思う。このリビングでアルバート・アイラーが鳴るところから玄関先でのバスの登場、次のカットで皆が順々にバスに乗り込むカットはいずれも人物の動きと芝居の情感、それを捉えるカメラの動きがとにかく素晴らしい。このくだりだけでも現代日本映画の最高峰の技術だと信ずる。
そして、これも初見の時には気がつかなかったが、この辺りから蝉の鳴き声を中心とした夏のサウンドデザインから、同じ虫の声でも秋の様相に変わっていたように思える。同時に登場人物たちの格好も長袖やセーターに変わっていく。
 
再出発の時、バスの車窓からログハウスを見やる梢と直樹のショットが短いハイスピードで捉えられる。冒頭の梢の見た目ショットである橋がかかる風景、ラストの梢のクロースアップを除けば本編中唯一のスローモーションである。ここでは最早二人の見た目のログハウスは写さない。かろうじてバスの窓に反射として映るのみである。
「別のバス」の第二部が始まってから幾度となく現れる「走るバスを後ろから捉えた」追っかけショットがある。こうしたショットを撮る場合、撮影の方法論としては当然、前方から捉えることも可能である。劇用のバスの前にカメラ用の車を走らせ、先導するようにしてカメラは後ろ向きにセッティングすればいい。その方が運転する沢井も捉えられる。しかしながら、この映画の中ではその所謂「引っ張り」ショットは皆無である。唯一、冒頭のショットで坂を上がってくるバスの姿が初めて見えてくるのを望遠で捉えたショットのみ。この、常に「バスの後ろ」を捉えていくことをどの時点で選択したのだろうか。当然、ヴェンダースをはじめとする先行する諸作の記憶はあっただろうが、今回改めて観ると、先般から何度か言及した「切り返しをしない」シーンの手法にも通じ、バスそれ自体を「バックショット」として捉えようとしたのではないだろうか、などと妄想が走ってしまう。
 
一行があの時のだだっ広い駐車場に降り立つ、あのメインヴィジュアルにもなったショット、裏話として当時の演出部の先輩から「最初の構想はあのワンカットではなく、現場で時間がギリギリになってしまった時に監督が捻り出した逆転満塁の決勝打だった」ことを聞いたことがある。苦肉の策というのが言葉の意味を成さないほど映画史に残るようなショットである。このショットでも監督の演出は抜かりない。実は、沢井が運転席側からでなく客側の乗降口から降りてくるのだ。引きの画でバスが件の駐車場に入ってきて、まずあの場にいなかった秋彦が戸口まで出てきてドアを開ける。そこでサイズが幾分寄り、秋彦がバスから数歩カメラの方へ進むと同時に直樹が腰を上げ、続いて梢が立ち上がり外に向かい、沢井は先の三人と同じ出口から出てくるのだ。他のシーンでは常に運転席側のドアから出入りしているのと、後に直樹がバスの運転を習おうとするくだりでも物理的には客席側からもひょいと足を伸ばせば運転席に入れるのにわざわざ外に出てから運転席側のドアを開けて入るのである。このシーンにだけ許されたほんの些細な、同時に決定的である違い。
 
ちょうど直樹がバスの運転を習うくだりのことを記して思い起こしたことがもう一つある。このシーンはキャンプ場や牧場のくだりに続く「第二のユートピア」的なほのぼのとした場面だが、運転席に座った直樹をフロントガラス越しに急にそれまでなかったようなクロースアップで捉えたショットが挿入される。直樹はそこでハンドルを握ったまま前方を見やり、すぐにハンドルに突っ伏してしまうのだが、足元から音がしてカットが一つ前の横位置に切り替わると沢井が現れて『断絶』にオマージュを捧げたコミカルな描写に戻る。その一瞬のクロースアップだが、フロントガラスの反射を撮影上故意に解消せず、紗がかかったような効果と相俟って妙に不穏なのだ。
少し物語が進み、直樹の一度目の失踪の後、神社の脇でバスを停める。秋彦はつい昨日まで自分たちがいた場所で新たな殺人が起きたことを新聞で知り、買い物から戻ってきた沢井は咳がひどく秋彦は梢だけを誘い銭湯へ向かう。このくだりが珍しくずっとフロントガラス越しに捉えられ、途中からほぼ180度パンして梢と秋彦の動きをフォローするというアクロバティックな構成になっている。思い起こせば、沢井の初登場のショットは、フロントガラス越しにバスジャック犯を捉え、そのまま同じフレーム内でパンをすると運転席の沢井が映るというものだった。もしかしたら、この映画では、理由は分からないがフロントガラス越しというのは何か不穏な出来事が起こる予兆として起動するショットだったのだろうか。
 
夜の神社のくだりは最早言うべきことはない。
やっと青山組でセカンド助監督になった『共喰い』の現場で、如何にしてロケハン時と撮影時に数々の突拍子もない構想を思いつくのかを観察しようとしたが、監督の頭の中は中々覗けなかった。たとえ自らの書いたト書きと台詞があったとして、あのようなショットの構成を考えつくのには物凄い飛躍がある。明らかに映画的記憶のとんでもなく深い鉱脈があるのだが。
シルエットの樹を背にした直樹を一度アウトさせ、フレーム右奥から音の芝居が先行して現れた女性を横移動でフォローしていくと、直樹がインして来て左斜めに追いつくかと思われた瞬間に下手から車の音がして、女性は乗り込んで車が去るとフレーム左手に沢井がいるのが分かる。そのまま直樹の元に沢井が来て一連の流れがあるのだが、自転車グルグルのカットまで含めておそらく7~8分くらいあるこのアクションのくだりがたった二つのショットで構成されているのである。これは只の長廻しなのではない。厳密に構成された技術の塊である。
 
直樹がいなくなり名高い「コンコン」の最後のくだりに差し掛かる。ここまで来て、不意に別の作品の現場のことが思い起こされる。『贖罪の奏鳴曲』(5.21現在U-NEXTで鑑賞可能)で、少年時代に凶悪事件を起こした三上博史扮する敏腕弁護士が、ある事件を担当したことで医療少年院時代を回想するシーンが度々挟まれる。その医療少年院の中で、何事にも無反応無感動だった“怪物”に近かった少年が、唯一人心を通わせかけた友人までも凄惨な自死を遂げ、絶望を通り越して自暴自棄の中、院内の草むしり作業をしていると中原丈雄扮する所長が近づいてくる。そこで所長は少年に沢井が直樹に最後に言い放った言葉に近い台詞を口にすることになるのだが、中原さんは流石と言うべきか、そのシーンの何日か前に監督に「あそこをどんな風にしようか」と相談を持ちかけて来た。監督は「少し考えさせてくれ」と答え、傍で聞いていたこちらも「これは大きな宿題だぞ、何らかのアイディアを出すか」と身構えていたら監督が「いや、いいよ」と言うので撮影当日まで寝かしてしまっていた。結果は是非、該当シーンを見て欲しいが(3話と4話に時を隔てて出てくる)、所長がまるでアメリカのボーイスカウトの仕草の様に、親指を自分の胸にトントンと当てるというアクションをするのだ。何か暗号めいた仕草だが、それが具体的に何を指し示すのかは一切触れられずに、自然と芝居は進行する。その演出をテスト直前で知らされた中原さんが大きく頷いたことだけは強く記憶に残っている。ああしたことをどうやって思いつくのか、本当に謎だ。『EUREKA』での「コンコン」ももはや人口に膾炙したと言えるほど多く語られて来たが、そのアクションを思いつくだけでなく、厳密に適切な位置で適切なカット構成の元に発現させなければあそこまでの効果は得られなかったであろう。
 
再び、雑誌「ユリイカ」内での黒沢さんとの対談から本人の言を引く。
「僕が思っていたのは「情緒」も機械的な操作にしてしまおうと、そうしてみるとどうなるのかというのは、ちょっと興味がありまして。非常に細かい作業になってしかも非常に不安定だし、曖昧な一発勝負のようなところもあって非常に危険なんです。危険だけれども、それを本当に事細かく理詰めで展開することはできないものかなと考えてたんですね。撮って、あ、これは情緒じゃんと思って繋げるのではなく、初めから「情緒」というものを構造として狙っていく」
 
ジム・オルークの“Eureka”が流れるくだりは、観客全員が没入できるこの作品のランドマーク的な部分であることは間違いないであろう。今回再見し、「情緒の機械的な操作」が最も強力に発動された箇所であることを再認識した。
梢と二人だけの道行きとなったバスを走らせる沢井が、T字路に差し掛かった時に一時停車をし目の前のペットボトルに手を伸ばし、秋彦の忘れ物のカセットデッキに気づく。
おもむろに再生スイッチを押して走り始めると、カセットデッキとフロントガラスから見える走行ショットに切り替わりイントロが始まる。くぐもったフィルター越しのような又は古いラジオから聞こえてくるような加工が施された歌の最初のバースが始まるが、この部分まではジム・オルークの曲想と、その頃でさえ時代遅れ気味のaiwaの小さなカセットデッキから流れる音とがぴったり一致している。曲の構造としては二番目のバースになるとそれまでのくぐもった加工が外され歌がオンで聞こえてくるのだが、スクリーンではその瞬間にバスの走行音が持ち上がり、次のショット、海辺を走るバスの客観バックショットに移る。
波音が被さり、観客にはその曲がカセットデッキから聞こえる「ストーリー上の音楽」から、この映画に初めて流れる「映画音楽」として変質したことが理解される。バスの背が弧を描く海岸沿いの道の奥にフレームアウトするとカットが変わり、砂浜を梢と沢井が手前に歩いてくる。梢は沢井のことを気にするでもなくズンズン早足で進み、あっという間にフレームアウトしてしまうと、後からゆっくりと追う沢井が再び咳き込み始め1ショットになった姿に、絶妙なタイミングで曲の中でポイントとなるムーグシンセサイザーっぽいトーンが聞こえる。そのムーグの調べに乗ってカメラが海の方へパンすると梢は既にして波打際に辿り着きそうなところまで歩みを進めている。カットが崖下の沢井の歩きに移ってもループで流れるムーグと電子音の調べが続き、どんどん酷くなる一方の咳に堪らず砂の上に腰をおろすとカメラがポン寄りになり沢井のフルサイズとなる。激しくなる咳にポケットからハンカチを取り出し口に当てて暫し俯いていた沢井がふと視線を上げた刹那に、同じテーマが繰り返されるこの曲“Eureka” で一番カラーが変わる瞬間を充てている。沢井の視線とともにホーンの厚みが加わり、テーマは変わらずとも曲の空気感が一段階上がるのだ。まるでこのシーンのために“Eureka”が作曲されたような「コンポジション」である。
 
そこから先は、書き連ねるのは野暮なほど神話的な光景が繰り広げられる。唯一記すべきは、一度砂浜に倒れた梢が沢井の呼び掛けに応じて身を起こした時、明らかにそれまでの梢=宮﨑あおいではなく、まるでそのショットのためだけに数ヶ月、いや1年くらいあいだを空けたかのように、その様相が変化・変質しているのだ。ここでの宮﨑あおいは本当にメタモルフォーゼと呟きたくなるほどの変化で、たったワンショットで確実に大人びた姿を顕現させる。
 
ここまで“情緒”をコントロールできるものなのだろうか。
 
メタモルフォーゼといえば、今回の再見で再発見したことに、梢の発語の瞬間を勘違いしていたというまたもや愕然とするほどの誤謬がある。公開当時の予告やら宣伝のみならず、その時期に出た批評や感想でも大方が言及していた「梢が最後の最後に発語を取り戻す」という点が、何のことない、映画の中ではすでに浜辺のシーンの後、大観峰に至る直前のバスの走りの中で行われていたのだ。逆に初見の人は勘違いする要素など無いほど明らかに。
海沿いの道のシークエンスが溶暗により暗闇に揺らめく街明かりに変わり(極端にフォーカスをずらしているので灯篭の海を漂っているかのように見える)無音の主観ショットが少しの間続くと、程なくして走行音が聞こえてきて目的地に向かう車中だということが分かる。その後に海で拾った貝殻を並べる梢の手元のショットが来るのだが、この時に間違いなく小声で「おとうさん。おかあさん。」と呟きながら貝殻を一枚ずつ並べていくのだ。梢の横顔が映った時に「あきひこくん」と言うのがシンクロの呟きであることが確認できる。梢は、先の海のくだりで直樹へテレパシーを送った時に既にして声を取り戻していたのである。
 
 
ラストシーンに辿り着く前に若干の寄り道を。
 
件の雑誌「ユリイカ」で、大友良英さん(奇しくも監督が急逝してしまう時に動いていた最新作の音楽を担当される筈だったという)が、それ自体ほかの人の批評とは一線を画す卓抜な考察を語り起こしの形で残している。
その大友さんが2000年代に入り、活動の中でJAZZユニットに回帰し(大友さん自身は回帰という表現には異を唱えるかもしれないが)、菊地成孔・津上研太・水谷浩章・芳垣安洋という謂わばオールスターのクインテットを結成して新宿PIT INNなどで継続的にライブを始める。
その最初期からのレパートリーにドルフィーやミンガスの曲に混じって、ジム・オルークの “Eureka”が含まれている。クインテットのサックスが菊地成孔からアルフレッド・ハルトに代わり、クインテットがオーケストラに変化してカヒミ・カリィなどが参加するようになっても “Eureka”はアレンジを変えてレパートリーに残り続ける。
その最初のユニットである菊地成孔在籍時のアルバムに【ONJQ LIVE】というシンプルなタイトルのライブ録音がある。2002年の3月、新宿PIT INNでの演奏を収めたものだ。ここでの“Eureka” の演奏は、ジム・オルークの曲想であるテーマの繰り返しを、後期アルバート・アイラーの雰囲気で再構成したものなのだ。オルークの原曲ですら9分を超える長尺であったが、この時の演奏では二倍以上18分を超えるものにまで引き伸ばされている。
最初の歌メロをウッドベースのソロからトランペット(ドラムの芳垣が吹いている)と繋いでいき、ギターはあくまでバックでコードを鳴らし続けることに終始する。ループが2分以上続くと緩やかに二本のサックスが絡み始め、同じテーマを自由度の高い変奏を交えながら二重螺旋のように紡いでいく。5分を超えたあたりで絡み合うサックスがアイラーの後期のユニットのごとくフリーキーなトーンとギリギリテーマから外れないメロディーとのせめぎ合いとなってゆき、いつの間にかトランペットを吹いていたはずの芳垣のドラムが加わり音の奔流と化していく。
余談ではあるが、このライブ録音は機会があれば是非触れて欲しい(ネット上に音源が上がっているが、もう少し良い音質で聴いて欲しいのでリンクを貼ることは差し控える)。
大友さんは果たして映画『EUREKA』を観て、このアレンジのヒントとしたのだろうか。もはや、どちらが先でも話の本質に関わらないほど、この演奏は映画と共鳴している。まさに同じ「ユリイカ」誌面上で樋口さんが記した“ユニゾンとブラウン運動”である。
 
寄り道が過ぎたが、梢と沢井の道行きは最後の最後で、忘れかけていたもう一つの啓示をこちらに投げかけてきた。
 
梢の発語の誤謬にも通ずるが、ずっとこの映画のファーストカットである少女=梢の後ろ姿の向こうに見える「津波のような」山並みとその下の橋を中心とした街並(2カット目に当たる少女=梢のクロースアップを挟み、ハイスピードでサイズが寄った揺らぐ見た目カットもその橋である)は、映画のラストで大観峰の展望台の突端まで辿り着いた梢の眼の中に映っている光景と同一のものである、と思い込んでいた。大きな円環が閉じるように、冒頭の梢はラストの梢であり、梢が見ている風景もまたイコールなのだ、と。
ロールネックのセーターとウールのブルゾンという衣裳は同一である。とすれば、ここに単純かつ大いなる疑問が生じる。あの特徴的な橋は、映画の前半で頻出する路線バスのコースでもあり、つまりは冒頭の光景は物語前半の舞台である、沢井や梢や直樹だけでなく茂雄や刑事らも日常的に見ていた「あの街」の光景の筈なのだ。であれば、あの阿蘇の大観峰まで辿り着いた梢の衣裳では明らかにおかしいのである。
 
ここに監督が最後に仕掛けた謎がある。
 
思い返せば、あの大きな声で貝殻を宙空に投げるショットでも、その直後の長い髪が風に揺れるバックショットでも、本人の視線の先に開けているであろう風景をはっきりとは見せていなかった。おそらくは、バックショットから振り向いて沢井の方へ微笑みながら歩いてくる三度目のハイスピードのカットを撮影する前後で、冒頭のクロースアップを撮ったのだろうか。であれば、繰り返すが映画のファーストカットの「少女の背中越しの街並」が、橋のある風景であることは「繋がっていない」。それはつまり、異なる時空と空間を「繋げた」ことになる。
というよりも、阿蘇の大観峰に立つ梢にはあの風景が見えていた、と解釈すべきなのか、それともあの冒頭の風景は沢井との旅から戻った梢が見たものなのか。
大観峰の上をぐるぐると回るように上昇していったカメラと同じように、その螺旋を描く上昇は、“癒しと再生”というキャッチフレーズに収まり得ない運動として、容易に着地点など想定できぬ不確かさを孕んだ道行きとなる。
 
結局のところ、今回の3時間37分を何重にも反芻しても、“情緒”のメカニズムの謎は解けなかった。それどころか、益々その謎が細部にまで立ち現れ膨れ上がってくる。
「そんなシノゴの言ってるくらいなら、何度でも観て勉強すれば。どうせ分かんねぇから」という監督の冷たい笑みが浮かぶようだ。
 
 
ふたたび2006年秋、北九州
 
横位置で向かい合った三人。
 
「寒ぅなったのう」
と、茂雄がやっと口に出す。
「うん」と、梢が短く頷く。
「風邪やら引いとらん?」
茂雄が問うと、再び「うん」と梢が答える。
 
お気づきの方もいたであろう、この文章の冒頭に記したのは『サッド ヴァケイション』の現場で筆者が体験した時間のことだ。物語の終盤、高良健吾扮する勇介の葬式が終わった後、成長した梢が身を寄せた間宮運送に茂雄と秋彦が訪ねてくる再会のシーン。
その時点で青山組ではまだサード助監督だった自分は当然のことながら『EUREKA』の現場は経験していない。
 
目の前の芝居に足が震えたのは、同じ俳優たちが同じ役柄を7年ぶりに演じるという意味と共に、目の前で繰り広げられたある単純な描写が原因だった。
 
“麦茶のグラス”を渡されて飲み干すこと。
 
『EUREKA』では、最初に土木事務所にスーツ姿の沢井が現れ、茂雄が照れ隠しに圭子に頼んだ時、秋彦が兄妹に勉強を教えようとして直樹に逃げられ、追いかけて息を切らして戻ってきた時に梢が入れてくれた時。その他にも、多くのシーンでビールなどの飲み物を口にする。
 
物語上の繋がりだけでなく、具体的なアクションとして、それ自体は何気ない日常の描写ながら、紛れもなくショットの繋がりとして6(7)年の時を隔てて、同じアクションによりフィクションが現実を凌駕してくる。その光景の呆気ない単純さであり驚異に、センチメンタルな感覚を超えて胸が熱くなった。この“エモーション”もまた、つまりは監督が仕掛けた“情緒”であったのか。
 
すっかり大人の女性に成長したその姿、それだけは変わらぬ背中まで伸びた美しい髪、あのスクリーンの中にいた14歳の梢が21歳になろうとしている宮﨑あおいの中で紛れもなく生きている。「役になりきる」云々とかいう言辞をいくら連ねてもそこには辿り着かぬ神秘と啓示がある。それは、あの時点から更に15年が経過した今も変わらずにそこにある。
 
何度か引いた雑誌「ユリイカ」誌上での発言で、監督は冗談交じりに「この人を見よ」という思いが最初のモチベーションとしてあったと語っている。
 
いやが応にも「この人を見る」しかない。梢だけではない、沢井を、秋彦を、直樹を、茂雄を3時間37分に渡って「この人を見る」ことをある意味“強いられる”体験。
“強いられる”という言葉は悪いが、驚異的な思考=技術により、綿密に計算され尽くした“情緒”の波に乗る映画体験は、3時間37分という時間を超え、その後何十年にも渡って拡がり続ける。なにせ、その拡がりは螺旋状に拡がるのだから簡単には収まりが付きようがないのだ。
 
(あるいは既にお気づきの方もいるだろう、この文の題名に置いた“Emotion Pictures”は、ヴィム・ヴェンダースが1986年に出した映画批評&エッセイ集の書名である。“情緒”を自在に操る手品師のような身振りで、しかしそれは同時に各シーン毎に“命懸けの跳躍”を試みる気の遠くなるような行程を経ることでしか、あの“Emotion Pictures”としか呼びようのない作品群は生まれなかったのでは、というのは悪ノリが過ぎるだろうか )
 
 
ここまで書き連ねてきたが、ちょっとでも油断すると、いや自分の意識とは無関係に、ふと途轍もない喪失感に苛まれる瞬間がある。『サッド ヴァケイション』で梢のその後を描いたように、直樹のその後を、健次のその後を描いて欲しかった。いや、実際にサーガの続編を撮って欲しいというよりも、梢のような存在、直樹のような、健次のような沢井のような者たちの存在を描き続けて欲しかった。
それが叶わぬいま、少なくとも出来ることは観客としてスクリーンの中の“情緒”に身を浸しながら「彼らを見続ける」ことでしかない。
 
公開当時のパンフレット、チーフ助監督の七字さんの筆による四コマ漫画にも書かれていたとおり、監督は『EUREKA』クランクイン直前のオールスタッフで「今回は一本の“大きな樹”のような作品にしたい」という言葉を残している。
 
その“大きな樹”はスクリーンの中に永遠に屹立している。
遠くから巨木を眺めるだけでなく、観客はその樹の真下から頭上を覆う枝ぶりを見上げ、木肌の感触を確かめるように幹に触れ、葉の葉脈の一本一本を観察するように微視的な視線にもなる。
“梢”と“直樹”という一本の樹から生まれた存在が、観る者の中に新たな種をまき、そこからまた別の“樹”が芽生えてくる。
 
この機会に未見の方はもちろん、あるいは21年ぶりの方も是非、あの“大きな樹”を劇場に観に行って頂きたい。
 
 
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EUREKA/ユリイカ 〈デジタル・マスター完全版〉
2000年 / 日本 / 217分 / 配給:WOWOW・東京テアトル / 監督・脚本:青山真治 / 出演:役所広司、宮﨑あおい、宮﨑将、斉藤陽一郎ほか
5月13日(金)からテアトル新宿で上映中【4週間連日1回上映(予定)】
5月27日(金)からシネ・リーブル梅田で上映【1週間連日1回上映(予定)】



■青山真治監督作品上映計画進行中
現在設立準備中の青山真治アーカイヴスにより、「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」(9月10日~25日)、アテネ・フランセ文化センター等での特集上映や各種企画も進行中です。また、『EUREKA/ユリイカ』上映館では青山真治アーカイヴスへの寄付を募る募金箱が設置されています。



是安 祐

数々の映画、ドラマの制作に助監督・演出家として携わる。近年、助監督としてついた作品に『TOKYO VICE』(22)、『風の電話』(20)、『寝ても覚めても』(19)、『ザ・ファブル』(19)、『リバーズ・エッジ』(18)、『共喰い』(13)などがある。またドラマ『フルーツ宅配便』(19)第7・8話の演出を担当。