映画音楽急性増悪 第30回

今回の虹釜太郎さんの連載「映画音楽急性増悪」はダリオ・アルジェント監督作品についてです。フィルモグラフィーの中からセレクトした18作品です。

第30回 離陸



文=虹釜太郎
 

とにかく街はひたすら無音。違う理由で水に濡れながら階段をひたすら降りることを繰り返す女たち。不自然過ぎるほどに建物内で迷う人間たち。異常なほどに不自然な建物内を照らす赤、緑の原色の照明。止める者がいなかったことが何度も信じ難く感じるやりたい放題の音楽。床下の複層を一度にまとめる階段。ひたすらに階段を降り続ける人間たち。そして建物の外の街はひたすらに無音なまま……そんな様が広大無辺に続く『インフェルノ』(原題 "Inferno” 1980年/ダリオ・アルジェント)はわたしのアルジェント作品のベストワンだけれど、アルジェントのどの作品がベストなのかについては(それがひたすら無意味とはいえ)アルジェント研究会が批評家・一般人別にリストを作っている(2022年公開の『OCCHIALI NERI』と『ジャーロ』およびテレビ向作品は対象外)。

その順位は、批評家の場合は(ロッテントマト参照)、17位『オペラ座の怪人』(原題 "Il fantasma dell'opera” 1998年)、16位『ダリオ・アルジェントのドラキュラ』(原題 "Dracula 3D” 2012年)、15位『デス・サイト』(原題 “ Il cartaio” 2004年)、14位『サスペリア・テルザ最後の魔女』(原題 "La terza madre” 2007年)、13位『スリープレス』(原題 "Non ho sonno” 2001)、12位『マスターズ・オブ・ホラー悪夢の狂宴』("Due occhi diabolici” 1990年のうちの『黒猫』)、11位『トラウマ鮮血の叫び』(原題 "Trauma” 1993年)、10位『インフェルノ』(原題 "Inferno” 1980年)、9位『シャドー』(原題 "Tenebre” 1982年)、8位『四匹の蝿』(原題 "4 mosche di velluto grigio” 1971)、7位『スタンダール・シンドローム』(原題 "La sindrome di Stendhal” 1996)、6位『フェノミナ』(原題 "Phenomena” 1985年)、5位『わたしは目撃者Il gatto a nove code(1971年)、4位『オペラ座血の喝采』(原題 "Opera” 1987年)、3位『歓びの毒牙』(原題 "L'uccello dalle piume di cristallo” 1970年)、2位『サスペリア』(原題 "Suspiria” 1977年)、1位『サスペリアPART2』(原題 "Profondo Rosso” 1975年)。
 該当動画では同時に一般視聴者ランキングも紹介されているのでもしも関心のある方がいれば閲覧してほしい。


『インフェルノ』(原題 "Inferno” 1980年) 
アルジェント自身は『インフェルノ』の照明効果にはそれほどの愛はない。三原色の露骨過ぎる映像効果は何度観直してもひどい。しかし『インフェルノ』は全ての階層での地下をいちいち明らかにする無理やりの階段の設定によってアルジェント映画の中でも突出している。錬金術の話であるとかマーテル・テネブラルムであるとかを超えてこの階段をひたすら降りるという動作。
音楽はゴブリンでなくキース・エマーソン。キースが手がけた映画音楽には『ルチオ・フルチのマーダロック』(1985年)や『ナイトホークス』等がある。
本作への多くの批判のなかでも「仕掛け」が大きくなりすぎたため恐怖が薄まってしまったというものがあるけれど、いま観直すとそのおおげさな仕掛けのみが本作の最大の魅力で、そこでの現実感はかなり希薄になる。猫を棄てに行ったカザニアンがホットドッグ屋に殺されるのは怖いというものではなく、本作は恐怖映画ではなくではなんなのだといえばそれはわからないが、建物全体の各階層の地下をすべてあきらかにできる階段の設定だけが映画を観終わった後に残り続ける。特殊効果にマリオ・バーヴァだが、CGを使わないその効果がどれだけの効果をあげたか。
数はかなり少ないかもしれないが、人によっては1272年の某大聖堂が建っているトゥームランドでの大暴動からの火災を思い出したかもしれない。火災の際の大聖堂の階段とは…
各地の大聖堂における争いの胚胎たち…
男性が悲鳴をあげる…この映画では許されます! という当時の新聞広告は激しくずれているけれど、そもそも『サスペリア  PART2』など邦題に関してもアルジェント作品は日本ではずれっぱなしだが、『インフェルノ』がそもそも恐怖映画ではなく、「三人の母」という本もきっかけでしかなく、ひたすらに建物に憑いたものを階段があきらかにしてなんの解決もしない(館は燃え落ちるが)というなにもなさだけで、それが映画としてどうかはともかく突出した映像の記録となっているのは確か。

 
『スタンダール・シンドローム』(原題 "La sindrome di Stendhal” 1996) 
レンブラント「夜警」、ブリューゲル「イカロスの墜落」、カラヴァッジョ「ナルキッソス」。
音楽がモリコーネに決定する前はマッシヴ・アタックが予定されていた。
犯人アルフレードは早すぎる死を中盤であっけなく迎える。前半と後半の分離、長過ぎる後半がとかく批判される本作だけれど、その長過ぎる後半で過剰に不自然なほどにアンナが女性になってゆく姿、前半では考えられない女性化、しかしその内はそれを許容できないほどの殺人衝動以上の混乱が沸騰してあり、かつそれを完全に抑えられない。
後半でアーシア・アルジェントがかぶる金髪のあまりの似合わなさと前半でのボクシングの度重なる練習、それらが夜警やイカロスの墜落のある風景やナルキッソスと繋がらないまま同居する本作は、その長過ぎる後半がなければ、その過剰なほどに不自然な女性化がなければ成立しない。その過剰な女性化と同時にアンナは自ら殺した殺人鬼と同化してしまっているのが描かれる後半戦がなければ本作は成立しない。
度重なる不幸な役を何度も引き受けるアーシア、アルジェント監督の娘のタフさは、ルカ・グァダニーノによるサスペリア・リメイクのタフさとは別。
本作の冒頭はずっと「外気」の音響群を歓迎しなかったアルジェントがやっとのことでの音のする外気のとりこみからはじまるが、しかしその時点でアンナはスタンダール・シンドローム以上(!)の異常さであるため、アルジェントはやはり外気をとりこむつもりがない。だがそれがアルジェントで、本作の最後で男性たちがみなでアンナを不自然なほどに抱き上げて終わるのを何度も観ていると本作の異様さがやわらいでゆく。アーシアが演じたアンナは当初はブリジット・フォンダが予定されていた。アーシアのさまざまな弱さが鈍く光り顕わになる本作を観る度に俳優の不思議さを何度も感じる。

 
『オペラ座血の喝采』(原題 "Opera” 1987年) 
目に貼り付けられ続ける針のバンデージ。
何度も束縛されては逃がされるを繰り返しされるマクベスの主演ベティは、共にいる男が殺された直後のショックはいずれの場合も描かれない。ラストもそうで、ついに犯人が連行されても微笑んで蜥蜴を逃がすだけ。いや逃すというより蜥蜴はそこにいただけだ。ラスト批判はダリア・ニコロディによってされている。
アルジェント作品にしては珍しく音楽が映画を破壊しない(!)。しかしアルジェント作品の場合は音楽が何度も映画を破壊してからが再スタートというのが『プロフォンド・ロッソ』だけでなくそうなのだからなんとも言えないけれど。
冒頭のマーラ・チェコバの不在と全鳥本物のカラスという二つのことが本作の魅力を増している。冒頭のカメラがマーラ・チェコバの視点なのは、マーラ役を予定されていたバネッサ・レッドグレープとのギャラ交渉の決裂によるものだろうか。
ベティを演じたクリスチーナ・マルシラッチとアルジェントの関係はうまくいかず、また劇中でも演出家役のマルコもベティには疲れさせられ、最後には命も失うが、それら不安定さが結局は作品にとってはよかった? ことを考えると不思議だ。本作はそうした悪縁にも支えられている。

 
『サスペリアPART2』(原題 "Profondo Rosso” 1975年) 
『赤い深淵』ではなく『サスペリアPART2』と名づけられた本作だが、邦題はやはりいまからでも『プロフォンドロッソ』または『ディープレッド』に改名されるべきでは。
劇場版ではカットされたシーンたち。サンドイッチを頬張る警官、オープニングでのマークがダメ出しをする演奏シーン、カルロとマークの会話、しかしなによりジャンナとマークの会話の多くがカットされているが、これらは恐怖やショックともなんの関係もなくても、サスペリア2がサスペリア2であることを、他のダリオ・アルジェント作品との違いを作る貴重な箇所たちであることは間違いない。ジャンナがしかけるマークとの腕相撲やそもそも犯人も含めて女性のあまりにもな力強さがアルジェント作品のなかでももっともわかりやすく強調された本作。なかでも壊れかけのジャンナの小さな車の中で(車から出るのも大変)予想よりもはるかに低位置に座らされるマイク。さらにカットされたシーンとしてのマークとカルロの連弾。この二人による連弾があるとないとではかなり作品の印象が違う。
自宅への侵入者がいた時に聞こえた音楽=子守唄のレコードを探し出し、剥き出しで持ち帰るマーク、そして屋敷を本格的に捜索しようとする時にかかるドラム音、他の映画であれば失敗必至かもなこのドラムの開始(ドラムはウォルター・マルティーノとアゴスティーノ・マランゴロ)がしまっているのはマークの表情(デヴィッド・ヘミングス)がよいからで、また『サテリコン』、『カサノバ』の脚本家ベルナルディーノ・ザッポーニの脚本参加が本作をスプラッタ過少の効果を生んだ。
アルジェント映画史のなかでも最重要のダリア・ニコロディとダリオ・アルジェントの出発として記念すべき作品だが、ゴブリン誕生の作品でもある。当初カットされたシーンがどれもよく、ザッポーニとの共闘と次々と続く個々の殺人以外の魅力を引き出す。
悪魔人形ばかりが話題だけれど、マークとカルロの連弾を脚色したのはザッポーニかアルジェントか…

 
『フェノミナ』(原題 "Phenomena” 1985年)
ジェニファーが死体のみを食べるサルコファガスという蠅を放して追跡できることが異常であり得ないと言ったところで仕方がない。異常なのはいつにもまして収まることを知らない音楽であり、そもそも本作での音楽の入り方はもっとも異常をきたして堂々とかかり続けるが、その中でのジェニファー・コネリーの演技はいたって普通で、ダリア・ニコロディ演じる女教師の演技や彼女の奇形の息子の演出はアルジェントならではのもので、本作ではジェニファー・コネリーとチンパンジーだけがアルジェントの異常さの中で浮き上がったまま、その浮き上がりのままにラストを迎える。
鉄板で首を軽々と切断するブルックナーの殺し方は、『シャドー』の後半で銃を持ちながら待つ女を窓外からのいきなりの初撃で前腕をいきなり切断するアルジェントだから驚きはそこまでないが、本作でのジェニファー周りに伴う静かさ、虫を伴っての静けさ、あり得ないサルコファガスの静かな短い追跡シーンが忘れられない。
本作で恐ろしいのはたったボタンひとつで脱出不可能になる女教師の家の設計であり、『インフェルノ』のような建築物メインの映画でなくても、たった一回ボタンを押すだけで逃げられないという要塞の設計が怖く、その家に奇形の息子と住み続ける女教師の日常が映画が終わった後にこみあげてくるのも不思議だがそれは普段のアルジェント通り。異常なのはジェニファーとサルコファガスのツーショットで、それが本作の代え難い、他のアルジェント作品にはないところ。
育児を放棄されたジェニファーがなんだかんだ虫とチンパンジーの助けを借りて生き延び、育児放棄されなかった奇形児とその母親は二人とも殺される。ジェニファーがサルコファガスを連れてバスを移動中に老婆に注意されてもあまりに激しく拒否するシーンを含めジェニファーの拒否は強すぎる。その強さが将来いかなるものを彼女にもたらすのだろうという最後は途方に暮れさせる。
本作の最後についてはダリア・ニコロディは痛烈に批判している。
本来の予定通りタンジェリン・ドリームが音楽を担当していれば違った作品になっただろうかはわからない。ただサルコファガスの静かな短い追跡シーンの魅力は本作だけのものだ。
 

『トラウマ鮮血の叫び』(原題 "Trauma” 1993年) 
生首の扱いや殺人機械についてのあれこれなどは全く別として、アルジェント映画の中でももっとも無声映画に近い音楽の入り方、まだ幼さがかすかに残るアーシア・アルジェントを活かした冒頭の飛び降り自殺から最後のまだ続くのかの異様な動揺までの演技、精神病院乱入時の患者全員脱出時にどうなるかなど、メインのストーリーに関わらないほとんどのことにアルジェントならぬ可能性を感じさせる。殺人機械や降霊会、実際の殺人行為らがどれも退屈なのにこれだけの可能性に溢れる他のアルジェント作品とは。
蜥蜴と犯人の家の隣の男の子がしつこく映され、また冒頭の橋での自殺直前につかまるアーシアの虚ろというよりは開かない眼も執拗に。オーラ・ペトレスクをアーシア・アルジェントが、彼女を救い続ける青年をクリストファー・ライデルが演じるが、クリストファーの顔面そして眼球は何度も大きく映される。最後まで敏感過ぎない刑事を演じたジェームズ・ルッソ。手ぬるいジャーロと酷評され続けた作品だけれど、暗鈍なストーリーと端々に芽吹いたいくつもの可能性の提示のアンバランスと音楽のアンバランスが、濡れている脚本に火がついてそのまま情けない花となり随所で映画と関係なく咲き残るかのような観後。情けなさの中での咲き残りと拒食症として生きること。数あるアルジェント作の中でももっとも評価が分かれる作品か。


『サスペリア』(原題 "Suspiria” 1977年)
ルカ・グァダニーノ監督によるリメイク版との違いはたくさんあるけれど。音楽も大きく違うが、オリジナル版の方の音楽というよりはささやき声、それも全編に漂う意味のないささやき声はクラウディオ・シモネッティが担当。
グァダニーノ監督リメイク版と比べても、オリジナルはスージー役の存在があまりに大きい。それを大きく別とすると批判は無数にあれど、グァダニーノ監督リメイクの最大の魅力のひとつは、ソロダンスでの骨の軋み破壊具合、一方のオリジナル版は怖いことが起きそうでなにもそれらは起きないがしかしひたすら静かなプールの水の圧が過多になり過ぎる場。
バレエ生徒たちが練習用の大ホールに全員移動して寝起きすることになる場面では生徒たちの年齢がさらに下げられているなどの工夫が見られるが、オリジナル版でいちばん記憶に残るのは何も起きないプール。そこに在る水。その怖さは  ひたすら撮影方法によるもので、本筋とも関係がない。
リメイク版においてどうしてもたちあがるティルダ・スウィントン・テスト。耐久テストとしてのその側面を拭っても、やはりオリジナルの存在はあまりに大きかった。けれどこれからもまだ考えたいのはどうしてリメイクはリメイクにならなかったのか、いやリメイクがリメイク足り得ることなどなんの意味もないのか、いや…
ルカ・グァダニーノによるリブートはさらに続く…

 
『サスペリア・テルザ最後の魔女』(原題 "La terza madre"、英: "The Mother of Tears” 2007年) 
『サスペリア・テルザ最後の魔女』は2007年にイタリアとアメリカが製作したホラー映画。『サスペリア』、『インフェルノ』に続く魔女3部作の完結編とされているが、実際はアルジェントによる『愛しのジェニファー』製作が起因のひとつ。『愛しのジェニファー』は『マスターズ・オブ・ホラー』収録。
本作はアルジェントファミリー映画であることは間違いない。特にサラの母が死んでいて霊体とはいえ魔女たちに匹敵する超力を持っている点、そのサラの母を演じるのがアーシア・アルジェントの実母であるダリア・ニコロディである点。
その点で本作は『インフェルノ』『サスペリア』とセットの魔女三部作という点だけで紹介されるのは残念で、アーシア・アルジェントが監督・脚本し出演もし、ダリア・ニコロディも出演している『スカーレット・ディーバ』(原題  "Scarlet Diva” 2000年/アーシア・アルジェント)と一緒に上映されるとアルジェントファミリー映画のもうひとつの線をたどれる。『スカーレット・ディーバ』は使用している撮影機材も様々に雑な映像群と『サスペリア・テルザ』とは違った雑な演出群の混交から生まれる雑なリズムが、アルジェントファミリーの恐ろしさを醸し出し、それは雑に終わる。「涙の母(マーテル・ラクリマルム)」の遺物たちも雑に登場し、魔女たちがこれだけバカっぽく登場し尽くすこともなかなかない。
 

『四匹の蝿』(原題 "4 mosche di velluto grigio” 1971年)
いままでになんの事件も解決していない私立探偵アロージオや無駄過ぎる屈強さのディオメーデに妨害されたまま最後まで彼らが登場する意味がわからないままに犯人の動機も最後まで意味不明だが音楽がゴブリンでなくモリコーネ、それもモリコーネらしくないモリコーネだった。ラストシーンの最初と最後で共に登場するディオメーデ。ラスト15分でかかりはじめるドラムが不穏でそれが主人公のドラミングを超えた出来の驚きのままシーンはラストに突入する。そのラストシーンの撮影には一秒に1000から5000フレームを撮影できるペンタゼットを使用。ニーナは憎む父に似たロベルトとわざわざ結婚して復讐するという設定も無理がある。しかしニーナを演じるミムジー・ファーマーの線の細さと打たれ弱さが本作を押し上げている。

 
『わたしは目撃者』(原題 "Il gatto a nove code” 1971年) 
盲目の元新聞記者の姪があまりにも幼いところ、犯人視点の眼球どアップの繰り返し、床屋での剃刀シーンなどが目立つアルジェント初期動物三部作のうちのひとつであるこの作品は音楽がゴブリンでなく、かなり激しめとはいえ、普段のゴブリンの圧倒性はなくそこがよいそれがダメと無数の意見があるだろうけれどアルジェント作品の場合はそこが判断が宙に浮いてしまう。
本作の場合は普段よりはだいぶ抑制された音楽や犯人はいちばんすばらしい殺し方でというやり方がうまくいっていないように感じるが、姪のあまりにもな幼さと盲目の新聞記者の賢さと頑固さのアンバランスの魅力が繰り返し観る度に強度を増していく。
盲目であることを活かしていないとの批判が多いが、盲目であることの利点ばかりが活かされる映画ばかりではないのか。
盲目ゆえの恐怖というのも描かれない。しかし本作は盲目の元新聞記者が主人公なのではなく、その幼すぎる姪との組み合わせで初めて駆動。XYY染色体による本筋とは関係がなく。また本作への影響がある『密室の恐怖実験』(1968年)や『らせん階段』(1945年)とも関係がなく。
現在ではエレベーターホールに落下して死亡という映画は撮れないかもしれない。技術の進化とは。


『スリープレス』(原題 "Non ho sonno” 2001年)
メインのストーリーは別として気になったのは、動く電車の中のこれからの被害者をひたすら電車外のかなり離れたところから撮影、食事シーンを瓶らを遮蔽物として外部から撮影、最後の犯人の殺害も外部からの窓外からの突然の狙撃によるもの…という徹底した見殺しの拡張が全編に敷き詰められ続けている。
脚本にカルロ・ルカレッリが協力したことにより、老刑事と若い刑事のとる方法の違いが併記。
長年の沈黙を経たうえでの殺人事件再開を老刑事が追うのではなく、当時子供だった被害者=現在は青年と老刑事、またそれらと並行して若い刑事たちが追う。
鸚鵡がいなかったら映画はどうなっていたか。

 
『歓びの毒牙』(原題 "L'uccello dalle piume di cristallo” 1970年) 
ラストの飛行機の離陸直前の異様な速度と短さでの飛行機を多角度から撮る謎がいまだに解決しない。しかしこの異様なようにしか映らないラストはその後のアルジェントの不可解な旅の前兆のよう。
映画が終わってみれば、その異様なしかしなんでもないラストとサムが水槽の中の魚になること=入り口の自動ドアに閉じ込められたこととストラーロ撮影による中盤のサムがなんとか暗闇で移動する袋小路の長さしか残っていない。どれも映画の本筋とは関係ない。 
アルジェントとサムを演じたトニー・ムサンテとは非常にうまくいかず、またデビュー作の監督続行にも妨害が入った。ただ度重なる父の助けもあり初映画監督の映画は完成した。元々はベルトルッチから譲られた脚本。

 
『オペラ座の怪人』(原題 "Il fantasma dell'opera” 1998年) 
仮面を剥ぎ取られた怪人という設定。
ネズミバキューム岩石オープンカーの突発的登場と突然の消滅。ネズミ。ネズミ。ネズミが捨てられた子を拾う。ネズミの地の王のファントムが愛するクリスをラウルにゆだね死んでゆくけれど記憶に残るのはネズミとクリスの発声。ラウルの影も薄いまま、クリスの発声練習のような繰り返され続ける発声とイグナッスらのネズミ討伐部隊の暗躍ばかりが残るアルジェント作品。
集められたネズミは全て本物。しかしその迫力とジュリアン・サンズとが最後までずっと噛み合わない。
登場するオペラのうち『ロミオとジュリエット』でのシャンデリア大落下とイグナスによる大暴露とで大きく動く。だがラストのジュリアン・サンズが力演にもかかわらずしっくりこない。
ネズミバキューム岩石オープンカーやコミカル過ぎる演出などは共同脚本のジェラール・ブラシュの影響か。

 
『黒猫』@『マスターズ・オブ・ホラー悪夢の狂宴』(原題 "Due occhi diabolici” 1990年) 
アルジェントによるマスターズ・オブ・ホラーのラストの予想できない終わり方は本作が長編でなくて中編だからこそ可能だったのか。ピノ・ドナッジオによる音楽は普段のアルジェントよりかなり簡素で、トム・サビーニによる特殊メイクは秀逸だけれど、この不可解な地味さは『四匹の蝿』以来のもの。なによりハーヴェイ・カイテルの最後に殺人に至るまでの待ちのポーズが忘れられない。アナベル役のマデリン・ポッターの演出不足が指摘されるが、関係ない女性死体の口が長方形に無理やり開かせられたまましつこく映されているのがカイテル演じるロデリック・アッシャーの度重なるミスの無駄な広がりを示す、というわけでもない。ただ特殊メイクの逸脱とカイテルによる逸脱があわさり普段よりもかなり地味というのがアルジェントならではで本作により『サスペリア・テルザ』も生まれることに。
アルジェントのかかわりがややこしいが詳細は下記。

 監督:ダリオ・アルジェント、ジョージ・A・ロメロ
 製作総指揮:クラウディオ・アルジェント、ダリオ・アルジェント
 制作:アキーレ・マンゾッティ
 脚本:ダリオ・アルジェント、フランコ・フェリーニ、ピーター・コッパー、ジョージ・A・ロメロ
 原作:エドガー・アラン・ポー
 撮影:ジュゼッペ・マッカリ(黒猫)、ピーター・レニエルズ
 音楽:ピノ・ドナッジオ
 美術:クレタス・アンダーソン
 セット:ダイアナ・L・ストートン
 衣装:バーバラ・アンダーソン
 編集:パスカル・ブーバ
 特殊効果:ジェルマーノ・ナターリ
 第二班監督:ルイジ・コッツイ
 照明:マルチェロ・ガブリエル
 カメラ操作:フランク・パール
 メイク:トム・サビー二

 
『シャドー』(原題 "Tenebrae" 別題 "Tenebre” 1982年)
ニールが滞在する先の管理人の娘であるマリア。そのマリアが犬に追われるシーンがあまりにも長く、さらには逃げる先が連続殺人犯の家というのもあまりにあまりな脚本。逃げるシーンもひたすらに長い。
被害者の家屋の壁面から離れ、さらに屋根を超えてひたすらに続く犯人視点のカメラ。この視点も長い。
ジェルマニ刑事が街中で堂々と刺殺されるまでのシーンが長い。様々な街の人間を映すシーンが長いがそれらがどれもよい。
赤青緑の原色照明もオカルト事物もうじ虫たちもいない。だがトカゲは紛れて…
アルジェント作品の脚本には無理がありすぎるという毎度の批判は数あれどさすがに本作の脚本は偶然に頼る具合が多すぎて、最後にオブジェがこれまた偶然にニールを刺殺するのに絶叫するアンを演じるニコロディに力なくうめく観客がいる。
『四匹の蝿』で繰り返され続ける処刑画面の夢のように、本作でもハイヒールを履いた女の夢が繰り返されるが、何度繰り返されてもその夢が浮ついてしまう。
殺人鬼の急な受け継ぎ、入れ替わり…それがアルジェント作品でどううまくいかなかったか以外にも納得のいかない点が多数あるはずだが、普段のアルジェント作品の特徴である建物の解剖に頼らず昼間にひたすら起きる殺人が最後の犯人の受け継ぎにより無効になる点も含めてのアンの絶叫。
しかし受け継ぎされる前までの犯人による視点のしつこさを可能にした撮影、それらを一気に破壊するかのような窓の外からの一気の前腕切断。

 
『ダリオ・アルジェントのドラキュラ』(原題 "Dracula 3D” 2012年) 
音楽はシモネッティだがおとなしく、撮影監督はルチアーノ・トヴォリだが陽の光が雑に入り続け退屈。しかし歴代ドラキュラ作品と比べてもルトガー・ハウアー演じるヴァン・ヘルシング博士が弱く登場も遅いがそれがよい。ドラキュラに噛まれたミナがヘルシングと共に帰るがしかしミナは既に噛まれている!
撮影監督による自然光の扱いの違いを強く感じる。ベノワ・デビエとルチアーノ・トヴォリ。

 
『変死体』(原題 "Il Tram” 1973年)
アルジェント監督による中編。路面電車の清掃中に死体が発見されたモニカ・リミ殺人事件当日の乗員乗客を召集し、その九名による事件再現の運転シーン。そのシーンがスローに見えてしまうほどに電車内から見た複数の画たち。路面電車の再度の乗り直しで恋人のジュリアが乗るシーンでの危うさも含め、外気の音がやはりあまりにもしない。音楽はジョルジョ・ガスリーニ。

 
『デス・サイト』(原題 "Il cartaio” 2004年) 
女性警察官アンナ・マリを演じたステファニア・ロッカはすばらしく、ローマ郊外も詳細に描かれるも、アルジェントならではの建築物の工夫はブレナン殺害シーン以外見られず(それも建物内には一歩も踏み込めない)、ラストの線路上でのPCによる限界ポーカーの見せ場もか弱く、アンナに惚れている同僚カルロの力無さも虚しく、ジョン・ブレナン捜査官の死に方もあっけなく、PCポーカー画面の中で殺される女性たち画も非常に小さく顔しか映らない。当初想定していたアーシア・アルジェント主演がなくなってからの縮小が響き過ぎたのか。クラウディオ・シモネッティの音楽の今回の弱さは効果的だったが、最後に妊娠を知らされて微笑んでいるロッカのシーンもいらないように思える。普段のアルジェントの派手な殺人っぷりがない分、イギリスからローマに飛ばされたブレナン捜査官の異邦人っぷりが存分に描かれるわけでもない。結果アンナ・マリの見せる細かい表情の違いのみを観察してしまう。しかし撮影には統一感がある。自然光での撮影に長けたベノワ・デビエ。
時間軸でアルジェント監督による映画作品長編を振り返ると、2022年公開作『OCCHIALI NERI』を含めて以下になる。

『歓びの毒牙』(原題 "L'uccello dalle piume di cristallo" 1970年) 
『わたしは目撃者』(原題 "Il gatto a nove code"(1971年) 
『四匹の蝿』(原題 "4 mosche di velluto grigio" 1971年) 
『ビッグ・ファイブ・ディ』(原題 "Le cinque giornate" 1973年) 
『サスペリアPART2』(原題 "Profondo Rosso" 1975年) 
『サスペリア』(原題 "Suspiria" 1977年) 
『インフェルノ』(原題 "Inferno" 1980年) 
『シャドー』(原題 "Tenebre" 1982年)-
『フェノミナ』(原題 "Phenomena" 1985年) 
『オペラ座血の喝采』(原題 "Opera” 1987年) 
『マスターズ・オブ・ホラー悪夢の狂宴』("Due occhi diabolici" 1990年のうちの『黒猫』)
『トラウマ鮮血の叫び』(原題 "Trauma" 1993年) 
『スタンダール・シンドローム』(原題 "La sindrome di Stendhal" 1996) 
『オペラ座の怪人』(原題 "Il fantasma dell'opera" 1998年) 
『スリープレス』(原題 "Non ho sonno" 2001年) 
『デス・サイト』(原題 "Il cartaio" 2004年) 
『サスペリア・テルザ最後の魔女』(原題 "La terza madre" 2007年) 
『ジャーロ』(原題 "Giallo" 2009年) 
『ダリオ・アルジェントのドラキュラ』(原題 "Dracula 3D" 2012年) 
『OCCHIALI NERI』(2022年)


わたしが紹介した順番が時系列でないのは極私的に好きな順に紹介したのみで、そのランキングはロッテントマト批評家ランキングからも一般視聴者ランキングからもずれているがそれらはなんの意味もない。

『OCCHIALI NERI』が公開されるが、近年の話題としては『サスペリア』リメイクをめぐる諸問題がまだ残存。どこがどう納得いかないのか、そもそもリメイクとはも含めての再考察がまだまだ必要な。またベルトラン・ボネロなどの非ホラー映画監督たちとの比較なども。