Television Freak 第70回

家では常にテレビつけっぱなしの生活を送る編集者・風元正さんが、ドラマを中心としたさまざまな番組について縦横無尽に論じるTV時評「Television Freak」。今回はロシアのウクライナ侵攻に関するテレビ報道について、ベトナム戦争時に現地に赴いた開高健の作品や活動を道標に考察されています。
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《人間らしくやりたいナ》



文・写真=風元 正
 
 
花曇りが続き、青山真治の死からウツウツと気分が晴れない日が続く。年初から知人友人身内の死が重なり、ようやく私の仕切る儀式をすべて終えた夕方に危篤という電話を自動車の運転中に受けた。以来、身体の芯が抜けたようで、心にも許容量があると知る。しかし、どこかでこの状況に記憶がある、とたどってみて、中上健次を見舞った日のことを思い出した。1992年7月頭、中上が2月に癌で入院した後、正確な病状がわからぬままで、しびれを切らして、古井由吉、青野聰、高橋源一郎、島田雅彦の4人とともに慶応病院を訪れた。受付を済まし、病室を訪ねたら、看護師さんが少し笑いながら、「中上さんは退院しましたよ」という。完全なすれちがい。呆然として、四谷で昼間から言葉少ない冴えない酒を呑んだ。8月12日、中上は熊野の病院で永眠したが、闘病中は各所に出没したという情報があって、対面を果たせなかったやるせなさは、盛大なお葬式が終わっても長く去らなかった。
中上健次は、いきなり出現する人だった。棲息地は新宿。私は担当ではなかったが、仲間の若手作家とともに、罵倒されるという武勇伝を履歴に加えるため、よく中上を探して歩いた。でも、こちらの都合よく見つかるわけでもない。佐伯一麦が、ニューヨークで買ったという茶色い革ジャンを「中上さん、これ貰うよ」と着込んで絶対に脱がず、タクシーに乗った佐伯を追いかけて大騒ぎになった夜も一緒だった。佐伯は今でもその革ジャンを持っているはずだ。私は、スカーフを持っている。
青山真治の『路地へ 中上健次の残したフィルム』は、中上が「路地」の消滅直前に撮影した16mmにつなぐ瞬間に心躍る映画だった。臥龍山、枯木灘など、中上文学の「名所」で井土紀州がテキストを読み、しかしその流れに耐えられなくなる瞬間に、パタパタと「路地」の覚束ない風景が出現する。小説の中では神話的に描かれているが、それとはかけ離れた、狭苦しくてごちゃごちゃした、何の変哲もない田舎の集落の一角。田村正毅のフィルムと中上のフィルムを繋ぐことにより、中上健次と青山真治は同盟を結んだ。
『散歩する侵略者』の加瀬真治、『エヴァンゲリオン』の碇シンジや『凪のお暇』の我聞慎二。トシでほかのが思い出せないが、最近のドラマや映画の登場人物はシンジだらけで、青山真治は「シンジシンジうるせえ」と文句をつけながら、各所にシンジが出没する状況をどこか愉しんでいた。これからも、ご近所に「シンジ」がいて、対話する日々が続いてゆく。「ケンジ」も一緒だから、賑やかになってきた。


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開高健は1964年11月、朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムに入った。2月末に命からがら帰国し、その後、ルポルタージュから小説まで、戦地での体験をさまざまな形で表現した。
その到達点である小説『輝ける闇』にこんな一節がある。「アメリカ兵は自分たちが命を賭けて守ってやってるはずなのに、感謝されるどころか、ソッポ向くか憎まれるかだけなんでイライラしてくるわい。そこへ仲間がどんどん殺されるので復仇を考えるようになる。これが堕落のはじまりじゃ。復仇は征服ではない。こいつは発展のない感覚じゃ。どんな軍隊でも外国へきたら堕落する。昔からそうなんじゃ」。クエーカー教徒の絶対非戦論者で、現地の軍病院でボランティアとして働いているニューヨーカーの老人が口にした言葉である。老人と語り手は政治と戦場の現実と民衆の3つのリアルについて語り合い、人を犠牲にしながら巨大な力が原始的なゲリラ戦で交錯する戦争の悲惨を確かめる。後に『ディア・ハンター』や『地獄の黙示録』でお馴染みになった認識と重なる。
開高は、取材の際にメモを取らない。石牟礼道子の『苦海浄土』と同じ理屈で、あらゆる事実は所詮主観でしかなく、人は同じ時を過ごしても別のものを見ているだけ、という単純な理屈を尖鋭化して、五感を研ぎ澄まし記憶を鮮明にしてゆく。まさに「文学」的手法であり、私もちょっと真似してみたが、仕事では役に立たないので早々に放棄した。そして、さまざまな記録の手段が普及した今ではもう相手にされない感性になってしまった。しかし、ICレコーダーの音声はただの抜け殻だとも思う。
もっとも、あまりに恰好のいい開高の「体験」は、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」と同じ疑惑に晒されてきた。記憶だけが頼りならば事実の真偽は確かめようもない。戦場で、作品全体の絵解きをしてくれる反戦活動の経験が豊富なインテリ老人が都合よく現れるかどうかは、かなり怪しい。何より開高自身が、他所からの取材者など単なる傍観者に過ぎない、という限界に苦しめられ、あれだけ旺盛に活動した作家が最後は長年の愛人との痴戯という個人的な経験を書くしかなかった。
開高の倫理的な苦しみはよくわかる。ただ、『輝ける闇』を読み直してみて、虚構だと割り切って受け取れば、現地から帰った後の事実確認や補強を経て、ベトナム戦争の前線で起こっていた出来事が整理されて記述されていて、価値の高い作品という判断に変わりがない。磨き抜かれた文章は、現代日本語散文のお手本のひとつである。 読売新聞外報部の記者だった日野啓三もベトナム取材をきっかけに作家に転じたが、あれから戦地を取材した本格的な小説などとんと見かけない。写真も含めて、戦地に「人間」が潜入できたのは、ベトナム戦争が最後ということになりそうだ。
そして、ベトナム戦争が終結してから50年、今回のウクライナでの事態の報道に接し、呆れ果てた。いったいいつから、日本のマスコミは米英の諜報機関のあやふやな情報を「大本営発表」する機関になったのか。独自取材はほとんどない。たとえば、ポーランドへ200万人を超えるウクライナ難民が流入していると報道されているが、移動手段は主に電車しかなく、しかも車両はぜんぜん混雑していないようで、すると、どうやって逃げたのか訳がわからない。細部はそんなことばかりだ。
私が好感を持ったのは、北海道出身でロシアの脅威を身近に感じ、単純な善悪の判断に疑問を呈し続けている杉村太蔵だけである。さすがは投資家として成功できた元国会議員。人知れず確度の高い情報を持っているかも。『サンデージャポン』で銀ぶちメガネの岸博幸が、「強い経済制裁に同調して、ロシアが北海道に攻めて来たらどうするんですか」という太蔵に、野蛮人でも見るような視線を送り、「われわれはG7陣営の国際秩序に従う選択をするしかない」と吐き捨てた瞬間の醜悪さは忘れられない。岸のような小賢しい官僚は私と同世代。江藤淳の指摘したGHQによる戦後教育改革は大成功を収めているようだ。
異彩を放ちながら大活躍しているのは橋下徹と玉川徹。どっちもどっちだが、ともあれ勉強家でそれなりに大衆感覚のある玉川の方がまだましか。しかし、この御仁がウクライナへ妥協を勧めたりして、だれが話を聞くのだろう。『羽鳥慎一モーニングショー』では、野球のサインすら覚えられそうにない長嶋一茂が国際情勢について熱く語っていて、ポストなどないと知りつつ、球場に戻ってくれ、と強く要望したい。橋下はプーチンやゼレンスキーと互角の世界の支配者のような態度で語っている。しかし、ほとんど無内容な感情論を法律論に見せかけているだけで、本人がより嫌われるほか世の中は1ミリも変わらない。あの安全圏からただ勇ましく吠えるスタイルは、だれにとって得なのだろうか。一回、あらゆる弁護士コメンテイターをクビにして欲しい。
コロナ禍の頃から目立っていたが、テレビ局にとって無難なコメンテイターだけを集める体制が完成した瞬間が終わりの始まりだった。ビートたけしの『新・情報7daysニュースキャスター』降板に象徴されるように、芸人やタレントが専門外の問題に「センス」で首を突っ込める天下泰平はもう過ぎた。『サンジャポ』での爆笑問題の太田光など、あの選挙特番の大すべり以来、何を言っているのかよくわからない。『タモリステーション』でのタモリの2時間の沈黙も、ただの処世術に過ぎない印象を受ける。それでも、テレビ局は今後もまたジャニタレや芸人をMCに起用し続けるのだろう。小倉智昭の『とくダネ!』は相対的にマシだった。私は、開高健よもう一度、などと言いたいわけではない。ただ、幅広い視野に立った事実に近い情報を冷静に知らせて頂きたいだけである。しかし、結果的にそのためには開高の如き「権威」が必要になってしまう。
世界地図を広げて、経済成長の度合いや人口の変化を考え合わせてみたい。すると、シュペングラー流の『西洋の没落』の果てまできたEU諸国はもはやユーラシア大陸の辺境にすぎず、中国、インド、イスラム圏の人口増と経済成長が圧倒的なのが見える。エネルギーと食料を握るロシアもその仲間だ。アフリカ勢や南米勢も侮れない。潜在的な南北戦争が再燃しているアメリカは「北」側の方がかなり危なっかしい。ほんとうに失言続きの老人バイデンしか大統領のなり手がいなかったのか、正直、内情がよくわからない。とんでもない人柄だったトランプさんの統治の方が世界は安定していた、という極右勢力が先進諸国でのしてくるのは必然の情勢である。「自由」とか「民主主義」とか言い募っている人口など圧倒的に少数派という事実は、よくよく噛みしめておくに越したことはない。でも結局は、太古から続く、東アジアの辺境の島国、という地政学的な優位に帰るのか。橋下や玉川の言説はどこにも翻訳されず相手にされないから生き残れる。
中上健次や青山真治は、世界史の巨大なうねりから虐げられた人々の痛みまで、等しく目が届くスケールを備えた才能だった。今こそ、優しく繊細なあの視線が求められているのだが、得難い人材ほど夭折するのは世の定めなのか……。


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『カムカムエヴリバディ』は、こちらは呆れつつ家人が楽しんでいたので付き合ったものの、日米関係にちょっとでも風穴が開かないか、という期待は当然ながら裏切られた。深津絵里とオダギリジョーは素晴らしかったが、虚無蔵さんまでハリウッドに行ってめでたしめでたしでは『奥様は魔女』に憧れていた時代とほとんど同じである。
村上龍『限りなく透明に近いブルー』(1976)、山田詠美『ベッドタイムアイズ』(1985)、野中柊『アンダーソン家のヨメ』(1992)などを最後に日米関係を本格的に扱った作家・作品が姿を消したのはなぜか、ずっと考えているが答えは出ない。確実なのは、新たに手を出しても売れそうにないことで、何か論じる角度がないかと探しながらもう20年以上経ってしまった。敢えていえばアメリカが内面化されて異物でなくなった、という事態と考えられるとして、私にとっての原型である1970年代ベトナム戦争下のアメリカはどこかへ行き今や幻である。
ただ、毎日トウモコロシ畑と格闘して州外にすら出ない人々の方が中心層ということは忘れまいと肝に銘じている。カントリーマンは、今でもおらが町のチームを毎晩パブで応援しているのだろうか。『フィールド・オブ・ドリームス』の世界。無垢なアメリカ国民たちが戦争に出かけて行って心身に深い傷を負い、もう勘弁してくれ、という気持ちはよくわかる。そして、ロシアの民衆は今、何を考えているのだろうか? ロシア正教の歴史の闇は、どうにも見当がつかない。
つい頭に血が上りがちな日々の中で、プロ野球や高校野球をやっていることで感覚が少し正常に戻る。今年はやはり新庄日ハムに注目だが、今のところ、戦力不足が否めない。言行はさほど奇矯でなく、基本に則っているもののコーチや選手がついて行けない印象で、唯一わが後輩の清宮幸太郎が覚醒しつつあるのが救いである。試合を見ているとどうやら、新庄監督の要求は「かつての新庄選手のようにプレイせよ」ということらしい。
ちょうどこの文章を書きながら、大阪桐蔭対近江の春のセンバツの決勝を眺めていて、桐蔭の選手たちが躊躇なくしっかりと自分のスイングをしているのに驚いた。つまり、そういうことである。選手新庄は自分の器を考え抜いて魅せるプレイを実践し、自分の力を出し切って大リーグでも足跡を残した。個人能力の不足を頭脳で補うことが野村野球の継承になるわけだが、指示待ちが習い性の選手はただ戸惑っている。その中で、子供の頃からスターだった清宮だけが、なんとなく理解しているようだ。平たくいえば、チームプレイなんか糞くらえ、でも、みんなが目立てばチームは強くなる、という話なのだが、謙譲が美徳の日本球界で新庄風が吹くのか? しばらく注視してみる。


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開高さんは、私の世代にとっては「週刊プレイボーイ」の人生相談『風に訊け』の人である。酸いも甘いも噛み分けた名回答にすいぶん影響を受けた。同じ欄を次に担当したのは中上健次。若者の兄貴分が小説家だった時代の話である。86年、文芸雑誌に移って、最初の大仕事が『耳の物語』完結に合わせた翻訳者ジャック・ラローズとの対談で、京都の「たん熊」で収録して拙い対談整理原稿をお送りし、茅ヶ崎に直しを受け取りに上がったら、「整理がよろしい」と褒められて、「耳と、文字と、男たち」という赤いサインペンでホテルのメモ帳に書かれたタイトルを渡された。滞在時間は10分にも満たなかったが、豪邸の脇の狩猟や釣りの獲物の剥製や銃などが壁に並べられた小さな書斎にいる「文豪」はどこか寂し気だった。後に、天下の「悪妻」牧羊子から逃げ出すためにベトナム取材などを敢行していたことなど、数々の苦渋を知る。
スタジオ200での講演に手伝いにゆき、歳を訊かれて27歳です、と答えたら、「まだまだやナ」と一言言われた。《人間らしくやりたいナ》は、いうまでもなくトリス・ウイスキーの名コピーである。「文壇三大音声」のひとりで、出版部の担当・沼田六平太のところに、「よれよれの、開高デス」という電話がいつもかかってきた。遅筆で、新潮社クラブを常宿にし、近所の飯屋は食べ尽くしても1行も書けず、「闇三部作」の完結篇『花終る闇』はついに完結しなかった。新潮社クラブに出る丸い背中の幽霊は、開高さんか中上さんか判別がつかない、という伝説がある。どちらも含羞を湛えた細い目の四角い顔で、体型もそっくりだ。芥川賞の「一行がない」という悪口の繰り返しは恨みを買ったが、今も広く読まれているのは作品の質からして当然である。一字の直しもない美しい丸文字の原稿と、「書くことがない」とボヤき続けたユーモラスな人柄は忘れがたい。そういえば、死因は食道癌……。
今年ほど、梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」という一行を思い出す春はない。しかし、「生きろとは言わん。ばってん、死なんでくれ」と返しながら、世界の様々な色に心を開いて歩いてみる。カメラはたむらまさき。

 港都にて大津波待つ春の闇


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風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。