映画音楽急性増悪 第29回

虹釜太郎さんの連載「映画音楽急性増悪」は『断絶』、『銃撃』、『イグアナ 』、『China 9, Liberty 37』などモンテ・ヘルマン監督作品について。

第二十九回 停止


 
 
文=虹釜太郎
 
 
『断絶』(原題 "Two-Lane Blacktop" 1971年/モンテ・ヘルマン)
  互いの車に乗り合う。ザ・ガールを含めて入れ替わるメンバーたち。四人による入れ替え。しかしザ・ガールは途中で去ってしまう。
 無音。静かに外界(車の外部)からの音も響いてくるがほぼひたすら無音。最後にフィルムは焼け落ちる。最後のレースの結果もその後の運転手もメカニックもポンティアックGTOの行末もわからずフィルムは焼ける。
 ドライバーとメカニックには名前もなく、俳優のバンドの音も流されずに(代わりに俳優でもあるChris Kristoffersonの「Me and Bobby McGee」やドアーズの「Moonlight Drive」、アーロ・ガスリの「Stealin」が)、GTOの中年のおしゃべりかひどく、GTO車内のBGMのコレクションにも誰も興味を持たず、ザ・ガールは去り、1955年型シェビーベルエア(レース仕様)の特異な内装だけが強い印象を残したまま、ドライバーは窓を手前に引いて締め、レースがはじまり、その結果もわからないままフィルムは焼け落ちる。ザ・ガールはいったいなんだったのかわからないまま、ゴースティング(突然に知人らと連絡を断つ)がさらにさらに濃くなるようにして映画は終わるが、どの街のレース場でも本作のドライバーとメカニックとザ・ガールのような態度は一般的ではなく、そもそもばりばりにチューンナップした55年型シェビーも見かけない。
 
 リンクレイターが『断絶』を好きな16の理由
 Sixteen Reasons I Love Two-Lane Blacktop By Richard Linklater のうちの10と12と15
10   Because Warren Oates has a different cashmere sweater for every occasion. And of course the wet bar in the trunk.  
12   Because Warren Oates, as GTO, orders a hamburger and an Alka-Seltzer and says things like “Everything is going too fast and not fast enough.”
15   Because these two young men on their trip to nowhere don’t really know how to talk. The Driver doesn’t really converse when he’s behind the wheel, and the Mechanic doesn’t really talk when he’s working on the car. So this is primarily a visual, atmospheric experience. To watch this movie correctly is to become absorbed into it.
 理由10と12が最高だが、理由の15は深刻だ。
 互いの車に乗り合うことが可能なレースなどない。そこで入れ替わるのはなんだったろう。
 
 
『銃撃』(原題 "The Shooting" 1966年/モンテ・ヘルマン)
 演出が最小限なのは予算が最小限だから。
 三度目の不穏な音楽がかかり、降り坂を歩き損なった馬が射殺され、しかし誰が殺したかも映されず、声だけが響き続け、男が白煙を撒き散らしながら逃げ回るという西部劇では希少なシーンからはじまる本作は、演出が最小限というより本作独自のリズムを刻み続け、それは『断絶』の沈黙を思い出すが…
 本作では追跡がずっと続く。しかし女がなにをなんのために追っているか、そして女の名さえわからない。途中に登場するビリーとの関係も不明、さらには馬さえも捨てられ、追跡は…
 本作は『旋風の中に馬を進めろ』と撮影も同時進行し、出演者もかぶる限界の中で撮られた。
 
 
『旋風の中に馬を進めろ』(原題 "Ride in the Whirlwind" 1966年/モンテ・ヘルマン)。
 静かにはじまるが『銃撃』のどこになにを追うかはわからない追跡戦とは違い、こちらは待ち受け、逃げる。三人が強盗団の宿で一夜を過ごすが、なにも関係ないのに次々と追われ、ひとりまたひとりと殺されてゆく。
 モンテ・ヘルマン監督だが、脚本はジャック・ニコルソン。
 皆が殺されないために必死で、ミリーの父親が顔を洗うだけのシーンが強い。ウェスとバーンとオーティスの三人の間にもなにかしらあっただろうがそんなことは関係なくオーティスもバーンも死ぬ。最後に生き残るニコルソンは闘う理由がないままに馬を走らせ続ける。
 『銃撃』の不況と無音とは違って音楽はきちんと入るのだがどの箇所でも異様で、なぜ殺されなければいけないのかはまったく解決しないまま、映画が終わった後にすぐ殺されるかもしれないまま映画は途中で切れるように終わる。
 冒頭に襲撃される馬車の細部のとらえ方や首吊りの足の揺れ方のとらえ方、室内から撃ち返す人物のとらえ方などのどれもが異様。『さすらいのカウボーイ』の前に本作と『銃撃』が存在した。
 ヘルマンが語るところに寄れば『旋風の中に馬を進めろ』と『銃撃』のインスピレーション源は、『駅馬車』(1939年/ジョン・フォード)、『荒野の決闘』(1946年/ジョン・フォード)、『片目のジャック』(1960年/マーロン・ブランド)、『ヴァージニアン』(1929年/ヴィクター・フレミング)。
 
 
『イグアナ愛と野望の果て』(原題 "Iguana" 1988年/モンテ・ヘルマン)
 『果てなき路』(原題 "Road to Nowhere" 2010年/モンテ・ヘルマン)完成までに21年の時間がとされているが、2010年より22年前の『イグアナ』までの間にどれだけ長編作品があれば、『果てなき路』はあそこまでの内容にならなかったのか。
 『イグアナ』。虐げられ続けたイグアナによる島の王国。イグアナを演じるのがエヴェレット・マッギルだが顔の右側全面のイグアナメイクにもかかわらず、イグアナ王国の奴隷たちには首を斬らせたり、マル・バルディビエルソ演じるお嬢を性奴隷にしたりしている行為たちに溢れるも根っからの下品さに欠けているが(北米版のジャケットの印象と実際の内容はかなり異なる)、生きている間だれからも愛されない様がラストまで。奴隷にする側の入れ替わりが激しい前半、しかしその入れ替わりはラストまで続きそうだが、海に消えそうで消えない最後は唐突なようでいて、出産がイグアナを変えたようでいて実際のところどうなのかはわからず、また生きている間だれからも愛されないといっても古くからのイグアナ島民の二人はそうも見えない。というかイグアナ島民たちの会話こそが実に奇妙だが、それは島での恐怖政治が実際にはどうだったかを映画は考えさせる。そこには圧倒的麻痺と食欲ばかりがあったはずだが、俳優たちの演技やメイクからはそれは感じられない。実際の生活はどうだったのか。映画の前半を思い出せばカルメンとイグアナ=オーバラスはとても近い存在だとわかる。しかしそこにはエヴェレットの優しさが邪魔をしている。
 照明もなければ小道具もない三週間のなかジョゼフ・M・シヴィットがレフ板を使い光を取り入れて希望を見出した。予算の無かったランサローテ島。
ヘルマンは主演のエヴェレット・マッギルの代わりにアラン・リックマンを望んだ。ヘルマンは本作を『ある結婚の風景』(1974年/イングマール・ベルイマン)のヘルマン版とみている。エヴェレット・マッギルではない、より恐ろしげな誰かが必要だった。
 『イグアナ』は『コックファイター』からは14年ぶりの監督作で、その後の長編監督作まで21年かかっている。しかし『果てなき路』までの間にやはり監督作が作られてほしかった。とはいえその間にはヘルマンが言うところのフィルム・ドクタリング・ジョブがいくつも存在した。
 
 
『魔の谷』(原題 "Beast from Haunted Cave" 1959年/モンテ・ヘルマン)
 the endの入り方があまりにも早く、巨大蜘蛛の奇声にんなあほな!となり、山小屋のあまりにも近くまで人間をさらいにくる巨大蜘蛛がいるのに皆あまりにものんきで、しかも巨大蜘蛛かと思いきや頭部は人型な獣で、強盗捜査の追っ手もまったくいないまま早急なエンディングになるが、年齢が何度も細かに変化するような年齢不詳シェイラ・ヌーナンの表情と仕草を何度も見せ、山小屋に出発する際のホテル入口での音響が不可解で魅力的なモンテ・ヘルマンの監督処女作。アレクサンダー・ラズロの音楽が蜘蛛の奇声まで造ったかどうかはわからない。ロジャー・コーマン、1960年の『Ski Troop Attack』の成果。
 
 
『バックドア・トゥ・ヘル情報攻防戦』(原題 "Back Door to Hell" 1964年/モンテ・ヘルマン)
 ジョー・ヴェラルデの音楽は雄弁過ぎるけれど、バーネット(ジャック・ニコルソン)が戦地で夜中に語りあう場面ではまったく鳴らず、彼の話し方のトーンは間があいていてとてもよく、また虚しい。そのとてつもない虚しさはバーネットの死とともに消えることもなく、ジミー・ロジャースの延々とした沈鬱っぷりが1944年のルソン島に沈む。
 
 
『China 9, Liberty 37』(1978年/モンテ・ヘルマン)
 チャイナ、リバティー共にテキサスの街の名前。
 『Spaghetti Westerns』というコンパイルにも収録されたという本作だが、ちなみに『Spaghetti Westerns』には以下が収録されている。
『Apache Blood』(1975年)、『Between God,the Devil and a Winchester』(1968年)、『Beyond The Law』(1968年)、『China 9, Liberty 37』(1978年)、『Death Rides A Horse (1968年)、『The Fighting Fists of Shanghai Joe』(1972年)、『Find a Place To Die』(1968年)、『Fistful of Lead』(1970年)、『God's Gun 』(1975年)、『Grand Duel』(1974年)、『Gunfight at Red Sands 』(1964年)、『It Can Be Done Amigo』(1973年)、『Man From Nowhere』(1966年)、『Minnesota Clay』(1965年)、『Sundance and the Kid』(1969年)、『This Man Can't Die』(1967年)、『Trinity and Sartana』(1972年)、『Twice a Judas』(1969年)、『White Comanche』(1968年)。
 China 9, Liberty 37…とは中国人街まで9マイル、リバティまで37マイル…という識。
 本作の音楽設計は雑だが、それは雑というよりこの設計なら、ジェニー・アガター演じるキャサリンに付けられた十回の音楽たちによって、それは最初の全裸のキャサリンから家を焼いて再出発する最後のキャサリンまでの全十回によって本作はキャサリンの映画になってしまっているように見える。『魔の谷』がシェイラ・ヌーナンの映画であるみたいに。しかし仮にこれらの音楽がすべて入っていなければどうだったろう。それが本作と『銃撃』『旋風の中に馬を進めろ』との大きな違いで…などと言っても仕方がない。三角関係といってもトラブルの起因はキャサリンのおさまらなさにある。しかしそのおさまらなさがしっかり細部まではまったところにジェニー・アガターの不気味さが。本作の雑な音楽の入り方、その異常なしつこさがジェニーの最後を導くように響いていた。逃げた二人だけでなく追われる者、追う者の三人(ウォーレン・オーツ、ファビオ・テスティ、ジェニー・アガター)が死ぬはずの運命からも解き放たれ生き延びる様が高らかに。再出発の馬車に乗るキャサリンとは一体… 『バックドア・トゥ・ヘル情報攻防戦』の沈鬱/憂愁の会話劇とは違って、最後に滲む巨大な牧歌的な生命力の理由は何か。
 
 
 『レザボア・ドッグス』(1992年/クエンティン・タランティーノ)も『バッファロー'66』(1997年/ヴィンセント・ギャロ)も当初はモンテ・ヘルマンが演出するはずだった。
 モンテ・ヘルマンについての日本語資料にはヘルマン好きは皆が既に読んでいるかもな『モンテ・ヘルマン語る 悪魔を憐れむ詩』があり、モンテ・ヘルマン出演のドキュメンタリーフィルムには『Plunging On Alone: Monte Hellman's Life In A Day』(1986年/ポール・ジョイス)がある。『モンテ・ヘルマン語る 悪魔を憐れむ詩』には、『アバランチエクスプレス』(1979年/マーク・ロブソン)においてヘルマンが何をしたか、『ロボコップ』(1987年/ポール・ヴァーホーベン)においてヘルマンがテキサス、ミシガンで何をしたか、『ビリー・ザ・キッド21才の生涯』で何をしたかが語られている。
 実現しなかった監督作に『コカイン』、『ダークパッション』、『フリーキー・ディーキー』、『蜃気楼を見たスパイ』、アラン・ロブ=グリエ原作『快楽の館La Maison de rendez-vous』がある。
 『果てなき路』は『快楽の館』だった。そして『秘密の戦士たち』と『ラモン・メルカデルの第二の死』も。実現しなかった『快楽の館』は『In a Dream of Passion 夢見るような情熱で』と名づけられるはずだった。