宝ヶ池の沈まぬ亀 第68回

2020年夏までの本連載をまとめた書籍『宝ヶ池の沈まぬ亀 ある映画作家の日記2016-2020』を上梓された青山真治さんによる2022年1月下旬~2月中旬の日記です。今回は約3週間に及んだ入院生活の記録が中心。昨年末から続く「霊性」研究もさらに拡張され、ジョン・コルトレーンに次ぐ1965年以後のオーネット・コールマン研究も開始されます。映画『人も歩けば』(川島雄三監督)『カンゾー先生』(今村昌平監督)『自分の穴の中で』(内田吐夢監督)『21ブリッジ』(ブライアン・カーク監督)についても。


68、いつまでもここでこうしているうちにやがて消えてなくなれば

 

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Photo  Mari SHIMMURA
『レオス・カラックス 映画を彷徨うひと』(フィルムアート社・2022年3月刊行予定)


文=青山真治

 
某日、家にあるダグラス・サークを仕事場に集結させ、いつでも見られる体制にした。つい先日読んだインタビューでレオスが「僕はダグラス・サークじゃないんだ」と発言していたのも非常に印象的だったが、そこで何について語っていたのか忘れてしまった。それがわからなきゃしょうがないが、とりあえずレオス復習で『ホーリー・モーターズ』後半から『ポンヌフ』前半、夕餉中はWOWOW『東京暮色』前半、そして『ポンヌフ』後半、となかなかの変則コース。ついでに食後、郵便受けに『東京暮色』BDが届いた偶然。『ポンヌフ』(地下鉄駅階段から見上げる雪)と『東京暮色』で最高の雪が降ることは織り込み済みだったが、それはサーク的でもあった。しかし雪の降るサークって? 『心のともしび』? 確か『エデンより彼方に』後半で子供たちの雪のシーンがあったような……でもあれは雪玉を投げつけるだけ? そんなことも忘れかけているのでは見直す必要がある。とはいえかつて「モノクロホークス全部」や「三九年までのフォード全部」「溝口全部」「小津全部」「ムルナウ全部」は成功したものの、それ以降企画倒れに終わることしばしばで「モノクロルノワール全部」も「モノクロウォルシュ全部」も途中挫折、「ドライヤー全部」は目下『奇跡』一本きり、「西部劇以外のアンソニー・マン全部」も最初の一本のみで空振りもいいとこ。そこに「サーク全部」が足枷として乗ってくる。どれも一度は見ているとはいえ。いい加減一本化してグッと締めていきたい。しかし新旧含めて要入手のソフトは次々に増え、それを追うのに手一杯なのが実情。フォードの『軍使』がファミリー向け十枚組で登場してしまうご時世。
 
某日、深夜に豊後水道で震度5+。ちょうど高知の海岸の写真を眺めていた直後だった。甫木元家ご老体の安否が気遣われる。その後、気づかず寝ていたと豪気な消息が。しかし西方の原発はことごとく危機に瀕している。いや、どこにあっても危険だが。
午後は某監督の新作に合せて出版される書籍のために某氏と対談。大変面白い話になった印象。恵比寿駅徒歩数分の雑居ビルの高層階でそれだけでも不思議な味わいだった。最近はこういう場所で何度か取材を受けたりしているが、傾向としては悪くない。ただちょっと季節的に寒いのが難点。帰り、昔なら酒場に繰り出すところ、すんなり帰宅。
さて今日からとりあえず目標となる予定のない状態になる。こういうときにしっかり勉強を進行させたいところ。映画に行けばいいのだろうが、どうも触手が動かない。勝手に「長男たちの映画」と私が認識しているものらがやっているのは知っているが、誰がいくらいいと吹聴してもさすがに二度と行く気にならない。『マクベス』なんてウェルズの傑作があるのになぜ今さらわざわざ、と思う。レディ・ガガの芝居もしばらく結構。
しかし体調が悪すぎる。
ントゥーメに続いてバダル・ロイも鬼籍に。『オン・ザ・コーナー』の打楽器二人。残念なり。
 
某日、実人生を晒すという方法をいわゆる「私小説」的露悪のみで見てもJLG、ユスターシュ、ガレル、レオスのような特殊な作家をそこへ収めることは無理で、多分ハーモニー・コリンもそうなのだが、彼らには別の可能性があり、純然たる虚構にも関わらず例えばペキンパーの作る西部劇や殺し屋映画にその側面がないといえば嘘になる、そこが現代映画の最も重要な部分で、かつ困難な部分でもある。一般化された人生哲学を語る方が楽だ。
このことはそれら限られた作家たち自身を晒すやり方が、映画を動かす資本主義経済の「むき出しの力関係」に置かれる監督という「労働力商品」であることをやめ、それを脱臼させる「生身の存在」として介入する、という話として「週刊金曜日」連載の廣瀬純による労働問題の解説に代入できるかもしれない。だが監督が、つまり作家が「生身の存在」として作品と関係する例はそれほど多くない。イーストウッドにしても主演作でなければ、いや主演作であってもそれを頑なに主張できる保証はない。
深夜、よくない時刻にぱるるに起こされたせいで午前中は完全にダウン。
午後ようやく動き出して、U2『焔』。イーノ/ラノワによるU2事業第一作として。〇九年にリマスターされたとはいえ八四年の音。思ったより心地よい。もちろんこれまでの人生を通して嫌ってきた悪しきロックの元祖というか典型というか、そういう音であることは間違いない。誰に悪気があったわけでなく、たまたま爆発的に売れただけのことだ。いま聴けばいい音だと確認できてももう二度と聴くこともない。何か確認のために部分的に聴くこともあるかもしれないが。四曲目のケツのなかなか立派な弦とか。インストだとホッとしもするのだから、そう簡単に蟠りが消えることはない。昔のように、ドンくさい! とただ罵倒することももはやない。
ロジャー&ブライアン『ミキシング・カラーズ』。やはりもはやイーノは単独作が良い。兄弟であっても事情は変わらない。これも決して悪くはないし、普通に聞いてもいられるが、結局期待しているのはこれではない。瞑想を促してくれる音響を待っているのだ。
そして単独作である最新『Rams』はサントラだが、やはりかなり瞑想への誘いというかアンビエント作としての側面を充実させている。だが、同時にあくまでサントラであって、映像へ音としての色彩を添える意図が忘れられていないが、期待はその境界を越えたところに向けられている。
この単独作が際立って聴こえるのは、前回から夢うつつのようにこだわる単独ショットの話とも繋がっていて、一本の映画にそんなに多くないだろう、ある強度を伴った単独ショットが如何なるものか、反芻させられるからでもあり、もっぱら視線=距離と光/影の問題であることは相変わらずだがそれにしても現代映画が単独ショットを失って久しく、それが悪いと言い募りたいわけではないが、視線と言葉とで誰かと繋がっていなくては不安で仕方ないような人々ばかりいまでは描かれているのではないか。ここでは屹立した孤独など誰も好きこのんで語らないのではないか。だが単独とは何か。それこそが問題なのではないか。あの『麦秋』の東山千栄子の、つい闇雲な義憤に駆られて書くが夜更けの窓辺で外を眺める『グロリア』の少年の、ラストで永遠のドアを閉ざす『ゲアトルーズ』のヒロインの、それぞれの単独ショットが現す清々しいまでに圧倒的な孤独を見せてくれたものなど今では皆無である。そのとき彼らは何も見ておらず、何かを語っていたとしてもそれは誰も聞く者のないモノローグであり、私たちはそれらを自分たちだけが見聞きする隠匿物とし、やがてそれらは密かに何度も自分たちに返ってくる、それこそを我々は必要としたはずではないか。そうして、ひどく抽象的な話だが、そのことを敷衍して言えば『クライ・マッチョ』とは作品自体ひとつの「単独ショット」としてある作品と言えるかもしれない。
夕餉の後、川島『人も歩けば』。未読の梅崎が原作なのでそこの好奇心が先行したが、どうやら川島と梅崎はそれほど行き違うこともないようだった。三つ違いで、原作が一年先行しているはずだが。一九六〇年の時点でオリンピック経済効果が話題の外枠、最後の戦後の光景を見るにも非常に都合のいい作品かもしれない。特に東京湾岸の木賃宿の風景はまるで戦前のフランス映画(『霧の波止場』とか。それよりずっと明るいが)のように柔らかく主人の加東大介も犬のナターシャも大変印象深い。彼らをはじめ奇人変人が二十数名次々に登場しては賑やかし、名手岡崎宏三の妙技を含めあっという間に百分語り切ってしまうのはやはり才能という他ない。それを凝り固まることのない頑固さとでもいうのか、梅崎独特の思想が包んで大変好もしいのだった。フーテンの寅以前の森川信のちゃんとした芝居を見たのは初めてだが、なるほどと思った。そしてロイ・ジェームスが懐かしかった。
 

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某日、朝Twitterにて最首悟先生による延原時行さんの引用「キリスト者の信仰態度というものは、私にとって、徹底的問いに生きることなのである。手ばなしで問いつつ生きていいのである。徹底的問いのところで「何者かが、私の存在の深みから、私と共に問い給う」ことを直覚するからである。この直覚は「と」の不思議への手放しの信頼と言ってもよい」。
延原さんは敬和学園大学という新潟県新発田市にあるキリスト教系の大学の先生である。この文章に何か蒙を啓かれそうな気がする。今までわからなかった、この「手ばなしで問いつつ生きていい」という前提のあることを初めて知った。そして「と」への手ばなしの信頼。これが我々にはないのではないか。問うことは疑うこと、と思ってきたが、そこに何者かに向けて「と」という信頼をふと持ち得るとしたら話は別なのだ。しかもこの何者かは答えをもたらすのではなく「共に問う」のである。我々は誰かに、超越者に、答えを期待する。答えをもらうが故に信頼がある。そのはずだが彼らは違う。彼らの何者かはただ共に問う。彼らは、キリスト者である。
朝Twitterでもうひとつ。ある方が『人も歩けば』について「最高傑作」としつつ、川島は「これはもう負け犬でございます」とコメントを残したのは疑問、と。どうも夢オチを潔しとしなかったのではないか、と思われた。山積みである問題を全て置き去りにして夢にしてしまうのは当時としてむしろ卑怯に思われたのではないか。しかし同時に他に方法はなかったのが当時の業界であったことには想像は難くない。
昼過ぎに武蔵小山から茶屋坂へと買出し行脚。すぐ疲れる。
今週からはオーネットである。四年ぶりのスタジオ録音『ジ・エンプティ・フォックスホール』から。先週までドラムといえばラシッド・アリを聴いていたのだが、今度は十歳のデナードである。しかし若いからといって舐めてはいけない。ヘイデンがベースを弾いている。親父のアルトはいつも以上に澄んでいる。トランペットも吹く。フィドルも弾く。六六年のトレーンの成果を待ちながら、半ば暇潰しのようにか、半ば実験のようにか、独自のフリーを三人で紡ぐのは聴いていてひたすら心地よく、文字通り狩りか何かに出かけて狐の留守の間に巣穴に吹き込むいい風みたいなこのアルバムを傑作と呼ばせるに足る高みに至らしめる。ヘイデンがいてもアトランティック時代とは明らかに一線を画す穏やかさ伸びやかさは、ライヴで聴かせる芸の延長線上だが、それをスタジオで構築しながらじっくり聴かせる。
続いて『未踏峰』。六八年ローマ録音。トレーン亡き後、いよいよ本腰を入れてきた感じのオーネット。あまりいい音ではないが、登るというよりは二本のベースの周囲を儀式のように漂い旋回する不穏さが延々と続く。最後にシャハナーイというインドのリード楽器を吹いているのだが、これがめちゃくちゃいい。例のエレクトリックに聴こえる、モロッコとか中近東系に通じる音色。武器として完璧に使いこなし、バンドがそれを讃えるように演奏が白熱していく。非常にプリミティヴな儀式性が高まる。
このboidマガジンにやはり連載されている虹釜太郎さんの新しい原稿がマイケル・チミノに関してで、それを熟読。未製作作品リストが連綿と。これだけでいつまでも眺めていたい気持ちになる。虹釜さんもやはりチミノを愛しておられるのだなあ、と心からわかる文章である。こういう人には嘘がつけない。黙っていても見透かされる。それでもいい。チミノはこういう人がいて幸せだとこちらまで嬉しくなるようなことだ。
続けて廣瀬/須藤のユスターシュ議論。これまたエグい突き方をする討論。面白い。
『死者と霊性』読了、座談会部分の必要箇所、メモ。
◯表現とは死者とともになされるものであり、そのことによって過去にも未来にもひらかれている(中略)我々は死者とともに、あるいは他者とともに生きている、それは過去の記憶とともに、さらには未来の子どもたちとともに生きることでもあり、そのことによって新たな表現を創り出している。(安藤礼二)
他にも数多くあるが、これだけ残して次へ向かう。
 
某日、ふと残念というか所詮そういうものと諦める感じだが、自分のジャズへの欲求はオーネット以降続きそうにないということに気づかされた気がする。ファラオは聴くとしてもそれ以降は見えない。今朝オーネットの中古を探りながら、さすがに五千円を超えると購買意欲がなくなるのを認識し、しかしどうしても欲しければなんらかの形で入手するだろうが、そうなることもなさそうだ。これよりあれが好きとかそういうことより、なんにしろ意欲がない。これからは意欲優先がよさそう。
新たな日記が出て、さらにGHOST STREAM『FUGAKU』三部作配信ページの準備もそろそろ整うようだ。私にとってこれらを大っぴらに世に問えることは、ごく小さな一歩だとしても、同時にこれがないと構成部品がいくつか足りないので機能不全、のような側面のある作品群である。何年ぶりの新作、と言われるたびに、あのぉこの間こんなこともしてまして、と断りを入れたくなったものである。そうしてたぶん何よりも特徴的なのはこれらが自分の他の作品のどれにも似ていないことだろう。いや、何かしら通い合うものは探せばあるだろうが、ひとまず目立って比較対象になるものはないはずだ。いわばミッシング・リンクを発掘したようなことになるのか。時間があったら見ておいて記憶に残してくれたら嬉しい。
向かいの家が解体作業に入り、割と早朝から工事音がしている。
気にせず、オーネット『ニューヨークは今』『ラヴ・コール』。トレーンに向かったファラオのごとく、オーネットに対してデューイ・レッドマンといういまひとりの芸人が挑む。しかしなんだか中途半端だ。わからないがトレーンの目指した霊性の根源のようなものは、少なくともこの時点のオーネットには見えない。リズムセクションとの関係もあるかもしれない。色々試すのだがうまくいっているとは言い難い。しかし、そうではなく、このセッション自体デューイ・レッドマンの入団テストにヴェテラン勢を揃えて度胸と勝負強さを見た、みたいなことだと捉え、そう割り切ると『ラヴ・コール』というアルバムは悪くない。実際レッドマンがフリーとして一人で冴えている局面がある。一方オーネットはモンク化を目指している感じで芸人としては面白いがさすがにそれだけでは閉口する。最後の一曲がスローな曲だが、ジミー・ギャリソンがアルコでやることを含めて、フリーとしての別の局面を聴かせてくれた。でもそれもトレーンで実践済みでもある。
「たけくらべ」現代語訳は何冊か出ており、評判のいいのをkindle購入、答え合わせに見合わせてみたが、問題なし。当方、より格調高し。当然か。お目当てが違う。
夕餉、昨日から饂飩だが何故か今日は喉を通らない。三度も戻して疲労困憊。
深夜に自分の咳で目が覚める。オーネットの六枚組アナログは221ドルで入手する意味はない感じ。今朝そのように考えてしまったこともあり。意欲の問題。
いつしか雨が降り始めている。
 
某日、ぼんやりしたまま病院へ行くと、どうやらよろしくない状況、こんなことは珍しいというくらいの結果から明日入院と即決。治ってくれるといいが、医者というのはいつでも五分五分みたいな顔をしている。むしろそういう方がこちらは前向きになるが。
帰って夕餉、疲れて眠り、起きたらビアリストックスの新MVが。とりあえず川添監督を誉めた。事実、悪くはない。少し笑いがあるといい。あるけど、もう少し。
 
某日、入院準備をしているとそれだけで疲れる。かつてはごっそり持参した書籍も三分の一ほどに縮小。身軽なのも小回りが効いていいのではないか。抗原検査、採血、入院手続き、検査結果を待って七階へ。前回と同じ間取りと言われたが、明らかに広い。条件は何も変わらないので問題はないのだが。昼に流動食、買出しなど済ませて読書。若松英輔『霊性の哲学』大拙の章。何かもう一つ乗れない。なんだろうか。引用部と本文とに微妙な誤差がある気がする。大拙はそうは言ってないのではないか、と。全体を把握しているわけではないので難しいところ。
名古屋はビアリス新作含めホキモト売出し計画が絶賛進行中。今年はそれで忙しそうだ。
夕餉もまた流動食。「週刊読書人」廣瀬純と今野晴貴氏の対談を読む。「賃労働」について。労働運動シリーズ。再度読み込もうと「金曜日」も持参。一方、瀬川先生と白土三平先生の追悼文も読む。白土は小松美彦という東大の先生。存じ上げなかったが、どうやら死の専門家らしい。「死とは死者だけに帰属する事柄ではあるまい。そもそも死の存立には、その死を正視し引き受ける者の存在が必須なのである」といった、昨今読み耽る書物のどこかにも出てきそうな言葉でカムイのその後の消息を伝えて、それだけで熱くなる。次の入院に、と全巻持参するつもりだったが、いずれ伊豆で送る長い休暇をそれらと共に過ごそう。
寝ながら、Spotifyで聴けないニール・ヤング。イヤフォンで聴くとまたこの手に取るような距離感が絶妙にこのアルバムの凄みを教えてくれる。ここには始まりや終わりが意識されていない。ある一晩の、焚火を囲んだセッションの途中から途中まで、たまたまそこだけテープが回っていたような。いや、本当に録音されていたかどうかも定かではない、自分の聴いたものが果たして明日も正確に同じものとしてあるか、聴けるかどうか、定かではないようなものかもしれない。まさに霊性の音と呼ぶべきだろうか。
暗闇で妄想を膨らましているうちに続けてオーネット『アット・トゥエルヴ/クライシス』。六八年八月と六九年三月の国内でのライヴ。メンバーはオーネット、デューイ、ヘイデン、ドラムがオーネット・デナード、このセットが六八年、六九年はここにドン・チェリーが加わるのだが、このドラマーはどうやら例のオーネットの息子のようだ。しかしまあそんなことはどうでもよろしい。私は昨年から同じ妄想を抱き続けていたのだが、これがまさにそれだった。滴り落ちる血から光の粒が跳ね回るのを見ながら巨大な蛮刀を振るって羊肉を切り刻んで食うベドウィン族の男たちに囲まれつつ彼らのバンドを聴く、というのがそれだ。いや、そういう名盤がオーネットにあって、というジャジューカ参加のあれらから膨らんだ妄想で、それは歴史的名盤などではなく、いまこの場で切断された肉から滴り落ちる血そのものだ、というスローガンに苛まれていたのだが、現実には当時のライヴが2in1になったこのアルバムの音がまさに自分がそれとして聴くべき音だった。ほとんど眠りかけていたので本当にそうだったか定かではないので明日改めて、ということになるが、とにかく最高の演奏だった。去年から聴いているフリーの中でも最もフリーな演奏かもしれない気がした。
 

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某日、夕方予定だった内視鏡が午前中に行われ、麻酔でぼんやりした半日を過ごす。一方でストレスだろう、プリンやらおやつやらカフェオレやら糖分摂りまくり、さらには予定になかったAmazonに走る。もっとも無駄使いではなく、意外に冷静に未来を見据えてのチョイス。少なくとも近いうちに購う予定だったものたち。
結局何もしなかった。栄養飲料が持ち込まれたが、いわゆるそういう味で不味いが飲めなくもない。この方がよければそれでもいい。どっちでもいい。
それより考えたいのはベルンハルト『石灰工場(The Lime Works)』英語版をkindleで購うかどうかだ。この状態で翻訳したくなるかどうか。購ってみてから考えるべきか。
……というわけで考えた結果、購い、2ページ訳した。面白いので続けてみようと思う。
消灯後、『アメリカの空』。この凄まじい傑作にどんな穢れがついてまわったのか、どういうわけでこれほどの無視を被らなければならないのか、知る由もないが、とにかくこの出来の良さに対してあまりに知名度が低いのではないかと思われ、その評価の低さによってかまともな録音もなされず、楽譜通りの完全な演奏もされず、中途半端に投げ出されている。それが人種差別によるものだったかどうかも知らない。しかしたんにこれが傑作であることは聴けばわかる。歴史はもう一度やり直されるべきだ。オーネットが次作『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』と『ボディ・メタ』を発表するのはそれから五年後。そうやって七〇年代前半のフリーは頭を失くした蛇になったのか。久しぶりに聴いた『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』はそんな事情もあってか、俄然よく聴こえた。もはや外部に漏らしてはいけない、ダンスは頭の中にしておけ、ただし最高のダンスを、といった具合。頭の中なら奪われることもない。それが実に功を奏している。しかしそのようにしてフリーは一度殺され、そして見事に再生したのかどうか。また宿題が増えた気がした。
 

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某日、深夜に首に痛みが起こり、さらに眠れないので痛み止めと導眠剤を求め、点滴でもってそれを注入してもらうと非常に効いて、久しぶりにゆっくり眠れた。
だが、起床後はあまり体調すぐれず、まともに起きていることが難しい。とはいえ痛みは再開し、薬も再びお願いする。頭はぼんやりし続けていて何もする気にならない。アセリオという点滴薬が随分遅れて来た頃にはしかし痛みは治まっていた。それでも投与してもらう。眠くなる副作用はないはずだが、ずっとウトウトする。そのうち使い物にならなくなり、眠りに落ちた。午前一時に目覚めたのは夢を見たからで、それは「一九八〇年アイオワ」という設定があった。いや、むしろ設定だけがあった。そこで人物や風景や物語が動いたわけではない。何しろ私はその時空を知らない。ただヒントはある。中上とヴェンダーズである。それについて短いノートを書いた。もしかしたら何かのヒントになるかもしれない。
また同じようなところをうろうろして、と笑われるかもしれないが、この「同じようなところ」には過去も未来もないのだ。そして何度歩き回ってもそこには発見がある。
ナラ・シネフロ再聴。やはり悪くない。続けて作業中に『フレンズ&ネイバーズ』。七〇年だから『アメリカの空』を前に、といってそれがどれくらい前からのプランだかは知らないが、できるだけ風通しの良いライヴやセッションとして記録したものの一つと思われたが、それにしても軽い。重いものはみんなチャーリー・ヘイデンに任せて。そしてそれは悪いことではない。ただ、こうした多幸感も全て「アメリカの空」にぶち込まれ、五、六年もすればこの牧歌的な風景さえ野心と共に消え去ってしまう。この時期のオーネットはアルト奏者でたまにフィドルやペットも使う、のではなく、アルト奏者であると同時にフィドル奏者でありペット奏者でもある、ということがはっきり窺えるアルバムでもある。『アメリカの空』のダメージはさまざまな可能性を奪っていったようだが、それもその一つか。オーネットがそれらをこの時と同じように手にすることは二度となかったかもしれない。
このBLMのほとぼりが冷めないうちに、オーネットのより詳細な評伝が発表されるべきだし、される気がする。それは商業にとことん利用されたトレーンとは一線を画し、同じような天才がいかに商業と渡り合ったかを語ることになるだろう。
夜明け前に外を見る。広い公園と八車線ほどの道路を挟んだ向かい側に高層マンションが立っている。この時刻には向こう側の窓の明かりはたいてい点いていない。こちら側はどうだろうか、やはりほとんどの部屋は消灯しているだろう。向こう側からこちら側を伺うのはどういう気分だろうか。生と死の領域が意識されるのだろうか。こちら側にそんな気はさらさらないが。いや、果たしてそうか。多少なりとこちらを死の側に曲げてあるのではないか。それで同情を買いたいとか。まさか。もしそうだとしたら、せっかくいいマンションに越したのに見える風景は死の淵にぼんやり灯った幽かな光ばかりというのは、なんともお気の毒な、というこちら側の同情心から、である。まして現在、コロナ禍の自宅待機が常態化しつつある中で向こうもこちらも生死の境にそれほど変わりないかもしれない。
 

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某日、流動食の朝餉、買出し、その他いつも通り。「霊性」研究、大拙の章を読み続けるが、肝心な部分はない。その前置きのつもりだったがもう少し情報が欲しかった。たとえば華厳について結局わからない。「無心」と「霊性」が同じ、と言われても曖昧なままだ。
とりあえずその章を終えて、先へ進み、井筒俊彦の章へ。これこそ何も知らないが、かつて大和屋竺氏がかなり没入していた記憶がある。それで大学の一般教養課程に授業があったので受けてみたが、ちんぷんかんぷんで何度か出てやめた。いや、逆だ、大和屋さんのことを知った方が後だった。それでいつかはその爪の先だけでもわかるようになろうと心に秘めて今日まで来た。これが最後の機会かもしれない。井筒は大学で教員に失望したがただ一人、西脇順三郎だけは先生と崇めたそうだ。私には蓮實先生と平石貴樹先生、二人もいてよかった。平石さんには文学は凶暴たりえるということを教わった。もちろん描写ではなく、エネルギーにおいて。文学的にその凶暴さにおいて私は平石さんの門下生を自負する。
で、井筒だが、ある時から彼はカタカナを用いて「コトバ」と表記するようになる。その意味するところは言語ではない。姿を超えた意味そのものだという。そして〜にとっては〜、とその例がいくつか続く。それはわかる。そこで挙げられる例は多少陳腐だが、間違いではない。映画にとってはもちろん運動だし、現代映画にとってはそれこそ「霊性」だと私なら答える。だから逆に言えば、わざわざ「コトバ」と言わなくともよいのである。映画にとっては「霊性」が本質、以上。これでよし。でも「霊性」は見えないだろう、だと? 見えるからこそわざわざ「霊性」と呼んでいるんじゃないか。見えないのは君に信が足りないからだよ、信が。一見冗談のようだが、わたしたちはほとんど本気でそう考えている。さすがに見えるなどと言い張ることはないにしても笑って誤魔化すくらいはするだろう。そしてこれだけは言っておくが、それが画面になかったらOKは出さない。厳密に言えば然るべき瞬間に然るべき位置に「霊性」が映り込んでいることが演出の主眼であって、それ以外はそんなに重要ではない。いや、重要と言えば全て重要で、お膳立てがしっかりと揃わなければ映ってくれないのが「霊性」だからだ。もちろんそういつもいつも映ってくれるわけでもないのだからまあ六、七割は「霊性」なしで行くのが普通だろう。本当に、あっ、というのは一割に満たないはずだ。大抵の場合それでも満足する。仮に映っていなかったとしても聴こえてはいる。むしろ「霊性」は耳に訴えかけることの方が多いかもしれない。そしてそれについても誰もが気づいているわけでもない。むしろほとんどは気づいていないだろう。驚くべきは黒沢清監督のパターンだが、他の俳優ではそれほど感じないが、小泉今日子の場合だけほぼ百パーセント、画面が「霊性」で満たされる。これは最初の『風の又三郎』からそうであり白眉は『トウキョウソナタ』だが、残念だったのは『散歩する侵略者』で、前半から小泉さんが画面に現れていればバランスが取れた筈だが、ラストに限定されたために何か違う映画を見ている状態になった。作品のためにも勿体無いことをしたと悔やまれた。
しかしこれはお二人のために言い添えるが、そこで見えるものはお二人が持つ抽象的な付帯物に関わるものでは全くない。ただ画面の「霊性」の漲り方が尋常でないというだけだ。その理由は人間にはわからないだろう。そんなこともあるさ、という他はない。ただはっきり言えるのは、お二人にはそのような力があるということ。
同じことはケリー・ライカートとミシェル・ウィリアムズの間にも起こっているし、ペドロ・コスタとそれぞれの作品の主人公たち、そしてレオス・カラックスと主人公たち、特に今回最も「霊性」を宿した主人公アネット、すなはち木製の人形である。さらに一見そういうタイプの俳優には見えないし、そのようなタイプの監督ともガス・ヴァン・サント以外出会っていないが、ホアキン・フェニックスとケイシー・アフレックの二人は今後何かを見せてくれる気がする。あとジェニファー・ローレンスは今後どうなるのか。
ネットにて大河。四回目だったと思うが、これだけ初回からテンションの変わらない大河も珍しいのではないか。そしてやはり国民ドラマを作るつもりはさらさらなさそうだ。もちろん、鎌倉というのに「霊性」を呼び寄せる気もまるっきりない。
 
某日、朝から諸々悩まされて九時前にうんざり状態。宅急便はすでに二日前には届いているはずとのことで、窓口で迷子になっている様子。そういう事務作業は苦手科目なのか、病院は。愚かしい。かと思えば胃瘻のポートを取り付けるかどうかでこちらも呻吟。まだ治療を進めていない現状ではなんとも言えない。胆石とか腰痛とかギャアギャア悲鳴を上げていれば時が経つものについてはそれで済ませてきたが、こういうことはそうはいかない。私には胃瘻の後で急激に衰弱していく亡母を見つめたトラウマがある。しかしこのまま悪化傾向を辿らないとも限らない。現にもはや錠剤一個さえ危うい。故にただ悩む。
それにしても土日挟んでの病院というのはガッタガタでコンセンサスがまるで取れていない。連絡不行届の山かと。よく仕事になっているもんだ。いろんな不満・不安が噴出するのも、この毎回繰り返される無為な入院生活のエンドレスリーな時間の流れにうんざりしているからで、こればかりは決して慣れることがないのは諦めの悪い性格ゆえとしか言いようがない。皆さん大人しくベッドに横たわっているのだろうか。イライラが募って時に爆発したりしないのだろうか。気を落ち着かせるべく鎌倉方面の地図など見る。大勢の哲学者が墓碑を連ねる東慶寺の松ヶ岡文庫やら建長寺回春院やらの位置をたしかめる。べつに自分がそこへ埋まりたいと考えているわけでは全くない。ただそこに今吹いている風を想像するだけである。
いつまでも隣の芝生を眺めていても仕方ないので、シャワーを浴び買出しに出れば多少気分も変わるかと思ったが、無駄であった。よって「霊性」井筒の続き。唐突に、というわけでもないが高橋巖先生の名前が出てきて虚を衝かれた。言ってみれば高橋先生は私にとって「霊性」体験の水先案内人である。『AA』インタビューの際の特異な体験は、いまもって生々しい。それをきっかけに「霊性」について考え始めたことになる。そんなわけで井筒と高橋先生を結びつけたリルケ『ドゥイノの悲歌』を読まねばならない。どのみち古井絡みで読むつもりではいた。ここでようやく何か開かれる気持ちのする言葉を見つけた。それは「詩と哲学と宗教は同根である」という平凡な提示から始まるが、「この幽遠なる「一つのもの」に対して人は、切ない懊悩と堪え難き憧憬とを感じないであろうか。人の心の秘めたる奥域に、かかる懊悩と憧憬の萌すことが、すなはち宗教の初めである」。以上、井筒『神秘哲学』より。さらに、「ここでの「宗教」とは、教祖がいて、経典があってという宗派的宗教ではありません。宗教の「宗」は「超越」という意味です。超越から人間に直接下される何か、それが宗教です」。この部分は、私が『無法松の一生』の銀杏の場面に感じたものの完璧な説明になっている。これを読みたかったのだ。
これを確認したところで、この本から離脱。そろそろ大拙本人の文章に、『日本的霊性』に触れていこう。その前後に宅急便がようやく届いた。やれやれ。
寝る前に月9。前回のバス運転手(森下能幸さん)も不幸な子供時代で、今回も。いじめが絡まないとドラマじゃないのか。さすがにタスク先生とマチャキのガチはそれなりに面白かった。これだけ人物(タスク)の顔を見せない(髪で隠れる)ゴールデンもなかろう。そういうことをやりたい人たちなのである。やりたい、と言えば車を猛スピードでUターンさせた伊藤さんは水を得た魚でとびきり美人に見えたが、運転は自分でしていたわけではなかろう、『ちょっと思い出しただけ』じゃないのだから。それで言えばタスク先生は「ちょっと忘れてただけ」か。あ、タスク先生の台詞に「これが本当の三度目の正直」というのがあったな。どれもこれも去年のTIFFの記憶、撮影あの頃か。
 
某日、寝ながら『サイエンス・フィクション』を。昨日届いた箱に入っていた。これまで聴いてきたフリーの中で「ウタ」らしきものはあったが、大抵は「オト」というべきものでデューイ・レッドマンやファラオの唸りなどもそれにあたるが、今回ははっきりヴォーカリストを立て、歌詞もある、つまり意味を持つ人声を聴くことになる。もちろんそれ以前に六八年アイラー『ニュー・グラス』があり、トレーンもそこへの接近がないわけではなかった。つまりあって当然だが、しかし何か違っていたのかもしれない。
流動食でさえ痞えて咳込んで吐いてしまうので体力はすぐに失せ、ぼんやりとした気分でぱるるの過去映像を見て気を和ませる。ほとんど最後の手段に近いが。
しかしオーネットはもっと大きく、トレーンの死とともにフリーの流れは断たれると考えていたかもしれない。少しずつ方向性を探りながら『アメリカの空』という一つの形象へ向けて、いやそれさえも途中経過に過ぎないような、そうした膨大な目的意識の流れがあったかもしれない。だからこの六七年以降七二年まで、昔馴染みや大物を連れてきてちょっと新機軸を試しつつ、探っていた気がする。ところが、時を同じくしてエレクトリック化したマイルスが、若く凄腕のメンバーを揃えて『ビッチェズ・ブリュー』以降を連発してきた。オーネット同様にジャンルとしてのファンクを試行したそれらには、物量的にもエネルギー的にもひとたまりもなく圧倒された感じだったのではないか。その威力には『アメリカの空』も思ったような成果とは思えなかっただろう。そうして七五年にマイルスが半ば引退状態に入るのを待っていたように、満を持した感じで『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』を出す。それ以後はまた考えるとして、オーネットが六〇年代初頭から考えてきたフリーは実際トレーンの死とエレクトリック・マイルスによって一度絶たれたのだろう。
ここでも、牧歌的に見られていた夢が大都会の光と喧騒にかき消された。
おかみさん、来たる。三者面談、というか通告。シビア。とりあえず計画通りにことは進むだろう。帰って行った後、どっと疲れる。今日分のやる気が根こそぎ失われた。気の毒に。
持ち込まれた「映画芸術」最新号、澤井さんの表紙をじっと見つめる。めくって井川さんの顔もじっと見つめる。ベストやワースト含め、文章が全く入ってこない。誰も彼も言っていることが小さい。いつからこんなに小さいことばかり言うようになったのか。小さな場所しか見ないからか。キレイな部屋とクルマの中でアイツはいつもボスだろう、て感じ。
しかし、なんでそんなことになるのか、最後まで不愉快な野郎だが、石原慎太郎が死んだ。よりにもよってフォードの誕生日に。
 

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ちなみにこの方もお誕生日とのこと。
 

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消灯後、「文藝」春号掲載のイ・ラン「母と娘たちの狂女の歴史」を読む。「文藝」を手にするのは何年ぶりか。
 
某日、眠剤のおかげか四時まで途中下車せず眠れたが、若干余韻が残っており結局一時間ほど茫洋と過ごす。
大拙『日本的霊性』。歴史上意識的にではないがどこかバックボーンとしてこうしたことは絶えてなくなることはなく、どこかにあり続けてきただろう。誰かが無意識にであれホリゾントをそのように塗っていたはずである。だが世界に新自由主義が浸透していくにつれ、誰も自分たちの抽象的な背景を気にすることがなくなった気がする。昨夜「映芸」を見ながらなんだか小さいと感じたのも振り返っても何もないような空間の影響だし、ニール・ヤングとSpotifyの喧嘩でマスコミが金銭に置き替えて喧伝し問題をすり替えるのも、それ以外の広がりを不問に付そうとする稚拙な工作としか考えられない。例えば「なぜ日本映画は政治を語らないのか」と題されたシンポジウムや何かが編集者周辺のメンバーで行われたとして、それがどのような推移で運ばれ結論されたか、読めると思ったが何もなさそうだ。この場合これを「小さいこと」と断じるがゆえに話題にされなかったのか、あるいはその判断が「小さい」ということがわかられていないのか。細かな問題が全てひと連なりになって大きな視野が確保されるが、逆に「小さな問題」を無視することでより矮小化されていく場で大きな問題が語られることはない。ベスト&ワーストの伊藤雄さんが向う岸から手を振っている。その意味でももちろん澤井さんの奥様のことが無視されなかったのが唯一この号の発揮しえた冴えであるだろう。痛ましい報せだが私たちに何かを教えてくれる。
何がきっかけというのでもないが、自分が向いてないことばかりやってきた気がし始めて、では本来自分に向いていることとは、と考えるに例えば水上勉について考えるというのはどうか、というアイデアが湧いた。水上についてはこれまで敬して遠ざけるばかりで文豪であるという以外ほとんど何も知らない。もちろん映画化作品は何本か見ているが、その原作を読んでいるわけでもない。なのでWikipediaを開いて見たが、想像以上の文豪であって、自分がこれからその一端でも知ることができるか、甚だおぼつかない。とはいえとりあえずこれを機会に何かを読んでみようと思う。
で、だからどうしたというわけではないが、ついでに書くと内田吐夢はちょうど五十七歳で復帰、『血槍富士』以降二十四本を演出し、最後の一本『真剣勝負』の公開前に七十二歳で逝去した。この十五年間の最大の一本が水上『飢餓海峡』だ。
夕方ようやく呼び出し。胃瘻を設置する。いつも通り内視鏡室に行き、麻酔を注入されたら次に起きた時には終わっている。胃に穴が開き、管が出ている、という寸法。そこから二時間が苦しかった。そのまま寝てられたらいいがそういうわけにもいかない。痰が次々に湧いて出るが、切るために咳をすると穴にガンガン響く。これからも同じような状態かもしれないが、慣れないので苦しくて仕方ない。時刻まで我慢してやっと少しずつお茶を飲み、やっと徐々に楽になっていく。だが引き攣れるような痛みは続く。二時半まで導眠剤のおかげで寝たが、そこからまたモヤモヤと目が覚めて、いつもと同じ状態。これはずっと続くものなのか、私と同様痛みに弱かった晩年の母がこの痛みを感じ続けていたかと思うと気の毒で仕方ない。やがて目の前に寂しさの塔のようなものが積み上がっていく。
 
某日、例によって何時に寝たかも起きたかも定かならないが、昨夜ヴェーラの武満徹特集のプログラムを見つけ、その中に恩地日出夫監督作品が三本入っていたので、ああこれは見なきゃなあという意思表明をTwitterでしておいたところ、今朝になって訃報が舞い込んでいた。十日以上前のことだった。ある種「霊性」に触れるというのはこういうことを指す。恩地さんといえば『傷天』オープニング映像を演出した人であり、つまりそれは私世代の人間の無意識に刷り込まれるほど繰り返し見たワンシーンワンカット断片ということになるが、あの最後のショーケンの顔、あらゆる感情の入り混じったあの不遜な表情が、実は恩地さんの表情でもあったことをお会いした時に知った。何年前かPFFの審査員でご一緒した時のことである。なんらかの意見の相違でほんの少しだけ会議が空転した折にふとあの顔をなさったのを忘れられない。そのことを私は不躾にも後で恩地さんに話したかもしれない。恩地さんはなんだそりゃ、と笑ってくださった気がする。たった半日一緒にいただけだが、兄貴とか先輩とか呼びたくなる唯一の人となった。先生とか師匠とかはまあそれなりにいても、世代が離れているのにそういう人というのは滅多にない。そういえば、武満さんとだってご一緒に時間を過ごしたのはダニエルの『書かれた顔』のフェアウェルパーティの一晩だけだったが、もちろん最初から尊敬の度合いが違っているとはいえ、武満さんに対するような印象は他の人にもったことはほぼなくて唯一例外が、恩地さんのような気がする。虫が知らせるという話はよくあるが、その程度の関係でもそういうことはあるだろうか。まあ、人との関係というのは時間の長短でもないに違いなかろうけど。
あと、恩地さんといえばTV版『人間の証明』だが、うちの親がことあるごとに引用した「パパが帰ってきた」という岸本加世子さんのナレがどれくらい一世風靡したか知らないが、あれは早坂先生の脚本だったので、そこでも前出のお二人と同様に何かバトンを預かる感じを勝手に持っているのだった。加えてTV版といえば『飢餓海峡』の山崎努さんのやつも恩地監督なので、なんだか一日かけて話は振り出しに戻った感じだ。


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某日、眠り続けたが、全然そんな気がしないのは夢やら何かよくわからない者の影やら見た気がしたせいで、途中何度か目が覚めた。起きた時、まだ一時半とかだろうと思っていたら四時半だった。病院での睡眠の感覚はいつまでも掴めない。夢は今いちばん気になっているもの、つまり新しく借りるスタッフルームへ行く夢だった。病院を抜け出して父の運転で。七十代だろうか、最晩年より若々しい父だった。あまりに生々しくて夢と気づくのは目覚める直前だった。駐車場は土が剥き出した斜面の途中で、家はかつてロケハンに行くと失望させられた小さな、カビ臭いような家だった。それでもなんとか仕事だけなら、と隣を見ると父が哲さんに早変わりしていた。目覚めて、暗闇で目を開くと廊下から漏れる光へとスーツの男の後ろ姿が去り、あとに濃い整髪料の匂いが迫ってくるように残った。廊下で誰かと小声で話をしている気がした。なんとなく嫌な感じがあったが、深夜の見回りだろうと決めてまた寝た。ここの看護師はワンピースではなく、パンツであり、男も女もいる。
この断続的な入院生活も半年を過ぎたが、こういう感覚を持つのはたぶん初めてで、自分でそういうものを想像していなければ考えもしないはずなので、どこかで想像がはじまったのだろう。つまりそれが病院馴れということではないか。やれやれ、こういう馴れを必要としたことはないのだが。両親のことは病院にいなくても考え続けているが、逆に病院でも頻繁に考えるようになったことじたい病院馴れの一つのパターンなのだろう。
今朝も食事はないが、胃瘻を使って薬を流し込む。確か昨日もやったのだが、記憶にない。繋ぐときに若干痛みを感じたことだけは覚えている。その後、シャワー、引っ越し準備。本日より十一階にて投薬。引っ越しはワゴン一つで軽装。病室間移動は三回目だが、これまでベッドごと家具ごと移動した。消毒のためかと思っていたがそうでもなかったのか。さらに胃瘻で栄養剤を注入しつつポートから薬剤投与。今回は免疫療法である。己のT細胞に頑張ってもらうシステム。前後のお掃除含めてだいたい一時間以内に終わる。これを二週間周期で。効いてくれるといい。
夕方、おかみさん登場、医師らと面会。これまでは病院とこちらのマンツーマンだったが、今後はソシアルワーカーや在宅診断含めて複数の連絡が必要になる。私一人ではおぼつかない面もあるかもしれない。というか他人が不安になる気がする。その点、おかみさんは人望が厚い。しかも健康そのもの。任せておけば大丈夫、と丸投げする気はないが。少なくとも全て共有しておく必要はある。
そうして、すでに社長からの第一声はあったが、いよいよ担当編集者からの解放宣言が出たので、拙著『宝ヶ池の沈まぬ亀 ある映画作家の日記2016-2020』のことをご紹介しようと思う。とはいえ、言い足すことは何もない。全て書いた通りのことがあるばかりだ。表紙は「動く馬」など連続写真の写真家エドワード・マイブリッジ。何年の作品かは知らないがデザイナーの倉茂透のチョイス。なんのことはない腕とボールの連続写真だが、何か見てはいけないものが写っている感が強い。本書でも触れた『ツイン・ピークス The Return』の放つ空気はここにもある気がする。一方、見開きすぐのブラウンがいい。私は太い樹木の幹に抱きつくのが大好きだが、本書を開くと一瞬、そのときの気分が甦って木の匂いを嗅いだ気がしもする。担当・風元正氏はFacebook上の文で本書をカフカの初期中篇に準えていらっしゃったが、この「ある戦いの記録」というのは、実は自分が大学に入ってすぐ繰り返し読み、最初に書き写したもので、たしか角川文庫だった。なんともしれない奇天烈な具体性と抽象性が入り乱れて、まさにこの書物の原型と呼んでもらえるなら光栄な作品である。カフカほど渡米を夢見た小説家もいないかもしれないが、その意味で本書も、こちらの内面だけにある、本当には無いかもしれないアメリカに貫かれてあることは、いつものことだが、間違い無いだろう。
 
某日、もちろん本調子ではないものの何かしなければ気の済まない性分ゆえに、未だ使い勝手の未消化なkindleで谷崎『猫と庄造と二人のをんな』旧仮名のコピー版を得た。これでもやはり読み易いので、自分がkindleに向いているのだと確信。しかしなにしろ内容の面白さで前のめりになっているから仕方ない。「あとで猫好きになった者」の感覚というのをこれほど上手く掬い取った文章もないだろう。それは全て細菌のなせる技、という学説(?)を唱える人もいないわけではないし、そう言われたら首肯しかねない。ともあれ猫に関して谷崎と私は全く同一の見解と姿勢をもって生きていると言える。それはいいのだが、これを映画にするとなると俄然楽しみになるが、でも森繁でいいのだろうか、強すぎやしないか、田中春男がベストである気がする。田中と浪花の口論は見たい。品子が五十鈴というのはこれは文句ないとして福子の香川さんはどうなのだろうか、汚れた腰巻きを戸棚に押し込んで家族の目から隠すような不良女に見えただろうか、大変気になる。そして全体に漂うフンシの臭い、これをどう映画に乗せるか。しかしこういうことは豊田四郎には無理という気がする。やるなら川島。品子の部屋でリリーが窓から芦屋の方角を懐かしむような様が大変良い。尼崎・芦屋・六甲という、関西の横並びの世界の気分が猫にまで波及している気がする。「国粋」堂に足元を掬われる経緯というのは当時の谷崎としてどこまで官憲を揶揄ったつもりなんだろうか。その辺臆病だという印象があるが、そうでもなかったのか。そしてここでもやはりラストの処理に胸が透く。このやけくそ感は本当に秀逸であり、谷崎を活劇作家として認識する根拠がまた増えた。
再びおかみさん登場、胃瘻の栄養剤導入の方法を学ぶ。私は多少わかってきた。
西村賢太氏の訃報。先日やはり訃報の出た右翼作家が応援していた印象ばかりが強かったが、私らの時代結局悪い酒ばかり呑んできたのではないかという疑念はより強まった。
あまり気が進まなかったがアマプラで『mid90s』。よくできた青春映画であり、完全にバックアップされた形のジョナ・ヒル脚本・監督作品だが、これでこの人が才能あるとかないとかいう判断は難しい。俳優が監督する場合、その一本目は暴走とか乱暴ながら魅力的とかいったケースがよくあるが、これは全くそういうことはない。破綻がないのだから誉めてしかるべきだが、その辺ひどく微妙だ。俳優たちは皆いい。兄役に安定のルーカス・ヘッジズ。事故後の無言のオレンジジュース、秀逸。ジョナ・ヒルは何より書ける人だと思う。最低限の台詞で必要なことも必要でないこともわからせ、口にする台詞が非常に良い。渾名の効用をなかなかああいうふうには使えないと思うが、もしかして実話なのだろうか。そしてアメグラ以来、彼らの誰某は生き誰某は死んだ、などと後日談をエンディングにつけるのが当たり前になってきたが、それをやめて、代わりというわけではない、仲間の一人が作ったヴィデオクリップが流される。その時々の姿を見ながら、彼らのうち何人かは死んでいる気がする。普通に染まれば早死にする世界の現実を耳年増として知ることも必要だろう。物を作るなら長生きするに越したことはない。
 
某日、昨夜デエビゴという導眠剤が処方され、これがよく効いた。といっても四時半起床は変わらないが、一昨夜までの断続は無くなった。今回は導眠剤をしっかり処方してもらえたので昼間もなるべく多めに寝ているようにしたい。起床直前にやたらと痰が出て咳き込んだのでその療養が必要。
胃瘻の栄養剤は自分でやってみた。まだ段取りが掴みきれていないが、なんとか。
午後、昨日同様おかみさん登場で、薬の投与の練習。本日はぱるるもすぐそばまで来ているとのこと。それだけで大いに気分が上がる。
夕方、『カンゾー先生』。未見の今村はもうこれだけではないかと思われる。本気で好きになることはないが、悪い気はしないものもいくつか。女性観において絶対に合わないと思ってきた。例外もないではないが、それも女優が良かったからだと思う。『復讐するは〜』の倍賞さんや小川真由美、そして後期の清水美沙は例外である。で、もうひとり例外が現れた。ここでの麻生久美子は大変良い。というか、これも例外的だが、男女問わず誰も彼も良い。おそらく邦画界はこの辺りから現在に至るまでの「近代を描く際のロケのあり方」的なものが移り変わってここに到着した気がするのだが、それも悪い気がしない。説得される。
この話の何がいいかといえば、一見頭の固そうに見える柄本さん扮する先生が、肝臓炎治療→報告→顕微鏡製作→オランダ兵捕虜救出→挫折→老婆の死→開業医としての自覚、といった流れで変遷を遂げる、というか若返っていくのが気持ちいい。戦争の描写にしても加担する兵隊らをとにかく憎々しく描くのがシンプルだ。普通の人たちだったのだ、的な同情的偽善をおくびにも出さない。少し物分かりのいい者が一人ぐらいいそうだが皆無である。一方の庶民側は徹底して貧しい善人ばかりで、中に悪い父親一人いてもよさそうだが、それもない。私は、映画はそれでいいと思っているところがある。庶民がそんな真っ当な人間ばかりであるわけがない、といった疑念はわかるが、結局邪魔である気がする。そうやって人間論的に話が振られると、シンプルな戦争=軍隊嫌悪の部分が色褪せる。金山一彦など心から憎らしく、だから非常に良い仕事をしている。唯一、中間的な位置を担い、見事なのは山本晋也監督で、ただこの脚本はこの男の「罪」(銃後のスパルタ訓練)をカンゾー先生の「自省」(顕微鏡への傾倒のあまり、往診を求めた老女を死なせる)にすり替えてみせる。ワンポイントカメオなのが惜しいくらいだ。この役がもっと膨らんでも良かったはずだが、それもしない。それをすると話は戦後まで進まねばならない。カンゾー先生への転化だけでじゅうぶんだった。昨日の『mid90s』も後日談を回避したが、これもそのようにした。しかしだから世良公則が死んでしまうのが何か独りよがりの決着っぽく見えてそれは違うのではないかとも思った。いずれにせよ、この映画が好きになった。
 

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某日、四時半起き抜け三八・六℃。ようやく少し汗ばんだがそれでいいのかどうか、とにかく解熱剤、採血、パジャマを着替え、安静に。一旦寝るが、再び熱上がり、同様の処置、朝パジャマを二度着替える。昨年投薬中に起きた発熱とは明らかに違う。
午前中は同じ程度を推移、レントゲン。簡単には楽にならない。
こちらも大変だが、今度はスズキジュンゾ君というギタリスト(面識はない)が駅のホームから落ちて頭をやられてしまったとのこと。現在危篤。また酒だろうか、不幸が続く。
昨夜の大河、やはりドラマ演出家としての三谷さんは、数多のネタを散りばめても肝心な押しを見せられない人だと感じた。それはフレーミングの問題だったりするので三谷さんの仕事ではないかもしれない。でも、あそこでどうするか、という書き方の問題でもあるのではないか。全体に寄り切るのはまだ早い、という余裕の取り方が感じられるが、全回通しての波より一話の波を大事にすべきではないか。どうしてもフレーム展開にメリハリを欠いているのはNHK的な限界なのかもしれないが。西田さんも「もういいんじゃないの、俺は」と呆れてる気がする。もはやバラエティ。いくらなんでも頼りすぎだろう。完全に民放とクドカンに抜き去られているのはとっくか。
三度目は夕方。だいたい二時間かけて上がって下がる。もちろん途中で解熱剤を入れたら、だが。
月9。今日はよかった。闘病という言葉のニュアンスが違う、という部分は快く受け入れられた。じゃあなんといえばいいか、という提案はなかったけれど。私にもアイデアはない。マルクス・アウレリウス、一歩先んじられた感。もっと勉強しなければ。
 
某日、二時に目覚める。これはたんに看護師が点滴を外しに来たついで、もう一度は眠れないから起きてしまっただけである。発熱中は動く気力もないけれど、熱が下がりまとまった睡眠を得れば、夜更けに口を漱ぐ気にもなる。明らかに足腰は弱っているが、とりあえず現時点でどうしようもないから退院後なんとかしたい。退院と言っても継続的な状況なのであまり大したリハビリ的なことができるわけでもない。左目の皮膚がボロボロになっている件を看護師たちが心配してくれているが、それはなんとかしたい。左目だけではなく両耳もボロボロなのだが。
昼前におかみさん再び。ソシアルワーカーとの面談。
午後はなぜか急に解放的な気持ちになり、導眠剤でうつらうつらしながら、胃瘻グッズの使い方をマスターしていく。順番を間違えなければ簡単なことだ。
日暮れにまた発熱するが、解熱剤で対処し、今回はおそらく三八℃を超えなかった。
十九時頃にラジオでスタジオライヴのビアリストックスを聴く。全体をこういうさりげないナイトクラブの幕間のように構成できるのは二人の、特に菊池の、才能のなせる技であり、たぶんいまこんなことをできる若者は高級ゲイバーに勤める方以外にはいないだろう。小粋である。この形式のライヴも見たい。「公園通りクラシックス」でできたらいいのに、と思う。そうして『ラスト・ワルツ』ではないけれど、いろんなゲストが入れ替わり立ち替わりして不定形の音楽図鑑になっていくのを見てみたい。太田さんと甫木元のデュエットは面白かろう。ブルーグラスアンサンブルの人とやる「エンプティマン」とか。大友さんと共演すればさらに世界が広がるように思う。ちょうどDEVOやトーキング・ヘッズがイーノにプロデュースを依頼したときのように。不破さんはどうだろうか。それもまた独特の形を結びそうだ。彼らと組んでいるサックス奏者の誰かに息が合いそうな人がきっといると思う。
終わるなり眠る方向に陥り、二時に抗生剤の点滴が外れるまで寝ていた気がする。
夜中に起きてネットが繋がらなくてSNSができないのは構わないけど検索ができないのが閉口するので、深夜は孤島化する。ガラケーでも本当にちょっとしたことは調べられるが、長い文は字が小さすぎてダメである。
その影響かどうか、夢を見て、どうやらメキシコの片田舎の宗派らしいが全員巨大な黒いソンブレロを被って参列する葬儀に、たぶんおかみさんの付き添いで出ていた。持ち物検査のようなものがあり、私の持ち物から何か小さくて細長い茶色と黒の粘土の固まりのようなものが発見され、これは置いていけと言われる。身に覚えのない持ち物だったので、これはなんだろうと試しに訊ねると、茶色い方はある有名歌手の魂の一部、で黒い方はまた別の人のもの、だという。一旦了承するが、なんとなくそこへ置いたままだと祭壇へ参列中に失くしてしまいそうなのでこっそりポケットに入れようとしたら、屈強そうなおじさんがツカツカ寄ってきて手からそれらを払い除け、お前にはもう必要ない、お前はひらく、とじるのではなく、ひらく、と現地語で小声で言いながら(それは日本語として頭に入ってくるのだが)私の肩を掴んで祭壇へ向かわせる。私は自分の掌を見つめながら「ひらく、ひらく」と呟きながら黒いソンブレロを被って葬列の最後尾に着いた、ところで目が覚めた。
それからまた「峠の二十一人」という話を読む約束をすることやそこに出てくる豆粒のことやらがこまぎれに夢で展開してから朝になった。どれも身に覚えのない話だった。
大体どれも与太話に過ぎないのだが、その中に一つくらい驚くような話があるかもしれないと考えている。
朝になって『ドライブ・マイ・カー』オスカー四部門ノミネートを知る。とはいえ相変わらず驚きもなく感想もない。ただ東大閥はすごいな、とか、アジア絡むと俄然やる気になるのな、とか、その程度。Twitter上には快挙! とかしかなくて、さすがにそれではつまらないのでせっかく「映芸」が手元にあるんだから、と開くが、肯定も否定もやはり荒井さん以外の評にはまるで説得されない。なぜ誰も、たかが赤いサーブに三時間も付き合わされたくないとか書かないのだろうか。映画の良し悪しなんてそういう趣味の積み重ねでじゅうぶんではないか。岡田将生くんが誰かを殺した、という流れのリアルの構築過程とか、そういうのも問題にならないのだろうか。荒井さんじゃないけど外国人には「日本人はそうなんだろう」と思われるだけかもしれない。それもそれで滑稽な話。
昼間はひたすらぼんやりし続けていた。こういう時にアマプラを見ておけばいいのだが、そういう積極性もない。それに割合急に誰かの邪魔が入る。そうすると必然的にネガティヴな方角へ心情は傾きがちだが、それもまたのらりくらりとかわす。そうやって何もせず一日がまた終わる。二十時になれば二時間以上の作品はオーバーする。最後の五分、十分見逃して明日に持ち越すことがわかっていて、それを実行に移すようなバカはやらない。よってこのまま時間は無為に消費される。そうして十時になったら消灯しようと思う。
 
某日、入院期間は今日で二週間ということになる。これまでで最も長い。発熱がなければ昨日退院していただろうが、この体調の悪さは病院にいて然るべきとも思う。だがこの症状を緩和するのは最終的な段階まで方法がないみたいだ。
この状態で俳優部との顔合わせの夢を見た。顔合わせというのは、面接でもオーディションでも同じだが本当に苦手なので、これもうまくいかなかった。おまけに喉が悪過ぎて喋れないのに、ぜひお願いしたい、という嘘ではないのに言わなければならないとなるとなぜか言いたくない台詞を言う。自己嫌悪。
まだまだTwitter上はアカデミーの話題だが、ここ数年のアジア勢の高評価と反比例してBLM以後の黒人映画が影を薄くしている。『アメリカン・ユートピア』は白人デヴィッド・バーン主演であり、デンゼル『マクベス』はコーエン、惨憺たる出来のアリーザ映画、今度のビリー映画も昨年見た記録物には到底及ばないだろう。で、オスカーはウィル・スミスの順応型スポ根父子。このままインドも加えてアジアをお仲間に揃えたハリウッドがBLM狩りを推進していくのか。濱口も気味の悪いポストに乗せられてしまって気の毒と言うべきか。
Twitterといえばシオランのこんな言葉。「ゴリラというのは退屈を知らないのか? こんな疑問はまさに人間の、つまり多忙な猿のものである。避けるどころではない、動物たちは単調さを追い求めるのだ。彼らが一番恐れるのは単調さが破られる瞬間である。単調さが終わるのは、代わりに恐怖が君臨することしか意味せず、恐怖こそ多忙の母だからだ」
午後、ふと「トレンチタウン・ロック」が聴きたくなってYouTubeで。涙溢れる。思わず出だしの歌詞を書き写す。どこをどうしたらあの歌い出しが出てくるんだろう。どうやって出てきたかはともかく、あのやけのヤンぱちみたいなのが出てきたからマーリィはああなった。一人でああなったわけじゃないだろうけど、ああ歌ったのはマーリィだ。世界中誰もあんなふうにやらなかった。
“One good thing about music, when it hits you you feel no pain”
胃瘻を終えてシャワー。空腹を感じるとそろそろ飯か、とまだ考える。そう簡単に長年の習慣は消えない。栄養剤が届くのを待ちわびるなどということが起こるとも考えにくい。
アマプラで『自分の穴の中で』。復帰の一九五五年第三作。冒頭から米軍ジェット戦闘機が飛び交う敗戦国の映画。同年の『月は上りぬ』からの谺を聴きながら練られたような映画である。その象徴のごとき、寝たきりの旧家の嫡男を演じる金子信雄がとにかく素晴らしい。もちろん三國連太郎も宇野重吉も悪くないが、ここではネコさんの圧勝。病気のせいで逃げた妻の写真を枕元に飾っている。吐夢はデカダンである。冒頭の国鉄労組の幟などただの飾りである。この三人のデカダンな男たちがいて、この家の後添えである月岡夢路と金子の妹、北原三枝がいて、いよいよデカダン狂詩曲が開始されるのだが、どうもさして重力のかかる感じがなく、例えば同じ日活でも十年後の蔵原惟繕ほどにも狂っていかないので、荒井さんではないが「日本にヴィスコンティはいない」のかと疑いたくもなる。蔵原デカダンにはルリ子=満州の砂漠の不毛があり、それなら吐夢も同様のはずだが、月岡+北原でも線が細かったとしか言いようがない。十年後の正統な継承者は案外、清順師匠『すべてが狂ってる』あたりなのだが、それはまた別の話。前半、この重力の館から外へデカダンを一旦回避させる作戦でなるほどと思わせた吐夢は、京都の土地を売った金が館に吸収されるなり(形として一度も姿を見せないのが不思議だが)それまであくまで客観にいた嫡男に白羽の矢を立てる。嵐の晩、不意に帰宅する妻。まるで『ラヴ・ストリームス』だが、金子はあくまで寝たきりであり、フォローは北原だけなので、驚くようなことは起こらない。暗闇で芋虫のごとくくんずほぐれつもと思われたが、それはなし。印象として描写はじゅうぶん重いが、行為としてはまるであっさりした流れで朝を迎え、男からの電話を受けた妻は後添えから金を借りてまた出て行き、後添えも実家に帰り、嫡男は妹に金をすべて株で失ったことを虫の息で告げて。葬式があり、北原と三國の別れがあり、すでに廃墟と化した重力の館に戻った北原は、玄関でひとり野辺の送りを焚く。
三國がロージー組のスタンリー・ベイカーばりにブレないマッチョを堅持したせいで見ていられたようなところもあるかもしれない。あるいは宇野重吉がもう少し軟弱に転んでいればどうなっていたか。二人の性急な絶交場面含めてその意味では全体の匙加減が極めて微妙な作劇であり、まるで同時代のブニュエル的。日活の脇の甘さの限界は仕方ないが、二人の周囲でもう少し描写のキメを固められたらさらに違っていたかもしれない。
撮影・峰重義、美術・木村威夫。芥川也寸志の数種の鍵盤独奏で構成された音楽がやたらとパロディックで不思議な味わいを残す。
だが、どこかで淡く期待していたのだがここにもやはりなかった、フィクションの不意の「鎖され」。ダニエル『デ・ジャ・ヴュ』やベルトルッチ『暗殺のオペラ』の、あるいは『パリの灯は遠く』の、デカダンに相応しい「鎖され」。この幕切もじゅうぶん抒情を満たしてくれるとは思うが、もう一越えフィクションに撃たれる仕掛けが欲しい気がした。
 
某日、新規栄養剤の取り込み方が変わり、最初はくるくる巻いて入れる方式でこれはとても不経済というかちょっとした肉体労働であり、若者向けだった。その後ポンプで圧し入れるおしくらまんじゅう方式になり、これはなかなかうまくいったのでその方法を色々伝授される。割とすぐにできるようになり、時間も今までの半分(準備片付け入れてほぼ一時間)とかで済むので楽勝。
子供の頃聴いていたザ・フーの、というかキース・ムーンのハイハットレスを聴きたくて、YouTubeで検索。ピートがキースを口論の末、ガンと殴りつけるのも久しぶり。笑った。
午後は鎌田東二氏の二〇〇六年の講演「「日本的霊性」を問い直す」をネットで見つけて読んでいた。鎌田氏はやはりサルタヒコを「日本的霊性の原像」と考えているようだが、それは国つ神のオオクニヌシによる「国譲り」やサルタヒコによる「道案内」など、征服ではなく和睦(順応?)を取る形で最初の文明開花を導いたからだという。「霊性」という概念が歴史上最初に文物に現れるのは道元『正法眼蔵』だが、そこでは否定的に語られる。同時代の神道者、卜部兼友が神道を「円満虚無霊性を守る道」と説いた。「円満虚無霊性」とは西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」と同じとのこと。ここで中世の『愚管抄』が出てきて、貴族社会の終焉と「武者の世の始まり」を語るが、平成というのは当時と似たような時代であり、中世の反復が今起ころうとしていると警告。これについては後でさらに考察する。そして平田篤胤、彼のいう霊性は「神の根源的神性と一体であること」であり、インド思想における神秘主義に近いと。鎌田氏は大拙が平田を研究していない、と批判。大拙より出口王仁三郎や柳宗悦を擁護。最終的に「正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」と説いた宮沢賢治を推して終わるが、それは「正しく強く」と加える必要はなく「生きる」ことで精一杯の指針だから、それが霊性と言われても大拙以上にピンと来ない。霊性とは、宇宙の中の生命の自覚である。とりあえず、それだけで良い。やはり「日本的」は不要。
夜、早稲田の岡室美奈子さんが『ドライブ・マイ・カー』についてベケット、降霊術を導入して論じていて、優れた論考で興味深いが、やはり演劇軸の話なので、どこまでもリアリズムと不可分である映画として説得はされなかった。「私が殺した」という一見重要な言葉の象徴性は、演劇的空間には響いても、映画では単にそれぞれの出所に帰って扉を鎖すだけだ。ベケットが全体に機能するというものではないし、それぞれの「私が殺した」場面の演劇性が仮に昇華したとしてもそこから映画としてさらに広がりを得るわけでもない。
演劇と映画、とか小説と映画、とかあちこちから浸食が止まないのも、結局どこも産業として青息吐息だからだろうか。それはこちら側の恩恵、これはそちらでシェアして、と手柄の分配に喧しい。それぞれが下手に外部専門家風を吹かせる余地もないほど統御できていればこういうことは起こらないだろうが、しかしこの青息吐息、コロナ禍とは無関係であり、そこはまるで「鎌倉殿」以来、いやオオクニヌシ以来の日本の風習とでもいうか、面白いものである。日がなTwitterを見ていると啓蟄かというようにそれぞれの虫が地表にもそもそ顔を覗かせて、あっち、こっちとやってる様が見える。ただ可笑しい。
 
某日、導眠剤の配置が極めてうまくいき、六時間睡眠が可能になった。画期的なことだが、こんなことでいいのかとも思い遣られる。デヴィッド・ロウリーの新作が神仏系らしいのでそちらを少し期待する。映画的に霊性(宇宙の中の生命の自覚)を試みる算段がようやくついたのもここでよく寝ておいたおかげだから文句はない。次の次がようやく見えた。
しばしば人物が作者の人形で、などと批判をする向きがあるが、何がいけないのか。批判はその人物に血が通ってないとやらで、そんな下手な真似するわけもなく血も魂もある人物を造形すれば実際や史実と矛盾して差し支えない。こちらに重箱の隅までつついて語りたい真実などない。埋め種としては全て使うが。こちらにはより重要なものがある。
朝の栄養剤もごくスムーズにこなす。暇を持て余すのも限界を感じるので、梅崎全集に手を付ける。第三集「輪唱」。歌のことかと思えば、三つの話がほんの一部絡んで鎖状に繋がった短編である。そして実に巧みな語りであり、同時にグッと噛み殺すようなところがあってそこが梅崎らしいと思われた。二番目の話に出てくる「蟋蟀在堂 歳律其莫」という漢詩は「詩篇」のものらしい。最終的には何もかもを懐かしいような、サウダージという言葉を連想するだろうか、グッと噛み殺すことをそれでは消せはしないのだが、あえて消したかのように書いてしまうところにまたカフカ的な多重性を見る。
午後は井筒俊彦をもっと知ろうとして松岡正剛のページで『神秘哲学』についての話を読んでいた。しかし阿頼耶識の話でまた足を取られ、もう一つ深化できなかった。ただアスコナのマジョーレ湖畔で「エラノス会議」というのが行われた、というのを読んでアスコナを懐かしんだ。ロカルノから車で十分ほど、『共喰い』出品の際の宿泊はここだった。会議はそこにユング、大拙、ノイマン、エリアーデなど集まり、神秘について語った。もちろん井筒も参加していた。スーフィーというイスラム神秘主義の話がやはり興味深い。9世紀のスーフィーが異端の罪で処刑されるとき、次のように言った。「私の神秘体験において私の「我」はたしかに「我」に違いないが、それが「汝」にあまりに近寄せられているので「汝の我」か「我の我」かわからなくなる」。何のことだかわからないが、十二世紀のスーフィーがこれを解説して曰く「何かを多義的なまま捉えるのに、理性の領域にとどまるコトバに対して理性の向こう側の領域に躍動するコトバこそ神秘の多義性を保持する」。まあこれでも明瞭ではないのだが、何となくこれをメモして一旦そこを去り、またあれこれ検索するうちに中沢新一さんのAmazonページに行き着くと比較的新しい書籍に『レンマ学』というのがあり、このレンマというのがこのイスラム神秘主義の多義性の仏教ヴァージョンのように書かれてあり、ああと思った。なので一応これもいずれ目を通しておくことにする。
オンライン映画『空』というのを社長が紹介していたので見たら、そのような(つまり神秘主義=霊性として考えられる)形で私が一人で作ってみようと考えていたものとかなりタイプが近くて、かなり感動した。しばし見入った。フリーを映画でやると、ということとも繋がっている。人は(私自身も)どう思うか知らないが。
夜、梅崎「赤帯の話」。これは捕虜収容所の話。黒竜江省佳木斯(ジャムス)から松花江を北上、アムール沿いのトロイツクという街からさらに、とあるが地図を見るとその名はなくレニンスクならあるのでたぶんここが舞台。捕虜たちは森から材木を集めて自分らの住む場所を作り、ロシア人にそれを監視・指導されながら各グループが動く。食糧は乏しく、いつも粥、キャベツ、時折鮭。リーダー格のロシア人をその服装から赤帯と呼ぶ。空腹から汽車弁当の夢を見る捕虜が語り手だが、おそらく梅崎が誰か復員兵から取材した話だろう。以前も書いたが梅崎には本当に細かく人に会って取材したと思しき作品が多く、大戦中の出来事をどんな小さな話も可能な限り網羅したいという細く長く続く宿願があったのではないか。ここでも弁当の夢が鮭の「高貴な甘さ」の夢に転じる、という他愛ない話ではあるが、この流刑囚らしき赤帯との一期一会にも何かを感じる。ユーモラスな命名によって特徴されるものとこうしたごく匿名のさりげない関係のものと、二種類の梅崎がいるのを知る。
 

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某日、ふと気づくと夕陽が直射だった。冬だからそれほどでもないが、夏場にもこの列の部屋にいた気がする。病室というのはその都度の体調でまるで印象が変わる。今日もやや断続ではあるが六時間睡眠ができた。もっと眠りたいとはいえ。
梅崎「破片」。また二つの話が一つの短編としてある。そのこととは別に、この前半の「三角帽子」という話の主人公はテンテン飴屋というのをやっていて、それは太鼓を叩いて街のどこかに子供を集め、童話を語って聞かせ、飴を売ってまた次の街へ、というのが商売で、いわば紙芝居のない紙芝居屋の前身といったものだが、この全集3に収められた短編はどこかそういう、戦争とも戦後社会とも少し距離を置いて、といっても完全に縁を切ったわけでもない、曖昧な領域の話が集められているのではないか。それは梅崎作品として知られる戦場ものや市井ものと一線を画す、いわば「大人の童話」的な作品群ではなかろうか。ここに並ぶ既読作を一覧しても、たしかに他のものとは違った味わいの、例えば「Sの背中」や「拐帯者」、「ボロ家の春秋」などがある。その分類に納得のいくものを感じる。
で「破片」だが、これまた奇妙な話で、今度は二篇に重なる部分はないが、全くスッキリしないという点で一致している。ただモヤモヤだけが残るのだ。せめて三角帽子の値段くらいは調べてほしいが店に入ろうとさえしない。どうせここに仁木の家の鏡が売っていたのだろう。五〇年代初頭こういうモヤモヤした作風にどれくらい需要があったか知らないが、直木賞候補が好んで書くのだからよく読まれたのではないか。その後我々の子供時代(七〇年代後半)に『ミステリーゾーン』とか『夜のミステリー』とかいったショートショートのラジオドラマがあったが、その走りという感じだろうか。テイストというか質感が似ている。あれはエログロ怪談混じりで、梅崎はずっと上品ではあるが。
ウィリー・ミッチェル傘下ハイ・レコード重鎮ドラマー、ハワード・グライムス逝去。無念。
三宅唱『ケイコ 目を澄ませて』、ベルリンにてワールドプレミア。
大河。最後の最後に登場したひとがこれは別格だとすぐわかる空気の張りつめ方、声のトーンで、ようやくこの大河も本格時代劇の片鱗を見せた。もちろん佐藤浩市氏である。こうしたことを言うのは控えるべきだが、あえて言えば、俳優として浩市さんは三國さんをとっくに超え、三船に近づいている。三浦友和、役所広司、北野武、渡辺謙、と並べて佐藤浩市は一歩も引けを取らない。
 
某日、退院準備をしなきゃいけないのに鬱がピークを迎えている。行動する気力がどんどん失せていくのを体で感じる。今後何か節目が訪れるたびに段階的に少しずつ落ちていくのだろうか。
あれやこれや考える間も無く、明日だった退院が木曜になった。これは化学療法の点滴が金曜から水曜に繰り上げになったため。栄養剤の自宅配送など考えるとそうした方がいいと判断した。精神的には限界だが、こういう合理性のためにはそっちを優先したくなる。おそらくないはずだが急な副作用がないとも限らない。
何かのロケだろう、岩舟にいる浅野忠信氏の写真がS N Sにアップされている。まさに昨日から今朝にかけて某企画の大改造を閃いた、というか改造計画は少し前だが、浅野くんでいくと決めたのは今朝だったので、ちょっと驚いた。なぜ驚くかといえば、この企画のオープンセットとして考えていたのが岩舟だったからだ。できる確率は数%に過ぎないだろうが、ブエノスアイレスまで行くつもりの大企画なのでせいぜい夢を見させてもらう。
首周りの大不調を抱えつつ、アマプラで『21ブリッジ』。劇場で見逃したことを大変悔やむ一本。こんなに優秀でタイトなNYPD系のアクションはいつ以来かと考えた。マメット『殺人課』フォーリー『NYPD15分署』がすぐ思いつくが、そこで止まった。ノートン『マザーレス・ブルックリン』(同じ「橋」の話のようで、こちらは全然違った)はノワールではあるがアクションとは言いにくい。やがて『アンダーカヴァー』を思い出す。それでも十数年経つ。自分が見てないだけか、それとも時代の趨勢としてあまり量産されないのか。しかしその意味でも近頃珍しいほど妥協のない硬派だった。シナリオに『ダーク・ウォーターズ』の書き手の一人が参加しているので、さもありなんと。序章で父親の死の過去が語られるが、そこで教会前を真俯瞰で撮るショットがあり、参列の黒い制服姿の警官たちの白い手袋が無数の白い点となってさっと動く。こういうショットを撮る監督に悪い人はいない。調べるとアイリッシュのブライアン・カーク監督、この人が白人か黒人か不明だが、テレビ専門でフィーチャーは今回初。撮影ポール・キャメロンは『サブウェイ123』でトニスコin NYに不参加だったが、これで雪辱。めちゃくちゃいい仕事。事件があり、追う刑事があり、途中から少しずつ歯車がずれていく。カークのやり口はわかりやすくはないが、正攻法でもある。で、全てが明るみになるのも主人公と犯人の間のみであり、しかしそれが同時に見る側にもはっきりわかるここらへんの仕組みは早逝したチャドウィック・ボーズマンとそれぞれの俳優たち(特に『フォックスキャッチャー』『アメリカン・スナイパー』のシエナ・ミラー)との連携が巧妙に機能し、ちょっとした仕草で大体の現実を見せきっている。撃ち合いはさすがに現代的な現実として縦構図の切り返しに終始せざるを得ないが、一箇所人物から人物へ不意の横移動で位置関係を見せるショットがあり、これにはグッときた。そのショットを含むクライマックスの撃ち合いには久方ぶりにいいものを見たという思いがした。なお、キース・デヴィッドが出ているのだが、太り過ぎで面影なし。
ここ最近はアジアブームなのかと思われたハリウッドだが、もしかすると才能ある黒人監督がBLM問題以降干されているか映画どころではないのか、そういうことではないかという気がしてきた。いくらなんでもダメなやつばかりなわけがない。前述したようにこのブライアン・カーク監督が黒人か白人かはわからないけど。
月9の前に『スパイ・ゲーム』後半をテレビで。トニスコのミソジニーばかり目立つ。先ほどの映画でも若干その傾向がないでもなかったが、ホモソーシャル告発へ転じる分、まだマシといえるか。この問題はパワハラと同様どの分野に持ち込んでも付いて回る。こんな社会で映画など作れないといっそ諦めた方がいいのか。
で、月9。昨日の浩市さんから一転、鈴木浩介さんが『コント』に続いて先生役、それは出落ちでしょ、といっそ清々しい。しかしちょっと重くないか、全体的に。まあ原作に従うしかないのか。こういう重い漫画、私は読まないが。そもそも漫画読まないけど。
ああ、やっぱカムイ全部持ってくるべきだった。
 

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某日、やはり昨日は薬の順番が何処かで間違っていた。今日は一昨日同様大正解、六時間眠れてスッキリ起きた。いま他はボロボロでも眠りがうまくいければとりあえずシャッキリできる感じはある。ダメだと昨日のように何もかもダメ。
昨日の映画、最近よくあるが、メインタイトルがエンドクレジットまで出なかった。テンションを持続させる狙いか、タイトルが出たらそこで一度流れが落ち着くのを嫌ったからかもしれないが、以前多摩美の廣田の作品でやはりタイトルが最後に出るのをいかがなものかと議論したことがある。結局好みの問題、ラストでいけないという理由はなかった。本作もオープニングのあちこちに出す隙間はあったが、出さなかった。出さない理由もないが、一息つかせず中身に溶け込んでいる。だからそれでいい。それに、タイトルにもよる。
イエールの先生でアナーキズム研究のジェームズ・C・スコットが過去のCIA協力を暴露されている。『ゾミア』なんかの人だけど。こういうのは難しい。
音楽を聴いていないのは耳の皮膚が乾燥だか薬の影響だかでボロボロになってイヤホンの長時間の装着に耐えられないからで、しかししばらく休むのも悪くはない。その間に誰かがTwitterにあげたYouTube一曲だけとかは聴く。今日は阿部薫だった。
午後、また五階売店へ帰宅後の胃瘻に必要なグッズを購いに出かけた。不親切で無愛想な医療用製品の入った箱そのままで売っているので非常にわかりにくいが、さすがに店員さんに聞くと慣れたものでささっと揃えてくれた。帰りに一階コンビニでアイスを購った。部屋で食べたが、全く喉を通らず、ほとんどを痰と共にリバースしてしまった。もうアイスを食べられない体になってしまったのか。悲しい。
夕刻、再び若干の発熱。栄養剤後、コンビニで宅急便の伝票を貰う。病室で荷物を作成、明日に備える。すると疲れたのか、ひどいだるさに見舞われ、右小指先や右足指全体に強めの疼痛、耐えきれずダウン。勉強その他一切できずなんだか惨憺たる一日だったが、ひとつだけ、スズキジュンゾさんが意識を取り戻した報せだけは良きニュース。
 
某日、昨夜寝る直前に来週24日木曜のミーティングをアポイントした。パリで活躍する日本チームからも賛同を得られた。たとえ体調がこのままでもやれる自信がある。もちろん多くの方の善意と協力が必要だが、それもどうにかうまくやれるはずだ。悲観はよくない。
栄養剤五箱と洗濯物など、宅急便を出す。これ二週に一度、家に送るのか。
昼前に化学療法。投与中から首の締めつけ感がさらにひどくなってくる。まるで患部が投薬に抵抗しているかのようだ。こうなると闘病という言葉もちょっといい気もする。
投与後血糖値が三百を超え、体がかなり重い。寝ているとソシアルワーカーさんや担当医が次々に来た。熱を測ってみると三七・五℃。夕方までは寝ているべきか。
しかし重いけれども思考力はしっかりしており、iCloud Driveにファイルをいくつか移動させPCを少し軽くする。帰宅してさらに重いものをHDDに移し替えるつもり。夜もだるさに苛まれて、眠りに落ちたり、ファイル整理するくらいしかできない。
 
某日、日々消灯と共に眠り、目の覚めたところが起きる時刻だとすると四時間後、これは昼間や夜の早いうちにいくらか眠っているせいで、だいたい二時か四時に目は醒めることになっている。
夢現の状態で現場のシミュレーションをやっていた。動線さえ決めずに俳優を入れて様子を見るというのは無謀ながら新鮮でもあった。実際にやるかどうかは別にして。
水上勉と考えていたのは自分だけでなくて、へえと思った。ジュリーが水上自身を演じる映画ができたとのこと。共演は松たか子、火野正平、檀ふみ。いい感じだ。


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ぱるる by おかみさん


某日、久方ぶりにタンブーラの長い長いドローンとムリダンガムの信号のようなパッセージを聴いている。原初の風景が見えてくるようだ。南インドであれチベットであれ、このような原初の風景を求めて民族音楽を聴き始めたつもりだが、あれから一年ほど、この状況はどうだと言えばよいのか。もちろん音楽のせいでは百%ないし、よき感覚しか与えられていないのだから、これを聴いてそんなふうに考えるのはお門違いだ。
前の記述が退院の日でそれから二日経過している。このオプジーボという免疫療法の投薬が効いているのかどうか定からしいことは言えない。が、身体にかかる比重は尋常ではなく、日々押し潰されそうな感覚で、日常をまともに過ごしているとは言い難い。退院初日は例によって発熱し、あれこれと薬の世話になった。ぱるるや猫たちは帰宅を大いに歓迎してくれた。胃瘻作業の際も適度に絡んで遊んでくれた。茶々丸はあと少しで日本語を習得しそうで「さむい」はもう言える。夕刻、栄養剤を入れながらWOWOW『ペイルライダー』をメーガン救出のあたりから。過去からの呼び声あたりで鼻の奥がむずむずし始めたのは、ああ俺はこれを見て成長しまだまだ成長できるのだなあ、などと感慨を覚えたせいか。ラストの全てを黒白の雪山に消してゆくまでの色彩設計に心から感服しつつ、レニー・ニーハウスの不協混じりの重低音の管の響きは、劇中では甲高い金属の物音が、エンディングでは超高音の管弦が絶妙の絡み合いを聴かせてくれるのにもまた。
すっかり気分だけはよくて、翌日は対談の仕上げのためもあり、重要案件の『ゲアトルーズ』見直し。これこそ見直せば世の中の大抵のことはどうでもよくなるので危険、と警戒してきたが、やはりどうでもよくなった。作業に取り掛かる気も起きないので、しばし放置することにする。これについては後日改めて。
昨日できたことはほぼそれだけ。で、投薬から四日目ということになる。体調は相変わらずである。で、南インド古楽に痺れた後でホルガー『ムーヴィーズ』を聴く。初聴。かつて売れたホルガーに興味を失い、見捨てた感じで聴かなかった。世間の騒ぎも嫌だった。だがこのところ、たまたま聴きなおしたCan『フューチャー・デイズ』に可能性を感じたので、ならばこれも聴いてみようということ。でも、やっぱりダメでした。いや、じゅうぶんいいのだけど、俺はいいかなというところ。そうしたらFBで、中原が偶然ホルガーの別のアルバムを聴いていたことを知った。
Twitterには古井さんのこういう発言が載っていた。「言葉っていうのは自分ひとりのものではないんです」「大勢の他人の、これまでに亡くなった人も含めた長い長い歴史からできあがったもので、自分の勝手にならない代わりに、自分が追いつめられた時に支えになってくれる」(『考える方法』)。この「言葉」を「念仏」とか「祈り」とかに置き換えれば、親鸞の「他力」の解釈へと繋がる。
午後、ジャコ+ラシッド・アリ『ブラックバード』。おどおどと弾いてみる感じのジャコに対して最初から容赦無くタイムレスなラシッド・アリ。中盤ようやくジャコがぶっちゃけてきて非常にいい空気になっていく。音楽が成立するかどうかの境界まで行くかどうか、とかいうことはないけれども、これはこれで快い(フリーな)ひとときだったのではないか。
コッポラが自己資金一二〇億を投じて新作を作ると発表した記事。加えてマーベル映画を批判。どちらにしても巨匠、徹頭徹尾、という感じ。泣けてくる。
アーチー・シェップ『ジュジュ』。六七年四月の緊張と緩和。気持ちはわかる。
ジョン・ハッセルのアフリカもの『フラッシュ・オブ・ザ・スピリット』。こういうことなのだろうという思いとこうでなくてもいいのではという思いが交錯する。
といった按配で本日は久しぶりに音を外に出して聴ける音楽三昧であったが、病状としては動くと立ちくらみがひどく、何度もよろけて転倒しそうだった。
 
某日、薬の副作用のため、数日間頭も体もほぼ動かず。向かいの解体工事はずっと続いて、うちの土台から揺らしている。ネットでヴィダー『活動役者』を通しで見た。松本隆50周年記念ライヴを全部見て、吉田美奈子様がダントツで神である認識を新たにして『最後の決闘裁判』『1917』『ボブという名の猫』(全てWOWOW)を中途から見た。それらの感想はいずれやがてそのうち。大河も月9も見たが、すぐには言葉が見つからない。NHKは芝居が撮れない。浩市さんだけ望遠で追っかけてみたらどうか。どうせ民主主義もへったくれもない丸ごと維新の会みたいな話やってるんだから、そういう仕事をすべきだろう。
深夜、茶々丸が「かばん」と呟いた声はタモリさんそっくりだった。


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(つづく)
 
 

 

青山真治

映画監督。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、『空に住む』(20)など。

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