宝ヶ池の沈まぬ亀 第66回

青山真治さんの2021年11月末から12月にかけての日記です。松本の爆音映画祭で初めて音調整の様子を見学した後、手術のため入院。その間読み進めた梅崎春生の小説と『死者と霊性』(末木文美士編)、親鸞『歎異抄』他の読書記録に、継続中のコルトレーン研究、映画は「中原昌也への白紙委任状」@アテネ・フランセ文化センターで観た4作品に加え、『ライトハウス』(ロバート・エガース監督)や『SAYONARA AMERICA』(佐渡岳利監督)、『ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男』(トッド・ヘインズ監督)などについて記されています。


66、ミスターモトとともに今後の世相を憂う年の瀬



The-Lost-One.jpg 44.82 KB



文=青山真治

 
某日、フリートウッド・マックが聴きたくなる。バッキンガム・ニックス時代の最初の三枚だが、何度聴いても慣れない、というか楽曲それぞれは悪くないのだがアルバム単位ではまるで心に残らずに終わる。発表当初からずっと同じ印象。特にやはりミック・フリートウッドのドラムは初期から非常に好みなのだが、楽曲はすぐに彼方へと流れてしまう。そういうものもいいと思えるようになるまでまだ年齢を重ねる必要があるようだ。七〇年代後半は個人的にはプログレからパンクへの過渡期だったので、どちらかというと刺激不足の軟弱ポップスという範疇だったが、どこか気にかかってもいた。少なくとも産業ロックと小馬鹿にしたものとは一線を画していた。特に『牙(タスク)』はいま聴いても悪い気はしない。
かかりつけで一ヶ月分の薬。
昨日銀座を歩き過ぎたか、疲労の蓄積を感じて今週の予定を大幅に変更、来週の入院・手術に備えて体力温存を心がけるべく引きこもることにする。
ギリシャ民族音楽。ハイテンポもミディアムテンポも弓ものはかなり聴かせるが、アンゲロプロスの影響か、どこか家父長制的な空気を感じてしまう。だがそれを言えば世界中の民俗音楽に指摘されることになるのは必定。
また本を探していた。今度は伊藤本。地下にはなくて仕事場に引き揚げ、まさかね、と思ってきた寝床の真横の死角を覗いたら、あった。で、繙いてみたのだが、あまり有益な情報はなかった。晩年の阪妻がかなり調子悪かったというのは薄々わかっていた。あと『われ幻の魚を見たり』の小説版が先に出て伊藤が激怒ということがあったらしい。あの熱の入れようはそこらも原因の様子。阪妻の病状により続編が断念された『王将』だが、坂田三吉絡みで三度映画化している伊藤はどれも最後まで、つまり三吉の死まで描くに至らずに終わっている。そしてWikipediaなど重ねて追うと、どうやら遺族がいい顔しないほど映画版の三吉像は実際とはかけ離れているらしい。そこに載ったエピソードを読めばさほど違っているとも思えないが。あるいは三吉自身の出自も影響しているかもしれない。一人の人物の生きて死ぬ流れを描く、いわゆる伝記ものというのはだいたい政治家かスポーツ選手、アーティストが多いが、こうした市井の勝負師はごく珍しい例で、それゆえ興味深いので三國連太郎の三本目も見ておくべきという気がする。織田作之助による評伝も読んでおこう。読書は梅崎に戻ろうとしていたが、織田作にチェンジするかもしれない。
 
某日、朝Twitterで誰かが感動したらしい曲を聴こうとして、それが過去何万曲あるかという伴奏なのに心が折れ、やはり来年後半はそうしたものとの決別の意味でポール・サイモンだと決断する。PSについてほとんど無知だが、これまでラジオなどで聴いたどれ一つ聴いたことのあるようなアレンジ、手グセのようなものはなかった気がする。私たちはどうにかして手グセ的状況から脱出すべきであり、それにはPSに学ぶのが一番だという気がする。音楽のことじゃないかと笑うかもしれないが、音楽も映画も小説も演劇も同じで、この国の自称他称アーティストはほぼ手グセでしかものを作っていない。それも自分のではなく電通という手グセに倣っている。この唾棄すべき状況を抜け出すためにPS。決めた。
話は戻るが、市井の人の伝記(年代記)ものといえば『タッカー』である。先日は『ストーリー・オブ・マイライフ』や『ヒルビリー・エレジー』という声も上がった。『フォレスト・ガンプ』はどうだ、とか『ビューティフル・マインド』は見直していないがどうだったか、とか。スピルバーグは意識的に避けてる? イーストウッドの伝記はだいたい有名人。フォードだと『長い灰色の線』『荒鷲の翼』は軍関係で微妙なところ。『リバティ・バランスを射った男』はフィクション。そう考えるとこのジャンル、意外とフォード的語りに属するのか。あるいはドキュメンタリーの語りとの境界が曖昧なのかもしれない。だがそこをあえて切断しなければ作り方がわからない。
当初横浜に行くつもりだったが、どうも体力が戻らず気力が出ない。ふとアイラーの命日ということになっている日だと気づき、ということは三島の日でもあり、そうなるとますます下手な動きはできない。これは頭の中の話だが、外国映画でなく、文学的でないもの。で、先週見るつもりで断念した細野さんのドキュメンタリー『SAYONARA AMERICA』に行くことにした。結果大正解だったのは、本作の細野さんが様々な意味で三島を凌駕していたからで、見ている間はそのことに気づかぬまま涙腺がとめどなくなっていた。終戦をマッカーサーの映像だけで語る試みを初めて見た気がする。演奏形態そのものは複数のアルバムやYouTubeなど何度も聴いて親しんでいるが、大画面だとさすがに高揚し「スポーツマン」ではつい座ったまま踊り出してしまった。全体として今年数々見た音楽映画では最も好みと言える。VDPとジョン・セバスチャン登場で勝負あった感じ。細野さんの歌い方がやたらパンクだったことにも感動した。アコギでパンクは伝統芸能みたいなところがある。
帰りにバスでペットショップに寄ってみなさんのご飯。
ディズニー『ザ・ビートルズ:Get Back』初日だったようで、ビートルズにもぶつけられた。
 
某日、松本に行ってきた。爆音調整の取材である。爆音について語らなければ(演出か)ならないのだけど、よく考えると話ばかりで一度もその調整の場に立ち会ったことがなく、見てきたように物を言う感じで過ごしてきたので、一度見ておかねば、と社長に申し入れると年内はここしかないとのことだったので、即座に行くことにした。
新宿発特急あずさで二時間半強。普通に朝を過ごして十時に間に合えば昼過ぎには松本に到着できる。幸いにしてこの日は快晴。甲府を経て長野に入ると空が近く感じ始める。
松本駅には見覚えがあった。十年前、3.11の年の秋に夫婦で訪れて以来である。ほとんど変わっていないのではないか。やはり空が近く、手を伸ばせば触れそうな気さえする。空気が澄んでいる。メインストリートを歩くと昭和を感じさせる店舗がいくつか、それらが音響・音楽関係であることで、ここにギター屋があったらふらっと入ってるなあなどと妄想。
三十分ほどぶらぶらして樋口社長らスタッフと合流。この「まつもと市民芸術館」は演劇もやっていて、その担当者はそれこそ十年前に私が最初に演出した演劇『グレンギャリー・グレン・ロス』のプロデューサーである小川さんなのだった。久しぶりの再会。で、次の調整は『台風クラブ』とのこと。これは一体いつ以来だろうか。最初はTIFFでは見ていないので湯布院だったか。何度か見ているが、いつも見始めると照れ臭くなる。これは相米作品のどれでも同じ。慣れるまで三十分ほどかかるのがいつものパターンである。しかし爆音調整はそうした感覚を無視して淡々と進む。繰り返しオープニングのバービーボーイズを軸に音のバランスを取っていく。その結果、同じものが恥ずかしくなくなっていく。これが不思議なところだ。爆音調整はたんに音をでかくするための作業ではない。いわば、フィルムを耕し直し、中に埋れた音を掘り起こし、夾雑物をかき分け、あるべき姿に立ち上がらせる作業である。農業である。あるシーンに画面外の音が何種類か、何層かに分かれて入っていた。モコモコと重なっているだけのそれらを一つ一つ分離させ、聴き分けられるようにする。作り手の耳が聞いた、そして意図して挿入した音がほぼ正確にこちらに届く。完全にいわゆるリマスターである。それを可能にした技術とその技術を操る腕と、そしてその音を見つけて掴み出す欲望とが再現する可能性。続く『サスペリア2』では欲望がバトンタッチ、エクスネ・ケディ関係者である井手健介氏の作業。こちらではゴブリンの演奏がどんどんライヴになっていき、まるでベーシストが目前でピッキングするアクションが露わになる。要するにそれは私たち映画の観客がある日ふと会得する「目で触る感じ」、あれに限りなく近い。
「耳で触る」ということだ。
二本の作業を見てイメージを掴めたので、帰京。日の暮れた十一月の松本はやはり寒い。駅まで小走りに帰り、夕餉に蕎麦を食し、満員の特急に乗る。行き帰りの読書は梅崎。剛柔使い分ける名手のこの短編集は剛速球タイプなので、ほぼ一冊読んでしまった。どちらかといえば柔軟タイプの方が手強くて好みではあるが。
離脱する直前に社長から伝えられた諸問題を考えつつ、夜更けまで作業。考えると言ったって悩むことでもなく結果は出ているのだが。
 
某日、起き抜けの朝焼けに感銘を受ける。
 

P1000255.jpg 30.36 KB


 
日がな原稿直しと梅崎で終始。集中すると邪魔が入る。無視にも限界がある。
 
某日、病院で抗原検査など。割合に早く終わったので有楽町へ出る。ビックカメラにてCDウォークマンもどきを入院用に。その後伊豆のCDプレイヤーを修理に出した際に代替品として使用予定。大学受験の時だったか、忘れたが東京で最初に入った喫茶店が有楽町ビルの一階にあるSTONEで、このビル取り壊しの報を聞き最後に行っておこうと立ち寄る。こういう濃厚な珈琲を飲める喫茶店は激減した。専門店といってもファストフード同様の店がほとんどで、水っぽいものしか出さない。炊飯器の目盛りが「柔らかめが美味しい」という通説に倣っているのと同じだ。うちの夫婦は固い炊き加減が好みで二人とも水少なめがちょうどいい。珈琲の濃い方がいいと同様、炊飯の「水多め=薄めてある」というのに何かケチくささを感じてしまうのは私だけか。
で、評判の高い『リスペクト』を見たが、これはダメである。もちろん自信なさげな不機嫌を含め見事にアリーサをコピるジェニファー・ハドソンは悪くない。楽曲は言うまでもない。だがドラマは脚本も演出も撮影も残念である。キャスティングは、マッスル・ショールズの面々以外まあまあ。一番いいのはお母さん。この人、『幸せをつかむ歌』の元夫の後妻ではなかったか。しかしそもそも『クライ・マッチョ』の予告が流れる時期にフォレスト・ウィテカー出てきたら当然『バード』のあの高度に入り組んだ伝記の脚本(ジョエル・オリアンスキー)構造を思い出すから、並のドラマでは物足りなくなるがゆえに分が悪い。さらにNatural Womanが裏の主題(これをタイトルにできなかったのだろうか)なので、せっかくだからエンドロールの中継映像なんかでお茶を濁さずにキャロル・キングとの話をメインに据えればいいものをガタガタの家族などという使い古しのネタで押すからボロが出まくる。それでいてラストに子供達の「その後」さえテロップ出しせず。それでは誰も納得できないだろう。楽曲はいいと書いたが、それを撮影するにおっかなびっくりのアイデアはすぐ枯渇するので後半はネタ切れで映像として見ていられない。ましてや『アメイジング・グレイス』がある。ジェリー・ウェクスラーの隣にシドニー・ポラックらしき人を立たせたりしていたが、討ち死に状態にしか見えない。編集では救われるはずもない。それでもまあ、こんな大ネタを前によく頑張ったというなら、そうとしかいえない。せめてジョナサン・デミがPでカール・フランクリン監督、などと難しいこと(やはり『青いドレスの女』は奇跡的だったのか)言わずに、こういう大ネタを経て大きくなる人もいる、『ウォーク・ザ・ライン』をやったマンゴッちとか、と慰めてやるべきかもしれない。結局正視に耐えうる画面といえば、姉妹でコーラスやるのが決まって三人で並んで歩くショットとDV夫と決定的に切れて夜ひとりで自宅に戻るヒョウ毛皮コートのバックショット、奇しくも両方ハイスピード、その二つだけだった。
行き帰り、喫茶店、帰宅後と梅崎三昧。都合五冊目。以後『狂い凧』『幻化』と長編に向かうので短編にまつわる中間報告を。梅崎自身もエッセイで「庭の眺め」が自己ベストと書いているが、同感。だいたいのエッセンスがそこで出揃った感じ。文としては「突堤にて」、そして妙なニュアンスを残す「Sの背中」が秀逸。後期に至るまで奇妙な曖昧さ、不確定が特色であり魅力だが、そのバランスはこの時期にベストの状態に至ったように見られる。十年後輩の三島『仮面の告白』が出る四九年から五二年までのことだが、しかしその後直木賞までの過程でヒットの方向を見定めたらしくバランスを変えていく。さらに六〇年代に文章は硬質な輝きを増すものの不確定度が定番化(戯画化)してしまい、驚きより迷いが先立つ。アルコール依存のために精神科に通うか入院するかの葛藤が影響を及ぼしたのではないか。この辺は現時点で読書可能の作品量が少ないのでもっと多くの短編を読みたいが、再刊を待つか全集を奮発するか、二長編を読んでから考えたい。
深夜、眠れないので『飛べ!フェニックス』を。スタジオとロケの量の差を知りたい。ロケマッチのためにかなり特殊撮影が行われており、そこでバイロックが大いに活躍したことは想像できる。繋がりを大胆に無視した構成が多く、結果的にショットが倍増し結局それがその後の作風となっていった感じもするが、そのそもそもがこのロケマッチの違和感払拭のためであった気がする。それにしても「動かない『駅馬車』」とでも呼びたくなる奇妙な劇だが、女性出演者が妄想中のアラブ人ダンサーのみであり、本作に端を発する「男どもの世界」シリーズが成立したのは観客動員によるところも大きかったはずだが、しかしあえてそれに拘らなかったアルドリッチは正しかったのか間違っていたのか。これと『何がジェーンに起こったか?』が両方ともヒットすれば迷いも生じるか。少なくとも間に挟まれた『傷だらけの挽歌』『ハッスル』を含む「女性映画」の傑作群との間に分け隔てはない。男女の間に葛藤を生み出すのではなく、例えば面長と球形の葛藤とその解消のような形式としてのキャスティングを想像するのも楽しいだろう。結局球形としてはこの先ボーグナインが勝ち抜け、それをバート・ヤングにバトンタッチするが、ロナルド・フレイザーだっていい線行っていたのだ。
 
某日、入院。あまり眠れなかったので一日中朦朧としていた。同業の知人が肝硬変のために亡くなった。結局深く話をすることがなかったのが残念であり、無念に思う。才能豊かな人だったが酒にやられたのだろうか、いつも肝臓の良くない顔色だった。
CDウォークマンでコルトレーン『オム』。やはり六五年十月にはここまで到達していたかという勢い、しかしこれは録音が悪いのか、ドラムの音はやはり違っていると感じてしまう。カリンバらしき音がするのは誰が弾いているのだろうか。ジョー・ブラジルがパーカッションとしてフルートと併記されている。発掘された『至上の愛~ライヴ・イン・シアトル』を録音した人。何れにせよアフリカ志向はそのような進展を見せている。
 
某日、何時に寝たか記憶にない。急に眠りに落ちたようで電灯も何もつけっぱなしの状態でトイレに起きて、少し冷えたので布団を被ってもう一度眠り、再び起きると五時。パソコンはネットが開いたままだったが、病院では午後九時でネットはおしまいだからその時刻からそう遠くないタイミングで寝に落ちたのだろう。寝る直前までは『狂い凧』を読んでいたはず。完璧と思われる第一章。短編の名手である梅崎だが実は長編作家としても秀逸ではなかったか。剛柔でいえば柔のタイプ。短編で使ったモチーフが数多くリサイクルされていても、巧みに様子を変えているので新鮮に見える。
しかし日中は読書を中断、気の向くままに「今後の計画」を立てる。今後といっても多岐に渡っており、向こう一年から十年のスパンまで、仕事も日常もひっくるめての諸々である。こうしていると曖昧だったことがだんだん明瞭になっていく。それもまああくまでこっちの都合なので、いつ計画変更になっても不思議ないのだが。そうこうしつつウトウトもしつつ、結局何にもしない入院生活である。やがて夕餉になる。今日の回診時の担当医も定時検診の看護士もカロリー低めになると申し訳なさそうに言うのだが、それはこちらの自堕落が原因(おやつ食い過ぎ)だし、実際に出された夕餉はむしろ味が濃いくらいだったので、こちらこそかえってすいません、みたいなことだった。食後、消化器科の担当医来訪。こちらは歯磨きの最中でラフな応対になったが、何やら久しぶりに会った仕事仲間そのもののようで笑ってしまった。結局畏まらないこういう関係が楽でいいのだなあとつくづく。肩口の投薬ポートを外すかどうかの議論。
コルトレーン『至上の愛〜ライヴ・イン・シアトル』は、これまたパーカッションから始まるのだが、今度はファラオ・サンダースとコルトレーンが二人で。テーマだけが同じであとはスタジオ盤とは似ても似つかない気がする。退院次第聴き比べ。録音状態は決してよくはない(イヤホンでしか聴けないが)ものの、狭い会場なのだろう、エルヴィン・ジョーンズが同時期のどれより大きく聞える。ノリも悪くない。マッコイ・タイナーも同様でソロの際の二人の呼吸には驚くべきものがある。ただ、やっぱりフリーではない。一方、ジミー・ギャリソンのソロタイムでは人間のおしゃべりどころかどうやら猫さえ鳴く。真の意味のフリーが垣間見える。六〇年代末新宿ピットインではニュージャズホールとさらに小さいティールームが開かれ、あまり客も入らなかったのに殺気だけは漲っていたという話をかつて聞いたが、この解放区状態はあっただろうか。それも束の間いつもの感じでしれーっと終わっていく。これをたぶんリーダーはよしとしなかったのだろうし、それならそれでメンバーも去る決意をするだろう。そしてついに六五年十一月が来るのだが、薬を飲んだので眠くなるといけないから、その『メディテーションズ』は明日にとっておくことにする。
 
某日、たしか「百円紙幣」という短編だったか、鴨居の裏に紙幣を小さく折りたたんで隠す話と、つい数日前読んだ「記憶」の、前日に乗ったタクシー運転手の顔を同定できないのにその男に誘われるまま将棋を指す細部とが不意に重なり、しかしこうした些事に左右されつつ生きることと戦場にあることは同じで、戦場だって幾つもの些事が去来して時間が出来上がることにおいては変わるところがないと念じながら梅崎が凧として空白をたゆたっている気がする。安吾と明生の間を繋ぐ人だと改めて思う。中上はそのラインに憧れながら自分はそこに乗っていられないと諦めただろう。
昨夜はかなりはげしい雨が降ったようだが、まるで気づかなかった。
神保町・東京堂書店ではフローベール生誕二百年フェア開催中、行けないのがもどかしい。これと土橋のフライシャーが復帰までやっててくれることを祈る。
午前中はポール・サイモンとファラオ・サンダースを研究すべく準備していた。来年後半はこの二人で行きたい。それをやってしまうともう新規に研究したいことは見つからないんじゃないかという気がする。いやまあ、なんだってやろうと思えばできるしすでに手元にあるものを繰り返し研究すればいいんだけど。それに音楽でなくても他に研究対象はいくらでもあって、きっと死ぬまでなんらか研究で忙しいのだろう。
『狂い凧』前半。現在時制ということになるのか、横になった怪我人へのインタビューの合間に本筋を離れたかに見える事象を挟み込む、それがリアリズムを目指しているのか語りの上の装置なのかはまだわからない。が、読んでいて実在感をより触知するのはたしかだ。現在と書いたのは過去があるからで、現在ではインタビューがなされ、それは怪我の原因であるごく最近の事件から幼少期まで様々な過去についてだ。そういえば、これも「記憶」だったか、わざわざ《M病院》と伏字で記述したのをなぜか直後《松沢》とバラしていたが、精神科への偏見を暗示する以外さして重要ではなかった気がする。ここで東京以外に最初に露になる地名は《下関》であり、これは隠しておいて不意に提示するTPOを弁えた小説技術と見た。そしてこの《下関》が様々な分岐点ともなる。些事の積み重なった挙句、生死の分れ目ともなる分岐点である。そうして分岐はさらなる分岐を繰り返し、網の目のように広がるのだが、その起点にあるのはよく似たふたりの人物、双子である。とはいえその起点もまた曖昧であり、そうして本作は紛れもない長編としての極めて精巧な結構を得る。
Bialystocksの新曲がリリース。MVが22時からYouTubeで、ということだがネットの門限なので明日にとっておき、今夜は『メディテーションズ』を聴く。
 
某日、明かりを落とし横たわった状態でイヤホンで聴けば、それでも一曲めは聴いた気がするがいずれにせよ眠りに落ちたので、聴き直し『メディテーションズ』。冒頭は鳥どもの饗宴。ロバは鳥に、鳥はロバに、自在な生成変化を見せる。町は自動車も走れば工場も機械化されている。やはりファラオ・サンダースとラシッド・アリ加入の影響は甚大でコルトレーンの自由度をぐんと上げる。しかしそれによりタイナー/ジョーンズは限界に達する。
女優情報によれば、ぱるるは毎朝私を呼んでいるとのこと。女優が説得したら理解して沈黙するらしい。こちらはスイーツ禁断症状でひどく落ち着きを欠いている。
午後、女優がとうとう病棟に現れ、担当医の説明を並んで聞く。意味もなく緊張した。終わるとすぐに出ていかねばならず、あまり話してもいられなかった。
入院の日に書いた訃報の知人は井川耕一郎氏で、妹さんがTwitterで正式に報じた。彼が伊藤大輔研究をされていたとは知らなかった。私は知人のことさえ何も知らない。監督作のことも知らなかった。今日まで脚本作だと思っていた。機会があれば見ておきたい。
朝から軟便で下剤を飲むまでもなかったが、昼から粥になり、腹は減る一方。そして夕餉は予告されていた「流動食」。重湯(人生初)、清汁(一切固形の具なし)、ホウレン草のクリームスープ、桃ジュース、豆乳、という黄金のクインテット。全て吸い終えるとすることもなくなり、静寂のしじまに腹はぐるぐる爆音を立てる。さすが流動食。さすが下剤。
かくして読書タイム。ふと、これは後期漱石、つまり『こころ』や『道草』が源流じゃないかと思われた。それらは梅崎の誕生した頃に書かれた小説なのだが、それに意識的だったかどうかはともかく、秋声との呼応によって私小説に向かいかけた時期の漱石がいて、それに刺激された私小説家が漱石の死後、数多く登場して一つのブームが二十年ほど続きやがて廃れ、その後戦争を挟んでこのブームを咀嚼した梅崎や藤枝が登場する流れを掴みかけていたが、親戚間の金銭のやりとりや養子縁組のエピソードを執拗に描きつつ『道草』とは逆に血縁そのものを問題化するやり方を、戦後派であると同時に「遅れてきた私小説」と考えてもいい気がしてきた。というか、ようやく日本近代文学の流れがわかりかけてきたのか。ただ、戦争についての描写は、梅崎は従軍しても外地での実戦経験はないので、復員兵にインタビューして得た情報が大部分であり、それがそのまま語りの形式となり、そう考えるとインタビュー小説=都市小説の書き手としてチャンドラーと同時代人であることが一方で窺えもする。それら二つの微妙なミクスチュアが梅崎なのかもしれない。
この続きは術後に。もう水も飲めないので朝まで寝るに越したことはない。
 

P1000258.jpg 52.25 KB


P1000257.jpg 56.29 KB
 

某日、朝の検温時にいきなり地震。山梨で震度5弱。病院にいるとほとんど揺れを感じることがないのできっと耐震構造がしっかりしているのだろうが、今朝は感じた。自宅なら震度2程度の揺れだが。長かったのでこれはどこかで大きく揺れてると直感した。山梨にご実家のある皆さんは大丈夫だったろうか。
七時半に歯磨きを済ませ、手術着に着替えよという司令だったので遂行して待機。パンツはフリーサイズの紙パンツ。前後はないがどこに足を入れたらいいかもいまひとつ自信が持てない。全身麻酔は九八年の胆石手術以来なので、へんに緊張する。
昨夜遅く当日記書籍化に当たっての表紙案画像を見た。悩む。悩みついでに第二弾(二〇二〇年九月以降)の副題を「または、いかにして私は酒をやめ、まっとうな余生を貫きつつあるか」としようかと考える。これはたったいま、町田さんの『しらふで生きる』文庫版に「大傑作である」とリツイートしたからだ。続きを打たなければならない。そして「余生」の一環としてのこの手術である。
ともあれホール・オブ・フェイムでのライヴでトム・ペティ「アメリカン・ガール」を聴いて心穏やかに待つ。『羊たちの沈黙』でこの曲を知って早三十年が過ぎた。
 
某日、手術は約四時間に及んだらしい。すぐに目が覚めたがあまり記憶はない。手術前と後に妻と短く話した。どうやら安心しているようだった。病室に戻って、陽一郎に無事終了を告げるためTwitterで一報。そこからは眠った。深夜、下剤の残りを出した。当然おまるというやつで。朝になって体に繋がっていたものがどんどん取れ、午前中に尿道カテーテルが外れ徒歩訓練をした。カテーテル外しは毎度ながら痛かった。最初の排泄時も痛かった。
昼餉は普通の献立、普通に完食、しかし発熱。聴き逃しウィークエンド中に三十八度。
ぼんやりしながら早川由真氏がboidマガジンに書いたフライシャー小論を読む。これは土橋の紹介文だが、若い書き手の書く正鵠を射たこうした文を読むたびにこれがもっと人の目に触れたらと思う。センスのいい書き手は何人もいる。それをなんとか書物にできないだろうか。人はネットならタダとか安いとか思って書物を買おうとしない。でも書物を買って読むことでしか身につくことなどない。これは経験で身に沁みた話。出版の手立てを知っている人たちはどうせ売れないなんて諦めないで、一冊一冊その書き手に相応しい書物を出すべきだろう。それだけが現在の閉塞を打破する。
そういえば、まだ終えていない『狂い凧』だが、相米さんも読んだのではないか疑惑がまたしても病院で発覚。『台風クラブ』に「俺たちには厳粛な死が与えられていない。俺がそれを見せる」とかいう台詞があったはずで、先日はそこを爆音班がかけなかったので確認してないのだが、『狂い凧』にも「人間の死とはもっと厳粛なもんだ」というそれに類する台詞がある。ただ私が二者の類似に気づいたのはそこではない。それ以前から何か相米的な空気が漂っていた。殊に『青べか物語』同様に浦安らしき港町で船釣りに興じるのが後半の主たる舞台だが、そこでのやりとりは実にそれらしい。具体的に何が、というのは言いづらいが、姿勢として似通っている。
こないだ「水谷孝のレコード棚?」というイベントがあったと聞いたが、「相米慎二の本棚」みたいなフェアをどこかやらないだろうか。かつて相米さんの部屋に集った助監督のお歴々に、どんな本があったか取材してそれを書店の特設コーナーに置くのである。予想されるのは石川、大岡、泰淳、梅崎、藤枝、深沢、野坂。これまで「第三の新人」以後と思ってきたが、実はそういうところではないか。あるいはさらにディープなところか。
夕餉を挟んで読了。予想しなかった展開と結びのイメージに面食らい、しばし絶句。しかしそうなのだ、それだから梅崎は同時代的に理解されず、ここまできてようやく人の咀嚼が始まったのだと思う。これは『こころ』における天皇の位置を漱石に問い質すようなことで、またこのような家族、血縁、親類縁者といったものは戦後の核家族化した社会に住まう者にとって厄介事でしかなかった。それを梅崎は巡りめぐるようにして描く。現在ではこうした関係はフィクションにすぎない。本家と分家など想像の範囲外だからこそ受け入れられる。私自身、両親が亡くなり血縁を無視しはじめてようやく自分の人生を得た気がする。もうひとつ。この曖昧さ不確定さというのは、大西巨人の真逆という印象を受ける。同じ部隊に配属されながら対馬へ渡った大西と帰された梅崎。梅崎の目に戦後文筆を開始した共産党員大西はどう写ったのだろうか。ちなみに梅崎の実際の兄は赤化してないし自死もしていない。ともあれこれでついに『幻化』に入る。
そして私という語り手はインタビュアーであり、同時にキャメラアイである、ということ。思えば前半、栄介の自宅でも栄介の言葉を引き出すのみならず、後半まで繋がる腰患いと「庭の眺め」を描写し、その後半では加納と栄介の挙動を細かく見つめた。そしてこのキャメラアイが最終的に凧の発見に至る。この二重の「装置」の意味をもう少し考えたい。


P1000260.jpg 59.19 KB

 
某日、午前四時起床。先日眠るままにしていた『メディテーションズ』再び。ここで重大な示唆を得る。音の定位についてだが、撮影角度についても同様のことが言えるかもしれない。ツインドラムが並列する二重のリアリティを喚起することを初めて実感した。しかしマイルスの時もそうだったが、いまイヤホンで聴いているからそういうことが言えるのであって外に出して聴くとまた別の輪郭が見えるのかもしれない。
梅崎『幻化』。すでに『狂い凧』から感じていたが、病のせいか文章がひどく簡潔になっている。ワンセンテンスの短さ。峻厳を覚える。鬱病前後からの短編を確認のために読みたいが、そういう編纂のものがみつからない。筑摩文庫で安吾全集をやったときは重宝したが、あれを梅崎でもやってほしい。川島『人も歩けば』もソフト化されたことだし。新潮の全集七巻は見事にばらけていた。全部買わないとならないようになっている。
再発イーノ『ディスクリート・ミュージック』を久々に。まるで懐かしいとは思わない。七五年の時点でイーノは人間に必要な音楽を作り、その試みはいまも続いている。
ブライアン『アット・マイ・ピアノ』。これは彼の死後誰かがそっと出してくれたらよかったのにまるで自分で自分を追悼するように奏でられるあまりにもブライアン的なサウンドに本当は死んでしまったのではないかと疑いたくなる異様なアルバム。今年度ベストワン。いくらご贔屓のビアトリさんでもこれには勝てない。萩原健太氏のライナーがまた早まった追悼文のようで泣かせる。それにしても「サーフズ・アップ」のオーラスのメロすべて確実に弾くのはたぶんブライアンだけだろう。そしてああ、ブライアンにはこのようにも聴こえていたのかと新たな発見もある圧巻のラスト。
そういえば昨日のウィークエンドサンシャインで『リスペクト』は商業映画(だからダメ)みたいな意見が寄せられていたが、私が書いたのは「商業映画としてダメ」ということであって、商業映画として成立していれば両手の賛辞で迎えただろう。世の中、いろんな物差しがあることのいい例。
デヴィッド・クロスビーのファースト五十周年盤。四曲めの「Laughing」がはっぴぃえんどによく似てるけど同じ年に作ってる他人の空似。あれに似てることがあるなんて凄い。
『女系家族』ドラマ化を知り、久しぶりに三隅版をAmazon Primeで。初見の際は一種異様な空気を受け取ったが二度めはすでに三隅を何本も見ていた時期でどこか噛み合わない感じがしたのを記憶しているが、今回も釈然としないものを感じ続け、それが何か探ろうとするがわからない。ひょっとして京マチ子と三隅の折合いが悪かったのかとも思われるが。二人ともにこの企画に乗らなかったのかもしれない。売れた原作とはいえ、やる側としては『細雪』の二番煎じ、むしろ劣化版といったほうが早いかもしれない。京はすでにやっているので、それと比較するならこの役は残念ながら貧相に感じられただろう。三隅にしても何かやりきれないものを抱えている感じがしてならない。いつもの実験精神が見られる場面はごくわずかだ。あとこれ、英語字幕付きでも海外には全く理解されないだろう。一種の単純さを欠いている。個人的にはむしろそこが気に入らない。
 
某日、体内からの排液を貯めるドレーンが外され、担当医より退院の話。金曜が手術で週明けすぐだから回復は早い方ではないか。夕刻の発熱以外特に痛むとか怪しいところもない。明日か明後日には退院だろう。
昨日の続きで少しだけ。『女系家族』に欠けている単純さが『細雪』にはあった。そうして同じものが溝口にもあった。依田、宮川、内藤、菅沼と溝口組が揃っていてさえもクリアできなかった壁がそれだった。京さんが乗れないのは仕方ない話かもしれない。何しろそれは映画にとって必要不可欠な単純さである。台詞では入ってこない部分である。だが台詞での説明がなければこの物語の骨格は出来上がらない。これについては鴈治郎もお手上げだったのではないか。書類のインサートを撮るとしても同じことで、膨大な徒労に終わる。三隅はどこかで覚悟したかもしれない、これは失敗に終わると。だからその失敗を凌駕すべくのちの真の傑作である女性三部作を成功させて、意地を見せたのではないか。時代の推移、大映が潰れると女性映画はほぼ同時にどこでも企画として外され、多くの女性映画の名手が失職するかアクションものへの転身を図ったが、三隅はその被害を被った第一人者かもしれない。いかに眠狂四郎や座頭市シリーズを背負っていたとしても、彼の真価は女性映画にあった。雷蔵と相手女優の開花が同時にあったように両輪あっての才能だっただろう。
考えすぎたせいですっかり三隅のことが心配になり、何か見ようと探して『無法松の一生』を。勝新と有馬稲子、撮影は天才・牧浦地志、編集は菅沼完二。予想通りの大傑作である。心配は無用だった。同じ伊丹脚本から生まれたのは確かだが、他を圧して美しく感じるのは主演二人のせいか、それともやはり三隅が偉いのか。冒頭の蝙蝠(稲垣版にあったか記憶にないが、子供の頃よく見たことはたしか)含めて、幽霊に追われる場面など、特撮好きかどうか、しかし『釈迦』も『大魔神』もこなした三隅の実験精神みなぎる闊達さがたんに心地よい。有馬さんはすでに継続的なキャリアの末期だが、同世代の亡母が私を産んだ年齢に近い。いつも岡田さんや有馬さんの芝居を見て背筋が伸びるのはそのせいだと思う。『告白的女優論』なんて見てられないくらい緊張する。で、そのラストを締めくくると決めていらしたのかどうか、有馬さんの芝居は完璧である。一糸乱れぬ吉岡夫人ぶりとでも言おうか。老けの作り方の美しさなど大映結髪部の力はもちろんだが、ご本人の所作の熟練なしにあのように一切不自然なところのない芝居はありえない。それは勝新も同様、太鼓は三船もそうだったが、自身で叩いているのかと思われるほど見事なバチさばきだったし、同時に勝新が倒れて映画史上最も美しい大映の雪に埋もれる刹那、潅木につんのめる足元の寄りをさりげなく挿入する三隅の運動神経も健在。三者三様さらに牧浦含め大映パワー含め、総力結集である。さすがにこれ以上のものが作れるとは誰も思うまい、これが最後の『無法松』映像化となる。ちなみに記録によれば私の一歳の誕生日の一日後に封切られている。例の幽霊の場面で行く《ひろの》とはどこかと考えたが太い川を渡るので遠賀川の西かとも思われたが、なんとなく平尾台ではないかという気がした。ああいう秋成「樊噲」に登場する若衆宿のような場所はあちこち数多くあったかもしれないが、若い父親が家庭を逃れてしけこむとしたらそれくらい離れていても不思議ではない。そしてそれくらい歩いて夜更けに辿り着いた松五郎が泣くのは無理もないと思われた。
実はこの直前に村山新治版というのが存在するのを知らなかった。三國連太郎主演。そして伊藤大輔脚本である。見てみたいがかなり難しいだろう。
 
某日、疲れているが眠れなくなった。深夜、何度も目覚めるので巡回の看護師に導眠剤を頼んだ。三隅『無法松』の幽霊シーンに惹かれて『ザ・フォッグ』を見直したくなった。たしかリブート版が出ているのでは、と検索するがAmazon Primeには入ってないし、正規盤はエラい値がついている。ただあの、緩急の使い分けの効いた鉄仮面の動きをシャープな画面で見たいだけなのだが。そしてこのことは以前も書いた気がするが、サンディ・キングのキャリアは『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』のスクリプターからその後『パラダイム』を経て『ゼイリブ』以降P。二人のJC作品を通じて思想を世界に広めた偉大な女性プロデューサー。二人のJCの思想も二千年前のJCに負けず劣らず、パンク。
導眠剤を貰ってようやく三時間ほどまとまって眠れた。
本日「アナログばか一代」だが残念ながら不参加。病院抜け出す元気はまだ。Twitterにあった直枝さんのインタビューでやはり「手グセ」回避を直枝さんも力説されていた。ギターではなくキーボードで作曲すると。そして「サブスクでは俺には音が入らない」とも。同じことを考えているのはいいかどうかは別にして。
昼は饂飩。刻みネギにかけ汁の素饂飩。当然、昨日の『無法松』で幼少期の松(頭師佳孝)が父親を訪ねて行く途中世話になる家が出してくれるそれを思い出す。自分のもかなりの量だが、松のすするのもそれなりだった。無法松の話というのは他愛のない話である。権力にへいこらしない、しかし気に入られ、誰もが笑って許す、一本気なやつ、というのは主人公を変えて山ほどあるだろう。これが庶民の好きな話で、一方庶民は金勘定も好きだから『女系家族』のような話も同じように映画化される。これは他愛のない話ではなくハイソサエティの皆様が人倫に悖るところまでいく。だがそのハイソの話も単純さを欠けば他愛無い庶民に敗れる。抑えきれぬ慕情を抱えて吉岡夫人を訪ねる松がその手を掴みながらそれでも「俺の心は汚い」と思い直し逃げ帰った、その後のラスト、亡くなった松の残した二枚の通帳を我々は寄りのショットで宮口精二や有馬稲子とともに検分することになる。そこには遺産がいくらいくらでどうすればどうなると口で言わねば納得しない者たちとは比較にならない有無を言わさぬモノの説得力というものがある。これが単純さである。この単純な説得力が亡骸にすがって泣く吉岡夫人とその後で軒下の雨だれを導く移動ショットに最大の効果をもたらす。
なにやら大変愉快かつ悲惨な話を女優から電話で聞き、まあ公にすることでもないので書かないがともあれ大笑いしてから夕餉。鮭のちゃんちゃん焼きというと思い出すのは十勝の牧場。ロケハンでもロケでもでかい鉄板で食わせてくれた。『エリ・エリ』のとき。
ふと思い立ち、図書館へ通うという方法があるじゃないかと当然のことを考えた。できる限り数多く安く迅速に梅崎を読むにはそれがベスト。ということで近場の図書館にある全集を調べてみた。すると全七巻でいえばあと二、三巻分ほどの量が未収録であることを知る。いや、あちこちで全集未収録作品がいくつもあるという情報は読んでいたので、なるほどと思うだけなのだが、であればなおのこと、梅崎検証はまだまだこれからだと空気も入る。先日相米さんのことで書いたように何処かで時代とすれ違った作家だが、だからこそこれから再検証の余地がある。論じるということは能力的に無理としても、方向付けというか仕分け作業をできれば自分が次に行うと考えていることに手をつけるまでにやっておきたい。それが出会った間柄の他生の縁というものではないか。
 

Haruo_Umezaki_01.jpg 76.53 KB


 
某日、夢にたむらさんが出てきた。相変わらずつっけんどんだったが少し笑った。髪が、あれは赤金とでもいおうか、いわゆる白金(プラチナ)の赤混じりのような色。洞窟のような映画館で、ロビーが迷路のように複雑でその迷路をサッサと歩いて行く。呼びかけるとめんどくさそうに停まった。そして笑った。あの頭は向こうでいい地位に着いたってことではないか。しかし何しにきたのか、もうちょっとそっちで頑張れとか、そういうこと?
退院というのにどうやら外は雨模様。
Twitterでオーネットの六五年以降が六枚組アナログボックスで一月、という報。なんか見透かされてる気もしないでもないが、素直に従うべきか。それにしてもAmazonって新譜が出るというんで焦って予約しても結局日本盤優先で輸入盤は後回しか連絡不通になってしまうのってどうなんだ? これまで何回かそういうことあって予約取り消して邦盤注文し直した。めんどくさい。ともあれ私の場合少なくともいまは東京で聴くためにはCDが必要なのでCDも買うのだが。なんか邦盤品切れ多いんで、ぬるいなあと思ってたが、やっと動くか。オーネットへの敬意が足りんとこっちはイラついておったぞ。
荷を解き、届き物を検分するともう夕方。買出し、スーパーの模様替えにしばし笑い、しかし買い過ぎてどっと疲れる。夕餉を作って一人食す。やがて発熱。手術以降、この時刻の発熱は定番。ロキソプロフェンで安定させる。
その間、音楽。リアノン・ギデンズ、二〇一五年T・ボーン・バーネットのプロデュース、じっくり聴く。無理がない。その後を追いかけてみよう。続いてラオスのモーラム、ラムの伝統的なやつ。これは非常に良い。東南アジアはほとんど「?」だったが、これがベスト。ある意味でフリー。ある意味でインダストリアル。さすが社会主義国、侮れない。戦争犯罪人辻政信失踪六十年、初めてラオスに触れた。
『幻化』については読了後に改めて書くが一点だけ。これだけ「具合の悪さ」と穏やかに寄り添った言葉も珍しい。こちらまで「具合の悪さ」が伝染してくる感じだが、決して怯えるようなことでもない。それ自体にはさして「何もない」からだ。であるがゆえに一行一行が切なさに満ちる。例えばシド・バレットの曲をランダムに1フレーズずつ刻んで、短くフェードをつけて繋げたみたいだ。しかし時としてそれは耐え難いかもしれない。
 
某日、寝る前に気分を害したので導眠剤、効かなかったのでもう一錠、と今度は起きられなかった。朝の支度をするがほとんど記憶なく、ようやく頭がはっきりしたのは昼頃。まだ体力もまともではないと痛感。
Twitterのbotで見たが、梅崎は「女が書けない」という批判・自戒があったらしいがどうやら本人は特には気にしていなかったようだ。で、漱石の命日ということで梅崎と漱石の関係を反芻しつつ、なかなか『幻化』が進まない。梅崎も漱石も「女が書けない」と揶揄されることでも共通しているかもしれない。漱石は懸命に書こうとしていたが。
本日は本当に何もできず閉口した。何も見ることもできず、何も聴けず。精神の問題でもある。こういうときは寝るに限る。その他、立民が野党連合解消とのことで、この国はいよいよ本当にダメになって行くようだ、など。
 
某日、薬の世話にならなかったので快活に目覚め、朝の仕事に正式に復帰した気分。傷の周囲が若干浮腫気味で皮膚が薄緑色に変色しているが、相変わらず突っ張らかっている以外痛みもないので病院に知らせるまでもないだろうとそのまま様子を見ることに。
いつの間にか『DUNE/デューン 砂の惑星』東京上映が終了、ソフト発売予告が始まり、間に合わなかった哀れな老人の気分。来週までにタダ券を使う必要のある劇場であまり気の進まない映画を見ざるを得ないことになった。まあ気が進まなくてもどうせ見る。
かかりつけへの報告とペットショップ。帰るとまあ疲れている。しばらくぼんやりする時間が必要だ。それは手術前から同じか。本日は父の命日。七回忌だが何もしない。しなくても誰も何も言わなくなった。それでよい。日頃から父とはなんらか喋っているのだからそれで十分だろう。しかし近日中に報告がてら寺に参りたい。佐野史郎さんが骨髄腫であると。最近周りにガン患者がやたら多い。同病相憐れまないが我々は今後も生きて生きて生きて、次の時代をたしかめて、そしてすべきことをするのだとしか考えていない。つい休みたくなるが、休みながら前進する。近代にとどまりながら前進、と中島岳志氏が反原発論を語っていたが、まさにそれ。とはいえ日暮れと同時に体調が悪くなるのは毎日のこと。いつまで続くのやら。今夜は痛みが特に激しい。
基本、私は表層至上主義者であり、画面と音が全てと言ってよく、インタビューとか批評とかそりゃあ読むけどあまり信用しないし、批評はそれが面白ければ嘘でも一向に差し支えないと考えている。シナリオは読んでもほぼ何かがわかった試しはない。実は編集にもあまり普遍性を感じたことがない。映画はあくまでフィルム断片であると常識として叩き込まれている感じだ。だが、今回の大島本は何かあるんじゃないかと訝っている。持っていないと不安だが、何しろ高額である。しかし目ぐらい通さないと寝ていてバカヤローと怒鳴られる気がする。非常に態度を決めかねる難しい本である。
しかし大島ではなくなぜかヴィスコンティを選んでしまった。『地獄に堕ちた勇者ども』。たぶん三度目とか四度目とかで、もう死ぬまで見なくてもいいような気がした。『山猫』同様ヴィスコンティはここでも運動を作ることができない。なぞることはできても作ることはできない。例えばペキンパーが「死のバレエ」と呼ばれた運動の記録は彼には無理で、何かを程よく画面にしようとすると運動は死んでしまう。だから「死の凝固」ばかりやたらと目立つことになるが、それは映画になることの諦めに等しい。後続の者はそこを評価して敬意を表するが例えばチミノやベルトルッチが撮れば運動は運動のまま崇高に輝く。この不可能性はちょっと不思議な気さえする。だがそういうものだとしか言えない。
中島岳志氏の研究について調べていて「利他」という概念に行き当たり、そこからさらに落語「文七元結」、長らく聞かず内容を覚えてないので家元のを聞く。あ、と思ったのはそもそも娘は身を売っても死ぬわけじゃないがお前は死ぬのだからこの金はやる、という理屈があったはずだが、家元は江戸前とはこういうことと言わんばかりに押し付けて去る形にされていた。いい話だというだけで気の利いたサゲがあるわけでもなさそうだが、まあこれが「利他」であるということなのかどうかは知らない。たぶんそういうことだろうが、そうすると江戸前かどうかは別にして「利他」とは理屈ではなく押し付けて逃げてしまう、その藪から棒さが前提になってしかるべき気がする。理屈は後からつけられるが、行為はその手前にあることでなければならないからだ。『EUREKA』の沢井が兄妹の家に行くのがわからないという人がいた。『空に住む』の直実がタワマンに住む気持ちがわからないという人もいた。私にとっては同じ理由である。言語で説明する気はさらさらないが。
 
某日、またしても寝起きがよくない。珈琲を大量にドリッパーから溢れさせてしまった。ウィークエンドサンシャインでストーンズの「ドリフト・アウェイ」、こないだバラカンビートだったか、レイ・チャールズのカヴァーがかかったばかりだが、なんでこれ知ってるのかよくわからない。数多くのカヴァーが存在する曲だが、思い入れたことはない。たぶん何か映画でかかったんだろう。“Chickens come home to roost”という慣用句を学んだ。「身から出た錆」の意味。中島氏の『親鸞と日本主義』を開きかける。どうブレイクスルーするのか非常に興味深い。外出は家族で薬局のみ。夕餉もUberで成城石井。
唐突だが『間諜X27』。荒唐無稽とかデタラメとかいう言葉はこのスパイ活劇のためにあるのであって、私は『スパイの妻』のシナリオの面白さがまるで理解できない人間だが、あの映画はひたすら画格の面白さ・美しさだけで出来た傑作だと思ってきて本日ようやくこの映画を見てはっきり確信した。恥ずかしながら初見。こんなに面白いとは。なんとなくいまさら見てないとは言い出しかねてきたものだが、もしかするとこの歳にならなければこの面白さを満喫できなかったかもしれない。たぶんそうだと思う。デタラメやちぐはぐさにも若いうちはついバランスを求めるものかもしれないが、むしろうまく行ってなさによって気分が乗っていけた感じだ。もちろん誰にも感情的に加担できないし、その種の映画ではない。ただただ画格が物語をリードする。もしかすると映画の画格(本来そんな言葉は存在しない。人格というのと同等に考えうる)が初めて誕生した作品なのではないか、というくらい、余計な感情などを徹底的に排除した清々しさが漲っている。この清々しさをただ、いいもんだなあ、と思えるいまを贅沢に味わえた。やはりスパイ活劇とはこういうものなのだなあ、よかったよかった。スタンバーグの伝記などあるかどうか知らないしどうせ悲惨だろうから読む気もないが、あるならこの作品周辺だけは読んでもいい気がする。
『死者と霊性』をパラパラと。当面、うっすらとこれを勉強しなければ。
 

image2.jpeg 79.52 KB
(撮影:女優)
 

某日、ぱるる下痢。拭いてもまた垂れる。かわいそう。
『親鸞と日本主義』のために『歎異抄』を読む。うっかり読み飛ばしそうな箇所まで読み込んでみる。現代語訳が付いていても完全にはあてにできない。言うまでもなく霊性とは死を生の側から考え、生の側に侵食する死を見つめるときに接する名状しがたい何かのことだが、どうやら大抵はそのあわいに余剰として現れるものについて語っており、それは親鸞だって例外ではない。第二条が面白くて、もしかしたら法然に騙されてるかもしれないけど的な、でもそれでもいいです、みたいなリアクションをいちいち挟み込む。法然はちょっとしたスキャンダルに巻き込まれて後鳥羽に土佐に流されそうになったが放免、弟子の親鸞が越後へ、死罪になった人もある。第五条が難しい。「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、仏になりて、たすけさふらうべきなり」ゆえに「父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらわず」というのも「(この念仏)吾が力にて励む善にてもさふらはばこそ、念仏を回向して、父母をも助けさふらはめ」。この念仏は私の力で得たものではないからね、とあくまで他力本願。でもこれ、親鸞がやったことないというだけで、普通の人はやるんじゃないの? まあ、そうかもしれないけど、効力ないよ、てか意味ないよ、自分てものを捨てたところじゃないと何も救えないのよ、と言うのが親鸞の教えなのだ。逆に言うと、たんに念仏申すのではダメで、救えないと意味ないわけだ。そこらへんがややこしい。自分は法然の弟子だが自分には弟子はないと語るその理由もまたうざい。師匠にしてください(©︎なぎらさん)ならありか?
夕餉の後、バラカンビート。安東ウメ子に感動。ウポポは京都で『榎本武揚』のために数枚聴いた。よほどのことがないと高揚できないのか。このような曲をホキモトが作って彼らの楽曲の間にポンと置いているようなアルバムがあれば、それはいい、と思わず唸ってしまうだろう。一方、コルトレーン「アフロ・ブルー」かかったが何も感じない。
「浄土へいそぎまひりたき心のなくて、いささか所労(病)のこともあれば、死なんずるやらんと、こころぼそくおぼゆることも煩悩の所為なり」というのは当たってる。で、だから煩悩のないのはやばいだろう、という話。
眠る前になって薬を飲んだら、飲んだ後の方が痛くなり、想定外の事態で閉口する。
 
某日、朝になれば安定。しかし仕事場の足裏の冷たさを考慮し、二年目となるカーペットを敷き、さらに冬場の午前中陽射し対策として切り返し位置に座椅子設置、これを「ベンガジ/トリポリ」状態、または「プナカ/チンプウ」状態と呼ぶ。この状態でさらに冬用靴下を履いて万全。諸々見通しも良くなる。
『歎異抄』読了したものの、まだ「他力本願」も「救う」もその内実はわかっていない。そう簡単にわかってたまるかというところだろうが。以下、その後の要点を箇条書き。
○「わが心のよくて殺さぬにはあらず、また害せじと思ふとも、百人千人を殺すこともあるべし」(十三)。後者は戦争の謂か、この辺が問題。ともあれ親鸞『ヨーク軍曹』肯定派。
○「願に誇りて作らん罪も、宿業のもよほすゆへなり。さればよきことも悪しきことも、業報にさし任せてひとへに本願をたのみまひらすればこそ、他力にてはさふらへ」(十三)。それはわかるのだが・・・
○だいたい死なないと救われない。「命終すれば、諸々の煩悩悪障を転じて、無生忍を悟らしめたまふなり」。「摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業をおかし、念仏まふさずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし」(十四)。この辺もどうも取り違えられやすそう。
○「すべてよろずのことにつけて、往生にはかしこき思ひを具せずして、ただほれぼれと、弥陀の御恩の深重なること、つねは思ひ出だしまひらすべし。しかれば念仏もまふされさうらう。これ、自然(じねん)なり。わがはからはざるを自然とまふすなり。これ、すなはち、他力にてまします」(十六)。自力も交えて「じねん」、ではないのが理屈ではわかるが感覚として難しい。でも「ただほれぼれと」というのは、いい。芸術でも女でも男でも、「ただほれぼれと」見ていられる聞いていられるのは、いいに決まっている。そのとき、こちら側は「じねん」であるわけだ。
で、これらをぼんやり諳んじながら『親鸞と日本主義』を検討しようというわけだが、再開してすぐに子規の「写生」と「じねん」の話になった。これはわかる。で、これもすぐわかることだが、三井甲之という歌人は阿弥陀仏と念仏を別のものに置き換えたがり「じねん」を一草一木の自然と意図的にかどうか真逆に取り違え、親鸞を強引に自説の方へ、つまり「日本主義」胎動の方へ利用する。最近の中島氏が取り上げるアガンベンの用語を使うなら「ゾーエー」と「ビオス」の混同。親鸞はその区別に極めて厳密であり、言ってみればその二つは「自力」と「他力」ほどに違うはずだ。つまりそのようなデマゴギーが三井の「日本主義」の正体だ。親鸞とは「そのままの世界」を全肯定する思想、ではないと『歎異抄』を読んでわかった。
監督協会会報に掲載された伊藤俊也監督による澤井信一郎監督追悼文が素晴らしい。
新しく得た知識として、英語で「千鳥格子」は“houndstooth”という。犬の歯。
 
某日、朝Twitterで『人間の條件』の映像が上がっていたが、海外からで英題が付されており、それはもちろんThe Human Conditionなのだが、見覚え聞き覚えがなく、思わず検索したが出てこない。流れで、いわゆるアメリカの映画館のビルボードになった『ドライブ・マイ・カー』の前で記念撮影の監督を見る。まあこれ以上いいことはないねw アメリカ人もようやく満足できるCool Japanを見ることができたのだろう、か。
朝餉の後、降り出した雨とともに気圧がどっと落ちたか、気絶かというくらい目の前が暗くなり、やがて動けるようになったが肝を冷やした。手術後の体調変化はこれからもまだなんらかありそうだ。結局昼過ぎまでふらふらの状態。本当に無駄な時間が流れ、ようやく動けるようになったのは午後二時過ぎ。
夕方、アテネへ。恒例、中原の白紙委任状。着いた早々、松本さんへベルタの際の陳謝。これまで各一回ずつしか参加できなかったが今回はできるかぎり行こうと思う。本日、バージェス・メレディス監督と一応クレジットされている珍品『エッフェル塔の男』。Pであるアーヴィング・アレン監督の予定が、話が違うと怒ったチャールズ・ロートンが三日目で降板勧告、条件はメレディス監督だった模様。何と言ってもスタンリー・コルテス撮影。とはいえエッフェル塔の合成の他にさしたる活躍はない。もちろんこれだけでも大変ではあるが。退色著しいプリントだが、松本さんも仰ったようにアテネでは普通のこと。本作、町山氏によれば三〇年代ニューロティック代表、デュヴィヴィエ『モンパルナスの夜』のリメイクらしい。それにしても奇妙なのは、観光映画の側面もあれば英米の大物舞台俳優の共演という面もあり、戦後早い時期のパリロケ米映画ということもあってか、不自然なほど明るい。ちょっとアナーキーと言ってもいいかもしれない。メレディス『リア王』出演の理由がなんとなくわかった気がした。
帰りに中華で久しぶりに集団的に語らう。こういう状態は久しぶりだった。話も豊かに広がり、動機至上主義に抗する、という町山氏の話に大いに賛同。何か説得してくるような映画を全く好きにはなれない、のかもしれない。『砂の器』と『八つ墓村』(野村版)の違い。
 
某日、さすがに疲れはひどく、午前使い物にならず。午後ようやく動き出せて、自転車で武蔵小山へ買出し。その後再びアテネ。ジムと石橋英子さんと久しぶりの再会。本日は二人と中原のトークでロバート・ダウニー・シニア『グリーサーズ・パレス』。結論から言えば、その存在を知ってから二十数年、待った甲斐のある最高の作品、最高の上映であった。高低差とプレーンな環境を使い分ける卓抜な空間設計に完全に心奪われる。そこのところだけ傑作だったケビン・コスナー『ポストマン』よりさらに秀逸。造形からくるドラマの強度からいえば、年齢は十ほど上だが同時期にアメリカで活動したカレル・ライスに比肩する。そして因果律をほどよく消し去るドラマの自由度こそがこの人の面目躍如であり、そこはほぼパラジャーノフのごとき飛躍を見せる。その流れでウェスの新作『フレンチ・ディスパッチ』を見れば彼が本作から蒙った影響の深さを感じるはずだ。でも誰も勝てないのはこのキャストたちとの厚い共闘関係のゆえだろう。下の世代も売れっ子たちとそうした関係を築き上げるが、ここまでうまくいかないのは根本的な自由度の違いが圧倒的だからだ。共同体特有の甘えがここには見えてこない。
見終えて、ああ誰にも教えたくないなあ、という感想が漏れた。その後の食事、ジムと中原の隠れた傑作リストアップは相変わらず面白かったが、個人的には本作の反芻で心ここにあらずといった体であった。石橋さんが仰った、ビーフハート『トラウト・マスク・レプリカ』のジャケが最も近い、という意見に大いに賛同した。
 
某日、朝はまだパパダウニーショックでぼんやりしていたが、ふと一念発起、というより魔が差した感ありありだが高田馬場へ。早稲田松竹にて『ライトハウス』。設定は明らかにグレミヨン『燈台守』なのは分かっているので確認のつもりで軽く見始めたが、1:1.19という画面サイズが思った以上に陰惨、アーノン・ミルチャンのクレジットで、お、となりつつ初めは『シャッター・アイランド』的、などと考えるもやがて似ても似つかず、むしろこれはロッセンかフラーかというなり行き。『アンドレイ・ルブリョフ』も彷彿とさせたが結局グレミヨンとアルドリッチのグロテスクな合体というこちらのツボを思い切り見透かしたような出来栄えに、これを評価するのは俺くらいなものだろう、という意味で今年ベストワンと呟いた次第。クライマックスは『キッスで殺せ』の変奏であり、二人はエースナンバーワンとシャック、またはジェーン姉妹、といえばわかってもらえるか。軟体動物の部分ではウェルズ含めたゴシック趣味が脈々と息づく。そもそもはソフト代の節約に劇場で、くらいの気持だったがたぶんBD購うであろう。パティンソンもデフォーもめちゃくちゃハードな現場を乗り切ってひたすらご苦労様と言いたい。と言っても熱演というのとはまるで違うし、巧拙を云々するような低レベルでもない。演出は至って雑な描写だが大変いい塩梅の雑さであって、粘着質というか去年のS・クレイグ・ザラーともまた違う、あちらは思い入れる人も多くいそうだがこちらはなかなか難しいのではないか。音響も過剰に思えてここまでやるのが普通だろうが、その普通の塩梅がまた良し。全体に汚くて、濡れていて、寒いというのはフーパー的でもあると思うが、この人純然たるホラーよりこういうサイコティックな場所にいた方がいい気がする。最初の『ウィッチ』も見てみようと思うが、一つだけ苦言を呈するなら、落下と真俯瞰は決して相性はよろしくないということ。「その気になって見なければならない」キャメラポジションというのは失敗である。特に高低差にとって。ゴシックの難しいところはそこ。ヒッチの鐘楼ショットは実に苦肉の策だった。ともあれ上映時間百九分というのも好印象である。伏線が「うまく張られてますねえ」的な展開も一切なくて、爽快。
 

TheLighthouse_still_main.jpg 67.99 KB
『ライトハウス』 2022年1月14日(金)DVD・Blu-ray発売

 
『死者と霊性』、安藤礼二氏は別格として中島岳志氏以外の方々は「霊性」ということについて捉え方、解き方がぬるい、というか狭い気がした。それほど問題として逼迫しているわけではないのかもしれないし、まだ先はあるが。
 
某日、午前中は雨だったが、先日ほど眩暈など感じなかった。雨上がりにペットショップへ砂を購いに。帰宅すると大阪の放火のニュース。久しぶりにテレビを点けてそのまま見ているとアンソニー・マン『シマロン』。いつ以来か思い出せないが、画面の質感が全然違う。非常に気色悪くて見てられなくなった。最近嫌いになると完全にシャットダウンする傾向が強い。逆に好きなものにはこれまで以上にどんどん近づいて行くが。この見てられなさは明らかに自分のゴシック趣味からあまりに遠い(マンにもその傾向の作品は多々)からであり、ここ数日見てきたものの異様な世界構築が影響している。
夕方から見るべきソフト一覧に変更を加え、それらのソフトを揃え直していた。夕餉を挟んで数時間かかったが、終わった時には目がしょぼしょぼで何も見る気が起きなかった。
しかし文字くらいは追えるので『死者と霊性』の続き。中島隆博氏の「地上的普遍性」という文章から、親鸞が念仏を申す以外のことは不要、できないという主張がやはり正解であるということを深く感じられるのは、ここ最近アテネで中原と会い、最近こそあまり聞かないがしばしば彼が口にした「誠実さ」という言葉には口を噤むことの重要性が同時に現れていて、どうでもいいことはいくら言っても構わない(駄洒落とか)が、重要なことを言うのは非常に難しくて、口にすることの重みをまるで錨を海面下に沈めるように慎重に扱い、我々は、少なくとも私はそれを二人の間では大事にしてきたつもりであり、それなしでは中原という人物とは付き合えないのだが、何が言いたいかというと、この文章で言われる近角常観という人の考えていた「実験の宗教」という概念は、私たちの間では宗教はありえないが、どこかそれに似ていないでもない。で、そういう部分を私はかなり重要視する。
夜更け、強風が家を揺らし、ぱるるが怖がって外に向けて吠える。
 
某日、昨夜割合重たいことを考えあぐねていたので、起きるのが遅れた。それでもすべきことは頭に描けているので迅速に事は運ぶ。少しぼーっとした時間に、昨日の放火がらみで「2001年歌舞伎町ビル火災」をWikipediaで調べたのだが、驚いたことにあれはいまだに放火かどうか、つまり犯罪かどうか見極めついていないらしい。要するに44という大量の犠牲者がその死に因果律を認めぬまま放置されているのである。今回の大阪は明らかに放火で24人死亡、重傷者に犯人が含まれているらしい。京アニの犯人は医師の執念で一命を取り留め、因果律は回復されようとしているが、これはどうだろうか。
昼にアテネへ。中原委任状最終日。土曜日ということもあってか、アテネの学館ホール化というか、待ち時間の観客たちが「不失者コンサート風」に漂っていて、いい。こういう感じはもはやこのイベントでしか味わえない気がする。本日二本、ペーター・ローレ唯一の監督作『追い詰められた男』とジョルジュ・フランジュ遺作『赤い夜』。ペーター・ローレは、とにかくこれがやりたかったのだろう、冒頭からムルナウ的というかドライヤー的というか、美しくも禍々しい踏切のロング、ああこの映画きっとここに戻ってくる、と思わせるショット。複雑に状況を変え、現在と過去を行き来する構成を見事なコンテで乗り切って行く手腕、これは監督本人の能力がなせる技だろう。第一の殺人と第二の殺人が論理において異なっていることを戦後ドイツの精神風土そのものと考えれば、ローレ的紋切り型から彼自身を解放できはしまいか。いささかも常軌を逸することのない殺人者を初めてのように彼は演じていたのではないか。その孤立と屹立に彼を追い込んだ戦争を垣間見て戦慄するに十分な作品だと思われた。私の生まれる約四ヶ月前になくなったこの偉大な名優をこれからも擁護して行きたい。フランジュは、そのエンタテイメントに向き合う姿勢が『多羅尾伴内』の則文師匠そのままで、リアリズムのモードと過剰さ(残酷さ)のバランスを戦略的に無視する試みが世にも果敢だが、もちろん普通の観客にそれが通じるはずもない。だが、痛ましく見えない上にラストなどむしろ小粋に清々しくて、さすがと思わせた。
終わって今年最後の晩餐会。葛生もいて、いい時間を過ごした。
深夜、神田沙也加がホテルの高層階から転落死の報。自殺か。街で彼女のポスターを見るたび、なぜかこの人の心配をしてきた。ご冥福を祈る。
 
某日、本当は土橋に行く予定だったが、寝不足で起きられず。昼までクラクラしていた。
ようやく音楽を落ち着いて聴けるようになり、まず東アフリカ。西の簡素さに対して大編成、戦闘的というかアナーキー。チベット、ラオスに匹敵するパワー。
『死者と霊性』宮沢賢治が出てくるが、影響力はあるだろうが「地人」という特化がはっきりしない。やはり鈴木大拙を考えるべき。「日本的霊性」とは日本的に変容された霊性ではなく、日本を通じて生み出される普遍的霊性であると。だがここでも農民への特化が考えられている。地上ということと農民を切り離せないか。そうしていまひとりの碩学、井筒俊彦に神憑り、憑依へ、折口へと導かれ、最初に戻る形になるのだが、要は「霊性」を問うことはこの「憑依」を解き明かすことなのか。
一昨日作り直したリストに即して一九五五年以降の作品群の端緒として、そもそもこれを見ようとして始めたのだが『嘆きのテレーズ』。これは五二年製作だがあえて。読むつもりで用意した原作を未読ながら。以前のリストでも今回のでもカルネはこれでおしまいなのであとは遡行するわけだが、これが映画史に残るほどの作品かどうかは保留せざるをえない。シニョレが名優であることに異存はないが。そうは言ってもサスペンス系二時間ドラマは多く本作にその原型を負っている。と言っていま見ても素晴らしいとは限らない。夫婦の確執が露呈するダイニングのシーンなどコンテからやり直してみたい。水兵とホテルのメイドのやりとりなど悪くはないのだが。しかし鞠を追う子供の飛び出しを避けたトラックで事故というのはもう誰もやらない。というかやったらおしまいだ。難を逃れ鞠を抱えて破壊を見つめる子供のショットが挟まれるが、それもどうかと思った。だからこの五〇年代中盤までと以降の変容を検証し、さらにそこから現在座標を割り出すのが今回のリストの腹づもりなのだが。それにしてもこれ、パリをリヨンに変更しイタリア人を加えたのはなぜか、と首を捻る。後半の水兵がやたら戦争被害について語るが、風土的な条件を変更しても優先すべきだっただろうか。アバウトに言って『郵便配達は二度ベルを鳴らす』と同じ主題なのだから、戦争があってもなくても変わらない気がする。逆に台詞上水兵の悪意が戦争によって増幅されたように語られても、言い訳以上ではない。むしろ戦争被害が卑小になる気がする。チラ見していた原作の方が面白いような気がするのだが。ちなみにこれが当時国際映画祭で受賞しキネ旬1位、そして有名小説が原作、というどこかで聞いたような状況を生んだのだが、この後の十年弱、映画興行はピークに達する。現在そのようなことはまず起こるまいが、そこで人が何を考えたか検証するのも勉強ではある。
夕餉に焼いた鴨肉を飲み込めず、喉に閊えて戻した。苦しかった。もう固いものを食べられない老人である。まあ手術明けということもあるが、それだけでもない気がした。
バラカンビートの1曲めがワイアットの「アイム・ア・ビリーバー」だったのがとても幸先良い気もした。やはり名カヴァーだ。
ほとんど同じ時期に作られた『悪魔をやっつけろ』は、次の時代に向けた新趣向を凝らした作品。ほとんどがアマルフィで撮影され、アフリカでのウラン採掘詐欺という大ネタが背後にある。実は数日前にペーター・ローレ予習のつもりで見ようとしていたのだが、まさか『嘆きのテレーズ』との対比で見ることになるとは思わなかった。ローレは五一年の監督作とは似ても似つかぬほど太っており、十年後には脳卒中で命を落とす。見るのは三十年ぶりとかだが今見てもこれはやはり珍品で、ほとんど実体のない事物に対する過剰なシリアスさが高じて結果コメディになる、どこかベケット的なシナリオ作りにカポーティとヒューストンは半ば成功しているとも言える。それもおそらく出演者の柔軟さ、殊にボギーの聡明さ(何しろこれサンタナプロ作品)が大きく関与したおかげではないか。デタラメだがいい加減ではないという普段のヒューストンとは逆の出来になっているのが良くて、見事に制御されたけたたましい台詞の洪水と御都合主義がどこかプレストン・スタージェスさえ思わせる。『イグアナの夜』にせよ『アフリカの女王』にせよ、あるいは『アニー』でさえ、一見舞台劇のように思わせてその速度によって裏切り、あくまで映画の側に居座るヒューストンを、その変わり身の早さを揶揄するかやはり映画人と安心するかは人それぞれ。いずれにせよ逸早く映画界の変容に乗っていく姿勢と能力がここで発揮されているのは確かである。そうしてその知性と教養に裏打ちされたリベラルさが赤狩り時代においてペーター・ローレというブレヒト役者を必要とし、擁護し、それはロジャー・コーマンも同様だったろう、だが破裂するか圧し潰されるかしかローレには道はなかった。ナチを逃れたユダヤ人としてポランスキーとは比較にならぬほど重要な生を全うした映画人である。
文遊社様よりシャーリィ・ジャクスンの第一長編『壁の向こうへ続く道』(渡辺庸子訳)を恵投いただく。ジャクスンの長編はこれで揃った。老後の愉しみとして取ってある。


P1000264.jpg 58.92 KB


 
某日、入院日にイヤホンで聴いた『オム』を改めて。このヤバさは私にはイヤホンでは掴めなかった。なんか世界が一斉に鳴き喚くような。部屋で外に出して初めてわかる音。Amazonの感想の欄に誰かが“Lame duck”と書いていたが、まさに群れから疎外されてこそ可能な憑依によって吐かれる音が六五年のコルトレーンであって、オーネットであれアイラーであれフリーとはそこにおける霊性との交流以外ではない。それはやり直された『至上の愛』でも同じことだった。管を吹くのと同等の真剣さで鉦を打ち鳴らす奏者二人がそれで何を召喚しようとするのかは知らないが、明らかにそこにいない何かを招き、自らを虚しくして空いた場所にその何かを導き入れる。「脱自」(エクスタシス)と「神充」(エントゥシアスモス)という風に井筒俊彦が説明する「憑依」の形による演奏、と呼ぶことが可能かどうか。その時、井筒のいう神とは「コトバ」だが、フリーを行う状態にある音楽家、例えばコルトレーンの場合は「オト」ということになるか。『メディテーションズ』では「オト」はそれこそシーツのように敷きつめられてあるが、それは縦横無尽に空飛ぶシーツだった。病室で聴いたときは割と細かく位相を意識したが、外に出すといわゆる壁に近く、隙がない。
夜更けに『恐怖の土曜日』。迷ったのは、これと『悪魔のような女』という同年作のどちらにするか、で結果こちらにしたのはシニョレが続くのを嫌ったわけではなくただの勘に過ぎない。実は昔、これともう一本、『カントリー・サンデー』という作品があってどちらかをテレビで見て非常に陰惨な気持ちになったがどちらかわからないという話を篠崎誠さんや中原昌也さんと深夜の電話でしていて、結局もう一本の方だったのだが、それは前世紀の話だからすでに二、三十年前ということになるが、そのときから気になっていた。今回初めて見るにあたって一九五五年以降の作品という、縛りというか目的がなければ、普通にスモールタウンものということで流していたかもしれない。脚本はシドニー・ボーム、『復讐は俺に任せろ』の人である。だからというわけではないが爆弾の爆発から始まる。撮影はチャールズ・G・クラーク、存じ上げなかったがいわゆる職人的キャリアの人であり、見事な手腕の持ち主である。炭鉱の街があり、いろんな人がいて、いろんな家族がいて、そして銀行がある。そこへ外から来る者たちがある。一人はリー・マーヴィンであり、ということで銀行は一時間後に襲われるだろう。これが定番の考え方、フライシャーも基本それに沿って企画を進めている。ただ前述したように、ここにはいろんな人がいていろんな家族があり、監督が目をつけたのもそこだ。昨日のヒューストンは早すぎたかもしれないが一九五五年、映画は世界中で新しくなろうとしていた。作り手たちはこの街と銀行をグランドホテルに見立てる。崩壊寸前の資産家の夫婦、実直な勤め人の父親の息子はなぜか親友と喧嘩、銀行の支配人は図書館司書に意地悪する傍らで美人看護師にストーカー行為を働き、そしてアーミッシュはアーミッシュである。これら四つか五つの集団の一昼夜のエピソードが出たり入ったりする。そして特に教訓を添えることもなく、頽廃は頽廃のまま、実直は実直のまま、メロドラマは見事にメロドラマを全うし、B級ギャング映画は着々とそれを遂行し、子供は子供である。同語反復によって先取りされるヌーヴェルヴァーグ。ただ、フライシャーはその新しさを特に喜ぶつもりはなかっただろう。というわけで新しい試みは無事成功して、淡々と終わる。『キッスで殺せ』の五五年、たしかに何かを刷新しようという動きはあった。どの駅に着いても地方都市が全て同じに見えるような新しさである。それがすぐに旧いものになることは目に見えている。そのことを前提として新しさに取り組む者もいたということだ。その辺が実にフライシャーらしい。豊潤な細部、殊にトミー・ヌーナンの銀行員は素晴らしく、ペン立てをひっくり返すところなど『ジョーズ』のロイ・シャイダーを思わせた。しかしキリがないので言及は避ける。ここでは一九五五年すでにジャンルはミクスチャーの時期を迎えていたという確認に止めよう。
 
某日、明け方の月が西の空で明るかった。昼間は掃除洗濯で忙殺、夕方ようやく『悪魔のような女』。未見だがこれのリメイクがあった。シャロン・ストーンとイザベル・アジャーニで監督はジェレマイア・チェチック。傑作『妹の恋人』を作った人がこれとその後のイギリスのマーベル的なやつで潰され、いまもテレビをずっと作っている。気の毒に。その意味でオリジナル版に興味を持たないままでいた。見てはいるが記憶から消した。で、今回もやはり乗れなかった。気持ち的にはシニョレに加担しているのでこんなひどい男早く殺せとかこんな女と組んじゃダメだとか、人物造形というか設定からdisってしまう。演出も丁寧ではあるが面白いとはとても言えない。前に見たときも同様の乗れなさを感じた気がするがそれさえ覚えていない。要するにここにもまた「その気になって見なければならない」が全面展開している。『ライトハウス』の未熟さとは逆にこちらはヴェテランの自己過信ではなかろうか。丁寧さの化けの皮、というか、実はこのネタに本気になってないのが透けて見える。唯一いいと思えたのはモルグでネタが転がってくるのを待っているシャルル・ヴァネルの佇まいとそこで死体を出してくる感じの日常性、即物性。
ところでアルドリッチはおそらくこれも意識して約十年後に近しいテイストで『ふるえて眠れ』を作った気がしたのだが、そのちょうど真ん中に『サイコ』が挟まっている。ここでそれらを分け隔てるのは「他者性」ということか。『サイコ』にしろ『ふるえて眠れ』にしろ、なんなら同じボワロー=ナルスジャック原作の『めまい』を加えてもいいが、そこにはその中の誰かと特定するまでもない、常人の感覚を逸脱した「他者性」というものが備わっていた。それが画面に漲っていたと言ってもいい。だが『悪魔のような女』には理解を超えるような「他者性」がない。言い方を変えるなら「レームダック」がいない。それは説得力の問題にも繋がるだろう。普段なら気にしないのだが、おそらくは本来その「他者性」たる「レームダック」はシニョレが担ってしかるべきだが、彼女もまた凡庸な群れの一員となれば果たして彼女の冷静と情熱を誰もが納得しえるだろうか。最後に校長夫人を見たと強弁する少年と言っても、それも苦肉の策にしか思えないし時すでに遅しだ。いわば客を騙すのに仕掛けをケチってしまった失敗例ということではないか。校長の「蘇生」さえ遅すぎる。もっと官能でも狂気でもなんでも動員してもっと大きく騙す必要があったが、それが叶わなかった。もちろんコード的制約もあっただろうが、それより旧態依然とした倫理的束縛が優先されたのではないか。戦前のルノワールを考えれば方法はあったと言う他ない。クルーゾーにそこまでの自由さはない。いわばルノワール自身がレームダックであり、クルーゾーはたんに群れの一員に過ぎなかったということだ。だが群れを離れたレームダックであることを選ぶ人なんてなかなかいない。
夜更けに近年最大級の吉報が飛び込んできた。まるで人生のある部分が報われたような気がして、その吉報に添えられた偉大な写真をいつまでもしげしげと眺め続けた。
 

P1000261.jpg 56.08 KB


 
某日、定期検診に病院へ。血液は異常なしだが、術後の診断としてかなり慎重に経過を見て行く必要ありとのこと。転移再発の可能性があるということだ。まあ仕方ない。なるようになる。
モノレールで豊洲経由、有楽町線。日比谷に出るわけだが、簡便ではあるがとてもつまらないルートであることが判明。急いでいるとき以外お勧めできない。
シャンテで『ダーク・ウォーターズ』。平日の昼間というのに大変混んでいる。非常に濃厚な社会正義のストーリーだけに、この国はどうしたんだ? と仰天し、もしかして捨てたもんでもないんじゃないか、この街も、とか、つい考えてしまった。冒頭からなぜかライカートの『ナイト・スリーパーズ』を思い出させる夜の水辺。その後直接関与しないこの場面の不明瞭さも含め、ライカートの比重が重い気がする。その一つは牛である。『ファースト・カウ』とたぶん同種の牛が非常に卓抜な芝居をする。ちょっと感動するほどだ。時折凶暴に突出する妻を演じるアン・ハサウェイとこの牛が本作のメインアクターである。あと、この牛の飼い主とビル・プルマン。マーク・ラファロはいつも通りだった。二十年近い歳月を大企業デュポン相手の訴訟に費やす物語はやはり直線的に語られて正解である。これで一度でも回想が混ざるとたんに混乱するだけになっただろう。トッド・ヘインズは辛抱強く流れる時間の重みに耐えた。ラファロでこの流れだとつい『ゾディアック』を想起しそうだが、そういうこともなかった。そんな意味でもこれは耐える映画で、だから非常に地味で退屈ではあるのだが、見てよかったと思わせるものになっていた。法廷シーンがことごとく高低差を嫌ってアイレベルで押し通すあたりも頷ける感じだった。
三宅唱が岸井ゆきのさんと何か撮ったらしいという噂を聞く。来年の楽しみが一つ増えた。読書は寄り道と脱線で『熊楠と幽霊』という新書。「霊性」絡みのついでに熊野詣。同時にこれはもちろん安藤礼二氏による熊楠研究本への予習でもあるが、そこで何が語られるか知ってはいない。民俗学の側から「霊性」を考えるとどうなるかなのだろう、たぶん。そこには幽霊や妖怪が出てこないわけがない。単純に期待しているに過ぎないのだが。そうしたことや、あるいは来世のようなことは実存主義的でないと思われているが、まあそれがどうであるか実存的に考えている途中ということだ。
 
某日、十月中旬以来伊豆へ出向いていない。今年も終わりだし、取って来たい荷物もあるからそろそろ行きたい。さて、いつになるか。
おそらく今年最後となるであろう打合せに向かう前に、麻布十番に立ち寄り浪花家のたい焼きを購う。Facebookで映画美学校時代の仲間、黒澤美穂があげた写真に刺激されて、これは食わずにはいられまいということで。会社に行って食す。やはり美味。打合せのメンバーに喜ばれた。
帰路で某俳優氏に偶然出会う。元気そうで何よりだった。
早めに帰宅するが、疲れてしまいやる気が出ない。
 
某日、昼までへしゃげていたが、午後気を取り直して日比谷へ『ラストナイト・イン・ソーホー』。ポイントが溜まったのでタダで見れるかと思ったが、空席が少ないとダメだということで正規料金を払った。気づいていなかったがクリスマスイヴでえらく混んでいた。
とにかく主演二人のお嬢さんが可愛すぎるくらい可愛いと言うに尽きる。そこよりいいことは全くない。しかし二人はあまり芝居らしい芝居をさせてもらえず、不満だったのではなかろうか。その点はテレンス・スタンプも同様。オカルトが徐々に刑事事件にすり替わる話というのは全く水が合わず。オカルト部分極めて中途半端、どっちつかずで閉口。イギリスの当時のポップスにはあまりハマったこともなく、六〇年代の子がアカペラで「ダウンタウン」歌ったときはもしやここから化けるかとも思ったがそうもならず。期待していたコワモテのリーゼントも変にヘラヘラ笑うのでダメだったし、下着姿で狭い部屋に押し込められたおっさんたちにはつい憐れを誘われたがそんなわけにはいかないのではないか。彼女たちの間に「秘密」が介在するせいで鏡はただの装置に堕してしまい、切なくもハラハラもならなかった。まったくカーペンターやリンチがどれほど偉大だったことかと、いまさら確認するまでもないことを年の瀬の雑踏まで確認に行ったようなものだった。
相変わらず夕餉の際に痞えがひどくて困ったもの。夜半に、雨。
世間では大島本の配給が開始されたとのこと。羨ましい。
 

9784336072023.jpg 112.89 KB



 
*今年のまとめ*
正月はまず黒田征太郎さんの下北沢でのアクションペインティングを撮影、中村達也氏とも再会。まだ編集に手をつけていないので来年はやるつもり。前後する形で昨年から準備していた女優案件の伊豆におけるDIY番組が撮影本格化。これが二月も継続。三月になるとBialystocksデビューアルバムリリース。『ビーチ・バム』『アメリカン・ユートピア』でやめていた試写室鑑賞を再開。中原、純、そして現在最も影響を受ける同学年町山広美とドミューン初出演。都内二箇所で行われた小村雪岱展が今年最大の眼の保養。四月一日に次回作最初のミーティング。両親の墓参から小豆島取材でホキモトと合流、大阪で文楽鑑賞。五月病気発覚。以後二ヶ月ほど入退院を繰り返しつつ、伊豆でシナリオを書きつつ、ケリー・ライカートに通いつつ。夏は過ぎ九月四度目の入院、その結果手術決定。十月にシナリオ初稿脱稿。月末からTIFF審査員で、この国の表現の歪みを知ったが、憂いはしなかった。映画館通いが習慣化し、伊藤大輔特集を堪能。シナリオ第二稿完了と共に十二月三日手術のため入院。年納めとしてアテネ中原委任状に通う。術後経過は継続、寛解は来年に持ち越し。
映画。新作のよきところとしては見た順で『ルーベ、嘆きの光』『ビーチ・バム』『アメリカン・ユートピア』『BILLIE ビリー』『サマー・オブ・ソウル』『カリフォルニエ』@TIFF『SAYONARA AMERICA』、それに来年分を試写で『フレンチ・ディスパッチ』『アネット』、さらに某所でベストワンと呟いた『ライトハウス』。これら複数回の鑑賞に応える作品群、多くは音楽ものだったがドキュメンタリーながら『ビリー』のダブルプロット構造と『カリフォルニエ』の新しいJK像に「その次」を見た。盤やテレビでグレタ・ガーウィグ二作、S・クレイグ・ザラー三本、特集のケリー・ライカート、伊藤大輔も同様、いずれも瑞々しい刺激。工藤梨穂新作『裸足で鳴らしてみせろ』は未見。いまだに続く『ビーチ・バム』への悲しい誤解は何だろうか。あれが本当にデタラメなダメ男というなら、それは映画の見方が間違っているとしか言いようがないなあ。もしくはこの国の常識が歪んでるのか。両方か。あと『マンディンゴ』あたりから始まった要約=感想=無内容のTwitterにも困ったもんだと。情報=抽象ばかりで画面に魅せられる感じのない言葉、ただ虚しい。なお、真のベストワンは中原委任状での『グリーサーズ・パレス』と『追い詰められた男』。もう一つ、たとえどんな事情があろうと一個の映画館が失われることに悲嘆と失意と恐怖を感じない映画関係者なんかいない、と信じたい。
書物。長年の壁であった大江の八〇年代と『カラマゾフ』を読破した記念すべき一年となった。今後は心置きなく、あれこれと読みたいものを読める。圧倒的に面白かった『謎解きサリンジャー』。危うく再読の海に飲まれそうになった。危機回避にフォークナー翻訳再開。これは死んでも終わらない。五所純子『薬を食う女たち』はフリージャズ批評、というよりフリーミュージックそのもののように刻まれた。あとは梅崎。
音楽。新譜はBialystocks以外言及する立場にない。名曲「All too soon」は何度聴いたか。夏以降民族音楽ばかり聴いていたがチベット密教が圧倒的に訴求力高い。あと、東アフリカとラオスがアナーキー。同時に多くの民族音楽が家父長制から自由でないという当たり前のことを学んだ。オーネットとコルトレーンの六四年以降を聴くことを始めて年内に六五年まで。ジャズ批評の物語からの解放を切に願う。これは来年も続き、ファラオ・サンダースへ。同時にポール・サイモン。いわばフォークとフリー。やっぱBialystocksか。
ああ、酔っぱらわなければこんなにスポーティに一年をまとめることもできる。
ついでに書くと、来年は宗教ということをもうちょっと知りたいと思っている。知りたいというか、それがどの段階で現れるかというようなことだ。『無法松の一生』でボンボンの掌に転がる銀杏の実、あれが宗教だと思った。それは松五郎の歯で殻を破り、指で剥かれた実である。運動と時間を超越するイメージとはそれだけのことではないだろうか。曖昧で不規則な持続の中でほんの少し光と位置を変えること。それが宗教だとあのとき直感した。そのことを突きつめて考えたい。たぶん梅崎も途中までそんなことを考えていて、最後にそこへ向かう時間を逸してしまった。中上もあと一歩時間が足りなかった。コルトレーンもそうかもしれない。それを捉まえようとするとみんな死んでしまう。でもたんに時間切れなのであって、それが理由で死んだというようなことではない。
もちろんそのことについてわざわざ宗教と言わなくてもよくてむしろ霊性という言葉の方が似つかわしい気がするが、私はまだその霊性ということをよくわかっていない。だから来年捉まえようとしているのはこの霊性ということかもしれない。フリーを改めて聴いているのもそこにそれがあると知っているからで、聴き直すのはどういう回路でそこへ至るか思い出したいからだ。入院中、コルトレーンの葬式でミルフォード・グレイヴスとアイラーのやったGhostsを聴いたときも、そのことにはっきり触れられた。老齢に入り、死期の近づきを感じて一層強く知りたくなった。
実は梅崎『幻化』を中断してしまったのも、死に対する恐れというのではない、しかし何かしら震えのようなものを感じてしまったからで、この霊性に対する理解が落ち着き次第再開するつもり。
そして唐突だが、これらのことをスライ・ストーンとともに坂口安吾の視点を借りつつ来年も考えていようと思っている、と最後に書く。


P1000265.jpg 36.64 KB

(つづく)

 


light_dvd.jpg 48.99 KB

『ライトハウス』DVD/Blu-ray【デラックス版】
 2022年1月14日(金)発売
 発売・販売:株式会社トランスフォーマー
© 2019 A24 Films LLC. All Rights Reserved.


青山真治

映画監督。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、『空に住む』(20)など。

近況:年明け早々Bialystocks4曲入りが出るらしいです。発売記念ライヴもあるとか。
こちらは宣伝業、カラックス本やカーペンターなど。当日記の書籍化も鋭意進行中、年明けに発売予定。