リチャード・フライシャー実録犯罪映画 特集上映に寄せて

12月1日より土橋名画座(新橋・TCC試写室)にて、リチャード・フライシャー監督の実録犯罪映画『絞殺魔』、『10番街の殺人』、『夢去りぬ』の上映が行われています。この特集上映開催に際して、 フライシャー監督作品を研究されている早川由真さんが上映3作品の解説を寄せてくれました。さらに早川さんがフライシャー監督の映画を特にどのような観点から研究されているのか、調査の過程で見つけた資料の数々などについて紹介してくれたエッセイも併せてご覧ください。
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文=早川由真


『絞殺魔』

 
『絞殺魔』(The Boston Strangler, 1968) はジェロルド・フランクによる同名のノンフィクション小説を原作とし、1962年から1964年にかけて実際にボストンで発生した連続強姦殺人事件を描いている。トニー・カーティスが演じた容疑者アルバート・デサルヴォや、ヘンリー・フォンダ演じる司法省の官僚ジョン・ボトムリーなど、主要キャラクターの大半は実在した人物である。この作品は、プロダクション・コード――ハリウッドが性的・暴力的描写を自主的に規制するために設けた規定で、ヘイズ・コードとも呼ばれる――が廃止される直前、1968年10月に「成人観客向け」映画としてアメリカ公開された。凶悪犯罪を題材としながらも、同時代の流行とは異なり、性的・暴力的描写を抑制したドライなタッチで描いている。容疑者の捜索が行われる前半部は、モントリオール万博の展示から着想を得たという、シネマスコープの大画面を細かく分割したスプリット・スクリーンを駆使して展開する。硬直した遺体の脚が暗い画面の片隅にふと浮かびあがる瞬間から始まるシーンのように、陰惨な犯行の数々はあくまで即物的に提示されることで、鮮烈な印象を残す。だが、単にシリアスなだけではなく、たとえば怪しげな超能力者までもが捜査に協力し、自ら地面に横たわり犯行現場を描写してみせるシーンでは、フライシャーが得意とする斜め俯瞰ショットがユーモアを滲ませており、巧みな画面構成と緩急のついたリズムで観る者を惹きつける。

後半部は、容疑者デサルヴォの登場とともに始まる。現実のデサルヴォに関して補足しておくと、彼は証拠不十分で絞殺魔事件の犯人として告訴されることはなかったが、寸法を測るという口実で数々の女性の部屋に侵入した通称「寸法取り男」、および清掃員の格好をして同様の犯罪を行った通称「緑の男」として有罪判決を受け、服役している。映画ではこうした経緯は描かれていない。彼は1973年、刑務所内で何者かに刺されて謎の死を遂げた。冤罪説も囁かれたが、2013年に行われたDNA鑑定で、少なくとも最後の被害者を殺害したことが証明された。しかし、それ以外の被害者については未だ不明である。

映画版のデサルヴォは、かなり複雑な仕方で提示される。ふたりの女性を襲うシーンが描かれてはいるが、彼は逮捕されても事件を思い出せず、犯行は「分裂」した第2の人格の仕業だと診断される。そこで、真っ白な壁に囲まれていながらもほとんど影の落ちない空間――撮影監督リチャード・H・クラインによって周到に設計された照明によるものだ――で、ボトムリーはデサルヴォの記憶を蘇らせようと尋問する。軽薄なプレイボーイといったこれまでのスター・イメージとは全く異なる真に迫った演技で、カーティス演じるデサルヴォは犯行現場のイメージに「直面」していく。だが、尋問するボトムリーまでもが犯行現場に映り込んでしまう実験的なイメージの連鎖を、単なるフラッシュバックとして捉えることは困難であろう。また、生き延びた被害者がデサルヴォを見ても犯人だと識別できない瞬間は、事態をさらに不可解なものにしている。こうしてこの作品は真偽のほどが定かではないイメージの領域に踏み込んでいくのだが、極め付けは、前半部においてインターホンから発せられる顔の見えない犯人の声が、実はカーティスの声ではないという事実だ。こうした諸要素がもたらす複雑な意味作用については、拙論「白の存在」(『映像学』第99号掲載)を参照してほしい。映画の原理的な側面を不意に露呈させてしまうような、複雑な肌理を持った恐るべき傑作である。
 

 

『10番街の殺人』

 
『10番街の殺人』(10 Rillington Place, 1971)は、ジャーナリストのルドヴィク・ケネディによる同名のノンフィクション小説が原作であり、1940年代にロンドンで実際に発生した連続殺人事件、およびその後の死刑の執行を描いている。冒頭のクレジットで説明される通り、主要キャラクターはいずれも実在した人物で、原作のディテールはできる限り忠実に活かされている。ノッティング・ヒル郊外にあった住宅街リリントン・プレースに妻と暮らすジョン・レジナルド・クリスティ(リチャード・アッテンボロー)は病気の治療を偽って何人もの女性を部屋に誘い、薬品やガスで失神させたのち強姦や殺害を行っていた。同じ建物の2階に引っ越してきたティモシー・エヴァンズ(ジョン・ハート)の妻・ベリル(ジュディ・ギーソン)と幼い娘・ジェラルディンも、クリスティの手によって命を落としてしまう。だが、娘の殺害容疑で有罪になったのはエヴァンズであり、1950年に彼は絞首刑に処されてしまった。その後、建物内から多数の遺体が発見されると、クリスティが改めて真犯人として逮捕される。映画が描くのはここまでだが、クリスティもまた1953年に絞首刑に処されている。しかし、クリスティの処刑以後も裁判所はエヴァンズの冤罪を認めていなかった。1961年に出版された原作は、法廷の記録、新聞・雑誌記事の綿密な調査、および関係者へのインタビューを網羅し、エヴァンズの無実を説得的に立証したものだ。こうした告発の影響もあってイギリスでは1969年に死刑制度が廃止となり、刑務所に埋葬されていたエヴァンズの遺体はのちにカトリック系の墓地に移されることになった。フライシャーはとある記事で死刑制度反対を明言しており、冤罪の告発という原作の立場をこの映画は明確に踏襲している。

撮影は1970年の5月から7月にかけてイギリスで行われた。最終的にコロンビアの製作となる本作品は、当初はCBS Filmsが製作し、ジョゼフ・ロージーが監督、ジェームズ・メイソンとダーク・ボガードが主演して作られる予定だったという。ロケ地には事件後に名称が変えられた実際のリリントン・プレース、ただし10番地ではなく許可がおりた隣家が使われた(とはいえロケ撮影は建物外部の通りと玄関や廊下の部分のみで、室内や中庭はスタジオでのセット撮影)。狭苦しい住居に漂う禍々しい雰囲気を的確に捉えた空間設計と撮影・照明の巧みさ、綿密にリハーサルを重ねたという俳優たちの演技の瑞々しさ、あくまで即物的に語られていく陰惨な出来事の生々しさなど、本作品の魅力は限りがない。なかでも、極めて控えめに使用されるジョン・ダンクワースによる音楽と並んで、行き交う車の音、路上で遊ぶ子供たちの音、赤ん坊の泣く声、鳥の鳴き声、列車が通過する音など、様々な物音を活かした音響設計には驚かされる。エヴァンズが絞首刑に処される重要なシーンは、手持ちキャメラによるわずか2つのショットで構成されており、その簡潔さが強烈な印象を残すが、机や椅子が片付けられていく音や、金属製の棚を引きずる音、受刑者が落下するときの鈍いロープの音など、即物的な物音が恐ろしい(なお、このシーンは現実のエヴァンズとクリスティを処刑した死刑執行人のアルバート・ピエレポイントが監修したという)。こうした音響設計は、ワイヤレス・マイクやアフレコを積極的に取り入れていたイギリスの制作環境とも関わっている。詳しくは、本作品の呼吸音の在りようを論じた拙論を参照してほしい(「声になるまえに」/『立教映像身体学研究』第7号掲載)。ともかく、観た後には元の自分には戻れない、トラウマ級の傑作である。


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『夢去りぬ』

 
『夢去りぬ』(The Girl in the Red Velvet Swing, 1955)は、冒頭のクレジット直後に示される通り、1906年に大富豪ハリー・ケンドール・ソーが建築家スタンフォード・ホワイトを殺害した実際の事件を描いている。舞台『フロロドーラ』のメンバーだった美女イヴリン・ネスビットは、既婚者であったホワイトと1901年頃から交際していたが、1905年にソーと結婚する。妻の過去の不倫に執着したソーは、マディソン・スクエア・ガーデンで居合わせたホワイトを射殺した。裁判は2度行われ、2回目の裁判でネスビットはホワイトに強姦されたという証言をおこない、ソーは心神喪失を理由に無罪となる。ふたりの間には息子ラッセルが生まれるが、ソーは1915年に精神病院から退院すると、妻と離婚した。ネスビットはソー家の支援を受けられず、ヴォードヴィルやナイトクラブに出演して稼ぐことを余儀なくされ、アラン・ドワンが監督した『隠れ家の娘』(The Hidden Woman, 1922) をはじめ、いくつかのサイレント映画にも出演した。20世紀フォックスは、ネスビットについて書かれたチャールズ・サミュエルズによる同名の書物 (1953年出版) の権利を購入していたが、クレジットには記載されていない。この書物の記述よりも、撮影に協力したネスビット本人の発言に依拠して脚色された部分が大きいと考えられる。実際、ネスビットとホワイトの不倫関係は、裁判での彼女の証言とは異なる、ロマンティックなものとして描き出されている。ネスビットの報酬は、4万5千ドルから5万ドルだったという。

当初はマリリン・モンローが演じる予定で、テリー・ムーアやデブラ・パジェットなども候補に挙がったというネスビット役は、最終的にジョーン・コリンズが演じることとなった。イギリスで活躍していた彼女は、ハワード・ホークス『ピラミッド』(Land of the Pharaohs, 1955)などと並んで本年がハリウッド・デビューとなる。役柄のイメージにぴったりの美貌と抜群のスタイル、さらに確かな演技力で、ホワイトに恋い焦がれる純真な乙女のイメージとしてネスビットを描き出した。ちなみに、作品中に登場するネスビットの肖像画 “The Eternal Question” は画家チャールズ・ダナ・ギブソンが描いたもので、美女をモチーフにした「ギブソン・ガール」の最も有名な例のひとつである。レイ・ミランドが演じたホワイトは、清潔でハンサムな紳士のイメージで描かれる。一方、ファーリー・グレンジャー演じるソーは、終始傲慢で偏執狂的な人物として描かれている。

撮影はミルトン・R・クラスナーで、シネマスコープの大画面を、移動撮影を駆使しつつ引き締まったフレーミングで魅せている。テクニカラーで彩られる美術や衣装の数々も魅力的だが、やはり目立つのは建築家の住宅内に設えられた巨大なブランコの赤さだろう。ホワイトに背中を押され、真っ赤なブランコに乗ったネスビットの脚が天井の満月型をした窓に徐々に接近していくシーンは、彼女の表情を正面から見事に捉えつつ――ジャン・ルノワール『ピクニック』(Partie de campagne, 1936)を連想させる――、階級的な上昇を暗示しながら、同時に極めてエロティックな興奮に満ちたものとなっており、運動と色彩で観る者を不意打ちするフライシャーの手腕に唸らされる。なお、本作品で描かれた事件はミロス・フォアマン『ラグタイム』(Ragtime, 1981)や、クロード・シャブロル『引き裂かれた女』(La Fille coupée en deux, 2007)の着想源にもなっている。


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リチャード・フライシャーの現在

 
1940年代後半からRKOでキャリアを開始したリチャード・フライシャーは、ニコラス・レイ、ダグラス・サーク、サミュエル・フラー、アンソニー・マン、ドン・シーゲルといった名前に並ぶ「50年代作家」(蓮實重彥)のひとりである。だが、『カイエ・デュ・シネマ』を中心とする作家主義の批評的戦略からは無視され、アメリカ本国においてもせいぜい器用な職人監督としか見なされてこなかった。蓮實や黒沢清が支持した影響もあり、比較的ファンが多いと思われる日本の批評的状況は稀少だといえよう。実際、フライシャーという監督はまことに語りにくい存在である。というのも彼は、映画作家として何か目立つことを声高に主張することもなく、同世代の監督たちが逃れられなかった赤狩りや産業体制の変化をさりげなくやり過ごし、1980年代に至るまで犯罪活劇、ミュージカル、SF、戦争映画、コメディ、西部劇、歴史大作といった様々なジャンルの作品を飄々と撮り続けたからである。フライシャーの手にかかれば、出来事を的確なワンショットで捉える抜群の運動神経や、即物的ともいえる独特のリズムで繋いでいく卓抜した編集センスによって、映画はほとんど間違いなく面白くなってしまうのだ。そうした魅力は徐々に認知されはじめ、近年ではパリのシネマテーク・フランセーズで回顧特集がおこなわれたり(2006年)、エディンバラ国際映画祭で特集が組まれたりと(2013年)、ようやく再評価の基盤が整えられてきている。本特集もそうした大きな流れに位置づけられるだろう。

しかし、単に凄いショットを撮る監督というだけではなく、フライシャーの作品には、映画というものを成り立たせている基盤を不意に揺るがせてしまうような、どこか不思議な要素が備わっているのだ。私は、60年代後半から70年代中盤――いわゆる「ニュー・ハリウッド」と呼ばれる時期――の作品に着目し、これまで積極的に語られてこなかった、そうした不思議な要素の意義を明らかにしてきた。『絞殺魔』と『10番街の殺人』に関しては各作品の解説で触れた通りである。後者と同じくイギリスで撮られた『見えない恐怖』(See No Evil, 1971)は、盲目の主人公の「視点ショット」のような画面を有しており、犯人の描き方にも不可解な点が見られる。また、『ソイレント・グリーン』(Soylent Green, 1973)では、映像と音の分裂という映画の原理的な側面が、作品の主題である生命の描写と深く関連している。さらに『マンディンゴ』(Mandingo, 1975)では、過激な性・暴力描写以上に、繊細な撮影・照明が生み出す皮膚の微妙な色調が重要な意味をもつ。これらの観点については、博士論文「〈ニュー・ハリウッド〉期のリチャード・フライシャー」で詳しく論じている。

なお、フライシャーに関する一次資料の調査も、ほぼ未開拓の分野である。たとえば、映画芸術科学アカデミーが管轄しているマーガレット・ヘリック図書館のスペシャル・コレクションには、Richard Fleischer papers をはじめとする関連資料が所蔵されている。私は2019年12月にロサンゼルスに赴き、1968年から1975年頃までの資料――数多くの手紙やメモ、脚本、当時のプレスシートや小道具など――を中心に調査をおこなった。この調査は、立教大学大学院現代心理学研究科映像身体学専攻スカラシップの助成を受けて実現したものだ。印象的な資料は数多くあるが、そのなかのごく一部を簡単に紹介しよう。

まず、数々の手紙からは、フライシャーの脚本選びの姿勢が浮かびあがってきた。特に、監督の仕事を断る手紙の多さは印象的だった。その理由は様々だが、たとえばアルバート・R・ブロッコリから、のちにテレンス・ヤングが監督し『007/ドクター・ノオ』(Dr. No, 1962)となる脚本の映画化を打診された際には、『バラバ』(Barabbas, 1961)の編集作業が忙しいという理由で断っている。007シリーズの第1作をもしフライシャーが監督していたら、と想像すると愉しいような、恐ろしいような複雑な気持ちになる。また、のちにフランクリン・J・シャフナーが監督し『パットン大戦車軍団』(Patton, 1970)として完成することになる脚本についても、忙しいという理由で断っている。ハリウッドが大予算のブロックバスター映画の量産体制へと移行した80年代には、脚本の内容に納得がいかず、具体的なダメ出しを添えつつ断りを入れる手紙が目立った。断った脚本のタイトルには、Strip A Gram (1985)、Blood Buddy (1985)、Out of Time (1986) などが挙げられる。そこには、どんな作品でも受け入れて器用にこなした職人監督などといったイメージからは程遠い、撮るべき脚本を慎重に吟味して選んでいたフライシャーの姿があった。なお、監督作に出演した俳優と交わした手紙も多く、たとえばトニー・カーティスがフライシャーに宛てた直筆の手紙で「あなたがいなければ今の私ではなかっただろう」と感謝の言葉を繰り返し書いていたのには胸を打たれた。

また、ある映画批評家からの質問に対して「私は大抵の場合はじめから脚本の進展を手助けし、脚本家と非常に親密に仕事をする」と手紙で回答していたことからは、フライシャーが脚本の生成過程に積極的に関与していたことが伺える。実際、初稿・準備稿・決定稿などを比較できる作品に関しては、無駄な要素がどんどん削られてタイトな仕上がりになっていくのが確認できた。たとえば環境破壊で荒廃した近未来の世界を描いたディストピアSF『ソイレント・グリーン』の完成版では、「ホーム」と呼ばれる施設でかつて存在した美しい地球の映像を見ながらソル(エドワード・G・ロビンソン)が絶命するシーンが描かれているが、準備稿には格闘の末に気を失った主人公のソーン(チャールトン・ヘストン)までもが「ホーム」に送り込まれるというシーンがある。意識が戻ったときにはすでに手遅れで、身体を縛られ、死を招く美しい地球の映像を見つめながら絶体絶命のピンチに陥るというわけだ。(これはこれで観てみたかった気もするが)こうした余分なシーンはどんどん削られていき、120ページ近くあった脚本が最終的に97分の映画に収まるのだから恐ろしい。また、決定稿も臨機応変に削られている。たとえば『絞殺魔』の決定稿では、ラストシーンについて、病院から出ていくボトムリー(ヘンリー・フォンダ)を上昇するクレーンのキャメラがとらえ、さらにボストンの街を俯瞰でとらえたショットに繋げられると書かれている。編集段階での判断かもしれないが、完成された映画版の方が優れたラストになっているのは明白である。

最後に、全米劇場所有者協会(NATO)のために作られ、20世紀フォックスの新作を紹介した短編 Think 20th (1967) の絵コンテに触れておこう。所蔵されていた絵コンテを参照したところ、現在は観ることができないこの短編では、『絞殺魔』で活用されるスプリット・スクリーンの技法が実験的に用いられていたことが明らかになった。こうした一次資料の調査を含め、フライシャーの作品にはまだまだ知られざる一面が残されているといえよう。
 
 
 
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土橋名画座presents
名匠リチャード・フライシャー監督 実録犯罪映画3大傑作!
『絞殺魔』『10番街の殺人』『夢去りぬ』

12月1日(水)~12月19(日)、土橋名画座(TCC試写室)にて特別上映!

会場: TCC試写室   中央区銀座8丁目3番先 西土橋ビル102号 地下1F
      (JR「新橋駅」銀座口より徒歩3分/東京メトロ銀座「新橋駅」5番出口より徒歩3分)
料金:\1,200均一
提供 : 国映、マーメイドフィルム
HP : https://www.facebook.com/fleischerfilms.tcc
Twitter : @Fleischerfilms


早川由真

映画研究者。東京都出身。立教大学大学院現代心理学研究科映像身体学専攻博士課程後期課程修了。博士(映像身体学)。主な論文に「白の存在——リチャード・フライシャー『絞殺魔』におけるカーティス/デサルヴォの身体」(『映像学』第99号、2018)、「ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』における画面上の身体の存在論——加齢・接触・転倒の主題をもとに」(『立教映像身体学研究』第5号、2017)など。