宝ヶ池の沈まぬ亀 第63回

青山真治さんの2021年8月下旬から9月にかけての日記。別荘の庭の剪定作業も終わり、東京の自宅でも書籍整理をしながらの”浚渫”作業が進められます。 読書は志賀直哉・梅崎春生を読みつつ、『謎ときサリンジャー』やデイヴィッド・ピースに寄り道。『インターステラー』『スティーブ・ジョブズ』などを見て「父と娘」について考え、映画館で見た『ドライブ・マイ・カー』『モンタナの目撃者』『サマー・オブ・ソウル』についても記されています。


63、「生きてるうちは永遠の生」と解体の蟬、笑い

 

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文=青山真治

 
某日、これは前日のことだと記憶するが、ふとしたことで自分が勘違いしていて、ひたすらつまらなかったあの『ゼロ・グラビティ』を見たことは間違いないがどうやら『インターステラー』の方は見ていない、なぜならマシューの出る宇宙ものに心当たりがないから、ということに気づいて、急遽取り寄せ、序でにまともに見ていない『インセプション』とさらに序でに初手から見る気のなかった『レヴェナント』も一気に見てしまう魂胆。近作でノーランを多少なりと認めてみようかと進歩的発想から。だがシナリオ執筆はもちろん、読書計画も山積み、DVDは仏映画集中的見直し計画など、裂ける時間はほとんどない。それでもなんとなく隙間を探しては見るのだろう。
昨日は拉麺と麵麭を止めたいと書いたが、果物も止めたい。これについては歳暮中元でうんざりする部分もあり、この季節とにかく届いた箱物を放り出したくさえなる。幸か不幸か女優宛なので、どうにか食卓に上がるが私に届いていたらさりげなく捨てただろう。そんなわけで私も消費に協力せざるを得ない。食べそびれて腐らせるのが何より悔しい。
この三つ、とにかく血糖値を上げてくれるので身体的にも天敵である。
十時半には帰路に就いていた。ぱるるは帰りたくて仕方ないので車酔いもせずご機嫌さんで車上の犬と化す。
帰宅すればいつも通り残務整理。忘れていたが『今は死ぬ時だ』が届いていた。ベティカーの遺作。72分。これで『七人の無頼漢』以降アルーザもの以外は揃ったので九本連続で見直すためにこれまた要時間調整。
読書で躊躇している余裕はないが、ふと振り返ると背後に鷗外が立っているような状況。全て読んでいる暇などなく、ではどこからか、と決めあぐねている。本当に初期の作品をポツポツとしか知らない(しかも当時から興味薄)ので、たぶん『青年』あたりから始めるのが無難な気がする。『抽斎』以前に読むものなし、と石川淳は断言しているが。
しかしなぜか深夜にオフュルス『快楽』を見る。
本日2447人、そして神奈川2579人。
 
某日、ペーター・フライシュマン逝去。八月十一日とのこと。合掌。心から影響された『下部ババリアの人間狩り』と『惑星アルカナル』以外、とうとう生前に見ることは叶わなかったが今でも、これからも、フライシュマンを研究したい気持は変わらない。あの豚の解体シーンをもう一度見直したいが、ブルーレイは出ているのだろうか。『ハンブルク病』も赤坂太輔のいうジャック・ロジェ脚本参加作品も見ずには済ませられない。これも赤坂の書いていた通り非常にルノワール的な空間活用にとにかく胸がすく。思い出すだに宇宙的。長篇はドキュメンタリー合せて11本しか作らなかったが、全部見るつもりでいよう。
病院へ。特筆すべきはなし。本日4220人。
 

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某日、そうしてチャーリーさんがこの世を去って、私たちのstone rollin’にも終わりがやってきた。凄く楽しかった時間も時代ももう終わりが来たのだから、今までよりさらに好き勝手にやっていこうと思える。そんなわけで再び伊豆へ移動。
昨夜から志賀の山科連作を熟読。決定的なことは、志賀があまりに文章が上手いということであり、文章が上手いというのは情報の配分と間隔の按配であって、そのことと内容が見事に通底して非の打ち所がないということである。なんら嘘偽りがないにもかかわらず、か、がゆえに、か判然としないが、ともあれ小説として面白いということが起きる。これは畢竟「志賀直哉というキャラクター」にかかっているとしか思えない。たとえ志賀のことをまるで知らない人でも面白いと思うはずだ。翻訳が有効かどうか保証の限りではないが。
熱海の線路沿いはまだ瓦礫のままだった。
買出しを済ませて数日前のサンソン、さらに新疆ウイグルのタンブルという弦楽器のソロを聴く。どういう流れかは知らないが、これはルーツミュージック、または同源の派生物として日本の古典音楽と共有するものを持っていると思われる。ポールのこないだのアルバムの一曲めにも近しいものがあった。合間で夕餉の支度を始め、序でに明朝の味噌汁用に購った浅蜊の砂吐きをしながら、ルーツミュージックとは懐かしさのようなこちらの感情となんの関係もないものだという考えに至った。それはちょうど浅蜊が塩水の中でブーとかジーとか発する音に限りなく近い。梅崎の「蜆」でも蜆の発する音にギョッとする場面があるが、こちらはギョッとはしないまでも、ああ、という感慨は抱くわけで、この感慨は遥か以前から意識に染みついた何かに属しているとしか思えない。タンブルの低音が巻弦で、ファズをかましたような滲んだ音がして、それと浅蜊の砂吐きの音は似ている。
で、夕餉後は『レヴェナント』。前情報なし、マリック『ニュー・ワールド』だったか、あれと大体設定は同じ、ポカホンタス絡みの話でさすがに面白がる要素は皆無、ただ痛がるだけでオスカーなんてレオが気の毒としか。時間の無駄とは言わないし、特撮の限界含めて積極的にこうはしたくないことばかりの反面教師としては役立ったかもしれない。唯一、死んだ妻が宙に浮いているロングショットは、やろうとしていたことなので、なるほど参考にさせてもらう。それにしても面白いとは言い難い。顔に見覚えのない髭面の悪役が悪くないのだが、トム・ハーディだった。
呆然と眠れぬままにバラカンビート。一曲目からアヴェレイジ・ホワイト・バンドでさらに目が覚める。弱った。本日4228人。
 
某日、七時起床後すぐに当日記ゲラ直し、そこへさらに庭師と電気屋来訪、予定通りなので朝餉がひどく遅れる。カラコルムの音楽。一聴してツェッペリンの元ネタと思われる方向だが、この良さはそこではもちろんない。瞑想ではなく祭りのための音楽、やがてそれは大きなトリップへと発展していく。その大きさがカラコルムから昨日のウイグル、アフガン、北インド、そしてチベットへ染み入るように拡がっている。
午後、短い午睡を挟んでアナログ。シャロン・ジョーンズ『Give the people what they want』を。最近のソウルだがアレンジが非常にオールドスタイル。CKB的というべきか。バラカンビートで知った時もそれで好感を持った。トレモロの効いたギターが大変よろしい。
その後静かに横臥、何をすべきか(書くべきか、ではなく)考えながらメモなど取りつつ転寝し、庭の作業も本日分終わり、なお考え続け、ふと起きて試みに書いてみるが、ほんの数行。諦めて『脳内ニューヨーク』を久しぶりに。十数年前、当時の中心はこれだと認識していたけれど、いまや見てはいられない。こうした薄暗がりのような不安に振り回されていた時代は終わり、より大きな不安に取り巻かれつつ、それよりその後の展開に集中することでいまをやり過ごすしかないと分かっている。同年ミシェル・ウィリアムズは『ウェンディ&ルーシー』に出演、六年後フィリップ・シーモア・ホフマンは不審死。ある意味で近親憎悪かもしれないと思われるほど近くから、この世界を遠ざけたのを憶えている。そしていまやどんどん過去になっていく。全く別の場所にいたミシェル・ウィリアムズがいまとても身近に感じる違いがわかる。それでも十年が経ったのだ。
気を取り直し、ラムを焼いて夕餉を摂った後、ノーラン『インセプション』。ハンディで追う時の腰の決まらなさは『テネット』でも変わらず、重力から解放されようともがけばもがくほど重力に足を掬われるのも然り、そんなことはやめておけと言いたくなる。ただそこらへんの描写に夢中になっているうちに肝心の目的がいつの間にか雲散霧消し、一体どこへ行きたかったのやら何を求めていたのやらわからなくなっていく辺りで、これは図らずもだと思うが、目指した『市民ケーン』にふと辿り着いてしまう感じが悪くない。何度も見るうちにうっかり好きになってしまうかもしれない。こんなに魅力のないマリオン・コティヤールを見たこともないのだけど。一方でトム・ハーディ、こちらは随分いい顔で映っている。これから見ていれば迷わずに済んだかもしれない。
本日4704人。
 
某日、起き抜けからTwitterでバラカンさんがMartin Scorseseを「スコーセーゼ」と表記。これは目から鱗である。ヒアリングには全く自信がないが、少なくともしばしば表記される「スコセッシ」では絶対にない、という長年の疑惑に、この形でついに決着が着くか。
チェインソーの音を聞きながら一葉のことを考える。志賀は一葉の十一歳年下だった。志賀を読んだ一葉の感想を知りたくなる。水と油だっただろうか。など考えつつ『「いやだ!」と云ふ』の続きを読む。
午後、斉藤陽一郎からご機嫌伺いの電話。笑う。
チャーリー・ウォッツ追悼にデヴィッド・フッドの言葉。ダン・ペン『ノーバディーズ・フール』を反射的に聴く。一曲だがマッスル・ショールズのリズムセクションが入っている。このアルバムはCDとアナログでまるきり印象が違っていた。CDの方がカーラジオっぽい音かもしれない。その後、坂本『async』を大きめの音で。非常に良い。
二日連続で夕餉に味付肉を焼き、今回の目玉、ノーラン『インターステラー』。とはいえ、169分もあると知らず、昨日までの画像処理的な脳みその使い方とはまるで違う箇所を使い倒し、見ている間に、そもそもマシューを強く認識したのって『コンタクト』じゃん、と思い至り、などなど二重三重の意味で非常に草臥れた。何か冗談のようにティモシー・シャラメだとかジョン・リスゴーだとか、それでは済まず後半になるとマット・デイモンもケイシー・アフレックもジェシカ・チャスティンも出てくるのでなんだか狐につままれた感があるのだが、一方で子役の女の子(一見してこれが鍵とわかる)がかなり良くて、先日の『マネーボール』の娘に続いてそういう気運を余計に感じるのだった。『コンタクト』と比較しても仕方ないのでしないが、それを勘定に入れなければ相当に面白い映画である。マシューはこれ以前に『MUD-マッド-』でサム・シェパードと共演しており、この宇宙パイロットは『ライトスタッフ』のチャック・イエガーだと思えばクライマックスまで話が早い。そこからまさかの展開になり、実はこのブラックホール内の運動だけ違和感を感じたが、その後の複雑さを整理するためにそこらへんは忘れざるを得ず、あれだけ頭使う伏線というのは逆に効率悪いじゃないかとむしろ心配になったが、それでも面白いからいい。その、まるでノーランの脚本そのもののように用意周到すぎるジェシカ・チャスティンの畑への放火など、わかりやすいとはとても言えないことがしばしば起こるけれど、宇宙ものではそういう部分もあってしかるべきか。つまりは出来が悪くないのである。アン・ハサウェイの末尾もこれしかないか、と納得させられてしまう。そして何よりハンス・ズィマーの音楽がうるさくない。のみならず無音を基調としたサウンドデザインが非常に効果的で、どうして『ダンケルク』のエンジン停止後の滑空をこの手でいかなかったのか不思議なほどだ。
そんなわけで非常に気に入ってしまい、遥か昔に何処かで見てもいないのに批判した気がするが、こっそりと撤回しようと思う。申し訳ありませんでした。
本日4227人。重症者は過去最多294人。
 
某日、朝餉が遅れる中でエアコン工事始まる。家具を動かすなど、できる範囲で手伝い。二時間弱で終了。これで猛暑をなんとか乗り切らんとす。本日明日と庭作業は休み。
昨夜からの案件をさらに考えるためにダニー・ボイル『スティーブ・ジョブズ』。というかアーロン・ソーキン脚本であり、なぜ「父と娘」なのか、である。『マネーボール』『インターステラー』『ジャージー・ボーイズ』そしてこれ。実は『脳内ニューヨーク』にもイレギュラー的なそれはある。探せばもっと出てくるのではないか。再見して、演出がもはやついていけてない部分が目立ち、俳優(特にケイト・ウインスレット)と脚本家で抜けて行っているのか、監督が頑張るとそこで画面が停滞してしまう感じが一種の演劇性への傾斜で起こりがちなのは『どですかでん』で確認済みだが、ふと楽屋から現実の場に出た時の広がりが、さすがアメリカ映画、と溜息をつかざるをえない。父と娘がジョニ・ミッチェルについて議論するくだりなどでも、なぜだ、と首を傾げつつもこれしかないという気もする。
簡単には考えもまとまらないので買出しに行き、戻って『ニューオーリンズ・マンボ』と『ザ・リアル・バハマ2』を聴いて魂を洗う。昨年のこの日、退院し、東京に戻った。
夕餉の後、何も考えずフライシャー『ゲバラ!』。ソダーバーグ版公開時だから2008年以来か。いまカブールが再び銃火に晒されているが、ここでもよそでも誰もが顔面を髭で覆う人々なのだ、考えなくても。ボリビア以後の重苦しさについてもう少し研究した方がいいと反省。捕縛された後に現れる老人の話もいかにも本当らしいが、そんな都合のいいものが現れるわけがなく、どちらの都合にも合わせるとこういう存在が必要になる。案外これ自体ゲバラ自身の強迫観念(重苦しさ)としては最もわかりやすい解釈なのかもしれない。
本日3581人。
 
某日、普通に目覚めて用事のない日というのは気楽でいい。マイペースで朝餉を摂り、音楽を聴き、仕事をする。ようやく何ページかまとまりのある形で脚本を進められた。長い瞑想期間だった。イメージはできているので言葉にするだけといえばそれだけなのだが、そこをうまく飛び越えられたら苦労はしない。
それでも夕方まで拘泥すれば当然疲れるので、サンソンから夕餉の支度をしながらバラカンビート。本日はチャーリー・ウォッツ追悼。久しぶりに「無情の世界」で『再会の時』の葬儀の場面(ピーターさんが語ったのだ)を思い出しTim Riesというサックス奏者のソロに参加したチャーリーの演奏を聴けた。この人もツアーメンバーだけれど。そして飯を食いながら『サマー・オブ・ソウル』を見る前に聴き直そうとしていたギル・スコット・ヘロン「The Revolution will not be televised」がかかり、濱口祐自さんの新曲も聴けた。名盤片面も『Sticky Fingers』。夜半、ぱるるの今日の写真を見つつ保護犬譲渡会での逸話を女優から聞き、癒されたのだった。
本日3081人。もはやこの統計の信憑性の希薄さ。
寝る前の一本は増村『爛』。どちらかといえば秋声を思い出すべく、というつもりだったが、いつの時代とも決めかねる極北的な何もなさが昨日のダニー・ボイルの安定した構図など全否定する上下の対角線構図=逆構図からなる圧倒的重力によって炸裂する様にただただ呆然。空間は狭くなればなるほど圧を増す。笑いようのない人間性の廃墟を眺めて、どんなに不幸でもこの不幸を耐えつついま改めて増村の時代にあることを深く自覚する。
今度こそ寝る前に、とTwitterを眺め、愛知の「波物語」とかいうイベントに空寒い狂気を感じていると、町山広美氏がリー・ペリーの訃報を上げている。朝、中原のつぶやきからリー・ペリーのことを考え始め、ここには音源がなかったのでオーガスタス・パブロを聴いていたのだが。蓮實先生よりひと月年上のリー・ペリー。
 

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某日、佳境に入った感じの朝ドラが気になってきた。ドラマの展開がこれまで圧倒的に大人中心だったのを若者たちが対等に渡り始めた。特に百音の成長著しい。ほぼ何もせぬまま立派に画面をさらっていく、堂々たる存在っぷり。これぞ朝ドラの主役である。ここまで浅野くん目当てで見てきたが、今後はそうとだけも言えなくなりそうだ。
梅崎を読み続ける。戦記物とは違う、市井の日常をユーモラスに描いたということになっている一連の小品があるが、どちらかといえばほとんど不条理な悪夢のようで、アチャラカには近づかずカフカ的というと大袈裟だが、少し藪のような雑草のような文が目隠しをしていて見通しの悪い仕組になっていてそれを切り落とせばそのような非現実的な庭の眺めが見えてくるはずで、その雑草も含めて見えるようで見えないのが梅崎的「庭の眺め」であり、そこがいいところなのだ。
庭の眺めといえばうちの作業も再開、隣家との境を乱していたなかなかの枝振りの樹々をバッサリ行き、門前の細い私道にかかった枝も土地に沿って落とした。これで外ヅラはほぼ終了、明日は内向きの作業。スズメバチが巣を作りかけていて、庭師の方々で撤去してくれたとのこと。ありがたや。
用意した細部がなかなか筋立てと馴染んでくれないのでさらに悩むべく『ジュディ』。これは父親ならぬ一人の母親の葛藤だった。問題は彼女が天才であったことだが、これまた舞台劇の映画化なのか、映画としては編集がいちいち甘いが、ショウ好きな人間なら出る側見る側関係なく、年齢性別も関係なく、ジュディ・ガーランドという人を愛するのではなかろうか、という素朴な感想を持てた。
本日1915人。信用できないので明日から書き写すのやめよう。
 

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某日、雑木林伐採反対決起集会なのか、コジュケイがかなり強めに啼く。しかも複数、だんだん重なる。なかなかの爆音。姿さえ現した。すぐに奥へ消えてしまうけれど。もちろん雑木林をなくすためではなく残すための作業であり彼らが心配する必要はないのだが、それを伝える術がないので申し訳ない。
ふと『香も高きケンタッキー』のことを考え、というか思い出して、どうにか中学生くらいの娘に父親が目隠しをする方法を考えるのだが、嫌がられるだけでは済まないようなことになるだろうか、まあ小学四年生くらいまでだなあ、などと世知辛い結論に達する。仕方ないことである。いや、それとも定石通り娘が父親に……?
リアルサウンドというネットマガジンにマーゴット・ロビー論が掲載されている。書いたのは宮代大嗣氏(Twitterではmaplecat_eve)。印象としては短すぎる気もするが、媒体の性質上致し方なしか。画期的と言ったら怒られるかも知れないが、グレタ・ガーウィグやエリザ・ヒットマン、ケリー・ライカートといった作家と並んでプロデューサーであり俳優であるロビーがこうして論じられることは、何しろとりあえず重要である。少なくとも私には最も読みたいものの一つだった。後続を大いに期待したい。
庭はガンガン枝を落とす作業が進行。次々木に登り、ロープをかけ、チェインソーで伐り、地面に落とす。すっかりさっぱり刈られていくが、それでも数年後には今朝までと同じように繁っているだろう。生命はひたすら前へ、上へ、光の方へ。十五時に作業終了、庭はこれから秋の陽に彩られ、我が作業部屋も見違えるほど西陽に溢れる。
腹が減ったので冷凍ソーキそばを食してから下山。すでに「踊り子」のない時刻、熱海まで鈍行、あとは新幹線で。空想は『都会のアリス』のラストシーンであり、心は海っぺりを走る列車からゆっくりと遠ざかるヘリの上であった。
帰宅して、思い悩みつつ寄り道『謎ときサリンジャー』。こういうことがあるからなかなか読書計画は完遂されない。梅崎・藤枝だって本来的には寄り道で、すでに『ユリシーズ』にどっぷりでなければならなかったはずなのだ。しかし、どいつもこいつも面白い。
 

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某日、遅く起床、といっても七時前だが、すでに朝餉の支度ができていて驚く。どうやら深夜にピンポンダッシュあり、しかしどう考えてもそのような時刻に雨中悪戯をするような輩がこの閑静な住宅街に隠棲とはあまり想像できず、どうも電気関係の接触不良ではないかと築二十年過ぎた我が家に疑惑の目を向ける女優だったが、つまり生後九十年経過する義母が長年主張しながら家族で却下し続けたピンポンダッシュ騒動が現実であったと長年の冷笑と冤罪への悔恨を表明する女優の意志の、その序でとしての朝餉であった。事態への様々な対処法が語られたがそれはそれとして久方ぶりの家族での食事は和やかで、ぱるるの体調良好を専ら話題の中心として話は弾んだのだった。もう薬を飲まなくても大丈夫なようだ、お嬢ちゃんは。
風呂などいただき、病院へ。今後の方針が聞けるはずの朔日、だがもう少し様子を見たいと主治医は言う。それに対しサブリーダーが、やるなら早いほうがと来週の入院と化学療法の予約手続きをあっさり進めてしまった。かくして来週の再入院が決まる。それならそれで、こちらもさっぱりしたものである。
帰りに白金で買出し。若干の疲れを感じ、夕餉は出前で済ませた。
 
某日、座椅子ではあったが昨夜はなぜかよく寝た。朝五時にぱるるが起こすので、この日常に戻った感じだが、それもそれで幸せなことだ。
『森鷗外』で石川淳は次のように書いている。「人生には難関を切り抜けるためにfouにならなくてはならぬような時機があるものだと、そんな意味のことをラ・ロッシュフウコオがいっている。」昨夜たまたま出食わしたので写した。鷗外にはそういう機会はなかったと石川は続けるが、私にはそれが昨年の八月だったと得心するために一年後にこれを読んでいるのかとさえ思われる。そのさなかにおいては自ら絶とうとしていると考えていたがそうではなかったらしい。その後も自分の死ねなかったことに何らか意味があるような、あるいは運が味方したかのような気もしていたが、たんに道に迷ってfouになっていたと言われればなるほどそうかもしれない。そしてこれは推測だが、ここで言われるfouになるということとはfouのふりをすることではなく本当になってしまうことだと私には実体験としてわかる。こちらが意識を失っている間に廣瀬純が酒を大量の水で薄めていなければ、あるいは現実になっていたかもしれないが、呑んだそばから吐きながら、ああこれが死んでいくことなのか、と本気で考えていたことを記憶している。だがそれもfouの考えることだ。そうしてその後の入院中に石川を読み直し始め、一年後の現在も続いている。
そう、志賀・梅崎・藤枝を読み、『ユリシーズ』を読んだら、石川に戻らなければならないのだ。いや、すでに戻ってもいるのだが、いまは『謎ときサリンジャー』。以前からこの手のものが嫌いではないのだが、ジョイスの柳瀬本といいこれといい今年は当たり年だ。面白くて仕方なくて、またサリンジャーを新訳で読み直そうかと企んでしまう。
ま、やめておくけど。
この本を読み始めたのは、いま手にしている問題、つまり「父と娘」についてのヒントを得ようとしてではまるでない。そこにその源流があるとかいう話ではない。たまたま気の向くまま興味の向くまま脱線して読み始めたのだが、どこか近しくもあるファミリープロットであれば、という可能性を考えなかったと言えば嘘になる。実際すでに同じ匂いを嗅ぎ取りつつある。まだ読み始めだが、やがてこれは使える!などと呟くやもしれない。
終日雨。債鬼に魅入られたかのごとく。
 
某日、暗いうちに目を覚ます。昨日書いたfouがらみの内容は朝ドラとも通じており、金曜になるとその週の波乱が一旦収まるのは朝ドラの慣しだから仕方ないが、収まりがついたりつかなかったりしながらやっていくのが現実で、現実には別の病気がやってくることだってある。私の目から見た浅野=新次は今後も同病相憐む感じ。
滝本誠さんがTwitterに上げたデイヴィッド・ピースという新小岩に住んでいた英作家の東京ノワールが興味深い。戦後帝銀ものなどすでに倍以上の高額取引対象としてAmazonで扱われている。危険な部分に抵触でもしたのか。この人を読む読まないで一晩熟考。
ようやく昼過ぎに雨の熄んだ間隙を縫って、家族で武蔵小山へ買出し出動。いつものんびりやりたいと思っているのに、なぜか気が急いて早く帰ろうとする不思議。そのせいでしばしば買い忘れなどしくじるが、今回はメモを作成したので問題なし。
世間的なこととはまるで無縁に生きようと考え、次の退院後、これは同時にシナリオ完成後ということでもあるという前提、つまり退院までに書き上げるという意味でもあるが、所持しながらこれまで半分ほど見ずに来たカール・テオドル・ドライエルDVD全作を一気見することを決めた。いまの気分を一新するにはこれしかない。たしか二本か三本ソフト化されていないはずで、それらを除いて全部ということになる。今年はこの調子で未見の作家・未見の作品をどんどん見て行くことにしよう。残り時間は刻一刻と減って行く。
 
某日、朝からステーキの大盤振る舞いの後、夫婦で連日の外出も久しぶりで、本日は渋谷。土曜日も午前中に出ればそれほど混みあってはいない。殊にデパートは余裕。東急ハンズでさえそれほどでもない。東急に戻り、しばし休憩、屋上のガーデニングを冷やかしてからデパ地下で惣菜など購って帰宅。
 
某日、出かけると疲れるので読書してもすぐ眠くなる。昨夜もいつの間にか意識を失っていた。そんな頃にたけしさんが襲われたらしい。三十年も前からたけしさん自身が行き場のないものたちの不安と不満が向かわざるを得ない場所だった。一方、向かっても仕方のない場所では何かリセットが行われるもので、TwitterのTLから政治的・医学的・流行的情報のフォローを一掃すると石川淳の芥川選評が目立ち、そういえば石川が選考委員だった六〇年代は該当なしが多いと笑えるが、選考委員をやらなかった中上健次が八〇年代アフガンを放浪したときのエッセイを思い出す。道端に大麻が自生していてその実を噛んで味わうことを楽しんでいた。生きた人間の書いた文章だった。六〇年代、たけしさんと中上はジャズ喫茶で永山含め自生していた。他には、福田康夫が官房長官だった911直後、横須賀を出港する米空母を小泉の要望で自衛隊駆逐艦数隻が護衛に出た際、日本の戦争でもないのに、とぼやきつつ呆れた、という記事。さもありなん、というかさすがである。
デイヴィッド・ピースの二冊、届く。パラリと見て、なるほど。何がいいって訳文がいいに決まっている。さすが黒原敏行。
午後は『謎ときサリンジャー』で終始。ひたすら面白い。現時点の問題にもさらに抵触。
夕餉後はバラカンビート。いきなり「無情の世界」のドラムスはジミー・ミラーという訂正が入り、ああと唸った。何か忘れていることがある、というような引っ掛かりを感じると大抵それは何かなのだが、忘れていることに変わりはない。そして今夜は曲以上にニューオリンズのハリケーン・アイダの被害が気にかかる。
 
某日、朝の仕事が終わって少しうとうとした後、澤井信一郎監督の訃報が入って来た。中島さんは昨年撮ったし吉田さんはお撮りにならないので、私にとって澤井さんが現役最後の巨匠だった。それよりも『レイクサイド マーダーケース』を褒めてくださったことを忘れられない。あれは薬師丸さんと荒井さんのおかげだが、あれ以来会うと、といってもほんの数回だけど気軽に声をかけてくださった。その演出手腕を本気で評価していた人、勉強させていただいた人としても最後かもしれない。まあ、黒沢さんを別にすれば、が常にひっつくわけですが。フィルモグラフィーを見て驚いたが、『福沢諭吉』以後ずっと未見だった。それは自分が監督になって以降ということでもある。ひどい非礼を働いていた。敬して遠ざけたということだが。いつかは見なければと考えてはいた。
荒井さんにお悔やみのメールを送ると、お見送りに立ち会った足で呑んだくれ転けて顔面を強打した模様。送られてきた写真、左目が猛烈に腫れている。呆れて物も言えない。
それで午後までずっと絶句状態だった。絶句のまま、ぱるると午後を静かに過ごす。
夜更けにTwitterで世界各地の路上麻薬中毒者の映像を見ていると、ジャン=ポール・ベルモンドの訃報。

 
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某日、採血があるため朝餉は抜き、手持ち無沙汰に階段のモップがけをやろうと動き出す。踊り場に置いたギタースタンドに数日前から画鋲のケースが置いてあり、床から一メートル弱の高さのそのスタンドからこれがいつか落ちる気がしていて、向こうも落ちる気満々であるような気がしつつ何日間か過ごして、そもそもこれをそこに置いたのは自分なのか家人なのかと記憶をまさぐってもみるが判然とせず、もやもやとしたまま放置していたのだが、今朝モップを立て掛けようとしてぶつかり、とうとう落ちた。二十数個の画鋲が床に散乱した。拾うと何度か指先をチクリと刺してくる。これでもやもやが晴れるかと期待したがどうもそういう気分でもない。生きていてもうまくいかないことだらけ、いいことなんかほとんどない、とそのちくちくとした画鋲の痛みを反芻しながら落ち込む。ベルモンドが夜更けにホテルの三階の窓へ壁伝いによじ登る『暗くなるまでこの恋を』の見事なワンカットを見て思うことは、今こんなことコンプライアンス的に許されないよなあ、である。そんな想像しかできない者にまともな映画が作れるわけがない。全て自分のせいだ、と封じておかなければ誰のせいにし始めるともかぎらない。
ぼんやりまどろんでいるとなんの音だろう、金属と金属の擦れる音、自転車のブレーキにも似ている、錆びたブランコが風に揺れるような、そういう音が窓の外から断続的に、しかし規則的に聞える。一旦止むがまた始まる。どこかに誘うような、朝なのに夜更けに誘われる音。やがて警察の広報車が「オレオレ詐欺」に注意を促す放送をしながら行き過ぎる。思い出したが伊豆では行方不明の徘徊老人を探す広報が昼と夕方にある。発見されたらそれも伝えられる。ふと、うちの庭に迷い込んだらどうしようかと不安になる。
病院で採血、X線撮影、診察二件、受けて食事もして、近くの処方箋薬局を使い、電車で戻り、バスでペットショップへ行って買出し、帰宅。それなりに疲れて部屋で緩く整理していると六時に寺の鐘が聞えて、世界がその音の通り道を明るく照らし出す気がする。
『謎ときサリンジャー』佳境を過ぎて『ライ麦畑でつかまえて』がらみに入る。これぞ目から鱗、と言い得る展開。復路の電車で嗚咽しそうになり、思わず頁を閉じた。
コンビニで冷製パスタを購って夕餉とする珍しい日。ひどく疲れた。
 
某日、通院二日目は女優に送ってもらえた。車を降りると二台前に停車した車が発進に手間取って後が閊え一悶着起こりそうになった。結局騒ぎにはならなかった。
内視鏡の際に注射する麻酔で半日どんよりして過ごすことになる。とはいえ、治療の推移は非常に好ましいものと見受けられる。ただ何れにしても明日から週明けまでの入院は必要となる。どこにも寄らずまっすぐに帰宅し、半分ぼんやり半分読書で暮れる。夕餉は鮭を焼いた。過度のストレスで甘い物が手放せない。入院したくない。
 
某日、眠りが浅く、しかも午前三時過ぎには覚醒した。『ライ麦畑〜』や『ナイン・ストーリーズ』など記憶の奥に埋れていた作品の断片が、読んだ当時に話した人々の姿や言葉などと共に意識に現れ、その甘いような苦いような味が口じゅうに広がる。
早朝ぱるる散歩に出るも雨降り始め、傘持って迎えに出る。もっと歩きたい顔の犬。
で、雨の中入院しに行く。ちょうどタクシーの少ない時刻だからかなり待った上に曲がり角を間違えて、遅刻ギリギリ。本日入院前のコロナ検査(抗原だかPCRだか不明)があるのだが、その列が私の前で止まる。何かシステム上のトラブル、十五分ほど中断ののち開始、そこから約一時間半結果待ち。陰性と出たので採血・X線・手続きを経て病棟入りしたのは昼過ぎ、約二時間後であった。
この間に『謎ときサリンジャー』読了。最後の数頁で多くのことを思い出し再び嗚咽を堪えるのがやっと。二度の雨のくだりなど、まるで自分の物作りが全面的にここに影響されているかのような勘違いさえ起こった。というかすでにいつかやるつもりだった、これ。
今年ベストワン。
断っておくべきだと思うが、私は必ずしもサリンジャーの良き読者ではない。若い頃は嫌いでさえあった。ある時から不意に理解を深めたが、何がきっかけかは記憶にない。そのとき読んだのが当時未読の『ハプワース』で、再読の『大工・シーモア』へ逆行、つまり本書の読解に近い順番だった。『ライ麦畑〜』は大学時代以来未だ読み返していない。
四人部屋の病室で荷解きしてようやく飯にありつく。一瞬気を失い、すぐに二階へ行き、静脈ポート設置手術。右肩の近く、肩甲骨の下に穴を開け、そこからバイパスを通して静脈に薬を入れるシステム。術中、顔を布が覆うのだが麻酔が例によって痛い以外はそれほど嫌な感じはなく、布団に潜って猫に襲撃されるくらいの感じだった。三時間ほど止血。
夕餉を終えて買出し。さすがにマスカルポーネはコンビニには売ってない。今週は我慢して「さけるチーズ」で代用。そして大部屋は照明が暗い。手元のライトが欲しくなる。
虫の音も鐘の音も、街の放送も聞えない代わりに機械の電子音と看護師らの報告の声が途切れなく聞える病院の方が、たぶん落ち着くという人もきっといて、そういう人が理解できないなどとは思わない。ただ、ふと思うのは梅崎にしてもサリンジャーにしても、そして先日まで見ていた「父と娘」の映画群にしても、それらの視点は戦争神経症、離人症、シェルショックの世界に通底するのではないか、ということ。そうでも考えないとやってられない思いが高じてそこへ至るのか。状況に身を投じることそのものに潜んでいる誰とも知れぬ視線と向かい合う、渡り合う、それが日常の場においても継続され意識の断片化をもたらす、そこに関係している何か。娘はその渦中の幻想による産物の典型で、少なくとも攻撃はしてこない。わかりあう努力をする甲斐がある。自分の命と引き換えにしてもなんら惜しくない。守らねばいつ壊れるとも知れぬ、と同時にあらゆるタブーで防御されたそういう存在は父親にとってほとんど非現実である。夢である。シビアな現実からの救いをそこに求めてのことか、もしくはその救いを絶たれた負の有様を描くための正(聖)の要素としての動員か。そしてその変形含めた逆転としての「娘と父」=『羊たちの沈黙』『コンタクト』『ミリオンダラー・ベイビー』『ウェンディ&ルーシー』『人生の特等席』『オン・ザ・ロック』などなど。これをいかに考えるか。『謎ときサリンジャー』は「師匠フィービー」という絶妙なヒントを与えてくれている。
考えすぎだか、熱が出た。早々に休む。暗くなると東京の喧騒が塊になって遠く響く。
 

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某日、今回の部屋は湾に向いて窓が開かれ、私のベッドは窓際なので、起き抜けから眠るまで四六時中海を見て過ごすことになる。考えようでは贅沢なのだろうが、湾岸というのは永遠の工事現場でもあって落ち着くことはない。いまも朝靄に包まれたゲートブリッジが美しいといえば美しいが、その手前に立ち上がって海面に姿を映す赤と白のクレーンがいくつか、これから何を作るのか。タグボートに曳かれた艀が次々に港を出て行く。
十時に寝て五時に目覚めた。本日から早速化学療法の予定。
朝餉まで漠然とした時間が流れ、サリンジャーは唯識を勉強しただろうか自分もしなければ、と思いつつ『人新世の「資本論」』を継続して斜め読んでいるが、ふと気になったのは『フォックスキャッチャー』は実際に起こった事件だが、ドラマとしてあれでよかったのか考えないではない、ということ。労働力と地球環境の搾取が人間性そのものにまで至りかねないことを考えると「誰が誰を殺すか」の解は他でもありではなかったか。
重要な本を読むと次に行ったり前に戻ったりがしづらく、何となく散漫にあれこれ手に取る方がいいので、入院中とはいえ数種持参して気の向くままにできるようにしておいた。
……などとあれこれ書くのは一種の逃げ口上で、実は昨日装着したポートというやつをどのように使うのか、針を刺すとか抜糸はいつとかその後の展開など想像して恐怖に苛まれているからなのだが、それがあっさり終わった。担当医が来てさっさと終わらせた。方法はそのうち看護師によって説明されるだろうが、少なくとも自分で針を刺すことはないらしい。抜くのは自分でやるようだが。それより驚いたのは、というか想像はついていたが、四十八時間の点滴を外来でどうやって、という疑問だが、針を刺し薬の入ったバルーンを装着したらそれごと持ち帰る、ということだった。つまり何事があるにせよ家でぶら下げて過ごすということであり、移動時、少なくとも装着後の帰宅の間、針が刺さった状態で戸外を歩かねばならないわけである。これはけっこう痺れる。移動中に人にぶつかるとか床で滑るとか、予期せぬ出来事が生じて針が折れるなどという事態が想像として最も恐怖の対象なのだ。骨折した時のことを想像してみるといい。しかしもう始まってしまったことなので笑ってやり過ごすしかない。このような状況に耐えてまで生きていたいか、などという大袈裟な話ではない。
こういうときいつも『シコふんじゃった。』における本木氏の哀切なる啖呵を思い出す。
「わかったよ、やるよ、やりゃあいいんだろ、やるよやるよ!」
かくして点滴始まる。
 
某日、それからどれくらいの時間が経過したか、寝ていたから記憶にないのは当然だが。やたらと体の節々が痛いが、肉体を酷使したわけがない。ある意味でそうかもしれないが。
それが昨日の午後のことという現実が感覚として飲み込めてないのだが、しかし実際そうなのだから仕方がない。いくつかの前段階的な短い投薬を終え、その影響による眠気の中でバルーンが開始されて一時間もした頃だろうか、いやそれすらすでに眠気で曖昧だったのではっきりしないが、徐々に体の奥から異変が湧いてくるのに気づき、その異変はやがて寒気という具体を伴うようになり、そうすると震えが始まるまではすぐで、何分かは我慢していたのだが、体温を計る余裕もなく寒さ対策に毛布を借りるべくナースコールを押したまでは記憶しているが、そこからは混濁している。38.7℃、39.1℃という体温計の表示だけが鮮明で、あとは寝かされたまま別の部屋に運ばれて何か撮影したのだがその際に私が足を組もうとするのを禁止されたことと頭上で機械が動いていたのを幽かに記憶しているからCTだろう。その間に部屋を移ること、しかも隣の病棟の個室に移されることも伝えられ、現時刻を訊くと「まだ七時」と担当医が言うので「朝の?」と再度訊くと「いや、夕方の」とまた教えてくれた。そして病室に戻るがそこらへんからの記憶も混濁していて、次は看護師が「引っ越しします」と言って来たときだ。そのときも体温は38℃台だったが細部は憶えてない。看護師が荷物をビニル袋に小分けにして台車に積む。私はベッドに座って、それはこう、これはあっち、と偉そうに指示を出した。隣の病棟の新しい部屋まで車椅子移動。深夜のように人の気配がなかった。そしてまたすぐ記憶がなくなるのだが、その前に看護師から「たぶん土日はこっち」と言われた。それが何時だったか不明だがそこから朝四時まで熟睡。トイレに目覚めてやがてこの病棟の看護師が来て体温を計る。36.8℃。
朝餉を終えて病室を出て食器を片付ける。と、やってきた看護師が「病室から出てはならない」と。聞いてなかった。コロナ問題だそうだ。発熱した私特定の話だ。驚く。
寝不足ではないが、薬の影響かやたらうとうとしてへんな妄想・幻聴ばかり来る。ぱるるが足元で吠えたり、壁に使い途のない小さな棚があったり、三角頭の奇妙な獣がテーブルの隅をかじっていたり。集中力が欠落しているせいで本が読めない。
そんな塩梅で一日何もしていない。アンソニー・マンの続きを考えたのは十二月までに未見の盤が何枚か出る情報をネットでキャッチしたせいで『午前2時の勇気』なんてタイトルも知らなかった。揃ったところで見ていくか。または「年次順世界トーキー史」と名付けた特集に組み込むのもいいかもしれない。たんに盤を所有する未見の作品を二〇年代から六〇年代までじっくり見ようというだけだが。
かように思考がバラバラに飛びながら、時折幻覚に弄ばれながら、届いた夕餉をかきこんで消灯時刻を待つ。そういえば昨夜は食いそびれた。
 
某日、取るに足らず普段は忘れている情報も蓄積されていることはそれらを使っている夢を見てわかるが、夢が異様なほどリアルになるのはそのせいで、リアルなせいでその中でも現実でも同様に体が動いてしまいその途中で目覚めてそれと別の、現実の病室と気づいて驚くもので、そんなことは子供時代以来なかったから思わず、騙された、と苦笑いするしかなかった。いわば自分が自分を騙す寸法だが、こういうとき自分というものは複数だと改めて認識せずにはいられない。一方、それがリアルだから記憶するかといえばそれはまた別で、こうして慌てて書き留めようとする傍から雲散霧消していく。
昨日は911で、ということはその数日前からなので女優と暮らし始めてちょうど二十年が過ぎたわけだ。長いような短いような、月並みだがそういう感想だけが去来する。
その女優からぱるるとのお散歩最新映像が届いて和み、続いて昨日のウィークエンドサンシャイン聞き逃し。濱口祐自、デイヴ・シンクレアの曲の終わりではワイアットの声が聞えてこちらでも和む。そのメロディがちょっと湯浅湾の「みみず」に似ていた。
本日はいっそのこと、ラジオデイにする。サンソンもバラカンビートもリアルで聴いた。デレク・トラックスがオールマンのパーカッショニストのソロで「ミッドナイト・ライダー」をやったのが良かった。バラカンさんはTwitterで言及したアフガンの楽器損壊についてまた話していた。これについてはもちろん御説ごもっとも、私も心から同意するが、それは二十年以上前からアフガンという場所でタリバンという集団が行ってきたことであり、こちら側の論理は自分たち自身の伝統さえ破壊する彼らにはとうとう伝わらなかったその結果であって、説得したか交渉したかも定かではないが、もはや不可能を認めざるを得ない我々に驚くことも嘆くことも許されないのではないかとも思われるのだった。
もちろんそれを考えるとさらにさらに虚しくなり、つい『ゲームの規則』の一節を呟いてみたりしたが、何も変わらなかった。
言い添えると、十九世紀中頃の南北戦争に従軍したマーチングバンドが敗走中に廃棄した楽器を沿道の人々が拾ってサイバーパンク的に新たな楽器を創造したことで、二十世紀の音楽はそれまでと違った、爆発的な変化を遂げたことを忘れてはならないだろう。歴史は目前にはない。誰もが忘れた頃にやって来る。
消灯時刻を目前にして買い置きのお茶が底を突く。買いにも出て行けず、買ってきてもらうことも禁じられている。苦肉の策で看護師は大きめのプラコップに二杯の冷茶を運んできてくれた。有難い限りだが、虚しさには拍車がかかった。
 
某日、四時に目覚める。仕方ない、二日間寝たままだったのだから厭きのこない方が不思議というもの。午前中は動かず。専門医が来てPCR検査が行われた。
昼餉の終わりしな、担当医が現れ、コロナ疑惑解除と明日の退院を知らせてくれる。そしてこれまでの経緯から発熱の原因を類推し、それへの対処を今後検討、月末に結果を知らせてくれるとのこと。結果、今回の入院は疑惑究明篇というところだったわけだ。
釈然としない気分も解けて、買出しに行く。途中、なんとなく解放的になって初めて五階の空中庭園へ寄る。日差しのいい秋の午後など読書に最適だろう。コンビニへ行くが、閉じ込められている間は行きたくて仕方なかったのに、いざ行ってみると案外欲しいものはないし、冷たいものには薬の副作用が怖くて触れなかったりするので、見るだけ見たけれど必要最低限のものだけ購って帰る。
どうも釈然としないのはいつものことだが、細かいことは措くとして、たった数日入院しただけでもつくづく自分が社会というか組織という場所に身を置くことに向いていないと思い知らされる。確実に疑問を抱くことがあり、確実に不快を覚えることがあり、それは些細なことだとしても決定的であったりする。で、そのように合わないことはしんどい。Twitterでさえ合わないコメントは消したい。適応障害とかそういう何らか病名のつく症例だろうか。何でもいい、これ以上ストレスに塗れず過ごせるようできることをするだけだ。
こういう他のことができない状態でネットばかり見て、中でも動物のひどい状態など見ると、危険なくらい精神に影響する。集中できなくても本を読むふりする方がマシだ。
ポートから点滴の管を抜くと急に日常に戻ったように平常になり、夕餉後に依頼されたヴェンダース・レトロスペクティヴのための文章を書き、終いまで書いて寝かせ、デイヴィッド・ピース『Xと云う患者』。面白い上に読み易く、すいすい進む。ただ、こう云う小説は売れるのだろうかという疑問。そして訳文が夢野久作に似せてあるのも不思議だ。作風が近いことは間違いないのだが。でもあんなにめんどくさくはない。そこも面白い。
 
某日、ほとんど何事もなく退院、帰宅。荷解きを終えるなり仮眠。体力が落ちている。食事量が足りなかった気もするが、発熱から寝たきりが三日続いたのだから仕方なし。
川崎市民ミュージアムが取り壊しとのこと。最後に見たのは『キョート・マイ・マザーズ・プレイス』だったろうか。ちょうどあることをきっかけに大島さんがいかに優れたアジテイターだったかと昨晩から考えていたところだった。大島渚のいないことがひどくよろしくない影響を及ぼしている。
午後、雨がひどくなる前に買出しに出たが、ひどく疲れた。体にビタミンとか何かを与えた方が良さそうだ。夕餉の用意もできず、パンを一つ食べたのみ。
大島のことを考えたのは、今週映画館に行くつもりで目ぼしい作品の上映館やら時刻やらを調べていると『ドライブ・マイ・カー』が多くの小屋で終わりかけていることに驚いたからで、映画祭で賞を取ることがヒットに結びつく可能性など一切あてにしてないが、村上春樹でもダメか、三時間という長さにこの時代見にいく側の腰が引けるのも当然か、など理由をあげつらい、要は映画祭に出るというだけで大層なお祭り騒ぎに仕立て上げた宣伝力が重要だったはずで、例えば四十年前無冠だった『戦メリ』の当時のポスターがいまも盗まれパルム・ドールの『楢山節考』が話題にならないのも大島渚が天才的アジテイターであったという以外、理由はないだろう。潮が引くように『ドライブ・マイ・カー』が忘れられようとしているのも、大島がいないから、の一言に尽き、さらに言えば、いま大島が生きていたらこんな世の中であることを黙っているはずがないと容易に考えられる。だが、こと映画ということだけを考えても、大島の映画は三時間だとかノーベル賞候補だとかで拘泥することなく作品そのものの魅力、そこにはもちろん俳優=キャスティングの魅力も含まれるが、それで勝負するだろうとも思われる。
それにしても『御法度』の、あのわけのわからない終わり方はなんだったのか。二十年経過したいまも改めて首を傾げるのは、あれが括弧付きの「映画」だったからで、その頃やはり遺作となった『今宵、フィッツジェラルド劇場で』のアルトマンが最後にしくじったのは、劇場解体中にピアノを弾くケヴィン・クラインで終わらせればよかったのに、ダイナー内の余計な後日談を加えてしまったせいで台無しにしてしまったのも、せっかくトミー・リーを乗せて走り出したリムジンの窓が開いて隣にいないはずのヴァージニア・マドセンが微笑んでアウトして行く、あの何もかも絶妙な「映画」的瞬間で終わらせなかったからで、そのとき残念ながらアルトマンに欠けていたのは「映画」だったと当時の残念さを思い返す。馴れた手さばきでライヴシーンを見事にこなし、L・Q・ジョーンズを死なせて遅ればせのペキンパー追悼を果たしたのに肝心の自分の幕引きには照れたか。しかしアルトマンはいまもアメリカ映画の指針であり続けている。この国も本格的にダメにならないうち、PFFが大島渚賞をやってくれているうちに、大島をもっと大事にしておいたほうがいい。
 
某日、いつものようにぱるるに起こされる朝、いつの間にか秋になり、ぱるるは食べるよりも散歩が楽しみなようで、こちらが朝餉を終えるまでやきもきと待ち、女優が食べ終わるなり風のように二人で出て行く。そして一回につき一時間以上。この日は夕方帰宅した時に向こうから二度目を終えて帰ってくるところだった。非常に元気なので安心である。子供が健康であることの歓びの一端でも、こういうとき味わえているだろうか。
午後、日比谷へ。日比谷東宝(東京宝塚劇場)の地下入口には難点があり、あれは何を避けるためなのか、耳障りな音を出す装置が付いているので、入るときに耳を塞がなければならない。ある周波数の電波を出すこの器具は八〇年代には渋谷西武や五反田のガード下にもあったのだが、ある年齢を過ぎると聞えなくなるとかつて言われたのに、いまだに耳障りというか最悪の気分になるので、いつも耳を指で塞いで通ることにしている。
で、「退院したので映画館へ行く週間」セプテンバー第一弾は、濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』。端的に要約すれば(演劇ワークショップなので)「セミプロの世界」を描き、彼の作品はプロの片意地張る感じがないのが良さとも食い足らなさとも思われるが、今回も同じこと。それと重なるかもしれないが、内面が崩壊して行く大人というのも見せないので演技が手癖に流れないのも良いともいえるし、そこはグズグズが見たい、と感じる場面も場合によってはある。まあないものねだりかもしれない。で、今回そのことで苦闘するのは西島秀俊大明神で、これほど清潔でいいのか、この男は、と心配になりつつ、途中で岡田将生のキャリアが明かされるにつれ、これモデル、にしやん?と、つい逆の心配を余儀なくされもした。それはそれ、二人を含め俳優陣が総じて素晴らしい。これだけでも監督の力量を讃えるべきだろう。驚くべきは安部聡子で、長い付き合いなので敬称略でお送りするが、頭抜けてエイリアンだった。海外の俳優が何人もいるのに、安部さんだけエイリアン。まあ仕方ないと言えば仕方ないのだが、警察署の前でのロジックのない場面など、安部さんのエイリアンっぷりがなければ説得されなかったはずだ。それと似たことは手話で語る韓国の女優、サイトが不親切でクレジットだけでは名前がわからないのだが、彼女にも言えて、ただ彼女の場合、自宅に招く際の見た目が作劇上あれでよかったか気になるところ。その他あの人の髪型がどうかとか気になる部分は細部にとどまる。
褒めるばかりしか思いつかないので、無理に難点を二つ。濱口作品の数少ない弱点は、リテラシーの思わぬ脆弱さで、『寝ても覚めても』の時もその台詞はダメだろう的な小さな瑕疵が結果作品全体にうっすら波及したりもしたが、今回はそれが『ゴドー』と『ワーニャ』ということになる。その選択に難があるわけではないが、このいかにもな定番をやるにあたって複数言語と手話というアイデアだけでよかったのかどうか。手話、または身振りというのが他の人物たちに波及すればよかったか。答えがあるとも思えないが、釈然ともしない。偶々帰宅したら矢野顕子の新作が届いていて、作詞家の書いたものは聞いてられず、矢野単独作は逆に絶品だが、中に「津軽海峡・冬景色」がカバーされ、これが凄い。もちろん演歌の定番だが、要所要所でコードが変わり、それが物凄いグルーヴを生んでいる。定番をやるならここまで、と思ってしまった。もう一点は、先述した韓国女優の自宅姿にも関係するが、存在の一元性ということ。同じ演技を何度でもやれるのが理想の俳優としばしば言われるが、現代映画においてそんなことはどうでもいいと私は思う。むしろテイクが変われば様子も変わることに本来的な普遍性を感じる。自宅がどうであればよかったのかわからないが、ドラスティックな変化を試しただろうか、それもありではなかったか。一切変わらないのは家福夫妻と運転手の「親子」だけで、それ以外の人物について硬直しない方がよかった気がする。ある種の無人称性が漂い出す瞬間というか。『憂鬱な楽園』でガオ・ジェが歩きながら飯を食う場面などに現れる誰が誰ともつかぬ空気感が、あちらこちらにあってもいい気がした。喫煙ではそこを描けなかったし、何しろあの二人だ。
ラストは諸説あるだろう。私にとっては上十二滝村で眼下を見下ろして抱き合う「父娘」で終わっていた。そのあとは言い訳の付け足しで、一昨日書いたアルトマンの遺作と同じ。舞台はエンドロールでいいし、それもラストシーンがああなることはリハーサルで軽く見せるだけでよかった。「グラン・トリノ」はまあ、ご愛嬌。
自分のキャリアにも『シェイディー・グローヴ』と『ワーニャ』があってしまうので、書き方が用心深くなったかもしれない。でも、最後に一つだけ。車内の長台詞、あれはウララ×アラタの勝ちだと思うねw
 
某日、昨日の客層は若干年齢層が下のような気がしたが、本日は同世代または上がほとんどであろう、日比谷は多少若いのか、渋谷でもヒューマントラストは以前から年齢層が高い気がしていた。初見テイラー・シェリダン『モンタナの目撃者』。アンジーがどれくらいこの企画に乗っているかは知らないが、基本的に二人組殺し屋映画として悪くなかった。古くはストローザー=LQ組からギグ・ヤング一派へ繋がるペキンパーの男たちを基にしつつ、シーゲル的なオープニングのフロリダの仕事は殺し屋も逃亡者もよかった。しかしモンタナ入りして銃器が重たくなると急に大味になってしまう。自動小銃というのは活劇を重くするだけではないかとさえ思われるが、山中に入って人がどんどん減っていくにつれ、大丈夫かと心配するほど身軽になって行き、トラウマで心が破れているアンジーも肉体の方が傷だらけになって行き、これで最後まで持つのか、という不安をよそに殺し屋も傷だらけになる一方で妊婦が大活躍、おかげで殺し屋はゆっくりとフェイドアウトする芝居ができてよかったし、彼から解放された若手も見事焼死で役目を全う、アンジー以外では唯一見覚えのある保安官役の俳優に活劇がなかなか乗っていかないのが難点だが、まあどうせ大味なので見逃しつつ、こんなところで満足しとこう、という感じ。要するにこういうどうでもいい活劇を見て大人になったのであって、今だにれっきとした栄養である。
HT渋谷のシアター3は空いたスペースにギリギリ客席作ったようなスクリーンで、前から三列目まで迫れることを確認。
夕餉はUberで中華。仏映画史第一回『ル・ミリオン』。メールソン&トローネ。
 
某日、結局のところ「仏映画史」と「年次順トーキー史」を合体させたリストを作ってしまい、それを昨夜の『ル・ミリオン』からのスタートで。結局またドライエルはお預け。始めたからには最後まで完走したいが百本超えているのでいつになることやら。どうせ途中で別のものが入ってくるに違いない。昨夜はぼんやりとああ木村威夫さんの根っこにはこういうこともあるのだなあ、と感じながら漠然と見ていた。まあ『ブルース・ブラザーズ』の始祖といえばそうだし。
寝る直前に『Xと云う患者』続きで、わあと思った。この数年どうも乃木夫妻につきまとわれてる気がして嫌な感じだ。父の生前以来。行ったことがないのでお参りに行くか。
混み合ったバスに乗る時から何か今日はついていないと感じた。どこか殺伐とした駅や電車にうんざりしながら再び日比谷。本日はシャンテ。ようやく『サマー・オブ・ソウル』。ステイプル・シンガーズの始まりで観客がどっとステージ側に詰めかけ、少し危険を感じたのかメイヴィスが隣の父親にサインを出すが、パパは全く動じない。それを見た瞬間に武装解除。あとは時折ハラハラと涙ぐみながら、あらゆるグルーヴはポリティカルである、などと心で呟いていた。大変な労作でひたすら頭が下がる。スライの扱われ方と当時のNY市長の評価にも驚いた。ある意味立派な時代である。それに対して現在のジェシー・ジャクソンやスティーヴィーの暗澹さと云うのはどう受け止めればいいのか。この間にはかなりの時間が流れ、相応の膨らみがあったはずだが。だがそれも終わり、短く言及はあるがプリンスが死んで、MJが死んで、JBも。もちろんマーヴィン・ゲイもカーティスも、ボブ・マーリィもいない。ヒップホップの人々も数多く死んだ。いまこの時点で黒人文化はどうなのか。BLMには中心がない、そのことに耐えてネットワークの持続があるならその方が強いようにも思える。
帰宅、ぱるるはどうしても散歩に出たがる。意を決して出た。ちょうど外でハッピーちゃんと出会った。ハッピーちゃんは高齢のおじさんプードルであり、ぱるるのお散歩デビューの時からのお友達である。仲良く40分ほど一緒に歩いた。明日は台風。
夕餉は朝のゴーヤ炒めの残りと焼売。その後『砂漠の生霊』。1929年。なんのことはない、『三人の名付け親』のいくつかのプロトタイプの一つだった。様々なものが見えてきて、いかにワイラーの影響力が強かったか、これでわかった。列挙は避けるが、本当にいろんな部分がいろんな作品に似ていて、むしろ感心した。ただ一方で思うのは、フォードには似ていない。またフォードを見ていて他の何かに似ているなどとはまず思わない。つまりフォードと他の違いは見た目の問題、フィジカルの問題で、抽象的なことは問題にならない。だがそれをやるかやらないか、と云う選択の問題はあるかもしれない。例えば最後の生き残りが死んだか生きたか、フォードは最後に留置所で看守とチェスをやらせた。それは世の中をどう考えるかまで全てを言い表しており、その時フォードは全て晒け出している。他の作家はそうはしない。その違いは月と海の底のように大きい。
夜更け、ひどく落ち込むことがあり、今後の自分がどうすればいいか考えなくてはならなくなる。こうなることをなにかずっと恐れていた気がする。
 
某日、台風は深夜やってきてそのまま朝になっても同じようにいる。こういうときにかぎって生活を揺るがす問題が発生、昨夜の問題とひっくるめていまのこの気圧に対応できない人間の弱さをさらに根底から突き崩そうとする。ともあれまともとは言い難いため、台風が去ってから考え直すことにする。
何もせずどんよりと考えるだけ考えたがなるようになればいいという答えで流すことにして、梅崎の短篇に没入。「寝ぐせ」。笑う。Twitterでは是安の言及したポップス・ステイプルズの遺作をアナログで発見、即注文。さらに、トーキー史にいきなり番外編、イタリア箱内の偉大なる『カビリア』。1914年。時にはこういう高度に文化的な表象に接して世界の中の己の野蛮さを鍛えておく必要がある。どんなに繊細ぶって洒落のめした知識人を気取ったところでしょせんどこかで弱者やちびっ子を踏みつけにして生きているのだという事実を叩き込んでおかねば。再会の歓喜に力が溢れれば、ぶっとい鎖も素手でぶっちぎれるのだ。例えばこの中の俳優がバート・ヤングそっくりの動きをしたとして、それは毒を呷って宝石を放り出すソフォニスバ女王のように崇高であり、その崇高さはそのままバート・ヤングのものとなる。似てたって構わない。どうせ誰もフォードではないのだから。文句があるなら『騎兵隊』でデュークが小柄な兵士を抱えて放り投げるのは本作への気高いオマージュだったと考えるがよかろう。そしてこれはまだクローズアップのない時代のお話でもある。
夕餉の後、大学一年以来だろうか『モロッコ』。最初はラクダだかラバだかが動かない向こうから兵列が来る、と思ったら本当にそうで、案外忘れないものだ。で、初見当時全然好きではなかったのだが、今見ると言わずもがな『ラ・パロマ』『ヘカテ』の匂いだから、最初の酒場の高低差のあるセットから前のめり。路地の天蓋の影に改めて関心を抱き、執筆中の脚本でテラスにタープを書き加えたのは、直接的には下田のカフェの影響としても、正解だと確信した。リー・ガームスを堪能。サークはガームスと一本も仕事をしてないが、それはスタンバーグを避けたというよりカラーを中心に考えたからだろうか。ダニエルには悪いが、やはりディートリッヒもこのクーパーも好みではなく、むしろ年齢のせいかアドルフ・マンジューがいいと感じられた。ステッキ片手に車を降りるラストなど惚れ惚れとした。動かないヤギを引っ張るラストまで、犬から象から美しい動物たちを愛でる一日だった。
 
某日、本日もかなりスロースタート。起き抜けにウィークエンドサンシャイン。矢野「魚肉ソーセージと人」「津軽海峡」の良さを確信。聴きながら「トーキー史」も「東京小説家」もリストを大きく再編する。要は全体をひとまとめにした。ドライエルだけは例外。
朝餉を終え、アスファルトが歩けないほど熱いらしく、ぱるる散歩を中止した女優はやおら愛車の掃除を開始。動員され、しばらく付き合ったがすぐに疲れ、部屋に戻る。例によって蔵書の確認・移動。ふと見ると、ガレージに置き晒しになっていたiMacを分解している女優。天気のいい日にすることかどうか、まあ私の作業と五十歩百歩。長きに亘り積りに積った生活の汚れを拭う解体の季節である。解体なのか浚渫なのか、似たようなものだ。
で、この作業、女優の方は抜きにして私の「浚渫」だが、まあ長々と書いてきて、サリンジャーやら唯識やらあちらこちら飛び火してきた「父と娘」のテーマだが、今度はグノーシスである。以前勉強しかけてわかるようなわからんような感じだったが、まあそれらのどこでも見かけることが「汎神論」とか「確実性」とか「倫理学」とかそういう言葉の周囲で似通ってきて、とうとうここも通過せざるを得なくなってきた。で、かつて読んだ『トマスによる福音書』と『エチカ』(スピノザ)を再度交えてみるかといった塩梅。その次は禅の公案を紐解くことになりそう。
と、ちゃんと色々考えていそうなところに、Twitterでヤベガワモチという、有明海の矢部川河口周辺汽水域の葦原に棲む生物の動画を見て、どうでもいいから無事に生き延びてくださいと心から祈っていると、今日という日が終わろうとしていた。興味ある方は是非検索してみて下さい、ヤベガワモチ。
再びラジオデイとなる日曜。サンソンからバラカンビート。忘れていた、というより知らないふりをしていたが、今度のディランのブートレグは『インフィデル』期であり、贖うつもりはなかったのにBlind Willie McTellがかかり、呆然とポチる。致し方なし。本日はどうやら満月のようで、またしてもこりんが怪しい動きをするのでああと思うとやはりネズミが出没したり、どうも体調がよろしくなかったり、情緒不安定だったり。ゆえに昨日のつづきで映画を見たいのだが、やめて黙っていることにする。
 
某日、その割になかなか寝ようとせず、あれこれ読んでいたが、寝起きも相変わらず体調は悪く、夕餉に食したのが大量の米とMUJIのレトルトカレーだったからか、と訝るが、そうでもなく多分に精神的問題かと思われる。
しかしなんとか起き上がり、普段通り過ごす。頭が冴えないときは昨日のつづきで部屋の片付け、専ら書籍整理中心に。浚渫の結果姿を現したペーター・ハントケと織田作之助が複数の理由から読書リストに上がる。そしてウィークエンドサンシャインでかかったのだったか、長きに亘って敬して遠ざけてきたチーフタンズをとうとうCDにて。フィドル二本で走られるとすかさず琴線に触れるから困ったものだが、人前で聴かなければいいだけの話。『ユリシーズ』に向けての雰囲気作りかと勘繰ってもらって一向に差し支えない。
そうして夕方になり買出しに出て、またぼんやりしているとHiatus Kaiyoteというとんでもないバンドを青山陽一氏のツイートで知り、思わずポチる。いやはや、死ぬまで勉強。
勉強といえば今年は民族音楽にどっぷりだが、来年はオーネット・コールマンに再度チャレンジしてみようかと考えている。あとコルトレーン。この二人について、初期作だが、これまで一枚も好きになったことがない。まだ聴いていないものが多くあるのでもしかしたら何か出会えるかもしれない。ともあれ、来年だ。
寝る前に『市街』。見たつもりでいたが、全く記憶ないので初見だろう。車も麦酒も瓶も、あるいはサイレンやベルや川でさえ、サイレントのショットで出来ている。つまり音を感じさせる画面。世界中の同時代の映画、殊に日本映画が「ハリウッド」として早すぎる郷愁を抱いた最初の映画という気がする。トーキーから開始したマムーリアンよりリー・ガームスの画面がその郷愁を喚起するのではないか。主役の二人の現代性に驚く。デビュー間もないはずのシルヴィア・シドニーが堂々とロングテイクをこなす。同時にクローズアップの機能は先日の『モロッコ』よりも進化している。あえて言えば山中のようだ。徹底して御都合主義でできているが、それこそが痛快であり、文化的水準の高さを感じる。
 
某日、女優に送ってもらい、病院でポート手術の抜糸。あっという間。加えて糖尿の診察。さらにインスリン増量の指示。電車で渋谷まで戻り、久方ぶりの出社。事務方作業。斎藤Pと長めの世間話。ずっと家族か医者か看護師としか喋ってなかったから仕事上の語彙が貧困で自分に参る。とにかく言葉が出ない。ともあれひとと喋るという刺激を忘れて久しかったので充実した。ヴィンターベア、良しとのこと。
また徒歩で駅に戻り、バスで目黒警察まで行き、ペットショップで家族の食材を購う。
帰宅するとハイエイタス・カイヨーテが届いている。夕餉の後、セカンドを聴く。圧巻。五十代とは言わないが年齢は結構いってるのではないかと思える技術的熟練。ひと晩で全部聴くのは惜しいので、新作は明日に取っておく。
中秋の名月である。
スピノザについて考えるために読んでいた本に中途で挫折して、新たに買い直した最近の本を読み始める。気づいたのだが、何か書き手の自意識が浮かび上がるとこの手の本を読めなくなってしまう気がする。書き手が気の利いた話だろうと思ってする例え話などにそれが現れるとかえってわからなくなる。今度の本にそういうことがなければいいのだが。
 
某日、まるで眠れず、寝ると今度はまるで起きられず、ぐったりしたままいつの間にか行われたキッチンのカビ取りの後処理をしつつ、朝餉の支度もままならぬまま梨を抱えてリモート中のリビングから勉強部屋へ避難。またしても町山さんのリツイートに蒙を啓かれた。村上春樹を読んでいれば分かるようだが、村上作品にはブードゥー的存在が現れて一種呪術的超現実(ある意味で「奇跡」)を起こす由、その機構が『ドライブ・マイ・カー』では「父娘」に転じているようで、そこで韓国が援用されたという慧眼に驚きつつ、そこはさておくとして、そのユダヤ(?)的変換としてのサリンジャー的「兄妹」とそのさらなる変換であるハリウッド的「父娘」が成ると考えると妙に合点が行く。サリンジャーを挟んだ二方向。何をすればよいか、というよりどこに向かえばいいかがわかった。
中原によるキャバレー・ヴォルテールのリチャード・H・カーク逝去の報。合掌。
あらゆる意味で狂おしく東京を離れて一人になりたくて、そこにディランブート届き、後押しされるまま明日伊豆行きを決める。いそいそと某所より依頼された文章を書く。
さらにハイエイタス・カイヨーテ最新『ムード・ヴァリアント』。青山陽一氏がTwitterにあげていたやつ。やはり突拍子も無い。久しぶりに傑作と呼びたいものに出会った。
 

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以下、諸々。
ある人がある曲をカバーしているのを偶然聴いた。そこには当人のMCとして「この曲をカバーする資格が自分にはあるし、義務もある」なる言葉が添えられていた。カバーに資格も義務もなかろうが、聴けばワンフレーズめから泣けるし、当然ながら誰よりも優れた歌唱であり、資格と義務を疑いようもない。個人的にはオリジナルがやはりいいけど。
去年の夏、コロナはただの風邪であり、致死率はインフルエンザ以下と嘲笑していたやつがいた。そいつが、自分は喘息なのでワクチンを打つことはできない、とツイートしていた。一見整合性があるように思えるが、喘息患者がワクチン接種で重症化する確率は一桁パーセント、という報告がアメリカにあるようだ。それこそインフルエンザ以下である。私には全ては疑わしいのでどうでもいいが、いかにも人情家らしく発言し振舞うそういう人間を、私は心底信用できないので付き合わない。
昨日、通りかかって見た風景に思わず立ち止まってしまった。ここには何度も足を運んだし、それがここにできる以前、何度も場所を変えたそれと、数十年間付き合ってきた。それがなくなった理由も知っているし、それについて思うところを述べて批判もされた。しかしこの風景を前に、一切の感傷抜きでただ呆然とする。これもまた、映画の死である。
 

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もう蟬の声も聞えない。


 (つづく)
 


青山真治

映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、『空に住む』(20)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)、自作『しがさん、無事?』(19)など。

近況:間に合いませんでしたが、月末にはあることが発表になるはずです。