Horse racing watcher 第1回

テレビ時評「Television Freaks」を連載中の風元正さんによる新連載「Horse racing watcher」がスタート。こちらでは40年以上も競馬を嗜んできた風元さんがその面白さや、記憶に残るレースを教えてくれます。初回は1981年の第1回ジャパンカップについて。世界最高額の賞金が用意された日本競馬界初の国際レースを、東京五輪開催中の今、振り返って想うこととは――。
DSC_1799.JPG 286.84 KB


 

「第1回ジャパンカップ」の亡霊



文・写真=風元正
 
 
エクスネ・ケディの1974年ライブ音源に震撼し、あの頃を懐かしく思い出した。軽い気持ちで、「74年はどうしていたの?」と人に訊いたら「生まれていません」という当然の答えが返ってきた。私は13歳で東京の田舎に住み、ちょうどビートルズのほかのアーティストを探し始めた頃だった。毎週「アメリカンTOP40」を聴き、オリビア・ニュートン・ジョンやカーペンターズが好きだったが、正直、日本のアイドル歌謡の方により魅かれていた。さすがにエクスネまでは知らず、実は森進一の「襟裳岬」に痺れていた。原宿の代ゼミ帰り、高田馬場芳林堂に寄りマンガを立ち読みする。白土三平『忍者武芸帳』を全巻読破した時の興奮は忘れられない。

Stroling-Planet-74.jpg 159.78 KB


70年代の日本は貧しかったが、社会に余白が多くのんびりしていて、上り坂を行く明るさと勢いがあった。夜はまだ暗かった。モダニズムと明治や大正の残り香が共存したあの雰囲気がどこから変わったのか、じっくり振り返るうちに、「第1回ジャパンカップ」という分岐点が不意に浮かんだ。1981年に創設された日本初の競馬の国際レース。私は大学3年生、高校から馬券を買っていた悪友に誘われて、少しずつ競馬の味を覚えていた。田中角栄、長嶋茂雄と並び、寺山修司の東北弁の競馬解説がモノマネの定番だった。
当時といえば、大レースのほかは、東京なら関西や北海道などのローカル馬場の馬券はほぼ買えず、競馬週刊誌も関東版と関西版に分かれていた。券種は単勝、複勝、枠連の3種しかなく、それは「射幸心を煽る」からいたずらな高配当はまずい、という理由だった。窓口のオバちゃんに口で買い目を言う方式は面倒で、いつも激混みで並ぶ時間ばかり長い。補導されるので、私は恐る恐る場外に足を運ぶくらいだったが、昼間から酒を飲んで絶叫する灰色の作業着を着たオヤジだらけの売り場では緊張を強いられ、片隅で小さくなっていた。でも、無法地帯の気風が痛快だった。
ドメスティックな悪場所に、まだ見ぬ世界の強豪がやってくる。「競馬後進国」だったわが国の「黒船来航」に競馬マスコミは盛り上がった。忘れられないのは「インドのシンザン」という触れこみだった7歳牡馬オウンオピニオンで、40戦27勝の戦歴が喧伝されたものの、外国馬として初めて出走した指定オープン競争で大差負けを喫し、話題に上らなくなった。396kgの小さな馬で、慎ましやかな気配だったのを覚えている。
ジャパンCの賞金は6500万円。当時としては世界最高額で、アメリカ3頭、カナダ3頭、インド1頭が招待された。招待馬の目玉は唯一の国際G1勝ち馬で獲得賞金100万ドルを越えていたアメリカの7歳牝馬ザベリワン。正直に言っておくと、外国馬や騎手について、まったくわかっていなかった。横文字の雑誌と「優駿」以外、ほぼ外国馬の情報などなく、スポーツ新聞の記事を鵜呑みにするのが精一杯だったが、サベリワンが勝ったG1も牝馬限定のサンタバーバラハンデだから、さほど重要なレースではない。
私たちの関心は、日本の馬がどこまで通用するかに尽きていた。大将格は前年の有馬記念勝ち馬のホウヨウボーイにダービー・菊花賞2着の「無冠のプリンス」モンテプリンス。スプリンターズSを勝ったサクラシンゲキが「日の丸特攻隊」と呼ばれ、外国産馬タクラマカン、ラフオンテース、ジュウジアロー、地方出身のゴールドスペンサー、メジロファントムなどの馬が出ていて当時の一流馬が揃っていたが、今振り返ると、外国馬を含めて特別な馬が出ていたわけではない。あの熱気は「世界に通用する強い馬づくり」という日本中央競馬会のテーゼにファンが共感して生まれた。
レース当日11月22日、私は黒山の人だかりだった後楽園場外でモンテプリンスの単勝1000円を握りしめていた。予想不能という結論で応援馬券だったが、貴公子がついに大レースを勝つのがジャパンカップという妄想に浸っていた。背伸びして小さなモニターを見ていたが、煙草の煙もうもうの大混雑でよく訳がわからぬままレースが終わり、手も足も出ず日本馬が惨敗したことを知った。ホウヨウボーイ6着、モンテプリンス7着。みな落胆していたが割と静かだったのは、「こんなの買えねえよ!」という大方の反応通り、馴染みのない馬に手を出さない人が多かったからだ。
勝ったアメリカの6歳牝馬メアジードーツは、ザベリワンと互角の勝負をしていた馬で、騎乗していたキャッシュ・アスムッセンは19歳だがすでに大レースで勝ちのある最注目の若手だと知った。2着のカナダの4歳せん馬で芦毛のフロストキングはまったく目に入らない馬だが最内枠で巨漢の先行馬で来ても不思議ないし、外から追い込んだザベリワンの3着は実力通り。4着は戦前に話題を集めていた50歳の名手ウイリー・シューメーカーが騎乗したアメリカのペティテートで、日本馬の最先着がゴールドスペンサーだったのも、中央と地方の関係が逆転したようで軽くショックだった。「世界」の強さを知った私は、SF作家としても知っていた山野浩一をはじめとする学究肌の競馬評論家に憧れ、世界標準語である血統についての見識を深めようと心を決める。
YouTubeに落ちているレースを再見すると、力を出し切ったサクラシンゲキの逃げはそう速いペースではなく、好位を進んでいた馬がただ先行馬を交わしただけの単調な展開だった。ホウヨウ、モンテの日本の2強は伸びあぐねていたが、瞬発力勝負に対応できなかっただけで、思い切って先行していればもう少しマシな着順だったかもしれないとして、勝つのは到底ムリだった。ただ、自分が愛好していた競馬はまがいものの二流品だったと突き付けられた落胆が、まざまざと蘇ってきた。

 
DSC_1829.JPG 315.24 KB

 
あれからちょうど40年たって、東京ではオリンピックが開催された。長年のスポーツ観戦馬鹿としてたくさん競技をザッピングしたが、かつてメインを張ってきた種目は日本人がほぼ歯の立たない陸上を除き、さほどの関心を持てなかった。もっとも興奮したのはサーフィンの決勝で、台風の中激しく波打つ黒い海と30分以上格闘する選手たちの姿に心打たれた。私ならば溺れている。スケボーもエキサイティグで、新しい競技で活躍する日本人がなぜかキラキラネームなのは興味深い。
もっとも好感を抱いたのはバトミントン混合ダブルスの渡辺勇大と東野有紗のペア。福島の富岡一中からのコンビで、ひとつ上の東野が「ゆうたくん」と呼ぶ口調が深い関係性を物語っている。試合でも、身体の大きい相手選手の強打に対して、ロスが少ないフットワークで立ち向かうスタイルはクールな印象で、次のオリンピックでの金メダルという目標も大言壮語ではないと感じた。体操の橋本大輝はすばらしかったが、それにしても、プロとしての大舞台がある野球とゴルフなどは、わざわざオリンピックで弱メン相手に勝負する必要がどこにあるのか。サッカーも同じく。
前のオリンピックは生まれてはいたが記憶はまるでなく、最初でたぶん最後の自国開催の夏のオリンピックがパンデミック下となるのはやはり不運だった。もう少し単純に楽しみたかったが、誘致に熱心だった頃は「後進国かよ」と呆れていたし、もう仕方がない。わざわざ第1回ジャパンカップの記憶を引っ張り出したのは、私の中で「世界」がまだ遠かった頃の感覚を確かめるためだった。
現在のジャパンカップは日本馬が強すぎてマトモな外国馬が来てくれない。「風の馬券師」小林弘明が「トランポリン馬場」と呼ぶ異常にタイムの出る人工的なコースもネックで、ほぼ自然に近いヨーロッパの芝が深い馬場で走る向こうの馬にはまるで合わない。サンデーサイレンスという世界最高の種牡馬を、怪しい血統とノド鳴りという欠陥ゆえアメリカの馬産地で評価が低くて買えたという幸運により日本馬全体の水準も上がり、外国馬が勝つ可能性は限りなく低くなった。
ジャパンカップを拠点に「世界標準」を目指した日本中央競馬会の努力は実を結び、馬連、馬単、ワイド、3連単、3連複、WIN5という券種を加えて、インターネットで購入できる体制を整えた今は競馬場にほぼ行けないコロナ禍でもびくともせず、売り上げは順調に伸びている。私はターゲットというソフトを使っているが、1986年からの中央競馬のすべてのレース成績や血統が検索できる優れもので、昔の競馬新聞など問題にならない詳しいデータがわが家のPCで取り出せる。かつて「競馬は記憶のスポーツ」と呼ばれていたが、もう頭の中にデータはいらない。地方や外国の馬券すら買える。
ただ、的中が難しい馬券の配当がどうにも安い印象を受けるのは、完全に投資と割り切って指数を駆使し、予想なしで自動的に高配当を狙う人々が増えたからだ。競馬の収支を「トータルして儲かっていますか?」と尋ねられて、「他人に人生のトータルの勘定を聞くのか」と激怒した寺山修司が今の電子投資競馬を知ったらどう感じるだろうか? ディズニーランドのようなファンシーな空間に生まれ変わった東京競馬場は、コロナ禍前は若いライトなファンの男女が詰めかけていて、くすんだオジさんたちはどこかへ消えてしまった。たぶん、みんな寿命だ。
妙な循環なのは、JRA(ここから表記変更)や楽天競馬が発売を手掛けることにより、寿命が尽きかけていた地方競馬が目覚ましい復活を遂げたことで、昭和の雰囲気をそのまま残す競馬場が安泰なのはとても嬉しい。浦和あたりで煮込みと串カツを頬張りながらビールを呑んで、頭数も少ない緩い競馬を楽しみたいものだが、まだ遠そうなのが辛い。ちなみに、本場ヨーロッパの競馬はずっと貴族の道楽で、馬券を買うのは下層階級だから、雰囲気は地方競馬と似た感じだ。馬券を国が売るJRAのような発展を遂げた国はほかにない。馬券の売り上げで金満だから、外国人の方から寄ってくる。
 

DSC_1831.JPG 335.53 KB


 
昔か今か。確かなことは、私個人としてならば、昔のままで構わない、というしかないことだ。「世界」は遠いままでいいし、スマホもいらない。競馬が熱かったのもバブル期を沸かせたオグリキャップまで。ただ、終戦直後の競馬を知る長老に、馬券を「4-5」のような馬券ごとの穴場に並んで買った時代は、人気の組み合わせだと列が長くて大変だった、という話を聞くとさすがにどうかという気もする。競馬場の隅にはマークシートを使わず買い目を口で言う売り場も残されていて、煮しめられたような老人が集まっているのはちょっと恐ろしい。私がパソコンの変化になんとかついてゆけているのは、競馬のシステムが変わって対応を迫られ勉強するからだ。
しかし、私がどこかで郷愁に捉われているうちに、五十嵐カノアが、都築有夢路が、堀米雄斗が、西矢椛が、四十住さくらが、そして大谷翔平が、楽々と「世界」に出て、楽しげに躍動して大金を掴んでいた。オリンピックで起こったうら哀しい出来事のすべては、更新されていない「日本」の腐臭が漂っている。たぶんもう、昔に帰ることはできない。かつて古井由吉さんは、「われわれもデジタルの競馬に慣れなくちゃいけないんですよ」とぼそっと呟いた。普段やっているつもりだけれど、もう一度、馬をただ記号として捉える訓練をやり直そうか。
もう2年間、競馬場に行けていない。走る芸術品の汗に濡れた漆黒の肌を見て、蹄の音や大歓声を聞きたい。無観客は寂しい。とグチを書いた後、ケリー・ライカート『リバー・オブ・グラス』を観たら、1962年生まれで1つ下のコージーが青いマリブを駆ってフロリダの大地を逃げていた。サクラシンゲキよりしたたかな脚で鮮やかな軌跡を描き、誰も辿り着けない場所を目指していて、力に充ちた映像の連続により最近の鬱憤が晴れた。さて、サーカスに行った母の後を追い、コージーは今頃どこへ逃げているのだろうか? 俺も後を追いたいが、やっぱり車から落とされるかな……。

 夏果てて駻馬も駆ける草の川



DSC_1810.JPG 353.64 KB




風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。