映画川 「誰のものでもない風景、姿、かたち 金村修に寄せて」

原智広さんによる金村修さんの映像作品に関する論考です。2000年に史上2番目の若さで土門拳賞を受賞するなど写真家としても活躍する金村修さんは近年、『Animals』(2017年)や『Cattle mutilation』(2019年)といった映像作品を発表し、映像インスタレーション展や、Nyantoraや3RENSAほかミュージシャンとのライヴ・コラボレーションを行うなど、映像の分野でも精力的に活動されています。金村さんの作品を体感するのは自分にとって「精神のリハビリ行為」だという原さんが、その映像表現について考察されています。
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金村修 『Animals』



誰のものでもない風景、姿、かたち 金村修に寄せて


 
文=原智広


新しい創造の種子とは何であろうか、誰の目線でもない個別の事実とはあれど、残骸や風景、視線はすべて大前提としては、死ななければならない。そこから、まず始めてみよう。この、金村氏が操るオールドカメラの不安定性と可動性、そのノイジーな感じと、凶暴さ、そう、いくつもの進歩を思い描いてみることが出来る。映像には他の芸術には見つからない、思いがけず不可思議なものが映りこむことがある。取るに足らない細部、ごく無意味な対象も、金村修氏の手にかかれば、死んでいながらも固有に属する意味と生命を獲得することに成功した。さて、それから? いくつかの啓示には極めて好都合な、別の証明、逆説的真実の最頂点において、現実的な自由が危機に迫り、歴史の休暇を呼び起こすとき、自由に撮ること、つまり自由であるという背景は、最も矛盾した自己自身と共に破滅へと向かう運命にはあるのだが、あるひとつの高みを会得したときに、それは同時に世界の細部となる。声や言葉、環境音の想像上でのしるしを作家は天使たちや死者たちの口の前におく、それを受け入れるかどうかは、私も分からないが、象形文字的な方法はよく知られている。論理関係を不可能にしてしまう、生誕関係における出現が、他者によって、或いは自分の肉体を通した何ものかによって告発される。それは通常「ある」ものとして取り扱われるが、「ある」としたならば、作家はそれを独自のスタイルで提示せねばなるまい。これはくだらないことをいうが創作をするうえでの最も重要なルールだ。
 
イマージュの組み合わせ、実際にこの金村氏の作品は映画ではない、映像作品だ、だからどうと? 凄まじいまでに研ぎ澄まされた感触、判読することを許すことのできる闘争、睡眠よ、さらば、ディオニュソス的といえるような精神の激動ともいえるかもしれない。こう指摘して良ければ、我々はまだ古典から一歩も抜け出すことは出来ていないと同時に指摘することもできるが、よもやこの病(アガタ)が有機的で、暗示的なポエジー、何らかの予感を秘める、見えれば見えるほど、音も映像も重なりあって感動的に現れる。意識の奥底に眠っている秘密のすべてを暴くために、その深く無自覚な誕生に似たことがある。


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金村修 『Cattle mutilation』

 
金村氏はイメージフォーラムの受講生であったようだが、実は、私もイメージフォーラムの講座に3回ほど通ったことがある。たまたまその時にお金を持っていて、30万ほどの受講料を前払いした後だったが、あまりにも短絡的で、あまりにも私的で、その講師陣の作品に見どころは何もなかったので、私は落胆した。私的なものは私的のままにしておけばいい。晒す必要などどこにもない。日記にでも書けばいいじゃないか。そしたら余計な恥もかかないだろうし。そして、8mmで撮った自分の作品講評をして頂けるというお話だったが、私は講評にも行かなかった。再度講評の日程を選定してもらい、その前の日にしゅんちゃんのところに行った。
 
新大久保のゲイやレズビアンの友人たち(私はゲイじゃないけれど)新大久保のしゅんちゃんの家にはいつも4,5人くらいいて、レズビアンやゲイ、ぶらぶらしてる外人たちとよく遊んだ。この晩のことはよく覚えている。私の当時一番仲の良かったしゅんちゃんに珍しく真面目な顔でベランダに呼び出されて二人きりで話した。少ししゅんちゃんは泣きそうだった。「原ちゃんさあ、よくわかんないけど、俺もずっと薬ばかりやってるけど、良くないよ。毎日やめてえって思ってるよ。でもそれがないとダメなんだ。分かっててもやめられないんだ。原ちゃんは、面白いから、何か出来ると思うよ。映画撮りたいってずっと聞いてるし、原ちゃんなら出来るよ。それはずっと俺は思ってるんだ。その講評とかは講師とかはきっとクソくだらねえけど、行ってみたほうがいいよ」と促されたのでようやく講評に行ってみることにした。しゅんちゃんはイギリスで何曲も凄い楽曲を出してるDJで当時の私の友人のなかでも、ぶっちぎりでやばく、破天荒で、もう凄まじいまでの根の入ったジャンキーだったし、上智大学(しゅんちゃんのイメージからはあまりにも遠く信じられないが)の文学部を中退していたので知性もあった。恐らくやらなかったネタはないんじゃないかと思う。しゅんちゃんは才能がとてもあったが、ドラッグで自分の人生を台無しにしてしまったのだ。だから、そうはなって欲しくないと私に思ったのかもしれない。しゅんちゃんとは12歳も歳が離れていたが、全く偉そうにするということはなくお互いタメ語だった。(しゅんちゃんはADHDだったのでリタリンをずっと処方されていた。あれは本当に危険な薬で、化学式を見ると明らかなのだが成分は殆ど覚せい剤のようなものだ。それから小5でアメリカに親の都合で行く羽目になって、向こうでろくでもない連中と仲良くなり、ジャンキーになった。小学生なのに、大量のコカインをポケットに入れて持ち帰った。)「だってさあ、小5のガキのポケットに大量のコカインがあると思う?」しゅんちゃんはプレステのジョイスティックの裏にネタを隠していて、麻トリから難を逃れた、そして、LSDを食って、ディズニーランドに行った友人が永遠に帰ってこないといういかにもありそうでなさそうな話が、しゅんちゃんの持ちネタだった。 
 
しゅんちゃんと知り合ったのはコールセンターでバイトしてた時で、その休憩中の喫煙室で「明日さ、JKとデートすんだよね!!! JKとバイクでツーリング、ぶっ飛ぶ!!!!」と、やたらテンションの高い奴がいて、周囲からは煙たがられていたが、面白かったので私は話かけた。その時に貰ったタバコに既に何かがまぶしてあった。やたらと気分が良くなったので、「あれなに?」って聞いたら、「チャーリー、チャリンコ(コカインの隠語)」と言われただけだった。そして、会社が閉鎖することが突然決まり、我々は暴挙に出た。「ああ、奥様、お美しい声ですね、奥様、失礼ですが、声を録音させて頂いて子守歌にしていいですか」と明らかに若い女の人なのに、「ご年配の方には、ちょっとご利用が難しいサービスではあるのですが…」、もうあまりにも酷すぎて忘れてしまった。大抵は唖然として無視されるか、「失礼ね!」とご立腹され、ガチャギリされたが、無限にネタはあった。あまりにもモラルを逸脱した内容で、客をおちょくってからかいすぎてしまい、事務所が閉鎖される前にクビになった(今までは本当に真面目に働いていたのに解雇予告手当金が出ないことにブチ切れたのだ)。そう、こういう感じの人で、最も生活ということを考えたことがないしゅんちゃんに言われたので、私もしゅんちゃんが言うならなと、したがってみる気になった。前日のネタがあまりにもきつくて、私は自分の服に嘔吐し、着替えがそれしかないと言われ「HKB48(墓場48)」と書かれたあまりにもダサい青いTシャツを着てイメフォまで出向いた。
 
私は8mmで魚の作品を撮った。気泡と水と魚。そもそもが2時間も遅刻しているし、講師の人たちが既に苛立っていた。だが、それ以上にこんなところに来てしまったことにイラついていた。講師の一人に「その魚、食べたの?」と意味不明な質問をされ、食べてません、じゃあ、今、食べますといい、ポケットから生魚をとりだして、その場で食べたら、物凄く生臭く、前日、完全に何か薬物をキメていたというせいもあったが、その場でまた吐いてしまった。彼らに言われたことは、「魚」にはオリジナリティがないから、もっと違う被写体を選び、作品を撮るべきだと、魚のオリジナリティっていう意味がさっぱり分からなくて、ベラだってキスだってヒラメだってそれぞれオリジナリティがある。躍動感もある。なんだかまるで意味不明だったので行くのをやめた。やはり行くべきではなかったのかと、そのまま新大久保に戻ってマリオカートをやった。ああ、もう映画撮るとかどうでもいいや、薬でもキメようと、クソくだらねえなと思いながら。そして二度と行くことはなかった。その時の講師に金村氏がいたならば私はやめなかったかもしれない。いや、どのような学校に通おうとも毎回私はやめているから、まあ、いずれにせよ、やめることにはなっただろうが(その後、私は自分の監督作を2本、プロデュース、原作、脚本作を2本完成させることにはなったが、しゅんちゃんは残念ながら九州にいたので来れなかったが、2番目に撮った監督した映画が小さな映画館でかかることになり、しゅんちゃんは花を送ってくれた)。
 

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金村修 『Animals』


オリジナリティというのはそもそも存在しない、剽窃というものはごく普通に行われていたし、映像も映画も勿論のことそうだ、そこから発展させなければならないというのはよくわかる。だからオリジナリティと軽々しくほざく連中は大して作品も観てないし、勉強もしていないので、相手にしていない。ランボーやロートレアモン、ブルトン、バタイユ、ソレルス、バロウズ、キャシー・アッカーなど(わざわざ指摘せずとも物凄い剽窃家はいる、中原昌也氏も話を聞く限りそうだ。私の手法は絶対に明らかにしないが、無論のこと剽窃を肯定的に見ている)が優れた剽窃家だったのはご存じなのだろうか? それに哲学も当然、私は専門分野ではないので詳しくはないが、剽窃なくしては成り立たないというエピクロス派やストア派やら、スコラ学の剽窃の系譜というものがある。失礼、脱線してしまった(詳しくは「剽窃の弁明」という本を参照して頂きたい)。
 
金村氏の作品は思考の純度、イメージに結びついたこの情念、夢の機構とも、アクチュアリテともいえるような、死からの復活から、表現の問題を、あらゆる領域とあらゆる拡がりにおいて提示しているといえる作品だ。だからそれは目覚めたときに忘却によって持ち去られねばならない。実際には存在しなかったひとつの事象、事柄の正確な対置物として紹介されたこのイメージ、外的現実が存在する場所以外に、存在する場所に外的現実を認め、その微睡の中で、何ものかを激しく嫌悪するか愛撫するかの二極化によって、この観念論、今やなにものにも懺悔することがないという今日この頃、金村氏の作品を体感するのは、私にとっては精神(それはあるようでないのだが)のリハビリ行為であるに違いない。ロラン・バルトの回復期?(いや、記憶違いかもしれない、四方を真っ白な壁に囲まれて、ベッドが中央に置かれている)という作品を思い出させるような、いや、ポストモダンはどうでもいいのだ。同時代というならば、思想や哲学に関することを発表し、見どころのあるのはガタリかドゥボールくらいしかいない(作家はデュラスやギュヨタなど結構いるにはいるが)。いくつか最近の文学、エドゥアール・ルヴェ、Ivar Ch'Vavar、Antoine Boute、Charles Pennequin、Valère Novarina、エトセトラ。大学のくだらない研究者どもはせめてこれくらいの作家は掘り起こしてみたらどうかね?  ああ、せめて「テル・ケル」周辺の作家や「大いなる賭け」グループの紹介(ファイユとか)くらいはやってくれよと思うんだが(もっとも凄い昔には荒木亨氏という凄い訳者がいたのだが)。あと、レトリスト(文字主義)のイジドール・イズーとかはいいかと思うんだが。それなら、あんたらの存在も全く無価値であるとはならないだろう。
 
金村氏の作品は、いくつかの点で、デヴィッド・ヴォイナロヴィッチと共通しているところがある。イマージュのカットアップ、継ぎ接ぎだらけの刃を、研ぎ澄ますように、現実に更なる現実に触感していくという行い、なので、彼らは共通して路上で生まれた作家だという感じが私にはするのだ。ヴォイナロヴィッチはマクドナルドのおもちゃのおまけのカメラで写真を始めた。これほどまでに素晴らしい、感覚でとらえるものから、知性でとらえるものから、世界がその不動性を失うであろう時には、生そのものに逆らうようになるものとして、金村氏の作品は機能する。全世界の本質的原理にもう一度問いかけてみようじゃないか。誰しも思い込む以外には、はたして、自分が目覚めているのか、それとも眠っているのか、はっきりとした確信はどうやら持てないようである。私はそういうときにジャームッシュやカラックス、ゴダール、デュラス、デレク・ジャーマン、遠藤麻衣子、フィリップ・グランドリュー、マヤ・デレン、ガイ・マディンの作品を繰り返し観るようにしているが、そこに金村氏の作品も加わることで、新たな治療の一環としてどうやら役に立ちそうだ。私もどうやら壊れているし、これらの作品も壊れているし、世界はもっと壊れている。何もかもが嫌になり、新宿の雑踏で、スマートフォンを片手に、イヤホンをして、金村氏の映像を体感しながら歩いていたら、バーバリーのシャツを着た若者と喧嘩になり、私はこの作品に途轍もなくイライラしていたし、同時に救われてもいた、ああ、もうどうにでもなっちまえと、その晩の記憶はほぼないが、痣だらけになっていた。なんというかコカインのような作用のある作品なんだ、これは異物なんだ、金村氏に干渉してはいけないんだ、そんなことは分かりきっているのに(最近では、遠藤麻衣子監督の作品を観た後もそのようなことになり、もう少しで警察のご厄介になるところだった)。誰かが祈り、その祈りに誰も答えないとして、不正解は不正解ともいえないだろうし、パスカルやアルトーの洗練された至上の思考に酩酊しながら、時間と空間との外在性、不均衡、被創造物としての転移の作業、メスをいれて器官を切除しなければ、ああ、やるせない、ヴァシェやクラヴァン、リゴーの声の響きを感じとりながら今日も私は生きねばならないという運命に翻って、自分を生かしている。ああ、やってらんねえな。誰かが私に金村氏の作品に没入するのは回避せよとアドバイスする。そりゃあそうだろう。この映像は麻薬だ(それもアッパー系の)不可知で支離滅裂な、ガムを何度も噛み、味がなくなってもずっと噛み続けて、顎が壊れて、この無に帰するという行為をきわめて激しく強調したい。現実を再構成するために(アルトー)役立つものをすべて吸収しなければという強迫観念になんせ私は怯えているのだから。ああ、今日もラリってる、金村氏の映像を観て、またラリってる、呂律が回らず、私は酒も呑めないから、こういった行為以外に、自分を忘れるということが出来ない。まあ、分かってるよ。私があまりにも愚かだということがまずひとつと、適当な言葉がないため、個性喪失の意識、これは身体全体について、また意識の固定が最も脆弱と感じられる器官及び組織にも同時に認められる意識? 先ほど、ヴォイナロヴィッチとの類似性を指摘したが、ケネス・アンガー、ウォーホルにも似たような臭いを感じるので、金村氏とはお会いしたことはないのだが、ニューヨークのアンダーグラウンドシーンでこの手の映像はきっと受け入れられるはずだと私は思うのだが(失礼、写真も金村氏は撮られているようだが、そちらはやはりニューヨーク近代美術館で展示をやったらしい)。金村氏が存在している限り、この荒れ狂う波が、収まることはないだろうし、ひとつのある至高のものを導き出すのは、金村氏の写真と言えど、映像と言えど、どうやらその未来は約束されている。
 
しゅんちゃんが行方不明になってから、10年が経つ。最後、ライブのためにニューヨークに旅立ったしゅんちゃんは何だかいつも以上にテンションが高くて、気分が落ち込んでいるほど明るく振る舞うのがしゅんちゃんのいいところだった。物凄く陰鬱なものを抱えているのに、途轍もなく明るい、そんなしゅんちゃんが大好きだった。
 
しゅんちゃん、やっぱりさあ、クソくだらねえよ。何で生きてんだろうな。俺。


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金村修 『Cattle mutilation』



【金村修映像作品上映情報】

「三つの光」 7月10日(土)神楽坂・神楽音(16時30分開場/17時開演)
※Nyantora(元SUPERCARの中村弘二によるソロ・プロジェクト)のライヴ演奏とのコラボレーション上映
 
■10月7日(木)から5週間(予定)
映像インスタレーション展@米ニューヨーク「dieFirma



原智広

1985年生まれ。中卒。作家、翻訳家、脚本家、映画制作。訳著に『戦時の手紙、ジャック・ヴァシェ大全』(河出書房新社)、論文に「光学的革命論」、「仮象実体的社会と電子的スペクタクル性、その全貌への憎悪」 。映画『イリュミナシオン』『デュアル・シティ』(共に長谷川億名監督)の原作、プロデュース、脚本。「ル・ポン・ド・ソワ」などの媒体で映画批評、フランス文学について連載中 。
仏・米・露の翻訳文学から物故作家に纏わる創作、死や光をめぐるエッセイ、写真・ドローイングまで、「死者たち」や「光」をテーマに編んだ全作初公開のアンソロジー「イリュミナシオン」が発売中。

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