妄想映画日記 その123

樋口泰人の2021年6月11日~20日の日記。疲れを引きずる日々のなかで、突如、レコードのプレス工場設立の計画が生まれます。映画『白い暴動』(ルビカ・シャー監督)や『マイ・ボディガード』(トニー・スコット監督)、ケリー・ライカート監督の諸作品についても。
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文=樋口泰人


6月11日(金)
異様に疲れている。目がしょぼしょぼでいろんなものの見極めがつかない。事務所で荷物の受け取りや発送をやらないとまずい、ということもあってとにかく事務所にまでは行った。荷物を受け取り発送をするだけでどうしてこんなにいらいらするのかというくらいいらついてぐったりした。

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6月12日(土)
気分、体調は昨日を引きずったまま。こういう日はすべてをあきらめるしかない。スー・チーのことが気になって(6月10日の続き)、『レジェンド・オブ・フィスト 怒りの鉄拳』を観た。確かにこれが目当ての映画だったのだが、記憶とはまったく違っていた。スー・チーはちょっとした何でもないシーンの表情が良くて、つまり、仮面の下の素顔と仮面の部分の両方をちゃんと見せる、という演出だった。記憶では仮面の部分だけで押し通していてそこにすべてが貼りついていたのだったが。エマ・ストーンはこういう裏表の感覚が希薄で、だからこそ『クルエラ』の表面が2色にくっきり分かれた髪の毛が似合っている、ということなのだろう。その意味で今『クルエラ』がヒットするのはよくわかるのだが、もっと面白くできるはずだとつい思ってしまうのはないものねだりなのだろうか。

 

もやもやの中、渋谷へ。元通りとはいかないまでも、もはやこれを観てだれも緊急事態宣言中とは思わないだろう。こうやって次第に日常が回復してくのか。しかしこんなずるずるとした形で日常が復帰した日には、この間ダメージを受け続けたboidのような会社はたまったものじゃない。呪いを吐き出しつつシネクイントの『ストップ・メイキング・センス』の爆音上映へ。こちらも瞬殺の完売で驚いたのだが、まあ、座席数50パーセントだから。とはいえこうやって爆音で観ると身体が自然に反応する。みんな若くて自由だ。デヴィッド・バーンのコントロールできない要素が各所に見える。ちょっとしたことでそれらが解き放たれどこかに行ってしまいそうな、しかしそのこと自体を誰も意識しておらず、ただひたすら音楽に身を任せている感じ。それが若さということなのか。『アメリカン・ユートピア』との大きな違いを感じた。

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6月13日(日)
不調は続く。整骨院にも行って腰から背中は少しゆるっとなるが、生きていることの不快感は変わらず。まあそれは身体の問題だけじゃないからねえ。対応不能なまま『マイ・ボディガード』を観る。アマプラでは原題の「Man on Fire」でラインナップされているのだが、これは何か権利上の問題があるのだろうか。リンダ・ロンシュタットの「ブルー・バイユー」が繰り返される前半はそれゆえどこか『地球に落ちて来た男』(こちらはロイ・オービソンのヴァージョンだが)の空気感、はるか遠くに自分を待っているはずの家族、あるいは自分の帰るべき場所を夢想する郷愁も漂うが、自分の帰る場所どころか今ここの居場所もないことを思い知った後半は、デンゼル・ワシントンという巨大な機械、システムが何のぶれもなく作動して誰にも止められない時間が流れる。やくざ映画的な殴り込みのロマンチシズムはゼロ。精密に躊躇なく相手を仕留めていく。それゆえ事態が解決しても、それがそれなりのハッピーエンドになってもおかしくない解決の仕方であったにもかかわらず、爽快感はない。ああ、ようやく何かが終わった、このような終わりしか終わりはなかった、という安堵感のようなものは残る。この映画のデンゼル・ワシントンとはいったい何者だったのか? 『地球に落ちて来た男』との2本立てもいいが、『許されざる者』との2本立てもいいような気がする。

 


6月14日(月)
11時に事務所に行ってエクスネ・ケディのCDヴァージョンのパッケージ作業準備をという予定が、90分の遅刻。いよいよ身体が動かない。まあ、お任せできるくらいな準備ができていたので、お任せしたということでもある。今回のアルバムはあくまでも海賊盤風に、というのが狙いでもあるので、基本的に手作り。ジャケットも、プリントアウトした紙を無地の紙ジャケットに1枚1枚貼り付けていく。レコードが到着する前にまずCDでその手作業に慣れておいて、という算段である。レコードに比べるとだいぶ小さいのでスプレーのりの噴霧も少なくて済む。そしてそれがどれくらい周りに影響するか、周囲へののりの飛散、人体への影響などを試しつつ、という。で、やはり噴霧は外でないときつい。今回はベランダでやったのだが、CDでギリギリ。レコードの際はどこか広い場所を借りてやらねばということが現実の問題となった。だが、仕上がりはきれい。今すぐに売りたいくらいだが、どうやらレコードの到着が半端なく遅れる。下手すると9月発売になってしまうかも、ということで、レコードプレスの手配を手伝ってくれているemレコードの江村くんと電話で話していて、いっそのこともうプレス工場を設立したらどうか、という話になった。儲かるかどうかは別にして、もの凄い需要はある。そして、困っている人たちのためにもなる。失われつつある技術の継承にもなる。
ということですぐに湯浅さんに連絡。こういうことの可能性はあるかと。結論としては人材はいる、金はない。どうやってその資金を集めるか。ギリギリ5千万円、余裕をもって1億円あるといい。boidにとっては手も足も出ない金額である。儲かりはしないが大損する話ではなく世のためになる。そんなことのために500万円出資できる人間が最低10人。果たして見つけられるか。いったいどうやったらいいのかまったくわからない。昨年再見した『タッカー』を再度観ると何かヒントが見つかるか、あるいは電気自動車にガソリン車のエンジン音を響かせたいというふたり組があたふたするロン・ハワードの『僕が結婚を決めたワケ』とか。いや、映画のプロデューサーたちこそ日々そんな作業であくせくしているではないかとかあれこれ考える。

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6月15日(火)
整骨院の後、事務所。『ストップ・メイキング・センス』の1週間の上映が全回満席で爆音の回は数分で売り切れという状況のため、今後年末の権利切れまでどうやって上映していくかなど。座席100パーセントを売れていたらと思うばかりで、こういうことが直接会社の運営に影響してしまうことの重みを、税金で給料をもらっている方たちは分かっているのだろうか。
夜はケリー・ライカート『ウェンディ&ルーシー』。冒頭の、木立の中を歩く主人公のハミングと環境音とのふたつの音の重なり合いにハッとさせられる。親密さと遠さ、ふたつの音のレイヤーによってあっさりと映画の世界が作られていく。この音の距離感とカメラがとらえる視覚的な距離感とが連動しつつ違和を作り出し、限りなく親密でありつつ限りなく遠い場所にある何かをぼんやりと映し始めるわけだ。ああ、もうたまらない。ビルの前でまっすぐに立つ老ガードマンももはや飾るものがなくなった中身のないガラス張りの抜け殻店舗も困り果てた彼女のことなど気にもかけず見もしなかったかのように沈黙を決め込む街並みも、すべてが愛おしくしかし届きがたいものとして目の前に提示される。そんな世界の中でわれわれは生きている。オレゴンのどこかの街が、世界中に広がる。

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『ウェンディ&ルーシー』
7月17日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次開催の
特集
「ケリー・ライカートの映画たち 漂流のアメリカ」で上映


 
6月16日(水)
終日自宅作業。フラー自伝のKindle版ルビ振り作業をやるはずだったのに、まったくたどり着かず。ゆっくり構えるしかない。
夜は『リバー・オブ・グラス』。この映画はとにかく最後のほうの、ボーイフレンドを銃で撃って車から落とすシーンである。あのシーン、車に彼が乗っていたのもつじつまが合うような合わないようななのだが、とにかく、銃撃音がしたとたんすでに座席には彼は居ずドアが開いていてそのまま車は走り続ける。単にそれだけのシークエンスなのだが、何度見てもその簡潔さに驚く。昨年の京都みなみ会館のトークの時も言ったのだがあれはゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』でのアラン・ドロンの交通事故に匹敵する映画史上の事故ではないか。とにかく一瞬で世界が変わる。その直後カメラは走る車の後ろに回り、車が向かう世界の姿を車とともに画面に広げる。ああ新たな世界に彼女は向かって行く。その先はどうなるかわからない。金もなく、ボーイフレンドも殺し、希望はまったくないが、ただそうやって目の前の世界に向けてまっすぐ車を走らせるそんな彼女自身が希望となる。世界の中に足を踏み入れるとは、まさにこういうことなのだ。その一瞬の決定的な変化を観れば、これでいいのだと誰もが思うだろう。映画を観てよかったと誰もが思うだろう。現実には見えないボーダーラインを彼女はあっさりときっぱりと越えたのだ。ケリー・ライカートはこうやって数年に1度、希望の種をまいているのだと思う。

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『リバー・オブ・グラス』
「ケリー・ライカートの映画たち 漂流のアメリカ」で上映


 
6月17日(木)
事務所で荷物の受け取りと発送。その後、今後の事業展開についてあれこれ。そして渋谷へ。再び『ストップ・メイキング・センス』爆音上映である。知り合いの顔も見える。前回は音がうまく届かないため売り止めにしている2階席で観て、音は悪くはないがこれだと爆音とは言えないということを確認したので、今回は後半を1階席の最後方に立って確認。これなら万全、身体が動く、というのを確認した。通常の爆音に比べ音圧感はないが、音のバランスがすごくいい。音に圧倒されるのではなく、音とともに身体が浮かび上がる感じ。これなら毎日観たい。終了後、知り合いからもそんな感想を聞いた。でもこれくらいの音がライヴ映画をやるときの映画館のデフォルトになってくれるといい。そうすればみんな、映画館にやってくるのではないか。そうなると私の仕事もなくなるのだが、それでなくなるなら十分役目を果たしたということなので本望である。

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6月18日(金)
ついに眼鏡店に。試行錯誤の結果普段外でかける中距離から遠距離用のものと、室内用、仕事用の近距離眼鏡の2種類を作ることにした。もうとにかく早く何とかしたい。でも基本的には、これらを必要としないくらい普段はぼーっとしてだらだらしているのがいいわけで、釈然としない気持ちもある。吉祥寺南口はもう夏休みのようだった。バカンスな人々でにぎわっていた。そして相変わらずケーニッヒのハムサンドはうまい。本日はレバーのやつを食った。ユニオンでレコードも買いいい気分だったのだが、あちゃー、そりゃそうだ、というがっくりする連絡が入り、帰宅。すべて思い通りに行くわけではない。
夜は観逃がしていた『白い暴動』。クラッシュの映画ではなく、クラッシュもかかわった反レイシズム運動の映画。わたしはリアルタイムの時代に20歳前後だったのだが、当時うまく伝わってこなかったことがこの映画でようやく。40年ぶりに視界が晴れたというか。シャム69とトム・ロビンソンはクラッシュより前にレコードを買った記憶がある。ポリー・スタイリーンのインタビューが若い頃のものしかないなあと思って調べたらもう10年前に亡くなっていた。収録されているXレイ・スペックスの演奏は心も身体も踊った。それらの運動を支えた人々の現在のインタビューが映画のメインだが、それぞれの発言だけでなく、彼らの作った印刷物の数々、それを作った場所、印刷所の存在が心に響いた。まさにDIY。スターリンの遠藤ミチロウさんが自主製作ソノシートを売り始めた時、こんな匂いがした。先日発売になった工藤冬里さんのボックスセットのディスクユニオン購入特典で付けた「パラレル通信」も、当時のそんな雰囲気の中で、もちろんこの映画のRAR(ロック・アゲンスト・レイシズム)ほどの強い意志とは少し離れ、やわな人でもできることをやる、というような立場で作ったものだ。いやもうちょっとお気軽お手軽な気分だったか。いずれにしても心に小さな火をつけてくれる映画だった。

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『白い暴動』
7⽉2⽇(⾦)~7⽉15⽇(⽊)角川シネマ有楽町にて開催の
「Peter Barakanʼs Music Film Festival」で上映


 
6月19日(土)
雨模様のため、一日原稿書き。さっぱりしない。マンチェスターのファクトリーの人ではないほうのトニー・ウィルソンのアルバムを聴いた。76年作。当時まったく気にもかけなかった。こちらも若かったのでどうしても目の前の「白い暴動」のほうに目が行ってしまったのだけど、60年代の闘争と絶望を経てきた黒人音楽はその時すでに別の地平を広げ差し出していたのだと、今更心に染みた。

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夜はケリー・ライカート『オールド・ジョイ』。観るのはもう何度目か。観るたびに観逃がしていた細部が見えてきて小さな喜びが積み重なっていく。「悲しみは使い古された喜びのようなもの」というセリフがウィル・オールダムの口から発せられるのだが、この映画はそんな悲しみと古びた喜びの積み重ねでできている。途中、彼らが道に迷ったことがわかる直前のシークエンス。それまでは車内にあって主人公たちと窓外の風景をとらえたりあるいは並走する車から風景とともに彼らの車がとらえられたりしてきたのだが、いきなりおそらく車のボンネットのあたりにつけられたカメラのとらえた映像になって、鉄橋を渡る。その後再び並走する車からとらえた風景になり、車内のカメラがとらえたショットになりを繰り返し、そして彼らの車が道の途中でUターンしようとする。その途中でショットが変わり彼らの車がおそらくは先ほどの鉄橋らしきものを渡っていて、だがどう考えても先ほどと同じ方向に走っているようにしか見えず、そしてまた、さきほどのUターンした場所と同じに見える場所にきてUターンする。山道なのでどこも同じに見えてしまう方向感覚の欠落が、観ているこちらまで伝わってきていったい自分が何を観ているのかよくわからなくなってもまだ彼らはしばらく走り続け、ようやく車を止め地図を見始めるのである。その間3分ほど。たったそれだけでこちらも自分の身体感覚がまったく通用しない、ただひたすら自分を解放してその世界の感覚に身を任せるしかない未知の惑星に連れ去られてしまう。『リバー・オブ・グラス』のボーイフレンドを車から落とした後の一瞬で変わる世界と同じことが、ここでは少し時間をかけて行われている。その先にある悲しみと古びた喜びを身体に充満させて、ふたりは再び現実世界に帰ってくる。その後のふたりは世界の見え方がまったく変わっているはずだ。それはこの映画を観たわれわれにも言えることだろう。

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『オールド・ジョイ』
「ケリー・ライカートの映画たち 漂流のアメリカ」で上映


 
6月20日(日)
深夜3時過ぎに寝たのだが、5時過ぎには猫さまの「朝ごはんくれろ」の豪快な鳴き声で目覚めさせられる。というわけで二度寝。1日が台無しと言うかまったくぼんやりしたものになってしまう。整骨院に行っても身体は目覚めず。昼飯を久々のイサーン料理にしてシャープな辛さに身をゆだねるがそれでも目覚めず、逆に腹を壊す。まあ、そんなものだ。あきらめて『ミークス・カットオフ』。前に観たときには気づかなかったのだが、冒頭近くのオーバーラップに驚く。『リバー・オブ・グラス』にも『オールド・ジョイ』にもあったわれわれを一瞬で異界へと連れ去るカットのつなぎが、ここではオーバーラップとして処理されていたのだ。主人公たちが川を渡り旅の準備をして川縁を離れていく。そしてしばらく誰もいなくなった川べりの風景が黄金色の光の中に映され続けるのだが、その空の彼方にいきなり馬が現れるのである。旅する主人公たちの次のシーンの荒野の行進がオーバーラップされているのだということは次第にわかってくるのだが、いきなり空に馬の姿が見えてきたときは本当に唖然とした。ここから先は異界。という宣言のような一瞬だった。だからそれ以降の物語は、1800年代後半の西部の物語であるのだが、21世紀に作られた西部劇としての1800年代後半ではなく、永遠の時間を旅する吸血鬼たちがたまたま1800年代後半に観た光景を21世紀の今語ることによってその1800年代後半の物語がまさに現代の風景として現代を生きる人々の姿のようなものとして見えてくる、そんな物語なのだとでも言いたくなる。『地球に落ちて来た男』のデヴィッド・ボウイが車中から観た風景の向こう側に開拓時代の風景を見てしまった、その風景が映されていると言ったらいいか。『マイ・ボディガード』とは別の形で、ここにも「ブルー・バイユー」が流れているとも言えるが、これは振り返ることをしない人々の物語である。郷愁はない。古びた喜びとともに彼らは歩を進める。

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『ミークス・カットオフ』
「ケリー・ライカートの映画たち 漂流のアメリカ」で上映



樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。『恐怖の映画史』Kindle版が7月20日より発売中。Exne Kedy And The Poltergeists『Strolling Planet ’74』LP &CDの先行予約受付中(先行予約特典あり、8月10日まで)。8月27日(金)~29日(日)に「YCAM爆音映画祭2021」を開催。