映画音楽急性増悪 第23回

今回の虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」はドキュメンタリー映画『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』(2020年/ホセ・ゴメス)を中心に、ゲーム、依存、治療、脳死中毒、ゲーム動画をめぐるさまざまな困惑とその誤解を解くかもしれないいくつかの試みについて。

第二十三回  DMZ




文=虹釜太郎

 
 ゲーマーにとって『田舎司祭の日記』(1951年/ロベール・ブレッソン)はとても近しい存在で、『殺しの烙印』(1967年/鈴木清順)はもっとも遠い存在だろうか…
 映画とゲームの関係について『ウィザードリィI』『The Last of Us』『DEATH STRANDING』『Ghost of Tsushima』『コブラ会』『死霊魂』についてまとめて短時間に議論しあうことは現在とても有意義なことに思えるが、それはさまざまな理由で実現しなそうだ。などと言っていたら『田舎司祭の日記』がついに日本で劇場初公開されるとのこと。初公開? 70年もかかったのか…
 
 ある環境にいるから死なないで住んでいるということが世界にはたくさんある。しかしそのぎりぎりの環境は常に差別されている場合が多い。その差別を強化しているものを毎日数えあげているときりがない。差別を醸成する相互監視。そんな相互監視とは無縁と自認するあらゆる文化の深い理解者たちがたやすくひどく強く即座にゲームを差別する。ゲームを差別し、ゲームをする人を差別し、ゲームを作る人を差別し、それに触れる人を差別する。彼らの言葉はいつも「ゲームなんてさ…」からはじまる。「ゲームなんてさ作った人のそれをなぞっ…」…
ホセ・ゴメス監督による『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』(2020年)の冒頭で「eスポーツとゲームは違う」というきわめて重要な発言がある。
 eスポーツとスマホソシャゲと「ゲーム」はもちろん違うのに、他のことには繊細で優しくことごとく見識深くともことゲームにいたっては、すべて一緒くたにして否定する人間が非常に多い。出会いがしらにいきなりゲームをする人間への不満を吐きだすだけでなく、いかにゲームがくだらないかと滔々と持論を展開する人や、課金目的で迷走するソシャゲと丁寧につくられまた課金では決してゲームを有利に進めることが不可能なポリシーの良心的なコンシューマ機でのゲームを一緒くたにして、ゲームなんてプログラマー、開発者の考えた範囲でしか動けないくだらないものだと持論を展開する人も無数にいる。たしかにあまりにずさんに早急に作られ、適当なコラボと金出せ金出せのガチャだけのソシャゲはそうかもしれないが、ゲーム開発者の想定の範囲内をどう超えるか外れるかまたその環境で新たな遊びをどう見つけるかで育ってきた部分もかなり大きいその歴史自体をすべてカス扱いする人間の多さには辟易してきたし、なかにはゲームの話をしている他人の会話を無理やりやめさせる人間もいる。また他人のゲームについての会話をやめさせるだけでなく、いかにゲームがくだらないかを延々と説教してくる人もいる。そういう人たちには『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』で「eスポーツとゲームは違う」をまず認識してもらいたいが彼らはこの映画を観るだろうか。
 
 本サイトを閲覧している人間は映画や音楽には親しんできたが「ゲーム」になど微塵も関心がない、もしくは侮蔑しきっている、またはゲームなど世に全く存在しないということで生きている方もいるかもしれない。そういう方はここで即座に閲覧中止していただければ。 
 
 閲覧中止いただけましたでしょうか。まだの方は改めて中止していただければ。
 
 『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』ではゲームといっても、eスポーツ、ゲームコスプレについても取り上げられている。コスプレについてはタイの軍人コスプレについてのドキュメンタリー映画があったが、もちろんコスプレは彼らにとっては切実過ぎる問題で、上記のゲーム自体を全否定するような輩はコスプレについては深い理解を示したりもするが、そんな輩は実際のところコスプレする人間の切実さも理解できているわけがない。ゲーム自体を全否定するような輩がわたしはいかにさまざまな事象について偏見がないかを述べるのをさんざん聞いてきた。
 
 もちろんソシャゲによる経済破綻や離婚、生活崩壊などの問題は多数実在する。本作でもジャーナリストのジョー・タイディがペイ・トゥー・ウィンについてそのサプライズ・メカニクスについて危機感を表明している。しかしソシャゲやeスポーツだけがゲームではもちろんない。
 
 ペイ・トゥー・ウィンは勝つための課金。サプライズ・メカニクスは中身がわからないものの販売。このサプライズ・メカニクス廃人は日本にも多数いる。そのせいでの家庭崩壊や離婚協議も。
 
 本作ではひきこもり、ニートだけでなくゲーム中毒による家庭崩壊についても執拗に描いている。そこで問題になるのはゲーム=絶対悪なだけでなくはなからゲームなどいかにくだらないかの一点張りのゲームとは無縁の者たちのゲームについての偏見だ。
 実際のところゲーム中毒者にとってさえ自分がはまっているゲーム以外のゲームについては偏見にまみれていたりもする。
 ここに中間地点はなく、やはり家族は早い段階で解散されるべきなこと等については、ゲームの存在がそれを加速させていく状況があるかもしれない。理解しあうより早い段階で孤立しあうことがいかによいかについて。
 
 ゲーム機を破壊されて絶叫する動画ばかりがよく閲覧されているが、いかに家族の解散は加速してきたかの動画はなかなか配信されない。
 映画の中でマドリードのマリア・ザバラは「子供の遊び方が変わり、家族の在り方が変わった」と語る。その通りだがしかし遊び方が変わったのは子供だけではない。
 
 社会学者アレン・ロバートソンは「子供の責任でもないし親の責任でもない。子供が置かれた環境を見直すことが大事」と語る。これまたその通りなのだが、子供の周りの大人たちにいかにゲーム環境について理解させるかがいかに難しいか。またその大人の周りの大人たちについても。
 
 子供を現在育てている最中の親で子供にはゲーム機は絶対に与えないという人は多いだろうが、そういう親は「ゲーム」の何をどのくらい理解しているか。わたしはゲームがいかにいろんな作用を持つかについて毎日毎日無知を実感しまくっている。
 
 なかには電池を使う玩具は子供には一切与えないという親もいる。子供が手回し式で発電するならOKという親がいるかどうかは知らない。子供に与えられない玩具の判断基準についてそれがはたして正しいのかはどの親も改めて詳細に考えを整理してもらいたいものだ。と同時にゲーム機でプレイできるゲームたちについての理解も最低限は…ってその最低限の定義は難しい…その難しさはそのまま『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』という映画の難しさである。
 
 暴力的なゲームはダメと言う場合に暴力のニュースの扱いについては。ゲームと現実の区別がつかない親。子供をいくらコントロールしようと他の子供との会話まで全て把握することはできない。ゲームを禁止するならあらゆる一人遊びの仕方を代わりに教えているのだろうか。
 
 平和を維持する手段としてのゲームについても紹介される。エリック・ガーナー事件後に、低価格で平和を維持する手段として採用されるゲーム大会。その大会には警察官も参加。その大会で採用されたゲームはコール・オブ・デューティ。
 
 映画は暴力的なゲームが人々を暴力に向かわせるという無知についても触れている。トランプ元大統領は暴力的なゲームを禁止しろと言ったが、元々暴力的な人間はニュース映像でも映画でも暴力的になるということ。問題なのはその次で、どのゲームのどんなところが暴力的なのかを子細に描かないとそんなずさんな一般論などなんの意味が。人を撃つゲームだから暴力的なのか、数か、身体欠損描写がリアルだと暴力的なのか。狙撃はどうなのか。くだらないと思うだろう。しかし詳しく見ていくならゲームが人々を暴力に向かわせるという一般論の意味の無さがさらに際立ってしまう。暴力的ゲームとされるゲームにおいてのトリガーハッピーやトリガーハッピーでない脳死感…それらのゲーマーへのインタビューがあきらかに欠けているし、本作に頻繁に登場する社会学者、心理学者、実験心理学者がゲームの実際にどのくらい触れてきて、どう具体的にコメントするかが圧倒的に欠けている。
 これならば既に長い歴史のある「ゲームさんぽ」シリーズの方がよほど「中間地点」召喚に貢献しているかもしれない。このシリーズでは元警察官、建築家、歴史学者他が多数登場し、ゲームについての一般論ではなくあくまでゲームの具体的画面についてコメントすることが求められる。『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』にはそれがない。あまりにゲーム一般論の表層とプロゲーマー寄りの視点。それだけでは中間地点を見出すことは困難。しかし中間地点をという提起自体はすばらしい。
 
 「中毒」の一点のみで「ゲーム」すべてを世界から排除したいみたいに響く発言を無意識にする人間は多い。
 
 ゲームを否定、嫌悪、軽蔑、憎悪する人のなかにはトリガーハッピーなるものが、ゲームにおける脳死感覚なるものがいかに非常にくだらなく唾棄すべきものなのかと考えている人も多い。
 トリガーハッピーでは範囲が狭いので、ここではゲームにおける脳死感覚について、ゲームに縁がない人にとっては(やっている人にとってもなのだが)あまりに一緒くたにされているゲームにおける脳死感覚について、あるゲームを例にしてみていきたい。偏見をいったん半強制的になくすためにそのゲームのことは仮にここではPと呼んでおく。
 
 以下のはPについての架空のつぶやきである。ゲームにおけるトリガーハッピーや脳死感がいかに人間にとって有害かと言われていることらについて考える場合のとあるいち叩き台でしかないが。きつければ「」内は全てとばしてもらって。
 
 「GWも終わっていよいよ各武器ごとの脳死周回装備もみなさん揃え終わっているみたいです。脳死周回ビルドが確立していなさそうな武器種がどうなるか。同じ脳死周回といってもわたしのような下手な人と中級者、上級者ではまったく違ってくるのだろうと思います。そこがこのゲームのおもしろいところですよね。このゲーム動画のアドバイスたちが全くわたしには役に立たないのもわたしがあまりに下手だから。だからこそ飽きないのか…ひとくちで脳死周回装備といってもいろいろ混乱してしまうので、おおまかに少なくとも三種類はあるのかなと。
  ◯汎用脳死周回用
  ◯属性攻撃特化脳死周回用
  ◯特定の敵専用脳死周回用
 汎用脳死周回用は会心武器や麻痺武器が選ばれることが多いような。属性攻撃特化脳死周回用は、氷属性攻撃強化なら"猿天狗恐妻家"などと覚えながら装備登録している人が多いかも。でも以前より装備登録マイセット数が増えたとはいえ、全武器で全属性別にマイセットを火力盛り盛り用と安定討伐用と作ると現在のマイセット数では到底足らない。なので普段あまり使わない武器は全属性別は作れないのが悩みどころ。面白いのは特定の敵専用脳死周回用マイセットで、これでしばらく特定の敵をいろんな武器で試して自分の相性を探るのが中級者以上には楽しいかも。
 ただ今回話したいのはそんな脳死周回装備についてでなく、人によってあまりに違う脳死感の違い。近接での脳死感の違い。近接でない三種での脳死感の違い。非近接1ではシールドか回避かで脳死感の違いもかなり個人差ありそう。非近接2では空中跳躍にするか旋回かで脳死感も分かれたり。
 非近接1での脳死は拡散か竜撃か貫通か…非近接2での脳死はZの斬裂かOの放散か百カスタムの放散運用か…個人的には本作の斬裂は残念だけれど脳死からはほど遠く。本作の斬裂を使うたびにナーフ前のWの斬裂を思い出します。本作はあまりに多くの箇所が快適になりましたが、少なくとも本作の斬裂は数字とは全く別のところであまりにも爽快感からはかけ離れていました。これは開発会社内でも音響の爽快感についてはまだ模索中ということなのだと思います。それはDPSの話ではなく、あの音です。ペチペチペチペチな感触では脳死からはほど遠く。本作は散弾の音も残念。脳死放散速射と脳死散弾速射の比較。本作のQ防具で可能になる"Q殻の恩恵"LV3で発動するゾンビ回復装備はいわゆる"脳死"とは違うかもですが、このQ殻の恩恵LV3とN魚と爆弾O二体で戦うと、下手なプレイヤーにしか感じられないかもしれないじわじわゾンビ回復脳死感が得られます。Q殻の恩恵LV3と速射LV3と貫通弾強化LV3はV胴とD頭などを使うことで可能になるので、じわじわと速射貫通マックスの脳死が両立。Q殻の恩恵LV3は弱者生存の最終形態なのか。今後のアプデで弱者生存と脳死がどう共存できるかが楽しみ。下手なわたしにはじわじわ脳死と回避マックス脳死を両立させたいですが、現時点ではまだ難しく。まだまだいろんな脳死装備を考える必要がありそうです。出るMによって中級者以上とは全く違う脳死装備の更新ができるはず。下手なプレイヤーには上級プレイヤーとは違う脳死周回感があります。それはいわゆるトリガーハッピーな快感とは無縁の弱者生存、弱者快適生存なオルタナティヴを探るおもしろさです」
  「Pには複数の武器種がある。以下はそれぞれの武器種について、わたしがかつて所属していたサークル内での体験やいままでの野良での経験を元にした、酒呑み話によるその武器選択者の傾向一覧。サークル内では特定の武器種を使うものをリスペクトしたり、交換したギルカを見ながら武器使用回数をからかいあうような習慣もありました。使っている武器のある傾向のスキルの組み方から予想される仮想の性格を笑われることもよくあり。それらの記憶がリアルの飲み会より楽しくないなんてことはないがゲーム否定者にはそれは理解できるはずもない。具体的な武器名は記さないので、どの武器かはなんとなく想像してほしいのですが、ここで触れたいのは、一部のコンシューマ機の良心的なゲームは、課金によりゲームを有利に進めることが絶対にできないため、そこでの試行錯誤が大切になり、それがゲーム自体の寿命を長くするだけでなく、ユーザー自体が金の力ではどうにもならない世界で、いかに工夫していくかの試行錯誤において自然と他人とその試行について話しあう機会が増えていくという機会。それはひとえに、<課金でゲームを有利にすすめることは絶対にできない>かどうかがもっともわかりやすい基準。ゲームに全く関心ない方も、ゲーム全般(!)がいかにくだらないかを声高だった者もこの点だけは留意してもらえたら。課金自体が問題なのでなく、ゲームを有利にすすめる課金こそが問題なので、これこそがゲーム自体をゲーム開発会社自体が終わりにしている元凶でもあり。しかしその麻薬自体を当のゲーム会社自体がやめられないでいる。バブルやでっちあげられた証券についてのドキュメンタリー映画は多数あるが、『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』はゲーム開発会社自体が陥っていて抜けられない深刻な中毒についてもっとフォーカスすべきだったのでは。
 以下、与えられた役割を過剰に請け負うことを裏切るポテンシャルをそれぞれに保持する武器種別虚構人格一覧。
 A…敵の移動先についての高い察知能力と忍耐強さ。茶化し屋を滅殺する意気込み。神経質で駆け引きに熟達。目立ちたがり屋でなく潔癖。言いたいことははっきり言う。真実を重んじる。黙ってやれを強要。どんな敵も華をもたせることができる。
 B…利他的な人しか使わないイメージが本作から大きく変わったかも。本作以降は発明家気質、フリーライダー、自堕落勢、ニュータイプゆうたまで。利他的な潜在的目立ちたがり屋、または優秀な観察者だけではなくなった。隠れたコントロール厨への誘惑。時に勝手に人の傾向を決めつけがち。ラッキーの実践と隠されたコントロールフリークと乱反射する対人恐怖。
 C…真面目でまっすぐ、天然でかわいげがあって、人の言うことをしっかり聞いてそうで聞いてない。隠されている高い理想。実績積み上げ能力。人のミスを許せる度量。寛容さ。視野の広さ。
 D…サービス過剰の対人恐怖。乗りツッコミ気質。社交にうつつを抜かすとの批判を無視して乱舞しては諦める。人を楽しませることへの強迫観念。ちらちらする飽きやすさと気難しさ。失敗する手品と果敢なマジックと失敗しても絶対許されるはずとの計算。
 E…ついてこい!なのについてこられても知らんがな。
 F…乱雑、おおざっぱ、ちゃらんぽらん、変身願望ないのに変身してた。いろいろ先延ばしにする癖。時おり自暴自棄。実験台は厭わない気分屋。凛で不器用。
 G…根っからのベーシックインカム気質? と博愛気質とソシオパス気質とただのがさつ者の4タイプに分かれる。プレコグ。同族意識が低く孤独を好む。強化人間の破綻の典型例。面倒は嫌いで自分で全部やって失敗したりする。
 H…いろんなタイプがいて複雑過ぎて診断困難。テクニシャンから幼稚な人まで。ナルシストからサイコパスまで。ソシオパスからアサシンまで。
 I…予定通りにいかないと死ぬみたいに思われることを執拗に嫌悪。一人静かに結果を出したい。隠れた完璧主義に見えて丸見え、運命論者、ギルド好き。闇落ち属性。救済の胚胎。高いアーカイヴ能力。同族意識強いタイプとそれと真逆な孤高孤立タイプと孤立邁進鍛錬タイプに分かれる。
 J…怒りをためすぎてブチ切れ、集中力、逃げちゃダメだ。自分を犠牲にする癖があると思われてることに疲れる。
 K…理想が高い努力家というイメージにうんざり。ストレス耐性偉大、隠れた皮肉屋、隠された乗りつっこみ。権威をふりかざす仲間は無視。
 L…華、艦長、みんなの憧れ。人の意見は素直に受け入れる…わけではない変身厨。
 M…マイペース工作家。ストレスをためやすい環世界いそしみ。
 N…華麗な逆キレ、姐御肌、兄貴分。ごちゃごちゃ言わずに立ち去る。と思ったら急に帰ってくる。と思ったらすぐにいじける。と思ったら突然誰もやらないことをやってのける。ゲーム自体への自虐とメタの常態化」
 
 ゲームの依存へのよくある分析として、スキル熟達、高得点競争、擬似的人間関係をあげる者は多いが、さまざまなスキル熟達やTAへの努力をすべてゲームのネガティヴな側面ととらえるには無理がある。よく作られたゲーム、それは開発会社が作ったのでなく壮大な"βテスト"が可能にしているのだが、そこへの"無償"の"貢献"と中毒についてゲーム依存をなくす派との中間地点について。ゲーム依存なくす派、ゲーム依存から子供を救う派がまずなすべきなのは、"依存"している子からのどういうゲームなのかのヒアリングである。それもただきくだけでなく。 
 またゲーム依存者は話をきくスキルが著しく低いとよくされているが、ゲーム依存を問題にする者もまたゲームについて話をきくスキルが著しく低い。
 
 ゲーム依存を問題にする者の話をきくスキルの低さの具体例。
 問題にしているゲームのごく一部しか理解できない、または全く理解できていない。
 そのゲームにおける繊細な言外のメッセージのモーションを理解できない。
 ゲームにおける曖昧な表現や動きを理解できない。
 そのゲームに対する勘違いが多い。
 
 『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』はゲームに対するさまざまな困惑について多くの議論を誘発する映画だった。ゲームをとりまくいろんな誤解や困惑、錯覚、不信感を描くドキュメンタリーとして、今後複数の『TA』が複数の場で製作されたらよいのではと強く思っている。TAはもちろんタイムアタックのことで、ドキュメンタリー『TA』には、通常TA勢とエンジョイ勢(彼らの間にもさまざまな誤解があり、またその誤解を解こうとする者やそれを餌とする陽気な者たちも)と言われる場合の上級プレイヤーTA勢だけでなくRTA勢や弱者生存勢を含めて(RTAはリアルタイムアタック)。ここでなぜ弱者生存を広義のTAに含めるのかと言えば、狭義のTAでなく広義のTAは、ゲーム不信者や否定者、嫌悪者とゲーマー、またはゲーム依存者と勝手にくくられた者や真にゲーム依存で苦しんでいる当事者やライトユーザーまでの間の暫定の中間地点として有効かもしれないから。
 ゲーム依存者は感情をコントロールできないとかゲーム依存者は生活習慣がだらしなくなるとかは、上級TA勢には当てはまらないことが非常に多いだろうし、弱者生存勢を含む非上級プレイヤーかつ依存者を広義のTAはより感情のコントロールしやすい存在に変えることもできる。狭義のTAだけでなく広義のTAにおいてもそこには楽しさとある種の苦痛が同時に存在するだろうが、いずれにしてもTAは感情に容易に左右されることを遠ざける。例えばGTAオンラインなどでよく生じているトラブルは感情の問題がかなり多いだろうが、もちろん広義のTAさえなじまないさまざまゲーム環境も多数ある。しかし広義のTAについて考える叩き台がいくつもできていけば、不毛なゲーム否定議論に予測外の中間地点をささやかに設置することができるかもしれない。ゲームにおける弱者生存について徹底的に考察してきたイカレタコ助のような存在もいる。複数のドキュメンタリー『TA』が製作されなくても、より気軽に議論できる環境はゲームに対する困惑や偏見のいくつかを確実に拭い去るだろう。もちろん人間としてはクズのTA勢も世界には多数存在しているだろうが、クズゲーマーのドキュメンタリーは新たに製作はしなくともそれらはいまこの瞬間も世界中で実況され暴露され続けている。
 
 例えば上記のPを問題にするなら、「」内のごく一部でも、対話における中間地点を見つける努力をすべきである。が問題にする者の多くは、一方的に問題にするのに、その対話スキルに問題があることを自覚しない場合が多い。ここで起きているのは『田舎司祭の日記』そのもの。
 
 依存を問題にするのなら、その問題にする側にも実は依存の問題は在る、潜在する、ということでなんらかの中間地点を設定しなければいけないのでは。
 
 「別の依存先の設定」映画祭において、『田舎司祭の日記』と『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』と『インサイド・ディープ・スロート』(2004年/フェントン・ベイリー)と『ぶどう月』(1918年/ルイ・フィヤード)は同時上映される(ことはないだろう)。
 
 『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』の第1章「NOT A GAME」では、"ゲーム"はコンピューター誕生直後のアレグザンダー・ダグラス教授によるマルバツゲームや1958年のヒギンボーサムの「テニス・フォー・ツー』にまで遡る。「ポン」の先駆であるゲームから現在まで"ゲーム"はあまりに多くの喜びと問題を生んできたが、その全貌についての無知と偏見は現在まだ世界中であまりにひどい。本作のような映画だけではその偏見が拭われることなど到底ないが、ゲーム自体について考察する動画は世界に無数に毎日放たれている。配信者たちの意識もこの一年でまた大きく変わってきた。それはcovid-19によりかつてこの世界に参入することがなかっただろう層による動画群の刺激もある。
 
 ゲーム配信者内で結果的にベーシックインカムのようなかたちもいままでにとってきた「DIOとイギー」のような配信ユニットもある。彼らはコンビ内格差解消他について話している「グループYouTuberの苦悩と解散はどのようにして起こるのか?」という動画も出している。この配信チームは、歴戦の弓使いのDIOによる弓攻略やヒクティンことイギーによる非上級プレイヤー救済攻略法や独自の炎上考察シリーズ(日々炎上はねえがあ炎上はねえがあと炎上を餌とするナマハゲ緑スーツ扮装)やゲーム配信界では珍しいデュオゆえに可能になったラジオ番組(ゲーム以外について積極的に話す)サブチャンネルもあるが、おかんことDIOの母親によるゲーム動画も配信しており、それはDIOの母親がゲーム自体を老齢でいかに新発見していくかのドキュメンタリーにもなっていた…とこれを書いていた2021年6月9日の夜に「DIOとイギー」チャンネルから「【コンビ解散】今までありがとうございました」というタイトルで、サムネには「解散の危機」とある動画がイギーからあげられた。このゲーム配信界でも稀有な配信デュオが今後解散するのか別の方法をとるかは6月9日現在ではわからない(URLは貼らないが関心のある方はYouTubeで「DIOとイギー」チャンネルの該当動画を検索してみてほしい)。 ゲーム全体を一絡げに全否定し差別し続けているサブカル中年の輩どもよりはるかに老齢な人間たちがゲームを新発見している現実が現在ある 。
 ゲーム全体を一絡げに全否定し差別し続けているサブカル中年の輩どもよりはるかに老齢な人間たちがゲームを新発見している現実が現在ある。
 ゲーム動画についてはゲームに全く関心ない人にとってはあまりに大雑把すぎる侮蔑の対象でしかない。しかしそこでは一部ではあるが、映画批評家動画ではありえない考察が日々生まれている。そのありえなさにはさまざまなものが含まれている。たしかにそこにはあらゆる侮蔑や罵詈雑言や自己顕示や愛着やヒメプ姫愚痴や戯言も多数あり過ぎるが、映画語りにはない総力戦が日々絶望的に展開されている。それらの考察動画を見るたびに映画語りもまた毎日このような幅の広さとカオスがあったらいかによかったかを痛感する(と同時にゲーム動画群のすさまじい行き詰まりにも呆然とする。そんな中、ゲーム動画が抱える構造的問題について警鐘を常に鳴らし続ける配信者も数少ないが存在する)。
 
 『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』では、ゲーム自体のジャンルゆえの問題? の分析などには乏しく(LOL=league of legendのプレイヤーがFIFA e WORLDCUPに興じるプレイヤーたちを理解できないと愚痴るエピソードはとてもよかったが)、それこそゲーム全体を一緒くたにしている瑕疵は最後まで漂う。羊を数えるアナログの古典カードゲームのデジタル化もゲームならAPEXもゲーム。鳥の生態を学ぶSwitch用環境学習ソフトもゲームならソシャゲうまむすめもゲーム。どのゲームに、ゲーム否定者は理解を示さないのか。そもそも「どのゲーム」かをゲーム否定者がそもそも知らなかったり。否定したいゲームから中間地点のゲームはどうなのかなどの仮の話し合いへ向かうこと等自体が無知ゆえに全く成立しない事態。
 本作ではその無知を解決する限定中間地点としてゲーミングバスも紹介された。
 
 ゲームを通しての和解では、あるプロゲーマーの両親、アフリカ沖のエルイエロのワイン畑にいる彼らとゲーマーである子供との和解が前半のハイライトのようにもなっている。しかし大多数のゲーマーはゲーミングバスにも乗らず、またプロゲーマーを目指しているわけでも全くない。プロゲーマーの親が子供が経済的にうまくやれているから和解したなど、実際には和解でもゲームへの理解でもないだろう。子供が経済的に食えなければ「和解」などしないに決まっているから。もちろん例外もあるだろうが、そうでない例を本作は見せることができなかった。eスポーツに全く関心のないゲーマーは多数いるし、正直プロゲーマーの親が子供を認めたなどの美談の繰り返しをいつまで続けるのか。仮にeスポーツが廃れてもゲームは廃れない。そもそも中間地点など限りなくない。中間地点でなく、非戦闘地域である孤立地帯をいかに作るかしかない。非戦闘地域である孤立地帯を作るとは、開発者がたしかに作ったはずのゲームを彼らの想定外にやり直すことも含む。それはeスポーツでは考えにくい。ゲームにおいて非戦闘地域である孤立地帯を作るベテランは日本においては配信者の"笑顔の時間"がいる。この人が数々のゲームで勝手に日々実践してきたこと(都々逸非AIとの対話、星の娘エーブリエタースがどうして魅力的なのか三つの観点他無数)はゲーム界全体の貴重な財産であるだけでなく、その動画たちはゲーム否定者だけでなくゲームを辞めた者も今後半永久に楽しむことができる。そもそもこの中間地点ならぬ孤立地帯いや形容不能の笑顔のゾーンはゲームの意味自体が喪失する場所でもある。ゲームの意味自体が喪失する場所をゲーマーが率先して求めているという事態をゲームを即座に粉微塵に否定しきって、目の前の他人のゲームに関する会話さえも強引に切断させ、軽蔑しきってきた者たちはどうとらえ直せるか。
 
 笑顔の時間が遂行したツケヒバキを群れに戻し続ける行為はゲームなのか。それはゲームである。そしてそのような行為は本作のような映画では描かれてはいない。しかしゲームの意味自体が喪失する場所は、ゲームを即座に否定しきる人とは別に、ゲームに関心のない人たちの偏見をいまこの瞬間も剥がし続けている。この特異なエフェクトと場こそを高難度ながらも描く作品が今後現れることを信じている。
 
 差別とは無縁と自認している人間どもがいかにたやすくひどい差別者に転じるかについて。ゲームは実にわかりやすい例だ。
 またゲームを論じる人の中にはネットをあまりに過大視しているように思えることも多い。ゲームでのネットでのつながりは人間関係としての価値は限りなくゼロだという考えに賛同する者は多いだろうが、人間関係としての価値はゼロに近いからこそネットでゲームをしたいという人間も多い。たとえばとあるゲームの新たなコンテンツであるタワーディフェンスライクなそれは開発の意図はどうあれ、いままでの通常クエストマルチではホット過ぎた関係が限りなく疎であり、だからこそそれがいいという人間がいる。この場は揺らいでいて、開発者もプレイヤーも試行錯誤の段階。もちろん常に新コンテンツにネガティブな人間は一定数いる。タワーディフェンスタイプのコンテンツだからというわけではなく、それは新要素により人間関係としての価値はゼロに近いまま世界とつながれる新たな習慣ととらえることは容易である。新たなコンテンツをそのホットの無縁さゆえに過ごしやすいと感じている人間は確実にいる。暴言、セクハラ、差別の温床でもあるマルチの問題とは別に、ゲームにおけるマルチの中間地点の模索はこれからも続けられる(と同時に猛速で飽きられもする)。新たなコンテンツによる中間地点の設定について、その類似の模索はかつていかにあったかについてさまざまに論じあう人が今後さらに増えていくといいのだが。
 
 人間関係としての価値はゼロに近いことを積極的に求めている人に対しては、あなたのやっていることは人間関係としてはゼロだと言っても仕方なく、これは『her/世界でひとつの彼女』(2013年/スパイク・ジョーンズ)のような映画の映画内ゲームでも想定はされていないけれど、だからといって映画製作者や治療者を否定しても仕方がない。人間関係としての価値はゼロに近いことを積極的に求めている事態についてもう少しでいいから別の言葉が必要なだけだ。少しでいいから。
 
 動画配信者"笑顔の時間"がツケヒバキを群れに戻すような日常、そんな日常を描く作品がいったいどれだけ製作されてきたかはわからない。「ひゃっくり」や「さくり」や「ヒカップ」の映画がそれに近い存在かどうかもわからない。
  『たかが、されどのゲーム論: 対立と支配の中間地点』はゲームをやっていたからこそゲームをやめて新しいことに向かうことができたかの視点についても少しだが触れていた。この視点を拾えたことの意味は大きい。しかし"笑顔の時間"はその先に向かって日々歩んできた。
 オランダの"イエス・ウィ・キャン・ユース・クリニック"で治療を受けている者、またはそれを施している者、依存症治療に関わった者たちは"笑顔の時間"に触れているだろうか。このクリニックの人たちは、ノーフォークで短い生涯の最後を仲間たちと共にエリート・デンジャラスというゲームで過ごせたマイケルのことをどうとらえられるのか。
ノーフォークのマイケルの人生の最後には『ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん』(2017年/映画版でなくドラマ版の番外編の「光のお父さんは、あるちゃんのえたばんに奔走した」の方)とはまた違うあることが現実に起きていた。マイケルの最期のためにオーディオブックでみなの音をまとめたサウンドエンジニアの気持ちを映画は記録している。世に無数にいるゲーム否定者たちは、マイケルの最後の選択をどうとらえられるか。彼らは今後もゲームなど開発者の作った箱庭の中にいるだけだに類する戯言をただ繰り返すだけか。
 依存症の治療院では問題なのは孤立してしまった人間、孤立して常にオンライン状態な人間ということが問題視されるが、ここには根本的な疑問がある。Aと同じ場所で暮らすBはそもそもAと離れていれば治療は必要なかったのではないか。そもそも治療を終えたBはまたなぜAと暮らさなくてはならないのか、またゲーム機をすべて捨てなければならないのか。ゲームの廃棄を命ずる者は自らの依存について、または別の依存先の模索についてどれだけの話し合いをしたか。
孤立とか軽々しく口にするとはどういうつもりか。孤立って何。与えられた役割を過剰に請け負うある映画の中の人物たちに観る者が感じる形容しがたい気持ちは"笑顔の時間"が常にゲームのなかでその過剰に出し殻にされた世界で吐露し続ける独白と強く共振する。治療院とゲームを否定する者が仮構したからくり。ゲームはクリニック自体を否定できない、患者たちがクリニック自体を否定できない、そんなできないへの反逆に静かに加担するような営みとは。
 ゲーマーがゲーム自体の無意味さを積極的に日常的に謳歌? してきたこと、反逆という言葉には相応しくないそれらの日常。
 治療院とゲームを否定する者が仮構するつもりがなくてもこれからも加担し続けるからくり。これらのからくりの過程でこれらのからくりに関わるいかなる人間であれ"笑顔の時間"のような無駄過ぎる試行たちに触れていたなら彼らはそこで何を想っただろうか。無意識に錯覚を検閲している人は多い。かつて映画に親しむ者を検閲、差別、抑圧したように。ここでの錯覚とはメディアアート芸人やあらゆる批判を絶対回避可能なワークインプログレスに半永久的に棲息するつもりの期待値寄生者たちの諸々の営為のことではなく。屍者と共に住むという古代の錯覚からの新たな「ゲーム史」。錯覚を検閲だって? バカも休み休み言えバカがという繰り返しが今日も。