妄想映画日記 その120

樋口泰人の2021年5月11日~20日の日記です。64回目の誕生日を迎えるも、低気圧のせいか体調はいまひとつ。そんな中で出掛けた遠藤麻衣子監督らによる展覧会、いよいよ発売になった工藤冬里さんのCDボックスセット、カネコアヤノさんの新譜や、侯孝賢監督の『好男好女』『ミレニアム・マンボ』などについて記されています。
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文・写真=樋口泰人


5月11日(火)
天候の悪さと体調の悪さは基本的に連動するのだが、これほど見事なまでに身体が反応しまくるのは1年のうちに何度もない。身動き取れず。やらねばならないことをかろうじていくつか。あとはぼんやりするばかり。我ながらびっくりした。
夜は久々に姫もやってきて、2日早い私の誕生日祝いを。ぐったりしても腹は減る。

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5月12日(水)
午後からは打ち合わせと取材。海外に発注していたエクスネ・ケディのレコードのプレスがいよいよ発送間近ということで、到着後のスケジュールや内容物、販売方法などを具体的に確定していく。この企画がスタートしたのが1年前くらいで、本来はライヴができなくなったミュージシャンのための助成金をもらってということだったのだが、販売用のアルバムを作るのは助成対象にはならないという判断が下された。「え、じゃあどうやって生きていけばいいの?」と思うばかりなのだが、文化と金を取り巻く問題は腹の立つことばかりである。わたしがもうちょっと巧妙に、というか、いろんな手はずを整えて書類を作成すればいいだけのこと、と言われてしまうかもしれないのだが。
まあでもそれはそれ、アルバムはね。テスト盤を聴くたびにニヤニヤドキドキ。身体がむずむずする。でっかい会場ででかい音で聴きたい。という望みをかなえるべく新たな企画もスタートしつつあるのだが、まあ、それも助成金次第。これもまたもらえないのか!と天を仰ぐことになる前に、今回はスタッフや友人たちの力を借りて書類も作成中である。しかし一方で、でもこれマジで面白くなるから誰か出資しないだろうかと、ご機嫌な妄想も始まる。しかし某新聞社からの思わぬ取材も含め、合計4時間ほど。人と話すとその後が大変でめまい耳鳴りじわっと来る。連絡事項など、後回し。


 
5月13日(木)
誕生日ということで64歳なり。あと1年で公的にシニアである。先日母親が、1日ごとに老いていくのを実感している、というようなことを言っていて、まあさすがにもう93だからねえと思っていたが、わたしのほうは1年ごとに老いを実感する、というレベル。それでも実感される老いはなかなか本人にとってはショックなこともあり呆然とするばかり。とはいえ若い頃に戻りたいとは思えない。あれはあれでつらい苦しい。まあいいか、というのが誕生日の実感。
とはいえ5月の低気圧はひどい。これはないだろうという感じで身体を直撃する。ぐったりである。事務所ではついに出来上がった工藤冬里ボックスセット『Tori Kudo At Goodman 1984-1986』の、製作協力の方々への発送作業。多数の方の協力でできたセットのため、boidに提供されるサンプルでは足りず、買取もしてようやく全員に(たぶん)送付。boidにはひとつも残らずで、さらに買取をしなければという状態である。値段が値段だけにこれ以上何枚もの買取はできないということで、boid関係者の方々へのおすそ分けはないものの連絡もらえたら割引価格でお譲りします。しかしいったい9枚組で税込み11,000円というこのボックスセットはどれくらい売れるのだろう。もちろんそれなりの予測のもとに値段と製作数を決めているわけだが、想定通りになるかどうはわからない。冷静に考えると本当に恐ろしい。1枚1枚ゆっくりと聴いていこう。

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5月14日(金)
のんびりとした金曜日のはずだったのだが、相変わらずの諸連絡で結局あわただしかった。とはいえ昼は整骨院。じわっとではあるが、腰全体の状態が改善されつつある。そして天王洲アイルへ。寺田倉庫が運営するテラダ・アート・コンプレックスというギャラリーの集合マンションへ。そこで遠藤麻衣子さんが参加した展示(「ジギタリス あるいは1人称のカメラ」)が開催中とのことで、いったいどんなことになっているのかと出向いたのである。しかしこういうアート系の建物というのは、年寄りには敷居が高くて、どこに何があるやらということでおろおろするばかり。結局遠藤さんに連絡を入れ入り口まで迎えに来てもらった。いや、大人なんだからちゃんと見れば分かるだろということなのだが、こちらにしてみれば、黒字に黒文字で印刷してある昔のY’sの封筒とかを思い出したりもして。いや、アート系の建物ということではないな、先日も四谷の三菱UFJ銀行が入っているビルで、ビル内迷子になって大変だった。看板や案内の文字を読み取る能力が年齢とともにがた落ちしている感じ。ならば、グーグルマップさんにもうちょっと頑張ってもらって、ビル内案内もしてもらえたら。1階の案内板に「展示入れ替え中」とか出ていてもそこであきらめないで、「ほら、横を見てください。エレベーターがありますよね、それで3階に行けば目的のギャラリーです」と優しく案内くれる、そんなグーグルマップ。案外もうすぐできるんじゃないだろうか。お願いします。
それはそれ、展示もなかなか不愛想で、4人のアーティストが作品を出品しているのだが、どれがだれの作品なのか何の説明もない。おかげでひとつの作品を見逃すことになってしまった。最初に観たのは夏の日の海辺の家の家族をとらえた作品。花火の逆回転シーンがなかなか良かったのと、最後に出てきた『最初の夏の思い出』というタイトルらしきものが秀逸だった。『夏の思い出』ではなく「最初の」が付くとこちらは「いったい誰の?」と思うことになる。小さな子供が一家の中心にいたので、普通に考えればそのこの夏の日、ということになるのだろうが。二番目に観ようとしたテレビモニタに映った赤いバラの花と炎の映像は観始めるタイミングが良くなかったので飛ばしてマジシャンと猫とわたし、という説明でいいのかよくわからないが、ナレーションによれば死んでしまったマジシャンのマジックが全面展開されながら語られる、虚構の果てとも言える作品。しかし実際は、非常にリアルで身体的な作品だった。最後はテレビモニタでしか見ることのできないような濃く輝く赤いバラと炎、そして白い霧と漂いながらきらめく小さな断片の数々が織りなすストーリーのない映像。デヴィッド・リンチをも思わせるクールでマジカルな作品。その前に観たマジシャンの作品の身体性を感じた後では、こちらの作品のそれぞれのマテリアルの質感の連鎖による魔術性が際立つ。あるいは、ピーター・グリーナウェイならバラは当然腐っていくはずなのだが、その気配も十分に内包しつつバラは輝くばかりである。生と死がある時間軸に沿ってあるものではなく、ひとつの地平の裏表にある、というような意味ではアピチャッポンに近いのかもしれない。眠りと覚醒が同時にやってくる。
観終わって、遠藤さんから「どれがわたしの作品かわかりますか?」と質問された。そう言われると困る。これまでとは違うやり方で違うことをやったとすると、こちらが思う遠藤さんの作品ではないものこそ遠藤さんの作品であるということにもなる。しかしそれもどうか。まあそんなことをぐずぐずと考えるわけである。作品にタイトルも作者表示もないのはそんなことも含めてわれわれをこれらの作品の間に置きたい、という狙いなのだろうから、ここでは答えは書かない。でも確かにこれらは思わぬところでつながっていて、しかしそこに何か確かな道筋ができるのではなく更なる迷路へとわたしたちを迷い込ませることになる。その迷路をゆったりと漂う余裕のある社会を生み出していけたら。そんなことを思いながら帰路についた。

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5月15日(土)
掃除をした。その後原稿の整理をして散歩を終えたらもう夕方である。本を読んだり映画を観たりという休日はなかなかやってこない。夜はモンテ・ヘルマンのデビュー作『魔の谷』を久々に観た。超低予算は基本的に際物的な扱いをされてしまうのだが、もちろんこれも謎の生物の造形は際物と言ってしまえば際物だが、その他は極めて大人の物語。あらためて驚いた。監督したのが30歳直前。自分のそのころのことを思うとそのギャップにさらに呆れる。主人公のひとり、ボスの秘書も26歳という設定になっていたが、その若さと置かれた環境のどん詰まり感に引き裂かれるばかりの彼女の姿に心を奪われる。日本だと誰がこういう役をできるのだろう。そもそもこういった状況の女性を描くこと自体が、企画段階で没になってしまうか。いずれにしても今、映画は彼女のような人間のその後の歩みを視界に収めるべきだろう。

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5月16日(日)
友人のコロナ騒動が何とか収まってちょっとほっとしている。しかしコロナ感染が判明して、数時間でも連絡がないとハラハラするね。しかもこちらはなすすべなしだし。本当に連絡が取れなくなった場合、該当する保健所に電話すればいいのだろうか? しかし「本当に連絡とれない」かどうかはどうやって判断するのか? だがそうやって判断を遅らせてやはり本当に連絡が取れなかった場合は取り返しがつかない。ならば早めに判断して、ただでさえ目いっぱいなはずの保健所をさらに忙しくさせるしかないのか。いろんな妄想が渦巻くわけだが、そういったことの目安の一覧はどこかに公開されているとは思うもののいまだに見つからない。そういえば4月に遊びに行ったとき浅川さんはみんなネット検索ができなさすぎると言っていた。これさえできればどこに住んでも大丈夫、とさえ言いだしそうな勢いだった。たぶん本当にそういうことなのだろう。
それはそれ、ほとんどの人間がマスクをせず酔っ払って騒いでいる、というような環境に引きずり込まれたらいくら注意していたってコロナに感染する。当たり前だとしか思えないが、そのような環境が本当にそこかしこにあることも事実である。ということが今回目の前の具体的な事実としてあからさまになったのだが、そのような環境を作り出している人たちは、感染が自分たちの中で完結しているわけではない、仕事や何かの偶然、必然でそこに放り込まれた人間もいてその人間たちにもウィルスは分け隔てなく感染していくこと、そして彼らには家族持ちの人間もいるかもしれず、その家族に年寄りや病気持ちの人間もいるかもしれない、ということを想像することはできないのだろうか。われわれに必要なのは国や行政に対する反発ではなく、あくまでもウィルスにどう対応していくかという生きる態度なのだ。国や行政は瀕死である、もうそんなこと目の前に来てるじゃないか、というのは世界のニュースが教えてくれる。われわれは別のやり方で生き延びる。ただそれだけのことだ。

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夜は本当に久しぶりに『好男好女』。時間や人物がいくつもの層に分かれて重なり合い、新しい物語を語り始めていくという、侯孝賢の新しい語りのスタイルがはっきりと示された最初の作品と言っていい。インタビューではこの作品を作ろうとした時からこの語りのスタイルは決めていたと語っているが、いくつもの時代を重ね合わせるだけでなく、今を生きるひとりの女優が過去の人物を演じるという体をとってひとりの俳優の中にいくつもの人物を重ね合わせていくというやり方、しかもそこに映されている過去の時代の映像は、実際に撮影された映画(つまり主人公の女優が主演する映画)の映像なのか、それとも単にその時代を生きた人たちの姿なのかよくわからないのだ。というか、そういう設定を知らなければそのつながりさえわからない、実際映画の撮影風景シーンはなかったはずだ。今観るとそれなりに予算のかかった映画だと思うのだが、その上でこの混乱、混在。ここから『悲情城市』へとさかのぼると何かが見えてくるような気もする。それにしても侯孝賢映画のカラオケシーンはどれも本当にすごいとしか言いようがない。

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5月17日(月)
とにかく月曜日は連絡事務作業盛りだくさんで、低気圧が気持ち悪くて身動き取れないもうぐったりとか言っても言わなくても何とかしなければ先に進めない。とにかく最低限のことはしたはずだが、それさえできなかった可能性もある。エクスネ・ケディのアルバムの発売までのスケジュールがもはやギリギリになっていることも判明する。久々に元爆音映画祭ボランティアチームの力を借りなければと思い立つ。わーきゃー騒いでもらえるといいのだが。


 
5月18日(火)
どうして東京はまだ梅雨入り宣言されないのかというひどいぐずぐず低気圧のおかげで身動き取れず、ぐだぐだのまま予定は狂いまくり。まったく何もできなかったに等しい。これならずっと寝ていて1日を台無しにしたほうがまだ台無しではなかったと激しい台無し感にさらに気分は重くなり身体は動かない。しかも目の調子も耳の調子も悪い。あまりのことに眼科ではいろんな検査を受けることにした。まあこの歳になるまでまったく検査も健康診断もしていない、というのも大人としてどうかと思うのだが。
夜は、『ミレニアム・マンボ』。これはバウスで爆音やって以来か。何度も観ているはずなのに初めて観るような感触。自分の記憶力の悪さにも驚くが、映画の中の時間軸が狂いだしてからの侯孝賢の映画は何度観ても「初めて」の肌触りである。侯孝賢のバイクシーンはどれも風が肌に触れるようでワクワクするのだが、こちらは車。スー・チーがサンルーフから上半身を出し高速を走る車をとらえたショットにそのまま天国に連れ去られる。ぼんやりとぼけたピントとゆっくりとした動きが作り出す時間と空間の隙間からやってくるいくつもの波に魂が揺れる。最後のほうの夕張シーンでの雪の中に倒れ込み積もった雪の中に顔型ができるショットといい、この肌触りはいったい何なんだろう。ああそしてホテルの窓から見える列車の交錯はそのまま『珈琲時光』につながっていくし、2001年以前に作られた2001年が時代設定になっている映画がその10年後の視線によって語られるという時間の重なり合いは『好男好女』からの延長上に果てしない時間の楽園を開いてくれる。しかしただここからはもはや過去も未来も欠いた単調なリズムが鳴り響くばかりなのだ。もう、ここがどこでいつなのかどうでもいい。気が付くと私は2001年の台北のクラブにいるし、夕張のキネマ街道の看板を見上げているし、ヌーヴェルヴァーグ映画の主人公たちのように街を駆け抜けている。そしてここでもまた、クラブのカラオケ的なシーンがすごくてね。もう最高である。まあ、だからといってこちらの体調が良くなるわけではない。

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5月19日(水)
発売日、ということで工藤冬里ボックスセットを聴いている。なんだろう、この感じ。マスタリングされたものをデータで受け取り聴いていたのとはまた全然違う。ひとつひとつの楽器の音のクリアな響きはどちらも変わらない気がするのだが、音の生まれる時間と空間が聴こえてくると言ったらいいか。楽器の音がただ単にそれ単体であるわけではない、音の母体のような聴こえない何かの存在が確認できるような音。音数はめちゃくちゃ少ないにもかかわらず、音の透明な厚みが広がる。録音はマイク1本か2本のはずなのだが。

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カネコアヤノさんの事務所から『よすが』セットが送られてきた。レコード、CD、それからアコギだけの演奏のCDとカセットテープ。事務所でバイトの細井さんとカネコさんの面白さはパーソナルな思いを歌うのではない別の強さ、みたいな話をしたのだが、今回のアルバムはどちらかというと「パーソナル」なところに限りなく近づいたものな気がした。そのギリギリのところで歌は生まれるのか? そんな場所からこのアルバムは始まっているのではないか。だからこそ弾き語りで歌ったもうひとつのヴァージョンがある。バンドの音、ソロでの音。それはヴァージョンではなく、モンテ・ヘルマンなら「Two-Lane Blacktop」(映画『断絶』の原題)と称しただろう、ひとつの道の上のふたつの線といったものだ。1曲目のタイトルが「抱擁」。つまりそういうことだ。『断絶』と「抱擁」。ふたつの線が離れたりくっついたりしながら「その後」へと続いていく。コロナの後が、鮮明な映像として収められている。
そしてこれまでのアルバムなら表面に来るはずの写真が内側に表面はよりぼんやりとした何かが。タイトルの「よすが」はジャケットに斜めから光を当てないと浮かび上がらない小さな文字で、帯にもほぼ情報がなく、そのままではだれのなんというタイトルのアルバムかまったくわからない。単にぼんやりとしたものがそこにある、だがよく見ると「よすが」の文字が幽かに光る。よすがとはまさにそういうものではないか。そしてそれは、ギリギリまで近づけるものの、その先はぼんやりしてしまうような、そこから生まれたものとそこに向かうものとの交錯の中でどんどん横道にずれ行く、その軌跡によってしか示すことのできないものでもあるだろう。

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5月20日(木)
池袋での打ち合わせが13時20分からなのは十分わかっていて、出かける支度もしていたのに、気づいたら13時だった。体内時間はまだ12時過ぎで、まだ何人かにメール連絡しようとしていたのだが。20分ほど遅刻。初めての場所、初めての人たちと爆音打ち合わせだった。あとは低気圧にひたすら耐えていた。



樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。オンライン映画配信ウェブマガジン「GHOST STREAM」をオープン。