映画音楽急性増悪 第22回

虹釜太郎さんによる映画音楽急性増悪 第22回目のテーマは「匿い」です。隠匿場、ストレスを抱える子供、記憶などのキーワードを元に『隠された時間(オム・テファ監督)、『緑色の髪の少年』(ジョゼフ・ロージー監督)、『血に濡れた肉唇』(ジャン・ローラン監督)を観てゆきます。

第二十二回 匿い



文=虹釜太郎
 
 
 魔女狩りそのままの侮蔑造語「Rollinade」さえ作られずに、隠匿場映画群はすぐに忘れられる。そこで隠された時間、隠された記憶、隠す演技が強いられる場所は忘れられた後にまた何度も何度も現れる。
 
 いくらやっても幽体離脱ができませんといま現在日々悩んでいる小学生は世界にいまどのくらいいるだろうか。昔よりは少ない気がするけれど…
 児童養護施設でのストレスからの◯◯誘発みたいな映画はもっと製作されてほしい。そこには親との問題以外の部分的関与の悪とエスケープの希少例への再考が必ず必要になる。そのことの意味があまりに大きい。それについて撤退して考えぬいていない製作者はやはり残念なものしか作れない。
 
 あるふたつの言葉を使わないために、以下EとG Gと仮に。 
 
 
G…放置、多様性の著しい欠如、人間に状況を決して説明しない、既得権益の秘守、始原の行動様式の付与と軽蔑、無消化、無殻、不敗、強制の忘却、無関心または記憶喪失
 
E…部分的関与、多種多様異様な状況での人間の反応の仕方の観察と報酬、必敗を前提とした狡猾、消化の困難、過去と未来の間の相対運動に対しての報酬他を基盤とする臨機応変な気づかせの濃淡、人間の倫理程度では推し量ることが不可能な多様性の擁護と体験の保証および延長の交渉、強制への過剰反応の観察と援助の審査、神経器官の不安定さ、極端な個体、勝敗とは無縁の追跡、依存の再発明、寄生の再発明、死んだことすら理由にならない体験の延長
 
G2…有限で定まった存在が受ける影響たちについての悠長な立場、またその立場は有限の存在からは見えない
 
E2…有限で定まった存在が受ける影響たちについての悠長でない立場、有限で定まった存在でしかないものが受ける影響について看過することの困難、時にその状態を変更するような性急な立場
 
V…あらゆるかたちをとって現れる和解の産物、E2とG2のいつまでも和解しあわない立場への妥協の産物として現れるもの
 
W…悪戯(はたして悪戯をするのはEだけなのか、それとも悪戯をしないGこそが悪なのか…それとも…)
 
 
 『隠された時間』(2016年/オム・テファ)は、GにもEにもなれない、あまりに生存における選択肢の無い未熟な存在が、その選択肢の無さゆえに発動する、GとEそれぞれの捕獲距離では届かない隠匿場をあまりに無力ながら再発明しなければならない弱い弱い霧のような時間を描くことには失敗しているが、本作での鍵を握る交換日記は、日本でもごく一部の少女がマスターしているバビ語ともシンクロする。それはかつては奴隷だけが獲得できた格闘技や音楽を思い起こさせるかもしれないが、バビ語の誕生の瞬間にも『隠された時間』において卵に託されているものにも、誰からもリーチできない隠匿場への緊急の希求があったはずである。その隠匿場と無事生還した場での混乱。この設定は常におもしろい。しかしその設定だけで満足していては世界はまったく揺るがない。
 隠匿場の報告についてはかつては『緑色の髪の少年』(1948年/ジョゼフ・ロージー)があった。
 
 
 『隠された時間』における隠される時間を発動させる卵は、どうして現れたのか。あきらかに人間に関与してくる存在だが強制はしないもの。
 
 GからEへ、G2からE2へ移籍する存在の、その「移籍」の間にどのような悪戯をしたか、その悪戯を世界に落下させたかについて、その悪戯Wは、映画よりも絵本などで描かれることが多いかもしれない。
 
 VとWについてあきらかにしていくモチベーションはまだ世界には少ないのかもしれない。しかしそれらを丁寧に扱うこれからの映画論とフィクション論が、いままでの解釈不動?の作品たちをどう揺らすかに期待するしかない。それをする主体は人間ではもう限界がありまくりなのかもしれないが、VとWのすべての組み合わせはどんな万能者でも不可知なはずだ。
 
 『隠された時間』では、少女も少年も記憶を取り戻す必要はないのに、記憶を取り戻す演技が便宜上必要だという演技が強いられる。
 
 記憶を取り戻す『緑色の髪の少年』と『血に濡れた肉唇』(1975年/ジャン・ローラン)を比較した記述はいまのところ非力で見つけられないが、どちらも記憶を取り戻すのでなく、記憶を取り戻す演技を強いられていると考える場合、『緑色の髪の少年』の場合は、「取り戻せ」の暴力とヒステリックな矢継ぎ早の質問が埋める保護場所が、『血に濡れた肉唇』においては隙間だらけの、やさしい血のまばらの静かに隔離されて思い出すことに誘われる空間が浮かんでくる。それもいささかずさんな空間が。そして現実とは思えない、いや現実とは違うのだとあからさまな風の音が吹く空間。
 
 『血に濡れた肉唇』に漂う音楽の背後の針音やばかばかしいほどステレオタイプの風の音は記憶を取り戻す演技と記憶喪失への願望の境をあまりにも平面にすることで極度に自由な空間を獲得する。それを貧しさゆえの強度と呼ぶ人もいるかもだがしかしここで自由なのは観る者でなく、その現実ではない空間の方だ。その空間の自由のために観る者も進んで生贄に。ジャン・ローランの作品たちはその生贄により自由。ローランの個別作品論は困難なのはなぜなのか。観る者が生贄になるような自由な空間では、常に依存の再発明が瞬間瞬間に生まれているようだ。
 
 
 ローランはアイダ・ルイロヴァによるインタビューで悪について語る。しかしその悪の純粋さは依存の再発明や神経器官の不安定さと引き換えである。寄生のあまりに性急な再発明とそれに雷同する暴走的生命/非生命がスプラッタになり、依存の再発明は、静かな無防備さをまとっていく。
 
 ローランの言う悪とはしかし、次のうちのどれに当たるだろう。
 
E…部分的関与、人間の倫理程度では推し量ることが不可能な多様性の擁護と体験の保証および延長の交渉、多種多様異様な状況での人間の反応の仕方の観察と報酬、強制への過剰反応の観察と援助の審査、必敗を前提とした狡猾、消化の困難、過去と未来の間の相対運動に対しての報酬他を基盤とする臨機応変な気づかせの濃淡、神経器官の不安定さ、極端な個体、勝敗とは無縁の追跡、依存の再発明、寄生の再発明、死んだことすら理由にならない体験の延長
 
 ローランの作品でこそ可能なGとEの対決の無効化のような麻酔がある。いや麻酔でもなくもっと希薄な何かの持続する削られ。その削られの繊細さについてもっともっと暴力的に自らを解散しろと、ああうちに帰る途中なのだろうと見間違え続けられてきたうずくまる少年/少女は告げている