Television Freak 第62回

家では常にテレビつけっぱなしの生活を送る編集者・風元正さんが、ドラマを中心としたさまざまな番組について縦横無尽に論じるTV時評「Television Freak」。今回は「卒業」をテーマに映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』や、この3月で番組終了もしくはメインキャスターが交代した報道番組について書かれています。大河ドラマ『青天を衝け』(NHK)についても。
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卒業



文=風元 正


『プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル』は、4年間監督に密着したドキュメントで、充実した内容だった。だからどうしたという話だが、私は庵野監督と同い歳なので、成育史が重なる。おたく第一世代のチャンピオン。1995年のTV東京版『新世紀エヴァンゲリオン』は、再放送を録画して熱狂した。25年経てようやく完結。壮絶な製作過程の記録の中で「自分の命と作品を天秤にかけたら作品の方が上なんですよ」という発言があり、ともあれ映画館に足を運んでみた。
超大作の完結編であり、論点を挙げればキリがない。あえて単純化するが、まず、さまざまな空間を背景に展開される戦闘パートは斬新で質感が高く、アニメーション表現の極限が口あんぐりで堪能できた。ニアサードインパクトから避難した人々が住む「第3村」での日々を描くパートでは、周囲は未来の廃墟ではあるものの、ヤマギシズム的な農耕を中心にしたコミューン生活が展開されており、吉田拓郎「人生を語らず」が流れるなど70年代感満載だった。インターネットや携帯電話も影も形もなかったあの頃が懐かしいのか。綾波レイは普通の農家の暮らしを経験して人の温かさを知り、自分の仕出かした過ちでメンタルが崩壊した碇シンジは学校時代の友人である相田ケンスケや鈴原トウジなどの優しさに癒されて闘いに向かう。
そして碇ゲンドウのNERVが進める「人類補完計画」を葛城ミサト率いるWILLEが止められるかどうか、という最終決戦に進んでゆく。庵野は「アニメーションってエゴの塊だから」というが、だんだん、自由に自分の望む表現に挑むことが可能なアニメというジャンル自体の堂々巡りを鑑賞している気になってくる。まるでサントヴィクトワール山や睡蓮の池を描き続ける晩年のセザンヌやモネのように「具象」に息の根を止めた後期印象派的な空間へ最新技術を尽くして接近し、物語も自意識の球体の外部に出られぬ息子の父親殺しというテーマに集約されてゆく。
「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」というセリフに至り、同じ4部作である三島由紀夫の『豊饒の海』の傍らに置きたくなった。「これと云って奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。/そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。/庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……」夢と転生の長い物語のはて、最後に松枝清顕という4回生まれ変わった主の存在を否定された語り手の本多繁邦が最後に見た風景である。清顕はエヴァ。庵野秀明は三島のような最期を選ばなかったが、壮大な虚構を創り上げた「芸術至上主義者」として到達した地点は相似形と思える。ともあれ、庵野監督はエヴァンゲリオンから解放されてよかった。私ももう、観直すことはないだろう。悪評ぷんぷんだったTV版の最終回が、今でも一番好きである。


 
 

『情報プレゼンター とくダネ!』が1999年から5646回放映されて、この3月26日に終わった。総合司会の小倉智昭は好きでも嫌いでもなかったが、生放送でも情報のひとつひとつに自己判断を持とうとする姿勢には敬服していた。最終回、何も見ずに全ての関係者に配慮した長い挨拶をした小倉のアナウンス技術は見事で、菅首相にコツを伝授して欲しい。後番組のMC谷原章介に小倉のこだわりを求めるのはお門違いだろう。そういえばショーンKが看板だったとか、中野剛志のブチ切れとか黒歴史ばかり思い出すが、亡くなった竹田圭吾のような骨のあるコメンテイターはもう出ないだろう、と気落ちもする。無難を極めようとするTV界からは芸人枠以外は個性派が静かに退場してゆく。
NHK『ニュースウオッチ9』の有馬嘉男はファンだったが、『クローズアップ現代』の武田真一とともに番組を去った。理由はどうあれ、NHKの新たな男性キャスターの看板は育っていない。『真相報道バンキシャ!』の「ジャストミート」福澤朗も卒業し、私がよく見る番組の生態系が大きく変わって、ちょっと寂しい。もっとも、『バンキシャ!』に関していえば、桝太一は爽やかでいい。
今や『ゴゴスマ』の石井亮二と『報道ステーション』の小木逸平だけが心の支えである。2人とも冷静沈着で押しつけがましさがなく、しかも情報を鵜呑みにせずに伝達する理解力を備えており、何より自己顕示欲が薄い点が共通していて、新しいタイプのキャスターが育っているのかもしれない。『大下容子ワイド!スクランブル』から、ネトウヨ局アナ・小松靖が去ってほっとしている。
ラジオを聞いていても、なぜかレギュラーだった人の交代が多いようで、涙の別れを何度も聞いた。晴れがましい出発より、何かの終わりが目立つ春。もしかして私たちは、知らぬ間に大きな曲がり角に立っているのかもしれない。ただ、今年は通りがかったいくつもの学校できちんと卒業式が行われていたのは嬉しかった。

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『青天を衝け』は「近代日本経済の父」渋沢栄一(吉沢亮)が主人公。明智光秀に続き、描き方が難しい人物を扱っている。渋沢栄一の場合は、幕末に大量の血を流した「尊皇攘夷」運動のバックボーンである「水戸学」を無視して通るわけにはゆかない。序盤は藍玉や養蚕を業とする農村での青春物語だが、黒船来航後の幕府は風雲急を告げ、青年たちは有事に備えて剣と学問の修行に励む。いわゆる「志士」が全国に湧き出る時期で、地域を越えて交流するうちに「開国」するか否かが日本のテーマとなっていると知る。
ここで、学者や歴史小説家が答えてくれない素朴な疑問が生まれるのだけれど、「夷狄」を撃て、という一事で志士たちが一致団結した理由が、実はよく分からない。当時、外国船はけっこう漂着していて、たまたま遭遇した漁民などは友好的に交流している。長崎をはじめとした西の方は外国との貿易で稼いでいて、向こうの文明が進んでいることはよく知っていた。理性的な反応が難しいのは当然として、ペリーの要求もさほど無体なものでもなく、普通に交渉してもよかったはず。しかし、幕府はなぜか最も簡単な道を採らない。
天皇が上か、幕府が上か。「尊皇攘夷」はその問いから始まる。水戸学では将軍を任命する天皇の方を上に取り、その下で外敵を撃て、と説く。単純で何の含みもない思想だが、戯画化されて描かれている徳川斉昭(竹中直人)は水戸学の主張をそのまま奉じ、本人は政治的に敗北しても、弱腰で優柔不断な幕府の対外政策に対する志士たちの怒りに火をつけ、倒幕運動は本格化してゆく。日本を二分した闘いの渦中にいながら、栄一は新時代が見えた「最後の将軍」一橋慶喜(草彅剛)に仕えたお蔭でするっと足抜けし、新政府では「富国強兵」の先頭に立つ。
「世の中を変えたい」栄一と、のちに彰義隊を結成する従兄の渋沢喜作(高良健吾)や師の尾高惇忠(田辺誠一)とは進む道が大きく岐れてゆく。資本主義社会がさまざまな局面で限界を迎えている今、かなり似た状況に至っていた幕末・明治の群像劇は何らかのヒントになるのではないか。栄一の妻・千代を演じる橋本愛が、大望を抱く人間を支える女性を表情豊かに演じていて圧巻である。
 
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大河ドラマ『青天を衝け』 NHK総合 日曜午後8時放送

 

 
『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』は愉快な本だった。知り合いもたくさん出てくるけれど、この人、幼稚舎から慶応か、とも思った。東京にお坊ちゃんの遊び人が多かった頃。「anan」創刊編集部におしゃれな方々が終結し、大学生の近田も出入りする。タクシー券や近所の食堂の食券も取り放題。詩人として知っている朝吹亮二(朝吹真理子の父)がバンド仲間というのは驚いた。朝吹さんは最近、ギターを作っている。もちろん、書くのは面倒なくらい後に名を成すミュージシャンが周囲に現れて、常に流行の最先端にいる。私は10歳下の東京の田舎育ちだが、そういう世界があることをすごく遠巻きにして見ていた。
去年の末、『週刊文春』の名物連載「考えるヒット」も終わり、「音楽批評の小林秀雄」の文章を気楽に読む機会も失われたわけだが、さて、東京のおハイソな人々の新世代が生まれているのだろうか。どうも違う、という気もする。近田のように現金とっ払いのハコバンで喰ってゆくなど夢のまた夢の今。昭和のデタラメな豊かさは懐かしいとして、この厳しい状況からでも「新入生」は必ず現れる。もう、何かの繰り返しでは済まない。

 菜の花や風の行方は空に訊け


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風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。