映画音楽急性増悪 第20回

20回めの更新となる虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」です。『The Conviction』『ポケットの中の握り拳』『夜よ、こんにちは』などのマルコ・ベロッキオ監督作品をもとに「待機」の時間と「誘拐前/後」について。

第二十回 短絡



文=虹釜太郎
 
 
 バネは短絡か、などと問う人はいない。
 しかしバネは時によってその映る姿も性格も全く違うままにさまざまな待機を持っている。しかしバネを(検索などという外部心臓を使わずに)さまざまに言い換えることができないならば、ベロッキオの映画を物理的に見たとしてもそれを観たことにはまるでならないだろう。
 
 『The Conviction』(1991年/マルコ・ベロッキオ<原題 La condanna>)においてベロッキオは心理学者と共に何を図り何を解決したのか。日本で映画監督が斎藤環と共に映画を作りあげたらどんなものが出来上がるのかは想像できない。
 美術館内での主導が入れ替わるかのコレオグラフ化した立ちバック、騎乗位、正常位の第一部から法廷の第二部、そして裁かれた囚人に教えを乞う第三部、それぞれ隠されているのは、計画性、衝動性、学習不可能性…とかそもそもそれらが鑑賞の不能性そのものを到来させる事後曖昧化の変奏…ベロッキオ作品が日本であまりに語られない理由はわからない。事後曖昧化の最悪のかたちの洗練場としての日本。
 この作品の表面上の不能性そのものを到来させる曖昧化は語彙力があまりにないわたしによるとそれはあざとさのガタピシ。あざとさにより遅らされる男たちは俗悪にのるかそるか、というより刹那だけになるか翻弄されるか軽蔑されるかのいずれかで、冒頭の美術館内での体位変更のガタピシと第三部最後の別の女による小麦畑での舞いは、あざとさのガタピシを軸とした対になるが、それらは決して解決などせず、表面上の事後処理だけが流れていく。
 第二部においてレイプとそうでないものの境界線についてと強姦神話の解体は各国で様々に議論されているはずだが、それらと表裏ではなく、しかし解体され尽くせないことのごく一部が第三部であるなら、そもそもが映画において事件が起きることの不能を描いたとするなら本作の身も蓋も無さは…
 狭義での本作の変奏が児童への悪戯ならばどうなるか。動物への犯罪ならば…
それらの狭義での変奏の描写不可能な第三部たちが宿題として残されたまま、本作はこのまま忘れ去られるだろうか。
 第三部で三人の女が離れていく本作と男が三人の女と同居する『フィロソファー』(1989年/ルドルフ・トーメ)とを交互に観る一日が必要である。
 第三部で一瞬映る庭が迷路にも見え、そして改めて強調されるかのような美術館自体の不能。それらなど普段見なかったことにして世界は動いているが、それらへの身も蓋も無い問いをやめるなら我々人間は完全に終了する。はたからは組織としてなにやら動いているように見えるかもしれないが、もうそれは完全に終わっている。
 ベロッキオによるあまりにもな身も蓋も無さ、しかしそれをしつこく執拗に圧をかけ続け世界に拡散させるやり方は、しかし泣けるとか驚かされたとかとばされたとかで蠢くものたちにはまったく響かないまま世界は終わるのか。しかし非人間たちはその圧にどうたち向かうかはまだはっきりしない。
 また本作は、判事はおれ陪審もおれ一切合切このおれが裁いての法廷であらゆる役職をおれがひとりでの怪獣スナークになれない人間への罵倒と哀れみの再形式化のようにも映る。
 
 『ポケットの中の握り拳 』(1965年/マルコ・ベロッキオ)のアレッサンドロの短絡は、短絡者が一般に糾弾される浅はかさや噴飯な常識への終始や生半可な知識による行動や浅い観察により汎用性あるとされるあざとさや浅知恵らとは違う。そういう短絡さどもを無意識に前提として作られる若者映画は多いだろうが、このアレッサンドロの短絡は何によるのか。それについては廣瀬純によるすぐれた垂直/水平、アレッサンドロ論や土田環による考察があるが、アレッサンドロの短絡については、軽佻であるがゆえに身軽で速いであるとか、結果からの落下論とは違うところからもっと語られてほしい。
 
 『ポケットの中の握り拳』から『シチリアーノ 裏切りの美学』(2019年)までベロッキオを貫くもののひとつは皆がいるなかで公然とそれをやるがばれないままでいることのバネの時間。そのバネが伸び切ってしまうか、戻る力でバレてしまうかへ賭けてしまうこと。それがさまざまな呼び方をされていくのか。そのバネの言い換えはアレッサンドロを解明できるのか。それはよくあるアレッサンドロの暴力はどこから来たか、若者の◯◯は…のタトルテイルに過ぎない。
 
 アレッサンドロには三つの病いがある。
 ひとつめはその短絡さにより殺人におよぶこと。
 もうひとつはこの映画における創病であるところの不治の頭痛。
 さらにもうひとつは、人間どもの習慣であるところのカップリングや都市の形成、意志薄弱らへの侮蔑。
 ひとつめは法で裁かれ、しかしふたつめはその裁きを無効にする。
 そして人間の世界がいくら時間がたとうとも三つめの病いの治療はできない。しかしその不可能を認識するのと、それに抵抗するのか、そうでない方法があるかについて探るか、または探る役目をしながらそれの不治の世界を過ごすのか。あなたならどうするのだろう。
 
 『ポケットの中の握り拳』が、突然降りてきた暴力についての映画であると観るならば、それはそのような暴力がふるわれる世界を続けたい立場であり、若者の◯◯というならば人間というものをずいぶんと低く見積もっていることになる。
 『ポケットの中の拳』は、わたしにはアレッサンドロの三つめの病いを、共に歩むものなどいないとするあるサンプルにしか見えない。しかし別のそれにおいては共にそれを歩める、過ごせるものがいると十分に考えられる。このことについては共感は得られないかもしれないが、わたしは三つめの治療などを完全に放棄したものであり(放棄したいのでなく)、当然ながらそんな存在はこの世界には適応できない。
 アレッサンドロにとっては周囲のすべてが過剰適応者だったのではないのか。あなたはあの都会人たちのつまらぬ醜いダンスを常に思い出さないのか。
 世界はいまもなおひとつめとふたつめが問題になる範囲でのみせいぜい駆動することになっている。だがだからこそ少数の難病への問答と創病はこれからもさらに極めて重要になるはずなのだが、それは具体的生存の成功とは全くなんの関係もないのだ。
 三つめの病いがいかに最初からなかったことにするかが人類の多数派の病い。
 『ポケットの中の握り拳』はその妥協の一部を見せたはずだ。しかし世界はなにも変わらない。その後、ベロッキオは人間はなぜ変わらないかについてさまざまな遅延を見せていく。そしてベロッキオもまた共に歩むものを探していた。
 
 『夜よ、こんにちは』(2003年/マルコ・ベロッキオ)。
 1978年3月16日から55日後、アルド・モロ殺害。
 しかしキアラの視るもうひとつの世界ではモロは生きて早朝に街を歩いている。
 その時に流れるシューベルトの楽興の時だが、ばかばかしくも実によくあっていたと思う。ここでエルガーのエニグマ変奏曲やバーバーのアダージョを流すわけには当然いかないが、またシャルマン・パレスティンやアンソニー・パテラスのミニマル/マキシマルな音楽がかかるわけにもいかないだろうが、それはともかく、この映画でのキアラの内側がダダ漏れである事態とその内側の声が外に現れる時の素っ頓狂さは、キアラの優しさなどではなく、彼女の現実を圧倒的に直視しないっぷりの凝縮が、彼女個人はそういう人だったでは到底すまないのだということを世界にわかりやすく伝えている。ここで選ばれたそのわかりやすさとは別の方法でテロを描く映画が多いだろうと思う。
 
 センデロ・ルミノソ、ハマス、ETA、レズボラ、アブ・サヤフ・グループ、武装イスラムグループ、ハラカト・ムジャヒデイン、レズボラ(神の党)、ガマア・アル・イスラミーア、アル・ジハード、カハ、カハネ・ハイ、クルディスタン労働者党、解放の虎、ムジャヒデイン・ハルク組織、パレスチナ解放人民戦線、パレスチナ解放人民戦線総司令部、アルカイダ、コロンビア革命軍他彼らの活動を基にし、どのような映画が今後作られるか。
 
 (a) 誘拐は物語の主題であってはならない。
 (b) 誘拐されるのは子供であってはならない。
 (c) 誘拐犯罪の詳細は描写されてはならない。
 (d) 誘拐犯は犯罪によって利益を得てはならない。
 (e) 誘拐犯は罰を受ける。
 
 これらのコードに縛られないところで……
 
 指導者を誘拐し、殺害しない場合、どういう選択肢があるかについて、さまざまに世界中の家庭で学校で議論されるべきだが(決断不能症の世界最大の見本実験場と化している国ではいかに決断しないかにおいてさらに全力であり続けていて場所自体が何重にも終わっていく)、たとえば誘拐し監禁している最中にその指導者に手記を書かせ、それはわたしの属する組織を糾弾していても一向に構わずむしろそれを望むくらいで、注釈をつけてどこぞに出版してもらうからいいのだという考えなども当然あるだろう。その注釈のひとつにキアラの視点という章が入ったり。それとは別に誘拐した人物をあらかじめ材料としか考えない者たちもいるだろう。その材料をどう使うのか…こんなことどもなどをあらかじめ映画自体に織り込み済みなのがベロッキオであり、それはこの度はキアラに「夜よ、こんにちは」の草稿を渡す青年というかたちで。
 そのように本作は実に開かれ、実践的だ。がそれはあくまで上記の選択肢について考え直すことが前提なのは当たり前であり、そうでない無数の教養の映画語りもいいが、で誘拐してどうするのだあなたは…
 またキアラが見た夢に悲しいせつないノスタルジーを感じるのもいいが、しかしどうするのだあなたは誘拐して…
 さらにキアラの夢を冷酷に愚弄するのもいいだろうが、ではあなたは誘拐したなら…
 ベロッキオは複雑巧妙な説話的回路の闊達精妙なドラマの歴史どもには関心などないだろう。巧妙精妙なそれらに興じていれば決断不能はえんえんと匿され…などということはどんなに過激な身振りや設定に彩られていてもそれは世界の変わらなさを最大限に欲している。その権益と身の回りに毎日明滅している希望の軍隊たちにつきあっているうちに百年などはまたあっという間に過ぎていくだろう。過剰適応者たちの楽園。それらはすべてゾンビの住処になることすら許されない。
 思想と愛は両立するというベロッキオはどの層でそれを話しているか。
 愛ではなく視点だけではないのかに答える映画とは。両立する愛に相手の生存は含まれるか。
 誘拐後の練習。そんなものは許されないとすぐに世界は。ならば映画語りが続くだけだ。