ぽつねん 第2回

音楽家・井手健介さんによるエッセイ連載「ぽつねん」、早くも2回目の登場です。今回は家賃が払えないという窮状に対する友人の何気ない助言から、“手に職をつける”ことになったお話。 その結果として生まれたのは「おてもやん」ではなく…!?

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オカルト 



文・写真=井手健介

 
やばい、家賃が払えない。って言ってしばらくしても、まだ体が動かなかった。
砂時計のマークがずっとチカチカしていて、その中の砂がいっぱいになり、半分になり、空っぽになると、またいっぱいになり、半分になる。その間ずっとそこに砂時計があって、呆然とその横に立っていた。もうずっとこうやってフリーズしている気がする。自分はどこか遠くに何かを置き忘れて来たのではないだろうか。
 
やっ、これはいけない。って言って私は外に出た。気分を変えて友達とでも話そう。歩いて柳小路まで行き、その夜は楽しく酒を酌み交わし、とても幸せな気分になりました、と言いたいところだが、実際には音楽の話、誰かの噂話、死んだ猫の思い出話なんかをしたのち、やはり貧乏の話になった、やはり。その時ふと、友達のひとりが、「井手くんはマッサージなんか向いてるんじゃないか」と言い出した。それに私は形だけ同意したが、しばらくすると本当にそんな気がしてきて、翌日には受話器を握った。
電話口の受付スタッフが、明日からマッサージの学校に来てくださいという。
「2ヶ月くらいの講習で、すぐ現場に出れます。弊社は完全歩合制なので、揉めば揉むほど儲かりますよ。学校と同じ母体が運営しているマッサージ・チェーンがございまして、全国に300店舗以上構えています、まずは技術を身につけ、開業届を出していただき、個人事業主になっていただきます、そして弊社から業務委託を受けるという形で、店舗に赴いていただきます、最初は1時間3000円の料金のうち1500円が手取りですね、指名が入れば指名料はあなたのものですから」「なるほどです」そうして私は言われるがままにマッサージ学校の生徒となった。
 
それから2ヶ月後、本当にマッサージ師になった私がいた。
開業届に判を押し、税務署に提出。屋号は「おてもみん」。
これで、完全歩合制で、揉めば揉むほど儲かりますので、大丈夫です。もう私は大丈夫です。
 
希望に満ちたマッサージ師が満を持して派遣された店舗は、自分にとっては馴染みのない、葛飾区の金町という駅にあった。いや、正確にはその駅からさらにバスを乗り継いでやっとたどり着ける、果てしなく遠い場所だった。
業務委託のマッサージ師には交通費は支給されない。
片道の交通費がちょうど1000円で、往復で2000円。所要時間は片道1時間45分ほど。本当に果てしなく遠い気がした。これから7時間の勤務だ。過酷かもしれない。いや間違いなく過酷な肉体労働。
でも、やるんだよ。
 
7時間後、店舗から出た私の表情は、おそらく「無」だった。
結果を言うと、7時間を通して、私はおじいちゃんを1人揉み、残りの6時間は待機していた。待機の間は無給である。その日の売り上げはおじいちゃん×1=1500円。交通費が2000円なので、500円の赤字。500円払っておじいちゃんを揉ませていただいた、ということだ。
 
夕暮れの金町はとても美しかった。
どこからか「夕焼け小焼け」のチャイムが聞こえてきて辺りを見渡すと建物も人も区別なく全てが夕焼け色で、ああ、美しいなぁ、と思いながら、クラブ活動帰りの小さな野球選手や、子どもを迎えにペダルを漕ぐ母親、初々しい高校生カップルとすれ違いながらバス停まで歩き、 1時間45分かけて自宅へ帰り、当時同居していた女性に今日あったことを話すと、「なんでやろうと思ったの?」と言われた。
 
その全てが、今ではいい思い出です。
 


井手健介

音楽家。東京・吉祥寺バウスシアターの館員として爆音映画祭等の運営に関わる傍ら、2012年より「井手健介と母船」のライヴ活動を開始。2015年にファーストアルバム『井手健介と母船』(Pヴァイン)を発表。2017年には12インチEP『おてもやん・イサーン』(EMレコード)をリリース。その後も映像作品の監督、楽曲提供、執筆など多岐に渡る活動を続ける中、2020年4月に「Exne Kedy And The Poltergeists」という架空の人物をコンセプトとしたセカンドアルバム『Contact From Exne Kedy And The Poltergeists(エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト)』(Pヴァイン)を発表。同年12月、同アルバムからのセルフリミックス12インチ盤『エクスネ・ケディの並行世界』(同)をリリース。