宝ヶ池の沈まぬ亀 第56回

青山真治さんの連載「宝ヶ池の沈まぬ亀」第56回は2021年1月末から2月にかけての日記。都内では自宅に籠って大江健三郎を読み進め、ひとりジャン・ルノワール週間を開催するなどして過ごし、DIYで生まれ変わりつつある伊豆の別荘にはレコードが持ち込まれオーディオ環境の整備が進められます。その他、Bialystocksのファーストアルバムや、ついに最終回も迎えた大河ドラマ『麒麟が来る』についても。

56、しいていえば猫のため、と天鼓は云った

 

文=青山真治


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某日、雨。起き抜けから夫婦で咳したり、くしゃみしたり、料理の味付が混乱したりして、これはいよいよと身構えるが、どうやら寝不足と疲労、それに低気圧による呆けらしい。
午後までまたべつの企画のことを具体的に作業していたが、昼餉ののち、会社へ出る。正月撮影分のラッシュ試写。これは例えば『アトム対コロナ・東京代理戦争』とかそういうタイトルでもいいのではないかと思うほどサスペンスとアクションに満ちていた。繋ぐのが楽しみ。夜、会社からYCAMとのリモートトーク。元小倉昭和館支配人/現YCAMキュレーターの前原さんに司会をお願いし、のんびり語らった。
しかしまあ雨は止まないし寒いので早々に帰宅し、あとは巣籠もり。深夜に目覚めると隣の屋根が夜の下で白く浮腫んだように見え、明日は銀世界か、と期待しつつ寝たが、起きてみると全て消えていた。朝餉の後、女優が画材を収納するために部屋を片付け始め、これは始まるとかなり大展開になるので、落ち着くまでそっとしておくに若くはない。
というわけでこちらは寝たり起きたり。Amazon注文が依存かというほど過剰になりつつあるので一旦「ほしい物リスト」に入れてしばらく様子をみる作戦でカームダウンせんとするも、結局「ほしい物」というのは次々増え、しかもそれが在庫数が少ないとなると焦らされる。ということで結局多数贖う。それにしても翌週末まで静観の予定。夕方、サンソン。言うまでもなくフィリスが三曲。大河は動きなし。
夕餉ののち、見逃したドラマ『俺の家の話』第1話。プロレスラー役をやるのに体を作った長瀬くんは偉大なアクターである。やめちゃいけない。まだまだ彼のことが見たい。この脚本には乗れないけれども。アルゼンチンでは家父長制度へのアンチとしての中絶法が施行されたというのに。本放送の時間をずらして見たり聞いたりすることの自由さを満喫しつつ、続いてNHKラジオ『ジャズ・トゥナイト』。大友良英さんがアイラーを語り聴かせる2時間。大友さんの表現ではないが、アイラーを聴くといつでも海に浮かんだ気になる。あるいは草原かもしれない。高揚そのもの。『Holy Ghost』は聴いてないのでここで聴けて嬉しかったし、他の曲も久しぶりに聴くものばかりで、でも懐かしいとかではなくむしろ緊張した。メアリー・マリア・パークスについてかつて大友さんと同意見だった気がするが、いま聴くといい声だと思い、詞がどうあれ音楽として面白いと感じた。月並だがジョン&ヨーコを連想しもした。で、自慢じゃないけどアイラーとは誕生日が同じだ。向うは1936年でこっちは64年。同じ誕生日といえばもう一人、ロジャー・マッギンが42年。二人とも此方からはかなり隔たっている。どうでもいいけど。二人ともある時代の音を作った人といえば言えるか。で、あとまあ…のんちゃんね。
 
某日、自分が読書として大江の森に分け入っており、旧友がその近所への旅行をFacebookに上げるのを此方で見ており、その他やたらと四国が最近の意識に触れ続けていたが、その度に鮮明な記憶として浮かび上がるのが数年前の夏の高知だ。そこで大変お世話になった方の訃報が届いた。当時すでに余命が宣告されてい、そこからさらに一年以上延命されたわけだが、それでも愚兄や仙頭武則と同年代だから早すぎるとしか言えない。あまりに早すぎる。悔しい。前回も捨て台詞のように書いたがコロナ以外の病に伏せる、または帰らぬ人が周りに多くいて、それは自分らの年齢がその危機に臨む領域に達したということだが、泣言を呻かせてもらえば人生はかくも儚い。まあそう言わずに面白おかしくやっていきましょ〜、とのらりくらりふらりふわふわ生きてきたつもりだしこれからもそうしていきたいとしか希んでいないが、こういう日も来る。儚さがずしりと重い。亡くなった御母堂が御老体と送る日々の暮らしからいまの自分が健康を目指す日常の基礎を学んだ。そのことに深く恩義を感じずにはいない。御母堂を亡くした当人は今日から私と同じ親のない子供になる。いや、彼には素敵な御祖父様がいまもいらっしゃる。優秀な弟もいる。残された方々に少しでも長く美しい時間が流れることを心より祈念してやまない。
 
開いた頁にある詩文をそのまま書き写す。ダンテ『神曲』(山川丙三郎訳)である。これを故人に捧げる。
《さていと聖なる浪より歸れば、我はあたかも若葉のいでて新たになれる若木のごとく、すべてあらたまり/清くして、諸々の星にいたるにふさはしかりき》
(大江健三郎『懐かしい年への手紙』第三部第一章表題)
発表順に読むつもりだったが、これを終えたら『燃えあがる緑の木』へ跳ぶつもり。
 
画用紙とクレヨン、届く。手始めに赤い渓谷を描いた。四万十だろうか。
 
某日、二日連続で日がな大江没入。途中、拙作「帰り道が消えた」を想起せずにはいられない場面あり、初見にもかかわらず非常に影響を受けたかのような錯覚を覚える。これとその前の活劇的場面が舌を巻くほど好くて、今世紀に入ってのどれかにあったスッポンの解体シーンをも彷彿とさせ、さすがなのだが、これは伝聞で構成されているせいで全てがアイリスで絞られたような奇妙な印象を感じつつ読んだ。伝聞というだけでなくそれは妹や妻などほとんどが女性たちの声(口語)によるものだと言えるが、それでもまあゲーテやイエイツは男だよね、と混ぜっ返すことも可能。中で印象深い、男(僕)による一言。《爪跡なりと、地上に残そうとして生きる人間というのが、ギー兄さんの現世観と対立していたんだね》。そう思わせる部分がそもそも好きになれない理由だったが、さりげなく語り手にこう言わせるほど裏ではその点の屈託は深いのであり、それをこうした形で露呈させるアルターエゴの拵え方の徹底ぶりに逆に頭が下がった……ま、そのあとに続いて、足跡を消すインディアンの描写があり、大江も西部劇を見るかという感動が大きかったのだが。
 
某日、病院。さらにインスリンの量が減る。かなり良好な状況。数ヶ月前に死にかけたとは思えない。駅前まで買い物に出かけたくらいで、あとはノルマ。夜半、『懐かしい年への手紙』読了。実に三十五年前の宿題を済ませた感。傑作であることは認めた上でだが、それでもやはり私は中上が好きなのだというのが正直な感想。これと『同時代ゲーム』足しても『地の果て 至上の時』に敵わない。ただ、この「女性たちからの伝聞」という形式は今世紀の大江作品においても最も感動的な側面を彩った磨きのかかり具合については現代文学最強と言っていいのではないか。女性視点では三十年前にやはり途中で挫折した『人生の親戚』をこの後読むが、その前に森=ギー兄さんがらみの仕上げとして『燃えあがる緑の木』と『M/Tと森のフシギの物語』を読んでおくつもり。それにしても、昨日《爪跡》問題として指摘した部分が即座にギー兄さん自身による母親への反駁の台詞で明かされるとは。こういう人だよね、大江って、と笑うしかなかった。
ところで前回「冒頭二十分の法則」というのを書いたが、別の理由で『花様年華』を見ていてふと確認したら、最初にマギー・チャンが孤独に苛まれる場面が「二十分」だった。あれほど目まぐるしく錯綜していてもその辺はきっちりしている。または目まぐるしいがゆえにその辺だけは押さえるのか。そういえばこの作品、マギーの夫もトニー・レオンの妻もはっきり顔が出てこない。後ろ姿やなんかはある。小津でもヒロインの結婚相手は出ない。『空に住む』で愛子の結婚相手を見せなかったら省略しすぎという批判があった。でもあれは省略ではなく、見せるべきではないと思ったから見せなかった。そういうものだと思う。それにしてもマギーもトニーも視線の置き方・流し方が見事というに尽きる。これができる人はなかなかいないだろう。視線を制する者は世界を制する。何しろ言語に関係ないからな。あとまあ手の動きも同様に。そう、手を見るためにこれを見始めたのだった。
 
某日、ノルマ通常営業に戻る。その合間に「映画芸術」最新号が届いたので見たが『日本独立』の特集などどこにもなくて、であれば「もういらないだろ映芸」と思う。『プライド 運命の瞬間』の時は表紙にまでしたじゃないか。ベスト/ワーストでも言及した方はごくわずか。これが目玉と考えた私が鈍っているのか。粛々と頑迷な党派性の中で追悼だけしていてくれれば変に期待なんかしないで済むのに。だが何処に出しても通用しそうにない主観が<実>としてまかり通り続ける。<虚>によって<虚>を語ることに賭けられたのが『スパイの妻』の「暗い画面」という半地球規模の<実>であって「郷愁」などかけらもないことが議論されない場でアクチュアルな「映画芸術」を語りえるだろうか。
夜、ずいぶん以前から放置してあった『マザーレス・ブルックリン』が悪くなかった。殊にハーレムのクラブで登場するトランペット吹きとエドワード・ノートンの絡みは絶妙である。実のところ鼻の奥が反応する寸前だった。もちろんノートンのチック症が、たけしさんかというくらい好いのは言うまでもなく。俳優陣おしなべていいのだが、特にアレック・ボールドウィンはこれが最高傑作なのではないか。原作が現代の話であるらしいのに対し、殺されるヴェテランを太平洋戦争の生き残りにしたのは在日経験のあるノートンならではなのだろうが、五〇年代のNYの建設や公民権運動をBLMの今にぶつけるスピード感も言及されてしかるべきだろう。その意味でさらに興味深いのは、チック症で「イフ」と言葉の出る「もう一人の自分」と任務中に彼を尾行する同僚の影を見ることによる、イメージとしての自己の二重性の強調。ただの精神分析的アプローチではない演出のあり方が面白い。聞いたことを忘れないという特殊な才能は、同じことを健常者として行うのを『バードマン』でも見た気がするが、要するに俳優礼讃だとしても悪い気はしない。あと、珍しくトム・ヨークの歌が良くて、作品にハマっていた。ただ少し残念なのは、これというショットが見られなかったこと。どれも何となく中途半端に感じられ、アクションも定番の域を出るものではなかったのは惜しい。
しかし2010年に映画化を決め2019年に公開された本作のアクチュアリティ、臨機応変ぶりを見ても本邦のダメさ加減がわかるというもので、前政権までに企業の稟議を通過したものに三十年前と変わらぬ論理による批判が通用するわけのないことは火を見るより明らかであり、それらに向けて相も変わらず批評家も実作者も映画とテレビと読み物(あえて文学とはいうまい)の区別もつかないまま惰性の発言を繰り返すばかりであって、この十年間で凝り固まった石頭とともにいっそのことみんなまとめて粛清してしまえばいい。
 
某日、ノルマさらに進む。
 
某日、ノルマさらにさらに進む。夜、勉強しすぎで脳がぼーっとしてきたところに約ひと月ぶりのステーキを投入。パッと目を覚まして、気分転換に『名うてのバード兄弟』。バーズというよりはゲイリー・アッシャー的なものを聴きたくなって。やはりとんでもなく頓珍漢なアルバムという印象は変わらず。ホントにフェイズ好きだな、何かっていうとフェイズかかってる。こないだマッギンがある時代の音を作ったなんて書いたが、たんにチマチマしたアイデアをてんこ盛りにしてみたというだけと言われても仕方ない。しかし、本作のゴフィン-キャロル、クラレンス・ホワイト、それにジム・ゴードンはなんにしろ良い。そして実際ポップス史上特殊にピンポイントの「リッケンバッカー十二弦エレクトリック」と三声コーラスの音像を確立したのは彼らであることは動かしがたい事実。
ふと目についたので『イタリア旅行』。二十分目に何が起こるか見てみたら、叔父の別荘でシエスタの時刻に眠れないサンダース、の場面だった。この映画はだいたいどうでもいいことばかりが起き、二十分でも四十分でも大差ないが、しかし私たちは多くこのような形で人間存在の普遍に近づくことができる、という典型がこれ。ショッキングな事件よりもむしろ凡庸な日常の繰り返しが……などとぼんやり考えていたら、死んだ母の亡骸を湯船で洗っていると母が急に目覚める、という幻想がふと頭に浮かんだ。寝てはいないので夢ではない。しかも私はそうやって親を見送ってはいないので、これは完全な幻想なのだ。昨日からぶっ続けで人の死についての描写を考え続けていたからだろうか……まあそういうこともある。それはともかく、話を戻すと、現実にあり得ないようなことよりも現実的すぎてどうでも良いことを描くことのなんと難しいことか。この映画の六十分あたり、何となく知り合った人妻は夫の元へ帰り、ふと拾った娼婦は二日前に死んだ女友達の話をし、そういう生きていることが嫌になる、というより生きているのに飽きてしまった事実を思い出させる要因たちがいつの間にかどんよりと近づいてきているもので、だがひっくり返るときは恐るべき牽引力と速度を持った何かがまるで空中にむんずと掴み上げるようにひっくり返すのだ。そういうのを神業と呼ぶのだが、何でもかんでもそうなるわけではなく、しかし基本的になんでもないことのなんでもなさをひ弱とか呼んで不満げにして見せるのは批評家の仕事ではあるまい。かくいう私も二十代の時に本作のこうした凄みがわかっていたかというとそうでもなかった。しかし今は、過剰さも空疎さもそれに耐える脚力は同等に必要だということは肝に命じている。
 
某日、ノルマは続くよどこまでも。午後、ぱるるを美容室に迎えに行った。体重5キロのお嬢ちゃんを抱いて帰るのがそれなりに大変になってきた。高齢お父さんの気分。
ところで昨夜の『イタリア旅行』でバーグマンが中途で見学を辞めるのは最後だけではなく、途中のシビラの神殿というのもだが、これがなぜだかわかるようでわからない。亡くなった詩人の詩を暗誦するので彼を思い出し、詩の舞台がその神殿だと気づいたらしいが、その死と自分への恋慕とを結びつけたかどうかまでは判然としない。あのときそれに気づいてあの人と結ばれていれば、と。それとも、そのような過去がある身として夫のエゴにとやかく言う筋合いかと痛いところを自分で突いたのか。とにかく見学を途中で放棄するのはそこで気分がバッドになったからで、ついでにガイドのおじさんも辞め、おじさんはバイト代を取りっぱぐれたみたいだが。
夕方、大河。帰蝶、いつもながら見事。別に格調高いと言うわけでなく、多くが巧者と納得する嫌味な形ならいくらでも適役はいるだろうが、この可憐さと紙一重の獣性というべきか、何か猛々しいものを登場以来継続させているのも本木=道三を父に持つという宿命の形象化か。演出も脚本もどちらかといえば杜撰だと思うが、そこだけは成功している。それにしても来週で最終回だと言う。本能寺・山崎抜きというのもオツではあるが。溝口『元禄忠臣蔵』みたいに。
で、気づけば今週は見事にステイホームだったと気づく。一番遠くて駅。昨年の前半も同様だったが、違うのは仕事をしているかどうか・酒を飲んでいるかどうか。相変わらずなるようにしかならないと腹はくくっている。
 
某日、ここのところ毎朝6時前にぱるるのハングリーサインで起こされ、寝不足気味。最近は肉を焼いているので少し時間がかかる。もちろん飯はあったかいのがいいのは犬も人間も同じ、だろう、たぶん。
で、二月である。二月一日といえばパピィの誕生日。祝日といってもいい。なので昼間はノルマをこなしたが、夜は『ハリケーン』。先生の「投げること」に飛び込み=人体投擲が入っていたかどうか記憶が緩いのだが、ここでの飛び込みの大盤振る舞いは村人全員みたいなところがあって、かつて女優の仕事にマネージャー代行で行った小笠原父島を出航するときに大勢の島民が見送りでフェリーを追って次々飛び込んでいったのを思い出す。現代のこの国でフォードへのオマージュが可能だとしたらあれしかない。そしてここでまたメアリー・アスター。美声である。それはそうと、単独でミディアム以上の寄りになるとあまり構図が決まらない気がするのは『駅馬車』あたりもそうだが、もしかすると後期へ繋がっていく単独/寄りの鋭さは『怒りの葡萄』でグレッグ・トーランドと組んだ時に会得したものなのではないだろうか。本作で「パーソナライズできてない」とサミュエル・ゴールドウィンに小言を言われて単独を撮り足したらしいが、それがそういう転機にもなったのだろうか。もう一つ、本作といえばミニチュアの素晴らしさだが、たぶんアレクサンダー・ゴリツィンの仕事である。数年後『海外特派員』の水没コクピットをやり、五〇年代はサークはじめ巨匠たちを支えた。何度見ても惚れ惚れする模型と水と人物の大胆なマッチング。
興奮しつつ、なぜだか気になり『チャイナタウン』。思い出したのは『マザーレス・ブルックリン』を見ていてこれを思い出したのは何故だろうと気になっていたのが、実はあそこでNYの発展とその裏側をモチーフにしていたがここではLAのそれを語っていたという共通点だった。しかし後半の陰惨極まる展開をよそに半分ふざけているように見える刑事たちの芝居はこれに続く時期の日本映画に多大な影響を与えたものと思われた。残念ながらこれほど陰惨なバックグラウンドがないせいでただの悪ふざけにしか見えないパターンがほとんどだったが。この陰惨さを受け持つフェイ・ダナウェイ級の女優がいなかったといえば嘘になる気がする。あと、バート・ヤングの出方が笑えた。特に後半。
 
某日、Twitterに引用されていたフォードの言葉。「やばいのは映画の物語る技術が失われることだ。セリフで語れば簡単だってのは至極単純だが、それじゃあ映画の一番大事な部分がなくなっちまうんだな、運動がね」。キースの「rockはいいけどrollはどうした」ばり。けだし名言であり、常に肝に命じなければならない。
一旦ケジメのついたノルマの目先を変えてこの日記の遡行に再び着手。京都から戻ったあたりまで来て、自分で言うのもなんだが、なかなか陰惨な風景である。具体的に文章としてではなく、そこから立ち上がる記憶が陰惨なのである。途中、何のことを言っているかわからない部分(名前を伏せて「とある映画」について語っている、など)があるが、こういうのをそのままにして出すべきかどうか思案のしどころ。「これが何か今となってはわからない」とか何とか註をつけるべきだろうか。それはそうと、体の不調を訴える四年前の自分に言ってやりたい、酒をやめて足をあっためたら楽になるぞ、と。不調が改善されるかどうかではなく、不調と付き合っていけるようになる。まあ気分の問題でしかないかもしれないが、楽な方がそりゃあいい。
 
某日、朝餉ののちガスコンロの取換工事の見積りの方が来る。この家が建って十六年ほどか、ガタも来ようというものだ。終わるなり準備、するりと伊豆へ。今回はアナログ盤の引越しを、と計画していたが、予定の半分も動かせなかった。海老名でトイレに行くと、女優が珈琲を買おうとしても売り場は閉まっていた。それが緊急事態宣言下というものか。いつも通りぱるるのためにもう一回、網代のセブンでの休憩を挟んで到着。伊東のカインズへ買出し。仕事用の椅子とDVD棚、工具など購入。昼を食べ忘れ、椅子と棚を工作するうちに夜も忘れそうになるが、やはり空腹が来て饂飩。
来る時はバーズ『イージー・ライダー』を延々と。この季節のドライヴはこれに尽きるか。しかし笑ったのは朝箱詰めしたアナログ盤のうち、更新された樋口社長の日記に登場する半分が含まれていてその偶然にだが、それよりさらにぶっ飛んだのはTwitterに上がっていた「ひるのいこい」ネタ。二曲目の紹介、曲が始まった途端、変なエアポケットにするりと落ちて面食らい、爆笑。やっぱ凄い、この番組の選曲者。ハガキも驚嘆すべき内容だった。
深夜まで複数のノルマを行ったり来たり。
 
某日、ほとんど素朴な疑問になったが、例えば有名監督がこう言ったああ言ったという話を知っていれば書きたくなるのは人情だし、それ自体が悪いことではないが、それに終始して画面の話はとんとご無沙汰というのもいかがなものか。基本的にひとは真っ先に画面に反応するもので、それを作った人間のことなんかは後回しというかなんだったら無視するのが映画を語る立場というものと思うが。
朝餉後、やおらモンスターケーブルを所定の長さにカット、ニッパーで銅線の先を裸に剥いてバナナプラグを取り付けながらプラスマイナスの線の区別に白いラインがあることに気づき、バナナプラグも赤と黒に色分けされていることにも気づきながら接続への心の準備、一歩一歩山頂に向けて踏みしめるようにアナログ環境を積み上げていき、ダリのスピーカーへのバナナプラグの接続方法がわからないので裸のまま繋ぎ、電源を入れ、さて最初は、と選んで、ピンク・フロイドファーストB面ということにし、針がバリッと音を立て、それからCDも聴いておかねば、ということでバーズのシングルコンピで「ミスター・タンブリンマン」を、納得してまたアナログに戻し、未開封のBB『スマイル』を開いてA面三曲めまで行ってB面ラストに飛び、最後にC面ラストへ。この段階で、ああ死んでもいい、もう残りの人生ここで音楽を聴き続けていたい、ありがとう、という妙なる至福状態。ほぼ涙目。もっとかけろという女優のリクエストにお答えしてアラン・トゥーサン『ライフ、ラブ・アンド・フェイス』を両面、イーノ『テイキング・タイガー・マウンテン』両面、といきなりのDJ状態。午後になって腹に何か入れ、またもや買出し。本日は小物に終始。帰宅すると今度はテレビモニターの調整。もっぱら色をやって行くのだけれど、やはりスタンダードはどうしてもかからない。ただ『旅芸人の記録』から始めて、『ケーブル・ホーグ』(色)『ローラ』(モノクロ・シネスコ)『暗殺者のメロディ』(カラー・シネスコ=レターボックス)と試して行くサンプルがこれまたすべてフェイヴァリットなので、至福。とりあえず終えてTwitterを見ると、キネ旬作品賞に『スパイの妻』の報、ここでも『ケーブル・ホーグ』とともにみすたあ有りかと。というわけで仕事は何もせず、のほほんと過ごした一日。
ということで、世の中で起こったことは相当水で薄まった状態でしか。あれは田中真紀子が名付けたか、シンキロウはシンキロウであればよかったのに、それとも引退の機会そのものがシンキロウだったか。
疲れたので、てっぺん前に就寝。
 
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某日、朝も六時過ぎまで寝ていた。しかし本日から撮影再開につき早々に準備開始。SNSは相変わらず老害五輪ネタ。写真入りで記事を引用している人が多数いるが、よくまああんな醜悪な老いぼれのつらを何枚も並べて嫌にならないものだ。スルーするのも時間を浪費するので迷惑。しかしファシズムとは美醜を問わず老若男女どこからでも現れ、男の影には女、女の影には男、という裏の構造も不変であり、最悪なことに下火になることはあっても決してなくならない。あんな老いぼれの存在など首相時代以前から癌であっていまに始まったことでもなく驚くに当たらない。奴より前の老人たちは頼りになったものだが。
中原がFBでリメイク版『ハリケーン』について書いたのでついでに本家の話になったが、私はミニチュアが好きだという事実が改めて身に沁みた。ハリーハウゼンはもちろんフェリーニ、メルヴィル、キムギヨンという二〇年代生まれの作家たちがミニチュアに執着するのはなぜか、という疑問を持っていた(たぶん「メリエス好き=映画好き世代」か)が、私自身も『冷たい血』で主人公がミニチュアの中に入って行くシークエンスをやろうとしていたことを思い出した。美術・清水剛とコンテまで作ったはずだ。残念ながら予算が合わなくて諦めたけど。実は『空に住む』でもタワーマンションからの眺めをジオラマで、という話もあったが、考えてみるとそういう部分は師匠譲りで、リバイバルの『地獄の警備員』でもビルのミニチュアを撮影したが、電飾を取り付けたのは何を隠そう、私だ。年末だか年明け早々だかにスタッフルームのあったマンションの屋上で夜、半田付けとかした。黒沢さんにそういうのを器用貧乏というんだとからかわれた。撮影直前に大風邪を引いて皆さんにご迷惑をかけたのだった。昨日ケーブル剥いたの、あれ以来かも。でももちろんいまなおミニチュア狙いは諦めていない……あれはなんと言ったか、ちびっ子光線を浴びて小さくなったトムとジャックが探偵やるというアメリカのアニメがあって、あれを実写でやるのが夢です。それはミニチュア好きというより特撮志向があるということで、樋口くんをはじめ同世代はみんなだいたいそうかもしれない。
 
某日、初日撮影は早々に終わったが、夕方からどうにも胸が苦しくなり、心臓か肺かわからぬまま寝たり起きたり、とうとう十時前に布団に潜り込んだ。そのため翌朝は午前五時起床したが、気忙しいので朝餉の支度はやめ、午前七時前にサンドイッチを贖いに。コンビニは朝食を求める客でえらく混んでおり、出勤の車もひっきりなしであった。午前八時撮影隊到着。迎え入れ、私は二階に籠もりきりとなる。で、夜まで動かず、この日記の過去を洗い直す作業に専念。夜まで問題なかったが、夕食後またもや胸が苦しくなり、二日連続で早々にダウン。だが二月というのに蚊が発生。うんざり。
翌朝は普通に起床、朝の支度は饂飩。撮影中は延々と昨日の続きで過去日記の洗い直し。何度かぱるるとともに撮影に参加する。ぱるるは庭でトイレができるようになった。今回も撮影は無事終了し、スタッフの撤収と同時に夕餉の弁当を食したのち、いつ以来となるか、シド・バレット(セカンド)を聴く。子供の頃から変わらないが「ジゴロおばさん」から始まるB面が好き。最後の象の鳴き声を久しぶりに意識した。ついでと言ってはなんだがファーストも。これはだいたい両面良い。大河最終回をネットで見たいがすでに眠い。
 
某日、そんなわけで早々の就寝から五時起きで拝見。
長谷川博己様、本当にお疲れ様でした。山崎の合戦が描かれなかったこと、あたかも『元禄忠臣蔵』のごとく、という形で期待もしておりました。長谷川様が光秀を大河の主役としておやりになったことは長く国民的記憶に残ることと存じます。門脇麦様もお疲れ様でした。この大河が二人のシーンで終わるであろうことは、それが鞘の直後でよかったかどうかは別にして、出会いの回から予想しておりました。菊丸を通じた家康と光秀のやりとりには説得力を感じましたし、私もかねてよりあのような裏があったと考えておりましたが、一方伊呂波太夫との別れはあそこではなかったように思います。せっかく彼女を使うなら細川藤孝の線ではなかったでしょうか。金を積むという太夫に対して藤孝が金ではない、と支援を断じる。玉を守る義務がある、という言い訳はどうでしょう。と言いつつおしなべて異論はございませんがただ一点、信長の論理に矛盾というか、それは違うと信長なら訝るだろう、それは天皇の認識です。仮にも「大きな国」を標榜し、まして史実として異国文化にも触れた世界観の持ち主信長が、しかしどうあがいてもこの天皇という制度に歯が立たない、それより上には昇りようがないというこの国の宿命を「操作」という方法だけで受け入れえたでしょうか。こればかりは、また泣いて済ませるというわけにもいかない。しかしそこに話が及ぶと困るので製作・演出サイドも宣教師や黒人をほとんど起用しなかったのでしょうか……とまあ様々考えさせられる大河であったことは確かです。毎回様々不満を持ったり、世間とは真逆の評価だったりしてきましたが、いずれにせよ今回も何か抱えさせてもらったことは確かです。皆様本当にお疲れ様でした。
それでも私の「信長生存説」は揺るがない、というかなお安泰なのだった。
朝餉とともに、アナログで『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』と『キャント・バイ・ア・スリル』を堪能。大満足で帰り仕度。毎回ゴミを東京に持ち帰るのがひと苦労である。
帰路では海老名が渋滞と表示が出ていたので大磯のパーキングで休憩。しかし結局支障なくすんなり東京まで帰る。カーステはバーズのいわゆる『(Untitled)』を延々。最強のライヴバンドの通称通り、小技までバカテクのクラレンス・ホワイト、どこか狂気を帯びているのだが同時にバカみたいでもあり、しかしこの驚きのなさは同じ誕生日を有する者同士が特有に抱く感覚だったりするのかもしれない。
到着しても、ゴミはもちろん、余った食料などをまたあちこちと保管していくのも時間がかかる。買出し含めて全て終了した時には日が暮れかかって、すると伊豆より何度か冷たい風が吹いていた。のみならず、伊豆では花粉のアタックが強力だったが東京ではまだそこまでではなさそうだった。しかし変化に驚くより、ただ寒い。
夕餉はUberで近所のタイ料理。やたらうまかった。
昼のアナログ浸りの影響でレコード屋を回りたくて仕方なくなる。そのため、Amazonの「ほしい物リスト」からCDの姿が消え、書籍だけになる。もちろん気になるものはポツポツとはあるのだけど。気になるといえば、どうもフォークナーをもっとよく知りたくて翻訳と原書の見比べがここしばらく最も夢中な趣味になりつつあり、『サンクチュアリ』の冒頭を繙く。そのためkindleで原書を贖った。句読点の入れ方から気になってしまうのだが、1センテンスの長さもまた重要。この部分はフォークナーにしてはセンテンスが短く、短いなりにズドン、ズドンと小刻みにはまる、その勢いがいい。二つの翻訳を並べてもう一つ違和感が残る。原文から、ああこれ『少女ムシェット』だ、と分った。たぶんブレッソン、読んでいる。“From beyond the screen of bushes which surrounded the spring, Popeye watched the man drinking.” という出だしには、the screenという単語とは関係なく、キャメラ側を藪越しにみる荒くれた男の眼を中心としたバストショットがまず浮かぶ。まあ、最初の二つの単語でスチュアート・ゴードンを、全体の様子で『風と女と旅鴉』を想起する向きもあるには違いないが。そして読み進むうちにハドリー・チェイス抜きで『傷だらけの挽歌』に行き着くのだから、この『サンクチュアリ』という小説はつくづく因業である。
ともあれkindleも使えるようになったので、今後の消費活動はこれとアナログを範囲に含むことになって行くだろう。金銭的には少し楽かも……そうでもないか。
 
某日、昨夜も眠りながらフーコー読まなきゃなあと考えていたのだが、朝廣瀬純のツイートを見てさらにその思いを深くした。「DGの人」と考えられがちの純だが、いまの彼の思念にはフーコーも同等に重要である気がする。私自身読んでいないフーコーを読むことは長年現代人の責務のように考えてきたが実現していない。いま読まねばならない。
毛の伸び方というか美容室でのカットされ方のせいなのか、小さな野牛のように見えるぱるるに昨夜から「バイソンぱる山」なるリングネームめいた呼称をつけて遊んでいる。女子プロレスラーとして人気が出そうな気がする。彼女は伊豆にいる間に小道具の水風船遊びが楽しくて仕方なくなり、帰ってからもとにかくあれが欲しいという顔をして不満を述べるが、生憎近所に売っていなくていまはない。いずれ女優が贖ってくるだろう。
実は伊豆に行く前あたりから始まっているが若干鬱気味で、胸が苦しかったり眠りが安定しなかったりもそのせいで、仕事が手につかず困る。上弦の月を見たり朝焼けの空を眺めたり、あるいは外国語に触れることによってどうにか悪化を防いでいるが、他人と話すのが苦痛である。ガスコンロの交換工事が来ないので電話したが、いたって穏やかに話したものの、実は何を話したかあまり憶えてない。こういうことは酒を飲んでいるときにしばしばあったが素面でも起こるときは起こる。あるいは生きているのが辛いことを忘れているのが実はノーマルなのか。当面家人以外との接触は極力避けたい。電話も出たくない。コロナとは関係ない。頼れるのは「バイソンぱる山」だけである。
 
某日、朝病院。待合室にて『燃えあがる緑の木』を本格的に読始、というと大げさだが、とにかくのっけから大変面白いので診察室から名前を呼ばれても即応できなかったりする。採血をやって帰る。一日のうちでCDかDVDか本を探している時間が非常に長く、しかしそれもほとんど必要なものは仕事場に集結させ、やがて破裂するんじゃないかと訝るほどだが、それでもまだ何かを見ると何かが必要になり、この日は「群像」の「『東京物語考』考」という古井由吉が八四年に書いた書物について蜂飼耳さんが書いた文章を読みながら、そこに上がる名前のうち大家はだいたい頭に入っているが何人かの私小説作家の文庫、目を通したはずだがどこにあるかと気になって探した。結局ほぼあった。で翌日は入手したはずの黒田夏子『組曲わすれこうじ』が見当たらなくなってあちこち探し回った結果、仕事場の座椅子の真横、積み重なった中ごろに発見した。不要不急では全くないものを探して時間を浪費するのはいかにも不毛だが、精神の安定には不可欠なことで、見つけた本を開くと陶然とした時空が溢れる。
この二日塞ぎがちだったバイソンぱる山だが、それというのも水風船が忘れられないからで、これを飼い主が近所で発見、入手したから現在は階下にて大はしゃぎに遊んでいる声が聞える。しかし渡されてものの数秒で破裂。あっという間に一袋百個を消滅せしめる。
 
某日、朝からFBを開くと次々とこちらの常識を疑いたくなる話が業界筋のTLに並んでいてもどかしい。「芝居しやすい環境」というがそれは何なのか、役者にとってか、それが優先された結果ちっともリアルでない状況ができたらどうするのか。「成瀬は編集点でカットをかける」という証言があり、それは大島も同じことで苦笑されていたが、これは芝居のやりやすさにとってネガティヴではないか、ベテランがそうすることをどう捉えればいいのか。「やらなくていいことをやらないくていい」というのは幸せな環境なのか、ならばいっそ映画など作らなければいい、どうでもいい作業に拘泥し無為の時間を浪費することで我々の現場は豊かに立ち上がるものと思っていた。まあそれぞれいろんな考え方があるだろうから人様にとやかく云うつもりはさらさらないのだが。
そうしたことを気にしないようで気にする自分にうんざりして現実逃避、やめようとしているのにまたぞろAmazonで買い物、さらに自己嫌悪に陥る。まあヴァン・モリソン探求というずっと我慢してきたことなのだけど。あと、外国語の辞書を引いているとだいたい精神が安定するので韓国語もチャレンジしてみることにした。
チック・コリアの訃報。
今日が命日だと云うのでルノワールを何か見たくなり、こういうときを逃すとまた見ないだろうと『女優ナナ』を。二〇〇七年発売のボックスなのでそれ以来ほったらかしであちこちと封を開けずに移動させてきたが、ついに。で、見たのだが、これはあらゆる意味でいま見るためにこれまで未見だったとしか思えないような代物で、特にラスト三十分は心底動揺し、その直前の厩舎が焼けるのが何とも痛ましかっただけにちゃんと引き受けたいと思えた。どうすることが引き受けることかわからないが、今後は『女優ナナ』は凄いと吹聴して回ろう。それにしてもあのミュファ伯爵が座るベンチと彼と切り返される連中のあの構成は一体なんだろうか。『夢で会いましょう』だか『シャボン玉ホリデー』だかにああいうコントシーンがあった気がするが、気のせいか。ライティングまでそっくりの気がした。メイドがエプロンを放って排水溝に流れていく描写が秀逸であった。何はともあれ、ノルマと称して準備中のいまの企画(複数)にとって最重要サンプルの一つともなるのだった。
武田泰淳の誕生日。目の前にあった『快楽』を久しぶりに開くと、両国駅から始まり、隅田川の水面の膨らみ、秋葉原駅の複雑なホームなどの描写を懐かしく目に届いたのだが、すぐに眠くなってしまった。
 
某日、Twitterで知ったフアナ・モリーナというアルゼンチンの音楽家をYouTubeで見てAmazonにあったので贖う。そうやって決めた分以外のものに手を出さないようにしたいがなかなかそうもいかない。DVDの置き方を変えるなど掃除未満のことをしているうちに午後になり、NHKプラスで先日見たが大河最終回を改めて。自宅のモニターで見るとPCとは色(本能寺の早暁など)が全然違っていて、やはりPC視聴は何であれお勧めできかねる。光秀と信長の会話は三つのパートに分れているが二つ目と三つ目の繋がりがうまくない。そして結局光秀は反論できないままで、謀叛の論理は破綻していると見るしかない。これでは謀反はできないのである。信長を作ったのが自分であると認めるなら自裁も含まれるだろうがそうはしていないので、謀反はなかったというのが持論である私としては、やはりこの脚本は失敗と言わざるを得ない。細川藤孝との対面も伊呂波太夫との会話もやはりダメである。小道具をあれこれいじってきたのだから、ラストの袋小路でも何かちょっとしたものを用意すべきではなかったか。『ラストエンペラー』からだって学ぶことがないわけではない。
風呂に入り、のんびりするつもりがミルフォード・グレイヴスの訃報。アイラー本が出たりチック・コリアが逝ったり、などここしばらくミルフォードのことをしばしば思い出していたがやはり、という感じ。追悼にYouTubeで『メディテイション・アマング・アス』を久しぶりに聴く。やはり大傑作であり、いつもそうだが音の中心に真空の穴のような場所があって始まるなりそこにスポッと吸い込まれる感じが何とも好きだ。あまりこの人に没入したことはないが、少なくともこのアルバムは凄いと思う。
夜、昨日に引き続きルノワール『牝犬』。終了と同時に「字幕 寺尾次郎」と。思わず今年もお世話になります、と心で祈った。思えばこのルノワール週間、寺尾さんに貰った某DVDを見るかどうかに端を発している。しかし何か書こうとしたところでやおら地震。かなり長いのと揺れが妙な具合(グラインドというのか)なのでかなりやばい気になった。震源は宮城沖。東京は震度4とのこと。最強6+、M7.2。しかしこれでも十年前の余震なのだろうなあという気がする。近所の鳥や犬や猫が長く騒いでいた。ぱるるも驚いていた。そして夜更けの町じゅう(十一時過ぎ)にサイレンが鳴り続いていた。
 
某日、寝不足。『牝犬』について言及しないまま眠ってしまったが、実は映画史上最も好きなオープニング(人形劇)であり、キャメラワークの探るようなぎごちなさは『空に住む』でまんまやらせてもらったし、何もかも好きな映画の一本なのだが、途中妻の元夫と行くカフェだったかの奥のカップルのダンスが最高にしょぼくれてていいのなんかは忘れていたし、事件の現場が歌で時間を繋いでいるのは何か張り込み中のフィリップ・マーロウ的視点だったり、昨夜関東で停電多発したらしいが本作でも「停電だ」と叫ぶ場面があったり、そうだ、それに何を忘れていたかというとミシェル・シモンが伊藤雄之助と荷風を足して二で割ったというくらい似ているということ。そして出会いが階段の途中で、最初の住居は下がって行く坂の下だが、途中で上り坂の途中の最上階に間借りすること。何気ないそうした細部が物語の力学に大きく寄与している。あの女友達が訪ねてくる場面はよく覚えていた。
昼、掃除機をメンテナンス。ぱるるはまた散髪。サンソンはスペクター以外のウォール・オブ・サウンド特集でブレイカウェイズの「恋のなりゆき」という曲が気に入った。新大河は『1900年』的少年時代、だいたい少年時代はそうなるか。夕餉はラムの野菜炒め。
夜、ルノワール週間『十字路の夜』。ノワールはファンタジーで構わぬとして、これほど自由な映画もないということを毎度ながら確認するばかり。一昨日に続いてここにも排水溝が出て来て『ミスティック・リバー』のボールが落ちる排水溝を思い出す。リアルをいかにアンリアルに粉砕するかを決め手とすれば、本作から『ミスター・アーカディン』『リリス』『殺しの烙印』があり『嘘をつく男』『殺しのダンディー』『殺しの分け前/ポイントブランク』と来て『キラー・エリート』『ドレミファ娘の血は騒ぐ』……まで?
あ、『エクソシスト3』か。
 
某日、前夜寝た直後に雨音がしたが、本日朝から割と激しい雨。低気圧に苦しみつつ、日がな『燃えあがる緑の木』読む。夕刻ようやく雨上がる。
夜半、フアナ・モリーナ『WED21』。先日Twitterで見つけ、これは、と。予想通り良い。アルゼンチンの音響派という触れ込み。それはともかくスペイン語は愛の言葉というくらいで本当に素敵である。
ルノワールは『素晴らしき放浪者』。本作でルノワール的「二十分の法則」が完成しており、ブーデュ救出が二十分。そこまでにほぼ主要人物は出揃っているが、冒頭の公園のブーデュが出会う人々はそこだけで終わり後半に引っ張らない。ある意味短編集的な構成。その点でリアリズムを基盤としつつアンリアルすれすれまでゴムのように伸びて行く感じ。そこにこの豊かさの秘密が隠れている気がする。名もなき市井の人々と俳優たちが切れ目なく同一の作品に存在し、自由を謳歌する。これが革命を、あるいは戦争を描いた場合はその栄光や悲惨を共に生きるだろう、それと同じことを当り前の日常の街角で行った。その気配は『日曜日の人々』一派やのちのヌーヴェルヴァーグと同じだが、違うのはミシェル・シモンであり唯一無二であり、その存在があるかどうかで心臓のドキドキ感が違ってしまっている。その一挙手一投足が全てを変容させるものなど滅多に見れるもんじゃないが、そのことをルノワールもシモンもいささかも恐れることなく生きている。日差しが明るく、キャメラはのんびりとたゆたい、美しさなど追いかけたりしない。万事快調と呟きたくなる。
 
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某日、雨天は例外としてこのところ朝焼けの見事さを眺めながら目を覚ます。せめてもの幸せである。朝餉ののち、ヴァン・モリソン99年の『バック・オン・トップ』。ミック・グリーンのカッティングとハモンドの調和に朝から酔いしれっぱなし。さらにザ・バンド『ステージ・フライト』五十周年盤。ひとがどう思うか知らないが、私はこの曲順に違和感を感じない。いや、アナログだったらやっぱり違和感あるのかもしれないが悪い気はしない。成沢昌茂氏の訃報。明日神保町シアターの『裸体』に行くつもりだったが。
夕方になり、ほとんど発作的に『エクソシスト3』。不定期ながら公開以来年に一度は見直しているかもしれない。これが一昨日挙げた作品群のしんがりにあるのは、あれらのルーツが『十字路の夜』ではなく『吸血鬼』または『吸血鬼ノスフェラトゥ』だからかもしれない。つまりファンタジーかどうかとは関係なく、リアルをアンリアルに粉砕することについてはホラーとノワールに大差なく、ただホラーというジャンルに属する作品はリアルからの離脱を恐れるあまり不器用にリアルにとどまってしまうか、もしくはリアルのアプローチがあまりに杜撰か、どちらかの理由であれらの作品群になかなか並び得ないというのが実情かもしれないが、数少ない例外が本作ということになる。こじつけのようだが今回見直した最大の理由はラストショットを思い出せなかった――ダミアンの墓――からなのだが、なぜそうなるかといえば二度目の埋葬が行われるからで、そこにはキンダーマンと部下の黒人刑事が立ち会っている。そうして私たちが映画を「見直す」という行為自体、二度目と言わず何度でも(キンダーマンとダイアー神父も『素晴らしき哉、人生!』を何度も見直してきた)埋葬し直しているようなところがある、というかその価値のある映画というのがある、ということだ。そして「見直す=埋葬し直す」ということはまた、その死を確認し切れていないということでもある。この年齢になると「今年どうやって生き延びるか」と考えるのと同じような頻度で「いつ死ぬのか」を考えているから、何かを「見直す」より見ていないものを見る方に時間を費やすべきか、それでも「見直す」ことが多いのはそれだけ生に執着しているからだろうか。と同時に見た端から忘れていく忘却の膨大さに呆然とする。
 
某日、さて、そういうリスト入りを拒絶する人も何人かいて、その筆頭は例えば「二十分の法則」なんて言ったって「人物紹介なんて二分で済ませろ、始まったらやりたいようにやるのが映画だ、飲んで騒いですぐ三十分くらい経っちまう」と言ったわけではないにしろ、あたかもそのように『ハズバンズ』を撮ったカサヴェテスであり、それを誰もが受け入れるかどうか知らないが、実際三十分経ったら監督自身がパブのトイレでゲロを吐いている。そういうことであっても一向に構わないのが映画であり、ただしそこに鉄の意思があればの話だ。鉄の意思がどういうものかはそれぞれ固有だから場外から何も言えない。ちょうどいいということが大事だとしてちょうどよさの塩梅は人によって変わるということを忘れすぎているかもしれない。とことんやるという表現についても同じことは言えて、ここでのカサヴェテスがとことんやっているなんて誰にも言えるものではない。結果的にこうなっているとしか言えないのが映画なのだ。そこへたどり着くまで作り手は同じものを飽きるほど繰り返し見てそれでも足りず、時間の許す限りとしか言いようがなく、誰にも等しくどこかから先は勘で勝負するしかない。完成とは絶えず矛盾と共にあるのであり、例えば『ハズバンズ』と『エクソシスト3』の双方を愛することが不可能に見えても可能としか言いようのない自分を見つけるとき、この世と同様に映画とは納得から最も遠いものだという困難な現実をひとは受け入れることになる。
ビアリストックス、ファーストアルバム、リリース。
 
某日、昨夜はまた早い時刻に体調を崩して眠り込んでしまった。どうもストレスとしか思えないのだが、それほど深いストレスを覚えるほどのことは何もない。働いていることと仕事になるかどうか不詳であることとの間に生じる軋轢の過剰さか。そんな実態のないものに怯えるような子供じみた真似をしても始まらない。
昼前にホキモトが来たので仕事場に案内。そこでアルバムを通して聴く。一曲めから変態ピアニストの変態っぷり炸裂である。リバーブ全否定とのこと。エンジニアが涙目になるほど全てカット。裸のドラムがからっからで風邪ひきそうだが、実はそれより楽曲が唯物論的にビシッと聴こえることを変態ピアニストは求め、こういう耳こそ信頼できるのである。笑ってしまったのであとは武装解除。アナログ盤化運動家としてはベースレスファンク5曲めまでをA面、6曲めからB面を希望。あと未収録の二曲をドーナツ盤でお願いしたい。本日のベストは4曲め「またたき」。やはり頭が取れない。
駅まで見送り、久しぶりの廣瀬純とお茶屋にて合流。近況報告を交わしつつ、話題はやがて「もはや自然の恵みだけでは生きてはいけない」現在における法則/一回性、生政治/性政治、恋と非生産、同性愛とパスワード、脱=家父長制と荷風、などなど渾然と語らう。当然ながら結論は出ないが「しいていえば、猫のため」。というか、語らえることの喜びをひたすら味わった。人嫌いも相手による。
食材を贖い帰宅。遅い昼を取るともはや家族の食事時刻。それぞれに与え、一日はたっぷりとした充実感とともに暮れた。
 
某日、早くもヴァン・ダイクによる弦アレンジで更新されたビアリストックスの楽曲の数々を脳内でレコーディングしていると、Twitter上でギャビー・モレノとの「アクロス・ザ・ボーダーライン」の映像を見つけ、これは鳥肌ものであり、ジャクソン・ブラウンの歌い出しで落涙。映像になるとまた味わいが格段に違う。名盤『スパングルド』の賜物。
午後からは『燃えあがる緑の木』が面白すぎて延々と。ノルマ手につかず。
夜更けに樋口社長推奨のレトルトカレーを食す。美味なれど、なかなかに辛い。
 
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某日、朝からなぜかジューナ・バーンズのことを考え続け、近いうちに『夜の森』を再読するつもりになる。このフォークナーより五つ年上の生/性の紊乱者にカヴァンもハイスミスもマッカラーズも続いていく。シャーリィ・ジャクスンもアナイス・ニンもそこにいる。カポーティも影響を受けたことを告白する。女性であるからどうこうではなく、支配階層=男性を前提として、そうした存在との対立・葛藤をしっかり考えるべき時が来た気がする。今日は大坂なおみが全豪オープン優勝した。今の彼女には他人の言葉に足を掬われる感じが全くない。そして自身のステートメントの強靭さとプレイの強靭さが一致しているようだ。虐待、抵抗、解放。諸段階を経ていまフラットな地平に立つ人間の強き美しさをそこに見る。常套句とともに常識そのものが駆逐され刷新される時が来た。変革のステップが着実に刻まれている。
関係ないが、Twitterにこのようなことを書いた。「日本映画だと『殺しの烙印』の次が『ドレミファ娘の血は騒ぐ』で、あと無いんです。向こう側行っちゃった映画って」。現在上映中の『地獄の警備員』と『ドレミファ』のプロモーションとしてちょっと浮ついたことを書いておこうかな、程度のことだが、意外に反応があった。でもね、これちゃんと通じるといいなと真剣に思っている。この二本が映画的に群を抜いて優れているとかやたら面白いとかそういう話ではなく、ましてオクラになったから偉いという話であるわけがなく、ただ「向こう側へ行ってしまう」ということは、ある侵してはならない禁忌に抵触したとかそんな意味で、そのせいで通常ではなくなってしまっているということである。映画で無くなるというのにかなり近い。小津なら『風の中の牝鶏』がかすかにそれに触れた気がする。あるいは『美人哀愁』がそうだったのかもしれない。唯物論者の溝口にはそうした作品はないように思われ、ひょっとしたら『狂恋の女師匠』という可能性もあるが、現存しないのでわからない。で、たぶん他には存在しない。海外に目を向けるなら、少し前に書いた『十字路の夜』から始まるリストがあったが、あれである。
しかしそんなことを夢想しながら日々ノルマに従事していても、ふと、このまま書き続けていたって二度と撮れないのではないかと考えては、何度も背筋を凍りつかせている。それでもなお、誰にも聞えないところで「映画が撮りたい」と脣がボソッと呟く。
 
某日、今週も晴天が続いた。ペキンパーとニーナ・シモンの誕生日にして、ベッケルとマルコムXが死んだ日。そして初めてFacebookが何者かに乗っ取られた日になった。
日が暮れるまでガサゴソと過ごし、途中で確定申告の資料を税理士事務所に送ったが、それからマサルが迎えに来て伊豆へ。自宅のアナログ盤はほぼ全部収納された。
ビアリストックスをこのシステムで聴く。いかに優れた耳によって構築された音楽だかよくわかった。他にヴァン・モリソンの新譜をアナログで半分。凄い。
深夜になって『バイオレント・サタデー』を。今回ついに「核」なるものを発見した。処刑機械の作動が始まる瞬間からのジョン・ハートのキャメラ目線のクローズアップである。キャメラ目線ということだけには嘘がないということだ。そしてそのキャメラ目線は途中からルトガー・ハウアーを向いているということでもある。ハウアーはキャメラ目線ではない。あくまでジョン・ハートにおいてのみ真実が晒される。そこにペキンパーがある。
終わってメイキングを見る。お涙頂戴が多くて白けることの多いペキンパーのメイキングにしては感動的だ。ラロ・シフリンの登場が貴重。ジェリー・フィールディングの死後、シーゲルの推薦で彼が担当したという。
そういえば乗っ取り騒ぎを処理しつつ、サンソンで聴いた大瀧「青空のように」はやはり名曲中の名曲であり、日本におけるウォール・オブ・サウンド最高傑作なり。
 
某日、ところで『バイオレント・サタデー』に常連ウォルター・ケリーはともかくジョン・ブライソンが出ているのを忘れていた。彼は誰かの兄弟ではなかったか。いや、『ゲッタウェイ』でベン・ジョンスンの弟役というだけか。
昼までまったりと過ごしてから河津桜を見に行こうということで出発。南下して三十分もかからず河津到着。祭はコロナで中止とのことで、閑散とはしているがそれなりの人出。花は綺麗だった。すでにかなり散ってはいたが。
 
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photo by Masaru Matsumoto

 
帰りにあちこち脇道を彷徨いながら風呂へ行く。道は桜の帰り客で大渋滞を起こしていた。良き風呂であったが、風が強い。稲取の漁協でなまこ一つ五百円。それを近所の赤提灯にてアルコール抜きで満喫。夜は何度目かの『犬神家の一族』。あまり関心の持てない無駄なことの多い作品である。だが三木のり平は悪くない。
 
某日、昨夜は早々に眠りについたが、勝の話では明け方まで強風が続いた模様。朝から庭師の皆さんが訪れ、数年間伸び放題の雑木林の枝をカットしてもらうのだが、庭師も強風を気にしてあまり高所作業は本日警戒策で、とのこと。にしても風も徐々に穏やかに、晴天の下威勢良く林は伐採されていった。
昨日の昼からグレイトフル・デッドをファーストから聴いていて本日はセカンド。ダブルドラムスとオルガンが最高にサイケデリック。一度はこういうアルバムを作りたくなるもんだと思うが、こういう流れはソフト・マシーンとそっくりだったとわかった。
日暮れ前に作業終わり、水平線に浮かぶ利島が見えた感動。
 
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photo by Masaru Matsumoto

 
夕餉にはボブ・マーレイをアナログで、それから出たばかりの『ステージ・フライト』のボーナス盤ロイヤル・アルバート・ホールのライヴ。これはCD。
昨日はジョナサン・デミの誕生日で今日はピーター・フォンダの誕生日。
間を取るわけではないが、『黄昏のチャイナタウン』を。どちらかといえばフォンダ寄りではあるが、トレイシー・ウォルターが鍵を握っている。それだけではなく、どことなく同時期の『愛されちゃってマフィア』と空気感が似ていなくもない。というか、主役二人は時代を超えているもののヒロインのメグ・ティリーは最初誰だっけと考えていたが、ああ『再会の時』の、と思い出した途端にすっかり大学時代の気分が蘇ってくる。時代の顔というのは何人かいるものだが、この辺りだと『羊たちの沈黙』が近いのか。見逃したジョディ・フォスターの監督作品を今朝Twitterで知人が褒めていて、DVDを注文したところだった。しかしメグ・ティリー的な演技をする人は洋の東西を問わず少なくなった。サチウス系というのか、そういうのは流行らなくなった。もちろん彼女の役柄そのものがいまではなかなか描かれることは少ないが。今やれば(もちろん当時も)ただのこれ見よがしでしかなく、結局マッチョの慰み者になるだけだろう。そういうものは企画段階で退けられるだろう。本作の「TWO JAKE」は決してそうではなかったが。で、見始めてすぐこれも思い出したことに気づいたのだが、最近命日だったジャック・ベッケルの晩年の写真が誰かに似ていると思っていたら本作のハーヴェイ・カイテルだった。それは病人の顔でもあった。薄っぺらな艶笑喜劇に見せかけながら残念な人々の残念な物語を語ってみせるロバート・タウンとニコルソンのセンスに改めて舌を巻きつつ、にしてもどこかジャック・ベッケル魂を感じた。一方、水〜石油→爆死という大胆な発想は堂々としたものだと思われた。
そしてまた何の関係もない連想から、物凄い久しぶりにジョン・ケイル『サボタージュ』を聴いた。もちろんアナログ。影響の深さを思い知るシリーズ。
 

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photo by Masaru Matsumoto

 
某日、目覚めてトイレに立つ夜明け、東の海に島が見えた。二つ……二つ!? そう、昨日はモヤっていたため利島しか見えなかったが、今朝逆光の中ではその隣の新島まで見えたのだ。おまけに今年最初のウグイスの声も聞いた。美しく転がるような、正に天から降りてきた鼓のような声。
朝餉ののち、ジェイクはラストのテープをどの段階で手にしたのか検証を少々、しかし解らず、あれはジェイクがジェイクの代わりに吹き込んだのではないかという説が有力化する。だから「TWO JAKE」だと。しかし、本当に?
そして朝一番アナログはこれ。
 
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気づいたらアルコールとニコチンとサヨナラして半年が過ぎている。

 
 (つづく)
 


青山真治

映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、『空に住む』(20)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)、自作『しがさん、無事?』(19)など。

近況:「映画芸術」に『細野晴臣と彼らの時代』書評、「波」に『令和元年のテロリズム』書評、それぞれ掲載予定。