映画音楽急性増悪 第19回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」2021年初の更新です。映画において部分的関与する存在について『ラビッド』(ジェン・ソスカ監督、シルヴィア・ソスカ監督)、『バーニング』(イ・チャンドン監督)、『プロフェシー 』(マーク・ペリントン監督)などの作品を通じて語られます。

第十九回 部分的関与たちの死



文=虹釜太郎

 
 激しい思い込みと経験により自ら確信した決めつけでそこにあるはずの秘密を暴く悪魔退治者はかなり多い。狂暴なバカと常に温室在住者は一蹴する。ただ無視していればよいのに。退治者たちが創造し続けてきた伝染病。それら創病たちについて映画やアニメは別の病いを放ち、時にそれら病いの延命と共に自らの力を強くする。創病の雑然さとその感染しやすさ。それらについて映画関係者は何も関与せず関心もない。しかし、それら無関与や無関心とは別のところからこれからの映画はやってくる。そしてやってきた違和感に映画関係者はまたぎゃあぎゃあ何事かを騒いでまたすぐに去っていく。
 
 『ラビッド』(デヴィッド・クローネンバーグ/1977年)のリメイクの『ラビッド』(ジェン・ソスカ、シルヴィア・ソスカ/2019年、以下ラビッド2019)において創病者と感染者と退治者と収監者と混乱者はどのように描かれ変わったか。どの者の描かれ方が過疎か。ラビッド2019はさまざまな分析がされるだろうけれど、本作はほぼ完全に無視され失笑され中座された問題作『THE OA』(ザル・マトバングリ/2016-2019年)と同様に収監観察建築映画であり、そこでの収監建築には建築家の部分的関与の詳細が極めて重要なはずだが、ラビッド2019はこの点が『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ/2019年)に比べても弱い。死ぬことができない感染者がその後を過ごすことになる場所についてよりも、飢餓音響とその忘却による変異にすぐにフォーカスされてしまう。その焦点がなくなる時に建築の不気味さが浮かぶという設計ならばより怖さが持続したのか。その脆弱さゆえにか嫌な感じの伝染はまだまだ足りず、濡れ逃げているかの伝染の痕跡の不徹底がノイズになる。その足りないと感じる主体は、放置者なのか部分的関与者なのか…
 
 感染者や免疫保持者のその後を『新しい人生』(パウロ・ローシャ/1966年)のように描く映画の登場が待たれるが、それはゾンビソープオペラたちではできない何をなしうるか。
 映画を観る者であり、時に語る者であるあなたはそのどちらになりがちなのか、ただただ常に混乱する者なのか、感染を待望する者なのか、眩暈をただ与えられたい者なのか…
 感染による人間性回復さえも無視される世界を尻目に人間性邪悪化を嬉々として、または無意識に目論む存在は映画を作らないが、刹那主義なわけでもない。ただ一部の監督や脚本家はその視線に敏感になっているはずだ。
 
 『バーニング』(イ・チャンドン/2018年、以下148)。148分版の方(バージョンの文化的腹話術について関心のある方は、cultural ventriloquism で調べてください)。
 古いビニールハウスを燃やすのに善悪はなく、そこにあるのは自然の道徳だけ。自然の道徳? わたし自身の判断もそこには関係なく、それは雨が降るのと同じ。燃やすこと自体は善悪となんの関係もない。しかしそれを実行する主体が己であることを放置している時点で、燃やす主体はずさんな善でしかない、ということすら宙吊りにされる。ずさんな善? 自然の道徳は燃やすことだけではなく沈殿させることもできる、という方向には映画は向かわず、登場人物たちの知覚自体も非決定のままに観客に放置される。イ・チャンドン監督自体が残酷な善そのものに観客は何度も置き去りにされる。しかしそのような宙吊りなど実に自堕落で緊張感が足りないという放火魔、ですらない放火意識保持者はこの映画に欠伸すら出さずに観るのをやめるだろう。
 イ・チャンドンはまた原作者の作品によく出てくる達観やれやれボクもあらかじめ廃している。やれやれが廃されただけでどれだけ世界から虫酸が消えたか。そもそもエッセイなどで「やれやれ」の四文字が配された時点で全身に虫酸が走る日本語の不思議について日本人以外に多言語多スラングとの比較を誰かじっくりとりくんでもらいたい。やれやれと聞いただけで飲みたかったビールも飲まなくなるくらいのやれやれの言霊はしかしまだまだ延命が続いているがストロングゼロ的なブツらによる消極的自殺はやれやれとは別のぐさぐさで人間を破壊している。そんなストロングゼロな映画には利用料ゼロのブツがまた大量に使われている。これらはとてもリアルなサイクルだが、それらを直視する無料映画論はまだない。
 148では意味の外へと逸脱するリズムでなく非存在が泥に沈殿していくきれの悪過ぎる即興未満が映画全体に響く。それは変奏される映画音楽以外に、三人がグラスを吸う家の外で沈殿する気体そのままにあまりに浮いている「あの音楽」でさえそうで、あの音楽の使用があまりに反則でありえないことがまたこの映画の世界の非存在を強めていき、繰り返される女のパントマイムと共に観客は何重にもドン引きする。二人の男とひとりの女のうち、女は映画の途中から完全に消えるが、残された男たちの世界からの存在の消え方は、『嘘をつく男』(アラン・ロブ=グリエ/1968年)とも共振するようだが違う。
 非在と自慰が互いの抜け殻に入りあうような女のいない女の部屋での男の時間の描かれ方(恋人が死んだ部屋から動けないままのインディゲームは本作がヒントにさえ思える)。そこを眼差す主体は。カメラが遠ざかるということはそれら放置とは違う放置へと向かうことを感じさせるが、それさえも同時存在であると放置される部分たちが直覚している映画とは。
本作があの原作からここまで飛躍し、変換できるのであれば(納屋→ビニールハウスに伴う泥群)、イ・チャンドンとビトムスキーを当たり前に接続している作り手はかの国では自然に育っていることも予感させる。しかしそれは持続する緊張状態と引き換えに。そして緊張なきスポンティニアスの悩みに悶えるこの国の倦怠は映画にどう…
 人間の観察、孤独の観察、欲望の減衰の観察三部作、モンテイロによるそのシリーズ「ジョアン・ド・デウス」の『神の結婚』(1999年)と『黄色い家の記憶』(1989年)を交互に観直すと、148の世界がいかに欲望の減衰をごまかす技術を磨いているかを痛感する。
 
 『ブレイン・ゲーム』(アフォンソ・ポヤルト/2015年)。慈悲殺。あまりにもずさんな映画だ。脚本のショーン・ベイリーとテッド・グリフィン(『完全犯罪』『迷い婚 -全ての迷える女性たちへ-』の脚本)はそこまでして『セブン』(デヴィッド・フィンチャー/1995年)と『羊たちの沈黙』(ジョナサン・デミ/1991年)に勝ちたかったのか。416の数字や、捜査官の身体の動きを予測した上でのプロジェクション映像での能力者の視線の動きなどいずれも噴飯でしかない。大量のスタッフを揃え、製作総指揮にアンソニー・ホプキンスを迎えながらいったい何をやっているのか。近年稀にみる自爆ぶりだが、では本作はいったいどうすればまともになったのかだが、それは別の捜査官の視点でそんなでっちあげの能力はなかったと暴くことにおいて、複数の捜査官の勘がバトルすることがあればよかったのか。もちろんそんなことは不可能でポヤルト監督はとりあえずは『ゴーストライダー2』(マーク・ネヴェルダイン、ブライアン・テイラー/2012年)を観直し、脚本のグリフィンは『ブレイン・ゲーム』になぜスラッグ弾に相当するものがなかったかを考え直す必要がある。我々(ゴーストライダーと「少年」)の力は闇の世界のものだが、我々自身とは関係ないという力をただごく普通に見ることや絶望はチャールズ(コリン・ファレル)にはただ単に脚本がそうだからという理由で皆無だ。ジョン(アンソニー・ホプキンス)の場合はありえないくらい型通りに隠遁している。隠遁生活の中でどう抑制してるかについても、ジョンはロールシャッハ(『ウォッチメン』)に多くを学ぶ必要がある。
 本作はまた能力者の異言の発作や能力の代償としての何かが描かれるわけでもない。能力者チャールズが、俺はトラウマなどなく能力が発現したのだと他の映画たちに唐突にマウンティングしていきりまくったところで(このいきりはYouTubeに頻出する煽り運転動画どもよりさらにひどすぎる)、それはそう脚本にそういう言葉が記されてあっただけに過ぎない。トラウマ関係ねえイキリにはいつの時代であれぐったり。本作のあらゆる観察力の無さはいったい何に起因しているのか。なぜこのような作品にOKが出るのか。あらゆるずさんさにより、能力者たちの部分的関与についての差により生まれるバトルや何より放置が得意な組織との葛藤も描かれない。なぜなら本作の捜査組織はあまりに優秀過ぎてすべてがさくさく進むから。極めて優秀なスタッフが揃う部署であれ、愚鈍な組織であれ、腐敗が進みきった組織であれ、警察は放置と既得権益の秘守は崩さない。警察がいかに優秀であろうともそれは常に観察力が足りない場所として描かれないならそれはずさんなプロパガンダ未満に堕すだけ。
 超能力を描く場合に、超能力の減衰についてはっきりと基準を作っておくべきだと以前から強く感じるが、本作は超能力の減衰についての詰めもあまりに甘過ぎ。いろいろなめているし、いきりちらし過ぎている。
 超能力の減衰には、その減衰の描写には、低音の減衰の超能力と高音の減衰の超能力があり、なにものかに突然妨害された場合は高音が減衰し、距離が離れて超能力が減衰する場合は低音からなくなっていくとか、なんか基準を作れ監督なら。映画なのだから、これらは「音」で表現される必要はなく、光で現わされても他の手段でも。手垢にまみれたメソッドしか使わざるをえない音であるならもはや他の手立てを考えた方がいい。
 しかしそれらについての試行錯誤の欠片も本作にはない。
潜在している病いへのスペクトラムアナライズでない直覚や潜在している病いへの精査らがうまくいかない場合、それらは超能力でなく完全な妄想になってしまう。すべて妄想だという言い訳を担保というよりは、権力側からの超能力の公認がもともとなかった能力をほったらかしてさらに内輪もめに走るというこの流れは、この脚本自体がもしかしたらアウグスティヌスとコンスタンティヌスの関係を下敷きにしたヒステリー発現のあきれるほどにいまだ続く余震なのかもしれないが。俺の超能力の発現はトラウマによるものではないのだキリッと断言したところでそれはお前の妄想に過ぎない。
 本作の原題は『solace』だが、慰めの意味を持つそのタイトルよりは微笑みを意味する言葉がふさわしかった。延々と微笑を強制される空回りこそが本作であり、ホプキンスの空回りした微笑はお気に入りブックマークの度重なる再生のように繰り返されるが、感情をモンスターエナジーにとうに売却しているイキリでさえ本作には呆れはて、このような特売やデフレでさらにいきり廃棄される事態をクローネンバーグはどう感じているだろう。
 
 『第九分局』(レオ・ワン/2019年)。死者の世界との一線を守るという掟により、警察内の秘密組織第九分局の局員は残念ながら悪にはならない。残念ながら? しかし新人局員は先輩から何度も制止されるにも関わらず、死者との交渉と捜査を続ける。放置する表の警察に対して、死者に対して部分的関与と成仏を試みる第九分局。であるならば、人間の倫理程度では推し量ることが不可能な多様性の擁護に片足を突っ込んでいる第九分局の音楽もまた矛盾に満ちたものであったならよかったが。
 死者と関わり、彼らにこの世界から撤退してもらうことが目的の第九分局は、死んだことすら理由にならない体験の延長をするという悪の定義においては、成仏させるという事無かれ主義で善に向かう、悪の中での裏切り行為を働く組織である。しかし新人局員は、はっきりと悪を目指している。天国が処罰を決めると語る女性先輩の助言は無視していいはずだ。彼女と新人では解像度も違うだろうし。新人は霊媒系統ではないのだし。俳優のベビーフェイスと恋愛要素でわかりにくくなっているが、この映画の新人局員は、映画自体の完成度を別として、公然と悪なのである。前半までは。
 冥婚の扱い方が弱いのも気になる。本作の新人刑事とは別の巡査が、霊の存在を信じないが霊能力者というプロットの別の映画があれば。そこでは無意識の悪と無意識に仲間を増やすことの残酷さが描かれることになるだろうか。本作と『赤い影』(ニコラス・ローグ/1973年)を交互に観るとつい笑ってしまう。
 
 あまりにインスタントに幽霊がだだ漏れる『第九分局』の真逆にあたるのが『プロフェシー』(マーク・ペリントン/2002年)。しかしこの邦題ではあまりにもあんまりなので、きちんとカタカナでも『モスマン: プロフェシーズ』と表記してほしかった。
 『プロフェシー』のモスマンは、人間に部分的関与をしてくる。しかしそれは人間の倫理程度では推し量ることが不可能な多様性の擁護をするためでなく、また人間どもを救うためではなく、人間にちょっかいを出すために。そのちょっかいを出す主体が悪魔であれ天使であれ宇宙人であれ未来の人類であれただの同じ時代の人間であれ機密情報を漏らしている組織の人間であれなんでもよい。人間はそれを確定できない。
 本作における電話の鳴る音群は、『哭声 コクソン』(ナ・ホンジン/2016年)における毒キノコなのかとかそんな議論はないようだ。それをトラップの第一階層と呼ぼうがなんと呼ぼうがなんでもいい。ちょっかいの映画たちについては、改めてdabble film history とmeddle film history の大枠二種とそのさまざまな亜種が刊行されるべきである。それらがみなすばらしきトンデモ本であらんことを。
 古きよき電話が鳴っていた世界においてのみ顕現していた部分的関与する存在たちはもう眠りについてしまった。