宝ヶ池の沈まぬ亀 第54回

boidマガジンの2020年最後の更新は、青山真治さんの連載「宝ヶ池の沈まぬ亀」第54回。別荘のメンテナンスや番組撮影のため、伊豆と東京を行き来した11月末から12月にかけての日記です。愛猫ペトの死、訃報が伝えられた小松政夫さんのこと、映画『ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌』『Mank/マンク』『魔女がいっぱい』『ALI アリ』『セインツ-約束の果て-』などについて記されています。

54、It’s a cruel and crazy world... at the end of the decade...



文=青山真治


P1000089.jpg 90.71 KB



某日、伊豆にて朝餉を食し、自宅に報告を入れ、ペトの逝去を知る。享年11歳。我が家史上最凶=野良の中の野良としては怪我もせず大病も患うことなく長く穏やかに生きてくれたのではないか。スプレー癖のせいで喧嘩もよくしたし、ほとんど何を考えているかわからないような性格で、他の子達より意思疎通がうまくできなかったようなこともないではなかったが、仲の良い時はとてもいい奴だった。家に誰もいない時に亡くなったらしく、そういうところもペトらしいと思われた。ただ、息を引き取る時一番近くにいたのはぱるるかもしれず、ちびっこはどういう思いで死にゆく老猫を見つめただろうかと気になる。
伊豆には昨日マサルと訪れた。カインズにて電動草刈機を贖い、マックスバリュで買い出し、居酒屋「はる」で夕餉、赤沢の風呂を満喫し、夜は映画を見ず『ナニワ・サリバン・ショー』を流しっぱなしにしてやがて就寝。二人とも疲れていたのか、よく寝た。
ペトの具合が悪いと感じたのは十月の半ば、取材旅行へ出かける朝、トイレを出たり入ったりしているのを見た時で、それは以前ウブウブが腎臓を悪くした時の経験上知っていたので私も妻も仕事で病院に行けないのを義母に頼んで連れて行ってもらって、それから数えて四十日ほどの間闘病していたことになる。本日は三島自決五十年だが亡くなった日付は昨日のもので、書くまでもないが、だからペト君と三島とは何の関係もない。
そうして本日は朝から伊豆の補修工事が始まった。少量とはいえ生憎の雨で、電動草刈機の出番は後手々々に。
腹をすかせたせいもあったか、業者の方々が作業終了したりお昼に出て行ったりすると私から率先して勝に草刈機を駆動させてみようと言い出す。手始めに玄関先を。どんどんと草は刈られ美麗になっていくが、果たして明日の昼までに間に合うのか、という若干の懸念を残しつつそこで我らがシェフ・テイ龍進到着。あっという間に垂涎のうどんランチを拵えてくれた。午後はその龍ちゃんを交えて草刈りの続き。どんどん進んで第一巡がその日のうちに終了。勝の読みで二巡すればとりあえず体裁は整うと。日暮れ前に龍ちゃんはご自宅に戻り、作業を終えた私と勝はカインズに向かい、より完成度を高めるためのブロワーを入手するか悩んだ結果取りやめ、夕餉もスーパーで適当に、ということになり、風呂だけはしっかり入って帰宅。
『アリ』を見ながら小腹を満たすが、互いに疲れを隠せず、三々五々眠りに落ちる。


KIMG0760_7083.JPG 132.46 KB

KIMG0762_7083.JPG 82.68 KB



某日、神社へと散歩した後、朝餉を摂り、作業再開。慣れない機材(スライサー)によりまたしても右中指先を負傷。この部位は細かい動作にとって案外貴重で、どうも不便である。食後作業再開。庭はほぼ完全に、道沿いの植え込みも第一巡までは届く。しかしそこでタイムアウト。午後一時、飯も食わずに帰京の途につく。自宅にて荷を下ろした後、下北沢へレンタカーを返却。晩飯にとんかつを食し、互いによいお年を、という感じで別れる。
もう年の瀬だ。家に戻り、ペトの死に改めて接する。
来年の干支は? という話になり、今年が何年であったかさえ答えられない、で、子年であるとわかり、ふと、そういえばとっくに故人だが母方の祖父が一九〇〇年生れの子年であったことを不意に思い出した。祖父はきれいに生きた人だった。亡くなる時意識はあったが様々な機能が麻痺していて、人の生の無常を直截に教えてくれた。病床の祖父のことをダメになったとは思わなかったが、にしてもダメになるということは誰にでも訪れる。ゴミが散乱するとか虫がわくとかいうことが生活に現れることがその表れで、朝のゴミ出しの時などにその戒めを噛みしめることもあるし、伊豆を立ち去る時などにしばしば怠けようとする自分を鞭打つこともある。そうやってきれいに生きようと努力することがこの世間をダメにしようとする勢力に抗することである、という意味のことを言ったのは吉田健一だった。その教えを忠実に守ろうといま改めて思う。
 
某日、ビートルズがギターバンドでジョンのギターはいいということを書いたが、改めてそこを強調したくなるのは『ジョンの魂』を聴いたからで、これなんとリンゴとクラウス・フォアマンというハンブルク時代のメンツ三人でほぼやっているというから凄いのだがそこでもジョンのギターは卓抜であり、そして勝が車の中で吐き捨てるように指摘したように『ギミ・サム・トゥルース』に入らなかった曲がことごとく当たりである。
午前中に会社で諸々打合せ。帰途で食材を贖い、銀行作業、戻るとペトを映画のような火葬車に引き渡し、妻とともに別れを告げた。贖って来た弁当を二人で食し、互いに仕事に戻っていく。しかしぼんやりする。眠い。まだ昨日までの疲れは取れていない。それでも仕事を続ける。映画を見に行く余裕がなかなかできない。ヴェーラの森崎特集に通うレポートは大抵身近な人々ばかりで頼もしくも羨ましい限り。斎藤Pと『ヒルビリー・エレジー』見に行かないと、と言い合うのだが、帰りにちらりと寄るということができない。
眠気覚ましに『バードマン』を。気づいたら二本連続でエマニュエル・ルベツキの撮影作ということになっている。だが、この度は強制的にそこを気にせず見ることにしたのだから、無視。しかし全くウザくないはずのカーヴァーからよくこんなウザい芝居を作れたもんだと変な感心をしてしまうほどだが、それもこれも結局は頑張りました感バリバリの「長回し」のためだからなので、無視したくてもできないようになっている。そのウザさの根本はメキシコ生まれの大卒が頭で想像した不幸であり、体で学んだとはとても思えないものなので、カーヴァーでもブコウスキーでもいいがそういう真に「予期せぬ奇跡」とは無縁の、ごく凡庸なものだ。だがその凡庸さが結局は感動に結びつくこともあり、事実最終的に絵に描いた餅のような親子の繋がりが人の涙を誘うこともある、というか私は泣いた。前に見た時も泣いたかもしれない。しかしだからと言ってこの映画を全然好きになれないことに変わりはない。特殊撮影の件でもゼメキスのような多幸感はないので、参考にはならない。逆にいうと多幸感のない特殊撮影や「長回し」などただのお飾りでしかない。まあ何が幸福かは人によりけりだが。ちなみにここでいう多幸感とは前回書いた幼児性や郷愁とほぼ同義と考えていい。職業柄どうやって撮ったか気になるけれど、それより重要なのはそれでどんな驚きや喜びを得るかだ。ルベツキの「技術」に驚きや喜びがないとは言わないが、ゼメキスの「想像」が湖だとしたら水溜りくらいとしか感じない。
夜更けのツイッターで高崎電気館での『東京公園』爆音上映を知る。以前ホキモトと一緒に行った時案内してもらった小屋である。照明が落ちたら匿名となる空間に宿る記憶、それもまた幼稚な郷愁の揺籠に他ならない。
 
某日、猛威を奮うコロナだが近隣での陽性さん第二号、拙作のモデルともなった某出版社勤務の編集者O氏、無事生還の報。ちなみに第一号は元ゼミ生である新進女優TNだった。女優の友人がプロデュースする料理セットを調理し、朝餉とする。極めて美味。あくまでセットの味が良いのであって作り手は誰でも構わない。風呂掃除をし、風呂に入り、仕事をして、昼餉ののち、このところ女優がヤフオクで贖っている絵画を部屋や階段途中に飾るという作業。なんだかとてもいい感じにレイアウトできた。買い物の後、大河と『赤ひげ3』を見る。大河は再開後どうも不調だったが、今回は良い。松永久秀と光秀の梯子段での密談が、この二人の役者の息の合い方は当然にしても、面目躍如ではなかろうか。筒井順慶=駿河太郎という伏兵の登場が刺激となったか。今回も緊張感漲っていた。そして『赤ひげ3』では初めて泣かされた。夕餉ののちすぐに眠くなる。静かな一日だったが、実は朝からこりんが仕事場でかけションするし、子供を使ったナイキの新CMに極めて複雑な心境になるし、ジャパンカップは伊豆で勝が予想した通りの着順(まあ順当極まりないとしても)だったし、三食料理したし、特に活気がないというわけではなかった。
そして夜更けになって、当boidマガジンの批評欄「映画川」で坂本安美が拙作『空に住む』について感動的な文を寄せてくれているのを読む。
 
某日、ジャパンカップをネットで見たがいやはや凄いレースだったのだとわかった。ラスト直線で二頭がトップを抜き去るとき、アーモンドアイがコントレイルに「ほな、行くで」と耳打ちしたように見え、そういう形で今年を振り返る番組ができるのではないかという気がした。昨日は家族で買い物に出た結果、様々な理由でしっちゃかめっちゃかになり、気づけば午後も深まっていた。だいたいうまく行かないパターンがわかっており、そうなると予想されるとやっぱりそうなるものなのだ。それ以外の時間はほぼ読書に費やしたが、そういうしくじった時間はそれ以外の部分にも何とはない影を落とす。とにかく疲労で眠たい一日だった。
 
某日、日々読書で時間を奪われる。これは楽しみのための読書ではなく、いやそうなんだけどそれ以上に映画の原作として読むと同時にその周辺の作品を拾い読みして行く作業で、だから誰の何というものかも内容についても書けないのが心苦しいばかり。もしうまくいって映画化できた暁にはあれこれ言及したいが、いまは無理である。しかしそうなると、読む本全て言及できなくなる気がしてくる。そもそも本を人に勧めるということが大学時代以降怖くてできなくなり、あれが良かったこれが面白かったは映画と音楽だけにしている。本、というか言葉って結局ボロが出るもんだと思われる。
えらく遅く起きてやや焦って朝餉の支度をしていたのだが、最初にブロッコリーが時間切れで黄色く開花しかけていて、そうすると味が変わるからしくじったと動揺しつつ、スライサーでキャベツを切って行くまではよかったが、ふとした気の緩みで調理台からスライサーが落ち、反射的に伸ばした左中指を正確に刃の部分でヒット、見事に大出血する。しばし呆然。呻吟を聞いて駆けつけた女優に心配され、戦力外通告を受ける。当分の間、キッチン登板は無理。激しく落ち込む。まあ粥作りは続けて行くつもりだが。
昼に出かけ、渋谷ヒューマントラストでロン・ハワード『ヒルビリー・エレジー』の最終日に駆け込む。予告でタイとドイツの断捨離映画を知ったが、洋の東西を問わず奇妙な違和感を感じた。ものに依存することはそれほど害毒だろうか。また逆に、記憶に振り回されることはただ地獄というだけだろうか。それぞれに何かしら有益な側面はあり、拙作ではそこを一見否定的に言及しながら存外あっけらかんと乗り越えて行く様を描いたつもりだ。で、中東部ラストベルトのホワイトトラッシュだが、祖父役が何とボー・ホプキンスで、登場するなり、ケンタッキーの不良に虐められる主人公を救いに一瞬現れるとレバーに一撃、あっさり倒すという目にも止まらぬ活躍を見せてくれて大満足。ヘロインがらみの描写がどうもリアルを欠いている気がするものの、個人的にはエイミー・アダムスを評判のいいグレン・クローズよりも持ち上げたいのだが。もちろんグレン・クローズも相当レベルの高いことをしているのは確か。彼女らが父権の肩代わりというのではなく、あくまで最後の砦としての母親であり続け、いや、なり続け、それに失敗する娘はその母親の位置さえ投げ捨て、宛てのない救いをただ悲痛に求めるばかりである。弱者としての凄みに達し切れていないといえばそうなのだろう、が、そこもまた弱さのゆえではなかったか。ロバート・ロッセン的な弱さと言ってもよかろう、そうした中途半端さには美学的な完璧さに達することなく耐え続けねばならない地獄というものがある、とこの物語は訴えるかもしれない。ラストに、母親が現在薬と手を切って六年になる、という意味の字幕が出て『スパイの妻』とは真逆の判断保留性でもってそれを良しとしなければならないのが現在のアメリカの一部だが、この一部がトランプの大統領になることを望み、またその四年後には現大統領を裏切り者として退陣を求め、そしてこれら「一部」の出来事がアメリカの縮図であるように世界に喧伝された。見よ、これこそがアメリカの現在だ、と。これがリアルということだとは作り手側もたぶん考えているわけではなく、しかしこれ以上リアルであることは誰も望まないという意味でこのような形になっているということもできる。本作を見て、いかにも中途半端に思われる印象を得たとしたら、実はその中途半端さこそがそれそのものだからなのではないか。まるで中身なく、過剰に暴れ猛るしか方法のないエイミー・アダムスの空虚な繰り返しこそが、どんな名演技をも超えてリアルである気がした。
終わってふと見るとビニール手袋の下の左手が血に塗れていて、微妙に驚く。
会社へ寄って近況報告と年末のスケジュール調整。買い物をして帰宅。朝の残り物と女優の用意した焼き鳥などで夕餉を済ませる。
 
某日、傷口は閉じず、血も止まらない。病院へ行くという選択肢が浮上、それだけでどうにも不安で、一日中何も手につかない。食事も疎かになり、仕事も辛うじて読書のみ。このまま夏以来の鬱状態に陥りそうな気配。
それでも参考文献的な読書まで終わらせ、名前を挙げられないのがもどかしいが、この作家の過小評価にそれ以上のもどかしさを感じている。だが考えてみると大方の近代作家は過小評価されており、名前と先行するイメージのみ流通して現実的には読まれていないのが現状だろう。小説のみならずあらゆるものに同じことが言えるかもしれない。
一日安静にして何とか傷口も塞がったようだが、こちらの精神状況を嘲笑うように雨が降ってくる。体が重い。それも天気が回復してくるに従って上向きになって行く。溜まった用事を一気に片付けて、渋谷へ。デヴィッド・フィンチャー『マンク』を見る。はっきりさせておくが、決して相性は好くないものの『ゲーム』と『ゾディアック』はまんざら嫌いでもなかった。『ベンジャミン・バトン』はエリック・ロス、『ソーシャル・ネットワーク』はアーロン・ソーキンの脚本で見ていられた。そのエリック・ロスが製作に回り、脚本はフィンチャーの父だという。で、始まるや牧場に救急車で運び込まれるマンクに、歩けない脚本家の映画(少し前に風呂で仕事するその業者の映画があったが)なんて、とあっさり投げ出しかけたが、これが実話ベースの強みというかハンデを逆手に取るというか、ベッドに縛られた室内に転じるとこれがなかなか好い。俳優陣、ことに女性陣が実に優れている。アマンダ・セイフライドの富豪の愛人をはじめ、マンクの妻とタイピストによく似たタイプを選び、看護婦はアグネス・ムーアヘッド的な感じ。一方の男ども、チャールズ・ダンスの富豪はまあいいとして、ジョン・ハウスマンとオーソン・ウエルズはどうなのか、これがアメリカでのイメージなのか、ルイス・メイヤーもアーヴィング・タルバーグもどうもね。ただ、新人らしきキャメラマン(エリック・メッサーシュミットというごつい名前)の暗部の作り方、特に日中の部屋うちの窓からの光の処理については、最近見ているモノクロのみならずカラー作品と比較しても非常に納得の行くもので、終盤にウエルズがやってきて一悶着の場面にごく短くインサートされる、部屋を出て行く看護婦のショットなどまるでウエルズの作品から拝借したのではないかと見紛うようなナイスショットだった。勿論グレッグ・トーランドを意識したであろうパンフォーカスもこれなら納得という感じで散見されたり、富豪の邸宅の動物たちのたぶん合成と思われるショットを夕景で撮るセンスなんかも、おおむね良好と思われた。しかし本作の最も特筆すべきポイントは、ロン・ハワードに続いてまたしても大統領選に合わせて製作されている点だろう。ここではカリフォルニア州知事選なのだけど、その熱気を共有する撮影所のありようというのは知らなかったのでいささか驚かされ、マンクの民主党=アプトン・シンクレア支持というのは当然だろうが、いつの世もアメリカというのはやはり政治好きだなあとつくづく思われた。政治が理性よりも欲望に直接作用する装置であるという感覚をどうしても持てずにいるが、それはこちらがおかしいのだろうか。ただ、であるがゆえに、その野蛮さを垣間見ることもまたアメリカ映画の最大の面白みの一つに他ならないのだが。信じていない候補を応援するプロパガンダ映画を演出し、その候補が勝ったため自殺、みたいな信じがたいフィクションさえ成立させる純真さもまたそこに在る。その純真さを前にすればポーリン・ケールのいう「市民ケーンの真実」なんて貧弱なゴシップ程度の話だ。で、もう一つ言及しておきたいのが音響の編集で、省略気味のシーン替わりにオフの音がかなり大きく被さる手法がしばしば用いられ、これがかなりうまくいっている、というか『テネット』以上に斬新に感じられた。これに関しては再見してさらに研究を進めたい。案外クロニクル的話法として使える可能性がある。
そういえばテレンス・マリックがまた作った新作の予告編を見た。相変わらずお美しいので「さとり世代」というのが彼を好んでいるのだろうかと思われた。そっちへ行きかけたフィンチャーもゲイリー・オールドマンのゲロとともに本来の自分を取り戻したか。
午後、突如始まった大掃除に巻き込まれ、キッチン磨きに半日を費やす。その後風呂。
 
某日、病院でえらく時間を取られたのは、どうやらバックステージでコロナ患者が出たようで、待合室には聞えないが何やら緊迫した空気が流れた。大事には至らぬものの、こちらは予定より三十分以上ロス。割と過密だっただけにその後の予定がガタガタと崩れる。
ネットでウーマンラッシュアワーの漫才を見たが、村本が例年よりテンション落ち気味なのがいい兆候かどうか考えてしまう。草津温泉のセクハラリコール問題に村本が飛び込んだらどうなるんだろう、という期待など込めて。
夜更けに女優の作ったトマト+玉葱粥が超美味で、チーズと混ぜるとさらに。
 
某日、というわけで一日遅れだが再び伊豆行。今回は品川から踊り子号に乗ったわけだが、品川駅って喫茶店すんごい少ないのね。しかも非常に狭い。あんなに巨大な駅なのに。こないだ映画の後、新しい宮下公園の(ミヤシタパークというらしい。HA!)地上階に延々と一軒の居酒屋が続いているのに驚いた(で、のんべい横丁は生き残っている)のだが、あのくらい長いカウンターのあるカフェが品川駅にあってもいいのではないか、と思われた。しかもどうしてあんなに雑然とするのだろうか。
二時間で到着、荷物を置き軽く掃除機をかけてからすぐに昼飯(蕎麦屋)、さらに徒歩でカインズを訪い大量の必要物資を購入、タクシーを呼んで運ぶ。各部屋に物資を導入、さらに掃除機、設置、そしてこれまで手付かずだった玄関を清掃。何とはなしに視線を向けることを避けていた部分だったが、掃いて拭いて見違えるように美麗化。夕餉は駅でラーメン。やはり美味。ネット上の評価は辛すぎるのではないか。スーパーで買い出ししてから帰宅。本日終了。


P1000098.jpg 69.86 KB



夜更けて『偽れる盛装』。何がどうというわけでもないのだが、どこかギクシャクするのはなぜなのだろうか。ちょっとした間合いなのだろうが、それが決定的だったりもするものだ。水谷浩の美術だけが異常なほどの映画性を漲らせたまま、凍りついている。残念だが、仕方がない。そういうものだ。ところで、どうでもいいのだが、進藤英太郎が踊る時アホヅラで笑っているのがたけしさんが同じことをするときの顔とそっくりで、たけしさんはこの進藤英太郎を真似ていたのか、と驚く。
ジョン・レノンの命日の一日前にチャック・イエーガーが逝去。九十七歳。正しさとは結局決められないものと行動で示した人物、ということか、映画によると。
なんとなく後味が悪いので『我等の生涯の最良の年』を。黙っていたが初見。まあグレッグ・トーランド&ペリー・ファーガソンで何か、という趣向だが、残念ながら最初の二十分で予想した通りの展開・このまま長尺を頑張って寝不足になるのも困るので、止めて寝た。
 
某日、で、続きを、というのは甘くて、管理人として撮影に付き添っていると何かを見ている余裕はないと思ったら案の定、ない。早朝東京を出発した女優とぱるるが到着すれば早速買い出し、弁当で腹ごしらえ、クルーがやってきてじわじわ打合せが始まり、やがて日没、明日からの撮影に備えて解散。夕餉を摂ればもう眠い。時はあっという間に過ぎゆく。
で、二日が過ぎ、撮影もすでに終盤。私は二階で何かあれば動く(買い物など)という待機状態で昼の弁当をいただいた。指の傷があと少しで治りそう。家族が病に倒れて以来、無性にギターを鳴らしたくなるが、伊豆にいる間には無理か。スタッフから今後の展望を洩れ聞くうち、こりゃあ来年は月のうち半分は伊豆にいることになりそうだと予想される。実際すべきことは非常に多い。そしてそれをするのはたぶん私じゃないとまずいことが殆ど。こうなると運転免許がないことがつくづく惜しまれるが今更後悔しても始まらない。
しかしこの番組という機会を得て、女優念願のキッチン美麗化がなされた。こうして徐々に伊豆移住計画は進行していくだろう。
夕方近くになって小松政夫さんの訃報が聞こえ、そろそろかなと思ってはいたし、というよりもはや生死を超越していると考えてもいた人なので、なんというか胸がいっぱいになり、今日という日はそこで閉店ガラガラであり、数々のギャグが頭で飛び交うのだが、吹き出るのは笑いではなく涙なのだった。
しかし伊東さんとのコンビが歴史的であることに間違いないが、密かにタモリさんとの博多コンビが芸能史的に重要であり、あの製材所で材木を切り出すネタはほぼそれだけしかしていないのになぜあんなに笑えたのか、不思議でしょうがないものだったことは特筆に値するだろう。あれはタモリさんのネタの中でもベストに近いと思う。
あと、『岸辺の旅』の時「小松政夫に小松政夫をやらせなかった」という話があったが、それ以前に頭の中では、ラストの後で浅野くんがあの世へ行くと小松さんが淀川さんのメイクで待っていて「はい、またお会いしました」と声をかける、という様を想像して笑ったので、そこでもやっぱり小松政夫は小松政夫だった。それとは関係ないが、たけしさんが例のマッドサイエンティストの衣装とメイクで「ドップラー効果!」ではなく「ドッペルゲンガー!」と叫ぶ、という想像をして笑ったこともあった。以上、みすたあネタ。
Facebookで菊地健雄が自作の小松さんと草刈さんの写真を上げていたので、この二人の博多弁と小倉弁の会話が聞きたくなったが、私の世代でいう光石研と松重豊の会話に近いものがあるだろう。いつか三人でお会いしたい。福岡のローカル番組でお二人と鈴木浩介氏が車の番組をやっていると聞いたが、これはまだ見れていない。見たいものだ。
小松さんは子供の頃最も影響を受けた人の一人だと言っていい。かろのうろんは永六輔ではなく小松さんの持ちネタだと信じて疑わない。
小松さんと仕事ができなかったことがつくづく残念で、悔しい。
同日に横山ホットブラザースやキム・ギドクの訃報も流れた。お〜ま〜え〜は〜あ〜ほ〜か〜、はリアルで聞いたことがあるかどうか疑わしいほど遠いし、ギドク作品は一度も好きになったことはない。冷たいようだが感情が動かない。それより伊東四朗さんの無念の絶句に心揺すぶられた。ことによると私にとって小松・伊東コンビはドリフより近しい存在だったかもしれない。
撮影はメシオシのまままだ続いている。
 
某日、結局寝たのは午前2時近くで、これは久しぶりのことだったが、そのせいで朝の記憶がほとんど消え失せていて、片付けごとなどしたのは確かなのだが、ただリメイクされたキッチンに夫婦で惚れ惚れと見とれていただけかもしれない。朝餉をいただき、風呂に入り、それから業者の方が来て、今後の打合せをする。ほとんどがゴミである荷物をまとめて出たのが午後3時ごろか。小田原ですでに日が暮れた。海老名でぱるるが嘔吐していることに気づき、ここから夫婦で慌て始める。港北PAでも停まり、散歩をするが、本人は用を足す風情もなく、そのまま帰宅。ゴミを処理し、荷物を下ろし、猫たちの世話をし、残り物を食し、仕事場に戻ると、ほんの数分ネットを開いただけで寝落ちしてしまう。気づくと22時をすぎている。慌ててテレビを点け、鮎川さんと柄本さんの対談番組を見る。下北沢には長いこと通っているがお二人に出会ったことはまだない。そうしてまた仕事場に戻り、もはや眠ろうとしている。
帰り道にキング・ヌーを聴いていたが、それで昨夜シンセサイザーが欲しくなったことを思い出した。ネットでコルグの組立式だったものの完成品が売りに出たのを見たからだ。昔その組立式のやつを欲しいと思っていた。シンセをいじっているうちに何か新しいことを思いつくのではないかという気がした。だが新しいこととは何か。
 
某日、そうして通常営業の目黒生活に戻る。朝粥を作り、食べ、寒いので当分自転車は休んでおり、なおかつこの時期午前中の仕事場に射す日光が強すぎるので回避、本日は皆さんのご飯を贖うためにコジマまで徒歩で往復。さらにスーパーで人類の食材もついでに入手。昼餉の時間に帰宅、食事して午後はBS大河の時刻まで仕事。少し前から鼻についていたが、みんな泣き過ぎではないか。義昭に対して抱く感情は悲嘆より忿怒であったのではないか。しかしそれにしても柴田勝家といえば錠さんである世代にとって、いまや安藤政信君であり安藤三男(プロフェッサー・ギル!)だった佐久間信盛は金子ノブアキ君であることは不思議ではないけれどかなりの驚きで、藤吉郎が当時は火野さんだったことを思い出すとこの隔世の感に眩暈がしてしまう。ちなみに光秀は近藤正臣さんだった。
夕餉は到来物のステーキ(超美味!)を焼き、ブロッコリーと野菜炒めを添える。
その後、ツイッターで宮沢章夫さんからマルコムXのメガネの話が出たので『アリ』再見。ここでの時間はランダムに飛ぶが、語り起こしで「1964年2月24日」と出る。これは最初のソニー・リストン戦、つまり最初の王座戦前夜であり、カシアス・クレイ最後の試合前夜である。翌日から世界チャンピオンとなり、名前はモハメド・アリとなり、運命が変わる、その「前夜」であり、そこのみ日付が付されていることに驚く。逆にいえばそれがなければ何でもないただの一日の日付なのだ。『Helpless』も何でもない一日を択んだが、偶然それは数年後に世界史を変える出来事の「前日」の日付となった。それはともかく『アリ』の一見ランダムで実は基本的に直線である時間構造はこの日付に始まり、いわゆる「キンシャサの奇跡」という、地球上の、ある年齢以上の者の多くにとって記憶に深く残る日付(1974年10月30日)に最終的に繋がる。ちなみに最後の日付は画面上に現れない。それは出来事の(同時にアリの)強さが日付=名前をもはや必要としない領域に達したということかもしれない。ただしその裏面にはそれまでアリの身に降りかかったあらゆる出来事、他人の死や裏切り、対立、軋轢などなどが夥しく張りついている。それがモハメド・アリという人物のキャラクターそのものというべきなのだろう。
 
某日、朝の作業を終えた後で散らかった食卓上を片付ける。覆っていたものどもから不要物を除去し、大きく使えるようになる。ぱるるが病院に行き、昼餉を食してから渋谷へ。ブラジル映画『バクラウ』は予想された通り、一つの歴史・宇宙を形成する空間、つまりガルシア・マルケスでいうマコンドのような地を舞台として、そこに現れ快楽のために蹂躙せんとする西洋文明/帝国主義を容赦なく駆逐する一部始終を描く。これが面白くないわけはなく、ただ決してうまいストーリーテラーではないので、退屈する部分も多い。総じてまあそういうものだろう、といったところで終わった。一番興味深かったのは老ギター弾きが肌身離さず持ち歩く十弦のリゾネイター。明らかにパチモンなのだが、そこがまた「らしく」て素晴らしい。もちろん「第三世界」なので役者の顔貌が揃って好いのは当然である。よろしくない部分を一点書くと、UFO型のドローン。『パンツの穴』を知らないのは仕方ないが、すでに『デッド・ドント・ダイ』も『ツイン・ピークス』もあるのだから、これでは驚かないし、思考停止を感じる。寸詰まりというか。瑕疵という他ない。
その後、会社で打合せ。とにかくこれまで通り仕事を続けて行くしかない。立ち停まっている場合ではない。帰宅して、本日もまた到来物の肉をすき焼き風に。美味。
 
某日、前回もそうだったのだが「アナログばか一代」に出向くと翌日の半分が潰れる。要は私の活動時間が夜のイベントに向いていないせいで睡眠が足りなくなり、ボケボケになるわけだ。それでも愉快だから足を向けるのだが、昨夜はカーネーションによるはっぴいえんどカヴァーEP発売記念邦楽しばりということで、私もカーネーションのアナログ二枚と虹釜太郎さんの「架空ゾンビ映画のサントラ」CDを購い、そうして四人のポップス狂の選ぶ邦楽しばりの楽曲の数々と軽妙なトークを聴き、驚き、そして笑ったのだった。ここのところ湯浅さんの心を捉えて離さないらしきNHK『ひるのいこい』という番組がこちらも気になる、というわけで試しに本日の放送を「らじるらじる」で拝聴。かかったのは小松政夫「いつも心にシャボン玉」と横山ホットブラザースのノコギリ演奏をフィーチャーした「テネシーワルツ」であった。つまり奇しくも追悼。読まれるお葉書を含めて笑いの連続だったが、同時になんだかしんみりしてしまった。
さらに今回で二度目となった琉球ペットサウンズ、『かじゃでぃ風節』、さすがにアマゾンにもないだろうと思ったらあったのでとりあえずポチった。届くのが楽しみだ。
ゼメキス『魔女がいっぱい』を見に渋谷へ。誰もがお気づきのこととは思うが、冒頭から両親の死で始まり、専ら高さと宙吊りが主題として描写され、さらに猫と鼠を取り違えるという意味では拙作、こちらはスライドだが上映と歴史の主題が『スパイの妻』、ということで今年の総ざらえ的な見方も可能としても構わないだろう。最近作が傑作秀作の目白押しだったためやや点が辛くなったが、これで全然ゼメキス標準の出来としてよい。そしてアン・ハサウェイがやはり素晴らしいのであった。
 
某日、届いたレココレ、湯浅さんの『ア・ロング・バケイション』研究は上原裕氏へのインタビュー。感動的。リヴォン・ヘルム、ワイアット、13フロアの本が海外で出版の情報、ペン&オールダム作品集第二弾、BWアーリーワークスなど。ソウル・フラワー・ユニオン新作、鈴木創士さんの小説『うつせみ』と先生『見るレッスン』などアマゾンより五月雨式に届く。そして近田春夫自伝『調子悪くてあたりまえ』をリトルモア様より恵投いただく。充実の年末が期待される。
朝から大泉東映へ。DVD用ミックスの確認。昨日のゼメキスのせいで、なんだかこちらの女性陣もみんな魔女に見えてくる。菊池さん、ナガシマと食堂で昼をいただき、帰宅。
夜は妻とともに久しぶりに外出、南青山ブルーノートでジャズのライヴ拝見など。
 
某日、なんだか最近出会う人なり見る記事なりの多くが、オリンピックは行われる(だからとっととやってさっさと終われ)とか、ミニシアターを救え!などというスローガンに正義はない(だからダメになるならとっとと潰れてさっさと新しいことを始めろ)とか、正に『空に住む』に置いて私の提唱した「現状肯定」主義をその裏まで掬い取ってくれるのだが、そこに蓮實先生の出した新書『見るレッスン』が加わり、というかこれがそのための参考書(そもそも新書なんか出したくないのに出せというので仕方ないからさっさと出した、という動機で存在してしまい、だから読んだらとっとと忘れろと呟くがごとき書物)ということになって、この何やらよくわからん一年に区切りをつけてくれた。思い出して漱石『私の個人主義』を開くと、まさに内容がそこに書いてあることとダブって見えた。
 
某日、何やら孤独に卵白をかき混ぜてまで懸命に拵えたものが失敗に終わり、失意とともに心地よく記憶を失った午前中だが、血液検査の結果が頗るよろしく、γ–GTPが有史以来初の60台という平常値に収まるという事実は都合よく憶えている。午後、吉祥寺へ出向いてアップリンクにて中原昌也氏とトーク。某編集者N氏、同O氏、女優TN、カンヌ監督KAなど、イニシャルにする意味があるのかよくわからないが、なかなか派手なメンツが駆けつけてくれた。中原は超高層マンションについての考察を。KAはホキモトのPVを監督した由。終了後、ハモニカ横丁の居酒屋で何ケ月ぶりかにカウンターに座り(ノンアルコール)ビールを飲む古式ゆかしき形式を味わい、何ともしれぬ心地に浸る。帰りながら、これまで「できることをしてきた」けれども、今後は「できるかどうかわからないこともやってみる」ということをやろうと考えていた。中原と話しているうちに頭をよぎったことで、どこかで読んだ文言だがどこだか思い出せない。たぶんTwitterの大瀧bot。
 
某日、さすがに溜まった疲れのせいで、翌日からの伊豆行きのために皆さんの年末年始の食料を仕入れ、それからぱるるの爪切りに行き、買い物をして帰宅するとダウン、それ以上のことはできなくなる。日暮れて大河を見て、ぐずぐずし続ける状況のぐずぐずとした描写に欲求不満をこじらせ、つい見る気のなかったM-1を最後まで見てしまう。漫才のことなど私には関係ないが、これは映画じゃない、とか、小説じゃないとかロックじゃない、けど凄いからそれでもいい、というかそれゆえに素晴らしい、なんて言えるものとの出会いはかつてずいぶん幸せなことだったけれど、いまどきそんなことは滅多に起きない。どこかで途方もないことを期待しても無駄であり、それは他のジャンルでも同様、そんなことを今夜も感じた。歴史の終わりという言葉自体が胡散臭いとはいえ、こういうときにふとそれを思い出してしまうのはまあ残念というか悔しい。そういう手というのは一度使われるとその後相当にやりづらくなるものだという認識が甘いのではないか。
仕事場の本棚の書物を若干入れ替えた。マッカラーズとロブ=グリエを本気で読むつもりで仕込んだ。
 
某日、朝から準備、9時半出発で伊豆へ。ぱるるのために途中三回休憩を入れる。そのせいか犬は頗る元気である。買い物をしたり、家具などを移動させたりしつつ、定時に食事になったが、やはり時間と準備は足りない。食後はぼんやりと『我等の生涯の最良の年』の続きを見るがやはり本当に予想通り、というかこれが元になったものが肯定否定含めたくさんできたのねという事実を検証した。だから今となって退屈なのはストーリーと演出のせいばかりとはいえない。唯一「爆撃機の墓場」のシーンには心打たれるものがあったが、戦艦のそれを撮った『キラー・エリート』のペキンパーによってやがて凌駕されることになるのも致し方ないことだったか。しかしもし『キラー・エリート』の二人が娼婦たちを部屋に招ばずにホーギー・カーマイケルがピアノを弾く店(いまならヴァン・ダイク・パークスか)に行って呑んだくれていればもう少し愛されたか、などと虚しいことを考えてしまう。
 
某日、朝餉の準備と作業準備は両立しないので大忙しとなる早朝、撮影クルー(一名)と大工さんチームが合流して解体は始まる。女優もユニフォームに着替えて参加。しばらく参加した後、昨夜の余韻(キャシー・オドネルがよかったのだ)を引き摺る形で『セインツ』のルーニー・マーラが見たくなる。つまり『夜の人々』との呼応ということか。中原と晩飯を食っている間ももしかしたらこの監督の話になったかもしれないが、初見の際にそれほど乗れなかったのは当時フラッシュバック否定の勢いが個人的に強かったせいだと記憶しているが、クロニクル的話法について考えている昨今ではこの作品の手触りはまた違って見え、それ以上に語り口の真摯さに強く打たれた。特にほとんど言葉を発しない娘の存在の有機性をどう言い表せばいいのか、しばし黙考してしまう。ファーリー・グレンジャーとキャシー・オドネルによる映画史上最も痛ましいカップルは『ボウイ&キーチ』(主演はキース・キャラダインとシェリー・デュバル)のアルトマンによって語り直されたが、それをさらに時が止まったような21世紀の四年という歳月に置き、そこに一つだけ無言の変化を画面に刻みつけるあの幼い娘の、この世の無垢を結晶し尽くしたような存在も、もしかするとこれもまた、ここのところ気になって仕方ないアメリカ映画における「幼児性」と「郷愁」の一個のありようかもしれない。それはしかしこの娘が幼児であることとはほとんど関係ない。ちなみにそれ以前の部分、物語の端緒としてある銃撃戦前後の処理(断片性)では『恐怖分子』をも思い出させ、ここから結局語りの現代性の正体がうっすらと立ち上がってくるような気もする。その一つの要素として「暗い画面」に言及しておくべきか。後半のクリークでの銃撃戦、その後傷ついたケイシー・アフレックがヒッチハイクする車内など、ほとんど人物の表情など無用の長物と言わんばかりの暗さであり、文字通り場面が昼であっても「夜の人々」の彷徨としてある映画として撮られている。その点についてデヴィッド・ロウリーのその後の諸作はもちろん、ジェームズ・グレイやケリー・ライカート、そして『スパイの妻』の黒沢清とも共有すると考えるべきかもしれない。
 
某日、工事は続く。昼間に工事とは関係のないちょっとしたトラブルが発生、それに延々と引き摺り回された挙句解決せず。おそらく大事には至らないだろうが、夜になってひどく疲れたことに気づく。他愛のない問題で一日が無駄に費やされてしまうことは、怒りとかには結びつかないが、たんに疲れる。他のことが何もできないというのは心がジワリとやられるのだ。結局、何もできずに眠る。朝になって見事にリフォームされた部屋を眺めてもあまり気分は変わらず、いそいそと出かける準備をして帰京するのだが、ごく順調に車は進み、速やかに家に戻るが、なんだか釈然とせず、ぱるるの食事制限(太り過ぎを懸念しておやつカット)により、えらく冷たく当たられる。一時間もすれば笑顔で仲直りできたが、クリスマスイヴだろうが気分は沈んだまま。あの野郎はまたしても意味不明な言動を繰り返したそうだし(興味がないので見もしない)。カラ元気を出すために鳥の唐揚げを買ってきて一人チキパを敢行せんとするも、女優が不意に参戦。とりあえず一日が終わる。
と、しかしここで唐突だが、天啓が訪れたので言っておくと、今年を境にどうやら世の中は変わる。良くも悪くも変わる。というよりすでに変わってしまった。まだ目に見えないかもしれないが、明らかに変わった。終わった人はやがて消えて行くだろう。残る人は残り、新たな人はすでに現れた。良きものが残り悪しきものが消えるとかいうことではない。ただ、変わる。自分がどうかは知らないしどうでもよいが、やがてなるようになるだろう。私はオカルトではないし、理想主義者でもない、ごく凡庸な現実主義者だが、そういう人間から見ていま世間はそのように見える。
それとはしかし全く関係なく、というのはジョゼフ・バイロックのことを考えながら『素晴らしき哉、人生!』を見たのだが、実はこれまた初見であって、これがクリスマス映画であることも見る直前に知り、さらにはここにグロリア・グレアムが出ていることも知らなかったし、ワイラー『我等の生涯の最良の年』と同年の作であることに気づいたのも見る直前だった。その上で、途中から融資とか担保とか(アメリカの戦後復興)の話になり、あれ、これ最近どこかで見たなと首を捻っていたのだった。で、『ふるえて眠れ』の古い屋敷はここから来たことも、今まで『サンセット大通り』だとばかり思っていた『女の香り』の階段はここからのいただきだったかもしれないことも感づいたのだが、ではバイロックとジョゼフ・ウォーカーの分担はどうであったかははっきりとは言えない。これがデビューでその後特撮の多いバイロックだからミニチュアとマット合成の担当ということかもしれない。ローキーのノワールタッチになる非現実シーンもそうかもしれない。だがそんなことを抜きにして実は感動してしまったのは、ジミー・スチュアートとドナ・リードの夫婦とその子供たちによってであった。今年はドナ・リードの年か、と思う。夜更けにパニックを抱えて帰宅した夫に気づいた時の真正面のクローズアップはトリミングされたブローアップ画面かもしれないが、その後混乱を極めた時の夫のクローズアップと対応する見事な構成だった。ただ、ワイラーにしてもキャプラにしてもどうも音感が良くなかった気がする。このドナ・リードはいいとして、JSの歌もダンス(手足が長すぎるのか)もいただけない。高揚感が足りないからどうしてもプールに落とすとか余計なことをしてしまう。まあそのおかげでローブが脱げたりするし、廃墟とも出会うのだからいいと言えばいいのだが、それらは脚本の手柄で、演出の力量とはあまり関係がないと思われた。キャシー・オドネルに続いてグロリア・グレアムとニコラス・レイの女が続くのもこの時期ならでは、なのか。
それにしてもそんな一年の終わり、親友もまた本作を同時に見ていてこれはやはりなんかある、と重ねて思わされた。これからなんかあるよ、たぶん。そんなことを起こす二級天使の影が気にかかる。いま実在を疑われているといえば、ぱるちゃんである。ぱるるが二級天使なのかもしれない。


P1000099.jpg 33.55 KB



某日、ちなみにポールの新譜とダン・ペン&スプーナー・オールダム作品集2は伊豆の行き帰りで聴いた。ポールは端的に若い。一曲めなど高校の時に作ったデモテープにそっくりだったし、歌の頭が取れない曲を此の期に及んで作るなど、恐れ入る。それも裏を返して年の功と言えるかどうか知らないが、先日まで聴いてきたジョンは年相応だった。その意味でポールは圧倒的に変人だ。しかしこれらの楽曲が誰に向けられているか、その詩を読めば考えない人はいないと思う。そうしてそんな詩を書けるのは、というか書いていいのはポールしかいない。その意味でディランと並ぶ今年のベスト盤ということになるのではないか。
ペン&オールダムは端的にいい。あと何十回聞くことやら。
先輩がご夫婦でコロナに遭われ、同じ頃彼と同年輩の編集K氏はかなり症状の酷似したウイルス性大腸炎というものに罹患、とのことでだんだんと身近になり自分がなんらかの病原体に感染していないことが不思議にさえ思われてきた。8月というまあまあ早い段階に救急車で運ばれ、生死の境を彷徨ったとはいえ、病原体の介在はなかったという出来事のせいか、現在の状況にもう一つ釈然としない。がしかし何もない方がそりゃあいいのだから、文句は言うまい。ただただコロナかどうかを問わず病気に罹患した諸氏の無事の回復を切に祈るばかりである。
なぜかイライラして食事もする気になれず、カステラやミカンを腹に押し込んでしのぐ。
Twitterにこんな文章を書いた。《週刊金曜日の連載で廣瀬純の書いたボリビアのフェミニストグループのスローガン「脱家父長制化なしに脱植民地化はない」とは私が生涯問い続けるテーマでもある。そこに落着き払った美の居場所などなく、あるのは目にも留まらぬ貧乏揺すりだけなのだ。》今こう書かずにいられないような欺瞞に圧殺されそうな気配を感じている。もし美の意匠を纏わせるならそれはファスビンダー的な屈折を余儀なくされることが必然だ。そうした捩れもないままに半笑いで何かを成し遂げた気でいる呑気な者らは、昨日も言ったがもう今年で終わるだろう。
火野さんの十年続けられた『こころ旅』も今夜をもって終了した。お疲れ様でした。最後にアカペラでお歌いになったのが何か知りもしないのですが、やはり感動でした。最後は高知香南市の住吉海岸。新宮の浜のように石のぶつかる音のする浜だった。
クリスマス第二弾、アルノー『クリスマス・ストーリー』を。実は「ニューズウィーク」に久保田智子さんの特別養子縁組の記事があって、それで『キングス&クイーン』を見たかったんだがソフトを持っておらず、何れにせよ血縁のことを、それと大家族のことをもう一度描きたくなって、見ることにした。十回めくらいか、現代フランス映画では異例の回数だが、見るたびに好きの度合いが増す。当初はどうかと感じる人もあった俳優陣もいまや全員好きになってしまった。そして誰一人欠けてもこの家族は、というか医者なども含めてこの作品は、このように好きになれる感じに収まらなかったかもしれない。一度故郷をこんな風な目で描いてみたいという心持に、これまで以上にさせられる。ただしそれは厳密な意味で、具体的な戸籍とか血液とか形のあるものと手前で直截に接するという意味においてであり、たんに抽象をまさぐる程度のものならやらないほうがいい。
 
某日、午前中の直射日光で仕事にならない仕事場を抜けてリビングでDVDを見る。直前に新文芸坐で『子連れ狼』連続上映の報を見たせいで、先日発見した『座頭市 血煙り街道』を。近衛十四郎のために以前入手しながら未見のままで放置していたもの。冒頭、丈高い作物が囲む畑の径をダッと走る編笠の集団、市の耳を背後から、とここで横位置から作物越しに編笠が一斉にバッと投げ上げられるロング、と思いきや、近衛を挟んでしゃがみこむ市、ときて、宛は外れ、どうも今回は三隅との相性よろしからず。クライマックスの雪の決闘さえ、近衛の活躍を阻む路地の狭さがもどかしい。だがまたしても子供に心奪われる。ここのところ子供好いている。『菊次郎の夏』はここからの影響が大きいのではないか。オーラスの橋の下に隠れた市、これは『瞼の母』からか、何れにせよ当然涙腺は緩む。旅芸人一座の中尾ミエさんも素晴らしい。悪役は小池朝雄だが、もう一つキレ悪し。
釈然とせぬまま夕方、芸劇プレイハウスへ。柄本さん演出の『てにあまる』。芝居の出来云々以前にこの興行はいまどうなのか、と首を傾げる。いくつかの要素が噛み合わず、ギクシャクとしたまま見た感じ。このままで感想を言うのが憚られる。休憩を挟んであと一時間、というプロットではないだろうか。
相変わらず釈然とせぬまま帰宅しておでんを食し、ホークスの命日にしてダニエルの誕生日と気づく。ああ何かホークスを見てスカッとしたいと思うが、取りに行く気力がない。仕事場をまさぐると『華麗なる週末』が出てきたのでこれを見る。初見。マーク・ライデル監督だが要はフォークナー原作『自動車泥棒』ということで。なぜか主人公(マックイーン)の名前がブーン・ホガンベックということだけは記憶しているのが奇妙。で、まあ黄色い車と馬が好くて、それらはとりあえず文句なしであり、またしても子供が中心にあり、娼婦は可憐に美しく、赤い馬車も麗しく(撮影リチャード・ムーア、音楽ジョン・ウィリアムズ)、老人は見事に矍鑠としているせいで、そこまではほとんど傑作と思われるのだが、どうも演出上一味足りず、レースシーンは残念な結果に終わる。若干無念なり。あるいはこれがこれまで言及してきたアメリカ映画の「幼児性」と「郷愁」の、最も通俗的にカリカチュアされた姿かもしれない。『香も高きケンタッキー』とは比べるべくもない。が、しかし兎にも角にも一日の終わりにいいもの見た気にだけはなれた。
灯りを落した昏い部屋に窓から流れ入る月の光は秘めやかな弾力に満ちていた。
 
某日、突然いろんなことを大急ぎで片付けたくなり、そのうちの一つ、大江健三郎チェックを開始。予想通り見事に彼の五十代、つまり八〇年代後半(具体的には『懐かしい年への手紙』以降)をまともに読んでいず、当時読み始めてもすぐ別の何かに移行してしまい、なぜかそのままそっちのけになっていたのだが、とにかくそれではまずい、と揃えてみると読みかけの『懐かしい』『親戚』『緑の木』はあるが『キルプ』『治療塔』二部作はない。唯一既読の『静かな生活』は除外してとりあえず新春に全て読み終わるつもりで、手元にないものをポチる。で、まずは『懐かしい年への手紙』にこれで何度目かの手をつけたのだが、やっぱり投げ出した理由がわからないでもない。この「ギー兄さん」がダメだったのではないか。でもとにかく今回は読み終える。決めた。
遅い昼餉を食し、さらに読書したのち、芦田愛菜がたま、のちのガラシャとして登場した大河を見てから下北沢へ。これが年内最後のご奉公。菊池さん、中島とともにザ・スズナリをロケハン。その後LJにてスタッフと打合せして帰宅。十二時過ぎると自動的に眠くなるのがもはや習慣と化した。眠るのも早い。
そうして今年も終わる。昨年の今頃は『金魚姫』の撮影をやっていた。今年も何やら撮影を準備し、年明け早々実行されるだろう。本当にひどい年だった。政治の腐敗やパンデミックはもちろん、相次いで重要な人々が亡くなり、私自身『空に住む』の公開がなかったらどうなっていたかわからない。夏が過ぎ、秋になって少しずつ何か変わり始めた。たぶん来年の世の中はドラスティックに変わるだろう。相変わらずひどいことはひどいに決まっているが、まともな人はだいたい気づいているし、これ以上ニヒリストの顔色を伺いながら俯いて生きる空気も失せるだろう。そんな理不尽な状況に耐える必要はどこにもないのだ。それが呼び寄せるのは意識の変革だ。もうそこを変えるしかない。
とにかく私は読書をし、映画を見て、何かを書き続ける。いつか実現の日に向けて。
 
この2020年を、小松政夫さんに捧げる。


小松さん2.jpg 68.08 KB



(つづく)


青山真治

映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、『空に住む』(20)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)、自作『しがさん、無事?』(19)など。

近況:新年早々の撮影は実現の暁にはお知らせします。あと、来年は複数冊の書籍を出版する予定です。それも具体的になったらお伝えします。