宝ヶ池の沈まぬ亀 第53回

青山真治さんの連載「宝ヶ池の沈まぬ亀」第53回は、2020年10月末から11月にかけての日記。劇場公開中の新作『空に住む』関連の取材やイベントもひと段落し、9月中旬から約二ヶ月続けたある小説の“写経”も終了。さらに8月末に退院して以来、約二ヶ月半ぶりに伊豆の別荘へ向かいます。その他「アナログばか一代」やBIALYSTOCKSのライヴ&新譜、自宅で鑑賞した川島雄三、パヴェウ・パヴリコフスキ作品、2本の『スティーブ・ジョブズ』などについて記されています。

53、バビロン再訪なんかこわくない!・・・犬女子がいてくれたら!



文=青山真治


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某日、前夜の疲労は自宅内の空気の問題でもあり、というのも留守中ごく短時間のうちに女優が、ある部屋の模様替え(衣替え含む)を敢行、そのオーラを受けてのことだった。で、結局翌朝はいつもの調子で四時起き・自転車も行く・飯も作る、と飯のできたところで前夜予告的に騒動のあったムクドリの迷い込み問題が再燃、というかたんに猫のどなたかがキャッチしたということのようで、その処理は女優が担当し、私は空腹のまま病院へ。開院前の待合室にオルゴールヴァージョンの「空に住む」が流れて、驚き、私に対するサービスなのかと一瞬勘違い。あれこれ検査があり、さらに来月再検査が決定。そしてその足で、土曜の夜に外れた奥歯の詰め物を入れに、歯医者へ。ところが外れた部分が虫歯になっている(詰め物をしてかれこれ10年以上経過している)ので新調するとのこと。こちらではなんとなく「ミス・ユー」とかかかっていて、相変わらずノリがいいのだが。で、麻酔が昼過ぎまで延々と効くので、別に空腹ではないが、飯を食わずに午後となる。その間、ムクドリならぬヒヨドリの飼育計画は着々と進行、義母のもとでDIY女優手製の鳥籠にて餌を与えられ、すましている鳥がいた。
で、食後からは休暇らしい休暇の一日。『痴人の愛』と『河』。増村による分節化が建築物の切り取りの数ショットによると決定されたのはいつからか、洗い出してみたくなるが、本来東京時代を締めくくる谷崎においては最終的に横浜に移って震災を免れるのだが、それまでの大森の文化住宅でほとんどのドラマは展開する。それを、騒音の激しい工場の金属を切り取ったショット群とそれと対比的に置かれるナオミの写真が、三浦か伊豆か海の見える高台に立つ占領軍将校の邸宅じみた一軒家の時間を強力に切断しつつドラマを展開する。写真は日記に付されているのだからまさにクロニクル的な構成と言える。そこにナオミと河合の前史をそれぞれ象徴する実家の飲み屋(原作では浅草千束町)と河合の母親の住まう旧家(原作では宇都宮)とを置くが、これらは年代の契機ではなく「現在」である。
対するルノワール『河』では、住環境や個人史はほぼ忘れられ、ナレーションと祭りが、それはつまりルーマー・ゴッデンとインドが、ということになるが、それらが全ての分節を司っている。というかそれは無時間化の手続きとも思える柔軟さで穏やかなドラマを運んで行く一つの典型的手法と考えられる。だが、そこにも時間を決定する存在がいて、それはアメリカ人の傷痍軍人である。河の畔の植民地に彼が現れ、そして帰国するまでの三人の乙女たちの通過儀礼、といったこの物語にとってこれ以上優雅な話法はない。優雅さに徹底して背を向けた『痴人の愛』の増村と真逆のルノワールを立て続けに見た、ということだ。
 
某日、実は数日間この日記をサボっていた。理由は簡単、アナログばか一代を聴きに行って帰りが遅くなってから、あっさりと書くことが疎かになったのである。で、何をしていたかといえば、まずは取材の終わりが釜山とのリモートという形で行われ、そこからアナばかのために下北沢へ。アナばか、前半は「今年何聴いてましたか?」というコロナ禍の視聴状況について一人一枚的な・・・あ、そうだ、メンバーはいつもの三人に湯浅湾のゲストキーボード谷口雄さん。デッドの「ジョニー・B・グッド」シングルという湯浅さんの珍品を皮切りに、すでに聴いたものもあれば、これはとその後入手したものもある。直枝さん選出のにいやん『ホームグロウン』とビッグO『ミステリー・ガール』、樋口社長選出のエスター・フィリップス『恋は異なもの』、谷口さん選出のMJ『エスケイプ』など。どれも名曲揃いだが、何やら死に囲繞される感から逃れられてない、というかそれがデフォルトになっちゃったかなあ、というあまり笑えない状況を自覚する。後半は問題のザ・バンドのドキュメンタリー公開記念なのだが、みんな様々な反応で延々微妙な空気が流れる中、樋口さんは「やっぱ俺はリチャード・マニュエルが好きなんだよ」という何をいまさらな告白(また別の告白も実は前半にさりげなくあった)するし湯浅さんはオーディオばか一代化(カーステの話はよかった)するし、なんとなく見とかないとねという空気は流れた。最後はカーネーションのはっぴいえんどカヴァー4曲のミニアルバム発表を予告しつつ、その中から「抱きしめたい」を聴き、唐突に「次回は邦楽縛り」と告知されて終了。湯浅さんと直枝さんにこの夏の経緯を揶揄われつつニュー風知空知(実は何も変わってない)を後にした。
で、翌日はヒヨドリ騒動収束とともに女優が地方ロケに出かける一方、月曜に入れた詰め物が外れて歯医者に転がり込んだ。別に痛かったわけではないけれど。夜までまたしても自宅でDVD探索の後、問題のザ・バンド映画へ。それ以前に驚いたのは、公園通りに紀伊國屋書店ができたことと、パルコの中に映画館ができたことである。劇場が半分になったということだろうか、キャパ百人前後の小ぶりな小屋だが、悪くない。まあここを基盤にシャレオツ映画文化再燃ということにでもなればそれもよかろう。で、ロビー・ロバートソンの自伝映画だが、まあ不快な部分もありつつ、まあよくぞここまで珍しそうなフッテージが残っていたものだという感心が先行した。ロビーだってこれで自分に感情移入してくれるなどという期待は微塵もないはずで、注目は当然のごとく他の四人に集中する。とはいえ悲惨すぎる話は出なくて当然という気もするし、湯浅さんの言っていたガースのスローすぎるトークは聞けなかったけど肉声を聞けること自体が珍しいのだから満足するしかない。という感じで見終わり、公園通りを下る自分を惨めな気持が包むのはなんだったのか。
さらに翌日。メロディ・ガルドーの5年ぶりの新譜をはじめこの間に注文した音楽が届き、順に聴いていく。もちろん途中でザ・バンドに散々寄り道しながら。これもアナばかネタだが、にいやん『ホームグロウン』のリヴォン・ヘルム、『渚にて』でも叩いているが、74年だからバークレー研修後だろうか、スネアからスナッピーが外れていて、アナばかで聴いたときは驚愕したが家でもじっくり味わった。あと、MJとプリンスは比べちゃいけないと改めて。届いた『ダイアモンズ・アンド・パールズ』に心がピクリともしなかったのは、予想されたこととはいえ少しショックだった。八〇年代後半にあれだけの力作を連打すればその反動がやってくるのも当然か。一方のMJ、ポール・アンカとの共作曲目当てに入手したが、アルバムごと実に凄い。ポップスの可能性を限界まで追求した巨匠の底力を思い知る。
昼下がり、駅まで徒歩往復。銀行作業。
そして仕事場は気づくとさらにDVDと書物で膨らんでいる。少しずつ消化せねばと思うのだが、なんとなく見たくなってニコラス・ローグ『赤い影』を見たら、たんに『テネット』との類似性に気づいて、ああやっぱり『テネット』はSFよりオカルトに近かったんじゃないか、と変な確信を得た。で、気になるローグによる分節だが、カット尻のロングが微妙に長くなる瞬間だった。実景を節約しているのではなく、これはこれで計算しておかないとこういう編集はできない。フラッシュバックの方は後でどうとでもなるけれど。
何やら日常的なぼんやりミスが増えている。疲れが溜まってきたのか、気をつけたい。やっぱり人間、ドナルド・サザーランドみたいに、命に別状あっても気を取り直して散歩に出るくらいの余裕がないとね。
 
某日、見始めてから気づいたのだが、『ニクソン』はブルーレイが出ていない。米盤が出ているが邦盤はまだ。永久に出ないかもしれない。これからこれの構成を研究し直すかどうか見極めようとしているのだが、ずっとレターボックスで見ていくのはいささか辛い。この形式を作ったやつの罪の深さよ。で、結局一日経ってしまったのだが、まだ決めかねている。その間にもいろいろあったのだが、あまり他人様にお知らせするようなことではない重大事件が勃発、しばし呆然。その後気を取り直し夕餉準備に向かったのだが、ビニール袋を使って下拵えするわフライパン二枚使うわと初めてのテクを試みた割に悪くない味だった。それでもまだ、さらに細かく『ニクソン』を見てノートまで取るかどうか、決定できないでいる。やるとなるとインサートショットまで洗い出したいのだが、3時間越えの作品に対してそこまでやるか、そもそもこれをやったからといって3時間越えの映画を作るつもりなんかさらさらないのだし。とはいえ、同じフラッシュバックでもニコラス・ローグよりかなり複雑なことは確か。もしやるとしたら他のものも見直した上で最終的にやればよかろう、と結論した。まだこの旅は始まったばかりだ。
 
某日、女優は早朝から地方ロケへ。こちらも早朝から『ハンナ・アーレント』を見直した。以前見たときは集中できなかったが、なかなかどうして、凡庸ながら感動的な作りである。さすがにこちらの目指す何かを発見することはなかったが。バルバラ・スコヴァがカンヌでの審査員の一人だったことを今でも誇らしく思っている。
ここ数日某氏に何度か電話するがお出にならないので旅行にでも出かけたのか、と思っていると案の定。で、ようやく要件を伝えることができた。一件落着。
で、午後は『オール・ザ・キングスメン』。学生時代に下高井戸で見たのを覚えていて、当時は昔のパンフレットのコピーなどが配布された。その後DVDで何度か見ている。バーネット・ガフィにしては構図が決まらないが、最大の難所はウチソトの光量の裁定で、以前見たときも驚いた記憶があるが、この点は実に見事。編集は崩壊寸前くらい煮詰まったとロバート・パリッシュの本でかつて読んだが、オリヴァー・ストーンに迫る勢いで素材は撮っているのでそうなったのもよくわかる。ただロッセンの演出はうまくいっているとは言い難い。ジョン・アイアランドとマーセデス・マッケンブリッジは圧倒的だが、肝心のブロデリック・クロフォードが本当にアルコールで潰れていたんではないかと思われるほどムラがあり、あと妻役のアン・シーモアが、初々しさなのか、料理を給仕する手が震えていて、そういう「弱さ」のようなものがあちこちに散らばっているのはロッセンらしいといえばらしい不安定さかもしれない。とにかくそうした「弱さ」が編集にまで及び、この前後に赤狩りがロッセンを襲うのだがその影響も含め、ぐだぐだな側面は否めない。とはいえやはり内容的に見るべきものは多く、『ニクソン』『ハンナ・アーレント』と三本立てで見るとはっきり現在に至るこの八年の日本を問答無用に描写できるのではないか。
 
某日、女優のいない朝餉の後でぱるるがやたらと元気がいい。散歩? と訊くと大きくはしゃぎ出すので二人で出陣。何度もストップして対処に困ったが、無事排泄も済ませて、一時間半の運動をこなした。午後は『女は二度生まれる』。芸者の遍歴という意味でクロニクル形式探しに択んだが、これは実にいい。川島ではトップクラスではないか。敵意も野望も希薄な若尾さんの寧ろ気立ての良さにほのぼのとする。肝心のクロニクル形式が、雨だったというのもいい。これは山村聰とともにトップシーンから現れる。派手ではないが見事な雨描写だと思う。山村の未亡人として登場する山岡久乃の造形(ほとんど顔が映らない)も悪くない。一方で終始仏頂面の江波杏子については何とも言えないが、かつて若尾さんがおやりになった衣鉢を継ごうとして中途半端に終わったのかどうか。靖国に対する山村の墓の描写もわかりにくいのだが、若尾さんの力演も相まって優れたシーンになっている。ラスト間際、腕時計を若者に渡したことを思い出す若尾さんの微笑は忘れ難い。
夕餉のために温野菜を作るがまるでひどい味。落ち込みつつ疲れる。
夕方にロケ終了した女優の帰還は9時近く。かなりの渋滞だったらしい。
 
某日、朝餉を摂っての歯医者。詰め物を新調。ついでにクリーニングすると、逆の奥歯に新たな虫歯発見。週一の歯医者通いは当面続く予定。大阪住民投票、反対派勝利。当然。
昨夜届いた『マインド・ゲームス』がSACDだったので聴けず、プレイヤーを贖おうかと真剣に悩んだが、悩みつつその他の届き物を。まずは『イマジン:アルティメイト・コレクション』。しかしこれはどう考えてもジム・ゴードン、ジム・ケルトナー、アラン・ホワイトという豪華すぎるドラム陣とキング・カーティス、ボビー・キーズのホーン隊が凄すぎるだろう。とりあえずこれまで意識したことのなかった「兵隊にはなりたくない」と「ハウ?」が素晴らしかったのと、なぜかここにとびきりかっこいい「ウェル」がスタジオ録音で入ってるのが印象に残った。続いて『ウォールズ・アンド・ブリッジズ』。これが個人的に最初に聞いたジョンのソロだったという意味で思い出深いアルバム。この後が『ロックン・ロール』でそこから遡ることをせず、そこでジョンについてはストップした。もちろん一度や二度は全アルバム聴いているが好きになるということはなく、この作品も例外ではない。今度のベスト盤で初めて好きになった曲が多い。「夢の夢」やその後の「スターティング・オーヴァー」など好きな曲はごく稀だった。これまたジム・ケルトナー、ジェシ・エド・デイヴィス、ニッキー・ホプキンスといった有名どころからクラウス・ヴーアマンまで多彩な参加メンバー。しかし一度聴いただけで好きになれる感じはない。何度か聴き込むつもり。
夕方から雨。ひどく体調を悪くする。
 
某日、小糠雨のなか、早朝自転車。朝餉に女優の作ったジャガイモのギー炒めトリュフ風味が超美味。深夜バスで雨上がりの東京に着いたホキモトさんが来たのでこのイモとお粥を振る舞う。ホキモトさんのお土産は高知名産の碁石茶。一種独特の形状をしている。聞けばホキモトさんも自転車で運動しているとのこと。しかしあの平坦な田園地帯で自転車を漕いでると変人扱いされるだろうね、当然。
昼過ぎにコジマなどで買い物。帰宅して仙頭氏と電話で歓談。夕餉は久しぶりに焼肉。
一応毎日時間を見つけてツイッター限定で『空に住む』へのコメントを検索して毀誉褒貶に我が身を晒すのも仕事と思い、励んでいるが、どちらにしても疲れる。だからいち早く全て忘れるのだが、忘れて疲労だけが残るというのもさらに疲れを増幅する結果に。
もう一つ、時間を見つけるとやっているのがモノクロとカラー両方のルック探し。例えばDVDで見てみるというよりは記憶の底を浚う感じ。これまた気の遠くなるような沈思黙考の時間ではあるが、コメント検索とは逆の楽しい作業でもある。
 
某日、自転車をサボる。朝餉ののち、某重大事件続報。どうやら事態は本人との意思疎通ができてから展開、ということだが、こっちが焦る必要はなく向こうに家族があるのだから任せておけばよかろう、と自問自答。しかし朝から重い話をしているとそれで一日が終わってしまう感があってよろしくはない。映画に行くつもりがすっかりやる気を削がれ、スーパーチューズデーも開票だなあ、とチラ見を始める。やがて約束の時刻になったので某会社に懇談しに向かったのだが、お互いあまりいま話せる用意もなく、世間話に終始して帰宅。いつも通りに粥を食す。こういうことではいけない、と夜は久しぶりの『妥協せざる人々』を。DVD題『和解せず』。DVDで見るのは初めてで、スクリーンで見たときのあの暗い迫力を感じないのが残念。意外なほど覚えていた。複数回見てるから当然だが、記憶するには複雑すぎる構成ではある。記憶よりずっと多くの回数、ディゾルブが使用されていた。
 
某日、ストローブからヴィスコンティへ。ドイツを舞台として外国人が撮る点が同じなのは奇遇の『ルートヴィヒ』全長版。初めて劇場で見たときは、三時間版だったか、半分以上寝ていた気がするが、今見てもやはり緊張感は薄い。そうしてこうなると、というのはヘルムート・バーガーがどの場面も同じ顔で年齢不詳すぎるせいだが、だからどの場面が先で後かわからなくなるというかどうでもよくなってきて、この人(ルートヴィヒ)自体がそういう人だからそれでいいと考えられなくもない。ある意味で全てが「待機」であるかのような時間配分は主人公のキャラクターが決める、という考え方もあってよいだろう。そう考えるとそのように作っているのは『フォレスト・ガンプ』かもしれない。その人格に乗ってしまえば、このとりとめのない長さも見ていられるし、変でないズーム(世の中変なズームが多すぎる)も悪い気はしない。ワーグナーの白い犬のインサートなどハッとさせられる箇所も多くあり。で、前半二時間を見て、なんだか三時間版の構成を確認したくなるが、これは売りに出てないようだ。
 
某日、病院へ行き、一日心電図を採り続ける装置を取り付ける。不思議なもので、行動にほとんど支障がないのにこういうものがあるだけで何となく気分が落ち着かない。写経がクライマックスを迎えて、その一文一文を書き写すことによる動揺が抑えられないということもある。あと数日で終わるので自白しておくと、漱石『こころ』を書き写していた。十月中に終了予定だったが、取材などスケジュール過密のせいで延びた。で、昨日Kの自死場面を過ぎたところ。少し前からああと思っていたが、これはドッペルゲンガーの小説で、たしか漱石はドストエフスキーのそれをロンドン時代に読んでいたはずだ。すでに言われていることだろうがKは金之助のKであって、あれこれ言われて来た仮説よりそう解釈した方がシンプルに妥当と思われる。自分が自分を殺すという分裂症は明らかに漱石のもので、日本人の根本をそう捉えることは実に都合が良かったのだろう。分裂により無責任を自決とか自裁とかいう形式で虚構化しえる。高等遊民という優越の可視化と労働の象徴化を並列に置いた『それから』に続く日本人論ということか。これが最も売れた小説だと本日病院で目にした雑誌に書いてあった。さもありなん。そうしてそれゆえに、チャンドラーどころではないミソジニー、では生ヌルければ女性蔑視を、時代の産物としてではなくこの国のマチズモとして徹底的に糾弾すべきかと思われる。やはりこんなものが国家を代表する小説として大手を振って喧伝されるようではたまったものではないのだ。しかしその上で、その批判を超えて、狂気とともにある人間存在の卑小さと希薄さの目覚ましい顕現として評価し直されるべきだとも思う。
だが、『こころ』を読んだせいだけとは言い難い深い反省が、記憶を反芻するたびにあらためて我が胸を襲う。多くの人に迷惑をかけ、不快な思いをさせてきたことを帳消しにすることなどできない。「先生」の書く通り、「運命の導いて行く最も楽な方向」のあることを知っているが、私はそこから引き返した。引き返した以上、どんな批判も受け入れ、かつ自分の見つめる前は前としてそちらへ向かおうと思う。さほど長い訳ではない残りの人生、どのように恥辱を堪えていけるか心許ないかぎりだが、そうして行くしかない。
ちなみに病院だが、一日経ってやはり不整脈はひどくはないけれどあって、しばらく投薬で様子を見るとのこと。血液検査の結果は予想通り、良好。90%真人間。
順調に回復、順調に日常を送る。洗濯、料理、掃除。本日は全てこなした。女優は女優業に従事しているのだから、私は当然主夫である。だが夕餉の粥の味付けは女優の采配であり、これは見事なものであった。そういえば昨夜、同時刻に樋口社長とやはり美味い粥についてメールを応酬していたのだった。
文芸誌、今月は「群像」の目次が充実している。佐々木君によるみすたあ分析を読もう。
 
某日、写経終了。これで漱石ともしばしお別れだ。たぶんまたなんらかの形で再会するとは思うが。とりあえずこれをもって今夏までの清算を終えた感じ。やっておかなければならないという直感は多分正しかった。やり終えてから言っても詮無いが。最後に明治の精神とか殉死とか言い出すけれど、これは『門』の場合の仏門と同じでこじつけに過ぎず、この作品はあくまで「個人主義」の先鋭的描写に終始していると見るべきだろう。
とにかく明日からは新規事業に邁進する。
最終章を写し終えて背伸びをしているとぱるるが吠える。本日も早朝から女優が女優業に精を出しているので代りに散歩に行けという要求だ。出かけて2時間、途中だらだらと嗅ぎまわりながら歩き続けた。午後は買い物に出かけ、久しぶりにスーパーのもりそばを食ってみたのだが、日々三食、粥で舌を満足させている身にはこれをかつて普通に食っていたかと自分を疑うほどに残念な味。仕方ないのだ、粥が美味すぎるのだ。
届いた『言葉はどこからやってくるのか』(大半は既読)『カン大全――永遠の未来派』をパラパラとめくりつつ『ルートヴィヒ』の続きに入る。だがすでに眠い。ぼんやりBSの黒澤の番組など見ているうちに眠りこけ、女優の帰宅はてっぺん近かった。
 
某日、黒沢清監督をお迎えしてトークを敢行したのは昨夜で、いやはや緊張した、というか久しぶりに会うので思わず高揚しすぎて落着きを欠き、上ずったような感じになり、思わず話が取り留めをなくしたのだった。説明不足でトーク中、黒沢さんに何度も助けられた。ゲストに助けられていては仕方がない。もうこういう機会もないであろうから、いい思い出ということにしておこう。終わってから喫茶店でダベったが、その間も何を話したかよく憶えていないのはこれは眠かったからでもある。黒沢さんに言いたいことの三分の一も言えなかったのは心残りではあるが、黒沢夫妻がお元気そうでそれが何よりだった。
で、翌日はあまり何もしたくないまま、朝餉を終えてから歯医者へ。奥歯の治療だが、これが割合難工事となり、行程に三週ほどかかる見積もり。壊れていた今月の予定がさらにガタガタと積み木崩し状態。仕方ないのでもう一度積み木を積み直す。途中で聴き始めたプリンス『Come』とYMO『テクノドン』は両方とも93年の作品で、どちらも時を超えて悪くない。当時は両方とも聴いていなかった。何を聴いていたかもう憶えてない。時間を無駄にするような荒んだ生活を送っていたのだろう。思い出そうとしても思い出せない。
本日は洗濯を重点的に行った。二回回し。天気がいいというのはいいものだ。
『ルートヴィヒ』見終わる。こうやって部分的に見直していくと各シーン非常に力のこもったものだということはわかった。王の建てた城を見物していくエリザベトの美しさとそれを裏切るように響く嘲笑に、かつてひどく動揺したことを思い出した。
続いて『イーダ』。モノクロの旅。パヴェウ・パヴリコフスキ。ウカシュ・ジャルという撮影者がなかなかの曲者っぽい。構図など『尼僧ヨアンナ』的で綺麗すぎるのだが、ドラマの構築において計算されている点は評価されるべき。叔母の部屋を去る男が鏡の前で身支度をして出て行くときの構図が、やはりイーダがサックス吹きの部屋を出て行くとき反復される、など。
 
某日、上映イベントがらみがお終いになり、急速にテンションが下がって行く。もうSNSを覗き込む必要もないと思えば多少は精神衛生的に良好かと思うが、肉体的疲労はあらゆる局面を脅かす。何はともあれ健康だと心で呟く。
そんなわけで日がなよろよろと考え事と家事に左右されつつ、午後から昨日のつづきで『COLD WAR あの歌、2つの心』。予想されてはいたが、まあそんなところであろうという映画。その中でも悪い気はしない部類。非常に素敵なヒロインが岸井ゆきのさんにどことなく似ていたせいか。前作と違って予算も潤沢であったらしく、でっかい鏡のトリック撮影や川を流れて行く「オフェリア」ショットなど、面白い局面も多数。メイキングを見るとどうやら男主人公のピアノ演奏はモーションキャプチャーでプロの手先と入れ替えているようだ。黒沢さんはあれをCGでやったのだな。そちらの方が大変だったろう。で、これのクロニクル技法はフェイドアウト+黒み+字幕。安易と言えば安易。わかりやすさで言えば最低限保証。そこはやはり『スパイの妻』のわかりにくい名人芸があるから。で、スターリニズムはどうだったのか、という点では割合軟着陸、ゆえに猛攻批判を受けても不思議はなかろうが、これはこれでわかる気がしないでもない。歴史物というのはそこが面白い、と黒沢さんも自作について唸っていたが。
見終わって晩飯終わりあたりからさらに心身共に倒壊気味となり、気を失う。
 
某日、喉が痛い。昨日からどうも調子がよろしくないが、24時間後の現在に至ってはっきりと痛みに変わった。昨晩どうも熱っぽいなど微妙な症状が感じ取られ、すわコロナ? と我が身を疑うほどには怯えているのだが、いまはこれ、風邪だと思われる。確かにあちこち怠いのだが、普段かかる風邪と何が違うと己に問うても捗々しい答えはなし。ということは、これはどう考えても風邪だと申し上げるしかない。なので二日連続自転車を休んで様子を見るべきだし、家の中でもマスクをして飛沫を防ぐ対処法、あとは普段どおり過ごすだけのことだ。
昨日は昼にホキモトが新作CDを運んできた。飯を食い、散々喋ったが、夕方近くに突然女優がUber Eatsを頼もうと言い出し、ハンバーガーを注文、これが予想以上に美味かった。さらに成城石井で諸々注文するとこれまた楽勝で届く。これは外出を控えるプチ戒厳令も楽しくなる、よく考えられたシステムと言うしかない。
日暮れてホキモト去り、いよいよ症状悪化、仕事場へ辞去すると寝床に老猫が寝ている。彼は動けないかと思えば、家の中限定とはいえ活動範囲は犬女子より広い。ともあれできる限りの作業をしてから、彼の寝位置をそっとずらして自分の居場所を確保して眠った。
で、今朝もまだペトくんは傍で寝ていた。朝餉を食してBIALYSTOCKS(ホキモトのバンド)の記念すべきファーストアルバムを拝聴。すぐにはものが言えない。ああもできるこうもできると考えが千々に飛散し、少なくとも自分がプロデュースしてたらこのようにはならなかっただろう、良くも悪くも。だからこれで良かったのではないかと思われた。ホキモトのファルセットと菊池くんのコンポジションは大変な相性の良さである。こうなったらスティーリー・ダンを目指すか、ダブル・ピアノという編成はどうか。
例の重大事件続報。本人との意思疎通不能ということで、復帰絶望の見通し。ここまで書けば大方はお察しのことと思われるが、血族に病人が出たのである。それも重病であり、裏を返せば私がそうであったかもしれない、という逼迫感とともに毎回この話を聞いている。こうなってはただ手を拱いていることしかできないが、そうやって人生は続き、ゆるゆると終わって行き、繰り返されることはない。そんな精神状態ではとても映画に出かける気にならず、しばし呆然。その後会社に行き、あれこれヒントになりそうな提案をして帰宅。
 
某日、前のウインドウズがぶっ壊れる直前に女優の入手したMacBook Proが今使っているこれで、最初は使い勝手を取り戻すのに手こずったが、今や多分ウインドウズに戻れる気がしないのは、どこかで開発者の目指したところというか意思が私にもほんのちょっと理解できている気がするせいかもしれない。ということとはあまり関係なく、数日かけて二本の『スティーブ・ジョブズ』という映画を見たのだが、実際そういうことはあまり描かれてなかったのだけれど、それが不満というわけではなく、ただこの革命家の映画にしてはごく当たり前の方法論という感想が双方ともに残った。結局この人も人間であったという結論に至りたいのか、実際そうだったとしても、また別の可能性を筋立てとして見せたいとは思わなかったのだろうか。少なくとも納得の風土に落ち着くことを拒絶する映画を目指すべきではなかったか。期待はしていなかったのでがっかりすることもないし、これらはこれらでそれなりに楽しんだ。そしてこの人を描く形式を誰かが見つけるまでにはまだしばらくかかるだろうし、または二度と手に入れるチャンスはないのかもしれない。それでも構わないけれども惜しいとは思う。惜しいけれども人間としてのジョブズの物語を見ただけでも、この人を前にしたら誰でも怠惰に思えるかもしれないとは感じた。
こちらの風邪気味はなんとなく誤魔化すうちにおさまっていく感じなのだが、今度は九〇歳の義母が調子を悪くして病院に入らなければならない週末となった。ミーティングで出た案件をあれこれ考え、この際やってみようということでこれまで写経としてやってきたのとは違う意図を持って原作小説を写すということを始めた。やっていることを見るとたぶん何が違うのか誰にもわからないだろうけど、勿論やってる当人にとっては全然違う。不思議なものだ。
夕方までそれに従事、その後大河を見る。筒井順慶役の俳優の面構えがいいので誰だろうと調べると、駿河太郎という人で聞き覚えがあると思ったら鶴瓶さんの息子さんだった。そしてその後放送される『赤ひげ3』がいいと先日もミーティングで話したのだが、そこに山口果林さんが出ていて、当然ながら非常に優れた演技を見ることができた。テレビを見ながら泣くのは久しぶりのことである気がした。
 
某日、あまり眠っていない。ほとんど動けない老猫が、にもかかわらず動こうとし、非常に危険だから介護しなければならない。しかしすぐ下の弟(血縁なし)チャチャマルが何くれとなく面倒を見ている。それに促されて私も動く、みたいな。二時間に一度こいつが私を起こす。実際、トイレに小用に立つ頻度とほぼリンクしている。朝になり、何を思ったのか、老猫ペトは女優の寝床に辿り着いた。そもそもそこで寝ていたのだが、それが最善ではなかったろうか、犬女子さえ騒がなければ。
義母、ごく元気になって退院。こうやってチェックできていればよし。
夕方、青山へ行き、先月大阪で会って以来の松本勝と合流。HUNTER La Stradaというイタリアンで飯を食いつつ今後の予定を確認。そこから徒歩数分のライヴハウスにて、今回は変則的なメンバーでやる事になっているホキモトのバンドBIALYSTOCKSの演奏を。彼らを見るのはこれで三度めになるが、今回はドラムスとベース抜きでゲストにフルート奏者を加えた編成、それでも見事、というより先日渡された新曲も揃えたセットリストは、上手下手などもはや超えて貫禄さえ感じる大きなグルーヴを湛えて、圧倒された。四十分程度の演奏はあっという間に過ぎ、その倍は見ていたいものだった。当然のことかもしれないが、しかしバンドとしての個性がはっきり出来上がって見えた。
帰りに勝と喫茶店を探して表参道を漂泊。これほど人通りの少ないのは初めてと驚く。


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photo by Masaru Matsumoto  


某日、いつも通りの朝の支度を遂行してから荷造り。退院以来二ヶ月半ぶりの伊豆行きである。今回は女優の出演するテレビ番組の下見をスタッフとともに行うという主旨で、一泊のみの予定。すでにオフシーズンの平日ということで、特に渋滞することもなくスムーズに進行、車内BGMにプリンス、ジョン、MJを試み、いずれも音の分離の良さに満足。途中の宇佐美で砂浜に下り、ぱるるにとって初めてとなる海を体験。ぱるる、寄せては返す穏やかな波を追って、大はしゃぎで走り回った。
テレビクルーは女優のマネージャー氏も含めて総勢六名が伊豆に登場。年末年始は賑やかなことになるだろう。その後ぱるるとともに入れる店を探して遅い昼食。近辺にはペット同伴可能な店が多い。
帰りしなに買い物を済ませ、その後は出かけず、賞味期限切れの食品を処分などしながら、穏やかに過ごす。置き去りにしてあったCD、DVDなど重要物を回収、その中から『タッカー』を久しぶりに。これにはクロニクル的な要素は希薄で、物語のチームがそうであるように非常に密接した短期間のエピソード集として語られていた。凝りに凝った繋ぎを含めて、やはりコッポラのベスト。スティーブ・ジョブズの作り手たちに足りなかったものがここにはすっかりあった。拙作の初期何本かに多大な影響を落としているのも明らかで、例えばあのような電話のやりとりの卓抜な描写は今では照れ臭くて採用されることはないかもしれないとしても、いつかはやってみたい誘惑にかられる。
もっと何か見ようとしたが疲れが出て、睡魔に襲われる。ぱるるも眠った。


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某日、朝方コンビニまで歩き、一度も休まず帰宅したがこれは快挙と言っていい。記憶する限り、伊豆の坂を休憩なしで登りきったことはこれまでなかった。尤も入院時に贖った杖を手にしていたのでその効果がなかったとはいえないし、その記憶の多くは夏場なのでこの十一月の過ごしやすさとは容易く比較できないのだが。汗はかいたので運動としての効果も確りあった。戻って一息つくと栗鼠が盛んに鳴いている。彼らも元気だ。
朝餉を摂り、ひと仕事して前夜からの課題であった諸々次の動きを策定。要するに屋根から天井に問題あり、雨漏りの修理をしなければその後に支障を来すため、私がこのまま伊豆に残って段取るかどうか。女優が叔母に紹介された業者と話し、午後にアポイント。その後のことはそれから、ということで、昼飯に「愛犬の駅」という店へ。広いドッグランにかねてから注目していたが、ぱるるが興味を示さないのも予想通り。飯だけ食って帰る。
午後、業者の方による下見。撮影までの時間がないので明日から作業に掛かるべく、やはり私が居残ることに。軽く買い物をし、諸々準備を済ませた女優をまだ日があるうちに送りだし、ふとここで一人になる感覚を味わう。夏に倒れる前、野本史生が去り廣瀬純が来るまでの間以来である。心細いわけではないが、楽しくもない。いずれにせよそれなりの数あるDVDから何本か見ていれば、たぶんあっという間の幾晩かである。
手始めに勝が先日貸してくれたヨーコ&ジョンの『イマジン』。当時はまあそういうことだろうが、メイキングの方にごく短い間メカスの撮ったものが流れ、そこにマイルスが写っていたのが、ただそれだけで衝撃的だった。マイルスは、大きい。あと、ジョージのギターはストラトもレスポールも凄い音がした。
空腹の予感がして食したいものを想像するが何も浮かばず。食うことにどこか飽きているのか、あるいは早くも自作の粥を求めているのか。
そのまま『女であること』。見ながらどうしても肯定できないものを感じ続けた。ある種の極端さというか残酷さをすんなりと受け入れることができないのは自分の弱さ、甘さかもしれないのだが、受け入れたところでそれが真実だとか現実だとか言い切ることに可能性を発見することがどうしてもできない。その外側にも異なった価値基準はあって、そこに晒されるとここで絶対の如く示唆されるものがあっさり相対化されることは明白だからだ。この物語はそうした限定的領域でしか成立することがない。ここには居残り佐平次のような、あるいは『女は二度生まれる』の若尾文子のような超越論的な楽天性はない。あるのは他者と出会うことのない、偽の残酷さの瀰漫する孤立したシステムばかりだ。こうしたシステムが戦前から戦後にかけてのこの国を緩く監視し、また認定してきた。そのことを意識するたび不快の滲むことも確かだ。終幕の原節子と久我美子の別れはどことなく対立する世代間の和解を思わせて実はそうではなく、ほとんど同じ人物同士が互いを見つめることで改めて自己に満足したにすぎない。そうやってこの国は自己を緩く許し、寄る辺を手に掴み、犠牲者を見殺しにして来た。この作品の真のタイトルは「日本人であること」ではないか。監督である川島がそれにどのような見解を持っていたか知る由はない。二人に降らせた雨が『女は二度生まれる』の山村聰の雨と同じ意味かどうか、考えてみることも悪くないかもしれないが、どの道それは私の仕事ではない。
 

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某日、起きたての太陽が海に島影を泛べる。今朝もまた蚊の羽音に眠りを嚇され、朝餉を贖いに坂を降り、そしてまた登った。鍋焼饂飩、仕事はなべて捗る。
午前十時、各業者の皆さん御登場。午前は廃品回収タイム。二階・一階・庭など不要物を綺麗さっぱり処分。さらに大工さんによる雨漏りポイント、電気工事屋さんも加わり電飾設置ポイントなどの工事開始。昼休憩を挟んで午後まで続く。その間に私はトイレ修理の連絡を取り、来週にセッティング。一旦東京に戻り、再投入という段取り。結局、2トントラックいっぱいの廃棄物。ほとんど布団(ベッドマット)。
午後は天井の雨漏り修理。二階と一階同時に、連動的に。電飾ソケットの位置も変更。
あれこれ写真を撮って、なんだかどこかで見たなあ、と考え込んだらスコリモフスキの『ムーンライティング』だった。壁や天井を壊すというのは万国共通である。あと何か、ここ十年くらいのアメリカ映画でも家屋破壊シーンのある映画あったけど、思い出せない。
で、単独泊二日目となる。今夜は何か温かいものを食べに出ようとしているが、いかんせん天気がぐずついている。とりあえず出てみるが、やはり降り始め、駅の食堂で海鮮丼を食したが店を出てもまた降ってきて、スーパーで明日の食料を贖うと早々に帰宅。気温だけは妙に高く、坂を登りきると汗だくになっていた。
夜は『地球に落ちて来た男』。学生時代以来何度も見ているけれど、一度も真面目にみることに成功したことがなく、いつも途中で心が萎えてしまう。単純に面白いと思えないだけなのだが、最初の数分とラストだけのため(それだけは好き)に二時間以上我慢するというのもナンセンスな話ではある。こういう機会でもなければ見る気もしない。ボウイという人は大島と出会うまでは本当の意味で映画に恵まれなかった気がして、その点ではシャーロット・ランプリングと全く同じだとか言うと誰かしらに怒られてしまいそうだが、しかし実際そうではなかっただろうか。二人ともアメリカにすんなり溶け込めない資質だったせいだと思われる。芝居よりも黙って歩いている姿がベストというヨーロッパ人の歴史性をアメリカはなかなか受け入れないのだ。それは映画とアメリカが共通して持つ幼児性(郷愁)のゆえかもしれないが、これは重要な栄養であり決して消えてなくならない。


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某日、昨日業者の方々とも話したが、やはり伊豆は天気の移ろいがかなり激しく、また南と東、西で全く違っている事が多いらしい。そんなわけで朝から土砂降りが来たり、さっと晴れたりの繰り返しで一日が始まった。再び饂飩、並びに惣菜を食す。午後まで仕事をして業者の方が確認に来たら帰るつもりでいたが、それを終えて昼を食べたらどうも体調が悪くなり、仮眠を取るつもりが大きく寝てしまい、帰宅のタイミングを逃す。やむなく本日も単独泊とする。
『愛すれど心さびしく』再び。マッカラーズの原作は大学時代に読んだきり。あの物語がこのように抒情として描かれると今の精神状態ではヨレヨレになってしまうという事を失念していた。で、実際ヨレヨレになった。何よりジミー・ウォン・ハウ先生の仕事に尽きる。南部ものというと子供の頃の『アラバマ物語』に始まり、ステイシー・キーチの『ファット・シティ(ゴングなき戦い)』があって少し前に中原と見た『ワイズ・ブラッド』があるのだが、これだとスッと『レインメーカー』を思い出したのはこないだ『タッカー』を見たばかりだからだろうか。若き日のソンドラ・ロックに『ロンリー・ブラッド』のメアリー・スチュアート・マスターソンを思い出し、さらにジーン・セバーグを思う。何か甘く切ない感じにも思われるが、それとは違う、取り返すことのできない寂しさと悔しさに満ちて、しばらく立ち直れそうにない。それはあんなに楽しかったカサヴェテス『ビッグ・トラブル』に対する現在の感想でもあり、そこでアラン・アーキンという俳優の功績の大きさを改めて感じる。それにしても『ボディ・アンド・ソウル』と同じように移動していくジミー師匠のクレーンワークの愛らしさよ! そしてこの年代のカラーでしかありえない色合い! それは南部の色合いだろうか。これを見ることのできた幸福というものを、ただ噛みしめる。
 
某日、そんなわけで映画と体調不良のせいでなかなか寝付けなかったのだが、起きてみればいつもより長く寝ていて、さすがに疲労が重なっていることを実感。朝餉は本日も饂飩にして、美しい朝の日差しの下、ぼんやりと坂を降りてまた昇った。帰宅の準備をするのさえ昨夜は億劫だったが、今朝はさっさと片付けてしまった。途中、踏切のトラブルで遅延があったが、ごく順調に帰京できた。しかし家に帰ってもさらに疲労はつのり、途中あれこれやったにしても結局延々と夜更けまで眠ってしまった。で、その間に数少ないやったことの一つとしてSACDでない通常盤が届いた『マインド・ゲームズ』を聴いたので、その感想を書こうと思ったのだが、同時に届いていたバート・バカラック&ダニエル・タシアン『ブルー・アンブレラ』を聴き始めると途端にどうでもよくなり、これこそはディランの新譜と双璧をなす今年度最高盤であろうと確信したのだった。とにかくめちゃくちゃいい。めちゃくちゃ短いけど、30分ないけど、それがどうした、珠玉の名品というものはそんなに長々とやるもんじゃないんだよ、また頭から聴けばよろしい。というかしばらくこれしか聴きたくない。
・・・気を取り直してジョンのことを書くが、もちろんその辺の凡百とは比較にならない優れたアルバムだと言いたい気持ちもなくはないが、それよりふと思ってしまうのはビートルズが筋金入りのギターバンドであったということで、二人の優秀なギタリストと個性的なベーシストによるアンサンブルがあのバンドの核だったと改めて思い至ったのは『イマジン』のジョージのギターによってで、本作のデヴィッド・スピノザが悪いわけがないんだけど、ここで彼がうまいこと弾いているせいで、あるいはおかげで、ジョン・レノンはビートルズから完全に独立して一人のミュージシャンとして現れたのではないか、という仮説。これでよかったのかね、と沈思黙考してしまった。人は成長し、人は老いる。それはそれとして芸術には失うべきでないものもあって、ジョンにはギターを放さないでほしかった気がする。スニーキー・ピートという人のペダル・スティールがいい塩梅にジョージ的なものを入れてはいるのだが、やっぱりあのギターバンドじゃないと、というものは帰ってこない。それでよかったし、郷愁はやはり頽廃なのかもしれない。でもね、寂しいもんだよ。
本日もまた何かやりかけるとどろっとした疲れに流されて休み休み進む一日となったが、久しぶりに部屋を何となく片付ける、というかいい加減杜撰に並んでいるものを整理しておこうと動かし始めるなり急に、あれはどこへいったと始まって、次々に探し始めるうちに「新潮」における磯部涼さんの連載『令和元年のテロリズム』がいつの間にか、というか退院直後くらいに終わっていたことに気がつき、倒れるまでこの連載が拙作公開までの唯一の伴走者と心密かに連帯していたのだったが、渋谷で路上生活の女性が殺害された事件を知った時も即座にこの連載を意識した。磯部さんの仕事が増えると感じたのだった。それはちっともいいことではないと磯部さんだって感じているだろう。そう、そして大江に考えが到り、そういえば『晩年様式集』を未読のまま放ってあるな、と探しているうちに数年前から探していた『ヒルビリー・エレジー』が見つかり、これでロン・ハワードの新作に間に合うとホッとしているうちに大江も発見、それら本日の戦利品を手に大河を見始めたのだが、パラパラと大江をめくっているとこれが七年前に出たことを思い出され、ああそうだった、と考えているうちに地震が起こったのだった。正確にはその時には大河は終わって、相変わらず面白い『赤ひげ3』の途中だった。
まあとにかく、これから今年の初めのように数ヶ月自宅蟄居を余儀無くされたとしても本もDVDもCDも溢れるほどひと部屋に集結させてあるのでドンと来いである。もちろんそれを望んでいるわけではないし、あんな連中は政治家ではないとしか思われない連中がやっている政府の真似事が間違った判断しかしないために事態をさらに悪化させ続けることに憤懣遣る方ない、当然ながら。
しかし今日は結局、行っても途中でトイレに何度も立つことになる巨大な上映に立ち会うことができず、ただ一日家でやきもきしていたに過ぎなかった日だとも言えよう。
 
某日、疲れ癒えず。朝から新しい料理器具の使用法を研究するが、結果わからず。いつも通りの器具と手順で行う。
昨夜は結局『フォレスト・ガンプ』を研究していた。もっぱらメイキングを見ていたのだが、かなりのアイデアを編集で捨てているらしい。それを知ってから本編を見るとなぜかダイジェストを見ているような気分になる。特に子供時代から高校へと時代が移るポイントで石を水面に投げてその波紋から、という処理がなされるはずの部分がない。あまりうまくいかなかったのだろう。それでも、好きかどうかとはべつに、自分とアメリカ映画にとっての一つの結節点であったことは確かで、ジョニ・ミッチェルの歌を思い起こしながら何処かに書いた文章に引用した台詞をもう一度引いておく。
「僕らには皆運命があるのか、それとも風に乗ってさまよっているだけか、たぶん両方だろう、両方が同時に起こってるんだ」
たしかどちらかの『スティーブ・ジョブズ』でもジョニ・ミッチェルが引かれていた。どういう文脈かは忘れたが。
ちなみにここでのロビン・ライトによる女性像はのちに『マリアンヌ』のマリオン・コティヤールとして繰り返されるが、プロトタイプというのではなく、非常にいい。
続いて気になったせいで『コンタクト』を音声解説を聞きながら。例の鏡のショット。どうやって撮ったかは結局わからないのだが、しかしそちらへの欲望が久方ぶりにムラムラと湧いて来たのだった。


(つづく)



青山真治

映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、『空に住む』(20)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)、自作『しがさん、無事?』(19)など。

近況:新年早々の撮影は実現の暁にはお知らせします。あと、来年は複数冊の書籍を出版する予定です。それも具体的になったらお伝えします。