映画川 『TOKYO TELEPATH 2020』

現在シアター・イメージフォーラムで公開中の『TOKYO TELEPATH 2020』(遠藤麻衣子監督)について、先日掲載した原智広さんの記事に続き、樋口泰人による映画評を掲載します。2018年に東京で撮影された本作に映し出される風景は、それを見る2020年現在とどのように交信するのか。そのタイトルに「2020」という西暦が含まれる理由が浮かび上がっていきます。
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虹の彼方に



文=樋口泰人


2018年と2020年の2年の差が日常の風景として目に見える形でこれほどまでに実感されることになるとは、2018年の時点ではだれも想像しなかったはずだ。しかしこうやって2018年の東京で撮影された映画が2020年の今東京で公開されてみると、いや案外そうでもないかもしれないと思ったりもする。「そうでもない」というのは差がないということではなく、その決定的な差をだれも想像してもいなかったわけでもないということで、別の言い方をすると当たり前のように持続し今日から明日へとつながっていくように見えているこの日常のそこかしこに亀裂がありいつどこでどうなってもおかしくないし日常はその切断された断片の集積でしかないし、さらに言えば昨日の続きが今日であることは奇跡のような出来事でしかないということがこの映画によって強く実感されたということである。
もちろんそれは映画の基本でもある。映画は1秒間に24回の真実と言ったのはゴダールだったが、そのひとコマごとの断絶と映画は常に向き合ってきたわけで、ではこの目の前のひとコマを残すか切るか、監督は常に決断を迫られている。慎重にそして大胆にそれは決断されて次のコマへと繋げられるわけだが、完成された映画を観るわれわれは常に後からでしかその切断に気づかず決定的な出来事が起こってからもう後戻りできない場所に来てしまったことを知らされることになる。そんな映画の残酷を知る者にとって2020年における世界の一気の変容を特別視するのはいささかロマンティックすぎると思えるのだが、しかし『AKIRA』や『ブレードランナー』によってすでに目にしていたものが単なる想像世界の出来事ではなく今ここにある現実の中にくっきりと刻印されたその時間とジャンルを超えた剥がしがたい接続の強さに小さな感慨を感じないわけではない。つまり今日と明日が奇跡的につながっているという意味で2018年は2020年と奇跡的につながっていることを、映画は教えてくれるのである。
『TOKYO TELEPATH 2020』という映画に映された2018年の東京の風景は、変わってしまった世界から見たもうあり得ない世界に対する懐かしさを感じる風景というよりも、撮影時の2018年の時点で既に存在していた2020年が当たり前のようにそこにあり今ここでそれを観る私たちの現在に溶け込んでいる風景のように思える。世界も時間も時代もすべてのことがひとつの枠の中にあって表面には見えてこない奥に隠れたレイヤーを写し取ることが映画の役割であると言いたくもなる。2018年に漂う見えない2020年がここにあるのだとこの映画は語りそれが現実の2020年と交信する。建設途中のオリンピック用施設の工事現場、毎年恒例の高円寺の阿波踊りなど時代と場所を特徴づける2018年その時その場の風景を切り取りながらそれは語られていくのだが、工事現場は開催されなかったオリンピックを見越したように時間がそのまま止まって見えるし、つまりオリンピックは永遠に延期のままなのだと言いたくなるような強さでその建設途中の途中さがわれわれの胸をざわめかせるし、そしてそれゆえにマスクなしで集う人々や阿波踊りの、現実の2020年では見ることのできなかった風景はあり得たかもしれない2020年としてまさに2018年に動かしがたく根付いているように見えるのだ。
もちろんそれは逆に言うこともできる。2020年の今ここに2018年のオリンピック用施設工事中の風景が否応なく貼りついているし実施されなかった高円寺の阿波踊りの音がどこかで鳴り続けていて耳をすませば誰にでも聞こえるはずなのだ。『TOKYO TELEPATH 2020』はそんな2020年を撮影した映画である。まさにタイトル通りここに映っているのは2020年の東京の風景である。懐かしくもなんともない。今ここにあるわたしたちが今生きている日本の現在である。登場するテレパスはまさにそんな2018年でもあり2020年でもある東京にいて、どこかでそれを感じている。断絶されているはずの2018年と2020年を彼女たちが受け取り発信するかすかな信号がつなぐと言ったらいいのか。もちろんそれは1945年でも2011年でもいいわけだし、大阪でも福島でも沖縄でもいい。誰かが何かを発信して誰かがそれを受け取る。そのかすかな信号がつないだ断片と断片とが時間を作り出す。遠藤麻衣子の映画はこうやって作られている。


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だからこの映画を観たらだれもが、今この現実に耳を澄ますことになるだろうし、目の前の風景に目を凝らすことになるだろう。今目の前にあるものたちからはかつてどこかいつかあそこから聞こえてくる音がかすかに混じっているはずだし、今ここではないどこかの風景が紛れ込んでいるはずだから。映画の後半、主人公は兄らしき人間の後姿を見て追いかけ始める。兄はそこにいたのかいたはずなのか実はいなかったのかよくわからない。時折その姿が風景の中にあって主人公は追いかけ走るが捕まえることはできない。それはまさにかすかに見えたいつかの風景、かすかに聞こえたいつかの音を探すしぐさと言っていいだろう。それは兄ではないかもしれない。未来の子供かもしれないし親や祖父の子供だった頃の姿かもしれないし、まったく関係ないがもしかすると関係が生まれたかもしれない人間だったかもしれない。風景の中に埋め込まれた何か、あるいはその残影、残り香、予兆と言ったらいいだろうか。現実と呼ぶにはあまりにかすかすぎるのだがしかしそのかすかさの強さが自分をときめかせる。この鼓動、この重なり合い、この静けさ。
冒頭のナレーションの声が時々重なり合いいくつもの声となって何かを語る。それは何人もの声ではなくいくつもの時代いくつもの場所にあるひとりの人間の重なり合ったレイヤーが少しだけズレた声である。複数形のわたし。さまざまな時代と場所の断片の中に生きるわたしが2018年の東京に重なり合っている。主人公はプリズムを光にかざし見えない光を分解して虹を作り出す。あるいは光の中でホースから水を出しその水の飛沫によって虹を作り出す。わたしがまるで虹のように広がりだす。そしてそのひとりひとりは渋谷の街角でサックスを吹く盲目のミュージシャンのようでもあり、夜の競技場でブラインドサッカーに励む盲目の若者たちのようでもある。彼らのおかげで今ここにいるわたしがある。わたしのおかげで彼らがいる。その可能性と不可能性が断片と断片とをつなぎ合わせ小さな一歩が踏み出される。映画の歩みはいつも奇跡でしかない。今日の翌日は果たして明日なのかどうか。物語は常に亀裂だらけである。その亀裂の暗闇を盲人として生きる。ただそれだけでいい。人生はシンプルだ。今この足をその暗闇の中に差し出すだけでわたしたちは永遠を生きることになる。


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TOKYO TELEPATH 2020
2020年 / 日本 / 49分 / 配給:A FOOL / 製作・監督・脚本・編集:遠藤麻衣子 / 出演:夏子、琉花ほか
2020年10月10日(土)~30日(金)シアター・イメージフォーラムにて限定上映
(過去作『KUICHISAN』『TECHNOLOGY』も上映)
公式サイト


樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。boid配給作品の『VIDEOPHOBIA』(宮崎大祐監督)が10月24日(土)から、『ジオラマボーイ・パノラマガール』(瀬田なつき監督)が11月6日(金)から公開。