映画は心意気だと思うんです。 第17回

ホラー映画をこよなく愛する冨田翔子さんが“わが心意気映画”を紹介してくれる連載の第17回。今回はNetflixオリジナルシリーズ『呪怨:呪いの家』(三宅唱監督)と『ランボー ラスト・ブラッド』(エイドリアン・グランバーグ監督)から、この世のいたるところに開く呪いの扉にまつわる話が展開されていきます。その物語の最初の扉となるのはマンゴー⁉
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(撮影:冨田翔子)



呪怨:呪われたランボーと呪いのマンゴー

 
 
文=冨田翔子


ある日我が家に、マンゴーが届いた。それは赤々しく、血湧き肉躍る立派なマンゴーだった。送り主は、前回我が家で天才的牡蠣のアヒージョを作った牡蠣狂いの友人のお姉様からだ。別に妹が食べまくった牡蠣のお礼とかではなく、全然違う文脈で頂いたものだったのだが、天然牡蠣がマンゴーに変身したような、わらしべ長者感があり、なんともうれしい贈り物だった。
 
さっそく牡蠣狂いの友人に伝えると、切り方を書いた紙が箱の中に入っているから読めという。聞けば、まるで花が咲くようにマンゴーの身を切り出すことができるのだそうだ。なるほど、まず1個頂いてみようじゃないか。説明書によると、種が真ん中にあるのでその両側を切れという。しかし、読んでもいまひとつ理解できず、「なんで種の幅が最初から分かるんだろう?」と、手のひらでマンゴーを転がしながらしばらく考えた後、とりあえず「えいっ」とその実に包丁の刃を入れてみた。
 
ところが、刃は途中でピタッと止まり、それ以上進もうとしない。まずい、種の幅を見誤ったらしい。かなり焦った私は、まだ間に合うとばかりに、とっさに切り込んだ場所から数ミリ横にもう一度刃を入れた。だが、全く変化は起きず、またしても途中でピタリと刃は止まった。結果的に、ものすごく薄いマンゴーのスライスができてしまった。申し訳ない…。何かがおかしいと思い、もう一度説明書をよく読んでみると、実はマンゴーの形には向きがあって、私は正しい方向から90度回転した状態で切ってしまったのである。さらに、初めて知ったのだが、マンゴーの種は巨大なひまわりの種みたいに、とっても薄型なので、種を避けるように両側を切れということらしい。そうとは知らず、種の面に対して、思いっきり刃を立てていたのだった。
 
なんてことだ! こんな高級マンゴーに、誤った切り方をしてしまうなんて…。マンゴーの花を咲かせるのは諦め、とりあえず正しい向きから切り直して、なんとか実を取り出した。一口食べると、これまで食べたマンゴーの中で、一番フレッシュで濃厚な味わい。薄いマンゴーのスライスですら、しっかりと味わいがありジューシーだった。ますます切り方を失敗したのを悔やむばかりである。
 
いつも日記で美味しそうな写真ばかりあげているboidの樋口さんに、マンゴーの写真と切り方を失敗したことを送ったら、「信じられない!ありえない!呪われました。マンゴーの呪いです。呪怨」と意味不明なことを言われた。どうやら次の原稿を『呪怨:呪いの家』で書いてほしいらしい。「ランボーで書こうと思ってたんですけど…」と言ったら、「呪怨1:呪いのランボー」「呪怨2:呪いのマンゴー」の2本で、と返ってきた。私はマンゴーをくわえながら、頭を抱えたのだった。


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『呪怨:呪いの家』


たしかに樋口さんの言う通り、世界のいたるところで今、呪怨の扉が開かれている。というのもNetflixの『呪怨:呪いの家』は、1988年~1997年を舞台に、実際に起きた凶悪事件や災害のニュース報道を劇中のテレビ内に流すという演出。鬱屈した時代の中に実は呪いの家があったという“実録”ドラマなのだ。だからいつの時代にも、実は呪いの家は存在していると言えるし、特に今、コロナ禍で人々の疑心・不安・憎悪が混沌として暗く沈んだ世界には、呪怨の扉がいくつ開かれていても、おかしくはないのだ。
 
ところで、劇中に流れるニュース映像には、連続幼女誘拐殺人事件、松本サリン事件、神戸連続児童殺傷事件など、世の中を戦慄させた凶悪犯罪がずらり。自然災害として、阪神淡路大震災も登場する。すべては、同時代に世間の空気を敏感に感じ取っていた、脚本の高橋洋氏と、プロデューサーの一瀬隆重氏が共同で作り上げた物語だ。かつて『リング』に登場する呪いのビデオの“指差し男”にトラウマを植え付けられた私としては、またこの2人の策略にまんまとやられた気分。誰にも真似できないような驚異の悪趣味センス。そんな当時の感覚を肌で感じるような脚本を渡されて、それを映像にするのはさぞ大変だったに違いない。というか、2人とは世代が違う本作の三宅唱監督は、どうだったのだろうか。私のように「『呪怨1:呪いのランボー』『呪怨2:呪いのマンゴー』の2本で」、と言われたような気分だっただろうか。
 
ちなみに私は、物語が始まる88年に生まれたので、ほとんどの事件をリアルタイムには体感していないのだが、いくつかの事件はドラマを見る前から知っているものもあった。なぜかというと、今から4、5年前、どの職場に行っても全く仕事ができず、過剰にグーンと落ち込んでしまうという時期があった。そんなときは、夜ベッドに横になるも、「明日が来てほしくないなあ」と思うとなかなか寝られず、おもむろにiPhoneを開き、黙々と世界の未解決事件や日本の凶悪事件を検索し読み耽って、真夜中を過ごしていたのだ。別段それを読んだから元気になるとかではないのだが、自己嫌悪に陥っているとなぜかポジティブなものにはあまり興味がなくなり、この世の闇を覗いているとだんだんと心が落ち着いてきて、最後は眠気に襲われ意識を失うのだった。
 
だが、翌日になると、好奇心でつい他人の不幸話を次々と読んでしまった…という罪悪感が襲ってくる。しかし、「世界ではこんなことが起きているのか!」「なぜこんなことが起きるのか!」という好奇心は、三日三晩私をiPhoneの画面に釘付けにさせ、罪悪感も日増しにひどくなっていった。そんなある日の朝、起きると、お腹が痛かった。10分に1回程度、圧迫されるような痛みが襲い、医者に行くとウィルス性腸炎と診断される。…というところまでが、しばし私が落ち込んだ際に陥るパターンだった期間があった。「アイタタタ…」とお腹を押さえながらも、私はどこかホッとし、「やっぱり好奇心で人の不幸を調べたりして、バチが当たったのだ…ちゃんとバチがあたってよかった…バチがあたらなければもっとひどいことが起きたに違いない…これで私の憂鬱も一区切りになるのだ…」と、安堵するのである。本当にバチがあたったら腸炎くらいで済むわけがないのだが。というか、寝不足で免疫が弱っただけのような気もする…。真実は誰にもわからない。
 
やがてこの立ち直り方は少々不健康ではないかと考え、もっと別のもので憂鬱をやり過ごそうと思いたった。そこで新たに活路を見出したのが、動物が動物を丸呑みするシーンを集めた映像集であった。字面だけみると陰気だが、これがなかなか生命の神秘に溢れており秀逸なのである。特に蛇がヤギを飲み込む姿は、想像の500倍くらい蛇の口が開くのである。「蛇の口ってこんなに開くのか!」。世界には、私の知らないことがまだまだ山ほどあるのだった。しかも、その蛇は結局ヤギを飲み込み切れず、半分くらい飲み込んだところで全部吐き出してしまった。「ちょっとおバカみたいだな…」。結果、この動画を観た後は、腸炎になることはなく、「強く生きていこう」とむしろ前向きになったのだった。
 
そして現在の私は、初めて同じ会社に2年以上勤めている。ようやく落ち着いた社会人になれた気がしている。それでも落ち込むことはあって、ストレスが溜まることもある。そんなときにどうしているかというと、猫の動画を観る…。昔はダークサイドに堕ちかけて危ない時も、「蛇の口ってこんなに開く!」とか、素晴らしい発見があった気がするのだが、今じゃ猫がゴロゴロしているだけの動画を観て心底癒やされる日々である。なんだかつまらぬ人間になったような…まともになるとはこういうことなのか…。


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『ランボー ラスト・ブラッド』


さて、この世にはいつでも呪怨の扉が開いているという話だが、いささか唐突であることはご容赦いただいて、シルベスター・スタローンの『ランボー』の主人公、ジョン・ランボーが生まれたアリゾナの家もまた、なかなかに呪怨的舞台である。
 
ランボーは18歳で陸軍に入隊し、ベトナム戦争に赴いた。第1作では、ベトナムの戦友の家がある田舎町を訪ねたランボーが、よそ者として、ベトナム帰還兵として疎外され、苦しみ叫ぶ姿に胸を打たれた。第2作では、「俺たちが愛したように、国も俺たちを愛してほしい」という彼の悲痛な訴えが涙を誘った。第3作では、ランボーを殺人マシンに育てた諸悪の根源でありながら、唯一ランボーのことを理解する父のような存在であるトラウトマン大佐を救うため、ロシア兵と健気に戦った。ここまでは、ランボーという人物に対して感情移入するのは容易だった。特に第1作では、本当はランボーが死ぬ結末だったのを、試写を観た観客が「あんまりだ」と言ってラストが変更されたほど。観客はランボーの気持ちに寄り添い、追い詰められた彼が巻き返すときには、まるでヒーローであるかのように応援した。
 
しかし、前作から20年以上経ってつくられた第4作『ランボー 最後の戦場』のランボーは、もはや我々が気安く感情移入できる存在ではなくなっていた。老齢となったランボーは、タイの奥地で静かに暮らしていた。ランボーは、紛争が続くミャンマーへと医療支援に行くという団体をイヤイヤ送り届けたが、彼らはあっさり窮地に陥る。そして彼らを救うため、ランボーは再び戦場へと赴き、まさに“戦の神”と化すのである。最後の10分間で、おびただしい数の敵兵をほとんど一人で大量殺戮するという、とんでもない暴力が展開され、それはまさに言葉を失う光景だった。鬼の形相で人を殺しまくるランボーの姿に、もう私なんかが理解できる境地ではないのだと思い知らされた。ランボーはこれをベトナムでやってきたのだ。そうして生き抜いてきたのだ。すべてが終わった後、助かったことを泣いて喜ぶ支援団たちを、ただ黙って高台から見つめるランボー。一体誰が、どんな言葉をランボーにかけることができようか。“ありがとう”など簡単に言えるほど、生易しい殺戮ではなかったのだ。そしてこの第4作のラストで、ランボーはついに故郷アリゾナの家へと帰っていく。第1作の初登場シーンとよく似た格好で。実に数十年ぶりの帰還。ランボーの悲惨な人生も、一応の決着がついたのかと、そんなことを思わせるラストだった。
 
なので、そこからさらに10年以上経って登場した第5作『ランボー ラスト・ブラッド』では、ランボーもすっかり落ち着いて、家族と平穏に暮らしているものとばかり思っていた。ところがランボーの人生は、まったくもってそんなに甘いもんじゃなかったのである。
 
70歳を超えたランボーは、実家の地下に巨大な地下壕を掘っていた。まるで、かつてベトナム兵がやっていたのと同じように。万が一、敵が攻めてきたときに戦うつもりだろうか。ベトナムの後遺症は全く癒えておらず、今も何かのショックでフラッシュバックに苦しむランボー。その姿だけで泣けてくるのに、唯一の心の拠り所である娘は無残にも麻薬カルテルに奪われる。私の思い描いていたランボーの平穏な余生は、完全に打ち砕かれた。そこにあったのは、どこまでもベトナム戦争の呪縛から逃れられない男の姿。故郷の家も平穏な場所ではなく、暴力でしか問題を解決できない不器用な男。それが戦場で生きた男ランボーの現実だった。
 
そして、ベトナム兵ではないが、敵はランボーの家に本当に攻めてくる。それを罠を張り巡らせ待ち受けるランボー。まるでプレデターのように、一人一人狩るように殺しながら、ランボーは何年も掛けて掘ったであろう地下壕をどんどん破壊していく。ベトナムで開かれた呪怨の扉は、とうとうランボーの故郷の家まで侵食していく。映画はあまりにも残酷でショッキングな内容だったが、それでもランボーの行き着く場所は、これで良かったのだと思う。「俺は戦い続ける。大切な思い出を守るために」。生易しいハッピーエンドなど、はなから不可能だったのだ。それでこそ、暴力に狂わされ受け入れた男と、暴力そのものを鮮烈に描き続けたこのシリーズが、反戦映画であることの証なのだから。
 
さて、我が家の冷蔵庫にはあと1個マンゴーが残っている。樋口さんが命名した“呪いのマンゴー”から、ランボーの分まで花を咲かせてみせようじゃないか。慎重に向きを確認し、包丁を入れる。こんどはうまく切れた。片側も種を避けて、3等分にすることができた。あとは格子状に切れ目を入れて、皮の方から押し出す。見事! 2つの大輪の花が誕生した。呪い、散る。いや、呪いに終わりはない。呪怨の扉は今もどこかで開かれているに違いない。我々はただその中を手探りで進むしかないのである。

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(撮影:冨田翔子)



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呪怨:呪いの家
2020年 / 日本 / 全6話 / 監督:三宅唱 / 脚本:高橋洋、一瀬隆重 / 出演:荒川良々、黒島結菜、里々佳、長村航希、岩井堂聖子、井之脇海、仙道敦子、倉科カナほか
Netflixで配信中


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ランボー ラスト・ブラッド
2019年 / アメリカ / 101分 / 監督:エイドリアン・グランバーグ / 脚本:マット・サーアルニック、シルベスター・スタローン / 出演:シルベスター・スタローン、パス・ベガ、セルヒオ・ペリス=メンチェータ、アドリアナ・バラーサ、オスカル・ハエナダほか
全国大ヒット公開中
公式サイト


冨田翔子

エンタメWebサイト編集部勤め。好きなジャンルはホラー映画。心意気のある映画を愛する。