映画音楽急性増悪 第16回 先生

boidの新レーベルVOICE OF GHOSTリリース第1弾の自選作品集『¿Eres estúpido? mueres ¿vale? paris peking records ¿?』が好評発売中の虹釜太郎さん。今回の「映画音楽急性増悪」のテーマは先生。『エイリアン:コヴェナント』(リドリー・スコット監督)、『蛇の道』(黒沢清監督)、『告白』(中島哲也監督)、『シングルマン』(トム・フォード監督)などさまざまな先生映画が出てきます。

第16回 先生

 

文=虹釜太郎

 
  『プロメテウス』(2012年/リドリー・スコット)から『エイリアン:コヴェナント』(2017年/リドリー・スコット)のあいだ、その間の航行において、デヴィッドは考えを変えることはなかった。殺されたショウ博士はデヴィッドの先生になることはなかった。問題は『プロメテウス』における船内のデヴィッドが、人間どもが長く眠っている間に、参照する教育プログラムにあったことは間違いない。船内に搭載されたその教育プログラムにおける、音楽対話ソフト、またそれ以外のプログラムにおける絶滅論と優生論についての叡智の欠損が、その後のデヴィッドの殺戮を引き起こした大きな原因である。そのなかでとりわけ音楽対話ソフトについては、デヴィッドにおける「先生」が仮に高橋悠治であったならば殺戮は行われなかったか?
  いずれにしてもウェイランド社の無知が殺戮の遠因にある。では孫正義であれば、デヴィッドの学習ソフトに何を用意できるのか。これは笑い事や戯言ではない。
 
  先生映画は世界に無数にある。
 
  『闘魂先生Mr.ネバーギブアップ』(2012年/フランク・コラチ)や『ニヤジ先生の万能薬』(2015年/ハカン・アルグル)『ブタがいた教室』(2008年/前田哲)までとりあげていたらきりがないが、真っ先に思い浮かぶのは『蛇の道』(1998年/黒沢清)である。
 
  『蛇の道』で描かれている教室。新島(哀川翔)が講師を務める塾。しかし生徒たちが変だ。社会人から小学生までが参加できるオープンな学校。しかし彼らは、子供を誘拐された家族たちにもみえるし、この教室自体がこの世ではない感触もある。しかし宮島(香川照之)が教室を突然訪れるシーンで、この教室は現実世界だと明らかにになる。ならば教室にいる天才少女も現実に生きている存在ということになるが、ならばその少女が佇むある空間を目撃した宮島のいた時間と場所は何処なのか。空間が裏返って時間が逆に流れることになる。お前は神様じゃない。というのは教室内での新島の言葉であるが、その発言の刹那、空間を裏返せず、時間を逆に流すことはできないと、残された家族たち、または生徒たち(年齢もバラバラな)に諭している、気づかせている、自らに言い聞かせている場所としての「教室」。これとデュアリティを組み合わせてみたらどうなるか…という「授業」はいつまで続くのか。
  この教室のシーンの不気味さはまた『ファミリー・ロマンス』(2019年/ヴェルナー・ヘルツォーク)のようにも見える。生徒たちが皆、レンタル生徒に見える瞬間と、この授業が続かなくなった蓄積がファミリー・ロマンスだけでなくステート・ロマンスを招く。
  『蛇の道』は、言語空間には存在しない述語のみが並んでいき、それを元にまた空間が作られるもうひとつの映画の可能性すら感じさせる映画だったが、この映画が怖いのは、その授業自体が幽霊と感じられるからであり、その死座というより幽座の映画とも呼ぶべき映画は今後も作り手を蝕み続け、作り手が死んだ後もそれは伝播していく。
  『蛇の道』はまた、あらゆる光線を吸収して鈍く光る『真昼の不思議な物体』(2000年/アピチャッポン・ウィーラセタクン)のもうひとつの幽かな怖い複数の未来をも感じさせる。
  またもしこの映画が『10話』(2002年/アッバス・キアロスタミ)のように撮られていたとしたら。
 
  倫理をなんの躊躇もなく関係ないとして創病を続けるモンスターとしての監督についての論もまた今後それは何度も編まれなければならない。
 
  いくつもの創病について探索していくフィクションは世界にはまだまだ少ない。それはとても必要なことなのに。ジェフ・ヴァンダーミア&マーク・ロバーツ編による架空病気集『The Thackery T. Lambshead Pocket Guide to Eccentric & Discredited Diseases』の突発性自己剥皮症みたいなものは個人的に馴染みがだいぶある気もするが、ズラウスキーの『ポゼッション』(1981年/アンゼイ・ズラウスキー)もまた、今後最低でも数度はディスクレジッテッド・ディジーズ・フィルム・ヒストリーとしてまとめられるべきであり、何を死守したいのかもはや完全に不明な古典まとめルーティン反復病の映画語りたちとは全く無縁の映画史として編み直され語り直されてほしい。
 
  授業を撮ったのではないのに授業自体が白昼の幽霊だったような感覚の映画では『あの家は黒い』(1962年/フォルーグ・ファッロフザード)が、詩人である監督にしかできないだろう子ら同士の先生たちが知らない時間を紡いでいた。
 
  先生がひたすら独白していく映画『告白』(2010年/中島哲也)をどれだけの人が見ているかはわからない。あえてこの映画を支持しようとする人の努力はなぜうまく伝わらないのか。反出生主義フィクションについての本が編まれるなら、本作は確実に入るに違いない。しかし多くの人がこの映画を最後まで観ることがかなり難しく思えるのは。それは復讐相手をいかに死なせないかの映画で、小刻み過ぎるリズムがまったく噛み合わないからで、その齟齬こそが狙いだとされても観ている方が納得できないからか。この映画を開始早々に脱落した人も多いかもしれないが、『告白』は『母なる証明』(2009年/ポン・ジュノ)と二本立てで上映されるべき母映画である。しかし『母なる証明』のようなその映画固有のリズムが生まれるのをあらかじめ廃棄しているかにみえる『告白』は、生徒たちが先生の話などまったく聞かないなどとはまったく別のところで、映画自体があらかじめ先生を廃棄しているように見える。
  この廃棄の上でなお松たか子演じる先生が復讐相手の延命を図る姿は、「呪怨」史上で最高にすばらしいと思えた、昭和から平成への大文字の悪の場からもこぼれ落ちる気づかれない場所の夜でなく昼たちを描いた『呪怨:呪いの家』(2020年/三宅唱)における延命とは別の不気味な痙攣を感じる。しかし『告白』の先生にかかる負荷は、ストーリーを超えて壊滅的過ぎないか。多くの観客が、この映画の頭からのリズム、映画固有のリズムを無視した?まるでサッカーの実際の試合なのに得意のリフティングを延々披露しているような(それがかつてのひどい雨の日のリフティングのみでゴールに迫るピクシーのような豪なる奇跡を生むことにつながればよいが)。主役である先生自身がこのリズムから脱落していることを知らない。その負荷を超えて観客と生徒は延命という復讐に到達するが、その後両者はさらに考えることを強いられる。それだけの負荷を見越しての製作であれば、それは結果としてかなりの脱落者を出した果敢な試みである。
  このような「負荷」は大学教授のある一日(生徒が吸う煙草の煙がたちこめる教室での授業で扱われるのはハクスリーの『幾夏を過ぎて』)を描いた『シングルマン』(2009年/トム・フォード)にも強く感じる。説明過剰過ぎて到底耐えられない音楽と、相変わらずあらゆる着古しは許されずすべてがぴかぴかで、冒頭ではっきり「目覚めて浮かぶ言葉は"在る"と"今"」と発言させてしまう負荷たち。しかしこれら負荷たちゆえに『告白』同様この一日を生き抜く芝居じみっぷりが途轍もないことには事実上なっている。事実上?  中島もトムもあえての非常につらい選択をしているのか、それとも…
  この選択においては相当にハードに芝居じみてることを冒頭に提示しなければならない。
  『王国(あるいはその家について)』(2019年/草野なつか)と『告白』と『シングルマン』を並べて論じた文章はまだ読んだことはないが、負荷論は今後必須と思われる。わたしには到底できないが。
 
  負荷をあらかじめかかえる「少数派」。
  『シングルマン』の授業で、先生は少数派について生徒と話し合う。しかしその映像はまたしても説明過剰だ。少数派についての議論は弾まず、先生は止むを得ず恐怖について考えようと語りかける。負荷を負荷と感じられない存在にとってそれは恐怖でしかない。先生の口から唐突にプレスリーの腰つきについての恐怖が語られる。
  この映画の毎日が靄の中だが今日こそは変えてみせるの決意の背景のまたしてもぴっかぴか過ぎる車のきらきらした光の芝居じみっぷりは凄まじいものがある。その直後の落下する落ち葉さえ芝居じみ過ぎているのだから。これら人間以外の芝居じみっぷりの過剰さについてもまた別の史が記述されるべきである。
  『告白』のような廃棄とネグレクトは映画史では珍しいか。『告白』の中島監督による松たか子への態度と、『隠された記憶』(2005年/ミヒャエル・ハネケ)のハネケ監督によるジュリエット・ビノシュへの態度。中島監督作もハネケ監督作も共にこれらは映画ではないのだと唾棄する人が多いのは何によるのか。役所広司は中島哲也監督のことをこれからの日本映画を背負っていく監督だと発言している。中島は『渇き』のインタビューに「僕が映画を作ると「こんなの映画じゃない」ってよく怒られたりするんですが(笑)、誰が映画はこういうものだと決めたんだ、と(笑)。映画というものの可能性を小さくまとめる必要性はないと思うんです。僕は、そういう映画のルールみたいなものは決めないようにしています」と答えている。共感させないから評価できないというわけでなく、映画でないから評価できないというわけでなく、単純にその映画自体からのリズムではないところで無理やり駆動させられている特技への違和感が巨大なだけか。多くのシネフィルが完全に無視し続けているハネケ論とトリアー論がやはり何度もシネフィル以外に向けて必要なのか。
  ハネケ作品と中島作品と「純血の誓い」。
 
  ドグマ95には、以下の純血の誓いがある。
 
・撮影はすべてロケーション撮影によること。スタジオのセット撮影を禁じる。
・映像と関係のないところで作られた音(効果音など)をのせてはならない。
・カメラは必ず手持ちによること。
・映画はカラーであること。照明効果は禁止。
・光学合成やフィルターを禁止する。
・表面的なアクションは許されない(殺人、武器の使用などは起きてはならない)
・時間的、地理的な乖離は許されない(つまり今、ここで起こっていることしか描いてはいけない。回想シーンなどの禁止である)
・ジャンル映画を禁止する。
・最終的なフォーマットは35mmフィルムであること。
・監督の名前はスタッフロールなどにクレジットしてはいけない。
 
  中島作品に「純血の誓い」があるかわからないが、もちろん作品ごとに映画のルールを破っていこうとしているはずだ。ハネケはどうか。
 
  ヴェクサシオンというアンビエントのルーツのひとつとも言える嫌がらせの普及のプログラムがあった。いまこの瞬間もその嫌がらせのプログラムは世界のどこかで作動している。それだけ有効な嫌がらせプログラム。作曲者というかプログラマーはサティ。ヴェクサシオンは音楽にして非音楽であり、いまだに朽ちていない。
 
  ではヴェクサシオンな映画たちとは………
 
 
  『仮面学園』(2000年/小松隆志)は、『serial experiments lain』(1998年/中村隆太郎)の携帯電話初期の頃の、現在ではなかなかイメージしにくいワイヤード初期感の気持ち悪さと中途半端なデジタル臭さを実写に見事に落とし込んだとは全く言えない、別の半端なデジタル臭さとゲキメーションが雪崩を起こしたままに仮面全開の君たちも仮面をかぶればわかるさかぶれよ仮面君たちものベルイマンもびっくりの仮面映画だが、パニック芸術運動のフェルナンド・アラバール監督の影響も随所に感じられる…ということもない。ただひとこと言いたいのは仮面がこれだけ蔓延しているのに先生たちのいる職員室はなんでこんなにのんきなのかということだ。青シャツの先生は一応はキレてくれてはいるのだけど…
 
  事故としての先生。
 
  事故としての生徒。先生と生徒との強制的な出会い、しかし先生は数百歳年上という『オールド・ガード』(2020年/ジーナ・プリンス=バイスウッド)は、『ハイランダー/悪魔の戦士』(1986年/ラッセル・マルケイ)のハイランダーシリーズのアップデートともいえる超先生映画だったが、音楽の使い方があまりに『デッドプール2』(デヴィッド・リーチ/2018年)まんま過ぎて、あれはデップーだから成立したことであって、ナイルのシーンは仕方ないとしても、アンディについては超先生がただの人間になることが待っていることもあり、アンディについての音楽は抑制的でなければ、原作にもアンディを演じたセロンにも失礼では。魔女狩りを耐える二人の女のシーンでのセロンがまた素晴らしいので、アンドロマケ、スキタイ、エルサレム攻囲戦、第一回十字軍他でのアンディ(セロン)を見たかった人も多いと思う。先生は千歳年上はいい。自らの終わりの時を悟った千歳先生の表情もいいので、だからこそ音楽は新しい生徒ナイルだけに絞っていれば作品はかなり引き締まったはずで。
 
  王道であるのに王道であるがゆえに事故になってしまう例として、二人の先生と一人の映画監督/プロデューサーが事故的に邂逅した本としては『罵論THE 犯罪』(長谷川和彦・栗本慎一郎・小室直樹)がある。この本の『AA』的なドキュメントがあればどんなによかったか。そして小室直樹先生逝去された後の小室直樹シンポジウム自体が事故であった。西部邁先生の場合にはまだそのようなことは起きていない。両先生はあまりに王道であるがゆえにこの日本という場所では異端として扱われた。しかしその志を継ぐ新たな先生たちがまた日本中に数少ないながらも点在していることもまた事実である。
 
  王道であるのに王道であるがゆえに事故になってしまう先生ではなく、ストレートに事故で先生になってしまう例としての古典『スクール・オブ・ロック』(2003年/リチャード・リンクレイター)。特に生徒トミカが裏方は嫌だとボーカルを突如志望するのに、余り物であるピンク・フロイドの『狂気』を渡し、「虚空のスキャット」をしっかり聴いておけと投げやりに即興に宿題を出すところが何度観てもぐったりする。事故で先生になっているつもりの詐欺師が宿題を出す。この詐欺師による宿題というのは、映画製作のポストプロダクションそのものではないか。
  『スクール・オブ・ロック』が永遠なのはその詐欺師によるその場かぎりの解決(とりあえずの家賃伝説対策=銭稼ぎ)がそもそも映画という形そのものであることをそのままに投げているからだ。 
  しかしこういうダメ先生よりは『支離滅裂』(1994年/ポン・ジュノ)に出てくるダメ先生を映画で観たい。できるなら『High School Ⅱ』(1994年/フレデリック・ワイズマン)のようなやり方でそんなダメ先生を追いたいが、それは叶わない。
 
  ダメ先生の同僚には『ハレンチ学園』(1970年/丹野雄二監督)の先公どもや『殺人蝶を追う女』(1978年/キム・ギヨン)に出てくる首吊り自殺する青年をぬはははははと笑いながら間を狂わせながらも刺されながらくたばる先公どもがよい。『野獣教師』(1996年/ロバート・マンデル)の野獣教師はベトナム戦争の話が長過ぎて同僚からも嫌がられそうだが。『フリーダム・ライターズ』(2007年/リチャード・ラグラヴェネーズ)のようなことは決して起こらない教室。ダメ先公たちは自由なノートなど思いつきもしない。
  『殺人蝶を追う女』における学校や先生や授業ははなからなんの希望も託されてなどおらず、骸骨になっても青年につきまとう存在は先生ではないが、しかし先生たるともこれくらいの気力と霊力がないとやってはいられないというリメイクが『処刑教室』(1982年/マーク・レスター)には必要である。しかし『暴力教室』(1976年/岡本明久)では先生が強すぎ、『告白』は負荷が大き過ぎ、いずれもリメイクに向かない。
 また『殺人蝶を追う女』の映画音楽を無効化する映画内演奏のばかばかしい強度は『弓』(2005年/キム・ギドク)にかなり近い。超現実的設定を激しく強引に観客に受けとめてもらうには、映画音楽を無効化する映画内演奏のばかばかしい強さと疑問のもたせなさは、それが有効だろうと無効だろうが関係なく超現実を受けとめてもらう結果を約束する。強引なやり方だ。『スクール・オブ・ロック』と『弓』と『殺人蝶を追う女』の音楽の比較もまた映画大学の授業では必須テーマのひとつだろう。
 
  ロックの人間大前提のお決まりにいまだに違和感しかない自分がこの場所にいたら地獄でしかない『スクール・オブ・ロック』だが、現在ではS・オブ・RのそのSとRがどう入れ替われるのか。
  後に『セッション』(2014年/デイミアン・チャゼル)という教師と生徒が強引にセッティングされる映画が作られたが、『セッション』の場合は、詐欺師であることすら自覚しないままの教師が薬物中毒であることすらも自覚しないままに、こうすれば観客は興奮するだろうというあまりに杜撰な、それでいて短期間には一定の成果をあげるだろうという製作側の「無意識」がそのまま映画になっている。 
  教師と生徒が出てくる映画ならどんな映画だってそれらは強引にセッティングされてるのに決まっている?しかし自覚なき薬物中毒状態である映画には、それは中毒状態であると一部の者がはっきり指摘しなければいけない。それは無意識の統計重視判断の病理によるモチベーション賦活を含んでいるが、もちろんそれだけでない。
  キャスリン・ビグロー、ソフィア・コッポラ、デイミアン・チャゼル、トム・フォード、パーシー・アドロン、ジュゼッペ・トルナトーレ、メアリー・ハロン、スティーヴン・ダルドリー、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、キム・ギドク…彼らはいかなる中毒状態から抜け出せていないのか…いかなる中毒たちが現在映画について蔓延しているかについては『現在映画の中毒報告』または『現代映画(?)杜撰な中毒イメージ』等として最低限論じられないといけないが。
 
  圧倒的な「先生不足」のモチベーションが全編にビカビカぺらぺらと輝く映像作品としては、まだまだ学習したいさかりの異星ダイブの無鉄砲な銀河インタビュアーが主人公の銀河の永遠の中二感が毎コマ発泡しているアニメ『ミッドナイト・ゴスペル』(2020年/ペンドルトン・ウォード)がある。
  この作品では毎回の取材先惑星がどれも銀河中二の課外授業感に溢れているが、『エイリアン:コヴェナント』の旧デヴィッドが神々の星への移動中にこのシリーズを全て観ていたなら、彼はまた違う寛容さを獲得したか。
  先生(大統領)と生徒(銀河中二)は、ゾンビを屋上から退治しながら大麻かオピオイドかどちらがましかを議論しあう。
  生徒はぐちぐち考える。ベンゾと酒の組み合わせ。先生は言う。死の組み合わせは様々だと。そして先生と生徒と赤ん坊とその母親はみなゾンビになり、実際にゾンビになってみれば、やることもやられることもない。西田敏行主演の『学校』(1993年/山田洋次)の課外授業好きの先生が果たせなかった解決がここに(『学校』におけるヘリコプターはあまりにもあからさまだった)。しかし解毒剤がクロスボウで撃たれてしまえばやり直し。課外授業が終われば生徒はその内容を、宇宙に向けてアップロード。この発想がなかったアンドロイドのデヴィッドは、新型よりも自律思考の可能性のあった存在だったはずだが、やはり視野狭窄だった。
  『ミッドナイト・ゴスペル』のエンドクレジットが持ち運び可能な架空のアナログパッチドシンセ兼ミキサーの画であるのは、ポータブルにゼロから常にやり直す、というデヴィッドにはない軽さを現している。
 
  『エイリアン:コヴェナント』の旧デヴィッドが人類と人類の祖先を滅ぼさないためには、宇宙船にはどんな音楽プログラムが、どんな音楽の先生が必要だったのか。
 
  それを考える前にいくつかのトンデモのデブリを振り返っておきたい。
 授業映画であるルカ版『サスペリア』(以下、LGS/2018年/ルカ・グァダニーノ)ではあまりに露骨なニューボーンとネオモーフで、それがノイズになってしまったが、新生マザーサスピリオルムの名のもとにエイリアンのように『ポゼッション』『ジェイコブス・ラダー』(1990年/エイドリアン・ライン)『エイリアン:コヴェナント』『エイリアン4』(1997年/ジャン=ピエール・ジュネ)を食い散らかすのにはドン引きしたけれど、LGSは第三帝国の秩序よりも宗教の秩序よりも何より適応性こそがすべてというリメイク、ユングまみれのLGSで、LGSについてはいまだ解釈が溢れている。LGSはシャムダサーニとヒルマンによる「死者の嘆きを聴く」という対話が脚本の重要な参考図書になっているようにも感じてしまう。映画関係者のインタビューを律儀に受け取ってはならない。LGSではマルゴシア・ベラにエイリアン性が一身に背負わされていたかのようだった。最後の「死神」もマルゴシアが演じている。こんなに露骨でいいんだろうか。エイリアンのプリクエルたち(以下APQ)と、『エイリアン:コヴェナント』の続編である現在製作中のエイリアンプリクエルの最終章になるはずの(現時点でそれがプリクエルのラストになるかは不明)の作品(以下、AP3)、リドリースコットの寿命にもよるところが大きいながらも、エイリアンの新章(『プロメテウス』や『コヴェナント』や現在製作中のプリクエルの三つめではなく、『エイリアン4』後の世界の新章、以下ANG)について。それらAP3とANGは『プロメテウス』にあきらかなようにまたしてもいくつかの神話のごった煮になりそうだが、そのごった煮の素材になるXたちについてはまだまだ話されなさすぎである。
 9枚組『エイリアンクアドリロジー』のコメンタリー群ではもちろん論じられなかったが、アンドロイドにおける先生の貧しさが世界を滅ぼす事態については今後。
 
  「China’s CRISPR babies could face earlier death」というニュースがだいぶ昔に話題になってはいたが、既に多くの人がそのニュースを忘れていく一方でCRISPR babiesだった彼らが子供を持つ20数年後(もっと早いかもだが)までに、次のAPQとANGが、CRISPRが抱えるだろういくつもの問題に衝撃を与えるフィクションを作れるかも気になる。リドリーのかなりの高齢もあり、無謀過ぎる神話のごった煮は、他の監督たちでは力技で無理なこともあきらかなので、CRISPR babiesらの更にその子供たちについてのあれこれがはっきりする前に、リドリーが廻している二つのシリーズ(エイリアンとブレードランナー)がどう時間差で孵化するごった煮を錬成するかは時間との戦いである。そして映画についての商業著述家でもそうでない者もそれについて急いで叩き台を出さないままであるなら、それはとても残念なことだ。CRISPR babiesにふさわしい先生とは。急いで考えないと時間がないぞ。
 
  デヴィッドに足りなかったのは何か。
 
  デヴィッドに足りなかったのはネオモーフの更なる観察をする忍耐強さと高橋悠治がかつて諦めたかもしれない音楽プログラムとArgeïphontes Lyreのようなプログラムとの反駁しあいにより生まれたプログラムではなかったか。正確にはそれらと対話する時間の長さやそこで新たに生まれる疑問をデヴィッドが長く考えるに値すると考えられれば神々の惑星の虐殺はなく、またデヴィッドは先生たちをアップデートする、または塵をかぶったままの先生と対話する、その双方を同時にできる時間を持つことができたかもしれない。デヴィッドとDr.マンハッタンはあまりに比較されないが、両者の寛容さの違いについてもっと話されなければ。Dr.マンハッタンは自ら望まずとも先生の立場を強要された。しかしリーダーにも先生にも向かない彼の一番よりよき生徒になったのはデヴィッドか。デヴィッドに結果的に生じなかった寛容さと先生の不在。
 
  Argeïphontes Lyreのプログラムを組んだものは、牧場での音を声帯模写し、鳥やコヨーと歌った。また彼の最初の楽器は有刺鉄線を射撃用の鉄の板に打ち即興的に作り出したものだというのだから洗練された音の表面の肌にはショットガンペインティングのような乱暴さが潜んでいるだろうが、デヴィッドはおそらくそのような音楽たちに一切魅力を感じないはずだ。その魅力の感じなさについても先生と議論できたはずだ。
 
  先生の臨界とは…
 
  前半が地球に別れを告げる感が濃厚なサーキッツベンディング映画?『Journey through a body』(2019年/Camille Degeye)はデヴィッドが観たらどう感じるだろう。デヴィッドからしたら、サーキッツベンディングしたり、ヒューマンのノスタルジーたれ流しの音楽をやったりのその往復や挫折自体に共感する動機はまったくないだろうが、しかし自らがクサっていく生徒たち(人間)の先生になるかもしれないきっかけに、『Journey through a body』や『田舎司祭』はなるかもしれない。
  でもそういう変則ではなく、ストレートにデヴィッドが、神々の星を滅ぼすまでの移動中の宇宙船で観るべきだった映画はなんだったのか。『悪霊』(1987年/アンジェイ・ワイダ)をなんとも思わないはずのデヴィッドにそれは『ストロンボリ/神の土地』(1949年/ロベルト・ロッセリーニ)だったのか『トイストーリー4』(2019年/ジョシュ・クーリー)だったのか。それとも…
 
  音楽の不思議と人類の起源を探ることは両立できるはずである。そんなことの場に遭遇できる人間以外の存在でありたかったと我が身を呪うしかない。
 
  デヴィッドにおける先生の不在たちについて考える時、デヴィッドのような生徒がいなかったからこそ先生たちはモノでしかなかったとはならないのが毎回残念で仕方がない。
 
  また先生映画においては、韓国/北朝鮮、パキスタン/イスラエル…といった場でのありえない何重もの先生たちが反転しあう作品たちの登場を強く願っている。