映画音楽急性増悪 第15回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」第15回目の「運輸」では、『コンテイジョン』(スティーヴン・ソダーバーグ監督)、『ブレードランナー 2049』『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)、『めまい』(アルフレッド・ヒッチコック監督)、『ゴーン・ガール』(デヴィッド・フィンチャー監督)などを取り上げています。

第十五回 運輸

 


文=虹釜太郎


 アンビエントの可能性は人間破壊と無名性にしかない。などと言えば音楽について真剣なのかとかふざけてんのかとかまじめに取り組んでいる音楽家をバカにしてんのかとか問題外の外の論外ということになるだろうけれど、アンビエントミュージックが音楽だとも思っていないし、そもそも音楽の定義自体に納得もいっていないし、イージーリスニングに関するあらゆる小理屈や聴かないままの壊滅的なまでの聴くことについてのお勉強の悪影響は別として、アンビエントの可能性に向き合うには(以下略)。アンビエントミュージックはまず人間破壊が前提とした方が、あらゆる人間ありきを大前提とした無数の論とのこじつけが露わになり、その寄生のおかしさやいまさらながらそこに巣食うものたちの滑稽さもよりはっきりし、またイージーリスニング以外のアンビエントの破壊性と人間への不信と親しい他の音楽との違いも身も蓋もなくあきらかになる。
 あらゆるアンビエント論は、人間以外の存在がそれを聴く事態を想定しない限りは、なんの可能性もぴくりとも開かないと思う。その前提のうえで、アンビエントが仮に生まれたとして、その生まれて以降に、音楽の帰還不可能地点を論じることも有効になるかもしれないが前提は変わらない。もちろんイージーリスニング論はいつの時代でも無限に無数が開陳するだろうし、それに激しく共感するものも常に多数いるだろうけれど。パンスペクトロニック・アルツハイマー・アンビエントみたいな新常態音楽とともに脳死していく世界ならばそれは仕方ないかもしれない。パンスペクトロニック・アルツハイマー・アンビエントな映画としては『アナイアレイション -全滅領域-』(2018年/アレックス・ガーランド)などが挙げられるが、この映画は実在するが、パンスペクトロニック・アルツハイマー・アンビエントという用語など存在しない。『アナイアレイション-全滅領域-』についてはパンデミック映画における非製薬的介入についてどれを重点的に描くかも議論された形跡もないため、いくら美術班がベストを尽くそうともその世界は限りなくぼんやりしてしまう。観る者たちがほとんどのディストピアフィクションに集団免疫を獲得してしまっている以上、音の方も逆回転やグリッチ亜種らの方法を当たり前にごく自然に速やかに放棄する必要がある。
 アンビエントの可能性は人間破壊と無名性にしかない。その破壊の仕方の一見というか一聴の穏やかさと、その破壊の過程で人間が常時?の余裕を失った時の聴き方の変化の観察はしかしアンビエント論の範疇には今後も入りそうもない。重要なのは、その破壊の穏やかさ、そしてそのさまざまな言い換えであり、かつて自然(X)にしたことをいままさに自然(Y)にされているというのが現在とするならば、Xを無意識であれ意識的であれ指向したり(X1)、その場を実験場とした場合の音楽(X2)とYである事態をショック状態として無意識であれ意識的であれ指向した音楽(Y1)、Yの場を実験場とした、とりあえずは不定形でしかない音楽(Y2)について、職業音楽執筆者は無理でも、アンビエントについて考えざるを得ないと切迫したものは論じる必要がある。そしてもちろん切迫していないものもそれを論じてほしい。しかしこれまた以前から繰り返し繰り返し言っていることだが、それを論じる主体は、わたしはそれは人間でなくて一向に構わないのであって(以下略)。
 そしてもちろん上記X1やX2、Y1やY2について素人騙しにあれこれしたり、聴取の実践の名のもとに超訳し解題し啓蒙(まさか?)し人間たちの憩いの場に変容させるくだらない者は今後も常に現れるかもしれないが、そこで生まれる無数のミミックたち、X1M、X2M、Y1M、Y2Mをこれまた生真面目に論じて、人間破壊は決してされまいとする人間たちの演技をそのまま全力で維持し、その「現状」を真摯に論じるおぼこたちや新常態体現からくり見積り人、似非聴取教育者、人々の愚かな反復の全行程から搾り取ろうとする商売人もまた次々に現れてくる。ポストアンビエントカンタベリー物語なのかっていう悲惨さがまたしても人間の無意味さを隠蔽しにかかる。
 そこでやはり映画がすばらしいのは、そのいかがわしさと空虚過ぎる予言のただなかに、無数のひっかかりとつっこみどころの跡を残してくれるからで、それが否定したくとも必ずそうなるのは、それはあらゆる映画の総数があらゆる音楽の総数より少ないからである。
 
 『コンテイジョン』(2011年/スティーヴン・ソダーバーグ)についていま何か言うことほどあほまるだしなことはないが(ソダーバーグ作品に常に強く感じる違和感については後述する)、その設定でなく音作りの細部には、これがもし現在以降作られるなら、さまざな話し合いが製作過程でなされるはずである。
 モニター越しの音の扱い。
 また電話での会話音であるからこそはっきりとわかる院内の音。
  『コンテイジョン』では院内の音のデザインははっきりしているが、モニター越しの音の扱いについては課題が残る。まず繰り返しの会話が面倒になるというラグが編集により消去されてしまっている。あらゆるラグの無さ。しかし一対一でない遠隔での会話においては、その発話の瞬間の音の大きさの調節はとても丁寧である(「細胞を殺してしまうからです、豚鶏すべて」他)。
 飲むグラスも含めた複層のガラス越しはあまりに反復され、水を飲む時の容器の選択において使い捨てを使わないことによる、感染への鈍感はダサ過ぎる音楽の長過ぎるミュートと並行し効果をあげるが、感染進行に雁首そろえて一律うすらバカ描写については、あらゆるパンデミック映画と比べても本作は見事である。それはあまりにも音楽が陳腐過ぎるからで、それは「ブロガー」が世界を救うかもしれないひどさとあわせて、ガベッジの組み合わせがあらゆるヒーロー像を嘲笑すらすることなく超越するということを可能にする。この点においてソダーバーグは不屈の退屈者の選択で生き延びる稀有な監督と言える。薬局での暴動シーンの音楽の陳腐さは度を越してるかもしれないが、しかしここを『ボーダーライン』(2015年/ドゥニ・ヴィルヌーヴ)のような重音処理をしてしまえばソダーバーグの数少ない魅力は半減する。そして『コンテイジョン』における音楽のつまらなさこそがアンビエントミュージック論の限界をあっさり露呈している。アンビエントミュージック論のほとんどすべては言い訳はどうあれ、人間であることがあまりに不動な人間のための洗練された音楽が前提となっている。しかしその洗練の基準こそがそもそもアンビエントミュージックが何かから遠く離れている。都市趣味や昆虫趣味の開陳や嘘幸せなパターンのクソ応援文とアンビエントミュージック論はなんの関係もない。映画音楽をやりたいんですという人間にいまだにぞっとするのも同じ理由である。映画音楽論が退屈なのもいい音楽を(以下略)。
 
 脚本にはいろんな疑問がある。まずどの患者の治療を優先すべきかの葛藤自体がない。そんなことよりもメディア対策ばかりが描かれる(非常時メディア対策映画史的に『メッセージ』(2016年/ドゥニ・ヴィルヌーヴ)と並んで重要かもしれない)。「賢者」間の争いも描かれる前に回避されてしまう。花束を届けにきたアンドリューとは窓越しでいくらでも楽しく話せたはずだ。すぐ帰ってくれ、窓越し、電話越しでは楽しくないと決めつけているのは意味不明であるし、ウィルスは小さ過ぎてビデオにはうつらないというセリフには相当脱力する。しかしこの映画があまりにもディープフォーカスを拒否していること、あまりに背景がボケ過ぎた映像を極端に多く採用しているのはウィルスが見えないことの改めてのつまらない強調でしかない。
 多くのゾンビ映画が、そもそもの人々の住居自体の偶有性や家賃の無効を含む居住の自由と不安やそれに伴う着古しの疲労を突発的なギフトとして扱ってきた一方で、『コンテイジョン』にその側面があまりに皆無なのもソダーバーグの弱点だろう。ソダーバーグ版ソラリスに対する不満も、そこにある。つまりソダーバーグ作品には着古しというものがない。存在しないはずの子供と暮らしている人間の着古しの疲労もない。ひどい着古しも描かれず、パンデミック疲れも描かれない。俳優のシャツは俳優の顔と同じ素材でできていなければならないという考え自体ない。その着古しの感覚の皆無は照明や音楽にも及…以下略。
 リーとベスの接点、他感染経路のあらゆる点での一時停止をもとに議論していくという構造は、映画においては耐用期限は来ていない。しかし本作においてはの一時停止はかなりご都合主義だ。
 完全な一時停止か一時停止を描いているが、そこからの迂回をしているかによる違いは、監督によってどれだけ違うか。
 『コンテイジョン』は一時停止をもとに議論していくという構造のようでいて、実際には画は一時停止しない。
 画の一時停止というよりも、一時停止の動作がかつて魅力的だった映画としてのオリジナル『ブレードランナー』(1982年/リドリー・スコット)に対し、ヴィルヌーヴ版ブレランはあきらかに一時停止を回避した。一時停止を堂々と描かない、描けないのはなぜか。一時停止をあからさまに描く映画監督は世界をなめきっているか、一時停止を描く監督とそうでない監督の違いについては専門家にもっと議論してもらいたいが、一時停止の境界領域についてはどうか。カメラのズームが一時停止しているのがそのままに出された映画について…
 一時停止の映画の境界領域についてや状況説明の音楽をなどという永遠に続く慣習の煉獄のなか、それら要請と訣別している未規定の映画音楽とかについては、本当は新たな本にならない教科書が必要だ。
 
   
 ティッピ・ヘドレンの告発により、準備されていたヒッチコック論がもし中座されたり、封印されるのなら、それは残念なことだが、制御不能なまでの一時停止に登場人物も観客も苛まれるかのような『めまい』(1958年/アルフレッド・ヒッチコック)が、ヒッチコック・ブロンドへの異常な執着で、さらに考察されるのが少なくなる事態をどうとらえたらよいか。
 恐怖の対象と執着の対象の凝視とその激しい運動に巻き込まれた者は死へと無理やり向かわされ、一時停止自体が執着の感染の源とされるように擬装され、本来見えていたはずなのが見えなくなり、また凝視するというループ。『めまい』も『ゴーン・ガール』(2014年/デヴィッド・フィンチャー)も既にあらゆる角度から観尽くされているはずだ。では『めまい』におけるミッジと『ゴーン・ガール』におけるマーゴがあまりに似ていることについては。彼女たちは二人とも一人遊びが得意だ… 
 『めまい』におけるブラジャーと『ゴーン・ガール』における人生ゲーム。『めまい』では、金髪の渦と絵の中の金髪の渦が映された直後にもうひとつの渦が映るが、それは単に耳だ。『めまい』を観直す度にわたしには書店の中のミッジの視線の先が気になって仕方がない。『ラルジャン』(1983年/ロベール・ブレッソン)のラストの視線の先よりも気になる。ミッジとマーゴの存在を真に知ろうとすることの代償は何だろう。
 この二つの映画の存在をすっかり忘れて別の映画を観ている時、たまにミッジとマーゴがわたしと別の映画にささやく。あなたたちほんとうにお疲れだわ、と。どうしたらいいだろう。そんな日はもう映画を観るのをやめるべきか。わたしがおかしいのだと思う。しかしミッジとマーゴは日々成長する。遺棄された視線が気になったもののなかで。そしてミッジは言う。いまのは幽霊? 
 
 『コンテイジョン』と『めまい』が比較される機会はあまりないだろうが、この二作品の最後だけを比較すると、後者において危険を自覚している彼女、前者においては危険を世界でいちばん自覚できなかった彼女、の違いがある。前者の彼女をのぞき見る視点は権力か? 
 それはやはりはっきり権力だろう。安全の名のもとに行使される… そして権力の行使をしない刑事が主人公のヴィルヌーヴ版ブレランは権力を行使したがらないがゆえに、写真を一時停止したり解剖したりしない。しかしそのヴィルヌーヴの権力批判回避?は有効だったのか。ジョイとミッジとマーゴ。
 権力の行使は死者に対してはいくらでも行使していいのかもまた『コンテイジョン』の出した問題だった。生きている者への監視批判は不気味なほどこの映画には出てこない。
 生きているものを監視しなくてどうするのかの絶望的な監視の視線に救済があるかもしれない『狩人の夜』(1955年/チャールズ・ロートン)は実に困難なことに挑んでいた。この映画におけるミッジとマーゴは動物たちである。
 『狩人の夜』を参照している『ゴーン・ガール』は、時系列特別編にもなにも驚かされないが、妻のドジっ子ぶりは繰り返し観るほどに神経にくる。奥様はコメディエンヌとつぶやけば、エクソシストの真似をして走る彼女が奥様ってテメェ死にてえのかとぶっ殺しにくる。コメディエンヌをこじらせた『ゴーン・ガール』の音楽、特にラスト三秒の「僕たちはどうしたんだ?これからどうなる」の未既定の音楽は、たった数秒とはいえ、けしかけられた夫とけしかけ走り猛って圧縮した妻のかたちをした怪物がふわりと浮いた貴重な未既定の限りなく一時停止に近い時間だったが、『ゴーン・ガール』でもっともすばらしいシーンのひとつはたとえばニックがメアリーベスと川辺で話すシーンで、弁明に終始するニックと毒づくメアリーベスの背後の無音のボートと有音のヘリコプターのしらじらしい音だ。『コンテイジョン』に足りないのは、人間たちのパニックや安心をまったくよそにしらじらしく存在するものたちの細部である。映画である以上、画面に映らないものたちの経過たちやとうに映っている着古しの細部を作れないソダーバーグにはあまりにもしらじらしくなる存在の偏在への注意が足りない。ソダーバーグ批判に仮にごたつくなら、映画をストーリーと俳優とフレーム内だけでごたつき続けている者に責任がある。
 『コンテイジョン』のような世界でも『ワールド・ウォーZ』(2013年/マーク・フォスター)のような世界でも、『ゴーン・ガール』の「今日からわたしはミズーリ人」みたいな存在がいないのは実につらい。現実世界にはうようよいるのに。その点においては『コンテイジョン』を観るより『Zネーション』のクズ回を観る方がはるかにマシだという者がいてもおかしくはない。
 『ゴーン・ガール』で「わたしは間違って運ばれた荷物」とはっきり独白している存在が、他のパンデミック映画にいないのは残念極まりない。
 
人間であるか否かを問わず、器でしかない存在の限界をヴィルヌーヴ版ブレランは描いていたとしたなら、新たに作られるコンテイジョンはいかなるものになり、いまのところ想定できないブレラン3はどのように抵抗運動を描くのか。そもそも生身の身体がほしいというためにする運動のような彼らの生身への飢餓の切迫感はブレラン2本体からはまったく感じられなかった。その衝動に対する疑いがアンタッチャブルなのは当のレプリに対してもたいへん失礼だろう。ウィルスに対抗するすべはないから早めにデータ移行をすませて生身への執着を早々と終わらせ、監視自体を無効化する反出生主義者の戦いが、ブレラン3やコンテイジョン2で描かれるとはいまのところ思えない。しかし時空を超えて疫病を殲滅させる時空疫病医の存在は人口爆発を今度は解決しない。
 とりあえずはフィクションにおいて監視自体を無効化させるには、監視されている存在が器でしかないとする、監視先を膨大に増殖させて監視をほぼ不可能にする、監視先との不可能なはずの複数の困難な対話に挑む、らがある。
 映像における一時停止がそれらにおいてどう選択され、また巧妙に回避されるかは、近い未来においてもまだ人間の役割だ。そしてX2やY2の自然をどう回復?したり実現するかは人間以外の存在が果たすだろうが、またそこにおいては現在からすると奇妙かもしれないネガティブな功利主義者の亜種の音楽嗜好が複数提出されるかもしれないが、その事態を扱う映画はいまのところはまだ実在している人間が観れるはずだ。またそこでは人間の苦しみなど一顧だにされない事態も当然含まれるが、寛容さというものを人間以外の存在がどうとらえているかの解釈のさまざな違いもあきらかになるはずだ。
 遅速化した広義のゾンビ映画やパンデミック映画や難病を扱う映画は、一般的に不治の病いに接した時の人間の態度、すなわち否認→怒り→取引→抑鬱→受容とは異なる態度が既に勃興していることを直視すべきである。それは否認→怒り→取引→抑鬱→受容でなく、歓喜→脱力→静謐→手続き→説得であったりする。ここでの説得は、不治の当人へのそれではもちろんなく、当たり前だが当人から周囲へのそれである。パンデミック映画ではないが、既にそのパターンを達成している映画は既にあるが、それについてはまた回を改めたい。
 寛容さは自らの怒りに対しての場合や、柔軟に対応しない他者への場合もあるが、人間以外の存在が、人間にどう寛容でありうるかについて世界はいまだあまりに考えなさ過ぎである。
 潜在的患者ではなく潜在的ゾンビの与える静かな変化を風の一時停止とともに観る者に植え付けた『ハプニング』(2008年/M・ナイト・シャマラン)という傑作は、世界にいまだ足りな過ぎる自殺映画の先駆であり、それと同時に自殺以外での、広義の退化、それも急激な退化も含む、人間が非人間にずれていくことを可能にする創作される病いたち(音楽を含む)の無明の開かれも含めて貴重な作品であったが、自殺に寛容な世界のさまざまなバリエーションがいまだ多数提示されないままに、人が人ならざるものに運ばれていく風の一時停止が世界にただ死ぬことよりもきつい脆弱さと消えることのない不安を巻き散らす映画論もまたいまだ現れない。